百パーセントの正直者はいない。これは私の唯一の持論である。
少し気取った言い方をしちゃったから、語弊が生まれちゃったかもしれない。正直に生きようをしている人はいると思う。嘘をつかないように生きようとしている人もきっと沢山いると思う。だけど自分のことを完全に理解できている人は、きっと一人もいないと思っている。
なんでそんな行動を取ったのか、なんであの人のことを好きになったのか、それはきっと誰も説明できないことだと思う。説明できたとしてもそれが本当に真実か、本当にそれが自分の正直な答えなのか、は誰にも分からないと思っている。だから正直者はいない。そう思っている。これが私の唯一の持論だ。
七月二日 (火)
瞼を閉じてそんなことを考えていると、先ほど一度頭を押してあげた目覚まし時計がまた朝だ、朝だと騒ぎ始めた。
一昔前のテレビと違って叩いて直るというシステムを目覚まし時計は搭載していないらしい。
私は再び片目を薄く開けて、今もなお叫び続けている目覚まし時計の電源を落とした。時刻は六時三十二分を指している。
朝からよくもまーそんな声がでるもんだと思いながら腑抜けたあくびを一つする。
私は朝はこんな声しか出ませんよ。
洗面台で顔を洗ってもまぶたはまだ重いままだった。歯磨きを終えた後、自室へ戻り机の前に座った。いわゆる学習机で、小学校の時から変わっていない。使っていないわけではないものの綺麗な状態が保たれている。綺麗好きな私を象徴するかのような佇まいである。
その上で好きなバトル漫画は三巻だけが抜けているし、ペン入れの中には何故かドライバーが紛れ込んでいた。なんで座ったのかは分からない。無意識ってやつだ。
さっきの話にも繋がるものだと思う。人には無意識があるから、心の赴くままっていうのが、完全にはできないのだ。勝手に体が動くんだもの、何か理由があったとしても私にはそれが分からない。
例えば今赤ペンを持っているけれど、いつ持ったかなんて分からないし、これが小説であればきっと持った瞬間は描写されていないと思う。っていうかいつ買ったのかも覚えていない。
「何してるのー? 早くしないと遅れるよ」
お母さんの声に返事をして、私はリビングへと向かった。
なんで今日はこんなことを考えるのだろう? 私はスマホで好きな音楽をかけながら身支度をしていく。見もしないテレビのニュースをつけ、制服に腕を通し、もう一度洗面台の前で前髪を整える。
前髪は思った方向に向いてくれない。美容師さんに整えてもらった時はあれほど、素直だったというのに今は見る影もない反抗期だ。
『先日亡くなった大島美咲さんの事件について警察側は他殺による事件性はないと発表しました。その上で、なぜ死に至ったのか、引き続き調査が行われるということです』
お母さんはコーヒーを淹れていた。前髪がいい感じに整ったところで、私も朝食の前に座った。
「あの子やっぱり自殺だって。サヤカと同い年ぐらいなのにね」
「うーん」
私はもっぱら牛乳派だ。食パンと牛乳のマリアージュは至高と言っていいだろう。そんなことを考えながら私はほかほかの白ご飯を口の中へと運んだ。
なんでうちは食パンじゃないんだろう。不満とご飯を牛乳で流し込み、私は玄関の扉を開けるのだった。
暑い。最近は本当に暑い。日焼け止めのスプレーを無効にするんじゃないかと思えるほどの暑さだ。サッと吹きかけただけに何だか心もとなくなってくる。学校で止められているとはいえ、もっとべた塗りの分厚い装備をしたいものである。
自転車通学であればもっと涼しかったりするのだろうか。ただただ足取りが重い。瞼に乗っかっていた錘が足に移動したようだった。
踏切の遮断機が下りてくる。ほらね、ここに来るまで私は色んな人を見たはずだし、色んな音を聞いたはずだけど、全く意識していないから何一つ頭に入っていない。
テレビだって色んな報道がされていたけれど、全てが私を通り抜けている。日経平均株価が暴落したかもしれないし、最高気温が更新されたかもしれない。今日も誰かが亡くなったのだろうし、誰かが快挙を成し遂げたのだろうけれど、私の耳には新曲のメロディーしか残っていなかった。
知らない誰かの功績に傾けられるほど、耳は残ってないんだから。
電車が通り、遮断機が上がると奥の駅前にダイチの姿が見えた。向こうもこちらに気づいたようで、私は毎日の待ち合わせ場所である時計台の下へ向かった。
「お待たせー」
「お待たされー」
ダイチは目を細めながら伸びをしたあと、私の方を見た。彼は黒髪で黒目で、日本人なら当たり前の特徴なんだけど、それをアイデンティティーだと思わせるような顔だちをしていた。黒じゃない漆黒と呼ぶに相応しい瞳はダイチの唯一の美点だと思う。
よし、じゃあ行くかとダイチは両手を上に伸ばし、また伸びの姿勢を取った。まあこれはポーズの伸びだと思うけれど。
「あれ? 行かねえの?」
後ろからダイチの声が聞こえた。
「え?」
あれ、いつの間にか私は先ほどの踏切の方に顔を向けていた。ダイチの方に振り返ると、彼はもう既に足を踏み出していて、向こうも同じようにこちらを振り返っていた。
「いや、行く。何でもない」
私はダイチに笑顔を向けて、でも学校だるいよねえと声をかけながら足を前に出した。
ほんとだよなと横を歩くダイチの明るい声を聴きながら、私はもう一度踏切の方を振り返った。いつも通りの街並みに私の疑問は解決されなかった。やっぱり無意識って分かんないや。
私とダイチは同じクラスであり、休み時間とかはよくダイチが私の席まで来てくれてその場で思いついた話を矢継ぎ早に話している。
「ダイチ! どうする?」
「な、なにが?」
「進路。前に先生が言ってたじゃん」
「まじ? いつ? というか気にしてんの? まだ早いって」
「ぶっちゃけ、あんた将来どこまで考えてんの?」
エアコンが効いているのかいないのか微妙な温度感の中で、話を紡ぐ。ダイチとの会話は心地がいい。二人なのによく途切れないなと思う。
「え、俺ホント何も考えてないよ」
「それやばいよ、多分。私と同じなんて(笑)」
お前もかよという小気味いいツッコミを聞きながら、少し自分のことを考える。将来……。大学とかに行くのかな、仕事とかするんだよなあ、この町も出るのかなあ。ダイチとかとも……。
「結婚とか?」
不意に声が飛んできた。
「は? 結婚!? 何言ってんの?」
急に何を言い出すんだと聞こえてきた声に顔を上げると、向こうもひどく驚いた顔をしていた。
「俺、何も言ってねえよ?」
ダイチはきょとんとしている。え? 言ってない?
「え、えーっと、何でもない」
段々と顔が赤く染まっていってるような気がする。
「びっくりしたあ。お前の大声ホント大声だからなあ」
熱が出てきている頭をクルクルと回す。普通に私の聞き間違いか? あんな大きな声で恥ずかしい。確かにダイチの声じゃなかった気がするし。聞き間違いというか幻聴とか、空耳か。
とにかく落ち着こうと顎首のあたりに左手を当てた。熱い、最近はとにかく熱い。
「結婚か、何歳がいいのかな」
ダイチは、普通だった。というか私が慌てすぎなのだ。
「いや、誰とも付き合ってすらないやつが結婚って、それこそまだ早いって」
ダイチのノリに合わせ、言葉を繋げた。
「じゃあ付き合おうか」
「まだ早いって。まずは友達から」
「友達ですらなかったのかよ」
やはりダイチとの会話はテンポがよく、心地いい。まあそんな感じで広がっていった。
夜といってもこの時期になるとしばらくは扇風機とにらめっこをする必要があると思う。私が気持ちよく笑顔になるまでその対決は続くのだ。
お風呂から上がった私は扇風機との数分にも及ぶ格闘を繰り広げ、そのまま流れるようにスマホへ手を伸ばした。
画面にはグループラインにて、ダイチから連絡が来ていると報告されていた。
自室に足を運びながら二人のグループラインをタップした。
『今週の日曜、空いてる?』
部屋のエアコンをピッと起動し、薄緑色のベッドにダイブする。
「空いてる~」「どした?」
ドライヤーで乾かしたものの髪はまだ少し湿っている。
すぐに既読が1とつき、返信が送られた。
『いや、暇なら遊園地とかどう?』『やっぱだめ?』
それは何でもない遊びの誘いだった。
「いいよ」「誰か他に誘ってる?」
『いや、今のところ二人だけど』
「了かーい」
今週の日曜、遊園地……。ラインはスムーズに進んで行ったけれど、私は彼の提案で一つ気になることがあった。それは確かダイチは高所恐怖症なところがあったはずだったということだった。
私はむしろ好きで当然ダイチとも行ってみたかったのだけれど、彼のそういう所も知っていたため、これまであえて口に出すことはなかったのだ。一体どういう風の吹き回しだろう。
「ちょっと、扇風機ー」
リビングからお母さんの声が聞こえた。なんだと思い、私は頭脳をフル回転させた。過去を辿り、情報をまとめそして一筋の真実が私の脳を駆け巡った。母の言いたいことはきっとこうであろう。私が先ほど消し忘れた扇風機の電源を消せ。彼女はそう怒っているのだ。
導き出された答えに私は浅いため息を吐いた。
なんで私は、私の体は無意識に消すように動かないんだろう。お母さんの怒りを鎮めるために私はコロコロと横向きに転がり、ベッド領域から抜け出した。関係ないけれど「いかりをしずめる」って面白い表現だと思う。
ラインはまだ続いていた。
「お母さんに呼ばれた」「ちょっと待ってね」
ダイチのメッセージにそんな一応の状況報告を送ると、向こうからはもう遅いし、また今度でいいという旨が返信された。
確かにやりとりも佳境に入ってきたので切り上げるなら頃合いかと思い、私も「ごめんね」とだけ送りラインを閉じた。いや閉じようとした。
しかしごめんねと打った後の予測変換から私は目が離せなくなった。夏だというのに冷や汗が頬をつたった。なんで?
背筋に寒気を感じ、私は静かにエアコンの電源を切った。
七月七日 (日)
ダイチとの遊び計画は順調に進み、日常もホント順調に進んでいった。無意識を何故か意識するようになってから、普段の生活でも無駄というか意味のない、若しくは意味不明な行動を、人はよく取っているんだなあと気づくようになった。
時計の短針は十と十一の間を指していた。ダイチとの約束までまだ一時間ほどが残されている。
今は服選びの真っ最中、だけれど別段ダイチに会うから迷っているわけではない。今日の目的が遊園地で遊ぶことだから迷っているのだ。やはり動きやすい服装がベストなのだけれど、見た目を捨てるわけにもいかない。日差しのことも考えてハット帽を被るという選択肢もあるのだけれど、乗り物に乗るときにいちいち外すのは面倒だ。
と様々な案を出し、色々なところを巡ったところで、結局は一番最初に選択したコーデに落ち着いた。
黒をベースとした半袖で境目が白くあしらわれている。左胸のところにはLから始まる恐らく英単語のものが筆記体でプリントされていた。パンツは丈の先が開いた通気性のいいもので、黄色を基調とした目を見張るカラーリングのものを選んだ。
前にクラスの子と行ったときはもう少し気合いの入った服を前日のうちから準備していた気がするけれど、まあダイチだし。これは機能性と睡眠の質を主に重視した結果だと思った。
といってもダサいということではないと個人的に、主観的には思っている。やはり一番最初に選んだということもあって、これは着慣れていて、気に入っている上下であった。
原点にして、K点のような服装だと思っている。
他の服を軽くたたみ、タンスにしまっていく。畳む際、対角線に服を持つと、自然と服が真っすぐに折れ、素早いながらそこはかとない見栄えに畳むことができる。
時間のない方、綺麗なのは好きだけど面倒なのは嫌いという方にオススメである。
あらかたをしまい、今回は使わなかった帽子をフックにかけ、私は再度洗面台の前に立った。今日三度目ぐらいの直前前髪チェックである。今日は遊園地に行く。夏目前ということもあって先日、髪を思い切ってショートにしたのが功を奏したようだ。
玄関へ向かいながらリビングにいるお母さんに声をかけ、日焼け止めクリームをスーッと伸ばした。
香水がいらないほど、甘く爽やかな香りが私の体を包み込む。
スマホで時計を確認して、グループラインに「今から出るね」と打ち込んだ。
さあ、今日は雲一つない快晴、遊びよりである。私は軽い足取りを身にまとい、玄関の扉を開けた。
今日もちゃんと暑い。太陽は仕事熱心である。しかし遊びに行くという楽しいイベントを前にしているからか、普段の何倍も気が楽だった。
歩道に面している薬局の前を、コトコトと歩いていく。そのお店には竹の木が旗看板のように飾られて、今日が七夕であることをお知らせしてくれている。
吊るされた色彩豊かな短冊には、思い思いの願い事が様々な字体で込められていた。これだけ多種多様な文が並んであるにも関わらず、文末は皆一様に「ように」という言葉で締められているところに「七夕み」を感じた。
書くだけの時間はなかったけれど、せっかくなので天にいる二人のことも想って、私は心の短冊に自分勝手な願い事を綴ることにした。
「今日という日が楽しい一日で終わりますように」
待ち合わせ場所に行くまで好きな歌手の新曲を頭の中で流す。歌詞はまだ覚えられていないところもあるから、そこはフィーリングである。
青春をテーマとし、夏を連想させるメロディーは今の気分にぴったりだ。私は後ろに誰もいないことを確認して、曲に合わせ軽く手を振った。
サビが終わり、イントロと似たような間奏に入ったところで赤信号に捕まった。
頭の中の間奏が鼻歌として音になり始める。そんな時、ふと横を向くとそこにある薄暗い路地裏に目がいった。
「あれ、なんだろう」
不明確な光景を前に思ったことがそのまま口に出た。
そこには一人の男の人がいた。座っていた。こんな暑さの中真っ黒なシャツを着て、真っ黒なスーツを着て、そして真っ白なネクタイをきっちり首元でとめていた。
薄暗いから正確なことは何一つ分からないけれどかなり若く見えた。もちろん私よりは年上だと思うけれど、二十五、六歳ではないだろうか。
そんな細身の男性がごみ箱か何かのボックスの上に座ってこちらをじっと見つめていたのだ。
私のことを見ているのかは分からないけれど、その男は路地と服の生地を同じ配色にしていたため、一見すると暗闇の中に顔とネクタイだけを浮かしているように見えた。
異様な光景に思えて仕方なかった。
パッポ。パッポ。
カッコウの電子音的な鳴き声が耳に入り、ハッとする。見ると信号は赤から青に変わっていた。
もう一度路地裏に目を向けると、もうそこにあの男の姿はなかった。
不審者だ、不審者。夏になると増えるんだよね、季節柄だよ。私は見なかった、もとい居なかったことにして先を急いだ。多少速足になっていたかもしれないけれど、それはきっと単に遊園地が楽しみだからだったのだろうと思う。
目的地には予定時刻より五分早く着いた。ダイチはまだ来ていないようだった。
私は一度深呼吸をした。深く吸って、ゆっくり吐く。夏の乾いた空気が肺に取り込まれ、鼻から温かく抜けていく。何度目かの呼吸が終わった辺りで、ダイチの姿を発見した。
「お待たせー」
「お待たされー」
ダイチは白い服を着ていた。半袖よりも少し丈の長いTシャツで、下から濃い青が薄く広がり、おへそ辺りまでがグラデーションのようになっていた。夏を一着に閉じ込めたかのようなデザインである。
ズボンは黒の単色で、生地はやはり薄そうだった。右手の薬指には銀の指輪がつけられていた。高校生で指輪って気取りすぎだろうと思ったけれど、ダイチのことも考えて声には出さないでおいた。
「はい、これ」
ダイチの手には入場券が握られていた。私は現地で買うものだとばかり思っていたので、確かにチケットの話をしていなかったなと思い出した。
「おーありがとう! 準備いいね。いくらだっけ?」
私がバックから財布を取り出そうとしたところで、ダイチがいい、いいとその手を制す。
けれど私もダイチに借りを、いやきっといくつもこれまでに作ってきたとは思うけれど、認識する形で作るのは嫌だったから入場券分の金額を入場券との交換という形でダイチの右手に握らせた。
「もう、いいって言ってるのに」
そう言いつつも、お金を財布にしまうダイチは嬉しそうに見えた。
「そんじゃあ、行きますかー」
ダイチは目を細め腕を伸ばした。絶対伸び、無意識でしょ。
「いぇーーい!!」
ダイチの掛け声に私は大きい声で賛同した。……やっぱり私の声は人より大きいかもしれない。
「え、やっぱマーガリンじゃない? 俺、バターより好きだし。バターより全然コスパいいし」
「分かってないなあ、バターがあるからマーガリンができたわけで、言わばオリジナル、本物なんだよ、バターは」
この遊園地の名物ジェットコースターの長蛇の列に並びながら、私とダイチはバターマーガリン論争について熱く語り合っていた。そりゃあもう、溶けるぐらいの熱量だった。
「そうは言っても、世間だとやっぱマーガリンの方が使用頻度が高いわけで、つまり本物? のバターは日本じゃマーガリンの劣化版に過ぎないんだよ。バター自身もきっとそう思ってるって」
「バターさんが思うわけないでしょ。使用頻度が高いのはバターが高級品だからであって、それがマーガリンよりも人気が低い理由にはならないでしょ」
ダイチとのディベートはただ楽しい。もはやジェットコースターがついででもいいくらい白熱し、話題がどんどんと変わっていく。特にくだらない、どっちでもいい話のときこそ熱く語るという暗黙の了解が、心の奥をくすぐるいいスパイスとなっていた。
「はあ、これだから米派は。パンに塗った時のバターに勝るとも劣らないあの香ばしさがあの手ごろな料金で買えるんだよ。こんなのもう逆詐欺じゃん、逆ぼったくりだよね!」
「だーれが、米派だ。私は、パン派ですー!」
「え、あれ、だってサヤカ毎朝白ご飯って」
「あれは、白ご飯だって愚痴ってたの! 私はパンが食べたいのに、バターと牛乳と食パンが食べたいのにー」
「……あーそうなんだ(笑)」
「一人暮らし始めたら、絶対、毎朝、食パンでぃ! あーなんかお腹すいてきたな」
「さっき食べたばっかじゃん」
列は少しづつ動く。所々に設置されているオレンジの扇風機が冷たいミストと一緒に冷風を提供していた。
「そういや、知ってる? 付き合ってそんなに長くないカップルが二人で遊園地に行くと大抵別れるんだって」
「へー、よかったあ。俺たちまだ付き合ってないもんな」
「こないだ友達になったばかりだしね」
「あんときの友達から発言、マジのやつだんたのかよ!」
周りに該当するカップルがいないか、流し見しながら話題を続ける。私たちの前後はとりあえず、親子と男子三名の二組だった。まあどちらも楽しそうだから、他人の会話なんて聞いていないでしょ。
「でも私たちがもし付き合っててもこの話みたいにはならないだろうなあと思うよ」
「なんで?」
「だって、これってこういう待ち時間で話すことなくて、気まずくて起こることらしいから」
「えー、もったいな。こういう時間こそお互いを知っていくチャンスなのに」
「おお、いい考えだねー。ま、だからこんだけ話せる私らじゃ無縁ってことなんだよ」
「なるほどなあ。相性ぴったりな無敵ってことだな」
「そゆことー」
列は進んで行くが、まだまだ先は長そうだ。
「そういや、この前ちょいと話を仕入れたんだがね」
「ほうほう」
「季節柄、怖い話なんていかがかなあ?」
ダイチがヒラヒラと両手の甲を揺らしながら言った。なぜ口調まで変わるのか。ダイチのお化けのイメージが私にはまだつかめなかった。
コースターに乗っている人たちのキャーという声が微かに聞こえてきた。
「いいけど、ガチめ?」
「いや、全然」
「ならよし」
私からの了承を得たダイチは静かに息を吸い、同時に両目を閉じた。
そしてゆっくりと瞼をあげると漆黒の双眸が私を冷たく捉えるのだった。
「俺が話すことをちゃんと頭の中で想像しながら聞いていってね」
私はダイチの言葉に従って、想像しながら耳を傾けた。
「この話はね、『シミが気になる』ってお話なんだなあ」
ダイチのトーンが一段階下がり、話すスピードも一回り落ちた。さっきまで楽しげだった雰囲気はどこかへ行ってしまったようだった。彼らも怖い話が苦手なのかもしれない。
「これはね、とある小学校で噂されていたお話」
緊張からか私は無意識に唾を飲み込んだ。なにげに怪談を聞くのは初めてかもしれない。本当にガチじゃないだろうな? 私はダイチの声を静かに待った。
「その学校にはね、見てはいけない壁のシミっていうのがあったんだ。見ると必ず呪われるって言われているシミ。サヤカも見たことない? 人の顔みたいに見えるシミ」
ダイチは一文と一文の間を広く取った喋り方をしていた。だからなのか私の頭は自然と人の顔のような模様を思い浮かべる。
「……ある」
「へえー、そういうものはね、必ず何かの思いが形になったものなんだって」
私が思い浮かんだのはパナップのソースなのだけど、それは黙っておこうと思った。
「まあ大抵のものは人の顔とか、動物の顔に見せるってだけで、これといって何か呪いがあるわけじゃないんだけど」
きっとパナップの顔には製造者さんの強い思いが込められているんだろう。パナップに刻まれた笑顔を想像し私はそう思った。
「でもその小学校のシミは違った。その小学校は田舎に建てられたということもあって、生徒数ももともと少なく、校舎自体も比較的小さかったんだ。
だけれどそのシミは中でもほとんど人が立ち入らない隅っこの壁にあってね、それは顔とか頭とかじゃない、子ども全身の形をしていたんだよ。
いつできたのか、なんでできたのか分からない子どもを象ったようなシミ。
子どもたちはもちろんその存在を知っていたし、先生や親にも話していたんだけど、先生たちにはただのシミに見えて、子どもの姿には見えなかったらしいんだ」
私の頭は素直にダイチの言葉を映像化して再生していく。
山の近くにあって、木造で、木も少し湿気を含んでいるように黒ずんでいて、そして奥に見える人型の不気味なシミ。
普通に怖い。内容はよくあるものなのに、話し方が想像を掻き立てる。
「で、でも見たら必ず呪われるんでしょ? なんで子どもたちの間では噂になるぐらい知られてたの?」
「それはね、条件があったからなんだ」
ダイチの声はいつもより優しく聞こえた。しかしその声はより恐怖に拍車をかける。
「普段の学校生活でそれを見ても呪われることはない。呪われるには学校が終わった後、夜中に生徒一人だけでそのシミを三分見続ける必要があったんだ。
時間帯は特に指定はなかったようだけど、必ず夜に、そして一人で行わなければならなかった」
「ねえ、普通に怖いよ」
「でしょ? でもまだ続きがあるんだけど、どうする? やめとく?」
「き、聞く」
私は再度頭の中に情景を思い描いた。夜の田舎。古びた校舎。真っ暗な廊下。懐中電灯の明かり。そして、その奥にある不気味な子どものシミ。
ダイチが口を開く。どうやらその続きが語られるようだ。
「それでね、サヤカがいうように生徒の皆も怖かったから、誰も夜にそこへ近づくことはなかった。噂はあくまで噂のままだったんだ。
だけどそんなある夏の日、一人の生徒が、噂の真相を確かめに行ってやるって言いだしたんだ。それは四年生の翔太くんという男の子だった。
彼はまあちょっと古いから恥ずかしいんだけれど、いわゆるガキ大将という感じの子で、小学生にも関わらず、髪の毛をワックスでツンツンにしていて、軽いモヒカンのような髪型をしていたんだ。
『あんなの噂に決まってんだろ! 俺が行って確かめてきてやるよ。三分? 朝までいてやるさ』
『や、やめときなよ。噂だと呪われた人はシミのことしか考えられなくなって狂うって聞くよ』
『そんなわけねえだろ。つーか一人で行かないといけねえんだから、どのみちお前には関係ねえだろ』
翔太くんはそう言って夜中一人で学校に忍び込んだんだ。真相を確かめるためにね」
ダイチは一呼吸入れた。ここは遊園地で、周りも音で溢れかえっているはずなのに、もはや私の耳にはダイチの声しか入らなかった。
「そこで何があったのか、周りの子たちは分からない。ただ翌日から翔太くんは人が変わってしまったかのように、まるで魂が抜け落ちてしまったかのようにクラスメイトと接するようになった。
あれだけ元気だった彼が、今では一言も喋らず、ボーッと日々を過ごしていた。そして時折、『シミ、シミ、シミが気になる』と口ずさむのだった」
会ったこともない小学生の翔太くんの顔が浮かび、映し出された。目はどこか一点を見つめ、口を半開きにしてしゃがれた声で「シミ、シミ」と永遠に繰り返している。
ダイチは未だ真顔で、眉一つ動かさず淡々と語る。
「皆はシミに呪われたんだと噂をした。あの噂は本当だったんだとね。
それから皆はあの壁のシミにも、翔太くんにも近づかなくなった。その他のことは何も変わらなかったし、皆にとっては普通の日々だったそうだ。
だけど翔太くんは時折、ふと例のシミの前に立つんだそうだ。『シミ、シミ、シミが気になる』と呟きながら。
その様子は狂っているという表現の他の何ものでもなかった。いつもボーッとするようになった翔太くんがなぜかそのシミの前では目をカッと開いて鼻が壁に当たりそうな程、近づいてニチャニチャと嬉しそうに笑うのだ。
そういえば、いつからか分からないらしいんだけれど、そのシミの髪型が前と違っているように見えるんだってさ。皆は怖いから近づかないんだけれど、見た人によるとツンツンのモヒカンみたいに見えたんだってさ。おしまい」
話し終わるとダイチはニヤニヤと笑っていた。
「おのれ! 怖い、怖いぞ!」
私が怯えた顔でそういうと、彼はケラケラと笑った。あ、悪魔だ……。お話がどうかというより話し方に雰囲気があった。ペースに飲まれ、聞き入ると怪談ってここまで怖くなるものなのかと戦慄した。
「えー、でもよかったじゃん、涼しくなれて。それよりタイトルの意味、分かった?」
確かに涼しくなったかもしれないけれど、普通にホラーだと思った。私が慣れていないからだろうか。 もし話を聞いた人がいたら感想をお待ちしたいところだ。
前の三人組とかは聞いていないだろうか。
「え、タイトル? 『シミが気になる』だよね? 意味も何もそういう、気になっちゃうっていう呪いだったんでしょ?」
「いやー違うよ。これは意味が分かると怖い話なんだよ。分かってないなあ」
ダイチは両の掌を上に向けて、肩をあげた。テンションの高さが鼻に着く。
「意味が分からなくても怖い!」
「実はな、呪いの正体ってのはシミのことを考えてしまうってことじゃないんだよ。シミに魂が乗っ取られる、なり変わられちゃうってことなんだよ。最後翔太くんがシミになってただろ?」
「うん、それは分かった。けれど、タイトルはじゃあ嘘ってこと?」
「いや、タイトルの意味は『シミが気になる』じゃなくて、『シミガキになる』って意味なんだよ。翔太くんは『シミガキ』になっちまったってことなのさ」
ダイチは、な? よくできた話じゃない? と嬉しそうだった。遠くに見えた積乱雲はモクモクとその体を大きくしているようだった。
「なるほど、なんだシャレか」
「おい、そこで冷めんな!」
「冷やしたかったんでしょ、願い叶ったじゃん」
ダイチはそれにも笑いながらツッコミを入れていた。お前もシャレ好きじゃんと言いたそうな顔だった。
色々な話をして、長かった列もそろそろゴールが見え始めていた。
「サヤカは何か怖い話ないの?」
ダイチはすっかり怖い話脳になっているようだった。そんな唐突に言われてもと、記憶を遡ってみると思い当たる節が一つだけあった。
「……あるよ(笑)」
「いいじゃん」
私たちはジェットコースターに乗るまで、怖い話で突っ走ることにした。本当に少しだけ涼しくなってきたかもしれない。
いや、怖い話じゃないかもしれないんだけどさと前置きを置いて、私は先日の夜、お風呂上りに起こった恐怖体験の話をした。思えばあれが私の唯一の怖い実体験だったかもしれない。
「この前グループラインしてた時さ、お母さんに呼ばれたって言ったじゃん」
「え、まさかの実体験? しかもそれって計画立ててる時だろ? ほんとついこないだじゃねえか!」
「そう、それでね、そのあとでごめんねって打ったんだけど」
「あーきたきた」
「その『ごめんね』のあとの予測変換が『死んで』だったの!」
私は渾身の右ストレートをお見舞いする勢いで、起こった事を話し、共感を煽いだ。
そう、あの日お母さんに扇風機の電源を切るように呼ばれたことで、私はスマホから離れることになった。
その際、予測に出た「死んで」の文字を見て、私は冷や汗と困惑でそこから目が離せなくなってしまったのだった。
「へー」
あれ? にも関わらず私が想定していたよりもかなり薄いリアクションだ。
「え、怖くない?」
「いや、確かに実際体験したら怖いかもしれないけれど、でもまあなくはない話なんじゃない?」
ダイチは先ほどの「へー」を発言するに相応しい顔をしていた。なんだ、コイツ。
「いや、ないよ! 絶対何かからのメッセージだって。私固まっちゃったんだもん」
私はどうにか味わった恐怖を共有したくて、必死に熱弁した。
「どっかで自分で打ったんだろ?」
「そんなわけないでしょ! 『ごめん、死んで』のコンボなんて使わないから! もしかして私、命狙われてる?」
「ラインで殺害予告するやついたら、マジのサイコパスだろうな」
なんなら本当に起こるのかちょっと、見せてみてよ、とダイチが言うものだから私も乗り気になってラインを起動し、ダイチとのグループラインを開いた。あれ?
「ねぇそういえば、なんで私たちグループラインで会話してるんだっけ?」
私はふと疑問に思ったことをそのままダイチにぶつけてみた。
私たちは別に個人ラインを持っているし、普段のくだらない会話は普通にそこでやりとりをしている。だけど、予定合わせなんかは二人だけのグループラインを使っている。
答えは腑抜けるほど、単純なものだった。
「なんでってサヤカが高一の時に作って、『こっから友達になった人たちを追加していこう』って言ってたけど。
結局クラスの人と友達になっても個人でやりとりするか、もっと大きなクラスラインがあったから追加することなくズルズル来て。
こうしてメンバー二人のグループラインとかいう歪なものができちゃったんだろ」
呆れた表情でこのグループラインの創立秘話を語るダイチに、当時の愚行に対する申し訳なさを孕んだ苦笑いを返した。
実は非科学的なことがあったんじゃないかと自然と考えていた私も怖い話脳になっていたのかもしれない。
そうだっけといいながら例のメッセージをダイチにも見せた。
「あ、ほら、ね? 見間違いとかでもないでしょ?」
「ごめんね」の後の「死んで」は変わらず、予測に表示されていた。
ジェットコースター、フリーフォール、空中ブランコ、ライドとそこからも絶叫に絶叫を重ね、アトラクションからアトラクションをはしごした。
暑い園内を歩く。
この遊園地の巨大観覧車を仰ぎ、そこへ乗車する人々と、その奥に見える透き通った青空を眺めた。
昨日はあれも乗ってみたいなと思っていたけれど、この雲一つない一円玉天気の中であの小さなボックスに閉じ込められるのはあまりに無益と判断し、見送った。
まだ空は青かったが、時間はもう帰り道を示そうとしていた。
「あ、忘れてた。帰る前にさー」
隣を歩いていたダイチが、突然立ち止まり声をあげた。
「え、何!?」
私はダイチが、何かをどこかへ忘れてきたのかと思い不安な表情を浮かべたが、振り返った先にいたダイチは嬉しそうにスマホを取り出していた。
「写真、とろう」
「写真? まあ私は色々と撮ったけど、もしかしてツーショット?」
「そうそう」
忘れてたということはもしかして計画していたのだろうか。ツーショぐらい別に何でもないのだけれど、改めてというか、こう流れもなく言われると、なんだか妙に、無駄に緊張する。
けれどそんなことをさとられては癪なので、私は毅然と当たり前であるように肯定した。汗の匂いとか、大丈夫だろうか。こんなことならめんどくさらず香水もかけてくるべきだった。
「いくよー、ハイチ―ズ」
カシャ
青いキャンバスの中を飛行機雲が直線を引くように伸びていく。原理とかは知らないが、きっとあの細い線がさっき見た大きな積乱雲へとモクモク姿を変えるのだろうと思った。いや、違うのかもしれないけれど。
終わってみれば、本当に緊張した理由が分からないほど、写真は普通に撮った。ダイチも普通だった。私は実はあがり症なのかもしれない。
観覧車をバックに撮った二人の写真は意外とまとまりよく映っていた。この写真にタイトルをつけるなら何になるだろうか? 被写体本人からすれば『青春』だけれど、傍からみれば、そんな大それたものは提灯に釣り鐘な題かもしれない。
誰しもにとっても良いものである必要はない。今日という裏設定、背景があったからこそこの写真はよくみえたのだろうと鑑定し、ひとまずは『拝啓』と心の中でしておいた。
園を抜け、分かれるまでの帰路を二人で並んで歩いた。
行きに短冊へ綴った願い事が、無事叶いそうだということに安堵した。
「さっき撮った写真さ、インスタのストーリーにあげていい? もちろん顔は隠すから」
ダイチがそういうので、私はそのにこちゃんマークで加工された写真を確認して、まあこれならバレないだろうと渋々了承した。
夏の帰り道といえば夕焼けを年がら年中思い浮かべるが、こうして七月の帰り道を体験してみれば、夕日が落ちるのはもっと遅い六時や七時あたりなのだろうと改めて気づいた。
夏というものはこれまで毎年、嫌というほど経験しているためきっとそのこれまでも何度も気づいてきた発見なのだろう。けれど頭では新鮮さを感じた。
ジャメビュというやつだろうか、恐らく違うだろう。
ダイチとの帰りは待ち時間同様、話題がコロコロと変わるしゃべくりツーを収録していた。
「そういや、ジェットコースターのところで、怖い話してたじゃん? 実はもう一つあるんだよね」
「え、まだあるの? ガチのやつ?」
「いや、全然」
さっきのこともあったので、もう私はダイチの全然をこれっぽっちも信用していなかった。もうすぐ分かれ道なので、それまでに終わる話であることを期待したい。
「いや、怖い話っていうか噂なんだけど、まず八尺様って知ってる?」
ダイチがだした名前はネットに広く知れ渡っている都市伝説の妖怪だった。
「知ってるよ、ぽぽぽって喋る妖怪でしょ?」
「そう。最近この辺りで噂になっている話なんだけど、黒いシャツに黒いスーツを着た二、三メートルの男が声をかけてくるらしいんだ」
「私の知っている八尺様とは随分見かけが違うようだけれど?」
「そうだな。八尺様は白いワンピースで白いハットを被った二、三メートルの女の人だ。
だからきっとこの町に出るそいつは別の何かなんだけど、出会った人間は八尺様と同じで数日後には必ず死んでしまうんだってよ。
それで、あの八尺様に因んでそいつは八尺さんと呼ばれてんだって」
ダイチはまた嬉しそうに語っていたが、私は先ほどのシミガキと違ってそこまで恐怖に駆られていなかった。
「ねえ、会えば必ず死ぬのならなんで噂が広まっているの? また条件付き?」
「いや、この話に条件みたいなのは聞いてないけどまあ噂だし、そんなもんなんじゃない? というか見てから数日後に死ぬってことだから、その間に誰かに話したりしているんだろう」
まあ二メートルを優に超えてるやつらしいから、人間じゃあないわなと付け加え、ダイチはうーと伸びをした。
お話は以上らしい。とくにエピソードもなく単に思いだしただけの話なのでダイチの言うようにそんなものなのだろう。
それから程なくして私たちは分かれ道に着き、それぞれの方向へと歩みを進めていった。
ポケットの中でスマホが鳴動した。『今日はありがとう』『じゃ、また明日』というダイチからのメッセージとアルバムが送られていた。
その中には先ほど撮ったツーショットも入っていた。
私は今日のことを振り返りながら、最後の八尺さんの話を思い返していた。この町にいるという話しかけ、人を殺す二メートル越えの男の話。別に怖くはなかった。信憑性も低いし、チープだと思った。しかし何故かあの話が頭から離れなかった。
私はその男に、八尺さんに会ったことがある。ありえないそんな考えが、存在しない記憶が、ありえそうでならなかった。これも無意識の一つなのかもしれないと勘定した。
あるはずのない記憶を忘れようと私は頭の中に大好きな新曲を流すのだった。イントロを希釈した間奏に入る。
薄くなっていく空はとてもきれいだった。
七月八日 (月)
「ちょい、ちょい、さやかー。あんた昨日はお楽しみだったみたいだねー」
朝のホームルームが終わり一時間目は何だったかなと考えていると、クラスメイトのアヤが騒がしそうに話しかけてきた。彼女は明るいという言葉が体現したような女の子で、少し彩度の薄い髪をサイドで結ぶ髪型をしていた。
彼女とはよくお昼ご飯を共にしていて、一番の女友だちといえる仲であった。
「え、何? 何の話?」
私が慌てて答えると、アヤはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら、自分の仕入れた情報を公開してくれた。
「いやー昨日後藤のストーリー見てさー、二人で行ってたんか? 隅におけないねーサヤカも」
「え、え、なんで?」
後藤というのはダイチの名字であるが、アヤは私がダイチと一緒に遊園地に行っていたことに気づいたのだろうか。なんで私だと断定できたのだろう。
アヤが見たのはきっと昨日私が了承したあのツーショットだと思うけれど、あれはこうやって知り合いが見ても私だとバレないように顔を隠していたはずである。まさか、ダイチ――。
「なんでってあの服、サヤカよく着てるじゃん!」
アヤは不敵な笑みを継続させて、さも当たり前かのように言った。
このゴシップ好きめ! くー、着慣れている服をチョイスしたことがここにきて仇となってしまった。
ダイチごめん。ちらとでも君のことを疑ってしまったよ。
「そう、ですね。私です」
「ふ、ふ、ふ。私の目は誤魔化せられないよ」
「え、他の人にもバレてるのかな?」
私は不安になって周囲に目を向けた。突っ伏して寝ている人、ロッカーから教科書を持ってきている人、駄弁っている人。
皆各々の行動をしており、怪しい人物は見受けられなかった。あ、そうだった、一時間目は数学だ。
ダイチも数名の男子と喋っていて、何やら騒がしいけれど、内容までは聞こえてこない。
「いや、ここから推測できる名探偵なんて私ぐらいだと思うよ」
アヤは得意げに、鼻高々にそういった。その言葉を聞いて私は安心しつつも、その中に鬱陶しさが含んだ感情を抱いていた。
「あ、でもまあ榎本にはバレてんじゃない?」
アヤが視線を向ける方向に私も合わせる。そこにはシュッとした効果音が似合いそうなクラスメイトがダイチの隣で座っていた。彼は榎本くん。ダイチが多分一番遊んでいるであろう人物だ。
黒縁の深い眼鏡をかけており、見た目はいかにも真面目といった印象を受ける好青年である。その第一印象は大方間違ってはいなかったが、話してみると意外と気さくというか、話しやすくギャップというものをその時初めて体感したことを覚えている。
「え、榎本くん? なんで?」
榎本くんはダイチ達の輪の中にいるものの、一言も発してはいなかった。おい、ダイチ! 榎本くんをもっと楽しませろ!
「あいつだったら後藤とあんたの仲も知ってるし、まあ何だ、色々察せられるだろうと思って」
そっかあ。まあ榎本くんなら茶化すようなことはしないだろう。その上これは私のミスが招いた事だから仕方ないか、と机の中から数学の教科書を取り出した。
「で、どうなの? マジで付き合ってるの?」
一通り話は終わったと思っていたのだがアヤは話し足りないようで、というかここからが本題という勢いでつめてきた。が、
キーンコーンカーンコーン――
その時、終戦を告げるゴングがなった。どうやら時間切れのようだ。
チャイムの音を聞いたアヤは後からちゃんと聞かせてよと言い残し、名残り惜しそうに自分の席へと帰っていった。
もちろん付き合ってなんかはいない。ダイチはただの大切な友達である。けれど、否定の言葉がパッと出てこなかったせいで、今日一日はめんどくさい日になりそうだなと腹を括ることになった。
時計の短針が四を指した。放課後の時分である。アヤからの取り調べは昼休みを通して続いた。アヤはとても楽しそうで、私には止めることができなかった。
ああいう質問は当人がいくら真実を語っても、そこに意味などはないのだ。インタビュアーの気の済むまでその問答は続いていく。ダイチにそのベクトルが向かなかったのはせめてものアヤなりの配慮だったのかもしれない。
皆は各々の支度をしていた。友達と帰る準備をする人もいれば、部活動に行く人もいた。ダイチやアヤもこれから部活動である。
私はというと、運動も文化も大して興味がなかったので、帰宅部のホープを担っていた。といっても私はまだ帰らない。
いや何か用事があるわけではない。ただ沢山の人がいる中で一人で帰るということに、少し気まずさを感じていたのだ。まあ家に帰ってやりたいことというのもないので、私は毎日こうして教室に残って帰っていく皆や誰かの練習風景を窓から眺めている。
この何とも言えないノスタルジックな時間が私は好きだった。
ただ、部活動が終わるまでノコノコ残っているわけにもいかない。部活動が終わるということはまた沢山の人が帰るということで、そうなればまたぼっちを晒すという同じ問題を抱えることになる。
こんな話を聞けば部活の終わったアヤと帰ればいいのにと思う人もいるかもしれないが、アヤとは家が離れており、帰る方向が真逆なのだ。
あれ? もしかして私って友達少ない? (笑)
そんなこんなを考えて、野球部の走り込みを眺めて、私は人通りの少なくなった時間帯にこっそりという音を立てながら学校を後にするのだった。
街の点字ブロックの横を歩く。綺麗に敷き詰められたオレンジのタイルは夏の暑さを照り返して、その上を歩くアリは何やら大荷物を運んでいた。
人通りは思った通り少なかった。目の前に映るのは静かな街並みと、まだ明かりの点っていない街灯だけ。まるで世界に私だけしかいなくなってしまったような思いだった。
「サヤカさん」
その時、身に覚えのない、耳に覚えのない声が真横から飛び込んできた。声の方向に振り向く。私の横に広がっていたのは薄暗く明かりの届かない路地裏だった。
聞き馴染みのないその声は主の姿を暗闇の奥へ隠している。
「あ、やっぱりサヤカさんだ」
また声が聞こえてくる。私のことを知っており、私のことをさん付けで呼ぶ。得体の知れないその声は変に優しい言葉遣いをしている。それがかえって恐怖を掻き立てる。
絶対に関わってはいけない人だ。私のことを知っていたとしても、私はその人の影すら捉えられていない。無視をしなければいけないと体も訴えてきているのに、足はその意識を無視している。
足だけが私のモノではないかのようにピクリとも動かずに、暗闇へつま先を向けている。
「ちょっと君の友達のことで、話があるんだけど」
そいつはまた許可もなく、声をかけてきた。何? 友達? 話? 何を言っているんだ。私は足に動け、動けと命令を送り続けた。ここにいてはいけない。逃げなければいけない。
「ダイチくんのことで」
私はその名前を聞き、ゆっくりと暗闇へ足を進めた。自分の意思で歩を進めた。恐怖にも勝る、怒りにも似た勇気を原動力として。
「やあ、請け負い人の多賀サヤカさん。お久しぶりですね」
私は路地裏の奥へたどり着き、少し上へ仰いだ。
そこにいたのは黒いシャツに黒いスーツ、白いネクタイをした二、三メートル程の男、ダイチが遊園地の帰りで話していた八尺さんだった。
その風貌と佇まいが私に人間ではないことを直感させてくる。しかし、私はもう怖がらない。この怪物がどんなことを計画しているのかは知らないが、そんな奴からダイチの名前を出されて通り過ぎることなんて私にはできない。
「八尺さん? 会えば必ず死ぬと云われている化け物」
「おや、そんな噂が出回っているのですか? 全く的外れなモノほど広まる物なんですね」
八尺さんはその長い手を口元に持っていってクスクスと笑っているようだった。
「どういうこと? あなた八尺さんじゃないの?」
「いえ、私は紛れもなくその八尺さんだと思います。私が言っている的外れは会えば必ず死ぬというところですよ。
きっと傍から見た誰かが、適当に言ったホラなんだと思いますが」
八尺さんのクスクスは続行していた。一体何がそこまで面白いのか分からなった。
「え、そ、それじゃあ会っても死なないってこと?」
私は安堵のため頭に思い浮かべた質問をした。
そうだ、その噂が偽物であるならば、死ぬことはないということになる。私がこうして話していても死なないということだ。
いや、しかしでもそれじゃあダイチの話って?
「んーどこから話したもんだろう」
八尺さんは私の質問に答えてくれなかった。その代わりに別の質問を私に投げかけてきた。
「最近身の回りで違和感を持ったこと、不思議に思ったことはなかったかい?」
それはよく分からない質問だったが、脳はその意図を汲み取ったようにここ数日に及ぶダイチとの日々を思い返していた。
私は巡る。これまであった思い出たちを、ダイチが行ってきた言動を。
『あれ? 行かねえの?』
『結婚とか?』
『暇なら遊園地とかどう?』
『シミに魂が乗っ取られる。なり変わられる』
ダイチの声が脳内で繰り返し、走馬灯のように流れる。違和感のかけら、不可思議な点と点、八尺さんが私の前に現れる前兆――。
「……ある」
「ほう。どんなことがあったんだい?」
八尺さんはどこか嬉しそうに言葉を促した。
心当たりは散らばっていた。頭の中で線となっていく点。ピースとなるかけら。
八尺さんの呪いは噂通りではなかった。ダイチが話してくれたあの怪談と一緒だったんだ。私はゆっくりと口を開いた。
「今のダイチはダイチでは、ない」
私の口からこれまでの違和感、その正体が語られる。もうすぐ夕方になるであろう時分だけれど、日が差し込まないこの辺りは暗く静まり返っていた。
「ダイチは何者か、恐らくあなた、八尺さんに乗り移られている。
まず、初めて違和感を覚えたのは一週間前。私はいつも通り朝、ダイチと待ち合わせをした。しかし会っても私はそこから動こうとせず、また誰かを待っているかのように振り返っていた。
あれは体が目の前にいる人をダイチと認識せず、無意識に待ち人である本物のダイチを待っていた結果だったんだ。
そして、その後の会話で『結婚とか?』という言葉がダイチの方から聞こえてきたが、その声は明らかにダイチの声ではなかった。あれはきっと乗り移った当人の声がとっさに出てしまったということなんだろう。
最後に極めつけは、ダイチは高所恐怖症だということだ。だから私たちはこれまで遊園地に行ったことはなかった。にも拘らず、ダイチの方から遊園地に誘ってきた。
これはそいつがダイチではないという何よりの証拠。
あなたが今日、私に話したかった話は乗り移られているダイチの魂が消えかかっているということ。
そういう事態も起こるから会えば死ぬという噂が広まってしまった。どう? 違う?」
私は八尺さんを問い詰めた。そうこれはダイチがダイチではなかったことによって引き起こされた違和感だったんだ。
八尺さんは深々と頭を下げ、そして私を見つめ直してからゆっくりと口を開いた。
「違いますよ」
八尺さんが放った一言は私の推理に対する真っすぐな否定だった。
「今までの彼は正真正銘、本物の後藤ダイチくんです」
「どういうこと? 違う? そんなはずない! じゃああの違和感は何なの?」
声を荒らげた私に八尺さんは静かにというように口元へひとさし指を持っていった。
「んーそうですね。やはり順を追って説明しましょう。私たちが行ってきたことの真相を」
八尺さんが両手を横に広げる。長い掌が視界の端に映った。ここからがショーの始まりです。とでも言いたそうな態度に、私の恐怖心は呼び戻されることになった。
「君も知っているでしょうが、命というのはとても儚いものです。毎日世界中で、何万人という人が亡くなって、それが毎朝ニュースとして報道されています。
しかし、にも拘わらず、身内や知り合いがそういった事件に巻き込まれることは少ない。ましてや報道された人なんてそうそういないのではないでしょうか。サヤカさん、君の周りではどうですか? 誰か亡くなった人はいますか? 報道された人はいますか?」
「……親戚のおばさんが一人亡くなったけれど報道された人はいない」
「あれだけ多くの人が亡くなっているのに自分の周りでは人が死んでいない。おかしいと思ったことはありませんか?」
「え、」
「あれだけ毎日報道されているのに、親戚のおばさんしか周りで亡くなっていない。変だとは思いませんか?」
八尺さんの問いは私の思考の外に位置するものだった。確かに死んだ人を目の当たりにしたことも、事件に誰かが巻き込まれたこともない。
それでも毎日ニュースは事件を取り上げていた。しかしそんなことに疑問を持ったことなど今まで一度もなかった。
「質問を変えましょう。サヤカさん、君は人が死んだと聞かされたらどう思いますか?」
「ど、どうって」
私はダイチやアヤが亡くなったことを考えた。彼らがいなくなった世界を考えた。目頭が熱くなる。吐き気がした。そんなことを考える自分にも嫌気がさした。
「そんなのショックで立ち直れない」
自然と首が下を向く。私がポツリとそう呟くと、八尺さんはまた言葉を続けた。
「それは君が想像したのが知り合いだったからです」
「そんなことない」
「いいえ、人は赤の他人の死に興味なんてありません。毎日人が死んだ情報が入る。それは大抵どこの誰かも知らない人だ。そんな事態を前に取り乱す人なんて一人もいない。
毎朝何となくテレビをつけて、悲惨な事件を目にして、その時は心を痛める人もいるかもしれないが、数分後には被害者の名前さえ忘れている」
「でもそれは……」
八尺さんの正論に言葉がつまる。
「そう、それは仕方のないことです。そんなことを引きずっていては人は生きていけません。だから私は攻めているわけではないのです。人が死ぬのは当たり前で、それを乗り越えられないと人はその先にはいけないのですから」
私は顔を上げられなかった。八尺さんの言っていることは正しいことだと思ったし、そう思う自分がひどく醜く見えた。
地面の端に転がっている誰かが無断に捨てたペットボトルが、人というろくでもない無慈悲さを物語っていた。
「そういった話を踏まえて、ここで一つ本題に移りましょう。
君の友達の後藤ダイチくんが、あと数日で死にます」
突然の出来事に顔が上がる。なんで急にダイチの名前が。
「いえ、もっと分かりやすくいえば私が殺します。私がこの世にいる理由は人を殺すためです」
「な、なんで……。なんでそんな。ダイチが何をしたっていうの?!」
目の前の人がひどく恐ろしく見えた。いや、私は何を失念していたんだ。こいつは人の形をした人ならざる者なんだと改めて思い返した。でも、なんで――
「いえ。理由なんてありません。何かが死ぬことはバチが当たったからでも因果応報だからでもありません。理不尽に人は死ぬのです」
男は淡々と説明を続ける。
「私の仕事は世界のバランスを取ることです。世界中の生命の生死のバランスを取っています。こっちの数が減ったら、こっちの数も減らし、増えたら、増やす。
しかし、他の種族は天敵等によってバランスは多少取れているのですが、人は異例にも天敵のいない種族であり、昔から増え続けているのです。
したがって私たちは人を重点的に殺して世界のバランスを保っているのです。先ほど話した毎日多くの人が亡くなっているほとんどの死因は私たちなのです。その死に事件性や犯人を作り上げて自然となるようにしています。
そして今回理不尽(ランダム)に選ばれたのが、ダイチくんというわけです」
無理だ。男の話をまともに聞いていられない。ダイチが死ぬ? 何で? ダメだ。考えたくない。考えたくない。
「さっきの話は、知らない誰かならという話だった。誰かの死に引きずってはいられない。それには私も納得した。納得してしまった。けれど、その人がダイチであれば、私はもう、生きてはいけない」
膝が崩れ、目に浮かんだ大粒の涙が、目尻の上で耐え続けている。視界がぼやける。男が何を言っているのかも分からなったし、なんでこうなっているのかも分からなった。
男は優しい口調でまた声をかけてきた。
「安心してください。彼が死んだあと、彼との記憶は一切消えてもらうようになっていますから」
その言葉は私をさらなる絶望へ突き落すものだった。
「どういうこと!? 記憶が無くなる? ダイチのことを忘れてしまうの?」
「はい。私たちが殺した人の記憶は生きている人の記憶から消し、その人なんて初めから存在していなかったかのように人々の記憶や認識を調整します」
「な、なんで何のために!」
私の怒号が路地裏の意識を変え、排水管の中を揺らす。悲しみが怒りへと乗算で塗りつぶされていく。
「君たちのためですよ。先ほど君もおっしゃったではありませんか。死ぬ人がダイチであれば生きていけないと。
そんな残された人が今後も彼らの死を引きずらず、健やかに生きていくために死者の記憶を消しているのです」
「ふざけないで! そんなの私は望んでいない!」
「それはそうかもしれませんが、その後に宣言通り死なれてしまってはこちらとしても困るのです。辛いことは忘れるに限る。君たち人もしていることです」
「そんなわけない」
「していますよ。例えばお葬式です。サヤカさんはお葬式は何のためにしていると思っていましたか?」
「それは亡くなった人が安心して成仏できるように」
私の返答に男はすぐに反論する。
「違いますよ。あれは残された人たちのためです。
残された人が亡くなった悲しみを強く抱かないようにするために、お葬式という文化はああも華やかに、そして忙しく作られているのです。手続きに追われ、悲しむ余裕がないように作られているのです」
男は少し失礼、と長い足を折り、何かの上に座った。そして首をコキコキと鳴らした。
「いえね、人と話すとずっと下を向く体制になるので立っているのは辛いんですよ。サヤカさんも顔を上に上げ続けるのはお辛いでしょう?」
そんなことを言われても私の首はもう随分上がっていないから、疲れてなんかいないよ。一息ついている男の様子を見て、私も頭の中を整理する。
「さて、先ほどの話に戻りますが、こうも沢山人が亡くなっているのに、周りでは誰も死んでいない。おかしいとは思いませんか?」
男はもう一度先ほどの質問を繰り返した。その質問を聞いて直感する。男の言いたいことを予感する。ほとんどの人の死因はこいつらで、死んだ人の記憶は消される。
「そう実は君の周りでも沢山の人が死んでいるんですよ。けれど君は泣き崩れない。それは彼らが君にとってもう既に赤の他人だからです」
男の顔に目を向ける。私は言い返すことができなかった。私の周りでも死んだ人がいた。そんなことを言われても、私にとっては文でしかない。それがどんな人だったかも知らないし、本当にいたのかも分からない。
それこそそんな人はいなくて全部この男、八尺さんの嘘かもしれないのだ。
「でも、だからってダイチが赤の他人になることは許せない。もうダメなの?絶対に死んじゃうの? もう本当に助ける方法は何一つないの?」
縋るような眼差しで八尺さんを見つめる。八尺さんはふうと今の季節にそぐわない白い息を吐き、ゆっくりと口を開けた。
「ありますよ」
八尺さんは私の一縷の望みを静かに、冷たく肯定した。
「私はその提案をするために、こうして再びあなたの前に姿を現したのですから」
目に先ほどとは異なる意味を含んだ涙が浮かぶ。滲む。八尺さんは冷たく私を見定めるような表情をしていた。ある。ダイチが助かる方法はある!
「教えて! 私はダイチが、大切な友達が生きてくれるなら何だってできる」
私の声に、八尺さんは優しく薄く微笑み、ダイチを救うその方法を教えてくれた。
「そうですか。ではお教えしましょう。
彼が助かるその唯一の方法、それは彼の代わりに君が死ぬことです。請け負い人の多賀サヤカさん」
その方法を聞き、私の口は考えもなく多くの空気をスッと肺へ送り込んだ。私が……死ぬこと。
「代わりに? 私が?」
「はい。私たちは噂ではあんな邪神に因んだ名前で呼ばれていますが、人を呪いたい、陥れたいなどと考える輩ではないのです。なので、人がどうしてもを望むのであれば、こうして代わりの案を提示しているのです」
「請け負い人ってどういうこと?」
「そのままです。私たちは請け負い人の下へ現れ、その方に当事人の死を請け負っていただくかを選んでもらっています。
もちろんどちらを選ばれても残された者への記憶は消させていただきますので、罪悪感などは抱かず、好きな方をお選びください」
私か友達か。無理だ。私はこの人からずっと無理を強いられている。ダイチを助けたい! でも死ぬのは怖い。死にたくなんかない。当たり前のことがずっと頭を巡る。
たとえダイチが救われたとしてもそこに私はいないし、ダイチの記憶にも私は残らない。でも、ダイチを殺す? ずっと一緒にいたダイチを? いや――。
「……分かった。……私は、死ぬ。ダイチの代わりに請け負い人として死ぬ!」
「ほう、いいんですか? 与えられた権利と言えど、その道に君のメリットなんてありませんよ?」
その言葉を聞いて私は震える膝を押さえ、立ち上がる。こぼす涙はこれで最後だ。私は左手で顔をぬぐい、答えた。
「いいの。私のメリットはなくても、その道にはダイチにとっての人生(メリット)があるから。ダイチが生きてくれて私は本当にうれしい」
無意識じゃない、心からの言葉だった。
『サヤちゃんが生きてくれて私は本当にうれしい』
「彼女と似たようなことを言うんですね」
八尺さんは少し驚いたようにそう呟いた。
「誰のこと?」
「そうですね。本当はいけないことなのですが、君にもう一つお教えしましょう。大島ミサキさんの話を」
「大島ミサキさん?」
「そう、実は君にはダイチくんの他にもう一人いたんです、とても仲のよかった友達が」
「え、」
「彼女は既に亡くなっています。君と同じように私たちの手よって。もうお忘れかも、しれませんが」
八尺さんはクスクスと笑って、口元を押さえている。友達が死んでいると聞かされて私は、私は、何も感じなかった。
「あれ? ダイチくんと同等のお友達だと聞いていますよ。泣き崩れなくていいんですか? 心を痛めなくていいんですか? 彼女が死んだから君が生きているといっても過言ではない人なんですよ。あ、それともそこまでの友達じゃなかったんですかね」
私の友達? がもう死んでいる? ダイチと同じくらい大切にしていた人? な、なんで? 涙が出ない。なんで? 吐き気も起こらない。私の身代わりで死んだ、人。
「ね? 辛くないでしょ? 彼女がどっかの馬の骨になってよかったでしょ? 明日にはもう名前すら憶えていないでしょ?」
「うるさい!」
私は再び強く、声を出した。この男の発言が癇に障って仕方がなかった。
「ごめんなさい。怒らせるつもりはなかったんです。ただ人ってそんなもんなんですよ」
男は苦笑いをしている。きっと何も感じていないのだろう。私は忘れない。大島ミサキさん。ミサキさん。ミサキ。男はまだ話を続けた。
「待ち合わせで、無意識に振り返っていたんでしたっけ? きっとそれは本物のダイチくんじゃなくてミサキさんを待っていたんでしょう。君はダイチくんとミサキさんと三人でいつも登校していたんです。そして帰りはそのミサキさんと二人で帰っていた。
グループラインもミサキさんが亡くなった後、違和感が起こらないよう修正しておきました。あれも三人のグループラインでしたから」
「もういい。早く私を殺して」
もうこの男の顔なんて見たくなかった。そしてそれ以上に友達のために涙一つこぼせない私を今すぐにでも殺したかった。
「先ほども聞きましたが、いいんですか? 君が今生きていられるのは身代わりの人が死んでくれたからなんですよ? その気持ちを無下にして、本当にいいんですか?」
私が忘れてしまった人、何でその人は私を助けようとなんてしたんだろう。私にどんな価値を見出したんだろう。
男は目を左上の方に向けていた。
「あ、んーいや、まだ期間は数日残っていますので、今日のところはここで引き上げます」
「なんで?」
男は何かに気づいたようにそそくさと立ち上がり、風向きを掌で確かめている。
「その時までじっくりと考えておいてください。ではまた」
そう言い残し、男は土煙のようにサーッと消えていった。男が消えたそこはただの路地裏だった。ただの夕暮れ時だった。ここへ来てからどのぐらいが経ったのだろうか。辺りはすっかり夕焼けだった。
八尺さんの座っていたところには砂のようなものがあったけれど、それ以外の形跡は何一つ残っていなかった。いや、砂も元々あったものかもしれない。
「サヤカ?」
背後から聞き馴染みのある声が聞こえた。その声を聞いて、ハッとする。私の名前を呼び捨てにする何度も聞いた温かみのある声が私を包み込んでいた。
振り向くとそこには今一番会いたくて、今一番会いたくない人が私の泣き出しそうな顔を見つめていた。
「ダイチ……」
「何してんの? そんなとこで」
ダイチの顔を見て、私の涙腺は決壊し、涙が次々に頬へつたっていった。ミサキの時は流れなかった涙を恨んだ。
「え、どうした? 大丈夫か?」
ダイチはすぐに駈け寄って来てくれて、しがみついた私はその優しさに彼の制服を涙で汚すのだった。
死にたくない。死にたくない。嫌だ。ずっとこうしていたい。止めどなく溢れる大粒の雫を止めることなどできなかった。
お母さんにごちそうさまと言って、自分の部屋へ入った。食欲は湧かず、晩御飯ものどを通らなかったが、これが最後の食事になるかもしれないのだ。私は全て完食した。
窓の外から差し込む光だけを頼りに、ベッドの上に体育座りをした。
今日、八尺さんが消えたあと、ダイチと遭った。部活の帰りだったのだろう。私は泣きじゃくってダイチは静かに待ってくれていた。そのあと話をして帰ったと思うのだけれど、何を話したか私は一部始終覚えていない。
意識はあったけれどその時の記憶はなく、気が付くと家の前だった。しかし一つ確かに確信をもって言えることがあった。それは、私は自分の気持ちを彼に伝えていないということである。
伝えなかった。私はのどに出かかった、たった二文字を意思をもって伝えなかった。
私がどっちの選択肢を選んでもそれは足かせになると思ったから。薄緑であったはずのベッドが、照明が点いていないせいか灰色に見えた。
私は未だ分からなかった。自分の心が何をしたがっているのか、どんな思いでいるのか。選ぶ道さえ決められなかった。
ベッドにほっぽり出したスマホが眩く光って、小さく振動する。大丈夫か? というメッセージがダイチから個人ラインで届いていた。
すりガラスの窓を見つめた。窓の外は光と音だけで何も見えなかった。
「分からないよ、ダイチ」
百パーセントの正直者はいない。これは私の唯一の持論である。
七月十一日 (木)
目覚まし時計の音が聞こえる。もう、朝か。脳に電源を入れ、時計の電源を切った。冷房のタイマーをつけ忘れたようで、空気が乾燥していて喉がカラカラだった。
デジタル時計の時間を見るといつも通り、学校の始業までには十分すぎる時間が表示されていた。何故かこの時間にセットしてしまう。無駄に早起きなんだよなあ、「俺」って。
俺は片手を上に突き上げ、スーパーマンのような格好で伸びをして、そのままのそのそと洗面台へ向かった。頭はまだ回っておらず、オーブントースターのように電源を入れてからしばらくしないと熱が入らない仕組みになっているようだった。
歯を磨き、制服に着替えて、席に着く。このルーティーンといえば聞こえはいい、ご飯を食べる前の日常定石を当たり前に、朝飯前にほぼ無意識でこなし、いただきますと声に出す。
「おはよう、ダイチは朝だけは早いからほんと助かるよ」
「朝だけって。三文ぐらいくれてもいいんだけど?」
母さんが父さん起こしてくるねと寝室へ向かっていくのを、トースターで焼いた食パンにマーガリンを塗りながら見送った。
朝はパン。パンパパン。マーガリントーストをコーヒー四、牛乳六の割合で作ったカフェオレで流し込む。パン、マーガリン、カフェオレ。現代朝食における三文の得である。
適当にかけ、流し見していたニュースでは今日の天気予報が映し出されていた。それによるとどうやら今日の最高気温は昨日よりも二度プラスされるとのことだった。今日も暑くなりそうだ。
食事を終え、身支度が整った俺はまだ寝ぼけ眼の父さんと、父さんのパンを焼いている母さんに、んじゃと声をかけ、家の玄関を後にした。
今日も朝から日差しが強いが、これでまだまだ全力ではないお天道さんには、ほとほと頭が上がらない。そしてそんな太陽から我々を守ってくれているオゾン層様には頭が下がる思いだった。
このまままっすぐ行くのが学校への最短経路なのだが、都会らしさを味わうためか、時計の時間を確認するためか俺は毎朝左へ遠回りして駅の前を通ってから学校へ向かっている。
これこそルーティーンというか癖のようなものなのだが、恐らく俺が早く起きている理由なのだと思った。といってもここで何かをするわけではない。何日かに一回時計台の下で立ち止まって、これから勤務先に向かうため憂鬱そうな人々の顔を眺めることがある。
俺もいつかこういう顔をして、誰かのために仕事をするのだろうと考えるのだ。
今が何時かを確認してそのまま街の大通りを抜けて学校を目指した。
学校での楽しみなんてのは基本的にない。大人になって思うのであろう素晴らしく楽しい友達との日常を、有難みもないほど普通だと思えている今の生活が好きだった。
「お前、もうすぐだけど進路とか考えてんのか?」
休み時間になるとこうやって友達と話すのだ。今目の前にいるのは榎本だった。俺は男子、女子関係なく基本名字で呼んでいた。特に理由はない。
榎本は口数が少ないクールな雰囲気を持つヤツで、高校に入って初めてできた友達だった。一見するとぶっきらぼうだが実のところ面倒見がよく、ボケ気質な点がコイツの持ち味で良さだと思った。
「進路かあ、俺はこのままがいいなあ」
夏休みに入る前に三者面談というだるいのが控えており、そこで生徒は大方の進路希望を出さないといけなかった。名前変えたらいいのに、三者めんどいって。
「このままって。高校で留年はヤバいだろ」
「そういう意味じゃねえよ!」
ボケなのか天然なのか分からない榎本の発言にすかさず指摘する。
「なんかしたい仕事とかないのか?」
榎本はなにやら真剣に将来を考えているようだったが、俺は特に就きたいとこも、行きたいとこもなかった。
ただ、最近ふと考えることがあった。俺が生きているのは偶々なんじゃないかって。誰か知らないやつのおかげで俺は今こうして普通に生きていけているんじゃないかって。そんなことを考える時間が度々あった。
「俺はなんかどっか誰かのために生きられたらそれでいいなあと思っているよ」
「へえー、何それ?」
「いや、何か最近俺は一人で生きているわけじゃないんだなって突然気づいてさ。でも別に大切な人とかもいないから、せめて誰でもいいから力になりたいなって」
榎本は何か言いたそうだったが、言葉を真剣に選んでいるような素振りだった。そこからしばらくして一言だけ言った。
「大切な人、見つけろよ」
迷った末、それかよ! と思った気持ちを押し殺して、そうするよとだけ半笑いで返した。
榎本が次の授業の準備のため席に戻ってから、俺はスマホを開いた。それはメモ用とか、保存用に使っている俺の一人だけのグループラインだった。そこのアルバムの中にある一枚の自撮りをタップする。
それは皆の予定が付かなかったとかで一人で行った遊園地での自撮り写真だった。ついこの前行って帰り際、思い出したかのように撮ったものだが、どこか懐かしさを感じる一枚だった。
「あれ、俺指輪なんか付けてたっけ? (笑)」
観覧車をバックに一人で楽しそうにピースをしている俺はよく見るとかなり気合の入った服装をしていた。衣服は上下ともに一軍のモノであり、髪も少しワックスをかけていた気がする。そして右手には滅多につけない指輪が白く光っていた。
そりゃ、こんだけきめてたらインスタにも載せたくなりますわ。写真からはかなり浮かれていたんだろうという様が窺えた。確かに一人とは思えないほど楽しかったのを覚えている。
「また行きたいなあ、今度は誰かと……」
クラスの、日常風景を見た。大切な人か。
六月二十九日 (土)
逢魔が時。お母さんは夕飯の支度をしていて、私はリビングのテレビ台の前にある白いソファに座っていた。自分の部屋はあるけれど、私は勉強の時と寝る時にしか使っていない。
家にいて起きている間のほとんどはこのリビングで過ごしている。今日は学校もなく、やりたいことも特になかったので、本当に一日中ここにいた気がする。
ダブルピースをしたコアラのマーチのクッションが私のお気に入りだった。
きっとお父さんが仕事から帰ってきて、三人で晩御飯を食べるまで私はこうして贅沢に時間を浪費するだろうと推測した。
私には大切な友達が二人いる。それはとても奇跡的な出会いだと思ったし、貴重なことだと感じている。そんな彼らとの何気ない日々をこうして何でもない時間に振り返るのが好きだった。
出会ったころの記憶から何度も、何度も忘れないように繰り返す。私が初めて彼女と話したのは高校一年生のゴールデンウィーク前だった。
初めてのグループワークが行われ、適当に配属された班に彼女、サヤちゃんもいたのだ。その子は自己紹介をした時から周りの子と何か違うような雰囲気を持っていた。明るく朗らかで、何をしても何となく許してしまいそうな愛嬌が彼女にはあった。
肌はメイクなしとは思えないほど綺麗で、鼻も小さく、爪も健康そうな艶やかなピンク色をしていた。髪は肩下までのこげ茶で、少し癖っ気のあるゆるふわな髪質は彼女の性格を体現しているように見えた。きっと誰もが。私を筆頭に。
そんな彼女と同じ班で、そんな彼女は何やら浮かない顔をしていたのを覚えている。
どうやらペンのインクが無くなってしまったようで、私は我ながら勇気があったなと思うけれど、とっさに声をかけてしまったのだ。
「これ、使います?」
赤ペンを差し出した私に彼女はパアと笑顔になり、その顔を見た私は彼女のために生まれてきたのでは? と錯覚してしまうほど嬉しかった。
「いいの? ごめんね。すぐ返すから、待ってて」
「いえ。インク無くなったんですよね? 私は他にも持っていますから使ってください」
「か、神か……」
私が神なら、いや私が神でなくともあなたは女神だ、と心の中で答えた。
「ホントありがとう! え、えーっと」
「大島美咲です。これからよろしくお願いします」
「ミサキ! ミサキね。ありがとう、ミサキ。よろしく」
それから私は彼女の幼馴染だというダイチくんとも友達になった。彼は吸い込まれそうな程、美しい瞳をしていた。一目ぼれならぬ、瞳ぼれというやつだ。けれど、今ではその瞳も付属品と思えるほど、私は彼の気さくで優しい性格に惚れた。
しかし私が告白することはなかった。サヤちゃんがいて、私が出る余地なんてないと思ったし、二人といられるこの空間が好きだったから。
男の子を下の名前で呼ぶことに若干の抵抗感があったけれど、彼が会ったときから一向に下の名前しか教えてくれなかったのだから仕方ない。彼の上の名前を知った時には既にダイチくんが定着していた。
ゴールデンウィークも、夏休みも、冬休みも私たちは三人で、遊んだ。ダイチくんの部活もあって、普通の休みの日に遊ぶってことはあまりなかったけれど、大きなイベントの時には集まって思い出を大きくしていった。
「ダイチ! どうする?」
「な、なにが?」
「進路。さっきの時間先生が言ってたじゃん」
これはこの前の生産性のない大切な思い出だ。私たちは休み時間は大抵サヤちゃんの席に集まって会話をしていた。といっても二人が話して、私はそれを見守るのがポジションだった。二人の会話はテンポがよく聞いているだけでもとても楽しかった。
いつからか私の口調は敬語ではなくなっていた。そんな些細な自分の変化も嬉しく思えた。何でもない日常の風景が幸せを運んでくれていた。
「ミサキは? 将来とか何かある?」
サヤちゃんはこうやって時々私に話をふってくれた。私は二人を見ているだけで満足なのに、ちゃんと私のことも気にかけてくれている。そりゃモテるよねと感心してしまう。
私はしばらく考えて、そして小さく答えた。
「……結婚とか?」
「えーマジ? 大島、誰かいんの?」
私の発言に二人ともテンションがあがったようで、面白い笑みで騒いでいた。
「いや、いないよ。そこまでちゃんと考えているわけじゃなくて、まあ結婚って一つのゴールかなって」
「そうだよねえ。最近晩婚化があるみたいだけど、私も付き合うなら結婚前提に付き合いたいかなあ」
サヤちゃんは何だか想定があるような口ぶりをしていて、私はサヤちゃんのお相手が誰なのか頭の中を覗いてみたくなった。
「えーでもさあ、結婚のために付き合うわけじゃないだろ?」
「ん? 結婚のために付き合いますけど? 遊びなんて無理だから」
「いや、そうじゃなくて、結婚のためにそいつといるわけじゃないだろ?」
まあそりゃそうだけど、とサヤちゃんは口ごもった。ダイチくんは続けて語る。
「結婚ってのは大島も言ったように一つのゴールかもしれないけれど、それはイコール目標じゃない。世の中にはゴールイコール目標のモノだって沢山あるけれど、俺は好きだから付き合いたいし、一緒にいたいから告白したい。そしてその先に結婚があればいいと思っている」
何かをする上で、どこに重点を置くかを混同することがある。何のためにそうしているのか、そうしたいのか。そんな時にダイチくんの考えは一つの指針になってくれる気がした。
「ん? ゴールは目標でしょ。どういうこと?」
サヤちゃんには伝わらなかったようだ。
「えー? んーと、例えばジェットコースターに乗るだろ?」
「うん!」
「いい返事だな。で、ジェットコースターにはゴールもあって、俺たちもそこに向かっている。だけど、ジェットコースターに乗ったのはそのためじゃないだろ? その過程を楽しむためだ。な?」
「なるほど、分からん」
「……もう、サヤカは分かんなくていいや」
どうやらゴールと目標が違う論争はサヤちゃんの勝ちに終わったようだった。うなだれたダイチくんが助けを求めるように私の顔を見た。私はその顔に苦笑いを返した。
「よし、じゃあ分かるために来週の日曜、三人で遊園地に行こう!」
その発言に今度は私が助けを求める顔をダイチくんに向けた。
「おい、サヤカ。大島は高所恐怖症だから無理だろ」
「あ、あ、そうだった。ごめんミサキ」
「いや、いいよ。ていうか気にせず二人で行ってきて」
フリフリと両の手を左右に振る私に、二人はその提案を却下した。
「いや、俺は二人で行くより三人で話す方が楽しいから、そっちこそ気にすんな」
「そうだよ、こんなのと二人で遊園地なんて、どんな拷問?」
「おい、こんなのっていうな」
「拷問の方はいいんんだ(笑)」
――――――――――
私の大切な三人だけの思い出。一生忘れることはないでしょう。夕日が窓から差し込み、私の顔をオレンジに染め上げる。ぐつぐつというおいしそうな擬音語が台所から響く。どうやらもうすぐ晩御飯ができあがるようだ。私はお母さんに笑顔を向けた。
私の一生はもうすぐ終わりを迎える。
六月二十七日 (金)
逢魔が時。それはこの世のモノではない者と出会うかもしれない時間。
いつもは朝、待ち合わせをして三人で登校しているけれど、今日はサヤちゃんは学校をお休みしていた。だから私も今日は一人で帰ることになったのだ。私は元々友達が少なかったからサヤちゃんが友達になってくれたこと、改めて有難く思えた。
一人での帰り道。
私が二メートル越えのスーツの男、八尺さんと出会ったのはそんな夕日色に染まる正しく逢魔が時の時分であった。
「初めましてですね、ミサキさん」
その男は人間離れした長い手足を携えており、八尺の名に相応しい容姿をしていた。
「あなた、八尺さん?」
「おや、初めましてなのに私のことをご存じで? いや、私も有名になりましたなあ」
八尺さんはニコニコと嬉しそうに笑った。
「ええ、人の魂をいただく妖怪だときいております」
「ほう、それは中々結構。少しお話しませんか?」
八尺さんは笑顔のまま、そこらの何かに腰を下ろし、私にも座るよう促した。けれど当然私は立って話を聞くことにした。座ってゆっくりするほど、心を緩められる状況ではなかった。
そこから私は八尺さんからこの世界の仕組み、八尺さんの仕事を聞いた。八尺さんたちに殺されるとその人の記憶が消されること。私の周りでも多くの者が亡くなっていること。ランダムで選ばれた当事人とそれに近しい人物である請け負い人、どちらかが死ぬ必要があること。
そしてそれが今回はサヤちゃんと私であることを私は聞かされた。
「そっか」
「おや、あまり取り乱してくれないんですね。少し、残念です」
説明を終えた八尺さんは私のそっけない返事に対して本当に悲しそうに俯いた。きっと人の悲しむ姿を見るのが生きがいなんだろう。
「私はあなたに会ってしまった時点で、既に自分の死を悟っていました。だからいまさら何も怖くありません」
確かに何故私はこんなにも死に急いでこの、世にも理不尽な現状を受け入れているのだろう。ただどこかで私はすぐ死ぬのではと、いつからか思っていた。
私は静かに息を吸う。少し乾いた空気が喉の奥を揺らした。もう梅雨は終わってしまったのだろう。夏を感じさせる空気は未来を彷彿とさせる。
「それにその死が私の大切な友達を助けることになるのであれば、選ばないという選択肢はありません」
私の心からの言葉だった。サヤちゃんは私に日常をくれた。彼女が生きていなければ、私は生きていなかったかもしれない。徐に目を閉じる。フラッシュバックなんて起こさない。だって思い出はいつも脳裏に染みついているから。
八尺さんは顔を起こし、首をかしげ声を落とした。
「何を勘違いしているのですか? ミサキさん。あなたに選択肢なんて端からありませんよ」
「え、」
私の思考が、思い出がストップする。フルカラーだったビデオがセピア色に色あせていく。
「何故? どういう……」
「確かに、サヤカさんは当事人でした。しかしそれは今回ではない。十年ほど前ですかね。彼女は当事人で、その時の請け負い人は彼女の父親でした。その際に彼女の父親は身代わりとなって死に、彼女は何も知らないまま生き残ったのです。
ですが、今回は違う。今回は彼女が請け負い人で、当事人なのがあなたです」
その時スマホが鳴動した。それはラインを知らせる通知だった。サヤちゃんからのライン。私に告げたメッセージ。
「そして、請け負い人であるサヤカさんは残念なことに、あなたを見殺しにすることを選んだんです」
八尺さんはあざ笑うように私を見つめ、口元を緩ませた。
「あなたに選択肢なんてありませんよ」
サヤちゃんからの通知画面には『ごめんね』『死んで』と表示されていた。
「おや、浮かない表情ですね。友達に殺される気分というのはどんなモノなんですか? まあ仕方ないでしょう。人間はそういう生き物ですから」
八尺さんは楽しそうに笑った。ここは明かりの届かない薄暗い路地裏で、まるで今までの私の人生のようだった。いや私の住処そのものだったのだろう。
「でも、そう落ち込まないでください。どんな生き方をしても、どこで生まれ、どう育ち、何歳まで生きられたとしても人は必ず死ぬのです。
人それぞれの願い、生き方はあれど、締めの言葉は必ず『ように』で終わる。そうやって人は死ぬために生まれてきたのです」
ここは明かりの届かない薄暗い、私の住処。だったけれど、そんな場所にいた私にも明かりを届けてくれたのがサヤちゃんだった。楽しい生き方はいくらでも、毎日のように転がっていると教えてくれたのがサヤちゃんだった。
私はサヤちゃんのラインに「いいよ」と送った。
「八尺さん、勘違いしないでください。サヤちゃんは生きようとしただけです。私を見殺しにしたわけではありません。私を殺すのはあなたです。
私は元々死ぬ予定だった当事人なのでしょう? だったら予定通りじゃないですか。サヤちゃんに無駄に悩ませたかと思うと申し訳ない」
私は八尺さんを笑って真正面に見定める。左目から一筋の涙が無意識に流れた。彼女のために流れた涙を私は誇らしく思う。八尺さんは押し黙っている。私の思い出が再稼働を始めた。繰り返し、繰り返し見てきた光景。私の大好きな人たちとの会話が円を描くように流れていく。
「人は必ず死ぬ。それは正しいことだと思います。どんな生き方をしたとしても、どこかで必ず終わりを迎える。けれど、そんなことはどうでもいい。
人生はジェットコースターだ。ゴールは必ずあって、私たちはそこへ向かって進み続けている。けれど、私たちがジェットコースターに乗るのはゴールへ辿り着くためじゃない。その過程を楽しむためだ! 私たちは死ぬために生まれてきたんじゃない! ゴールと目標は一緒じゃない!
私はサヤちゃん、ダイチくん。二人のおかげでとても楽しいジェットコースターに乗れた。三人で乗れた。出会えてよかった大切な友達」
八尺さんの笑顔は消えていた。きっと彼も戸惑っているのだろう。ゆっくりと口を開き、言葉をつなげた。
「なるほど。ただ、あなたの記憶は二人には残りませんよ」
「いいよ。私は一生覚えているから」
手が震える。私の言ったことはちゃんと本心のつもりだったけれど、心はやっぱり死ぬのが怖いらしい。まだあった心残りがまだ生きたいと揺らしているのだろう。
「サヤちゃんが、死ぬことを選ばなくてよかった。サヤちゃんが生きてくれて私は本当にうれしい」
八尺さんは驚いたような顔をして、そうですかと一言呟いた。
「最後に未練などはございませんか?」
その質問に私は再度考えを巡らせた。そりゃこの年だ、ないわけではない。ただ色んな考えが浮かび、どれが一番の未練かなんて分からなかったので、一番何気ない日々の一ページを抜き取ることにした。
「サヤちゃんから借りてた漫画、返してないや」
赤く広がる路地。人々がそれぞれの家へと帰る足音。私の命は明日の十二時までらしい。それまでにやり残したことはやっておけと言って八尺さんは消えていった。
けれど、私は漫画を返すつもりはない。私はそれからいつも通り家へ帰った。みんなと同じように帰った。帰ってお母さんとお父さんと一緒にご飯を食べた。
心は震えていたけれど、頭はまだ死ぬという実感が湧いていないようだった。きっと明日は何もしないだろう。何もせず、今までの事を思い出すのだろう。そしてこれからのことを願い、死んでいくのだろう。
サヤちゃんやダイチくんが私のことを忘れても、いつかのための痕跡をいくつか残しておきたいと思った。その一つが漫画だった。明日は何時に起きようか。何を食べようか。
私が生まれてきた証。どこにでもあるような日常の残影。そういったモノが私を形作ってくれていたらいいなと、私は心から願った。
私はこれからも忘れない。私を形作ったモノ、私と一緒にいてくれた人。私は彼らのおかげでこれまでの日々を生きていた。