インフォデミックの怪物たち

中編/城輪アズサ

 

「楽器と武器だけが人を殺すことができる」

──井上敏樹『海の底のピアノ』

 

 ──それがいつのことなのか、もはや誰も言い当てることができない。

 東京、渋谷、スクランブル交差点。溶けかかったアスファルトの上を、ギターケースを抱え、背中を丸めたその男は歩いている。首を前に突き出し、視線をさまよわせながら。

 ふと、その眼が上を向く。ビルに取り付けられた電光掲示板、巨大なスクリーンが彼の眼いっぱいに映し出される。

 瞬間、無数の『情報』が彼を貫いた。

 画面にはニュース・キャスターが映し出されている。それは男であり女であり老人であり子どもであり熊であり犬であり猫であり、そのどれでもなかった。語られる言葉、それを紡ぐ声も同様だ。あらゆる情報が一つの平面の上に同時に投射されていた。安っぽいナイトショーの亡霊(スペクター)でも、ここまで混沌とした表象にはならないだろう、と男は歎息する。だがそれは、今や彼らにとって唯一の現実なのだ。

 

 男は何とはなしに、再び視線をさまよわせ始めた。今度は水平方向、真横に向かって。それで、交差点を横切る人々の顔が彼の網膜に焼き付けられる。──全き鏡像の群れが。

 行きかう人々。見えるすべての人影。揺らめく蜃気楼のように、あるいは陽炎のように見えるその群衆は、一様に彼と同じ顔をしていた。無論それは何かの演出ではないし、精神疾患の類でもない。脳の器質的な障害でもなければ、他愛のない妄想でもない。それは一つの現実だった。

 インフォデミック、という言葉。それはひとしきり消費された後で、意識されることもないほどに浸透した、いま・ここの現実を指し示すただ一つの言葉だった。

 情報災害。大破局。真実の時代の終わり。これまでに存在したあらゆる語彙を動員して、その現象は言い表され──そしてどれもが「汚染」されて消えた。今やどこにも、確実に言い得る情報はなかった。西暦でさえも、もはや定かではない。

 古いSFの言葉を使えば、マザーコンピューターの暴走、ということになるだろう。

 すべてが予測され計画され制御され得る、情報環境の肥大とともに、母(マザー)の領域は拡大し──そして朽ちた。都市や文明といった人間のための母胎(マトリクス)のごときものが隅々まで情報化されゆくかたわらで、その情報は絶えず学習され模倣され、伝染していくようになった。ウイルスとしての情報。ハードもソフトも、そしてそれらを感受する人間も、ひとしなみに倦ませるコードの連なり。それが世界を覆いつくすのに、そう時間はかからなかった。

 かくして世界は情報で覆われながら、汚染された。身体を覆い、デジタルに拡張するデバイス──統合装環(オーグメンテッド・リンカー・デバイス)(AL)──によって、人そのものの情報化が達成され、あらゆるプライヴァシーが大企業体のデータベースと紐づけられるのと時を同じくして、あらゆる個人情報の価値は暴落した。

 ──それが、この風景だった。複製され拡散する「固有の」顔。放埓に分裂した亡霊めいたニュース。誰も止める手立てをもたないまま、しかし、世界は辛うじて均衡を保っていた。

 

 男はため息をつき、首筋を軽く叩いた。それでALの電子防護衣が起動し、彼の頭部をすっぽりと覆っていく。コールタールのような、黒々とした面が彼を覆い、彼を隠匿し、それゆえに彼を彼たらしめる。束の間、表面に「社会の敵」という名前が表示され、何者であるかが提示される。当然、それもコピー可能な情報の連なりでしかない。それに、彼の顔のコピーが消失した代わりに雑踏に立ち現れたのは、同じ防護衣を身に着けた人の群れだ。

 本名は、都市に『棲む』多くの人々がそうであるように、とうに捨てていた。コピーされてもなお残り続ける、制御不可能な「自分の」暴力性。報復感情。怒り、憎しみ。そうしたすべてを込めた名前で自己を規定することで、辛うじて彼は世界と繋がっていた。

 

 楽器をはじめて買ったのはいつだったか。「社会の敵」は、時折そんなことを考える。

 プログラマーだった兄の部屋、今はもう誰も戻ることのないその部屋から拝借したエレキギターが、初めての楽器だったことは覚えている。同じ部屋から、同じように盗み出したバンドスコアに掲載されていた曲を一心不乱にコピーしているうちに、気づけばこんなところまで来てしまった。すべてが予測され制御され複製されうる、そんな世界に。

 すべてはコピーから始まった。型を覚え、指を動かした。皮が擦り切れ、血が滲んでもなお弾きつづけた。どこの誰とも知れない曲、ダークウェブに転がっている無数の匿名者たちの音楽を飲むように享受しながら、自分とは何の関わりもない人々の、何の関わりもない記譜を身体にしみこませた。「社会の敵」にとって、すべては借り物だった。金の伴わないすべては、漠とした記憶の中でいつまでも輪郭を結ぶことなく漂い続ける。

 だから、買ったことが重要なのだ。雑踏を抜け、裏通りを歩きながら、「社会の敵」はそう思う。首都直下地震の後、被災した大人口を収容するために外資を受け入れながら、歪な巨大なシェルターとして「再開発」された、いつか・どこかの渋谷。違法建築の混淆する、つぎはぎの高層建築群──二〇世紀末の東南アジア、あるいは上海のような景観の中に、思索が溶け出していくようだった。ぼろぼろのスニーカーは、染み出した水を四つ打ちのリズムで跳ね飛ばしていく。

 コピーではない体験。この身体、この記憶を規定するに足る、ただ一つの、たしかな質量をもった固有の体験。それが必要だ。だがその手がかりは、他の記憶がそうであるように、曖昧な霧の中に融けて、形になることがない。

 

 気づけば、「社会の敵」は歌を口ずさんでいた。兄の好きだった歌、兄が部屋にため込んでいた歌だ。黒い覆いの下で響く歌声は、三層構造のフィルターを通して外に放出される。増幅・調整された声。まがいものだ、と彼は思う。彼自身は切っているが、ALには自動でピッチを修正する機能が標準搭載されている。何気なく口ずさんだ歌を「商品」にするためのシステム。……否、それは、そこまで生易しいものではないのかもしれない。それは個人にとっての歌を「公害」にしないためのシステムなのだ。男は考える。聞くに堪えない歌、つまり不格好な「情報」は今やひとしなみに「害」なのだ、恐らくは。全世界を覆う「汚染」が手つかずであるかたわら、個人レベルの「汚染」は徹底して抑制される。そのようにして、この都市は成り立つ。

 「社会の敵」はわずかに歩調をゆるめた。急ぐ必要はない。「それ」を、たしかに遂行することが肝心なのだ──。

 

 男はVV型脳波操作で、ALによって拡張された視界にウィンドウを表示させた。公共データ・クレンジングのサービス圏外であるため、そこに表示される情報もまた、ノイズがはしり、複数の情報が混淆する不確かなものだったが、それでいい、と彼は感じていた。

 二〇二四年(三〇四三年)、七月七日(十三月七六日)、天気:晴れ(落雷)。暑いわけだ、と「社会の敵」は思う。なぜかは分からなかった。七月、という情報を信じたからかもしれない。しかし七月とは暑いものであったのか?

 男は歌っている。そのたびに喉が開き、口腔がほぐれていくように感じられる。都市の静謐が、そのかすかな声によって束の間震えている。

 

 ──ふと、男は足を停めた。進行方向に人影を見たからだ。

 それはグラス・グリーンの防護衣をまとった二人組だった。手には銃を持っており、面は「社会の敵」の方へ向いている。ALの拡張表示が「特高警察第三セクター」の名を示していた。秘密警察だ。

 特高。その名に、「社会の敵」は身をこわばらせた。露見したか、そう思うが早いか、二人組のうちの一人が口を開いた。

「おい、おまえ」

「……何でしょう?」

 歌うことを止め、「社会の敵」はつとめて冷静に応答した。

「どこへ行こうとしていた?」

「なんなんです、あんたたちは?」

 質問に質問で返す。特高の束の間のいらだちを敏感に察知しつつ、「社会の敵」はわずかに後ずさった。

「特高警察だよ。まさか知らんわけじゃあるまい」

 言い、片方が一歩、男に接近した。「社会の敵」は便宜上、それに「一号」と名を付けた。一号は二歩、距離を詰める。

「……この先は幻塔区域(ガダス・ナハト)だ。第五期臨時政府の二級セキュリティ・クリアランスのない登録市民が立ち入ることはできない」

 幻塔区域(ガダス・ナハト)。ランドマーク、およびデータ・センターとして機能する有人企業群の密集するブロックだ。

「抜け道なんですよ……どうにか通しちゃくれませんかね」

 言い終わるが早いか、今度は二号が口を開いた。

「とぼけるな。目的は分かってる。国立競技場だろう」

 「社会の敵」は目を見開いた。

「国立競技場……インフォデミック以前、震災以前の夢の跡。あらゆる資本、あらゆる疎外者(マージナライズド)たちが流れ着いた、首都東京の排水溝──。『ガダス』の中枢に君臨し、『ガダス』の増殖・肥大を補完するクリティカル・ポイントだ」

 国立競技場は、震災後の「再開発」において最も苛烈に開発された建造物であった。空中に、地下に、あるいは水平方向に、資本の許す限り肥大したそれは、いまなお肥大を続け、当局が把握しているだけでも五〇〇近い階層によって構成されている。居住区であり歓楽街でありメトロポリスであり、同時に郊外でもある空間。かつて一世を風靡したゲームになぞらえて「土管」と呼ばれる、情報・物資・人体を輸送する大型パイプが張り巡らされていることで、体積以上の収容能力をもつに至ったそこには、五〇〇〇万近い人間がひしめきあっている。そのため、外部者の立ち入りは今や厳しく制限されていた。出産・『生産』による内部人口の増加率を鑑みれば、到底移住希望者を受け入れることはできないのだ。

 

「移住希望者を疑っているようでしたら、お門違いですよ。そりゃ俺は無頼者ですがね、これでも生活があって、帰る場所もある。誰が好き好んで、『ガダス』なんかに行くもんか」

「──テロが目的なら、どうだ?」

 一号の言葉に、「社会の敵」は押し黙った。もはや彼は、紡ぐべき言葉をすべて失っていた。

「おい、そこまではまだ……」

 二号が手で制そうとするのを押しのけ、一号はさらに一歩踏み出した。そして口を開く。薄闇に充たされた裏通りの静謐が、激しく震える。

「『土管』を介して生物、ないし化学兵器を散布すれば、まあ、ゆうに中核都市一つ分の人口は消せるはずだ。無論セキュリティ・システムは構築されちゃいるが、そんなものが見せかけにすぎないことくらい、その方面に明るけりゃ誰だって知ってることだろう」

 インフォデミック以後、あらゆる集積回路の作り出すシステムは有名無実化した。無数の、不可視のセキュリティホールが穿たれたシステム──それはただ、まだ破綻していない、という理由で留め置かれている。

「とはいえ、特高も馬鹿じゃないんでな。独自のシステムを構築して、未来における犯罪を事前に察知できるようにしてるんだ。簡単に言えば、データログの網目を自動処理してやることで、目立つ動きをする奴をピックアップできる」

 プライヴァシーはどうした、と言いかけて、「社会の敵」は言葉を呑み込んだ。そんなものは度重なる改憲によってとうに失効している。

「……で、つい先日、ALの情報感知野──外的現実に対するセンサーだな──こいつをどうこうするプログラム・コードが、とある個人サーバーで構築されたって情報が上がってきた。うまく隠して作ってたみたいだが、制作に必要な情報の取得過程も、全部ログ取られてるってのには鈍感だったみたいだな」

「…………」

「ALさえ無効化しちまえば、あらゆる警告は意味を失う。そうなれば、避難も防御も不可能──あとは簡単だろう。半島のごたごたに乗じてガス兵器でも密輸して解放すりゃ終わりだ。世紀の大虐殺──犯罪史の編纂がまだ有効なら、間違いなく名を遺せるだろう。なあ、そろそろ腹割って話そうや。その背中の武器を抜かせたくはない」

 

「……待て」

 ふと、「社会の敵」が口を開いた。それでじりじりと距離を詰めつつあった二人は立ち止まる。

「なんだ?」

「ガス兵器だと?」

「……別に生物兵器でもいいぜ。なんだっていい、重要なのは──」

「そうじゃない」

 言い、「社会の敵」はため息をついた。それは心底落胆しているような身振りだった。

「避難だの防御だの、挙句の果てには虐殺だの──全部くだらない」

「ああそうさ、たしかに下らん。だがそれを取りしまるのが──オレたちの仕事だ!」

 叫び、二人は同時に地面を蹴って飛び出した。

 瞬間、いくつかのことが立て続けに起こった。

 まず、「社会の敵」が背中にかけていたギターケースを身体の前で開け、次いで、二人が軍用規格のALの拡張機能をアクティベートした。面にカメラめいた単眼が浮かび上がり、フィルターの機能が更新される。それにより、外的現実の情報に対する感度が乗数的に高まり、各種大量殺人兵器に対する防護機能が付加された。だがそれが終わった次の瞬間には、「社会の敵」はすでに攻撃を完了している。

 ギターケースから取り出したエレキギター──無線で男のALのスピーカーと接続しているそれを、彼は力いっぱいにかき鳴らした。

 反応は激甚だった。特高の二人のALは音響兵器を想定していない。防弾をはじめとする各種防御機能にリソースを割いているせいだ。そして極めつけに、情報感度は高まっている。

 結果、数百倍に増幅された音響によって、二人は失神した。そのまま前のめりに水浸しの路面へ倒れこみ、動かなくなる。

 

「…………」

 男は二人を一瞥すると、ギターをしまい、駆けだした。もはや一刻の猶予もなかった。すぐに計画を実行しなければならない。

 走り、走り、「社会の敵」は幻塔区画の、墓碑めいた無数の電波塔を縫い、二〇六番目の入り口にたどり着いた。地下鉄駅の入り口にも似た簡素な通路だ。彼方に、不出来な針金細工のように歪に肥大した国立競技場の「本体」が見える。

 「社会の敵」は入口すぐの側壁から「土管」に身体をうずめると、あらかじめ策定したルートで所定の階層、所定の「部屋」まで到達する。

 そこはただ白い空間だった。あらゆる階層と階層の間隙に存在するそこは、無数の「土管」がその身を接する部分である。

「……さて」

 「社会の敵」はチューニングを始めた。それからALを操作して音源をスタンバイさせておくと、ケースからマイクを取り出し、組み立てる。そして軽く発声してから、改めて口を開いた。

 ──歌が響いた。

 『ガダス』の床と言わず天井と言わず、あらゆる領域にそれは染み出していった。ぎりぎり不快感を覚えないほどの轟音。クリーンなエフェクトが郷愁と感傷を誘う、どこか・だれかのロック・ナンバー。

 無論、それは彼の歌ではない。まがいものだ。けれどそれを成り立たせる情感は──「敵」としての自覚は、まぎれもない本物だった。

 「社会の敵」は歌う。抵抗を。解放を。夢を。爆弾を。凶器めいた生のすべてを。今はもうないすべてを。その響きが、この世界に風穴を開けることを祈りながら。砂糖菓子の弾丸で、想像の弾丸で、現実を撃ち抜くように。

 歌は時折極端に語数の多いものになったり、奇妙に儚いものになったり、変拍子になったり、媚びを売るようなものになったり、ぞっとするほど身も蓋もないものになったり、根底を突き崩すような雑音になったりした。際限のない模造が、ばらばらの断片たちが、それ自体一つの音楽として、世界を満たしていた。

 

(なあ兄貴、聞いてるか)

 「社会の敵」は思う。

(これが、これこそが──)

 指が弦を弾く、汗が飛び散っていく。

(俺たちの──)

 ふと、ひときわ大きな音が響いた。それはドラムよりも強力で、エレキギターよりも凶悪で、シンセサイザーよりも先鋭で、ヴォーカルよりも身も蓋もない──銃声だった。

 ぐらり、と「社会の敵」の上体が揺れた。一撃死。心に、心臓に穴を開けられた男は、そのままむせ返りそうなほど白い地面に倒れこんだ。

 それを確認すると、アサルト・ライフルを身体の前で構えたその男──グラス・グリーンの防護衣を着ている──は、無表情のまま、死体の処理を始めた。ALを切除し、内臓データをすべてコピーし本部サーバーへ送った後、死体を薬品で処理する。四分三十二秒。軍用規格のALは、所要時間をそのように評価し、この情報もまた本部サーバーへと送った。

 「社会の敵」の身体を貫通し、壁を穿った銃弾。その弾痕は、さながら眼のように、部屋のすべてを視ているように見えた。

 ふと、『ガダス』が揺らめいた。地震か、とその男は思う。しかしなかなか収まる気配はない。

 それがざわめきであると気づくのに、そう時間はかからなかった。

 『ガダス』がざわめいている。響いている。これは、これは──。

(まるで)

 声と声が重なり合っている。高音が、低音が、重音が、腹の底から突き上げるようにして、響き渡っている。

(歌、だ──)

 男はそれが止むのをひたすらに待った。気が触れてしまいそう──否「感染」してしまいそうだ、と心の底から思ったからだ。情報に、情感に、無関係でいるのは恐ろしく困難だった。むき出しの耳が、音を排除することはできない。

 ──歌はまだ、響いている。