Black dog

長編/菊田みやび

 

 ワイヤレスイヤホンからは、周りの音をかき消すくらいの『ニュー・ローズ』が流れている。ザ・ダムドとは中学生の頃からの付き合いだ。

コンクリートの階段を上りながら、奈津はふと「笑われやしないかな」と思った。

 二年生になってから、サークルに参加したいだなんて。

 ぽかぽかと暖かい外の空気は、屋内なのか屋外なのかよく分からない文化体育館の中にも満ちていた。うららか、という言葉がぴったりな陽気である。

 

『軽音楽部』と書かれたプレートの下がった部屋の前に立つ。

 そこでイヤホンを外して、ようやく奈津はドアの向こう側、部屋の中から何やら音が漏れ出ていることに気がついた。

 規則的なリズム。

 どうやら誰かがドラムを叩いているらしい。

 何はともあれ留守でなくてよかった、と思いながら、奈津はがらりとドアを開けた。

「すみませーん」

「わっ!」

 ドラムセットに向かっている、金髪の女の子が一人。

 奈津の声にぴたりと手を止めた女の子は、耳まで真っ赤にして、ぱっちりと見開いた目で彼を見た。

「……『ちーちゃん』?」

「……あ、えと……」

 ドラムスティックを両手でこねくり回しながら、女の子──ちーちゃんは、真っ赤な顔で俯いている。

 奈津はくすくすと笑いながら言った。

「俺、奈津。片桐奈津。ゼミ、一緒じゃん。あと、人類学概論の講義も」

 ちーちゃんはようやくはっとした顔をして、嬉しそうに奈津を指差した。

「あっ、『なっちゃん』だ!」

「そう、なっちゃん」

 

 初めて会ったのは、四月の演習の時間である。そのときに奈津は、初対面のちーちゃんに「なっちゃんって呼んで」と頼んでいた。渋るちーちゃんに「じゃあ俺、ちーちゃんって呼ぶから」と言い、なんとか頷かせたのだ。

 奈津はにこにこ笑いながら、部室に足を踏み入れた。

「ちーちゃん、軽音だったんだね」

「うん……なっちゃんは、入部希望?」

「今のところ、その予定」

 ちーちゃんがドラムスティックを持ったまま、とことこと歩いてくる。

「あ、部活のチラシ、もらったことある?」

「ううん、ない」

「じゃ、あげる……」

 差し出されたチラシを受け取ると、ふわりと煙草の香りがした。

 ちーちゃんは、いつも煙草の香りがする。それがなんだか大人っぽくて、奈津はこっそり気に入っている。

「これから、時間ある? 先輩来るまで、もちょっとかかるから……」

「分かった。ここで待ってていい?」

「うん、いいよ」

 こっくり頷いたちーちゃんは、隅から椅子を引きずってきながら

「ここ、座っていいよ」

と奈津に言った。

「いいの? じゃあ、失礼して……」

 奈津が椅子に座ると、ちーちゃんもその横に椅子を持ってきて座った。

 そのまま、二人して黙り込む。

 

「……なっちゃんは」

 耳鳴りがするほどの沈黙を破ったのは、ちーちゃんのちょっと掠れた声だった。

「……す、好きなバンドとか、ある?」

「好きなバンド?」

「そう。なかったら、アーティストとかでもいいんだけど……」

 奈津はちょっと笑いながら、「パンク・ロックのバンドとかが好きかな」と答えた。

「ちーちゃんは?」

 ちーちゃんはちょっと気恥ずかしそうに俯いていたが、答えが返ってきて安心したのか、ほっとしたような表情で顔を上げた。

「えっと、ツェッペリンが好きで……あたしもロックは好きだよ」

「ツェッペリンかあ。俺もたまに聞くけど、かっこいいよね」

 奈津が言うと、ちーちゃんは嬉しそうにこっくり頷いた。

 ツェッペリン、といえば、イギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリンのことだ。

「ジョン・ボーナムが好きなの?」

 ふと、聞いてみる。レッド・ツェッペリンのドラマーは、世界的に有名な人だ。ドラムを叩いている人間なら、多分、誰でも知っている。

「うん。あたし、ボンゾに憧れて軽音入ったんだ」

 ちーちゃんは照れたように笑った。

 八重歯が覗く。なんだか、可愛い。

と、廊下の電気がぱっとついて、ぱたぱたと足音が近づいてきた。それから間もなくドアが開き、赤髪にパンクファッションの女性が入ってくる。

「お疲れさまでーす。お、千恵ちゃんもう来てたんだ。その子誰?」

「あ、先輩。この人、入部希望です」

 金髪をほよほよさせながら、ちーちゃんは先輩のほうに駆けていった。

「どしたらいいですか」

「あ、そうねえ……私から部長に連絡しとこっか? とりあえず今日は、見学ってことで。また説明とか書類渡したりとかするから、連絡先だけ聞いといてもらっていい?」

 ちーちゃんはこくこく頷いて、またとことこと奈津のところに戻ってきた。

「えっとね……ひとまず今日は見学だって。ラインだけ交換していい? また書類揃ったらお知らせするから」

「もちろん、いいよ」

 そのまま連絡先を交換し、奈津はちょっと見学してから家に帰ることにした。おそらく来週には入部できるだろう、と思いながら。

 

 しかし、翌日の朝にはちーちゃんから連絡があり、その日の放課後には、奈津は軽音楽部の部員になっていた。

 それからまた、ひと月。もうすぐ夏がやってくる。思いのほかすんなりとサークルに馴染んだ奈津は、毎日のように部室を訪れた。そして、来るたびにちーちゃんの姿を見た。

 ちーちゃんは誰もいないときだけドラムを叩いて、人がいるときは隅っこで丸くなって、サークルの人たちと話したり楽譜を見たりしている。

 

 その日の放課後は、奈津とちーちゃんしかいなかった。

「なっちゃんは、どうして音楽やろうと思ったの」

 ちーちゃんがドラムスティックを両手で弄びながらぽつりと呟いた。

「やっぱ、ギターかっこいいから?」

 奈津は「うーん」と言いながら目を逸らした。

 なんと言えばいいものか。

 幼馴染の女の子がギターを弾いていたことは、とても口には出せなかった。そのままうっかり、言わなくてもいいことまで口にしてしまいそうだった。

 ちーちゃん、その子にそっくりなんだ。

 文化祭のステージでバンドの演奏を披露するから見にきてねと嬉しそうに笑っていた、ひとつ上の女の子に。

 文化祭の前日にトラックにはねられて死んだ、初恋の人に。

 あの子がお姉さんぶって「なっちゃん」と呼ぶ声がいやにくすぐったくて、でも心地よくて、好きだった。ザ・ダムドを教えてくれたのも、その子だ。

奈津は少しだけ言葉を探して、色褪せたギターケースに目を落とした。

「……幼馴染がギターやってたんだ。お下がりのギターもらって、せっかくだから、って……」

 ギターケースをポンと叩くと、ちーちゃんは興味津々な様子で身を乗り出す。

「お下がり? どこのギター?」

「うーん、ちーちゃんこれ知ってるかなあ」

 やや錆びついたファスナーを開けて、ギターを取り出す。

「わっ、これ知ってる! ギブソンのレスポールだ!」

「へへ、これぞエレキギター! って感じでカッコいいでしょ」

 使い古された、赤いレスポール・クラシック。

 奈津にとっては、生涯超えられない恋敵だ。

 憎いけれども、手元にある、あの子のたったひとつの形見である。

「やっぱ、ジミー・ペイジみたいに低く構えるの?」

 ジミー・ペイジはレッド・ツェッペリンのギタリストだ。

「あれやったら、ハイポジションがめちゃくちゃ弾きにくくなるんだよね」

 ジェスチャーでギターを構えながら、奈津は口をへの字に曲げた。

「元々パンク・ロックが好きだったんだ。ザ・ダムドって知ってる? ロンドン・パンクの中じゃ、三大パンク・バンドのひとつって言われてるくらい有名なんだけど」

「うーん……あたし、パンクはセックス・ピストルズしか知らない。三大パンク・バンドってどんなの?」

「セックス・ピストルズにザ・クラッシュ、それからザ・ダムドだよ」

「ザ・クラッシュは初めて聞いた」

 奈津が言うと、ちーちゃんはぱっちりと目を見開いた。

「じゃ、次、ちーちゃんの番。どうしてドラムやろうと思ったの? やっぱり、ジョン・ボーナムの影響?」

 ちーちゃんはちょっと首を傾げて、困ったように唸った。

「んー……ううん。ボンゾを好きになったのは、ドラム始めたあとなの」

 じゃあ、どうして、と聞くよりも前に、ちーちゃんは次の言葉を探すように俯き、ちらりと奈津の顔を見上げて、それからまたすぐに視線を足下に落とした。

「……あたし、いつもどっかに消えちゃいたいって思ってる。ドラム叩いてる間は、違う誰かになれるから……そのときだけは、消えたいとか、どっか行きたいとか、なんにも考えないで、目の前のドラムだけ見てられるから……」

 泣き出しそうな子どものように、ちーちゃんは小さく縮こまった。

「あたしね、『Black Dog』なんだ」

 その言葉は、ずっしりと奈津の中に落ち込んだ。

消えたい、と呟いたちーちゃんの唇の動きが、なんだかやけにはっきりと脳裏に焼きついている。

 

ぷっくりとした、形の綺麗な唇だった。

死にたい、ほど重たい言葉じゃなくて、逃げたい、ほど軽い言葉でもない。

少し傷んだ金髪が、彼女の吐息に合わせてふわりと揺れた。

 

消えたい。

消えたいのだ。

奈津だって、そうだ。

 

 自分の中に堆積していく鈍色の正体に気付いた頃には、もう何もかもが遅過ぎた。

 あの子に好きだと言っていれば、何かが変わっていたのだろうか。

「……今日、うち来る?」

 言ってから、奈津は「しまった」と思った。

 知り合ってまだ三ヶ月も経っていないのだ。いきなり家に誘うだなんて、警戒されてもおかしくない。

 それから──まで頭に浮かんで、奈津は考えるのをやめた。

 まだ来ると決まったわけじゃないし、来るにしても、ちーちゃんになら明かしても大丈夫だろう。

 奈津の言葉の裏側にあるものを察したのか、ちーちゃんはちょっとだけ視線を泳がせ、ぽつりと

「いいの?」

とだけ言った。

「一人暮らしだから、気にしないで。あ、でも、明日の用意とか……」

「ううん、大丈夫。明日、全休なの」

 奈津も次の日は全休である。ちーちゃんは「ちょっと家に電話するね」と言って、携帯を耳に当てた。

「……あ、もしもし。あのね、お母さん、友だちの家に泊まりたくって……えと、なっちゃんって子。うん……だいじょぶ、迷惑かけないから。明日のお昼には帰るね。そんじゃ……」

 まるで危険物でも取り扱っているかのようにゆっくりと携帯を耳から離したちーちゃんは、そのまま画面を一回タップして通話を切り、「いいって」と口元を緩めた。

「男子の家って言わないんだ?」

「言ったほうがよかった?」

「ううん、別に!」

 いたずらっぽく微笑むちーちゃんの言葉にくすくす笑って、奈津は首を振った。

 

 奈津の家は、大学から歩いて二十分ほどのところにあるマンションの二階、七畳ほどの一室だ。

部室を出て、鍵を守衛詰所に返し、コンビニに寄ってから家に向かう。

 その間、ちーちゃんはずっと黙っていた。奈津も、何も言えなかった。ただ、家に近づくにつれて、心臓の音が大きくなっているのだけは分かった。

 自分の家の鍵を回す仕草でさえも、違和感を覚える。

 なんだか、自分が自分じゃないみたいだ。

 玄関でスニーカーを脱ぎ捨てて、「狭くてごめん」と言いながら電気をつける。ちーちゃんはもたもたとブーツを脱ぎながら「うい」と生返事をした。

 心ここに在らず、といった感じだった。

「適当に座ってていいよ」

「あ、うん……」

 おずおずとテーブルの前に座ったちーちゃんは、そのままきょろきょろと部屋を見回した。

「なっちゃんち、すごい綺麗だねえ」

「そうかな。生活感ないだけだよ」

 手を洗うついでに浴槽の栓をして、『湯はり』と書かれたボタンを押す。いつもはシャワーで済ませるから、浴槽はまだ数えるほどしか使っていない。

「お風呂にお湯入るまで、なんか話そうよ」

「いいよ。何話すの?」

「そうだなあ……」

 ちーちゃんの横に座り、しばし考え込む。

くう、とお腹が鳴った。

「……まあ、ご飯食べながら考えよっか」

「そうだね」

 

 コンビニで買ってきたサンドイッチなんかを食べながら、奈津はちーちゃんに聞いてみた。

「うちのサークルって煙草吸う人多いのかな」

 ちーちゃんはツナマヨおにぎりを頬張りながら「うーん」と言いながら上を見て、

「結構いるかなあ。あの……なっちゃんが初めて来たときにさあ、赤い髪の毛の女の先輩いたでしょ。あの人とかすごい吸ってる」

と笑った。

「他にもね、六人か七人か……みんな吸ってるの違うから、交換会とかしてるの。見てて面白いよ」

 ふうん、と生返事をしながら、奈津はそれとなく聞いてみた。

「……ちーちゃんは、喫煙者?」

「え、なんで、臭い?」

 奈津の言葉に被せるように、ちーちゃんは慌てて聞き返した。

「いや、最初に会ったときから、ずっと煙草の香りがするから」

「違うよ、あたしまだ十九だもん。法律的に駄目だもん」

 ちーちゃんは必死な様子である。

 ほんの少し、残念だな、と思ってしまった自分が嫌になって、奈津は目を伏せた。

「そうなの? ずっと年上の同級生だと思ってた」

 奈津の言葉に、ちーちゃんが口をきゅうとへの字に曲げる。

「煙草の香り……これかな。これ、香水だよ」

 ちーちゃんは手の甲を奈津に差し出した。

「煙草っぽいの、クローブだからかも。ぴりっとしてるんだ」

 その手を取って、顔に近づける。

 ほんのり甘くて、だけど刺激的な、スパイスのような香りが鼻をくすぐった。

「……ほんとだ、違うね」

「でしょ!」

 ちーちゃんはちょっと自慢げに口角を上げた。

「子供体温なの、あたし」

「どうりであったかいと思った」

「だから、香りがすぐに変わっちゃう」

「……あったかいと、香りってすぐ変わるの?」

「香水ってアルコールなの。体温で揮発してって、ちょっとずつ香りが変わるんだよ」

「アルコールなんだ……初めて知った」

 ちーちゃんの手をにぎにぎと握って、奈津はまた顔を近づけた。いつもの香りとちょっと違うように感じるのは、そのせいだったのだろう。

「なっちゃん、この匂い好き?」

「結構好き。大人っぽくて」

「えへへ、そう? でもお風呂入ったら落ちちゃうね。つけ直そっか?」

奈津は一瞬だけ言葉を詰まらせて、首を横に振った。

「いや、大丈夫」

「ほんとに? 苦渋の決断です、っておでこに書いてある」

 ちーちゃんはくすくす笑って、奈津のおでこをつついた。

 それに「気のせいです!」と返して、奈津は両手で顔を隠した。

 タイミングよく、「お風呂が沸きました」と声が響く。

「あっ、ほら! お風呂沸いたって! ちーちゃんお先にどうぞ! バスタオル、洗濯機の上に置いてあるからね。Tシャツとズボン置いてあるから、パジャマ代わりにそれ着てもらって……」

 奈津が必死そうなのがおかしかったのか、ちーちゃんはころころと笑いながら

「それじゃ、お先です」

と言って、洗面所の戸の向こうに消えていった。

 奈津はそれを見送って、テーブルの上に突っ伏した。

 別に自分は、ちーちゃんの香りばかりが好きなわけじゃないんだから。

 ちーちゃんは、いつも(側から見ると)大人びていてかっこいい。いつだってストリート系の格好をしている。

 そうして真っ赤な口紅を塗って、長い金髪を風にふわふわなびかせながら歩くのだ。

 何も知らない人がちーちゃんを見たら、ちょっと怖い女の子だと勘違いしてしまいそうなくらいに。

 サークルのみんなも、ちーちゃんが人付き合いを苦手としていることくらいしか知らない。話してみると案外子どもっぽい女の子であることくらいしか知らない。

 内側に隠れているものを、みんなは知らない。

 こんなちーちゃんを知っているのは、自分ひとりなのだ。

 そんな優越感に浸りながら、奈津は手持ち無沙汰にシーツのしわなんかを引っ張った。

 

 しばらくして、からり、と洗面所の戸が開く。

「あったかかった」

 ほこほこと湯気を立てて出てきたちーちゃんは、Tシャツの裾を引っ張りながら「変じゃない?」と呟いた。

「全然。それより、大きすぎない? なるべくちっちゃいの選んだんだけど」

「うん、大丈夫」

「よかった。じゃあ俺入ってくるね」

 

 ちーちゃんを待たせるわけにもいかないので、急いで頭と体を洗い、ちょっとだけ湯船に浸かって、すぐに出る。と、いうか、のんびりお風呂に入っているだけの精神的余裕がなかったのだ。

 なんとヘタレなことか、と思いながら、奈津は自分の頬をつねった。

 脱衣所の鏡に映る自分は、白い顔で「この世の終わりです」みたいな顔をしている。パジャマ代わりに着ているジャージの赤が、ミスマッチに映えている。その左胸で黒々と存在を主張しているタトゥーに目をやって、奈津は頭を掻いた。

 奈津のタトゥーは、年老いた男の手だ。祈りを捧げるように二つの手が合わさって、手の先に火が灯っている。

 奈津は、自身がデザインしたそれを、密かに『プレイング・ハンズ・オブ・グローリー』と呼んでいた。

 持ち主だけを照らす燭台と、純粋な祈りの象徴。

 それは、幼馴染が二度と目指すことのできないギタリストという道を自分が歩むための寄るべでもあり、覚悟でもあり、罪悪感の現れでもあった。

 だから、ちーちゃんには見せてはいけないような気がしたのだ。

 奈津はゆっくりと深呼吸をして、両頬を強かに叩いた。それからシャツには袖を通さずに、小脇に抱えて洗面所の戸を開ける。

「お待たせ」

「なんかさっきすごい音したけど大丈夫?」

 奈津のほうを見たちーちゃんは、ちょっと目を見開いて「おおー」と声を上げた。

「タトゥーだ」

ちーちゃんが呟く。

「かっこいいね」

 その言葉に、奈津は大げさに口をへの字に曲げた。

「タトゥーだけ? 俺は?」

 そう聞けばちーちゃんは

「へへ、なっちゃんもかっこいい」

と上機嫌そうに笑う。

 奈津も、ちょっとほっとして、つられたように笑った。

「引かれたらどうしようかなって、思ってたんだけど」

「ふふ、何それ。あたし、なっちゃんが何隠してても、何があっても、別に気にしないよ」

ちーちゃんはベッドの上に腰掛けて、ぱっと手を広げて奈津を見た。

「……うん」

 ベッドの上に膝を乗せて、奈津はちーちゃんに顔を寄せ、音もなくキスをした。

 ちーちゃんの目は琥珀色だった。

 日本人にしては色素の薄いその瞳に、奈津の姿が映っている。

 琥珀の中に、自分がいる。

 胸に耳を寄せると、小さなバスドラムがとくとくと拍動していた。

「ちーちゃんの心臓、めっちゃどきどきしてる」

「なっちゃんだってそうでしょ」

 薄闇の中のちーちゃんは、どこか背徳的で、ずいぶんと可愛らしく見える。

 初夏の夜に冷えた肌は、ぴったりと密着すればすぐに血が巡って熱くなった。

 ちーちゃんの拍動は、徐々に速く大きくなっていく。

 まるで、バスドラムみたいだ。

 そういえば、レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムはワンバスで頭抜き三連の演奏をしていたな。

どの曲だったっけ。

 そう、『グッド・タイムズ・バッド・タイムズ』だ。デビューアルバムの一曲目。

 彼も昔はツーバスで演奏していたが、あまりにうるさいものだから、バンド仲間にバスドラムをひとつ隠されてしまったそうだ。それ以来、ずっとワンバスだったらしい。

 あんまり速いものだから、ずっとツーバスだとばかり──

「──どうしたの?」

 静かな声が、ひとつ。それが鼓膜を震わせてすぐ、まとまりかけた思考が、糸がほどけるようにばらばらになっていく。

 白いシーツの上に、金髪が広がっていた。ぱっちりと見開かれた琥珀が、じいと奈津を見つめている。

「……なっちゃんって、犬っぽいよね」

 手で犬のジェスチャーをして、ちーちゃんは柔らかに微笑んだ。

「ブラック・ドッグだ」

 奈津はちょっと照れたように笑って、答える代わりにちーちゃんの口をかぷりと噛んだ。

 ぬるま湯みたいな夜だった。

 それでも、やけに心地よかった。

 

「……タトゥー、初めて知った」

「内緒にしてたからね。今んとこちーちゃんしか知らないかな」

 まだちょっと赤い顔をしているちーちゃんは「じゃ、特別なんだ」と言いながら、上機嫌そうに奈津の腕の中に潜り込んだ。微かに香水の香りが残っているのか、ほんのりと甘い香りがする。

「……あたし、いつも消えちゃいたいって思うけど……今日はなんか、マシだった。なっちゃんのナイショ、聞けたし」

 くあ、とあくびをひとつして、ちーちゃんはゆっくりと丸まった。まもなく、すう、すう、と寝息が聞こえ始める。

 それを起こさないようにゆっくりとベッドから出て、奈津は静かに電気のスイッチを押した。

 真っ暗な部屋の中には、耳鳴りと、ちーちゃんの寝息だけが聞こえる。

 暗闇に慣れた目に映る自分の部屋は、全く知らない誰かの部屋のようだった。

 布団に潜り込みながら、奈津は自分がなんだか悲しいような、嬉しいような、変な気持ちでいるのに気がついた。

 自分を認めてもらえたような、大切なものが欠けてしまったような、不思議な気持ちだった。ただ、不快ではない。踊り出しそうな喜びに混じっているのは、清々しいような、心地よい悲しみである。

 レッド・ツェッペリンの『オール・マイ・ラブ』をゆっくりと口ずさみながら、奈津はちーちゃんの顔をじっと見た。ぴすぴすと寝息をたてるちーちゃんは、小さな子どもみたいだ。

 傷んだ金髪に指を通す。手ぐしで毛束に空気が入ったのか、ちーちゃんの癖毛はあっちこっちにほわほわと広がった。

 

 ちーちゃんは、ちーちゃんだ。

 至極当たり前であるその事実を、奈津はようやく理解できた気がした。

 翌朝になって、二人がようやくベッドから出たのは、もう八時も回ろうか、という頃である。

 奈津はまだ眠たい目を擦って、横で眠るちーちゃんを揺さぶった。

「ちーちゃん、ちーちゃん、起きれる?」

「……だめだ……無理……」

 もぞもぞと布団に包まる。布団を取られた奈津は「困ったなあ」と言いながら、ちーちゃんの布団団子をぱたぱたと叩いた。

「それじゃ、ご飯行こ」

 そう声をかけると、ちーちゃんはようやく布団から顔を出した。

「そんなら、あたしそのまま駅まで帰っちゃうね……」

 上半身を起こしたのを確認してから洗面所に行き、顔を洗う。

 がったん、と音がして、ちーちゃんのうめき声が聞こえてきた。

「ちーちゃん、大丈夫?」

「だいじょばない……」

 どうやらちーちゃんは寝起きが悪いらしい。ふらふらしながら立ち上がり、手探りで服をかき集めている。まだ半分寝ているのか、目が開いていない。

 

 ようよう準備を終えたちーちゃんを連れて、家のすぐそばのファストフード店へ向かう。

 奈津はハンバーガーとナゲットを頼み、ちーちゃんは迷いに迷った末にチーズバーガーとポテトを選んだ。

「……ちーちゃん、体どっか痛くない?」

「ううん、大丈夫¬……」

 チーズバーガーを頬張りながら、ちーちゃんはこっくり頷いた。

「まだ眠い?」

「……ちょっとだけ」

 なんだか、リスみたいだ。

 奈津は食べ終わったハンバーガーを包んでいた紙を、ナゲットの空箱の中に押し込んだ。

「昨日、寝たの結構遅かったもんね」

 ちーちゃんは意外と量のあるポテトに苦戦しながら、「でも、寝れたから大丈夫」と慌てたように言った。

「なっちゃんの布団、いい匂いだった」

「そう? 消臭剤の匂いだよ、あんなの」

「丁寧な生活をしている人の匂い」

 なにそれ、と笑ってから、奈津はふと「そういえば」とちーちゃんの顔を覗き込んだ。

「今日は香水の匂いしないね」

 ちーちゃんは気まずそうな、ちょっとだけ恥ずかしそうな顔をして、口を尖らせる。

「だ、だって……みんなに、未成年なのに煙草吸ってるやつだと思われてたかもしれないし。だから今日は、首の後ろだけつけてる」

 奈津は口をへの字に曲げて「分かんないや」と呟くように言った。

「そりゃ、そうだよ。顔近づけないと分かんないと思うよ」

 ちーちゃんが、空になったポテトの入れ物を折りたたむ。

 それをじっと見ながら、奈津は言った。

「そろそろ、行こっか。駅まで送るよ」

 

 最寄り駅までは、歩いて一時間ほどかかる。

 その道中、奈津はふと言ってみた。

「ちーちゃん、俺と二人でバンド組まない?」

 ちーちゃんはびっくりした顔で奈津を見上げ、それから視線を足下に落とし、また奈津の顔を見た。

「ベ、ベース、いないよ」

「いなくたって困んないよ、工夫すればいい。それに、いないわけじゃないでしょ、ドラムとギターのツーピースバンドって……ホワイト・ストライプスとか、ブラッド・レッド・シューズとか」

 肩をすくめて、奈津は笑った。

「駄目かな。俺、ちーちゃんとならめちゃくちゃいい演奏できそうなんだけど」

「ううん……嫌じゃないんだけど、なっちゃん、あたしでいいの? あたしみたいなんより、上手い人、いっぱいいるよ」

「ちーちゃん『で』いいんじゃなくて、ちーちゃん『が』いいんだよ」

 駅のコンコースは人通りもまばらで、夏にしては涼しい風が頬を撫でる。

「か、考えさして……」

 定期を手の中でくるくると弄んで、ちーちゃんは俯いたまま言った。

「あ、いや、考えるっていうか、覚悟だけ、決めさして……あたしまだ、誰とも組んだことないから……」

「うん、気長に待ってるね」

 改札の前に着く。奈津は不意に「あ、そうだ」とちーちゃんの肩を叩いた。

「なあに、なっちゃ……」

 ちーちゃんの言葉が終わるより前に、奈津はちょっと身を屈めた。ぴりっとしたスパイスのような香りが、鼻をくすぐる。

「……明日また、部室で会おうね」

 ちーちゃんのびっくりした顔が、ゆっくりと耳まで赤くなり、それから徐々に照れたような笑顔に変わる。

「うん、約束ね」

 ちーちゃんは、赤い頬のまま頷いた。