夢の女

長編/葉津 光

 

 海を見ていた。白く照った太陽をその身に受け、生き生きと輝く海を、去っていった浜辺で一人、眺めていた。

 理想の女性像、女神像ともいうべきそれに私は囚われている。深層心理にこびりつき、私の夢に現れる彼女を、どうしようもなく求めてしまう。

 理想の女性像を持ち合わせている男は、それほど珍しいものではないだろう、それどころか、ほとんどの男はそういった女性像を持ち合わせているに違いないのだ。

 そこまでであれば、当然のことで何ら問題の無い事だが、私の場合は厄介なことに、夢の中のその女に虜になってしまったことだ。些か、狂人めいた発言かもしれないが、私はまさに、その女が存在することを確信している。そのせいか、やけに現実が霞んでしまい、手がつかない。

 

 夢から覚めると、押し寄せてくるのは、虚無感と形容しがたい情念である。心には空白がある。彼女の夢を見るたび、目を覚ますと私は自分の半身を何処かへ置いてきてしまったかのような気持ちになる。夢を見ている間は、今この時が、この場所が夢であるかもしれないと疑いはしない。いうなれば、私は夢の世界を現実と同様に経験しているのだ。決して目が覚めるその瞬間まで、世界は私を離しはしない。そうだというのに、目が覚めるとそのほとんどを私は失ってしまうのだ。

 今朝は涙が出てきた始末、到頭ここまで来たのかと、笑ってしまった。

 私は布団から起き上がり、すっかり笑い疲れてしまって、けだるさを纏ったままやかんに水を入れた。適当な量の水を入れると、数分すれば音が鳴り、熱湯ができる。そうしてコーヒーを一杯入れる。強い苦みとえぐみを感じる。だがその不味さが、この世界を私になじませてくれる。泥水をすするような感覚でコーヒーを飲めば、嫌でも意識は覚醒するだろう。

 カーテンを開け放ち朝日を浴び、そのまま窓も開けベランダへ出る。ぽつんと置かれた黒い椅子に座り、灰皿の蓋を開ける。ヤニの香りが鼻を刺し、顔を遠ざける。ゴロワーズを一本取り出し、マッチの火をつけて吹かす。毎日の朝はこうして始まる。雀の鳴き声と上がっていく煙が、ただ朝日に照らされている。何もかもを太陽が照らしている。

 さて、この後は何をすべきか、時間は嫌になるほどあり余っている。大学を卒業して、一年がたつこの春に、相も変わらず私は惰性をむさぼっている。親の金を頼りに、働くことなく、借家の中で一人、懶惰に生きている。

親からの電話は基本的に、就職の事情だ。近所の何某君は地元で有名な企業に就職しただの、何某君は教師になったなどと、そういった事ばかりで憂鬱になる。親からの発言は実にまっとうなことであって、それに不満を持つ私の方がおかしいであろうことは十分に理解している。だか、理解で感情がどうにもならないことも、私は知っている。

 

 時計の針は正午を指している。私は読んでいた本のページを確認した後、そっと閉じる。台所まで行き塩と砂糖を一舐めし、水道の蛇口をひねる。そのまま流れる水に口を押し付け、下品に飲み込む、腹が膨れるまでがぶがぶと飲み込む。まともに食事ができる程度の金を毎月貰っているにもかかわらず、このような行動に出ているのは、まったくもって私に生きる意志がないからだ。かといって、自分で死んでしまえるほどの覚悟も持ち合わせてはいない。このような行為は、結局ただの我が儘に過ぎない。

 電話の音で気分が急速に沈んでいく。電話には出なかった。横をそのまま通りすぎ、ポストを覗きに行った。空だろうと思っていたが、中には手紙が一通あった。同窓会の知らせである。

 粋な挨拶の添えられた文章を読み進めていく。小学校の同窓会だ。五月五日の金曜日、五月六日の土曜日の両日で行われるらしい。当時担任を務めていた教員も参加するらしく、ゴールデンウイーク中ということもあり、そこそこの人数が参加することが窺える。

 そういえば、あの女、夢の中の女。彼女のいわゆる原型ともいえようその女性が、小学生から中学校の間惚れていたその女性が、参加するかもしれない。一度、今の彼女を私は見てみたい。彼女が、もしかすれば、いやそれはない。似ているようで確かに違うのだ。だが、今の彼女を観れば、自分の中で何かが変わるかもしれない、何かに気づくことができるかもしれない、そんな淡い期待があった。

 参加の旨を送ろうとしたところで、ふと現状を思い出した。私はいま、大学を出たにも関わらずふらふらと生きている。人に示しがつくような人間ではないのだ。同窓生たちと会えば、常識という偏見をまじまじと眼前に押し付けられそうで、気後れしてしまう。私に対して責任を持つのは私だけであるというのに、いや、そうであるからこそ、彼らは無責任に私を嘲るのか。なに、働いているという態で彼らと話を合わせるなり、そもそも話をしないという選択肢もある。だがそれだと、私が私を否定しているようでいっそう惨めだろう。いや、彼らはそもそも私のことなど覚えてはいないか。そもそもどうでも良い事ではないか。私が欲しているのは、彼女に会うことなのだ。それだけが意味のあることだ。他はどうでも良い。

 毎日似たような生活を空虚に繰り返していると、どうにも現実性を見失ってしまう。自分の生に対する責任を放棄しだして、まるで物にでもなったかのような錯覚に陥ってしまう。そうなるともうだめで、理性に靄がかかり、帰ってこれなくなる。私の意思から解放された身体は、野性的惰性を根本に生きる。私はまた、眠りにつくまで、無意味に活動し続けるのだ。

 朝、どの朝であったか私自身とうに分からなくなっているが、とにかく、朝ではある。私はいつものようにベランダの椅子に座ると、煙草を一本吹かす。天を仰げばやけに眩しい。どうにも意識が定まらない。砂漠で水もつき、希望もなく二時間ほど彷徨い続けているような気分だ。

 このままでは駄目だと、先ほどから理性が警鐘を鳴らすので、私は重い腰を上げて部屋の外へ出た。

 

 金を貰っているとは言え、遊べるほどのものでもない。それでも日頃金を使うことは無いので、幾分かの余裕がある。酒でも飲もうかと考えたが、何分言訳が見当たらない。

 さて、どのような理由があるかとあれこれ考えてみるのだが、気持ちの良い快晴だから飲んでもよいとはならず、電話帳を眺めてみて、適当に掛けた一人がちょうど出れば、それは実にめでたいので飲もうかと思い歩いていると、公園まで来ていた。

 なんだ、立派な桜が咲いているではないか。そうか今は春だ。当然、桜は咲いていて当たり前だ。山桜ではなく、よく見るソメイヨシノだが、全く問題ない。これほど満開なのだから。

 ここ数日の雨風を耐え忍び、まさに私が今訪れるまで彼は咲いていてくれたのだ。なんなら今日が彼の最高潮かもしれない。私は彼の為に、飲んでやらなければならないだろう。そうでなくっちゃ全く、失礼というやつだ。

 近所の酒屋まで小走りで行き、適当な清酒を一升つくろってもらった。ついでに店主からお猪口を一つ拝借し、そそくさとその足で彼の元へと私は戻った。

 どうやらこの十数分の間に一人、彼の元へ訪れたものが私の他にもいた。

「やあやあ、これは岸和田さんではないですか」

 近づいてくる足音に気がついていたのか、とくに驚く様子もなくのんびりと老爺が振り返る。

「おお、あんたか。若いくせしてこんな朝っぱらから酒とは」

「いや、まあね。こんな立派な桜が咲いてるもんですからね」

 この老爺の指摘に私はすっかり頬を赤らめ、自分を卑下してしまった。まあなんと恥ずかしい男か、神経質など溝へ流してしまえばよいのだ!

「ねえ、見てあれ」

 ちょうど公園沿いの坂道から下ってくる女が、腕を組む男に何やら話しているのがかすかに聞こえてきた。

女はぶしつけに人差し指をこちらへ差し、男の方へ顔をやると、くすくすと笑ってまた何か話しだす。

「なんて奴らだ、節操ってものを知らないんだね」

 恥ずかしいものか! 他者を嘲笑している奴の方が私からすればよっぽど恥ずかしいね。

「まあまあ、いいじゃないか。儂らは儂らで楽しんでおるんだから、彼らも好きにさせると良い」

「なに突然年寄りぶって、達観したようなことを言いなさる。いったいいつから一人称が儂になったのだ、この酔客め」

 この老爺が去った後も、私はそのまま太陽の日がてっぺんから少し傾きだす頃まで桜の木の下で飲み、途中でもう一本酒を買い足しそれもなくなったので、ゆらりゆらりと家へ帰った。

 上り坂がやけに長く感じる。先ほどからもう一時間も歩いたのではないだろうか、いや、空を見れば太陽の位置はそれほど変わっていない。嗚呼、長いな、長い。

 私はいつだって私であるところの、確実さを求めている。それが分かれば、必然と世界の確かさも示されるように感じるからだ。現実に現実性を求めている。人々は、世界を確かなものだと、当然のように受け入れ、生きている。私は不安定だ、この世界に在ってバランスを保てない。私にも寄り添って、強烈なまでの現実性を突き付けて欲しい。嗚呼、誰かがまた私を笑っている。

 朝、また始まる。コーヒーを淹れ、そのままベランダへ。煙草を一本吹かす。空になった煙草の箱を覗き込めば、パラパラと茶色い葉が残っている。お前たちは可哀想に、取り残され、意味を知らず、そのまま捨てられてしまうなんて。だが、良かった。私だけが君たちの存在を留めておこう。私が新たに、君たちに意味付けをしたんだ、君たちはやっとこの世界に現れることができた。なら、私は、私にはいったい誰が意味を与えてくれるんだ。分からない、分からない。

灰が落ちる、役割を終え、死んでいった。残ったのは灰だけ。いや、フィルターもある。だが、どちらも既に役割を終え、意味を失った。この灰皿は、そんな無意味の寄せ集めが意味を与えている。そう思えば、これらにだって確かな意味があったと言える。

 

 部屋は小綺麗に片付けられている。いつ掃除をしたか、記憶にはないが、綺麗なのだから、きっと掃除はされた。クローゼットから白いシャツに白いパンツを取り出し、身体に纏わせる。いつだったか落とした時計は、割れているが、針はまだ動いている。ちょうど今は十時、私は同窓会へ向かった。

 特急列車やら急行列車やらを使えば時間を幾分節約できるだろうが、そのようなことはまるで必要が無いので、私は鈍行にて故郷へ向かった。そういえば東京大阪間には新幹線というものが通ったらしいので、電車というものは全く手段になり下がった。電車での時間を諸君らは如何に過ごすだろうか。読書をしても、音楽をイメージしても、空想に耽ってもいい。全ては諸君の自由に委ねられている。私はと言えば、もっぱら電車を楽しむようにしている。つまりは、ずーっと窓の外、変わりゆく景色を眺めているわけだ。

 団地やビル、川に森にトンネル、観ていて飽きないものだ。手段となったこの電車を憂う。私ぐらいは、目的としてこの瞬間を味わおうじゃないか。心の持ち方が大事なんだよ。客観的になっちゃいけないよ。

 

 さて、私が故郷の駅に到着したのは午後六時半である。午後七時から、飲食業を始めた同窓生の一人が営業する店で同窓会がおこなわれる。

 しかし、幾年ぶりか、駅を見渡せば過去の情景がぽつぽつと現れてくる。おや、駅員が飛んでいる虫を眺めながら煙草をふかしていやがる。虫が顔の前まで飛んでくると、口から煙をふーと吹きかけている。五月は病、きっと退屈なもんでやる気も出ないんだろうね。閑散とした空間が、まったく世界を退屈な色にしている。

 煙草と言えば、ここから少し歩いたところに煙草屋がある。日章旗の赤と白を入れ替え、円を大きくした中に「たばこ」と書かれた看板が良く目につく。二十歳になればここで煙草を買おうなどと考えていた少年を思い出し、それほど良いものでは無かったと口に出してみた。

 歩いていれば、目につくのは民家と田畑ばかり。まったくもって手つかずな町が、意味もなく広がっている。飲食店といえば国道沿いにちらほらと見受けられる程度であり、ここに住む人たちは何を楽しみに生きているのか。

 記憶を頼りに、酒屋を目指す。等間隔に立ち並ぶ街頭は、それだけでは暗闇を隠しきれていない。狭い道だ、車が横切れば、いちいち立ち止まる必要がある。そうして、何度か立ち止まっては進むうちに、目的の酒屋が見えてくる。

 どうやらまだ潰れてはいないらしい。しかし、これは開いていると言えるのだろうか。ガラスの戸に書かれた営業時間らしき記述はとっくに擦れており、読むことができない。中を覗けば、電球が一つ、今にも消えそうな弱い光を放っている。まるで戦時の日本に迷い込んでしまったのではと不安になる具合だ。

 

「失礼、まだ開いているかな」

 ガラスの引き戸を開けると、七十歳ほどの老婆が奥にこじんまりと座していた。一瞬、ヒト型の置物でもあるのかと思ったが、老婆であった。

「見りゃわかるだろ、開いてるよ。閉まってたらあんたはいま戸の外さ」

 思った以上に強気な老婆だ。先ほどまでの不気味さは感じられない。

「日本酒一升、適当に繕ってくれ」

 老婆の表情は、薄暗さのせいではっきりと見えないが、白い歯が異様に目立って見え、どうにも笑っているように感じた。

「いくら出せる」

「繁盛してなさそうだからな、一万ほどで頼むよ。ほら、聖徳太子だ」

 やはり笑っていた。すぐ目の前にまできて、ようやく見えた。私は老婆に一万円札を渡し、酒を受け取るとそのまま店を出た。なんともまあ、妖怪のような婆さんだ。あれじゃ客は寄り付かんだろうよ。

もうじき同窓会が始まるはずだ。少し遅れたって問題ないだろう。夜空を仰げば浮かんだ月が見える。三日月だ。まるで先ほどの老婆だな。

 

 喧騒へと近づいていく。扉から漏れる明かりに引き寄せられるように、私は中へ入っていった。

「諸君、修治君が重役出勤だ!」

 私が入るなり、それを見たお調子者の何某が、大声でそういった。私はそっと参加し、目的を果たせばそっと帰ろうと考えていたのに、余計なことをしてくれる。酔っていれば何をしてもいいというわけではない。

 一瞬の注目の後、興味は浮遊し散り散りとなった。私は店主の元へ歩いていき、買ってきた酒を渡すと、そのまま空いている席へ座った。正直なところ、名前を憶えている奴はほとんどいない。だからどこでもよかった。どこへ座っても変わりないはずだから。皆ほどほどに酔い始めており、口も軽くなる頃だろう。警戒心なんてものはとっくに酒で洗い流されているに違いない。

「お隣、失礼。飲んでいるね、君」

顔を見て、おっとこれは驚いた。彼女の名前は憶えている。彼女は谷崎久子といい、互いの親に交友があったものだから、その繋がりで私たちも会うことがあった。

「懐かしい顔だ」

「そうですね、懐かしいのは貴方のせいですけどね。貴方ったら全く顔を出さないって、佳恵さんが愚痴をこぼしていましたよ」

「あゝ、母さんか。なに、言わせておけばいい。言葉が出てくるうちは元気な証拠だからね。妙子さんはお元気で」

「相変わらず佳恵さんと毎週末会っては、元気にお話をなさっているわ」

「そうかい、息災で何よりだ。しかし、まあよくも話題が尽きないものだ」

「生きがいなのでしょうね」

「ならばまあ、どっちかがくたばるまでは安泰だね」

「そんなこと言って。人がいつ亡くなるかなんてわからないわ。早く佳恵さんに顔を見せてあげることね。さもないと後悔なさるのは貴方自身ですから」

「そうだね、この頃世の中は物騒だしね。連合赤軍の事だってある。あれは衝撃だった。だがまあ、世の中、世の中ってのは人と人との中で随分狭いものの集まりを大枠で捉えたもんだが、そう単純なものでもないんだ」

「そうやって言い訳ばかりして逃げているだけでしょう」

「あゝ、そうだね。まあいつかそのうち顔を出すよ。そういえば君、覚えているかい」

 唐突な私からの問いで警戒の表情を浮かべ、じっとこちらを睨む。

「何を、ですか」

「ほら、祐介に君が僕のことを好きだと、僕の目の前で言われたことをだよ」

焦るかと思えば、そうはならず、反応が芳しくない。当時の彼女であれば強烈な返しが一つ二つあったものだが、今は一人哀愁に耽ってしまい、なんとも気概に欠ける。

「あゝ、あれは確か僕じゃなかったね、隣のクラスのしゅう君だった。君ったら随分焦っていたから、よく覚えているよ」

「いえ、あれは」

 彼女が何やら身の内を吐露しようとするので、私はそそくさと席をたった。冗談を本気にしちゃ笑えないよ。まあなんと、酒の厄介な事か。節操ってものをみな忘れてしまっているようだ。

 適当に目に入って来た空席へと移動した。このようなことをしている場合ではないのだ。迅速に目的を達しなければならない。

 さて、次はちゃんと知らない人間だ。相手も私のことなど覚えてはいないだろう。それに随分と酔いが回っている。これは丁度よい。

「失敬、隣に座らせてもらうよ」

「ええ、大丈夫ですよ」

 相手はこちらを一瞥すると、そのまま右手で持っているコップの中へ視線を戻した。

「気の抜けた麦酒なんて眺めても、意味ないよ」

 やけに落ち込んだ様子の男で、少々面倒くさそうだ。喧騒の中で一人、自分の孤独と慰めあっていやがる。

「好きだった人が、結婚するんだ」

「おお、そうか、めでた、いや悲しいな。飲もう飲もう。さすれば惚れた腫れたなどどうでもよくなるよ。惨めったらしく自分を慰めていても、ドツボに嵌るだけだからね」

 この性質のものはまともに関わるだけ面倒というものだ。私は面倒ごとが大嫌いな性分である。人間というのは総じて面倒なものだが、関わっていかないと生きてはいけない。だからこそ、程よく付き合うすべを身につけねばね。興味がないなどとばれてしまっては村八分にあうことだろう。

「そうですね、飲みましょう!」

 そういうと男は机上のジョッキをつかみ取り、勢いよく立ち上がった。

「その意気だ!」

「よっ!」

「なんだなんだ」

 いつの間にか他の連中も加わり、男たちは肩を組むと左右に揺れ、酒を飲みだした。私はバレぬよう、その場からこっそりと抜け出した。

 

 何も言わず、喧騒の中に隠れ静かに席に着いた。隅の席、照明が揺れてうっすらと暗い。適当に机に置かれた酒を飲み、肴を一口。美味いとも不味いとも言えない、中途半端な味だ。だが、あるだけましだろう。

「どうも、愛実(めぐみ)さんは本日いらっしゃるか。清水愛実さんだ」

 私の隣に座る女性へ、恐る恐る、それでいて自然な態度になるよう努めながら、そう尋ねた。

 空席から突然声が聞こえてきたものだから、横の彼女は勢いよく首をこちらへ回して見せた。見開かれた目からは驚愕の色が窺える。ただ、人がいたことに驚いただけではない、他の驚きがそこにはあった。

「あら、ええっと。私がそうだけど。貴方は」

 驚いた。この女性は今、自分が清水愛実であると言い放った。私は、今こうして私をまじまじと見つめてくるこの女性が、まったく彼女であるようには思えなかった。大人になったからだとか、化粧のせいだとか、そういった表層的な違いの話ではない、本質的に違っていると感じたのだ。だが、そのようなことは果たしてあり得るのだろうか。私は夢の女と、記憶の彼女を混同し、とうとう清水愛実という女性を、今の今まで現実から切り離していたのか。

 この動揺を知られてはならぬ、何故かそう思った私は笑顔を貼り付けた。実に社交的な笑顔を。自ら話しかけて置いてこのまま立ち去るのは無礼になる。

「修治です。中津修治」

「あら、修治さんでしたか! 確かに修治さん。あの時とは随分と雰囲気が違ったものだから、それにお酒も少し入っていて」

 

 一通り視線を泳がせた彼女は、落ち着きを取り戻すと、昔の話を始めた。

 私と彼女だけの過去の欠片。互いに共有していたけれど、互いに違った眼差しを持っていた。当時の彼女はまさに、私にとって理想の体現であった。悪意を含まない善良な自由さと、世界に対する勇敢さを兼ね備えた、魅力的な人だった。私はそんな貴女を穢すまいと、自身を崇高な者へなそうと必死にもがいた。だが、そんなことは不可能であった。崇高さを求めるのは崇高さに憧れる堕落した精神なのだから。結局、私は憧れただけで、行動へは移せなかったのだ。そうして残ったのは、粘度のある濁り切った感情だけであった。この気持ちが、彼女に見抜かれてしまうことを恐れ、彼女から離れることを選んだ。

 だが、今の彼女には全くそれらの面影がない。ここまでの乖離が存在すると、過去が真実であったかさえ疑わしくなる。

「修治さんったらあの時、変な声を出すものだから、私すっかり可笑しくって、お家に帰ってからも思い出しては笑っていたものだから、母に変なものを食べたのではないのかと心配されたのよ」

「あゝ、そのようなこともありましたね。懐かしいやらなんやら。おや、随分と話し込んでしまって、もうこんなお時間です。私はそろそろ御暇しますね」

「あら、そうなの。でもお酒がまだたくさん残ってらっしゃるわ。これらを片付けてしまってからでも良いのではないかしら」

「ええ、確かにそうですね。勿体ないですし、頂いてからにしましょうか」

 私は既にこの女に対する興味の一切を失っていた。求めていたものは何一つ手に入らず、徒労に終わってしまったのだ。私はただ、この徒労に対する反骨精神と、掴みかけていた夢の女に対する手掛かりがすっかり消えてしまった事への虚しさを埋めるためだけに、この場に留まり酒を飲んだ。決してこの女によるものでは無い。

 

 喧騒の群れが離れていく。如何ともし難いやるせなさ、あるいは苛立ちか、それだけがただ残った。

 ままならない、もう少し酒でも飲もうか。いや、女でも買うか、まさか! こんな田舎に風俗などありはしない。やはり酒か、それだけか。

「修治さん、この後はいかがなさるのですか」

 ふと背後から声がかかる。まだ店に残っていた者がいたようだ。谷崎だ。

「君か。朝まで適当に過ごすさ。終電は疾うにない。実家へは顔を出す気にもなれないしな。君はどうするんだ」

「私はこのまま帰ろうかしら。でも、もし修治さんがお暇なら二人でもう少し飲みたいわ」

「そうか、そうだな、そうしよう! 店主! 麦酒を二瓶、それと適当な洋酒、そうだな、ウイスキーかブランデーを一つ譲ってくれ!」

 あらかた片づけを終えた店主は冷蔵庫から冷えた麦酒と、オールドを持ってきてくれた。私は適当に財布から札を抜き出すと、そのまま店主の胸ポケットにねじ込んだ。

「ありがとう、友よ。景気が良くなればここで沢山飲ませてもらうよ」

 

 私たちは話すことなく、夜道をあるいた。時折こちらへチラチラと視線を送ってきていることには気づいていた。だが何も話さなかった、気分じゃなかった。私はただ、夜空を、そこに浮かぶ星々を眺めていた。よっぽどそちらの方に興味が向いたのだ。田舎の夜空は生き生きと輝きを放っていた。

 星々は爛々と、私の眼球に飛び込んでくる。確かに感じられるこの輝きは、宇宙の何処か、遠くから私の元まで何光年もかけてやってきたのだ。生の証とも言えようこの輝きたちは、だが実体を持たない。この煌々とした光の元となった星々は、今頃消えているかもしれない。目に見えていたって、本当のところは分からない。ただ、この星々を思う私は確かにいる。儚いと、美しいと思っている私は、確かにいるはずだ。そうであるというのに、私は、私を見失っている。この夜空に浮かぶ星々の影の方がよっぽど、今の私より確かだ。

 

 早朝、外は薄暗くまだ鳥も眠っている。私は一人、幼少期に遊んだ川の土手に座って、水面を眺めていた。

 今や手立ては失った。残ったのは湧きどころの不明瞭な確信のみである。悪い夢のようだ。

 水はまだまだ冷たい。一番深いところでも脛の中ほどまでであり、流れは緩やかなものだ。そのまま仰向けになる。初めは、水が入らないよう鼻から息を吹き出していたが、どうでも良くなって水に身を任せた。初めは鼻の奥がツンと痛んだが、やがて痛みは緩やかに消えていった。瞳を通して水中から太陽を眺める。幾分、見やすいではないか。私は何故か、そのことが嬉しく思えた。そうして満足し、瞳を閉じた。

 突如として水中から引きずり出される。勢いよく引っ張られた腕の先には、健康的に焼けた両の手が見て取れた。何者かが、今まさに私を水中から引きずり出したのだ。

「何してるの! 水中に人がいるのだからとっても驚いたのよ」

「気持ちが良かったので少しね、なに死のうとしていたわけではないんだよ。私はまだそこまでいってはいないからね」

 先ほどまで仲良くしていた水が、今やそっぽ向いて、身体に重くのしかかる。張り付いた衣類を不快に思いながら、顔を上げ、声の主を私はまじまじと見つめた。目が、離せない。

私と彼女の間に引かれていた現実と虚構の境界線が、いともたやすく消え去っていく。世界の時間が緩やかになる。まさか、そのまさか。

「あら、そう見つめられるとなんだか恥ずかしいわ。さっきまでは水中にいて、今では口をパクパクして、貴方魚みたいよ。可笑しいわ」

 客観的なことを言われると、私の行動はまさに変人のそれである。だが、そのような事はどうでも良かった。掃いて捨てる惰性の日々に今ようやく、終止符が打たれたような気がした。

「貴女があんまりにも貴女だから、驚いてしまったんだ」

「まあ、変なことをおっしゃるのね、まるで私を知っていたみたいだわ」

「可笑しなことを言うが、私は遥か昔から君のことを知っているよ」

「やっぱり可笑しな人ね。そんな変な口説きかたをされたのは私初めてよ」

「いや、口説きだなんてそんな低俗なものでは、決してね。ただ事実を言ったんだ」

「くどい男は好かれませんよ」

 そう言うと彼女は、素足のままパシャパシャと水の上を走っていった。乱反射の中でいっそう、彼女の黒い髪が際立ち、婀娜めいていた。

「そういえば貴方、ここらじゃ見ないけれど何処からいらしたの」

 彼女は振り返り、こちらを見て言った。

「神戸の方からだよ、地元はここだがね」

「神戸から! それは素敵ね。あの辺りはたくさんビルが建って、ハイカラでモダンだとお父様から聞いたことがあるわ。私、こんな田舎で一生を終わらせるのは嫌よ。安逸を貪るだけだなんてつまらないわ」

「この街は、数十年ほど遅れているね。時間に取り残されていて、ノスタルジックだが、面白味もない。だが、東京やら神戸やら、君が思うほどに良いところじゃないよ。みんな見栄を張って生きてる。等身大な人なんて誰一人いやしない。あんなところは息苦しくって仕方がない。どちらも、いいところ、悪いところはある」

「私はそれも含めて経験してみたいの。私の世界はこの田舎だけだもの」

「そうか、そうか。なら私が連れて行ってやろうか」

「あら本当に! そうしたら、お母様に聴いてみないといけないわね」

 私は彼女があんまりにも素直なものだから、思わず声を出して笑ってしまった。

「貴方ったら、どうして笑うの。さては私のことを馬鹿にしているのね」

「だって君、嘘に決まっているだろ。そうやって直ぐに人を信じるようじゃ、やはり君はここにいた方がいい。その方がうんと良い」

「あら嫌だ、そんな意地の悪いことなさるのね」

 天に向けてとがらした唇が、太陽に照らされ、若々しく照っている。そして、その瞳。綺麗なビー玉のようなその瞳、きっと世界はどこまでも純粋無垢に広がっているのだろう。

 そうだ、あと数日だけこの地に残ろうか。そうして彼女にうんと神戸やら、東京やら、私が行ったことのある土地の話をしてやろう。なに、ちょっとした気まぐれだ。それに、ここで去ってしまえば、私に残るのは空虚だけなのだから。

「そうだ、神戸や東京の話をしてやろう。君が知らない話だ。だから機嫌を直しておくれ」

「私全然拗ねてなんかいないのよ。でも貴方がどうしてもって言うなら、そのお話聞いてあげるわ」

 

 彼女はすっかり笑顔になって、私の話を聞く。気になったことは何でもかんでも質問して見せて、時間は川の流れのように過ぎていった。

「きっと来年からは角栄さんの時代だろうね。いい方に行くことを願っているがね、人の結末は空虚さ。神戸は三宮を残して他は廃れ始めている。以前は全体が人の熱で蜃気楼ができる程蒸せていたがね。時代と人の流れであのありさまだ。経済成長が終わればどこでもそうなるだろうさ。残るのは現実とそこに住む冷たさだけだ。今や誰もが孤独、世界は細分化され繋がりは絶えてしまった。私たちは誰一人、一人では生きていけないというのに、世界は私たちを一人にしようとしている。みんな騙されちまって、のほほんと生きていやがる」

「そのお話はなんだかつまらないわ。私もっと楽しいお話が聞きたいの」

「そうか。ならば最後に神戸まつりの話でもしようか。ちょうど昨年の五月に開催されたんだ。あれは夢のようで実によかった。参加者たちは皆、熱狂の渦に酔いしれていたからな」

 ころころと彼女の瞳が変わる。私はもっぱら彼女の瞳に魅せられてしまったのだろう。鏡の前で自分の目を覗き込むように、きっと私は彼女の目を見つめながら話していた。ここまで見つめられては普通、右往左往と目を泳がせそうなものだが、畢竟、彼女と私の瞳は直線で繋がれたままであった。

 どうしたものか。本日神戸へ戻る腹積もりであったが、すっかりそうもいかなくなった。当然今夜泊まる当てがあるわけもなく、かといって野宿をしようともならない。野宿と言うのは人間の尊厳を捨てるようなものだ。肉体の堕落が精神にも及ぶことは承知の通りであり、そしてまた生活の堕落は、生き方の堕落に繋がるということも知らなければならない。

「よければ今夜、部屋を一つお借りしてもよろしいか」

「さあどうかしら。聞いてみないことにはわからないわ」

「では是非、一度尋ねてみよう。そうだ君、お父さんはいける口かい」

「ええ、毎晩毎晩飽きもせず。きっと水を渡しても気づきやしないわ」

「そうか、ならば途中でお店によって行ってもいいかい。なに手ぶらでは申し訳ないからね。水は買わないよ、さすがにそこまでふざけた真似はできないからね」

 鼻を抜けていく綺麗な香りが心地よくって、身体を揺らしながら歩く。あんまりにもゆっくり歩くものだから、先を行く彼女が立ち止まっては振り返り、立ち止まっては振り返りと繰り返す。酒屋の場所は私が知っているので、一人先に行ってしまうこともできないのだろう。前から横に、横から前へ。可笑しな二人だ。

 

 何とはなしに山へ目を向ければ、ちょうど帰りゆく夕陽があった。夕陽に、夕日を背に振り返る彼女に、私は目を奪われた。赤とも橙ともつかぬ黄昏の空は意味もなく広がっている。

 

巡り会い 思い返すは 袖の中 夕さる際の 憂い葉桜

 

 一粲に供する、いや謙遜もない。なんと下手なことか。無知の素人が、たいそうな真似をしたものだ。自覚すればするほど恥が生まれて、先ほどまでの夢心地がすっと消えていく。上手く取り繕えているだろうか、わからない。ただ、歩く速度は先ほどより増していた。

 

 二日続けてこの店に来るとは思っていなかった。店主から、こいつは全くの飲んだくれだと思われるのではないかと思い、戸を引く手が少し重い。

「やあ、また来させてもらったよ」

 昨日に比べ随分と店内は明るかった。見渡せば奥の方で四つん這いになり、ゴソゴソと木箱を漁っている店員が目に入る。「おーい」と声をかけてやれば、そこで漸く客の存在に気づき、慌てて頭をあげる。

「いらっしゃい」

 若々しく元気な返事であった。昨日の老婆の娘、いや孫だろうか。確かにあの歳で一人店をやりくりしているとは考えづらい。あれでは死んじまっても誰も気づきはしないからな。私は安堵で口から軽く息を漏らした。

「日本酒を一升、お勧めのものをお願いする」

 私の声を聞くと、女は焦ったようにそこらに置かれた酒を見て回り、「惣花」と書かれた酒を持ってきた。色々とその酒について説明されたが、覚えられなかった。ある程度美味ければ、それでいいのだ。幼いころは舌がいいと父親に褒められたが、今となっては見る影もない。煙草を吸うものの舌が肥えているはずがないのである。

 途中あの老婆は元気かと尋ねたのだが、怪訝そうにこちらを見ては黙るので、どうにもいたたまれなくなり、私は逃げるように財布から適当に札を取り出し女に渡すと、そのまま店を出た。

 

 彼女の後をついていくと、次第にわらわらと人が溢れてくる。どうにも辟易してしまう。奴らは自分の都合が叶うだろうと期待を込めた眼差しをぶしつけに私へ向けてくる。他人の傲慢さが、すっかり気分を重くしてしまう。いつだって彼らは私を違った理解で否定し続ける。人と人との関わりは常に陣取り合戦だ。相手は私を望む私に、私は相手を自分の望む相手に、そうやって押し付け、奪い合い、守りあっている。

「この人込みを通るのは億劫だね、遠回りしていいから別の道で案内してくれ」

「ええ、大丈夫よ! でも人込みが嫌だなんて、都会に暮らしている人の言葉とは思えないわ」

「いや、こういうのは田舎の方がきついんだ」

 

 彼女は私の腕を引いて、別の道から、彼女の宅まで案内してくれた。もうじき、日が暮れる。

 彼女の父親は豪胆な性格であった。見た目に関しても、性格との差異がなく、肩幅の広いがっしりとした体つきの男であった。機知にとんでおり、会話の節々から知性とユーモアを感じた。酒をどれだけ飲んでも、顔に出ない。精悍な顔つきは終始崩れなかった。私は整えられた口髭と、顔に浮き出た皺を眺めていた。これまでの人生の経験が、彼をまさにこのような顔立ちにしたのだ。皺の一つ一つは苦労の証だろう。

 既に私が用意した酒瓶はすっかり空になっていた。残りは徳利に入っているだけだ。自分の顔面が茹蛸のようになっていることは鏡を見ずとも理解できた。意識はまだ覚醒している。おそらくはもう一升空けたところでそれは変わりないだろう。相手側はもうだいぶ陽気になり、初めより饒舌になっている。私は男の話を、相槌を打ちながら楽し気に聴いた。だが実際のところ私の意識は彼の顔の皺に吸い寄せられ、雁字搦めに捕まっていた。

「いやしかし、中津さんとこの息子さんだったとは驚いた」

 そういうと、哄笑し、一盞を傾ける。

「失礼します、外もだいぶ暗くなってまいりましたよ」

 彼女の母親が、部屋の戸を引き、そう告げた。

「おや、これは失礼。では私はそろそろお暇いたしましょうか」

 私がそう告げると、幾分気分が良くなっている父親が、まだ話足らないとばかりに言葉を発した。

「いや待ってくれ。君、今日はこのまま我が家に泊まっていくといい。母さん、長男の部屋が空いているだろう、あそこに布団を頼むよ」

 彼女の母親はうなずくとそのまま戸を閉め、離れていった。

「よろしかったのですか」

「あゝ、いいんだよ。気を負う必要はない。中津さん所の息子さんをこんな時間に追い出すのも悪いからね。それに私は随分酒飲みでね、人を家に招き飲むことがあるから、こういったことはよくあるんだよ。妻もある程度想定していたさ」

「では、甘えさせていただきます」

 自らのたくらみが予想以上に簡単に済んでしまった事で、すっかり気が抜けてしまった。その後、彼女の父親が用意した酒をもう少し飲んだ。いつの間にか、部屋にはいびきだけが響いていた。すっかり机に伏して寝てしまった彼女の父親を起こさぬよう、私は足音を盗んで部屋を出た。そうして母親の案内に従い、自らの寝床へ向かった。

 

 翌朝、話声によって目を覚ました。廊下を歩くたびに、木の音がかすかに鳴る。いつもの癖で煙草が吸いたくなり、縁側へ出て、一本吹かした。まだ何やら話しているらしい。私は腹を据え、部屋へ入った。

「いいでしょ! 私ずっとここにいるのなんてまっぴらだわ」

「いや、しかし、困ったな」

 昨夜の威厳はすっかり見る影もなく、情けない表情を浮かべた男がそこにはいた。どうにも娘には強く出れないらしい。そのように考えていると、ちょうど目が合う。彼は急いで私を自分の隣へ手招いた。

「娘が君と神戸へ行くと言っているんだが、どういうことなんだ」

 おや、これはまた。そうであったか、そうでなかったか。

「そう言った話もございましたが、娘さんが本気なのであれば、一週間ほど神戸を観光させようかと。なに、きっと娘さんもその方がおとなしくなるというものです。その間は私の方が責任をもって娘さんをお預かりします」

 瞳を閉じ幾ばくか唸ると、結論が出たのかゆっくり瞳を開く。

彼が居ずとも、こうなってしまえば娘が一人で勝手に出て行ってしまうのではないか、そうであれば誰か人をつけておいた方がまだ些か安全なのではないのだろうか、とそういったことをあの短い時間で考えていたのだろう。状況は決して絶望的ではない。むしろ好機、あと一押しで彼女を連れだせる。私は彼女へ視線を送った。

「これで最後、もう我が儘は言いません! それに、もしお父様が駄目だとおっしゃるのなら、私どうなっても知らないのよ」

「んん、分かった。一週間、ちょうど一週間で返って来なさい。約束だ、父のことを思う気持ちがあるのなら、しっかりこの事は守りなさい」

「やった! ええ、必ず守りますとも」

 

 私はその後、彼女が出ていった部屋で彼女の父親と二人で話し合った。彼との約束事は、まあ様々だ、それをいちいち全て言わないが、簡単に言えば娘の安全を保障することである。最後にくぎを刺すように「中津さん所の息子さんだから任せるのです、信用を裏切るような真似は決してしてはなりませんよ」そう言ってのけた。娘を思う親の顔が、私を刺していた。

 一定のリズムで車内が揺れる。私が何かを語るまでもなく、彼女は存分にこの時間を楽しんでいた。湧き上がる情動が幾度となく移り変わる景色と共に、遷移していく。途中、彼女の母親から渡された弁当を開けると中身は、味噌を塗って焼いてある白身魚の切り身が二つ、きんぴらごぼうに、山菜の炒め物、それに大きな握り飯が三つ入っていた。それらを彼女と分けながら食べた。「こんな田舎っぽいものではなくて、パンとかスパゲッティとかそういったものが食べてみたいわ」そうやって不満をこぼしていたが、飯を頬張る姿はどうにも満足しているように見て取れた。

 

 三ノ宮駅に着くとそこらの店を回って見せた。人込みの中あれやこれや走り回ったり、かと思えば急に立ち止まりディスプレイされた洋服を眺めたり、声を出して見たりとまあ大変なことで、このまま三宮を全て回ってしまいそうな勢いであった。

「ねえ、もう少し見て回ってもよかったのよ?」

「そう焦ることはない。明日からでも十分見て回れるからね。だから今日はよくよく休むといい。心が先走ってしまうと、身体がついていけなくなってしまうからね」

「私、どこで寝ればいいの」

「あゝ、私の布団を使うと言い。私はソファで寝るからね」

「あら、悪いわ。私がソファをつかいますよ」

「そうしたら私はお風呂場に行って寝ようかな」

「それじゃあ意味がないでしょ。貴方は布団で寝なきゃ」

「いや、駄目だね。君がソファで寝るなら私は風呂場で寝ることになる。君が布団で寝てくれるってのなら、私はソファで気持ちよく寝れることになる。こういった道理だ」

「もう。分かったわ。貴方の詭弁にのってあげる」

 諦めのついた彼女を自分の布団に寝かすと、私は毛布を一枚体にくるみ、ソファで眠った。首が変に曲がって、寝心地は悪かった。

 

 翌朝、私はいつも通りコーヒーを淹れ、ベランダに出る。椅子に座ると灰皿を開け、コーヒーと煙草を飲む。快晴だ。

 部屋に戻ると彼女がちょうど目を覚ます。いや、私が起こしてしまったのかな。

「おはよう、今日は大丸にでも行こうか。お望みのモダンでハイカラな洋服でも買おうじゃないか」

「おはよう! あら本当! そうしたら急いで準備しないと」

 顔を洗い、新しい歯ブラシで歯を磨くと、ふと彼女は何かに気づいて私を不安そうに見る。

「あの、私ったら、お金がないわ」

 いったい何事かと身構えていれば、拍子抜けするようなことを言うので、可笑しくなって笑ってしまった。

「またそう笑って。そうやって貴方は私のこの繊細なお心とお気遣いを馬鹿にするのね。知らないんだから」

「いや、違うよ。でもね君、お金の事だったら、昨日だって無かったじゃないか。今になって急に思い出して、すっかり不安になっているのだから、可笑しくって。安心してくれ、お金は君のお父さんからたんまり預かっているから大丈夫だよ、君はまったくそんなこと気にしちゃいけない。いいね」

「まあ! そういう事なら初めに教えてくれればいいのに。そうしたらこんな気持ちにならなくって済んだのよ」

「忘れていたんだ、ごめんね」

「いいですよ! それならいっぱいお買い物しましょうね」

 

 三宮の駅から通りを抜け元町の方へ歩いていく。人の数は三宮からの距離に比例して少なくなっていく。駅から十分、十五分ほど歩いたところで、旧居留地の一角に現れたのが大丸神戸店である。現代的なオフィス街のなかで異国情緒を残した旧居留地は、初めて訪れた時の私をその壮観さで圧倒して見せた。

「凄い、こんな大きな建物に入るのは初めてよ。なんだか緊張してしまうわ。それに洋風な建物が多いのね」

「あゝ、昔ここらに住んでいたのは異邦人ばかりだったからね。これらを建設したのは確か、英国人のハートとかいう人だったね。ここは日本であって日本ではなかったんだよ。まあ、居留地の七割は神戸大空襲で焼けたから、ほとんど立て直されたものだがね」

 私の話を聞きながら、彼女は建物を眺める。彼女を見ていると当時の自分を見ているような気持ちになる。あの時の高揚した気持ちが蘇ってくる。それだけでも連れてきたかいがあるというものだ。

「なんだか人が少ないのね」

 これだけ立派な建物が並んでいるが、がらんどうである。つい数年前まではオフィス街としてこの街は人で賑わっていた。

「経済成長のせいで、どの企業も本社を東京の方へ遣ってしまったからね。ここらのビルは抜け殻さ。それに今では駅が整備された三宮の方が賑わっていて、あまりこちらにまで人が来ないんだよ」

「あら残念。こんな良いところなのに勿体ないわ」

「あゝ、本当にね」

 時代とともに土地も変化していく、時代とともに人の在り方も変化していく。流されて、他に影響を受け、人は人であり続ける。そう考えると、生まれ持った人の本質など無いではないか、そんな風にも思えてくる。過去の私が今の私をつくったとするならば、今の私がこれからの私をつくるのだろう。

「ねえ、これって革靴かしら。それにしては少しキラキラしていて変だわ」

 店の陳列棚に並べられた靴を、初めて見る生き物のように興味津々に眺めている。

「それは、ケミカルシューズだね。皮に寄せて作っているが、確か素材はビニールだったと思うよ」

「そうなのね、なんだか不思議」

「気に入ったものを一つ買っていこうか。この靴なんてどうだい」

「あら! いいわね。ズックではなんだか田舎者みたいで恥ずかしかったの」

 私が選んだのは、三センチほどの高さの黄色いピンヒールであった。ハイカラモダンな女性になりたいとう彼女の要望と、良く動き回るのでヒールが高いと危ないという私の心配との折り合いから、この靴を選んだ。

 そして、もう一足彼女の選んだ紺色の靴と、気に入った洋服をいくつか買い揃えた。

 

 彼女は軽いスキップで私の先を進んでいく。初めて履いた靴でよくもまあ器用にやってのけるものだ。

私は今、満足していた。あの空虚な日常は彼女という存在の到来で見事に打ち崩された。生きているとよくよく実感できる。だからだろう、こんなにも安心できている。大切なんだ。慎重に、壊してしまわないように、不器用な思いやりを持って、私はいまを歩む。

「雨雲が山にかかりそうだ、降る前に帰ろうか」

 山の奥に暗雲を捉えた私は、まだまだこの街を回り足りなそうな彼女にそう告げ、帰路についた。

 私の元を訪れる人はごく僅かである。手紙のやり取りや、約束をしてどこかで会うことはあれど、家まで来るといった者は大学生活から今までで、片手で数える程であった。

 

 朝、目を覚ますと、私より早く起きていた彼女が箪笥の中にしまっていた洋服を一つ一つ手に取っては、宝物のように眺めていた。私が起きたことにも気づかずに、頬を緩めて服を触ったり、身体の前に持っていったり、眺めたりしている。

 マッチ箱がカサカサと音を立て揺れる。そうしてようやく彼女は私の起床に気がつくのであった。

 振り返りざまに見開かれた目が、すぐに恥じらいを映しだす。そうしてはにかんで見せた。

「あら、お目覚めになったのね」

「あゝ、今ちょうどね。それより洋服がお気に召したようで、よかった」

「今日はどの服を着ようかしら、私迷ってしまうわ。だから貴方がきめてちょうだい」

「そうだね、その黄色いワンピースが良いね。上からチェックの羽織ものを着ていくと言い。昨日買った靴ともよくあいそうだ」

「あら! そうね、そうしましょう!」

「まつんだ! 着替えるなら待ってくれ。私はベランダにでているからその間にお願いするよ」

「ええ」

 快活な返事が部屋に響き渡る。

 煙草を吸いながら、今日はどこへ連れて行こうかと、私はこの後の予定を考えていた。ほとんど吸わずに、煙草が燃え尽きてしまったので、もう一本咥える。そうしているうちにコーヒーを淹れ忘れたことに気がついた。まだ着替えている途中かもしれないと思うと、中を覗いて確認するのも憚れる。そうしているうちにまた一本、煙草が燃え尽きる。そうして三本目を吸っている途中で窓が勢いよく開けられた。

「ねえ、どうかしら。似合っているでしょ」

 自信に満ち溢れた声が、朝の空気によく響き、今日の目覚めを知らせる。

「あゝ、似合っているよ。素敵だね」

「あら、口が上手ですね」

 そういうと鼻歌を歌いながら部屋の中へ戻っていく。瀬戸の花嫁だ。昨夜は就寝前にレコードを流していたから覚えたのだろう。

 すっかり馴染んだ。もう、あの不味いコーヒーは必要ない。

 

 新開地の聚楽館で映画を観ていた。ここらは昔、多くの映画館が立ち並んでいたが、神戸の中心が三宮に移ってからは、その他の要因もあるが、以前のような賑わいは鳴りを潜めてしまった。今では日雇い労働者が多く住むドヤ街となった。この映画館もいつまであるか分からない。

 それであっても、彼女からすれば十分に人は多いだろう。劇場内は人で埋まっている。ぎっしりとまではいかずとも、十分な多さだ。映画館に来るのも、映画を観るのも初めてであったらしく、想像以上にこの空間を楽しんでいた。

「驚いたわ! 映画自体もだけれど、あんなに人がいては床が抜けてしまわないかと、私ずうっと気になってしまったわ」

 床が抜けるなどという思いがけない心配事で笑ってしまう。

「ねえ、まだ時間もありますから三宮へ行きましょうよ」

「すまない、今日は三時過ぎに友人が一人、家へ来るんだ」

 家を出る前にポストを確認したところ、手紙が一通届いていた。差出人は葉賀という男である。幼少期からの友人だ。

「あら、そうしたら私、一人で行きますよ。電車だってもう慣れましたから」

「いや、しかしね。君のお父さんからきつく言われているんだよ。だから君を一人で行かせるのは気が進まないな」

「大丈夫よ! まったく貴方って心配性が過ぎるわ。私を字も読めない子どもとでも思っているのかしら」

「いや、だがね。三宮は人が多い分、治安も悪いからね」

 私は話していて、どうも彼女の意思を変えることができないことに気づいてしまった。困ったものだ、無理に家に連れて帰っても尾を引いてしまう。ここは彼女を信じるべきか、それが甲斐性というものか。

「分かった。帰りの電車賃やらなにやらまとめて一万円だ。六時までには帰ってくるんだよ。絶対だかね。あ、それと喫茶店に入ってはいけないよ。ナンパされちゃうからね」

「ええ、わかったわ!」

 彼女を残して私は先に帰路へついた。葉賀が来たのは、三時半ごろである。

「やあ、久しいな」

「あゝ。会えてうれしいよ。まあなんだ、あがってくれ」

 葉賀は私に手土産を渡すと革靴を脱ぎ、部屋へ上がった。

「女でも連れ込んでるのか」

「まあよく分かるもんだ。いや、女性を一人預かっていてね」

「またどうして」

「なにこれと言って理由はないがね。神戸を観光したいらしく一週間ほど預かることになったんだよ」

「ほう、してその彼女はどこに」

 当然の疑問である。預かっていると言っているのに、今ここにいないのだからどういうことかということだ。

「実はね――」

「てことはお前さん、一人で置いて来たのか!」

「いやね、だがあれ以上無理を言ってもいじけてしまうからね」

「ほう、随分優しいんだな。いや、腑抜けか。さては惚れたな」

「そういったのは無しだよ。そういえば君、こっちにはどうしてきたんだい。手紙にはそういった訳を何にも書いていないんだから、君らしいと言えばらしいがね」

「おや、そうだったな。実は急遽こっちへ赴任となったんだよ」

「こんな時期にか!」

「まあ、色々とあってな。お前はまだ働いてないのか」

「あゝ、もう少しこの生活を続けるよ」

「まあなんだ、色々あったと言った後だと信憑性がないが、教師もいいもんだ。お前さんだって免許は持っているんだから、一度教師をしてみればいいじゃないか」

「いや、駄目だね。僕は教師なんて勤まるほど大層な人間じゃないよ。自分自身の事すらままならないんだ。誰かを教えるだなんて到底無理な話さ」

「相変わらずだな。だが、教師は教えるだけじゃないんだぜ。自分だって変化していく、停滞の沼で腐っていくよりいいがな。辛気臭くなっちまった。飲もうか」

 先ほどの手土産は清酒であった。私は適当に肴を用意して、日も出ているうちに二人で飲み始めた。

 葉賀とは気が合う。互いに好き嫌いが似ている。そして互いの距離感と、関係性を正しく理解できている。互いの領分を理解しながら、平行な関係を保っている。

 

 無意識のうちに時計を何度も見ていたのだろう。約束の時間に近づくほどに組んだ足が小刻みに揺れ出す。しまいには、酒に手も付けず、葉賀の話も心ここにあらずで、時計をじっと見つめてしまった。

 時間だ。私は立ち上がり、玄関の戸を開けた。そうして間抜けに顔だけ出して、左右を見渡すのだが人影一つない。

「逃げられたか、放っておけ。君が悪いんじゃないんだから」

 葉賀の言葉はただ鼓膜を揺らすだけで、先ほどからなっている耳鳴りと変わりなかった。焦りも苛立ちも、本心を隠す防衛本能に違いない。

 無様だね、不安なんだろ。気取って見せても無駄さ。

「いや、電車が遅れているだけかもしれん。あるいは、駅から家までの道を忘れてしまったのか。後五分、待っても来なけりゃ、辺りを見てくるよ」

「口数が多いな。いいよ、私が残っているから五分と言わず、今から行くと良い」

「そうか、そうか」

 

 並べられた草履にそのまま足を通し、勢いよく家を飛び出すと駅までの道のりをたどった。そうして駅まで着くが彼女の姿は見当たらない。そこらを見渡して家まで歩いて戻る。思った以上に力を込めて扉を開けたので、大きな音がなり葉賀が驚いている。一人、まだ部屋には葉賀一人である。また駅まで走っていき、そうして改札前に並べられた椅子に座る。幾度となく人が流れていく。待ち人未だ来ず、煙が揺らめくのみ。肺が痛いな。吸いすぎただろうか。明日はきっと、重たいだろうね。

 

 月が綺麗に空に浮かんだ頃、駅から彼女は出てきた。見ればなんとも情けない表情でいるので、叱るに叱れなかった。私は数年老いてしまった気分だよ。葉賀を随分待たせてしまった。

 家に戻ると、葉賀の姿は既に無かった。机の上には置手紙が一つあり、紙の中心に大きく、女現れず、と一言書かれており、幾何かの空白の後、所要の為、誠に勝手ながら借家に戻る。明日の正午。と達筆な字で書かれていた。

 翌朝、空には雲が重くのしかかっていた。

「これは、一日雨かね」

「そうしたら、今日は何にもできないの」

 彼女は小さな口をへの字に曲げ、雲を眺める。

「今日は家でゆっくりしようじゃないか、昼には葉賀も来るから、何か話を聞くと良い」

「あら! 昨日は会えなかったから楽しみね。でしたら、洋服は何を着ようかしら」

「着飾らなくっていいよ。私と葉賀と、君の三人だ」

「いやだわ、貴方って乙女心というものを一つも分かっていないのね」

「何を! そのぐらい分かった上で言っているんだ。君こそわかっていないね」

「やけになっちゃって、余裕がないと女は寄って来ませんよ」

 悪戯な笑みが見て取れる。してやられたか、突然恥ずかしくなってしまった。

「私は着替えますから、見ては駄目よ」

「あゝ、もちろん」

 

 ベランダに出ると、ぽつぽつと雨が降り出した。雨の香りと共に、清涼感のある青々とした香りが鼻腔をくすぐる。裏手の少し離れたところにある竹林から風に乗って流れてきたのだ。大きく深呼吸すると、少し肺が痛む。だが不快感はない。落ちる雨粒を一つ一つ眺めた。

 ベランダの窓が開く。

「今日は雨だから、水色のワンピースにしました」

 水色のワンピースにウエストのあたりで絞められた白いベルト。艶めかしい足がすらりと伸びている。何か感想が欲しいらしく、後ろで手を組んで腰を起点に体を左右に揺らし私を見つめている。

「いいじゃないか、君。センスが抜群だね」

「やっぱり! そうでしょう。私ったらもう十分に都会人だわ」

 喜んで、くるりとその場で回転して見せる。振り返りざまの笑顔が艶やかで、心に強く残る。

 

 葉賀は正午丁度に家を訪れた。その頃には随分雨脚が強まっており、傘をさしていたにもかかわらず、葉賀のズボンはすっかり濡れていた。私は自分のズボンを渡し、履き替えさせた。その後、葉賀の持ってきた弁当を三人で食べた。

 彼女は葉賀の話のおかげで退屈なしに過ごしていた。彼女の反応が面白いのか、葉賀の奴も調子に乗り、尾ひれ背びれをつけて話をしだした。当たり前のように嘘な話でも、本気で彼女が驚いているのだから、たいそう楽しいに違いない。葉賀の話声と、彼女の笑い声を聞きながら、窓をたたきつける雨を眺めた。

 人とともにいるときの方が余程孤独を感じる。意地っ張りではいけない、だからこんなに孤独になる。分かっていても、簡単には変われない。これまでの人生で蓄えてきたのは、成長の糧などではなかった。人間は成長などしないさ。変化はあるがね。肥え太った醜い姿の人間で、世の中溢れている。嫌だね、全く。私さ、私。

 灰皿を持ってきて机に置き、煙草を咥えてマッチを擦る。ワンテンポ遅れて勢いよく火が付くと、唇に熱を感じながら深く吸い込む。少し湿気って、辛味を感じる。顔を上に向け、肺の中の空気を全て吐き出す。

「あら、中でも吸うのね」

 驚き半分、不思議半分と言ったところか。

「おや、では僕も一本」

 同じように葉賀も煙草を吸い始める。

「吸ってはいけないなんて決まりはないからね。嫌だったかい」

「嫌じゃないわ。今までは中で吸わなかったから、驚いただけよ」

「まあね、今日は雨だから仕方がない」

 彼女はまた葉賀に話の催促をした。そうして面白可笑し話を聞きだしていた。どうやら、彼女は葉賀を気に入ったらしい。

「ねえ、明日も葉賀さんはお暇なの」

「そうだね、明後日まで休みとういうか、暇だね」

「そうしたら明日も来るといいわ。ねえ、修治さん。明日は何処へ行くの」

「お、そうだね。明日は明石の中崎公会堂へ行こうか。そこらで、昼飯も済ませよう。いくつかお店があるからね」

「葉賀さんも必ず来るんですよ。約束ですからね」

「そこまで言われてはね、あい分かった」

「おっと、葉賀くん。そうしたら明日は車で来てくれ。歩いてじゃ遠いからね」

 明かりのない部屋には雨音がよく響いていた。幾ばくかの不安が、何処から湧いて出たのか、意識を締め付ける。寝返りをうつ衣擦れの音さえ耳へ入り込んでくる。

「ねえ、もう寝てしまったの」

「あゝ」

「そう、なら独り言ね。私、葉賀さんがとおっても気に入ってしまったわ」

「そうかい」

「それだけなの、つまらないわ」

「独り言だからね」

「そうでしたね」

 それだけ、ただそれだけ言うと彼女は寝てしまった。部屋にじんわりと広がる静寂とともに、私は意識を手放した。

 

 翌朝、雀の声で目を覚ます。彼女はまだ眠っている。私は起き上がって、そうっと彼女の寝顔を覗きこんだ。まだあどけない、少女の顔だ。十七か十八か、そのぐらいの年齢を世間では少女と呼ばないのかも知れないがね。だが、この顔は、純粋なこの顔は、十分に少女だ。

 ベランダの椅子に着いた水を手で払う。そうして椅子に座り、煙草を飲む。わずかな気だるさがさっぱりと消えていく。時間の流れが曖昧だ。思い出したように突然動き出すのだから、知らぬ間に数十分は過ぎている。

「おはよう」

 眠気のない爽快な声で彼女はそう言った。

「おはよう。いつ起きたんだい」

「ほんの先ほどよ。あ、晴れた。いい朝」

 ベランダから上半身を乗り出して空を眺めている。雨上がりの風が勢いよく吹いて、長い髪がふわりと持ち上がる。時間はゆっくりと進み、一つ一つの動作が鮮明に見て取れる。いい朝だ、コットン気分だね。

「あ! これ何が植わっているの」

「あゝ、それは紫陽花だよ。じきに咲くだろうね」

「そうなの、あまり咲く前の紫陽花ってみないから。咲いたら綺麗でつい見てしまうのに、不思議だわ。ねえ、どうせですから一つ、詠んでみせて」

「無茶言うね…… そうだね。こういうのはどうかな」

 

 朝露に 待ちつ離れず 紫陽花の 蕾は色を まだつゆ知らず

 

「ふうん、いいわね。なんだかわからないけれどいいわ。どういう意味なの」

「君、それは駄目だよ。私が言っちゃあ恥ずかしい」

「あら、確かにそうね」

 そういって少しの間難しい顔をしてみせるのだが、幾許もなく興味を失ってしまい「もう中へ入りましょ」と言って一人戻ってしまった。

 綺麗な顔して皮肉っちゃいけないね。からかって見せても、相手が気づかないのだからいけない。

 

 紫陽花は 蕾の色を つゆ知らず 紫炎漂う 頽廃の朝

 

うん、まだ幾分こちらの方がいいね。やさぐれちゃって。

 葉賀が来るまでの間は彼女のファッションショーであった。先日一人で買った服もあり、何通りかの組み合わせを見せられた。どれも似合っており、観ていて飽きない。何より彼女が楽しそうに、部屋の中を歩いて見せたり、くるりと回って見せたり、自由にポージングを取るものだから、こちらとしても随分と楽しめた。彼女の素直さは、眩しいほどに美しく輝いていた。

 彼女は、葉賀の乗ってきた車に興味津々であった。紺色のスカイラインは、テレビのコマーシャルで『愛のスカイライン』として世に知れ渡っている。ハイカラな車に乗れたことが嬉しかったのだろう、窓の外へ意識は向かず、後部座席から顔を出して運転席を神妙な顔つきで眺めている。時折頷いてみたり、唸って見せたりと忙しそうであった。

 

 中崎公会堂へ着くと私は我先に車から降りた。扉まで走っていくのだが、振り返ればまだ葉賀は車の横にいる。彼女は車から降りてすらいないので、おやと思い戻ってみれば、エンジンの止まった車の中でいつの間にか運転席に移動した彼女が、ブレーキやらアクセルやら、ウィンカーやらライトやら様々といじり倒していた。それを横から葉賀が色々と教えているわけだ。

 私は助手席へもう一度乗り込んだ。

「お嬢さん、モダンだね。運転ができるだなんてクールだよ」

「やあやあ、安心して助手席に座るといいよ。なんてたって、シティーガールですもの。車の運転だって簡単にできてしまうわ。月にだって送り届けてみせます」

「いかすね、こりゃ惚れちまいそうだ。それじゃ海沿いを軽く流しておくれ。ほらエンジンかけるよ」

「あらいやだ! 冗談よ。本当につけちゃ駄目。ほら、降りましょう、もう目的地ですよ」

「おや、そうだね。すっかり目的地」

 そうして三人で公会堂の中へ入る。空は良く晴れ、海は太陽の光を反射していた。

「んー、ただの建物ね。なんだか退屈だわ」

「なに、僕らは単に建物を見に来たんじゃないんだよ。私はここに、過去を見に来たんだ」

 私は大広間を走って、端まで行くと両手を広げて彼女へそういった。

「ここでね、かの夏目漱石先生が演説をしたらしい。そうしてそれを観に岡山から内田百閒もここへきたそうだ。それ! ちょうど君がいる位置ぐらいで聞いていたんじゃないかね。鼻毛の事でも気にしていたに違いない。いや、冗談。きっとそこから、窓の外、光り輝く海を彼も君と同じように眺めたんだ」

「そう考えると、なんだか変で面白いわね」

「そうだろう。私はまさに今まで頭にあったイメージを、この建物を通してより明確にしたんだ。まるで現実のように想起したんだ」

 それから少しの時間、他の部屋を回った。外に出ると周りを三人で散策した。正午過ぎには腹がすきだし、近くの定食屋で刺身の定食を食べた。「海が近いからこんなにお魚が美味しいのね」と彼女は口ずさんでいた。適当な白身が四切れ、赤身も四切れ、あと細く切られた烏賊であった。それにご飯とみそ汁、おしんこがついており、満足のいく内容であった。

「ねえ、この後はどうするの」

「さっき遠目に水族館が見えたが、そこへ行くか」

「いや、あそこは先月閉館したんだよ」

「そうなのか、立派に見えたがな」

「ああ、立派だったがね。須磨の方にもっと立派な水族館ができたもんだからみんなそっちへ行ったんだよ。三宮と言い、東京と言い、人は流れるが、残った土地は廃れるばかりで、イナゴが通っていった田んぼみたいだね。内実は違うがね、結果だけ見ると似たようなもんだ」

「まあそれも経済成長が終わるまでだろうよ。だが、終わってしまえば日本に待ち受けるのは緩やかな破滅だろうがな。俺が生きている間には関係のない話だろうよ」

「さあね。まあ、先のことばかり考えて潰れちまうよりは、関係ないと言い切ってしまった方が楽でいいね」

「つまらない話はやめましょうよ」

「そうだね」

 

 昼ごはんの後は、海沿いをドライブした。今回は私が後部座席に座り、彼女が助手席だ。窓からは潮の香りが流れ込んでくる。流れゆく景色を見ることなく、私は二人の笑顔を眺め続けた。浮かれた車内で、私は過ぎ去った笑顔を数えて過ごした。何故だが哀愁が香って、終わりを感じた。海のせいだろうか。

 お香の赤い光がぼんやりと浮かんでいる。白檀の甘い香りが部屋に充満する。眠れなかった。それは彼女も同じであった。すぐ横、こんなに近くにいる。寝る前に飲んだウイスキーのせいでいやに喉が渇く。

「ねえ、いい香りね」

「眠れないか」

「いいえ」

「そうか、なら眠るといい」

「ねえ、ずうっとソファじゃ、身体を痛めてしまうわ」

「あゝ」

「私、いいのよ」

 目的を持たない言葉が、煙のように漂っている。

「明日は一日、君は葉賀のところだ」

「ええ、そうね」

「そうして、明後日にはもう帰宅だ」

「はやいわ」

「喉が渇いた」

「入れましょうか」

「いい、自分でやるさ」

 彼女は電気をつけようとしたが「いい、つけなくて」と私がいうとまた布団に身をゆだねた。自分の足音がよく響く。蛇口をひねる音と、そこから流れる水の音、飲み込んだ喉の音。また響く自分の足音。布団の上で寝返りを打つ彼女の音。吐息の音。

「あら、お香が消えてしまったわ」

「もう一度つけるよ」

 マッチの炎で一瞬部屋の輪郭が露になる。そうしてまた、弱い赤が寂しげに浮かび上がる。

「消えてしまったら、もう一度つけてね。今晩は何度でも、つけてね」

「あゝ。葉賀はいい男だ。こんな男と長い事付き合いが続いているだけで、よくわかるだろ」

「ええ。でも、つまらないわ。彼」

「つまらない男は、誠実な男だよ」

「結婚するなら、そういった男性の方がいいのかもしれないわね」

「あゝ」

「でも、私まだまだ若いのよ。青春を知らなくてはいけないわ、そうでないと私がつまらない女になってしまうのよ」

「低俗な魂に堕することは青春じゃないよ」

「そう、でもこれは低俗なんかじゃないのよ」

「駄目だ。僕が低俗だからね」

「そう、それでもいいの。私は全然いいのよ」

 彼女の肌があたる。こいにあてられる。

「また、消えてしまった。つけないとね」

「ええ、そうね」

 

 幾度となく、部屋は輪郭を表し、甘い香りが漂い続けた。数えはしなかった。幾度か過ぎ、忘れた頃に朝はきた。

 今日は彼女を葉賀のところへやった。私は彼女には用事があると伝えた為に、部屋にいることもできず、わけもなく神戸港の方まで来ていた。舟が行き来し、ちらほらと人がいる。いつまでも潮風に打たれていたい。孤独な世界にいて、海はいつでも癒しを与えてくれる。意味なんてなく、全てを受け止めてくれるような気がするんだ。

 夜まで時間をつぶさなければならない。何も考えず、山側を目指して私は歩き出した。

 ハッピーエンドってやつは、どうしてもご都合主義や楽観主義のなせるわざである。ならばバットエンドはどうだろうか。あれもまたご都合主義か悲観主義のなせるわざであることに違いない。事実に沿って行けば、どちらのエンディングも存在しない。それらが存在するのは、結局人がそうするからだ。事実は常に人によって捻じ曲げられる。だが、それは決して悪いことだと私は思わない。だってそうだろ、事実に沿った世界はつまらないんだから。自然主義だって、あれでいてぜんぜん小説だよ。事実じゃないんだ。

 私たちが言葉にしてしまえば、それは全然事実じゃなくなってしまう。ノンフィクションなんてフィクションさ。だいたい、現実だって、それが現実だといったい何が自分に示してくれるというんだ。どうせ分かりはしないんだから、自分なりに楽しむなり、悲しむなりした方が生きていける。楽観も悲観も、そういった風に考えると、変わりやしないさ。生きようじゃないか。そこだけが、ただ私たちの人生だから。

 

 福原で一人女を抱いた。何とはなしに。いや、確かめたかったのかもしれない。「恥ずかしながら帰って参りました」と頭に手を回し、薄ら笑いを浮かべた男がすれ違いざまに入っていった。口の周りに青髭をはやした、汚れた服のニコヨンだ。最近はこの言葉をよく耳にする。流行というやつだ。どうでもいいね、あれは本人が言うから意味があったんだ。男は今から、女を抱くのだろう。そうして得るものは何なのか。やっぱりどうでもいいね。

 私は帰り際に彼女を葉賀の家まで迎えに行き、そうして自宅まで二人で戻った。メロドラマなんか求めてはいけないよ。中華でラザニア頼むぐらい見当違いだからね。

「葉賀の奴はどうだった」

 私の問いが、どういった問いなのかを彼女はよくよく理解していた。

「そうね、詰まらない男だったわ」

「そうか、恋はできたかい。君はこの旅行にそれも求めていたんだろ」

「違うわ、恋なんて求めてはいないのよ。私はドキドキしたかっただけなの。知らないことを知りたかっただけなの。そう、冒険がしたかったんだわ!」

「冒険ときたか。これまた、難しいね。彼では冒険にならなかっただろう」

「ええ、でももう十分よ。私、冒険できたのだから」

「それじゃあ、明日の心配はいらないね」

「ええ! 貴方は大丈夫かしら」

「あゝ、きっとね」

 狭い布団に二人で並んで眠った。彼女はあっという間に寝息をたてたが、私はあまり寝付けなかった。時折彼女の前髪で遊んでみるのだが、深い眠りにあっては、目を覚ますことはない。上品な甘さが、鼻腔をくすぐる。淡い光を見つめ、知らぬ間に私は眠った。

 

 翌朝、彼女の姿はなかった。

 昨日あったほのかな安心はすっかり消え、焦燥感に駆られて部屋を飛び出した。家の周りを走り回ったが、彼女の姿は見当たらない。もしやと思い、葉賀の借家まで走っていったが、誰もいなかった。私は一度近くの公園まで行った。岸和田さんが一人、ベンチに座って酒を飲んでいるのが遠目で見えた。既視感のある光景を見て、少し冷静さを取り戻した。だが、彼女は何処へ行ったのか、そう疑問を抱きながら、坂を駆け上がり、自分の部屋へと戻った。

 やはり、部屋に彼女の姿はない。冷静になって、部屋の中を見れば机上に紙が一枚置かれていることに気がついた。

 海

 そう一文字書かれた紙だ。私は、二日前に行った、中崎公会堂近くの海辺へ向かった。海ならばあそこだと、変に確信があった。初めから決まっていたかのようにさえ思えた。

 走った。煙草のせいか、随分と肺がやられており、すぐに苦しくなった。目には汗が流れ込み、不快だ。関節も鈍くなり、筋肉が重くなる。それでも走り続けた。

 彼女は海の輝きを背に、素足で浜辺を歩いていた。右手には脱いだ靴を持っている。海風で、水色のワンピースが靡いている。

「おーい!」

「なーあに!」

 私は疲れなど忘れて彼女の元へ歩み寄った。

 二人して見つめあうと、今まで言おうとしていたことなどすっかり忘れてしまって、ただ笑いが込み上げてきた。私が笑うと、彼女も同じように笑う。声をだして、さんざん笑いあった。

 彼女の手を握りしめて、あの変わらず輝かしい瞳を覗き込んで言った。

「好きだ、この時間が、何百、何千回訪れようとも、僕は君が好きだ」

「可笑しな言い回しをするのね、やっぱり貴方、ロマンチストだわ。とおっても、ロマンチスト」

 そういうと彼女はくすりと笑って見せた。そうして、ワンピースを軽やかにに靡かせ、陽気に去っていく。

 浜辺には一人、私がただ一人。パステルに澄んだ空が海と交じり合い、何処までも広がっていく。繰り返し響く波の音が、今はとても心地いい。心は静謐な美しさで満ちている。葉賀も、そして彼女もいない。なに、初めっからいないんだ。ただ少し、そう、ほんの気まぐれに考えてみた。ただ、それだけだ。