夜の繁華街の一角にある大衆居酒屋はスーツを身にまとい仕事終わりで疲れ果てた顔をした客ばかりだった。神川咲麗奈(かみかわえれな)はその中に紛れてカウンター席でほとんど毎日欠かさず晩酌をしていた。咲麗奈のお気に入りは、春はホタルイカの醤油漬け、夏は唐揚げと枝豆、秋はホッケの干物、冬はおでんだった。咲麗奈はこれを楽しみに昼間は一生懸命働いていた。
OL生活六年目を迎えた咲麗奈はチーム長に昇格し、より一層気合を入れて仕事に励んでいた。子どもの頃からインテリアデザインの仕事に就きたいと夢見ていた彼女は芸大を卒業後、見事にその夢を叶えた。しかし、去年から異動してきた上司からパワハラを受けることが多く、ストレスを抱え込むことが増えた。その悩みはチーム長になってからも変わることはなかったが、持ち前のプライドの高さから弱音を吐くことなく毅然とした態度で仕事に取り組んでいた。
仕事を終えて、いつものように居酒屋で晩酌をしていた。ホタルイカの醤油漬けを食べながら、昼間に上司から嫌味を言われたことがふと頭をよぎってイライラしていた。ぶつけようのない怒りを募らせると力が入り、ホタルイカを上司に見立てて割り箸でホタルイカをぐちゃぐちゃに切り裂いた。ホタルイカには申し訳ないと思いつつもつい感情を先走らせてしまった。気を紛らわせようとビールをぐびぐびと吞んだ。すると、隣の席の紺色のスーツを着て眼鏡をかけた細身の同年代ぐらいの男性から声を掛けられた。
「いい飲みっぷりですね。いつもこんなに飲んでいるのですか」
男性も頬をピンクに染めていて少し酔っている様子だった。
「ほっといてもらえますか」
イライラしている咲麗奈は彼をあしらった。
「お姉さん、初対面なのに中々ですねぇ。そのホタルイカ、俺も食べてみたいな」
咲麗奈は男性のことを無視して黙々とホタルイカを食べていた。男性がホタルイカを食べる頃には咲麗奈は会計を済ませ、居酒屋を後にした。アパートまでゆっくり歩いて帰っていると、後ろから猛スピードでドタバタとこちらに向かってくるような足音がした。
「お姉さん、スマホ忘れてましたよ」
男性は咲麗奈がカウンターテーブルにスマホを置き忘れていることに気付き、店から走って届けた。
「わざわざどうも」
内心はこんな失態を今までしたことがなかったので驚きと焦りと恥ずかしさでいっぱいだったが、冷静を保った。
「お姉さん、この辺の人?」
咲麗奈は男性に感謝しつつもストーカーされるのを恐れて軽く会釈をした後、早歩きでアパートまで帰った。
翌日の夜は居酒屋に行くのをやめておこうかと迷ったが、期間限定のホタルイカの醬油漬けが今日までという誘惑には逆らえなくて、昨日の男性と遭遇する覚悟で居酒屋に向かった。店内を見渡しても男性の姿はなくて、少しほっとした。 そして今日までのホタルイカをビールと一緒にゆっくりと味わった。
「今日もホタルイカなんですね」
隣を見ると男性がニヤッと笑って立っていた。咲麗奈はそっぽを向いて知らんぷりをした。男性は気にせず喋り続けた。
「俺は昔、釣りが好きでよくイカを釣ってたんですよ。そしたらある日顔に墨がかかってコナンの犯人みたいになっちゃったんです。運の悪いことにそれが原因で当時の彼女にカエル化されちゃって」
咲麗奈はそっぽを向きながらも男性のその姿を想像した。お酒が入っていたからなのか咲麗奈は口元を隠して笑った。
「あ、遅くなったけど俺、神川明良(かみかわあきら)っていいます」
「私も神川なんだけど」
「何それ、運命ですか、下の名前は何て言うのですか?」
「咲麗奈」
明良は少しずつ咲麗奈が自分に心を開いてくれたと思い、さらに話を続けた。
「咲麗奈さん、いつもここに来ていますよね」
「そうですね、まぁ、ほぼ毎日。どうして?」
「実は俺も一年ほど前からよくここに来ているのです。その度に咲麗奈さんのことを見かけていたので」
咲麗奈は明良もずっとこの居酒屋に通っていることに気が付いていなかったので、一方的に自分のことを見られていたと思うと少し恥ずかしくなった。
「咲麗奈さんは普段何をされているのですか」
「インテリアデザインをしています」
咲麗奈は誇らしげな様子で明良の目を見た。
「インテリアデザインですか。じゃあ、俺の塾の内装も変えて欲しいななんて」
「塾?」
「駅前で塾講師しているんです。一応、正社員として。個別塾で小学生から高校生までたくさんの子供たちが通っています」
よく見ると明良の右手に鉛筆の跡があった。
「塾長が管理しているのですが、どうも内装が今一つで。これがその部屋なんですけど。これじゃ伸ばせる力も伸ばせないなって。もっと生徒に快適な環境を提供したくて」
明良はスマホの写真を見せながら塾の内装を説明した。塾はテナントビルの一室にあり、机上には書類が積み上げられていた。机は部屋いっぱいに並べているので移動に不便なことが容易に想像できた。咲麗奈もこれは改善の余地があると感じた。一見すると不真面目そうな明良だが、職場に対する思いは熱いことに咲麗奈は感心した。
「土日で良ければ」
「じゃあ、今度の日曜日の一三時からお願いしますね」
明良は今日一番の笑顔で早速約束を取り付けた。
「私に拒否権はないのね」
咲麗奈はちょうど予定がなかったので明良の依頼を引き受けた。明良は咲麗奈のツンとした態度とは反対にまるで無邪気な子犬のように喜んでいた。
日曜日になり、咲麗奈は明良の塾に向かった。ビルの前に明良が待機していて、塾まで案内した。塾はビルの六階にあり、窓からは遠くに海が見えて良い眺めだった。しかし、室内は物が多くて歩きづらい。
「今日は塾長も生徒もいないから気にせず、自由にしちゃってください。一応、今日咲麗奈さんが来ることは許可されているので。塾長は勉強は得意だけど、こういうのは苦手みたいで咲麗奈さんのことを話したらぜひお願いしたいと仰っていました」
「そうなんですね。では、早速始めましょう」
まず、咲麗奈は机の数を減らし、動線の確保をした。それから、観葉植物の配置を変えて、本棚と机の位置も変えた。明良が手伝ったおかげで作業はスムーズに進み、室内は新しく何かを導入したわけではないのに見違えるほど改善された。
「ありがとうございました。塾長も生徒も絶対に喜ぶと思います。今度何かお礼をしますね」
「いえ、スマホを届けてくれたお礼でしたことなので」
「咲麗奈さん、この後、まだ時間ありますか」
「ええ」
「ちょうどこの下に美味しいコーヒー屋があるんです」
明良はビル内のカフェに咲麗奈を招き、コーヒーとケーキをご馳走した。
「咲麗奈さんは、ずっとこの仕事をされているのですか」
「はい。大学を出てからずっとそうです。子どもの頃からの夢だったので」
明良は咲麗奈の顔をまじまじと見ながらなるほどと相槌を打った。
「俺はずっとこの仕事をしています。本当は小学校の先生になりたかったんですけど、試験に落ちちゃって。教育大学を出たのに情けないですよね。でも、今の仕事が楽しくって」
咲麗奈は愛想笑いでゆっくりと相槌を打った。
「そうだ咲麗奈さんは休日に何をされているのですか」
「空間デザインのヒントを求めにホームセンターに行ってみたり、家で映画見たり、たまに妹がうちに遊びに来たりと色々です」
明良は咲麗奈のことを知っていくのが嬉しくて明良は質問を続けた。
「妹さんがいるのですね。何をしている人なんですか」
「ファッションデザイナーでアジアを中心に飛び回ってます。だから会っても半年に一回とか」
「そんな若いのにすごいですね。ご両親は反対されなかったんですか」
「反対も何ももういないから」
咲麗奈が表情を曇らせるとさっきまで盛り上がっていた明良は真顔になった。
「もういない……?」
「母は十年前に心臓病で、父は六年前に事故で亡くして、今はもう妹と二人なんです。学生時代は父の妹の面倒になってたのだけど、性格上衝突ばかりで折り合いがつかなくて。もう連絡も取ってないんです」
明良は咲麗奈にデリカシーのない質問をしたことを後悔して、どんよりとした顔になった。
「すみません……」
「いいんです。もう過ぎたことなので」
「そういえば、咲麗奈さんの好きな映画ってなんですか」
このままだと場が持たないと感じた明良は咄嗟に話題を変えた。
「桜のような僕のハニーです」
「知ってます、悲しいラブストーリーですよね。俺の家、あのロケ地の近所なんです」
明良がそう言うと、咲麗奈は前のめりになって目を大きく見開いた。
「あの映画感動して、大好きなんです。撮影現場とか見ました?」
咲麗奈は突然早口になり、初めて明良に質問した。
「咲麗奈さんからの質問って嬉しいな。でも、どうも撮影は夜中にあったみたいで、俳優さんとかカメラマンは一切見かけてなくて。撮影で使われたお店にサインが飾ってあるらしいです。折角の質問なのに申し訳ないです」
「いや、そんな謝られることでもないので。その店って分かります?」
「分かります。今度、一緒に行きます?」
「生憎、こっちも忙しいので一人で結構です。お店の名前を教えてください」
「僕、合わせます。いつならいいですか」
明良はそこから一歩も譲らず、咲麗奈が沈黙しても予定を聞き出すまで粘り、咲麗奈は来月ならと明良との約束を取り付けた。そこから映画の話や仕事の話などをして夕方にはカフェを後にした。帰り際、咲麗奈の左肩がズキンと痛んだが日頃の疲れだと思い、気に留めなかった。
一ヶ月が経ち、約束の日になった。咲麗奈はあの大好きな映画のロケ地に行くのが楽しみで朝早くに目が覚めた。普段気ないワンピースまで着て、本当にこれだけが楽しみなのか疑うぐらいだ。待ち合わせ場所に行くと、明良は既に待っていた。
「おはよう、咲麗奈さん。本当に来てくれるなんて」
「おはようございます。早く行きましょう」
咲麗奈たちは映画のロケ地の雑貨屋まで足を運んだ。中に入ると、咲麗奈は一つ一つの雑貨を手に取り、画面の向こうの世界に入れたと感動していた。明良はそんな嬉しそうな咲麗奈を優しく見守っていた。
雑貨屋に数十分いた後は明良のおすすめの和洋レストランで食事した。
「素敵なお店ですね。わざわざ調べて下さったのですか」
「いえ、昔、元カノと来た時にご飯が美味しくて、ぜひ咲麗奈さんとも行きたかったんです」
明良の回答になぜか咲麗奈は不満そうな顔をした。明良はなぜ咲麗奈がそんな顔をするのか分からず、注文した自分のハンバーグを一切れだけ咲麗奈に分けた。咲麗奈はありがとうと口角だけ上げて返事をして、食べた。レストランを後にすると咲麗奈が用事を思い出したと言い、まだ昼間なのに解散した。
数日後、咲麗奈は明良の塾に顔を出した。
「咲麗奈さん、どうしたんですか、忙しいのにわざわざこんなところまで。何かあった感じですか」
「仕事で近くまで来たのでそのついでです」
「本当は僕に会いたかったんじゃないですか」
「そんなこと……」
咲麗奈はなぜ明良の塾まで足を運んだのか自分でもよく分かっていなかった。気づいたら足が勝手に明良のもとへ動き出したような感覚だった。答えを出せないでいると、奥から塾長が現れた。
「君がもしかして模様替えしてくれた子かな?」
塾長は五〇代後半ぐらいの男性で、中年太りしていて、四角い黒ぶちメガネがいかにもインテリ系という雰囲気を醸し出していた。
「はい」
咲麗奈がそう答えると塾長は笑顔でお辞儀をした。
「あなたのおかげでうちの塾はがらりと良くなりました。生徒たちの成績も伸びたんですよ。本当に感謝しています。ありがとうございます。事前に来るのが分かっていたらお茶でも用意していたのに」
塾長がそういうと明良も後ろから何度も頷いていた。
「それには及びません。これからまた仕事があるのでこれで失礼します」
咲麗奈は小走りで塾を後にした。そこから何回か咲麗奈は仕事の合間を見ながら塾に顔を出すことが増えた。
季節は変わり、気温が上がって冷たいビールが美味しい時期になった。相変わらず咲麗奈の左肩は痛みが続き、湿布を張っても収まることはなかった。そんな日でも咲麗奈は仕事が終わると居酒屋のカウンター席で晩酌をした。
「なんでまだ痛いんだ……」
咲麗奈は小声で独り言を言いながら左肩をさすっていた。
「こんばんは、咲麗奈さん。最近、暑くなってきましたね。ここで会うのは久しぶりですね。なんか嬉しいな」
この日は明良が久しぶりに居酒屋にやってきた。
「こんばんは。あなたもビールどう?」
「いいですね。唐揚げも食べましょう」
明良のビールが運ばれると、二人はジョッキを合わせて乾杯した。
「そういえば、最近、咲麗奈さん、よくうちの塾に来ますよね。その度に他愛もない話だけして、すぐに行っちゃう。いつも仕事を抜け出して来てるの怒られないんですか」
「昼休みとか出張で電車の時間に余裕がある時しか行ってないので問題ないです。いけませんか」
「こっちはむしろ嬉しいぐらいなんですけど、どうしてわざわざ来るのかなって不思議で。あ、もしかして、内装の点検ですか。それなら俺がするのに。俺も生徒を教えてない時に抜けてますけど、それでも塾長の目を盗んで咲麗奈さんに会うの大変なんですよ。まぁ、なんかミッションインポッシブルみたいで楽しいですけど」
「それはごめんなさい。内装のことは何も心配していません。ただ、気付いたら隙あらば足が向いているんです。自分でもよく分からなくて」
酒に強い咲麗奈だが、頬を赤らめて下を向いたまま話し、明良はニヤニヤしながら嬉しそうにしていた。
「それって……咲麗奈さん、俺のこと好きってことじゃないですか」
咲麗奈は飲みかけのビールを吹き出しそうになった。
「私はそういう目で見てるわけじゃないです」
咲麗奈は正面から否定するも、明良はニヤニヤしたままだった。
「じゃあ、わざわざ来なくてもいいですよね。ちなみに俺は咲麗奈さんのこと好きですよ」
まさかの明良の告白に咲麗奈は自分の耳を疑った。
「今なんて」
「俺、咲麗奈さんのこと好きですよ。割と真剣に」
咲麗奈は明良の気持ちを聞いても不快にならなくて、拒絶する理由がなかった。しかし、恋愛経験のない咲麗奈はすぐに告白を承諾する気にはなれなかった。二人は何の会話もないまま頼んだ唐揚げをむしゃむしゃと食べた。会計を済ませると、明良は店の外で咲麗奈を呼び止めた。
「咲麗奈さん、僕は初めて見たときからずっと好きでした。お話しできるようになって嬉しいです。僕とお付き合いしてください」
咲麗奈は自分に真剣にぶつかってくる明良に戸惑った。
「酔った勢いでこんなこと言われても、明日には忘れてますよ」
咲麗奈がそう言うと、明良は首を振った。
「俺はチャラそうに見えるし、教員採用試験も落ちたし、塾で働いている以外何にもないけど、酔った勢いで女性を弄びません」
明良の目は嘘ひとつないことが伝わる真剣な目つきだった。
「はい」
咲麗奈は無意識に告白を承諾した。明良はキョトンとした顔になった。
「え、いいんですか。咲麗奈さんもだいぶ酔ってませんか」
「私はそんな女じゃない」
咲麗奈がそう言うと、明良はいきなりハグをした。
「これは夢ですか。泣いていいやつ……?」
明良は咲麗奈に抱き着いたまま嬉し涙を流した。咲麗奈もこの瞬間だけは左肩の痛みを忘れることができた。
「いいよ」
咲麗奈も嬉しそうに優しい口調でそう答え、二人はキスを交わした。この日から二人の交際は始まり、敬語を使うことはなくなった。
数日後、二人は付き合い始めてからの初デートの日になった。明良の提案で期間限定のアニメ展に行きたいと一緒に美術館へ出掛ける約束をしていた。しかし、当日になって咲麗奈は熱を出してしまい、明良に電話をかけた。明良は見舞いに行きたいと聞かず、咲麗奈は住んでいるアパートを教えると明良はすぐさま咲麗奈のアパートに着いた。明良はお見舞いにフルーツゼリーを持ってきた。
「今日はごめんね。美術館の展示は明日までなのに」
咲麗奈は明良の手を取り、謝った。
「いいよ。こんなこともあるよ。咲麗奈が無事ならそれで。ゼリー食べる?」
明良がそう言うと、咲麗奈は笑って頷いた。明良はスプーンを取り出して、ゼリーを咲麗奈の口に運んだ。
「甘い。こういうの好きなの。ありがとう」
咲麗奈はゼリーを完食した。
「今日の美術館だけどさ、前に元カノと行った時は改装前で正直、そんなに綺麗じゃなかったんだけど、今はリニューアルされているから近未来的で綺麗だって。アニメ展はあれだけど、他の展示もすごいからまた行こうな」
明良は咲麗奈の背中に軽く手を添えながらそう言った。しかし、咲麗奈の顔から笑顔が消えた。
「ん? また具合悪くなった?」
明良は咲麗奈の顔を覗き込んだが、咲麗奈はそっぽを向いた。
「市立美術館のリニューアルぐらい知ってる。内装はうちの上司も関わっていたし。ねぇ、なんでそんなに元カノの話なんかしたいわけ?」
咲麗奈は怒りの感情をぶつけたが、明良は笑い出した。
「違うよ。あれはただの思い出話。元々同じ職場にいた人なんだけど、ウマが合わなくてたった二週間で別れた。咲麗奈の方が可愛いし、しっかりしてるし、断然いいよ。もしかしてヤキモチ?」
咲麗奈は布団に潜り込んだまま、言葉を返さなかった。
「ごめんごめん、もうこの話止めるね」
しばらくしてから咲麗奈はようやく布団から顔を出して、明良を見るなりハグをした。キスをしようとするとドアの向こうからインターホンが鳴ってお預けになった。
「凜々花、来るならちゃんと連絡ぐらいしなさいよ」
咲麗奈の凜々花がシンガポールから帰国してきた。凜々花は姉にそっくりな顔で大きな黒い瞳で鼻が高くて色白で、金色に染めた髪をお団子にして咲麗奈より少し身長が高くてスレンダーな体型で、濃い目の化粧をしていた。そして二人を見るなり唖然とした様子で見ていた。
「お姉ちゃん、男連れ込んでる……。しかもベッドで……」
「凜々花、これは違うの。ちゃんとした彼氏だから。今日は私が熱出したから看病に来てくれたの。神川明良さん。塾の先生をしてる」
咲麗奈が明良を紹介すると、凜々花は目がまん丸になった。
「神川……お姉ちゃん、いつの間に結婚してたの。しかもなんかちょっとチャラそう」
「違う。偶然同じ苗字だったの。仕事があるし、奨学金も返せてないのに結婚なんて……」
咲麗奈は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「なるほどねぇ、お姉ちゃんも大変だね。明良さん? お姉ちゃんの初彼だね」
「ちょっと、凜々花、余計なこと言わないで」
凜々花はニタニタと笑い、咲麗奈は余計に恥ずかしそうにした。
「初めまして、彼氏の明良です。咲麗奈さんとは最近お付き合いを始めました。あの、僕が初彼なんですか」
「妹の凜々花です。私が知ってる範囲だとそうじゃないですか」
凜々花がそう言うと明良は嬉しそうに喜んだ。
「まぁ、私は海外にいる時間が長いから。で、どうなの、お姉ちゃん」
「いいじゃない、今まで美術に夢中で男に興味がなかっただけ」
咲麗奈がそう言うと凜々花はヒューヒューと冷やかした。
「明良さんはお姉ちゃんのどこを好きになったの」
「一目惚れです。よく行く居酒屋で咲麗奈さんを見かけて。勇気を出して話しかけたら、僕の塾の内装まで変えてくれたんです。そこからまた好きになって。多分、咲麗奈さんからもチャラい印象を持たれてたのに、奇跡なんです」
「なるほど……で、いつから付き合ってるんです?」
「今月の最初です」
明良はそう答えると、凜々花はますます驚いた。
「もうそのくらいにして。今日は何の用で帰ってきたの」
咲麗奈は凜々花に向かって呆れたようにそう言った。
「来週から上海に行くからその準備で。あ、これシンガポールのお土産。二人で食べて」
凜々花はシンガポール土産のマーライオンの形をしたクッキーを渡した。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
二人は凜々花に礼を言うと、凜々花はスマートウォッチに目をやった。
「ごめん、もう戻らなくちゃ。明日も朝から忙しくて。明良さん、お姉ちゃんのことお願いしますね」
凜々花は忙しそうにアパートを後にした。それから咲麗奈は眠気がさして、一人でゆっくり寝たいと眠りについた。明良は寝静まった咲麗奈の頬にそっとキスをしてアパートを後にした。
しばらく経っても、咲麗奈の熱は下がることはなく、左肩の痛みも引くことはなかった。こんなに体調不良になったのは生まれて初めてのことだった。咲麗奈は重たい身体を引きずって近くの診療所まで向かった。
「それは疲労ですね。お薬出しておくので安静になさってください。お大事に」
医師からは過労と診断され、解熱剤と肩の痛み止めを処方された。薬を飲んで、数日後、咲麗奈はなんとか回復し、職場にも復帰した。そして、またその日の夜も居酒屋へ向かった。すると、偶然明良も居酒屋に来ていた。
「咲麗奈、もう治ったのか。まだ病み上がりだろ」
明良は咲麗奈の額を触りながら心配そうに声をかけた。
「もう平気。ありがとう」
咲麗奈は嬉しそうに額にある明良の手に自分の手を添えた。そして、いつものビールと唐揚げと枝豆を頼んだ。
「こんな病み上がりなのによく仕事するよ」
「まぁ、この仕事が好きだから。けど、上司の命令で次の企画に使う資料を作成するためにデスクと部長室を何往復もするのはきつかったな。しかも今日に限ってエレベーター点検中だし。それに課長からもちょっと仕事を休んだら熱出せばお前のチームの奴らが可哀想とか、チームの士気が下がるとか嫌味言うし、疲れたわ」
「お疲れ様。よく耐えた」
明良はそれ以外の言葉は何も言わず、ただ隣に座っている咲麗奈の肩を優しく撫でた。咲麗奈はそんな明良の優しさに甘えながら目の前のビールをぐびぐびと飲んだ。注文した料理も全て食べ終え、二人は支払いを済ませ、店を後にした。 その直後、咲麗奈は店の向かい側の溝まで駆けつけしゃがみ込み、そのままさっき口にしたものを全て吐き出してしまった。
「ほら、今日は飲み過ぎ」
明良は呆れたように笑いながら、縮こまった咲麗奈の背中をさすった。咲麗奈はそんな明良を見る余裕もなく、ひたすら俯いていた。立ち上がろうとすると意識を失い、倒れ込んだ。明良は酔っぱらって道端で寝たと思い、寝込んだ体を起こし、背負って咲麗奈の住むアパートまで送ろうとしても目覚めることはなかった。もうすぐアパートというところで、咲麗奈は明良の背中の中でいきなり痙攣を起こした。明良は何が起きたか分からず、咲麗奈の顔を見ると白目になっていた。
「咲麗奈、咲麗奈……」
明良はパニック状態になり、言葉を失った。しかし、このままでは咲麗奈の命が危ういと思い、すぐに救急車を呼んだ。
病院に着くと、咲麗奈の状態は落ち着き、意識を取り戻した。医師からは百万人に一人が罹るとされる先天性の心臓病が悪化したという診断が下された。咲麗奈の年齢で悪化するのは珍しく、基本的に中高年の時期から徐々に悪化していくものらしい。咲麗奈は母を心臓病で亡くしており、あまり動揺することはなかったが、明良は啞然としていた。
「私はもう長くないってことですよね」
咲麗奈は凛とした態度で医師にそう訊ねた。
「残念ながらもってあと半年かと。この病気の治療法は確立しておらず、入院されても痛みを緩和させることしかできません」
医師も咲麗奈の覚悟が決まった様子を見てハッキリとそう答えた。
「私は入院しません。仕事も続けます。まだ喋れているうちは」
咲麗奈はそう言い張って起き上がろうとするが力が入らなかった。
「今は筋力が低下しています。これは少しばかりは自然治癒することもありますが、今までのようにはいかないと思っていてください」
医師の言葉に咲麗奈は突然顔を青ざめた。
「リハビリ……これしたら回復するかもしれない」
愕然とする咲麗奈に明良は咄嗟にそう言った。咲麗奈は明良に抱き着き、声を上げて涙を流した。
数日後、在宅医療を選んだ咲麗奈は自宅に介護用ベッドを用意し、家主に相談し、壁に手すりを付けた。この日から咲麗奈のリハビリ生活が始まった。明良にも仕事終わりに手伝ってもらい、毎日少しずつ回復していった。しかし、咳き込む回数や食べ物が受け付けないことが増えて、身体はどんどん痩せていった。通院の回数も増えて、ついに在宅医療に切り替える決心をした。咲麗奈は渋々会社を辞めざるを得ない状況になり、自主退職を決断した。これを機に、明良は在宅ワーク可能なIT企業に転職し、咲麗奈のアパートに移り住み、一日のほとんどを咲麗奈の看病にあたった。
「こんな簡単に塾の先生辞めちゃって良かったの……?」
咲麗奈は悲しそうに明良に訊いた。
「大丈夫。俺はこう見えてパソコンも得意だったりするから。いつかこういう仕事もしてみたいと思っていたし、満員電車に乗らなくていいから助かったよ」
明良は笑顔で安心させるように答えたが、本当は咲麗奈のために苦渋の選択をしたのだ。
「凜々花にはこのこと黙っていてね。あの子は今大事な時期だから。私がこんなんだって知られたらショックで立ち直れなさそう。ああ見えて繊細な子だから」
「じゃあ、もし突然咲麗奈が亡くなったってこと知ったら凜々花ちゃんどうするの」
「それは……」
咲麗奈は布団に潜り込んだ。明良は妹に心配を掛けたくない咲麗奈の気持ちを察していたが、凜々花にこのことを伝えずにはいられなかった。そこで、咲麗奈が眠っている間に凜々花の連絡先を調べて電話を掛け、凜々花に全ての事情を話した。凜々花は受話器を手に取りながら泣き崩れたが、姉の気持ちや今受け持っている仕事のことを思うと安易に帰国できる状況ではなかった。しかし凜々花は姉のことで仕事が手に着かなくなり、半月後に姉のもとへ駆けつけた。
秋も深まって山は紅色に染まり、居酒屋ではホッケの干物が人気メニューとなっていた。咲麗奈の身体には在宅医療用の人工呼吸器が取り付けられた。
「そろそろホッケの干物が出る頃だね」
咲麗奈は窓から遠くに見える紅葉を見ながら寂しそうにそう言った。
「食べに行ってみる?」
「バカ言わないで。私を殺す気?」
「でも、一緒に食べたかったな。出会ったあの頃みたいに。咲麗奈はツンツンしてて嫌われたと思っていたけど、今こうやって一緒にいるのが奇跡」
「ほんとにね。あのちゃらんぽらんな人が私の彼氏になるなんて思わなかった。スマホもって追いかけてきた時も内心はびっくりして、ドキドキしてた。今は別の意味で心臓がドキドキするのだけど」
「咲麗奈、久しぶりにデートしてみない?」
「デート? どこに行くつもり?」
「近くの公園まで。外はそこまで寒いわけでもなくて良い天気だし」
「じゃあ、行ってみようかな」
明良は咲麗奈をゆっくりとベッドから起こし、弱々しい身体を支えながら車椅子に乗せて外に出た。
「外に出るってこんなに幸せなことだったんだね」
咲麗奈はふとそう呟いた。今の咲麗奈にとって外の世界は忙しさと緊張で張り詰めた世界ではなく、ベッドに閉じ込められた自分を解放してくれる優しい世界に変わって見えた。公園の隅には紅葉の木が一本あり、隅っこでも大きな存在感を与えていた。二人はひらひらと落ちてくる紅葉に手を伸ばして掴もうとした。
「来年もここで紅葉見ような」
「そうだね」
咲麗奈も明良もこの約束が叶うことはないことは分かっていた。
「風が冷たくなってきたし、そろそろ帰ろうか」
「うん」
明良は車椅子を引いてアパートまで戻った。
「おかえりなさい」
部屋に戻ると凜々花が来ていた。
「来るなら連絡ぐらいしてよ」
咲麗奈は嬉しそうに凜々花に声を掛けた。
「お姉ちゃん、元気そうでホッとした。明良さんのおかげ?」
凜々花は前に会った時より弱々しくなった姉に明るく振舞った。
「凜々花ちゃん、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
明良は二人に気を遣って、凜々花にコーヒーを淹れて自分はリビングで読書をした。
「お姉ちゃん、この人工呼吸器っていつか外れるの?」
「これはもう体の一部だからね。これがなくなったら私はおしまい」
咲麗奈は妹が傷つき悲しむ姿をみたくない一心で苦しみを見せずに返した。
「昔のお姉ちゃんなら、こんなの無くったって生きていけるとか強気なことを言いそうなのに。お姉ちゃん、まだ三〇歳にもなってないんだよ。こんな姿まだ百年早いよ」
それでも凜々花は泣き崩れそうになっていた。
「人工呼吸器って着けると結構楽なものよ」
「私は仕事で忙しくて、看病も明良さんに任せきりで、お姉ちゃんに人工呼吸器が着けられた時もまともに様子見れなかったけど、苦しいなら苦しいでちゃんと言ってほしい」
「ありがとう、凜々花」
「私を一人にしないでね」
「分かってる」
凜々花は咲麗奈の手を取り、優しく握りしめて、明良さんと楽しく過ごしてねとアパートを後にした。
「凜々花ちゃん、お見舞いにオレンジジュース持ってきてくれたけど、飲むの難しそうかな?」
明良はオレンジジュースが入った瓶を咲麗奈に見せた。
「せっかくだし、飲みたい」
咲麗奈がそう言うと、明良は瓶の栓を開けて吸飲みにジュースを注いで咲麗奈に飲ませた。
「美味しい?」
「うん、美味しい」
咲麗奈は吸飲みに入っている分だけのジュースを飲み切った。
「ジュースが飲めるってこんなに幸せなことなんだね。今まで当たり前のように飲んできたけど、携帯見ながら飲んだり仕事の合間に飲んだりしてその有難みに気付けなかった」
「誰だってそうだよ。俺も今になって咲麗奈との時間がこんなにも大事だって気付けなかった」
明良は咲麗奈をそっと腕の中に包み込んだ。
季節は流れ気温がぐんと下がり、街にはおでんの看板がちらほら見られた。世間はクリスマスや年末の話題が飛び交った。咲麗奈の筋力はさらに弱まって車椅子での移動も困難になっていた。
「咲麗奈、もうすぐ誕生日だね」
「ほんとだね」
「何か欲しいものはない?」
「明日生きてる時間」
明良はもう咲麗奈がこの冬を越せないことを悟っていた。
「そんなのいくらでもあげるよ。あげたいよ」
咲麗奈は最初こそ微笑んでいたが、明良のことを思うとこんな冗談を言って少し後悔した。最近咳き込んで上手く発声できないことが増えて、また苦しそうな咳をした。
「今日は往診の日だからちゃんと診てもらおうね」
咲麗奈は明良に背中をさすられて苦しそうに頷いた。数時間後、医師と看護師が往診に来た。この頃、咲麗奈の酸素濃度が著しく低下しているとのことだった。
「明良、ペンと画用紙が欲しい」
診察後、咲麗奈は明良にペンと画用紙を棚から取ってきてもらい、ペンを力一杯握って部屋のデザインを描きだした。
「これは何のデザイン?」
「もし、明良と結婚していたらこんな部屋に住んで、淡色系の絨毯があって、淡い色のカーテンで、南向きの大きな窓があってプロペラファンがあって、アイランドキッチンがあって、キッズルームがあって、私たちのベッドはダブルベッドでおばあちゃんになるまで住み続けるの」
明良はぐにゃぐにゃの線で描かれたデザインを見て画用紙を持った手が震えた。もうすぐ旅立ってしまう咲麗奈にどんな言葉をかけたら良いか分からなくなった。
「いつか二人で住もう。咲麗奈がデザインした部屋に住みたい」
咲麗奈は嬉しそうに明良と指切りした。しかし、現在の咲麗奈の部屋は薬や医療機器や書類でいっぱいで咲麗奈の描く理想とはかけ離れていた。
数日が過ぎて咲麗奈の誕生日になった。窓を見ると初雪が降っていた。
「咲麗奈、誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。これ、プレゼント。開けるね」
「ありがとう」
明良は包装された箱を丁寧に開けた。
「何、この緑」
「マフラーだよ。咲麗奈の冬が温かくなりますようにって願いを込めたんだ」
咲麗奈の肩に淡い緑色のマフラーが掛けられた。よく見ると端っこに『ERENA』と刺繡が施されていた。
「すごく温かい。何でもできそうな気分」
プレゼントに喜ぶ姿に明良は咲麗奈の頬にそっとキスをして、そのまま唇にキスをした。
数日後、咲麗奈は明良に見守られながらこの世を去った。明良は葬式の後も咲麗奈の死を受け入れられず自暴自棄になり、実家に戻り部屋に篭もりきりになってしまった。そんなある日、凜々花が明良のもとを尋ね、咲麗奈と出会った居酒屋にたどり着いた。
「お姉ちゃん、仕事終わりによくここで飲んでたって私も日本にいた頃に聞いてたんです。ここがあったからお姉ちゃんは踏ん張れたのかも。明良さんもお姉ちゃんの力になってくれてありがとうございます。こんなに愛されてお姉ちゃんは幸せ者だよ」
凜々花がそう言うと涙を一粒流し、明良も涙をこぼした。
「救われたのはこっち。教師の試験に落ちてどうしようもない時に咲麗奈と出会ったんだ。最初はツンツンして嫌われたと思ったけど、愛し合って彼女になってまさか最期を見届けるなんて……」
凜々花は黙って頷いた。
その後、凜々花は仕事に戻るため海外に向かった。明良は猛勉強の末、小学校の教諭になった。そして、咲麗奈が生前デザインした部屋をドールハウスにし、それを児童施設に寄贈した。咲麗奈のような複雑な生い立ちを持っている人が夢を掴めるようにと明良はそう願った。