無口な少女

短編/衍字

 

 ずっと覚えていると思っていた。昨日のことのようにいつまでも脳裏に焼き付いて、離れないのだろうと思っていた。僕は忘れず、引きずって、抱えて、背負い続けていくのだろうと思っていた。

 照明のついていない部屋は外の明かりだけで輪郭を保っていた。紺色のベッドに座ってからどのくらい時間が経っただろうか。もはや時なんてモノは止まってしまっていてもおかしくないと思える程、僕の周りは何一つ、僕含め何一つ変わっていない。

 動けば動くほど時は進み、僕とあの頃が乖離していくような気がする。

 よく触るものは近くに、あまり必要のないものは遠くに置かれている部屋は打算が作り上げた合理的な形状だ。

押入れの下、隅の方から広がっている影が彩度をより一層奪っているような気がして、僕はなるべく影から目を離さなないようにスマホに手を伸ばした。

ロック画面の上部にはデジタル時計が表示されており、時間は今も動いていたんだという残酷な事実を僕に報知する。午後半ばといったところだろうか。

 僕は徐に立ち上がり、自室の扉を引いた。今日は何月の何日の何曜日だっけ。できれば二〇十八年の八月三日よりも前だとありがたい。

 冷蔵庫を開け、どこのかも分からない、天然水と銘打ってある水を喉に流し込む。今日は家に僕一人しかいないんだっけ。台所、食器棚の側面に止められた日めくりカレンダーに視点を合わせた。

 

 妹が通り魔に刺されてから六年の月日が経っていた。

 僕は覚えていると思っていた。どれだけ時が過ぎ去ろうとも彼女の悲報を知らされたあの時の衝撃は、胸の痛みは、涙の味は遺り続けるだろうと思っていた。けれど当時の感覚は希釈していくばかりである。

 今でも覚えていることは楽しそうだった笑顔と、透き通るような白い肌と、彼女が死んだ日付と、衝撃を受け涙を流し続けたという事象程度だ。

 その他のモノは、時間がゆっくりと気づかれないようにかすめ取っていった。一番最初に取られたのは彼女の声だった。あれほど朗らかで、天真爛漫で、楽し気だった彼女の美声は記憶の中から盗まれてしまった。

再生される彼女の映像は無音か、将又口パクか、若しくは彼女とは似つかないどこかの誰かの声に置き換えられていた。

 彼女のことを思い返しても苦しむことはないし、彼女のお墓の前ではしっかりと両手で拝むことができる。今の僕は彼女を重荷とせず、生きていられている。

 それがたまらなく怖かった。僕は彼女の死を乗り越えている自分を恐れていた。何でもないようにしている自分が時折ひどく醜く見えた。

 

 今は母と二人暮らしで、妹のことも日頃頭にない。だけど、だからこそ忘れていっていることに気づいた時、そうであってはならないと考えてしまうのだ。

 どこかの天然水を片手に自室へ巻き戻る。彼女がいなくなったことはこのゴミが散らかっている部屋が教えてくれる。僕は掃除が苦手で、何かを元の位置に戻すことが苦手で、妹はそのことを気にかけてくれて、よく僕の部屋を掃除しに来てくれていた。

「ほら、またベッドが机化してる。ベッドに重荷を背負わせすぎだよ」

 彼女のモノではない声で彼女の言葉が蘇る。散乱している服や本が元あった場所へ返っていく。

「んーでもこっちの方が楽なんだよ。色々近くてさ」

「そんなのどうでもいいよ。今、机とベッドが可哀そうだから」

 彼女が仕事を終えると部屋はいつも、いつも通りの相貌を浮かべる。そこで何があったのか、どんな暮らしがあったのか、僕の形跡は何事もなかったかのように綺麗に片付けられてしまう。

「過去なんて、どうにもできないんだから。大事なのは今と未来だよ」

妹はそんな言葉が好きだった。悔やむことも、振り返ることもしない。前と結果と、事実を彼女は見続けていた。

 

 今この部屋は僕の形跡だらけだった。彼女が死んでしまった証拠まみれだった。彼女も写っている家族写真は押入れの奥深くにしまわれているだろう。きっと見たところで今の僕は何も感じない。涙なんて潤んでもくれない。だけどあの写真が再び机に戻ることはない。

 全てを戻すことができない僕は、全てが元通りになればいいとずっと願うばかりである。

 ベッドに腰をかけて、天井を仰ぐ。

 どこかの小説で人は他人が死んでも何とも思わないけれど、大切な人が同じ目に遭うと泣き叫ぶ醜い生き物だという話があった。

 僕も当時そんな話に酷く共感した。だけど今はあの話に出ていた彼女に伝えたい。

 大切な人の死も時間が経てば、何とも思わなくなるよと。あんな話よりももっと人間は、実際の人間は酷く醜い生き物だよと。

 

「ただいまー」

 母の声が玄関の方から聞こえた。買い物から帰ってきたようだ。冷蔵庫を開ける音が聞こえる。マイバッグが掠れている音が聞こえる。

『本当いつも掃除ありがとうな。もうお前がいなくなったら兄ちゃん生きていけないよ』

 そんないつかの言葉を僕は簡単に破っていく。これからも妹のいない世界でのうのうと僕は生きていく。

 母はあらかたを台所へしまって、僕の部屋の方へ足音を大きくしていった。

「もうまた散らかして、はい」

 ドアが開かれたそこにはいつも通りの母がいた。そしてその後ろにはあの頃通りの、妹の姿があった。

 

 あれから数日が経った。結論から言えば母と一緒に部屋に入ってきた彼女は妹ではなかった。その少女は彼女と同じ顔で、同じいでたちで、同じ白い肌だったけれど、確かに妹本人ではなかった。当たり前の話だ。彼女はもうとっくに死んでしまったのだから。

 では少女は何者なのか。なぜここに来たのか。何歳なのか。どこから来たのか。それら一切の詳細を僕はこの数日何も聞かされなかった。

 母は一貫して沈黙を貫き、少女もまた連れてこられた日以来一言も発さず当たり前のように、代わりであるかのように、彼女のいなくなったこの家に住み続けた。

 少女は僕の部屋の椅子に腰かけ、何をするでもなくただ僕を笑顔で見つめていた。

「名前は?」

「…………」

「どこから来たの?」

「…………」

「僕のことは知ってる?」

「……………」

「寒くない?」

 初めは言語が通じないのかと思ったけれど、そういうわけではないらしく僕の言葉に対して適切な反応を見せてくれることもあった。

 見た目は妹と瓜二つだけれど、一カ所だけ、何も喋らないということだけが彼女との相違点だった。あれだけよく喋っていた、笑っていた彼女はどこか遠いところへ行ってしまったように思えた。

 少女は時折、僕が話をしていると人差し指を口元へ持って行って「しーっ」と話さない意思を示すことがあった。

 彼女は話せないのではなく、自らの意思で話さないようにしている。何故少女がそんなことをしているのか、僕には分からなかったけれどそんな様子に寂しさを覚えたことを覚えている。

 それでも僕は変わらず少女に話しかけた。

「少女」では呼びかける時も不便だと思ったから、僕は便宜上彼女に名前をつけることにした。ふと漂う少女からのいい匂いに因んで僕は少女を「香織」と呼んだ。

 いくら会話ができなくても、香織にその意思がなかったとしても、僕は彼女の声が聞きたかった。もう一度話したい。話してほしい。聞きたい。一緒に笑いたい。泣きたい。語り明かしたい。

 けれどそんな僕の願いはその後も叶うことはなかった。香織は沈黙を崩さなかった。

 

 いや、僕は知っていた。初めから、香織を見たときから、もっと前から気づいていた。彼女は僕の幻想だと。姿形も存在しないただの記憶の住人だと。

 香織は僕が寂しさで作り上げた、死んでしまった妹の、殺された妹の影だ。

 きっかけは恐らく数日前に見た子どもの頃の家族写真だ。机の上、教科書の間に挟んであったそれを見て、僕は彼女がいなくなってしまった寂しさを、悲しさを、虚しさを、切なさを思い出した。

 そして同時に彼女のことを忘れてしまっている自分の醜さに気が付いた。寂しさが、悲しさが、虚しさが、切なさがあの頃より無くなっていることに気が付いた。

 それから僕はその写真を押入れの奥に突っ込んだ。僕から一番遠い外様にした。再び見たときはさらに忘れてしまっているだろうと思って、心なんて痛まなくなっているだろうと思って、それがとても恐ろしく思えて、僕は二度とその写真を見ないように押入れの扉を閉めた。

 彼女がいないこの世界が当たり前だと受け入れている自分が許せなかった。

 どんな質問を投げかけようと彼女は答えなかった。一言も漏らさずただ座っていた。

 少女は話さないのではない。話せないのだ。僕の思い出の存在だから、僕が声を忘れてしまったから。

 僕が彼女から声を奪ったんだ。

 少女は今日も座っていたけれど、いつか僕が彼女を忘れていくとともに髪も、目も、口も、鼻も、耳も、手も足も無くなっていつか消えてしまうのかもしれない。

 今も、現実も碌に見えていないのに、過去ばかりに囚われているくせに、僕はその過去も最期まで引きずることができないどうしようもない生き物だった。

 いつか思い出を脱ぎ捨てて、それを時間のせいにして、これからも僕は生きていくのだろうと悟った。

 今日も僕は現実から目を塞いで、幻想の中へ身を任せ、彼女へ声をかける。

「おはよう、香織」

 ドアを開けるといつものいい匂いが僕を温かく包み込んでくれた。