巡り結ぶデルフィニウム

長編/収束

 

 質素だがしっかりした作りの幌馬車が木箱や袋を積んで、土埃を上げながら道を進んでいく。主人らしき少女も、御者の女も護衛らしき女も、三人で楽しげに話しながら、拠点へ帰っていくようだ。馬車は街道を過ぎて門を抜け、やがて屋敷の敷地に入って停まった。

 

「おかえりなさい、『シャーリー』。売り上げはどうだったの?」

「ええ、ただいま。今回はなかなか売れた方よ」

停まった馬車に数人が手を止めて駆け寄り和やかに話しかける。話しながら馬を小屋まで引き取っていったり、空の木箱を倉庫に運び込んだりするので、馬車はあっという間に空っぽになっていく。

「商会長が呼んでたぜ。儲けた分の荷物が整ったらで構わないから、顔出しとけよ」

 

 

◆◆

「よう、おかえりシャーリー、土産はあるか?」

 商会長室で青い花を生けていた品のある男は、質のいい椅子に座り、陽気に手を振りながら少女を出迎えた。

「そうね。私からは、たっぷり小言があるわよ」

「心当たりは……しまった、ありすぎるな。どれだ? 菓子のつまみ食いか?」

「それもあなただったのね。帰った後のご褒美だったのに、まったく」

 美味しそうだったのが悪い、と開き直った上司に拳骨を食らわせて席についた少女は、表情を真剣なものへ変える。

「それで、近況だけれど、送っていた手紙はもう見たわね?」

「ああ、帝国領でのアレ以来、各国の動きも随分と変わったもんだ。特に『公国』の動きががらりと変わるらしいな。」

 

 滅んだ王国から亡命した王子と王女のうち、兄が生き延び逃れた国は環境が劣悪だった。小さなその国では労働者が次々と病に伏して産業がうまく回らず、症状が悪化したことで遂に流行り病として民を襲った。

 だが、一人の男が帝国領となったかつての王国で亡き王の遺した特効薬の原料を手に入れ、薬師を連れて戻ったことで少しずつ立て直しを図っている。それが、今の『公国』である。民の治療と王族交代後の引き継ぎも着実に進んでいるようだ。

「まだ課題も残っちゃいるらしいが、少なくともあちらの国には、『準備する余裕』ができたってことらしい。良かったじゃねえか、『シャル』。護衛隊長殿にも、兄君にも会える日は近いぞ」

 揶揄うように言いつつも、血縁ではないこの『元王女』に対して、愛娘を見るような温かな眼差しを向け言葉を掛けてくれる。この商人のもとに辿り着けたことは、間違いなく幸運だっただろう。滅びゆく国から逃れた先がここで良かった。

「ええ。ようやく、約束していたお茶会を開く事ができそうよ」

 

 

◆◆

「さて問題は、あの一件だな。薬の長があるなどと俺が誘導しておいて申し訳ないとは思っていたが、まさか名指しされて襲撃を受けるとは。今でも信じられねえな。グラン隊長がいて本当に良かった」

「普段から私も剣を振るっていたからマシだったけれど、それでもあんなの、彼らの動きがバラバラだったから助かったようなものよ?」

「公国の鎧を着ただけの他国の勢力、か。素性の洗い出しも難航していてな。今日の話し合いに一応助っ人は呼んじゃあいるんだが」

 そう言って目を向けたところでちょうど、執務室の扉がノックされた。

「おう、入ってくれ。『騎士団長』殿よ」

 体格のいい硬派な男が、助っ人だったらしい。王子の逃亡に護衛隊長がついたように、王女の逃亡には騎士団長がついていたのだった。

「それも昔の話ですと、申し上げたのですが」

「けれど、国の情勢、或いは軍略となれば、べラドの出番よね」

「そうですね。諜報ならばともかく国の動き方であれば、私でもお役に立てるかと」

 このべラドという男は今、商会の用心棒たちに剣術を教えつつ商会長専属の用心棒として、腕を鈍らせないよう働いている。シャルが逃亡して間もない頃は父王の命じた職務を全うすべく警護をしていたが、それでは目立ち過ぎてしまうからだ。世に紛れる選択をした、商人になろうとする少女が屈強な男を連れているというのは怪しすぎた。

 

 席につこうとしたところで、控えめなノックと共に開いた扉から少年が顔を出した。そっと商会長の顔を見て失礼します、と小さく言って扉を閉めてしまったが、どうやら大切な用事があったようで、締め切る直前までその顔には躊躇いがあった。

「あー、すまん。話を始める前にちょっと待ってくれ。情報を集めていた連中がまた出発するらしい。一言、声でも掛けてくる」

 あれで内容に察しがついたらしい。余程の事なのだろうか、腰を上げて出ようとする商会長にシャルが怪訝な顔をした。

「ねえあの子、私の事を見てた? 知り合いだったかしら」

「あいつ、新入りでな。見た奴全員、顔と名前を覚えるのに必死なんだ。読み書きや研修は一通りさせたが、まだ他の奴と組ませてる。……確かに俺が出るほどじゃないな、紙でも渡せばいいか」

 

 

「待たせて申し訳ない。周辺諸国の状況と噂を整理しようか」

 机に広げられた地図には帝国を中心に、公国と、シャルのいる王国が書き込まれていた。

 

「まずは、改名して統治者も変わった公国だな。ここ数年の変化が特に大きい」

「以前の王は療養の名目で表から退き、今は王弟殿下が復興の施策を進めているとか」

 本当に病に罹っているのか、心を病んでしまわれての療養かは分かりませんが、少なくとも今の統治はつつがないようです、とべラドは言葉を続ける。

「ええ。ひとつ、診療所の建設が進んでいるわね。結局あの病は水の汚れで起こったことなのだけど、原因物質には心当たりがないそうなのよ」

「明らかにこの国から発生する病ではない、って話だったな」

「そうですね。国の資源から違います。金属や鉱石を扱う国ではありませんので。寧ろ……」

「寧ろ、清潔さで飲食業を売りにしていたような国よ。食品のトラブルに気を遣っているくらいですもの。水が汚れるなんて何をすれば……」

 確かべラド、あなたもあの国の酒が飲みたいだとか愚痴を吐いていたと聞いているけれど? 一体どこでそれを、勘弁してください、などと笑い話も交え情報共有は進んでいった。

 

「しかし、復興のスピードが凄まじい。数年でここまで立て直したとなると、護衛隊長殿がお前に接触した頃……いや、あちらの国を出立する直前くらいにはもう、残っていた騎士たちが王族の説得に動き始めていたのかもしれないな」

「ああ、それは。グランの方へ分けた奴らならば窮地に追い込まれようとも成すべきを成すでしょう」

 可能性がある、ただそれだけで上司を送り出す覚悟と信頼を持った者ばかりでしょうから。

「緊急時は部下が独断で撤退指示を出すこともあるもの。騎士団ではひとりひとりが思考して動けているのよ」

 それは、高度な連携が取れていなければできないことではないのかと、そう思ったところで商会長はひとつ、疑問を口にした。

「シャル。確か、騎士団の内部に護衛隊があった、とか言ってたな。違いがあるのか?」

「要人警護の場が公的か、私的かの違いよ。この仕組みは独自のものだったのだけど……」

「もう独自のものではなくなりましたのでよろしいかと」

 べラドへ目を向けたシャルは、話してもいいか気にかけたらしい。当時は機密扱いだったのだろうなと、何となく察しがついた。

「公的な場であれば襲撃を待ち受ける形になる。事前に襲われやすい場所や方法の予測ができるから、剣には、敵を再起不能にする一撃の重さや守る範囲の広さが求められたのよ。だから騎士団全体で囲んで守り、膂力や剣捌きに特化した騎士が表に出ていたわね」

 重装備ではありますが、威圧感が効いたのですよ、あの陣形は。とべラドが得意気に頷いている。

「となると、私的な場では護衛隊が、ってことか?」

「ええ。影が先行して下見は行いますが、不測の事態も想定されます。ですのでこういう時の剣には、初撃を防ぐ速さ、そして即座に仕留める正確さが求められたのです。こちらでは技巧や人体の知識に特化した者が多かった」

 悔しいですが、あちらの方が地頭が良く対応力のある連中ばかりでした。だからこそ王子には護衛隊が宛がわれたのです、と言ってべラドは顔をしかめてみせた。

「そしてこの体制は、巧妙に秘匿されていたの。お父様はこういう身内への危険には特に気をつけていた。だから今、帝国は有用だからこそ、その警備体制を取り入れて実際に運用しているはずよ。属国も同様にね」

 

「その帝国は、どうなのですか?」

「皇帝が変わらず在位し続けているわよね。国があった現帝国領は、皇子が治めていると聞いたことがあるけど」

「兵の体格が良いとは聞いているが、訓練だけでああも逞しくなれるものだろうか、騎士団長?」

 差し出されたスケッチを覗き込んだべラドは緩く首を振る。

「いえ。というよりも、兵にここまでの筋肉量はかえって邪魔となるでしょう。これはどちらかというと闘技場で見る剣闘士のような……」

「何か裏があるとは思っていたが、その疑惑を調べるのは間違いじゃなかったわけだ」

「ねえもしかして、さっき出立したのは、」

「そうだ。帝国の、特に帝国領の動きに関しての再調査組として派遣した。俺の情報網でも、見るからに限られたものしか伝わっていないからな」

 ──マズい代物が出回ってると、俺は睨んでいるところさ。

 

「俺達のいる王国で今のところ、刺激的な事件はないな」

 刺激的であってたまるか、と言いたげに少し顔をしかめたべラドを面白そうに眺めつつ、今度はシャルが口を開いた。

「陛下には亡命にあたって一度お会いしたきりだけれど、あれからお変わりなく過ごされているの?」

「相変わらずも何も、謁見しにくくしたのはそっちの癖に、お前が王族でなくなったからって随分寂しがっていたぞ?」

「気軽に呼ばれるというのも問題だもの、堪えていただくしかないわね。当面の危機はないようで良かったわ」

 

 

◆◆

 情報の大半が出尽くしてしまい、進展は次の報告を待ってからという事で共有の場はお開きになった。

「お茶会の準備は進んでおられますか?」

 客間に調度品を揃えながら、べラドは鼻唄でも歌いそうなシャルにそう尋ねた。運ぶのは彼の仕事だが、ひとつひとつに細かく配置が決まっておりこの会話の合間にも様々な指示が出される。

「ええもちろん。兄上には『シャルを公国に招きでもしたら、労働力か舞台役者にでもされかねない。そうなったら面倒だぞ。とにかく、こちらが向かうから来るなよ』と念まで押されてしまったの。言われずともそうするけれど、出迎えに力が入るものでしょう?」

「はい。私も楽しみにしております」

 

 

◆◆

 そして迎えた当日。

「シャルー! フラン兄様が来たぞ!」

 勢い良く扉を開き満面の笑みで飛び込もうとした青年は、控えていた騎士に服を引っ掴まれてつんのめった。

「手紙でほぼ毎日やり取りしておいて、よくそこまではしゃいでおられますね?」

「……逃げ出して以来、顔を合わせるのに何年かかったことか。グラン、お前には調べる手段があっても、養子になった僕には単独でそこまでの自由はないぞ?」

 ぶー、と不満を垂れながら床に降ろされる青年が王族だなど、残念ながら断言はできない態度であった。

「そうなの? グランがサボったのではなくて?」

「あのですね、シャル様。護衛隊員はほとんどが復興に人員を割かれており、私も羨ましがられながら出立しました。情報収集をする暇など、充分ではありませんでしたよ」

「あら、それは白状したということでいいのかしら。あなたやっぱりサボったのね」

 情報の差を埋めないまま会いに来るというのは、この場合お茶会を楽しみにしていたという事でもあった。シャルが人を揶揄って笑う悪戯好きなところが、サプライズ演出としてもてなしに遺憾なく発揮されることを二人は知っているのだ。

「兄上やめて、おめかしが全部崩れます」

「ひどいぞ妹が冷たい、兄上だなんてわざとビジネスな言い方をするとは。だが僕はシャルに会えたことで胸がいっぱいだ。ハグもしよう、撫でてやろう。頑張ったな!」

「せめてちゃんと挨拶をなさっては? ちょっと、フラン殿下!」

 グランの制止も聞かず、兄にうりうりと顔をそこら中こねくり回されながら、再会のお茶会は始まった。

 

 

◆◆

 ──日が暮れてゆく。お茶会は終わり、フラン王子と商会長がシャルの働く様子を窓から見ながら話していた。

 

「お世話になっている商会の会長殿、とは聞いていましたが。しかしその顔……」

「やはり覚えておられましたか。ですがそれでも、俺のことは内密にお願いしたい」

「なぜです? 放蕩ばかりのご子息が堅実な商売を始めたという噂は聞いていましたが、まさかシャルがあなたのもとに匿われているとは」

「どこの誰の話でしょうな。潰れかけの家の子が嫌々家業を継いだだけと、そう思ってはくれないのですか?」

 明らかに、聞かれたくないと避けている。それを見逃してやる道理はフランにはなかった。

「それにしては儲けが潤沢すぎる。正直目立ち過ぎているぞ。我が妹の売り上げか? いち商人にそこまでの才覚があるのも珍しいだろう、なあ『侯爵』よ」

 

 気まずそうな顔を浮かべる商会長は、しばし考えて顔を上げた。

「『私』に私腹を肥やすつもりはない、と言えば満足か。彼女の金は彼女自身のもの。あなたも稼いだ資金で目指すものをご存じのはずだ」

「解毒薬の材料入手と精製、だったな。それにしてももう少しうまく立ち回れただろうに」

「不正を疑われたことがあってからは隠しにくくなってな。私の素性は既に妹君にも団長殿にも知らせている。だが商会で稼ぐ以上、知らぬ存ぜぬで通すようにという約束なのだ。知った以上貴方にも守って頂かなくては困る。王子殿下、宜しく頼みますよ」

「……いや、こちらも無礼を働き大変申し訳ない! 父の約束を守って頂いているのは分かっているが、そちらのメリットがないからね。どうにも兄としての心配が勝ってしまうのさ」

 両親を亡くし、生存の為とはいえ実妹とも生き別れた。その唯一を守ろうと考えるのは当然であったし、疑惑を向けられるのもまた当然だった。

「この商会の屋敷は別荘のようなものだが、ちゃんと休日にはシャルを連れてべラドと共に本邸へ帰っているよ。妻とも娘とも仲がいい。安心してくれ」

「そうか。……なら今、僕から言うことはありません。技術はご実家からそのまま持ってきているんでしょう? 隠れる事に関して『先達』だからこそ僕の父は、あの子を預けようと思ったのかもしれないな」

「それならありがたい話です。何もかもが変わって流されることなく生きていくべき時に、あなたと話ができて良かったと思いますよ、フラン殿下」

 では僕も安心して泊まらせてもらおう、と笑みを見せたフランは、それまでのどこか張りつめていた雰囲気をようやく和らげることができたようだった。

 

 

◆◆

 ──夜も深くなった頃、自室で本を読んでいたシャルは、違和感に顔を上げた。

商会の人間には立てられない、僅かな、音。──侵入者だ。真っ直ぐに剣を取るより早く、シャルの腕は押さえつけられた。腕の捻り方が上手く、抵抗する指先がじわじわ痺れていく。そのままもう一人、黒い人影が首に押し当てた指一本が、シャルの意識を沈めていった。

 

 商会長が不意に天井を見上げる。べラドがそれに続き、察したグランと対照的に、フランは何も知らずに上を見る。

「……おかしくないか、音も気配もないなんて」

「そうですね。何か、起こっていると見るべきかと」

「思い違いでも見に行くべきだろう」

 

「お待ちください、どこへ!? どうか、説明を! おい、どういうことだ!」

 急に立ち上がって剣を取り二階へ向かう二人に戸惑いながら付いて行った先でフランが見たものは、──夜風にカーテンのはためく無人の部屋だった。

 

 

 

◆◆

 シャルは、思い出していた。あの日にあったこと。自分がこんな体になった理由を。もう怯えることはないけれど、久しぶりに夢に見た。

 床に散った干し草。かび臭い石の壁。そこは長らく使われていない牢だった。手入れが行き届いていないくせに、ここに窓はなく柵は頑丈だった。

 食事は、出されても摂らなかった。滅びていても王女だった身だ。食べたくても身体が拒むようにできた。

 

 ──けれど私は結局、小さな子供が持ってきた一杯の水を受け取ってしまった。

 誰が持っていようが関係ないことではあった。でも、物心も付いていないらしい子供は、男の子か女の子かも分からないほど瘦せていた。言葉もなく、悪意の類もなかった、ただ優しく親切な行動。きっと私が何故牢にいるのかすら分かっていない。誰かに言われるがまま、言われた場所へ水を運んだだけだ。

 普段であれば、その水をどうやって手に入れたのか、何故牢まで入ってこれたのか、気付いたでしょう。やんわりと、喉は潤っているとでも伝えて躱すこともできたかもしれない。

 それでも空腹に思考が鈍くなっていた、そんなときに悪意のない親切を見たのは正直言って甘い毒を飲んだようなものだった。

 

 あの水を飲んでからのことはあやふやだ。気がついたら商会の用心棒たちが騎士団員と一緒に乗り込んでいて、遠くでも近くでも賊と剣を交える音が聞こえていた。

 一年、二年と経って、傷の治りの異様な速さに加え、年齢的に来なければおかしいような成長が来ないことに気付いて、愕然とした。私に何が起きたのか、あの日捕らえられた場所を調べ尽くすまで、全く分からなかった。

具体的なことが分かってからも、恐怖は消えなかった。寿命が二倍に延びたのか、年齢に置き去りにされた若い肉体で死ぬのかは、今になっても分からない。

 この薬の開発者か発案者にしか、分からないことだ。

 

 

◆◆

「ふざけるなよ、商会長! 警備はどうなっていた! シャルは今、」

「分かっている! だから貴方を守り、誰より速く調べるのだ! 無策で突っ込んでも良いことなど何もないのだから」

 思わず口をつぐむほどの剣幕だった。肩を上下させ荒く息を吐く商会長の脳裏には、訓練の直後を狙ってシャルが誘拐されたあの事件のことがよぎっているのだろう。

「……分かっておりますよ。可能性がある行き先には全てうちの用心棒が向かっている。手遅れなどあってはならないのですから」

 何か起きる前に見つけ出す。決して以前のように間に合わないことなどあってはならない。場所が分かれば、後は馬を全力で飛ばすだけなのですから、と言い聞かせるように呟いて商会長はそのまま黙り込んでしまった。

 

 冷静になったフランはふと、この場にいた騎士がひとり消えていることに気付く。

「グランは? あいつはどこだ、べラド」

「グランならば部屋を見るや否や飛び出していきましたよ。お見えになりませんでしたか?」

「見えるわけがないだろう、あいつは元々諜報員だった男だぞ。……まったく、僕の護衛として来たというのに職務放棄じゃないか。だが、いい判断だな。部屋を一通り見ていたのだろう? なら問題はない」

 

 

◆◆

 地図上の、可能性がある街、更に細かく区画を丸で囲む。そして次々と上がる報告によって訂正が入る。静まった部屋にペンの音が大きく響く中、息を切らせた男がひとり、叩くような強いノックをして飛び込んできた。

「失礼します! 商会長、ご報告が」

「来たか。頼む、聞かせてくれ」

 曰く、シャルが過去に誘拐された際、囚われていた牢と同じ様式のものが帝国領の内部に複数見つかったとのことだった。

「では、シャルは国境を越え帝国領内にいると?」

「厄介ですね。仮に帝国の皇子が動いているならば、我々がすぐにどうこうできるわけではなさそうだ」

 

 

◆◆

 ──誰かが私の名前を呼んでいる。力は強くないのに、激しく揺すられて頭がくらくらする。

「しゃるさん、しゃるさん。起きてる?」

 慎重に瞼を開けて、飛び込んできた顔に驚いて思わず跳ね起きた。赤くなった手首は痛いが、既に解かれている。足も同様、自由に動かせた。

「ごめんなさい。ナイフうまく使えなくて、手だけすこし切っちゃった」

「いいえ。誰かが来るより早く、私が目を覚ますより早く拘束を切ってくれただけで十分よ。商会から来た子でしょう? ありがとう」

 

「この前はすぐに出て行ってしまったから、名前を聞いてなかったわ。私の名前は知っているそうだけど、あなたの名前を教えてくれる?」

「ぼくは、じゃっく。よくある名前、でもかっこいい名前なんだ」

 小さく頷きつつ得意げに話すジャックは、シャルの手を引いて先へと迷いなく歩き出す。頻繁に出入りしている人間の動き方に近かった。

「もしかしてジャック……あなた、昔に」

「うん。ぼくが、変な水をあげたからだ。だから君を、外に連れていく。外までの道を、知ってる。ついてきて」

 

 外に出て少し歩くだけで、少し離れたところで待機していた商会の用心棒一人と合流できた。ここを発見したのはグランで、彼からそこを引き継いだのが彼女とジャックのペアだったようだ。グランはそのまま物凄い形相で立ち去っていったという話だが……不審者と間違われていないか心配になってきた。

「ああ、良かった! シャル、まずはこのマントを羽織って。ジャックには警戒してもらってるところよ。私も、少し背を向けるわね。ほんのちょっと待ってもらうけれど、他の人への連絡だから」

 

 

◆◆

「というわけで、僕らは君の居所を探り当てたわけだけど……」

 まさか名前も出てこない人物が糸を引いていたとは、帝国の『第二皇子』。シャルを閉じ込めておいて牢にもいないとは随分余裕じゃないか。目的もそうだが本当にうまく隠れていたものだ。

 

「それはもう。人を介し、徹底して役割を分け、ボク自身はこういった場所を避けて過ごしていたので」

 研究所のような場所に現れたのは、名前すら上がらなかった第二皇子。これには、到着したフランも驚きを隠せなかった。

 今回の一件で彼が疑われなかったのは第一皇子の執務補助としての立場ゆえだ。時に兄以上の仕事量をこなす多忙さでは企みも起こせないこと、何より兄弟の両方が民から厚く信頼されていたことで真っ先に候補から外されていた。

「ボクは迂闊なことをしたようだ。今ちょうど牢の様子を見に行くところだったのになぁ。こんな時間でも案外、スラムの皆は起きているはずだけど、さて」

「そう言って増援を呼ぼうとしてもあまり意味はないぞ」

「そうでしょうか? 買収するのって難しいですよ、夜であっても人目のあるこの区画で、他国の王族にそんなことはすぐにできないはずでは?」

 出方を窺ったグランだったが、それは否定できなかった。治安が悪く、狭い路地で大勢に出てこられては、数で負けかねない。

 

 ──埒が明かないと思った時、閉じていたはずの扉から月の光が差し込んだ。

「そうかもしれないわね。でも、貴族でも王族でもないただの商人ならどうかしら。生憎と私ってば、この帝国領でも有名人なのよ?」

 

 

◆◆

 少し前のこと。経緯と犯人、手口を聞いたシャルは、選択を迫られていた。

「ねえ、シャル。不快に思わせるかもしれないけれど、犯人と話す気はある?」

「……誰かに聞かせるつもりなの?」

「察しが早いわね。ええ、今日来てたあなたのお兄さんが相当お怒りで、犯人の親族を呼びつけたそうよ」

 親族と濁されてはいるがこれは、第一皇子を呼んだという事だろうか。そして、聞き取りに難航しているという事だ。

「そうよね。昔の誘拐事件と牢の作りも標的も同じ……私に、執着しているというのは間違いない」

 戻ってきたジャックの頭を撫でながらシャルは顔を上げた。

「私にも聞きたい事ができたわ。お願い、連れて行って」

 

 

◆◆

「ところで、誰が牢を見つけたんです? ここより早く、あんな数の中から探り当てるなどかなり難しい事のはずですが」

「……君が雇った研究者の、雇った用心棒代わりのならず者、更にそこでこき使われていた少年だな。シャルに薬を飲ませた子供だ」

「ああ、なるほど。嘘ではない、でも誤魔化しましたね? 情報源が少年だったんでしょう。あなたが見つけたんですね。よくその情報を掴んだものだ、凄いなあ」

 ボクは薬を作った者が飲ませろと、そう命じたのに。結局ゴロツキが持っていたのか。子供の入りこむ余地ができていたとは、と首を捻り不思議そうに考え込む皇子に、思わずといった様子でシャルが声を掛けた。

「雇っていた人たちに直接関わる気はなかったの?」

「ないよ。傷つけず捕まえてくれるなら誰でも良かった。事情があろうと、ボクの計画を実現できる能力があるなら引き入れたとも」

「ねえ、私はあなたと顔を合わせたこともなかったはずよ。何を見てここまでしようと思ったの?」

 何がきっかけだったのか。シャルはそれが知りたかった。

 

「一度、遠くからだったけどボクはキミに会えたんだよ」

 怖くて暴れてたキミが薄暗い牢へ運ばれていくのは悲しかったし、もっと奇麗な部屋で奇麗な服を着てほしかった。けどね、ボクは素性の分からない商人に売り飛ばされそうなキミをどうにか安全な場所へ連れて行きたかったんだ。

「なのにキミは、騙されてまた攫われてしまった! 悲しかったし怒りも沸いたさ。ちゃんと水を飲んでくれたのにどうして、って」

 頭を搔きむしりながら悔しそうに皇子が話す言葉のひとつを、シャルは逃さなかった。

「──あなたがあの、成長を遅らせる液体を作ったの?」

「そうだよ。レシピは雇った人に任せたけど、材料はボクが揃えた。だって何年か経ったキミは、あの日の軽やかなキミじゃなかったから」

 本当は若返ってそのまま変わらずにいてほしかったけど、うまくはいかなかったんだ、難しいよねなどと恐ろしい話も聞こえたような気がする。

「何もおかしなことじゃないよ。昔、彼女が城で駆けていた姿を一目見た時からそうだった。なんて軽やかなんだろうって思ったんだ。ずっと見ていられた。ボクの傍で動き回っていて欲しかった!」

 眩しかったなあ、と呟いた皇子は小さな子供のように瞳を輝かせていた。

「でも、あの国が帝国の属国になっても、姫君、キミは城にいなかった。だったらどこに行ったか探さなきゃ、ボクのところでもいい、安心して駆け回れる城に戻してやらなくちゃならないと思ったんだ」

 

 

「初めから、公国を滅ぼすつもりだったの?」

 そのシャルの一言に、今度は居合わせた全員がどよめいた。

「ちょっと待ったシャル、それは流石に冗談だよね? 皇子もだ、違うなら否定してくれ。それだとまるで、シャルの為だけに無関係な国を滅ぼしかけたことになる」

「彼女の為だけでは駄目なのかい?」

「私はちっとも嬉しくないわ。公国で蔓延していた病の発生源は、帝国で新たに貧民階級の民の働き口の為に設けられた、採掘場から出てくる物質だった」

「公国? そんなに可哀想に思うのかな?」

 ボクは水源に汚れを流してからはあまり見に行かなかったけれど、病が広まるまで時間がかかったらしいね。兄の方が臥せっていればきっとキミはどうにかしようとやってくるはずだって思ったんだけど。

 どこでも良かった。国ひとつ壊れても、元に戻すための金はたくさん手元にある。人がいなくなれば奇麗にして、キミと住めると思ったんだ。

「でも出て来てはくれなかった。がっかりしたよ」

 だけど、キミはまた捕まって、助かったのにわざわざボクのところにお話をしに来てくれた!

「城で見たあの日から随分時が経ってしまったけど、キミは変わらない愛らしさでここにいるじゃないか。解毒薬が欲しいんだろうけどそんなのボクにも分からない。必要ないだろう? それよりボクの傍にいてくれないかな、それとも」

 ここまでやっても、キミは逃げてしまうのかい?

 

 

 それまで一歩として動かなかった第二皇子が、シャルを向いて一歩踏み出した、その時だった。

 

「そこまでだ、大人しく捕まっておけ」

 ──静かだがよく通る声が、その場の全員の動きを止めた。

 入り口を見張っていたべラドが、現れた軍服姿の男に道を空ける。

「兄様、ボクは」

「罪人を取り押さえろ。そこのご一行、事情は既に聞いている。この者の罰についてだが、どんな罪であれ二度と他国には行かせないよう計らうつもりだ。安心するといい」

 申し訳ないが、今からでも事情聴取を行いたい。こちらの指定した宿で行う。ご同行願いたいと言い残した『第一皇子』は、その場を部下たちに任せて行ってしまった。

 

 そうして、第二皇子は連行されていった。長い睨み合いと対話の続いた研究所の奥には、小さなネズミから死刑囚の人間まで、様々な生き物が残されていたそうだ。──そして、シャルの探していた解毒薬の情報は、ひとつとして残っていなかった。

 

◆◆

「さっき商会長には知らせたけど、明日、帰るよ。僕にも公務はある。そろそろ帰らないと、義兄上に怒られるからね」

「そう。私も、商売は続けるわ。この体質が怖くなくても、方法が分からなくても、原料があるならまだ解毒は諦められない」

  ようやく戻ってきた商会の屋敷で、フランは荷造りをしていた。事情聴取の翌日に、帝国領で抱えきれない量の土産を買い込み、大荷物で帰ってきたのだ。既に物で溢れていた馬車の荷台から荷物を移し替える作業は、商売上慣れているはずのシャルでも苦労した。

 

「そういえば、自白させてから捕縛するのはグランかべラドのアイデア?」

「グランだよ。あいつ、あの場に来た時点で相手を殺しかねない勢いだったからさ、意見を出させてちょっとだけ堪えてもらったんだ」

「皇子は、捕まってどうなったのか訊いても?」

「ああ、話しておこうか。彼、身分剥奪の上で幽閉になったそうだ。罪と比べて随分軽いとは思うけど」

 

 母親を早くに亡くしていたらしく、幼少から愛情表現がずれていたらしい。普段の振る舞いにそういった面は見られなかったからと、民衆もこの一報に驚いていたらしいよ。

 幸いだったのは、ちゃんと省みて後悔ができていることかな。だとしても、やったことの規模が大きすぎるし倫理が欠けている。諦めていないらしいという噂が流れているがどうなんだか。

 

「あれだけ規模の大きいことができる行動力なら、脱走もしそうなところだけど?」

「だから『城で幽閉』にしたんだよ、シャル。国外に追放したり、他の罪人と一緒にしたりしたところでまた動き出すかもしれないからね。食事も飲み物も出ない部屋で、人生を終えることになったんだ」

 それは寂しい終わり方ね、と小さく口にしたシャルは目を閉じる。

「彼の根底には私への執着があったわけだけれど……それは、誰も理解できない体験をしてきた私たちにも有り得ることだったのかもしれないわ」

「依存に近い何かが、あったのかい?」

「あった。沢山、あったと思う。グランもそう、商会長もそう。一緒に同じ国に逃げていれば、兄妹で依存していたかもしれないでしょう?」

「でも、そうはならなかった」

「ええ。どう死んでも怖くはないと気付かせてくれる人がいたわ。強く逞しく生きる術を教え、逃げ延びることを叩き込んでくれた人がいる。私のこれまでを労ってくれた人も、いた」

 

 誰かに支えられてここに立つ私が、今ならとても強く見える。

「これからも、出会えるはずだ。まだ何十年も、僕らには先がある」

 

 

 だから、未来のために。どうせ手紙でやり取りできるとか言わずにさ、約束をしておこう。

「まだ公国は客を招いて街を案内できるような状況じゃない。でもいつか、いつか近いうちにだ。今度はシャル、お前がこっちに訪ねて来てくれ」

「……ありがとう。ぜひお願いね、フラン兄さま」

「ふふっ、ああ。その頃には城の者も街の者も、劇団だって呼んで、お前を出迎えるよ」

 笑い合う兄妹を、星空が見守っている。

 

 

 これでこのお話は、ひとまずおしまい。彼らの関係は変わらず、しかし人生は変わりながら進んでゆく。それでもきっと、満足のいく終わりを迎えることでしょう。