穏やかなはずの休日は突如として変貌した。いや、この「世界」に生を受けた以上、平和な日常なんて無いに等しいのだ。カオスなる混沌の名を冠した怪物が蔓延ってるこの世界では。
(お願い、間に合って…………)
周りの視線を一部浴びながら少女……ルナカは、いかなる陸上選手の追随も許さないほどの速度で爆走する。街は阿鼻叫喚としていた。店の壁は穿たれて随分と風通しが良くなり、電柱は幾本かの電線を道連れにして倒れ、道路は歩く者を拒むかのように破壊されていた。人々は恐怖で泣き叫び、反対に言葉を失って立ち尽くし、一様に怪物の襲来に心身共に傷を負っていた。
そのようなカオスによる爪痕に呻く喧騒の中で、ルナカが一握りの注目を浴びているその理由は、文字通りの超人的な走力と、一目を引く奇異な服装をしていることが要因だった。歴史の教科書に出てきそうな軍隊服に、対照的に現代の学校でもよく目にしそうな紺の膝丈のスカート、そしてどの時代でも目にできなさそうな天女みじた振袖。一貫性は無かった。
異文化を取り込んだような隊服とも、なにかしらのキャラクターのコスプレとも、現世に降り立った女神とも言える奇妙な恰好だった。だが、不思議と均衡が保たれているというか、どれか一つでも欠けてしまえば力を失ってしまうような、ともかく常人と一線を画する濃密な”魔力”で満ちており、包容力と神秘性が混沌に呑まれる人々の目には文字通り救世主のように映っていた。
ルナカは町を抜け、喧騒を背中に受け、ほとんど飛ぶにも等しい速さで路を疾駆する。事の始まりは晴天に走る霹靂のごとく、突然のことだった。
ルナカは『組織』から与えられた休日を利用し、以前まで通っていた学校の親友と会い、隣町に遊びに来ていた。なにかスイーツでも買って食べながら歩こうかと提案したところで、奴らは現れた。夜行性という一般認識がそろそろ揺らぎつつある怪物、カオスだった。この日も人々の常識を度外視し、陽が高い日中に気色の悪い巨躯を眼前に晒してきた。
カオスを狩る『組織』に所属しているルナカは、その鳴き声を聞くや否や即座に戦闘体勢に入り、信念通り怪物を狩ることを決心した。親友に謝罪して安全な場所へ身を置くように言ってから別れ、十分な戦力を振るえる姿に変身した。常人では太刀打ちできないカオスと同じ土俵で戦える、魔力に満ち溢れた自分。普段その姿は『組織』の者として出動するときにしか顕現させないので、「せっかくの休日なのに」という行き場の無い不満を吐露してしまうが、瞬時に今朝のニュースの星座占いの順位が悪かったからだと自分を諌め、カオスから市民を守った。
傷を負った者は居たが、幸いにも死者は現れなかった。そして、誰かが一回りデカいカオスに追われているという声を聞き、ルナカは周囲の安全を祈りながら……同時に『組織』の出動を願いながら……目撃の方へと急いでいた。
街並みは消え、人気も無くなり、ルナカはもう何年も放置されて寂れた地区に足を踏み入れた。このような人の手つかずの土地はカオスの休息地になっていることが多い。『組織』でそう学んだ少女は、一層焦燥の色を濃くしながら要救助者を探すため、”心の中で、言霊の宿る文字の羅列を詠唱する”。
この世界は突如として変貌した。その変化は善悪両方の側面を持っており、悪の面が人間の天敵として君臨しているカオスの襲来。そして善の面が「魔法」の到来だった。普通であれば、魔石等を身に着け、神に聞いてもらうかのごとく肉声ではっきりと詠唱しなけば魔法を発動できないのだが、ルナカはその二つを無視して心の中で詠唱……つまるところ、「心中詠唱」と呼ばれる暗唱だけで魔法を使えることができた。
ルナカの瞳に、サーモグラフィーのように色の濃淡を示す視覚信号が呼び出される。『魔痕感知眼(マナ・サーチ)』。魔力の制御が拙く、常に魔力を漏らしてしまっている人間の欠陥を利用し、『組織』が考案した「魔力の痕跡を辿る自己強化系」の魔法。詳しい原理は割愛するが、およそ一般人には到底不可能な複雑かつ難解なものであり、ルナカも習得までにはそれなりに時間を要したし、実践経験もまだ浅い。ゆえに、使い物になるか不安だったのだが、無事呪文は思い描いていた式を構築し、演算結果をその瞳に示すことに成功した。
色の濃い、線が行く先に二本伸びている。太い方はおそらく魔力の塊とも揶揄されるカオスの痕跡、もう一方の怪物と比べてあまりにもか弱く見える細い線が人間の痕跡だ。魔痕の滞留はそこまで長くなく、時間経過とともに薄れ、五分もすれば跡形も無く霧散してしまう。色の濃淡から判断するに、両者は近くにいる。頼むから生きていてくれ。そのような願いを込めながら、ルナカは感知眼を維持しつつ、魔痕を追う。
カオス出没から約七分、捜索を開始してから既に三分が経過していた。ついにルナカは救助者を見つけた。場所は入学児童の減少により閉ざされた学校施設の一階、昔はここで教師と多数の生徒が対面していたであろう学習教室の一室。閉ざされていたといっても鍵は老朽化でボロボロに錆びて開いてしまっていたし、長年の風化で廊下や床には埃が積もっている。うわあ、これはカオスにとって絶好の隠れスポットだな。そう思わざるをえないぐらい、異種の殺気が充満していた。相対するのは一体。しかし、いつ別のカオスが横槍を入れてきてもおかしくない。尋常ではない危機感がルナカの心臓を早める。
「あ、あの……!」
弱々しく、か細い声。救助者……先刻の細い魔力の持ち主……は幸いにも生きていた。自分より数倍大きな怪物に追われながら、よく生き延びていたものだ。逃げている間の転倒などでできたと思われる体中の傷と、何かで刺されたような異質な足の傷が目立つが、それ以外は五体満足。生命の維持には支障が無いことを確認すると、ひとまず胸を撫で下ろす。
「大丈夫、安心して。あなたは私が必ず助ける」
極度の緊張によりまともな理性が働かなかったが、何とか平然を装って声を出す。魔法の呪文に限らず、言葉には力がある。今の言葉は怯えを憶える自分に放った叱咤でもあった。救助者の少女は、ここまでの逃亡劇により体力を使い果たしたらしく、また足の負傷により動けそうにない。少女を傷つけないよう、迅速に対応しなくては。ルナカは早鐘のように鳴りつける心臓を宥めながら視界を四十五度ほど、上方へ向けた。
カオスの外見は千差万別。一つとして同じ型の個体は存在しないが、ある程度タイプ分けすることができ、その型によって戦い方を変えるのが『組織』の殲滅班のセオリーだった。だが、今回見上げるカオスはあらゆる面で規格外だった。こんな姿形は今まで見たことが無い。
「ブルルルルル……ッ」
理解し難い立体芸術作品のような見た目を持つ普通のカオスと比べても、明確な姿形を有していた。十人に聞いて十人が同じ答えを出すだろう。牛だった。立っている牛だった。
その怪物は、まるで『牡牛(ミノタウロス)』のようだった。
* * *
ルナカの常人とは一線を画する戦闘力……魔力を自在に制御し、身体能力や魔法が常人の数倍になる素質に目覚め、一万人に一人の割合で生まれる「覚醒者」となってひと月ほど。ルナカは『組織』の同班の先輩でもある幼馴染から言われた。
「俺ら覚醒者の役割は、カオスを殲滅することだ。人の救助も大事だが、それは第二の役割に過ぎない」
「うん」
ルナカが所属しているのは、覚醒者で構成された殲滅班。普通の人間では太刀打ちできないカオスと鎬を削り、そのお命を頂戴するのが主の役割だ。被害者の救助は非覚醒者で構成された救助班の仕事。そのことを理解しているルナカは素直に首肯する。しかし、幼馴染の青年は、男性にしては細く、長い指を立てて逆説の意志を見せた。
「だが、絶対に殲滅班が救助をしないなんてことは無い。カオスに襲われているまさにその瞬間に駆けつけたり、周りに自分一人しか居なかったり……この世に例外なんて言う不確定因子は無限に存在する」
確かにそうだ。殲滅班と救助班は大体二八の割合で出動するとはいえ、自分の仕事のみを行って完遂する事態だけでは無いはずだ。そもそもとしてカオスが出ること自体が非常事態なのだから、いつ何が起きるか定かでは無い。
「そこでだ。仮に現場に力を振るえる者が自分しか居ない中で、動けない被害者とカオスが居る状況があるとしよう。……ルナカだったらこの状況どう切り抜ける?」
「えっと…………被害者を守りながらカオスを倒す……とか?」
採点を待つ気持ちで幼馴染の青年を見上げる。青年は「できることなら、確かにそれに越したことは無い」とルナカの回答に八割正解を下すと、残り二割を補足する模範解答を口にした。
「俺たち覚醒者には、カオスを滅するだけの力があるが、同時に無力な人を抱えて撤退できるだけの力もある。どんなにデカい人を抱えていても、両手両足が無事ならある程度カオスを撒くことができる」
何度か負傷者を運んだ経験があるルナカはその感触を思い出しながら首肯する。覚醒者はさまざまな魔法の扱いに長けている他に、魔力を筋肉に纏わせることで常人の三倍ほどの筋力や運動能力を発揮できる。無論、覚醒者本人の素の身体能力に依存するが、よほどの重さでもない限り、普通の人間に遅れを取ることは無い。カオスの平均機動力が一般人の走力と同程度なのだから、青年の言う通り被害者を抱えて逃げることは現実的に可能だ。
「だから、最適解は『カオスの隙を作ってその間に全速力で撤退すること』だ。無論、倒せるだけの安全マージンが取れていそうなら始末した方が良いがな。……ともかく役割云々言ったが、結局一番大事なのは、覚醒者と被害者の命両方だ。ルナカも命の危機を感じたら撤退を優先しろよ」
覚醒者の心得として銘肌鏤骨し活動に勤しんだルナカだったが、そのような事態は幸いにも訪れなかった。救助班と、ベテランの幼馴染を含む覚醒者と同行しているのもあって、カオスの殲滅に集中できることがほとんどだった。
だが、教えを乞うてひと月。今まさにその「仮に」の状況に陥っていた。ここには、カオスと相対できるのが覚醒者たるルナカしかおらず、背後には足を負傷した幼い要救助者が控え、そして。
”絶対に勝てないと判断できる”巨大なカオスが目の前に立ちはだかっていた。
* * *
(勝てるわけ……ないか……)
ルナカは真っ向から立ち向かうことを捨てた。あまりにも強すぎる。加速する理性が弾き出した決定的敗北の予測に逆らい、なんとか戦法を組み立てると、店員が注文を繰り返すように心の中で復唱して確認しながら好機を伺う。
カオスの機動力は並みの人間と同等程度だが、それは飽くまで足という器官が存在しない通常カオスの話。きちんと地を踏みしめる大木みじた両足が存在するこの怪物の機動力はいかほどのものか。一見運動が苦手そうな要救助者が逃げることができていたのだから、そこまで大差ないとは思いたい。だが、このカオスは撤退を選ぶにあたって厄介な点を備えていた。
「ブモォォォッ!」
牛の鳴き声を加工したかのような不自然極まりない咆哮をびりびりと響かせると、カオスは木板の床から露出した土に触れ、空気中に幾本の鉄釘……正しくはそう見える細長く鋭利な鉄塊……を出現させた。高位な錬金魔法の一種。こんなにも高位な魔法を使えるカオスに遭ったことは無い……いや、あるにはあるのだが、正しくはルナカ単身で遭ったことは無い。恐怖に支配されている思考に鞭打つと、自分の前に鉱石のバリアを発生させ、飛来してくる鉄釘から自分と背後の少女を守る。撤退を考える上で障壁となっているのがこの攻撃パターンだった。要救助者たる少女の足を奪ったのも同じ鉄釘らしい。動く対象を正確に当てられるだけの精密さを持っている以上、背を向けて逃げることが躊躇われた。
(本格的にまずくなってきた……)
先刻からこのピック攻撃を防ぎ続けているルナカは、触媒にしている魔力の著しい減少を実感していた。ここに来るまで少なからず魔力を使って一、二体のカオスを屠り、「魔痕感知眼」の発動と展開維持に多大に消費していたのだ。人命優先とはいえ、後先考えず魔力を使ってしまったことに歯噛みをする。魔力が底尽きれば覚醒者としての力を振るえなくなる。それはすなわち、自分と後ろの少女の死を意味していた。それだけは避けなくては。
逃げ切れる確率はゼロでは無いが、万が一奴の追跡を許してしまったら、ルナカの逃げる目的地である町にまで被害が及んでしまう。しかし、隙があれば撤退にも希望は見える。カオスを一時的に無力化すれば。その間に少女を抱えて、明日の筋肉痛など意識外に猛ダッシュすれば。
限りなく細い糸口だが、やるしかない。誰も死んでほしくない。
何度目とも知れぬ鉄釘のラッシュを防ぐと、ルナカはバリアを解除し、防御中に脳内で組み立てた文章を後ろに向けて、しかし目線はカオスの邪眼から離さずに発声する。
「あなた、お名前は?」
「あ、蒼空、彩葉……です」
「じゃあ……イロハちゃん。あのね………………」
見たところ自分より年下だと想定して、砕けた口調で自身の動揺を隠しながら早口で作戦を説明する。イロハと名乗った金髪の少女は、未だ恐怖で蒼白としつつも、こくこくと首を縦に振る。
言われた通り、イロハが攻撃の余波を受けず、なおかつすぐに駆け付けることができるぐらいの距離を取って身を隠したことを確認すると、ルナカはランスを両手で持って構える。切っ先が震えている。入試で自信のあった問題が解けなくなったときに感じるような、吞み込まれそうな焦燥と緊張。手汗で滑り落ちそうな得物をしっかりと握り直すと、少女は高い位置にあるカオスの邪眼を睨みつける。
「ブモォォォッ!!」
怯むな、動け。
ルナカは自分に言い聞かせると、掌大の周囲を自由飛行する宝石……「尽光衛星(シューティング・サテライト)」を召喚する。その数は、行動を阻害しない範囲で、最大火力が望める四個。怪牛は、鉄釘による有効打が見込めないと判断したのか、大木ほどの太さのある立派な腕……正しくはそう見える器官……を引き絞り、ルナカに目掛けて打ち出す。後ろには無力なイロハが居る。巻き込んではいけない。ルナカはほとんど脊髄反射で横にずれてパンチを回避した。空を切った拳は床にめり込み、脆くなっていた材木が悲鳴を上げて拳大の穴が穿たれる。威力の大きさに恐怖の念が込み上げるが、無理矢理溜飲すると、カウンターの要領でカオスに目掛けて攻撃を仕掛ける。
衛星から放たれた、四本の光線。光を全反射する性質を持つ宝石の内部で反射を繰り返した光はまばゆく白い、熱閃となって怪牛に襲い掛かる。
近頃、正確に狙いが定まるようになったそれは、一本は首に、一本は眉間に、そして残りは千差万別の容姿を持つカオスと言えど、こればかりは共通な、大きな邪眼にヒットする。怪牛が弱点を突かれたことに反応の唸りを上げる。
(この声が『組織』の皆に聞こえていればいいのに……)
カオス出没から十三分。さすがに誰かが通報して『組織』の面々が出動している頃だと信じて止まないルナカは、心の中で願望を口にする。ルナカとて好んで戦う選択肢を取っている訳では無い。叶うのであれば穏便に済ませたい。
怪牛は、大きな手を広げてルナカを捕まえにかかる。意外にも動きが速い。少女は判断を下すより早く、ほとんど本能に任せて身を宙へ躍らせる。空中で体を捻らせて体勢を整え、カオスの太い腕に着地。すぐにジャンプすると、鼻面を魔力を込めた蹴りで弾き飛ばす。大きな体が衝撃に引っ張られ、後ろへと仰け反る。ルナカは再び体勢を直すと、両足と片手を使って着地。倒す必要は無い。というか倒せるはずが無い。今必要なのは、十分な隙だ。そう思い出すと共に、ルナカは空気を固めて宝石に変換。結合と結合を繰り返し、その大きさは軽自動車一台分の大きさとなる。
「はあああああっ!!」
出力を最大にして巨大な宝石を発射する。よろめく怪牛のボディに炸裂し、勢いを止めることなくその巨体を後ろへと押しやる。数秒の滑走の後、廃墟の壁に激突。土埃と破壊音が盛大に反響した。
両手を突き出した状態で呼吸を整える。瞬間的に多量の魔力を消費したので、集中力がぶつ切りになる。散らばった思考の欠片を集め、少女は振り返る。
「イロハちゃん!」
隙を作って、ルナカがイロハを担いで逃げる。
その作戦を実行すべく、金髪の少女が半ば弾かれるように掩体から這い出てくる。さあ、ここからが本番だ。ルナカは相当に小柄なイロハを抱えると、利き足に力を込め――
「あ、あのっ、なにか光が……」
イロハがそう耳打ちした。反射的にルナカは土煙と瓦礫の山を見やる。イロハの言う通り、何か発光している。金属の光沢ではなく、純粋な光。何かしらの攻撃の前兆だと判断したルナカは逃げることを諦めた。バリアの展開も間に合わない。自分より少し小さなイロハに覆い被さるようにして、ルナカは最大限の防御姿勢を取る。
飛んできたものは、勢いよく放たれた水の塊だった。
「うぐっ……!」
圧縮されて飛んできたそれの威力は鉄釘と比べれば大したことないはずだが、明確に痛みを感じるほどの勢いを持っていた。まるで嵐の波打ち際のごとく激しい音を轟かせながら、ルナカは必死に攻撃終了まで堪えた。
水の連射は数秒で終わった。イロハはルナカが庇ったので、濡れてはいるものの無傷。しかし。
「はぁっ……はぁっ……」
背中と後頭部が断続的に痛みを訴えている。髪や戦闘服が水で濡れて地肌に張り付き、体の芯から悪寒を引き起こす。イロハが何か言おうとするが、漏れるのは恐怖で震える息のみ。ルナカは無理矢理笑って見せた。
「だい、じょうぶ……心配、しないで……」
だが、誰がどう見てもルナカが劣勢な状況だった。完全に防戦一方だった。飛んでくる鉄釘が掠めて血が滲み、パンチを避けた拍子によろめき、投げつけられた瓦礫を防ぐために魔力を使わされる。
痛みと寒気が必要な集中を阻害してくる。魔力の枯渇寸前の余裕の無い表情、びしょ濡れのコスチューム、悪寒で震える華奢な体躯。自分が何とかしないと。後ろのイロハを逃がさないと。頭では分かっていても、体が言うことを聞かない。過去一番に頭をフル回転させて考え、苦し紛れの提案を打ち出す。そろそろ這って逃げるだけの体力は戻ってきたのではないか。状況が状況だ。その指示を下すのもやぶさかではない。時間を稼いで、その間に逃げてもらおう。自分の情けなさを呪いながら、ルナカは後ろの少女に呼びかけようとした。
「イロハちゃ――――!」
その瞬間、一際強い悪寒がルナカを襲った。冬の川に全身を浸し、満足に乾く前に北風に晒されたような抗うことのできない寒気。ああ、こんなときにまで占いの結果が反映されるなんて。怪牛は隙だと見て、腕を引き絞る。パンチの前兆。判断が遅れた。回避不可。バリアの展開も間に合わない。ルナカはランスを体の前にかざし、左手を刀身に添える。強力な殴打がランスに当たり、弦楽器のような音が鳴り響く。これがマッシブな覚醒者であれば受け流すことができたかも知れない。だが、ルナカの筋力は筋肉質からはほど遠い魔力補正のみの四肢であったし、何より充分に踏ん張ることのできない状態だった。
ルナカは衝撃を殺し切れず、吹っ飛ばされる。怯えるイロハの上を飛び、何度かバウンドし、瓦礫の山に背中をしたたか打ち付けた。肺の空気が無理矢理に排出され、呼吸困難に陥ったルナカは目を見開きながら酸素を求めて喘ぐ。ちらちらと銀粉が視界の片隅を彩り、毛細血管の中で虫が這っているかのような異音が聴覚を埋め尽くし、逆流してきた胃液を反射的に押し戻したことで喉を灼く。
立たないと。立て。動け。
必死に脳内で叫ぶが、その四肢は動かなかった。今のルナカには少し離れたところに落ちた自身の得物を手繰り寄せるのも一苦労だった。
怪牛が咆哮した。荒ぶった声色。威嚇や宣戦布告といった色は感じられなかった。もっと余裕の無い様子だった。カオスは隻眼でルナカ……では無く、近くに居るイロハを見た。その瞬間、ルナカは考えうるある可能性に激しい拒絶感を憶えた。カオスが人を喰らう理由は腹を満たすため。魔力の流れる血を啜り、その血肉を摂取することで奴らは生きながらえる。空腹になればなるほど、カオス共は自分の命の危機を感じ、より狂暴に、残虐に生き血を欲する。この怪牛もまさに空腹状態だった。一般よりやや特濃な魔力を秘めたイロハ……「魔痕感知眼」で大体分かる……を自身の縄張りまで誘導し、安全に食そうとしたところで別の人間が割って入り、応戦したことで魔力を浪費。奴もルナカと同じく限界なのだ。究極の飢餓状態が、ルナカという邪魔者の排除よりも、元来の目的である食事を優先させたのだ。
彼女はルナカを心配したまま、怪物の動きに気づいていない。このままだと、喰われる。刹那の内にルナカの意識は最高速まで加速し、多数の思考が立て続けにスパークした。
カオスという厄災が訪れ、人の死はそれまでよりも密接になった。いささか不謹慎ではあるが、家族が喰われた、なんてことももはや当たり前の範疇に位置するぐらい、大切な人を亡くしている者は多かった。だが、幸運なことにルナカにはその大切な誰かを失った経験が無かった。親を亡くしたことも無いし、友を失ったことも無い。殲滅班として活動している間も、目の前で人を見殺しにしたことは一度として無かった。この世界で人の死に直面していないルナカは、ある意味相当稀有な存在だった。
だからであろうか。そのことを自覚していたルナカは、恐れていた。「いつか自分も誰かを失ってしまうのではないか」と。
ルナカは、失うことの恐怖を感じたことが無いゆえに、人の死には人一倍敏感だったのだ。
意識が加速する。必死にルナカは目の前の現実を否定する。誰かを失うのが怖い。死なせたくない。何のために覚醒者になったのだ。カオスから皆を守るためだろう? だったら動け。こんな現実は……カオスに淘汰される現実なんて間違っている。
意識が加速する。見えるものがコマ撮りを見ているかのように遅くなり、数メートル離れた位置で震えるイロハの心音すら聞こえてしまうほどに聴覚が暴走し、指圧で床がメリメリと音を立てて砕けていく。
意識が、肉体を超越した。
だめ――――――!!!!
ルナカは心の中で絶叫した。カオスに対する恐怖を捨てて、本能の赴くまま、魔力の大奔流に身を投じる。数メートルの距離を”光速で移動”し、イロハと攻撃の間に割って入る。自分の知識外の現象が起こったことに激しい混乱を憶えるが、瞬時に一蹴し、金髪の少女を突き飛ばす。イロハが尻餅をつくのと、ルナカの”異常なまでの超思考”が切れるのと、カオスの攻撃がイロハの代わりにルナカに直撃するのはほとんど同時だった。
ぐちゃっ!! ぶちぃっ!!
「――――――!!!!」
水音が鳴り響いた。蛙を潰したような音が鳴り響いた。生理的嫌悪を盛大に刺激する音が鳴り響いた。生命の根本的な何かが破壊されたような音が鳴り響いた。
攻撃を喰らったルナカは悲鳴を上げようとしたが、痛みの声は上がることは無かった。”夥しい量の吐血で口を塞がれてしまったからだ”。
コンクリートの壁を破壊できる怪牛の拳を腹に受けてしまったことにより、ルナカの内臓は潰され、鉄の匂いと無数の紅を辺りにまき散らした。吐き出された血は、至近距離のカオスにも降りかかる。秘められた常人よりも濃い魔力を含有する血液に反応したのか、ルナカの腹にめり込ませた拳を引き抜き、五指を広げ、再び腹に突き刺した。
「ぐぷっ……!!」
ルナカは激しく体を痙攣させ、弱々しく怪牛の腕を握り抵抗の意を示したが、無情の化身たるカオスには通じない。吸血による食事が始まった。内臓を破壊されたことによる焼かれるような痛みと血を吸われることによる冷たい苦しみ。電撃とも捉えられる激しい信号を脳は処理しきれず、既に痛みや苦しみといった感覚は無かったが、「何か」が無くなっていき、すぐの自分のものでは無い「何か」が内側から空虚を満たしていくのだけは鋭敏に感じられた。
無くなっていくのが自身の「命」であり、埋めてくるのが重く冷たい「死」。
耳鳴りも、自分を呼ぶイロハの声も聞こえない。口から止めどなく出てくる血の味も無くなり、手足の動かし方も忘れ、自分が呼吸をしているのかすら怪しくなる。体が……重い。
(いや、だ……ま、だ……死に……たく、無い……)
こんな絶望的な状況でも、理性の一欠片が死に抗っていた。まだ、あの人にちゃんと言えていない。あの人に「好きだ」と言えていない。あの人に想いを伝えるまでは、死ねない。
(助けて…………!!)
とうとう視界から光が消えた。意識も無限の闇に誘われる。呑まれる寸前、ルナカは叫んだ。想い人……憧れの幼馴染の名前を最後の力全て使って叫んだ。
そうして、ルナカの意識は黒く塗りつぶされた。
* * *
絶望に彩られる中で、イロハは聞いた。吐血とカオスの唸りの中に、か細く、普段なら聞こえないような小さな声を。ルナカの声だった。彼女が誰かに助けを求めていた。
「……!!」
人の声色に敏感だったイロハは、琴線に触れるような、想い焦がれるような、まだ知らない領域の少し大人な音を帯びたような声で誰かを呼んだのを聞いた。彼女を殺してはいけない。直感的に突き動かされるとともに思考が加速し、さまざまな思いが立て続けに炸裂する。助かりたい、という気持ち。ルナカを助けたい、という気持ち。そして、恐怖が臨界点突破して消え失せ、代わりにどうしてこんな目に遭わなくてはならないのか、という疑念の気持ちと、人間を食糧としか見ていないカオスへの怒りが沸々と湧いてくる。先刻まで頭を抱えて震えていたのに、一体何に突き動かされているのだろうか。自分でも不思議な感覚だった。
(やら、なきゃ……)
カオスに死を許してたまるものか。普段は考えないはずの生きるための罵詈雑言が、ルナカの致命傷と言葉がトリガーとなって溢れてくる。魔法ではないが、言葉には力があった。カオスへの怒りが、イロハの願いが、傷ついた体を立ち上がらせる。ある意味理性的では無い頭が傷や疲労を麻痺させ、緊張を「殺る気」が上書きする。何もできないし、力も魔力も何も無い。だけど、このまま喰われるのだけは嫌だった。抗ってやる。助けられるだけじゃない、私もこの人を助けるんだ。
(屈してたまるものか――――!!!!)
イロハは絶叫した。
絶叫が意識の深層にまで轟く。その瞬間、今まで経験したことのない出来事が立て続けに起こった。
胸の奥で「何か」が儚い音と共に壊れ、秘められていた温かな奔流が体中を巡る。急速に視界が淡い光に包まれ、自由落下にも垂直上昇にも感じられる奇妙な空間にイロハは放り出された。だが、不思議と怖さと不安は感じない。まるで新たな自分の誕生にも思えて、あるがまま力の奔走に身を任せる。みなぎるような高揚感が迸り、体に羽根が生えたかのように軽くなるに対して、腰に頼もしい重みが加わる。今なら何でもできそうだ。
火照っていた体の芯に染み渡るような、心地良い清涼感。同時に興奮で誤魔化していた身体中の痛みや軋みが引いていった。背筋を突き抜けるような浮遊感の中で、イロハは自分の体を見下ろす。着ていた服がいつの間にか変幻していた。 肌に密着する白いスーツの上に、青々とした葉や硬くてしなやかな蔦で織られたベストを羽織り、服と同じ植物で編まれたスカートと木の皮を素材に作られたかのような先端がカールした靴。まるで妖精みたいな恰好だった。見慣れない服装なはずなのに、いつも着ている普段着のような安心感を憶える。
鈴のような福音に誘われたイロハは碧色の瞳に勇気を灯し、顔を上げた。
――この世ならざる幻想と蒼穹を旅する清風の祝福を受けながら、イロハの魔源は「解放(リベレイト)」された。
浮遊感は発生と同じく突然終わった。体中や脚の痛みは感じない。見れば、怪我なんてなかったかのように傷口が癒えている。どういうことだろう。いや、今はそれよりも。
「………………」
怪牛がイロハの方を見ている。魔力の爆発とも揶揄される「解放現象」に誘われたか、単にまばゆい光が眩しかったのか。いずれにせよ、”好機”だった。ルナカを救出するための、だ。
「その人をっ……離せっ!!」
金髪の少女はほとんど考えず、まるで元から知っていたかのように、腰のホルダーから伸びる”短刀”の柄を握って音高らかに抜き放った。利き足で地を蹴り、カオスとの離れていた距離を疾駆。内臓を鷲掴みにしている怪牛の手首から切り落とそうとダガーナイフを振るう。ところで、身も蓋も無いことだが、いくらイロハが”覚醒者”になっても、元の体質が災いして筋肉質なカオスの肉体を切断できるほど筋力は無かった。だから、この行為は無謀も良いところなのだが、それは飽くまで”素の力だけ”であればの話。
ビュオオッ!!
一陣の実体を伴った風が吹いた。刃を一層煌めかせ、切り込んだ短刀を峰から押し込むような、イロハにとって都合が良すぎる風。カオスの手首は両断された。切断音にしてはやけに高く、澄んだ音が空気中に木霊する。覚醒者に備わる適正魔法だ。イロハの適正であった風魔法が本人の無意識下で発動し、攻撃をアシストしたのだ。
手を切り落とされた……食事を無理矢理中断させられたカオスは隻眼を見開いて困惑する。イロハは、再び風を起こして”五メートルほど”飛び上がると、ルナカがそうしたように、鼻面を思い切り蹴りつけ、怪牛を怯ませた。下腹部の浮き上がりを感じながら両手両足で着地し、急いでルナカを回収。白い肌を覆いつくす鉄臭い紅に気が狂いそうになるのを堪え、一呼吸とともにカオスの手を両手を使って引き抜く。腹からいびつな五指を引き抜いてもルナカは反応を示さない。
(まさか、死んじゃった……?)
寒気が背筋を這うが、煌めくチェストアーマーは弱々しくではあるが呼吸の度に上下し、脈もある。生きている。だが、そう長くはもたないだろう。内臓が傷ついているのだから、いち早く必要な手当てを施さないといくら覚醒者とはいえ死に至る。とりあえず逃げないと。イロハがいわゆるお姫様抱っこでルナカを抱え、疾駆しようとしたまさにそのとき。巨大な影が二人を覆った。怪牛が逃がさない、と言わんばかり切り落とされた手を再生させてイロハの背後に立っていた。心なしか、隻眼に苛立ちの感情が滲んでいる。そうだった。今はこいつの懐に居るのだった。まずい。やばい。絶体絶命。カオスが地に轟くような唸り声を上げた。剛腕を振りかざす。イロハは恐怖ですくむ足と思考に発破をかけると、左右後ろのいずれかに回避できるように準備する。
しかし、結果的に回避することはなかった。
「止まれ」
突然の低くハリのある力強い声が両者の動きを止めた。イロハの聴覚に届いた次の瞬間には、”怪牛の巨躯が氷に包まれていた”。
「え…………?!」
少女が啞然とする中で、声の主が氷塊を軽々飛び越えてやって来る。背の高い男性だった。生糸のように艶を帯びた重力で遊ばれる銀色の長い毛髪。線の細い輪郭と男性にしては繊細な長い手指。そして、歴史の教科書に出てきそうな装束と手にしている長い刀。
覚醒者だった。
助けが来た。そう実感した途端、安堵の余り堪えていた感情の堰が音を立てて崩壊していくのを感じ、わなわなとへたり込んだ。
「『組織』の殲滅班だ。救助が遅れて申し訳ない。怪我は無いか」
相当急いできたらしく、言葉の端々に荒い息が聞こえるが、イロハにはこの人が覚醒者として年季の入っているベテランだということがすぐに分かった。瞬時にカオスを冷凍する技量もさながら、怪物を背にしていても一切の隙が無い。冷静という言葉がこれほどまで似合う人は初めてだった。イロハは色んな感情でぐちゃぐちゃになり、呂律の回らない舌でなんとか言葉を紡ぐ。
「わ、わたしは、大丈夫ですっ……でも、この人がっ……!!」
「!!」
この人、で抱えているルナカを示すと、男は鋭く息を吸った。顔面が蒼白となる。
「くそっ……無茶しやがって……」
小さく毒づきながら、魔法知識に長けたイロハでも見たことが無い高位な魔法を展開する。が、その術はすぐに中断させられた。ばっ、と男はマントで自分とイロハとルナカを包み込んだ。男の顔が至近距離に映る。……結構綺麗だった。
ばしゃああん!!
硬質な音が響いた。カオスを足止めしていた氷が怪物の抵抗に耐えかねて爆砕したのだ。氷塊がいくも飛んでくるが、爆砕を予測していた男は、自身のマントを凍らせて即席の盾を形成し、防御する。イロハはすっかり縮こまって男に身を委ねる。氷の爆砕が終了したらしく、男はマントを解凍して翻すと叫んだ。
「ブラッド、少しの間頼む!」
すると、遅れてやって来たブラッドと呼ばれた新たな闖入者は、怪牛の前に躍り出ると、燃える巨剣を振り回しながら言い返した。
「一つ貸しだぜ、ソルジ!」
覚醒者ブラッドは、悪魔とも揶揄できそうな実に獰猛な笑みを怪牛に向けると、恐ろしいほどの怪力でカオスを押しやり、その勢いで壁や教室と廊下を隔てる窓を破壊しながら、物理的に引き離す。カオスも一層狂暴性を増して暴れ回り、応戦する。ブラッドが怪物を引き付けているその間に、ソルジと呼ばれた青年は先刻展開しかけた魔法を行使し始める。当人の周りを発光する二十枚以上の札が旋回している、見たこともない魔法だった。イロハが目を白黒させる前で、幾枚の中から一枚だけ手に取ると、屈みこんでルナカの腹部にあてがう。治癒魔法の一環だろうか。治癒魔法特有の修復光が傷口を淡く発光させる。しかし、尚も出血は収まらず、圧迫止血を試みて布で押さえてもすぐに紅に変色してしまう。
「すまない。君も治癒の心得があるのなら協力して欲しい。どうにも出血が酷すぎる」
「わ、分かりました。やってみます」
ソルジも再び例の高位魔法を展開する中、イロハも呪文詠唱に取り掛かる。魔法が当たり前となったこの世界では、基礎学習の一つとして魔法学が取り入れられている。そのときの学習を思い出しながら、記憶の片隅から治癒魔法を呼び起こす。素の人間が扱える階級なんてたかが知れているし、飽くまで応急処置程度しか機能しないが、無いよりマシだ。イロハが口にした言霊の連続が人間の、対象であるルナカの治癒力を促進する。
(……!)
途端にイロハの内側から風が起こり、よろめいてしまうのを懸命に堪える。まるで銃を撃ったときのような反動だ。自ら発動したのにも関わらず、今まで行使したことの無い高位な治癒魔法だった。傷口はおろか、対象者たるルナカ全体が淡く発光し、腹部の赤黒い風穴がみるみるうちに塞がって止血されていく。普通のものだとせいぜいかすり傷を塞ぐのがやっとな具合なのだから、とんでもない回復量だった。それだけでは無い。イロハが呪文を継続して唱えていないのに、治癒魔法は「治れ」という本人の意識を汲み取ったかのように怒涛の勢いを保っている。
覚醒者には基本二つの適正魔法が備わる。イロハの場合は風と、この治癒魔法だった。無意識下ではあるが、イロハの魔源が治癒魔法を大幅に強化した結果、意図しない高度な治癒を展開していたのだ。いつの間にか怪我が治っていたのも、この適正魔法の影響で治癒が意図せず起こったことが原因である。しかし、このときのイロハはそのような事実を知る由もなく、とにかく、治癒魔法を維持するための強烈な違和感との闘いに集中していた。そうして二十秒ほど。ソルジの追加回復とイロハの治癒魔法を当て続けたことが幸いして、ルナカの肌に血色が戻ってきた。脈もだいぶ安定してきている。
「よし……とりあえず、大丈夫か……お疲れ様。よく頑張って生き延びたな」
不意に、ふわふわとも受け取れる優しい労いの言葉が投げかけられ、ここが戦場だということが忘れてしまわれるぐらい、びくびくしていた心が解される。ああ、お父さんってこんな感じなのかな。幼い頃両親を喰われたイロハには、父親という存在が分からないが、その言葉には幻想の親を連想させるぐらいの郷愁にも似た温もりを感じられた。
だからだろうか。ルナカの容体の回復、自分の身の安全の保障。この二つが張り詰めていた緊張の糸と異常なぐらい流れていたアドレナリンを断ってしまった。元来より、体力の無かったイロハは数分にも及ぶ足と心臓の酷使、覚醒者として力を振るった反動で活動の限界をとうに超えていた。がくん、と世界が歪み、途轍もない眠気がのしかかってくる。もはや抗うことはできなかった。
「あ………………」
ソルジに感謝の念を伝えられていない。真面目な心がそう抗議してくるが、抵抗も虚しく、イロハは開始数秒で決着した柔道の試合のごとく呆気なく意識を手放した。もう大丈夫。目が覚めたら早急に伝えれば良い。だから今だけは。最後に自分に言い聞かせると、自分という輪郭すら分からなくなるぐらいの深い眠りに溶けていった。
地獄のような一幕から生き残ったイロハの顔は、妖精のように穏やかだった。
後日、三日の眠りから醒めたイロハは、一に育ての親である祖母との再会に喜び、二にソルジと呼ばれた青年に感謝の念を述べ、三にルナカの安否を確認した。
ルナカは、生きていた。主にイロハの治癒魔法のおかげで、現世に命を繋ぎ止めることができたのだ。
そして、この日を境に殲滅班のメンバーが一人増えた。自分と同じ思いをして欲しくない。そんな強い信念を持った一人の少女だった。
戦士番号四九。名前:蒼空彩葉。戦士番号四八のルナカ以来である新たな覚醒者だった。