BOY

/葉津光

 

 信号機が青に変わり、電子音の通りゃんせが流れる。スーツ姿のサラリーマン、薄汚れた老人、派手な服を着た女性、女子高生に、小学生、そして私と同じ制服をきた中学生、みな一様に顔をなくして歩いていく。誰もが無機質で、誰もが無関心だ。

 ゆらゆらと横断歩道の真ん中まで歩いていき、そこで立ち止まってみたが、誰も私にぶつかることなく、すらすらと人の波は流れていく。

 耳に入り込んでくる音が、ただ膨れ上がっていく。人の足音、、街宣車の音、通りゃんせの音、今朝の父と母の言い合いの声、責任に押し付け合い、怒声、金切り声、響く、響く。音は止むことなしに、私の頭を回る。ああ、薄さすぎるあまりに、とても静かだ。

 

 教室であっても、それは変わらない。

「おーい」

「ここやった」

「やば!」

「こら、走るな!」

 ザワザワ、チクチク、ぴしゃぴしゃ、わらわら。

 教室は音で渋滞し、生まれては消え、思考は浮遊していく。脳内の静寂は暑さに侵され、肉が解け出で行く。時計の針はとりとめなく進み、やがて速度を増し、ゆがみ始めた輪郭を針が突き抜け回り続ける。汗が頬を滑り、顎の先へとつたっていく。やがて重力にしたがい、伸びた水滴は私の腿へと落下し、ズボンに染みをつくる。

 音は止まない。それは頭の中を絶えず反響する。

「進路はどうするんだ」

「絵で食っていく。馬鹿じゃないの」

「ねえ、分かって。あなたが心配なのよ」

「君のためだ。普通に高校へ行きなさい。なに、そこでもう一度考えるといいさ」

「え!成績いいんやから普通に進学しなよ」

「普通が一番だ」

 押し付けられる。善意だと言って、私のためだと言って、私を否定する。私の人生は周囲の人間たちによって、書き換えられていく。

 

 学校が終わり、無機質な流れに身を任せて、私も歩き出す。

 リュックサックの紐を片方ずつ力いっぱいに握りしめ、やや視線を落として歩く。無機質なコンクリートの道が現れては消え、その繰り返しだ。同じように、誰かの足は現れては消えていく。コンクリートも人も何にも変わりはしないんじゃないかしら。だって、私からすればどちらも、こんなに意味のない、ただそこにあるだけのものなのだから。

 

 もので溢れていた私の目に突然入り込んできたのは汚れた服に、穴の開いた帽子をかぶった、五、六十代ほどの男だった。公園の横に一人で座っている。このホームレスらしき男から私は目が離せなくなった。すぐに目を逸らそうとしたのだが、私を見つめる男の目がそれを許さなかった。濁った、底の見えない、或いはそこしかないその瞳が、私を掴んで離さない。私は立ち止まり、いつまでこうしていたか、男が言葉を発するまで何もできなかった。

「俺は、お前だ。ガキ、俺はお前だよ」

 髭だらけの口が妙に生々しく動き、発せられたその言葉は、私の心臓を掴み、息ができなくなった。そのせいか、私の言葉は擦れ擦れで、上手く話せなかった。

「な、なに言ってんだクソ。お前が俺なわけないだろ、気持ちの悪い目で俺を見るな。意味わかんね」

 私はそう吐き捨てると、一目散に駅を目指して走り出した。背中には終始、男の視線を感じていた。

 

 電車に乗り込むと、心臓の揺れは幾分収まった。しかし、先ほどの男の言葉は私の中で何度も何度も繰り返し響き続けている。どうしてしまったのだろうか。訳の分からない男の、訳の分からない言葉が、今や私に重くのしかかっている。

 扉の窓から見える景色は、ただ無機質に広がっている。

 そうか、あの男は決して無機質では無かった。それがより一層、不気味だったのだ。

「お前は俺だ」

 ふと、窓に映った自分に焦点があう。ぼんやりと眺めていると、窓に映った私の口がゆっくりと動き出した。

「お、ま、え、は、お、れ、だ」

 どうしようもない不安が、濁流のように私に押し寄せる。もう、何も考えたくは無かった。

 

 家に着くと、そのまま部屋に駆け込んで、絵を描いた。頭の中に渦巻いた、思考のゴミたちを全て真っ白なキャンバスに吐き出した。気がつけば、惨たらしい色の背景を持つ、自分の顔がそこにはあった。だが、それは私の顔ではない。混じっていた。あの男の面影が私の絵には滲んでいた。どういう意味であの男は、私にあんなことを言ったのか、忘れようとしても忘れられず、夜はまともに眠れなかった。

 

 朝、学校へ行く途中で公園の前を見た。しかし、あの男はいなかった。私は何かに押されるようにして、その男が現れる前に、学校へと向かった。

 いつも通りのつまらない授業を受ける。義務教育も九年目になると飽きがおとずれる。みんな飽きはしないのだろうか。教科書通りの授業が行われ、教師は薄い言葉をぺらぺらと口から垂れ流すだけの時間だ。教師のために私たち生徒がいるのではない。私たちのためにあなたたち教師はここにいるのだろ。そうだというのならば、もう少し、私たちのことを考えてくれ。私たちは、君たちの穴を埋める道具なんかじゃ決してないんだから。

「ねえ、絵かくのすっごい上手ね」

 そう私に言ってくれたのは、誰だったか。私は誰かに認めてもらいたくて、絵を描いていたのだろうか。なんのために描いていたんだろう。初めはもっと楽しくて、もっと自由だった。

 小学生の頃は、まるで背中に翼があって、いつでもこの世界を飛べるような気がしていた。いつだって、世界は私と共にあった。私の中に世界はあって、世界はいまより鮮やかで自由だった。

 

 今日の放課後もまた進路指導だ。

 終活が終わると、みんな教室を出ていく。部活動へ行く生徒や、塾へ行く生徒、帰宅する生徒。ガヤガヤと音を立て、出ていく。そうして、すっかり教室に残ったのは、私と担任の教師の二人だけだ。

 この三十分間、目の前の男は実のあることを一つも言いはしなかった。私は、ただ男が言うことに相槌を打っていた。知らないうちに、私の進路は県で何番目かの高校に進学するということに決まっていた。今のままの成績であれば問題なく受かるだろうと、この男は安い笑顔を蝋のような顔に張り付け、私にそう言った。

 私がしたい事は、何だったんだろう。この教師の言葉に従った方が、随分と楽そうだ。それに、彼が言うには、この高校に進んだ方がうんと良いらしい。その方が将来も安心ならしい。親も喜ぶそうだ。そうだね、その方がいい。きっと、その方がいいんだ。

 夕陽が沈んでいく。街頭の光が、影を伸ばしては縮んでの繰り返し。意味もなく歩いていく。胸のあたりが、軽くなった。いや、これは、そう、すっぽりとなくなったのだ。空っぽになったんだ。不安も夢も、すっかり消えてしまったのだ。

 

 公園の前には汚れた段ボールが敷いてあり、その上に穴の開いた帽子が置かれていた。私はその前に立って男を待った。待つことが、今は正しいと思った。

 すっかり日は落ち、人工的な光が私の頭を照らしている。もう帰ろうか、そう思いだしたところで、公園の奥から人が歩いてきた。初めは暗闇の中に在って、輪郭しか見せなかったそれが、私の待っていた人物だと分かる頃にはすっかり目の前にまで男は来ていた。

 男は私を一瞥すると、すぐに興味をなくしたように段ボールへ座り、後ろのフェンスに背中を預けた。そうして胸のポケットからしわしわの煙草を取り出すと、手で体をまさぐり、ズボンのポケットからライターを見つけると、火をつけた。そうして深く吸いこみ、私めがけ煙草の煙を吐き出した。

「何の用だ」

 男は擦れた声で私にそういった。

「昨日、何で俺にあんなこと言ったのか気になって、待ってた」

「ああ、何のことだ」

「とぼけんなよ」

「冷やかしか、ホームレスなんて珍しくないだろ。どっか別のとこに行けガキ」

「だから!」

「知らん! このガキ、これ以上何か言うっていうんならやっちまうぞ!」

 男が怒りだし、私は怖くなってその場を去った。あの男の頭がおかしいのか、私の頭がおかしいのか。だが、もうどうでもいいような気がした。ただ、今日は昨日感じたあの不気味さを感じなかった。

 

 家に帰り、母親に進路のことを話すとひどく安心したようであった。このまま勉強をして、周りが望んだように生きていけばいい。きっと親はその方が喜ぶ。

 部屋に戻って、私はノートを開くと、数学の復習をした。その後は翌日の予定を確認して、リュックに教材をしまう。机の端に並べられたスケッチブックには一度も触れなかった。

 

 夜中に目が覚める。自分がどうすればいいのか、やはりわからなかったのだ。人がいいということが、いい事なのか、自分が望むこと、したいことがいいことなのか、私にはわからなかった。ただ、今が自分にとって苦しいのは確かだ。縛られているような、囚われているような、そんな感覚がまとわりついて離れない。嫌にとろみのついたぬるま湯につかっているようだ。そんな中で、私はどうすればいいのか、それが分からなかった。

 

 電子音でかなでられる通りゃんせは何処が不気味さを備え、それと同時にそのうちに懐かしさを隠し持っている。耳に入り込んでくる音で私は横断歩道を歩き始めた。自分の人生なんてどうでもいいような気がして、このままここに突っ立って、車にでも引かれてしまおうかしら、そんな阿保らしいことを考えてしまう。自分がどうして生きているのか分からない。死ぬのが怖いからかしら。そうしたら、もしその恐怖が亡くなったら、私はこのまま死んでしまえるのかしら。他の人も、私と同じように考えているのかしら、そんな風に、すっかりと考え込んでしまって、はたと気がついた時、周りの音は鳴りやんでいた。

 これはいけないと思い、走ろうと思って顔を上げたところで私の目に入り込んできたのは、人々の顔のない顔であった。皆一様に、立ち止まって私の方を見ている。世界から色と音は消えていた。顔のないサラリーマン、顔のない老人、顔のない女性、どの人間にも顔はない。しかし全員が私の方を向いている。

 一番近くにいたサラリーマンがゆっくりと右手を平行に持ち上げ、私を指さした。

「俺はお前だ」

 その言葉を皮切りに、他のものたちも一斉にこの言葉を私に投げかける。

 音は重なり、鼓膜を反響していく。どんよりとした重さが全身にのしかかるような気がして、気持ちが悪かった。湧き上がる吐き気が不快であった。彼らの言葉がどうしようもなく私に突き刺さる。私の否定する思いは、彼らの音でかき消されていく。私は彼らに染められていく。

 

「はっ!」

 布団の上、荒くなった呼吸をゆっくり整える。汗が体中から噴き出している。嫌な夢を見た。カーテンの奥には、暗い明かりが見え隠れしている。午前五時前、まだ起きるには早い時間だ。

 夢で生まれたこの不安は、いや、それ以前からこの不安はあったが、目覚めてなお消えることは無く、その姿を確かなものにしようとさえしている。吐き気は消えることなく、私にまとわりついている。私は意味もなく、ただ絵を描いた。そうすることでしか自我を保てなかった。しかし、何度ペンを手にしても、上手く書けない。出来上がるのは、なんだかよく分からないものばかりで、苛立ちが募る。

 どうすれば、この不安や吐き気は消えてくれるのだろうか。誰にも相談できない。おそらくだが、この吐き気の原因は、私を取り巻いているすべての他人によるものだから。このままでは、私は、私ではなくなってしまう。夢に出てきた、顔のない連中になってしまうよりかは、あのホームレスになる方がずっといい。その方がまだ十分に人だ。

 ここにいてはいけない。私を犯そうとしているのは、彼らだったのだから。

 

 家を出て、走って駅へ向かった。そうして勢いよく改札を通り抜け、階段を駆け上がると、ホームにちょうど来た電車へと飛び乗った。

 この電車は特急列車であった。どうしたものだろうか。何も考えずに乗り込んだが、なにぶん心が小さい人間であるので、何か罪を犯してしまったような気がしてきた。駅員にのる電車を間違えたと伝え、切符を買えばよいのだろうが、それさえも怖くなってしまって、私はすぐさまこの電車から降りたかった。だが、何処か遠くへ行ってしまいたいという気持ちもあり、私はその二つの思いに板挟みにされ、トイレに入ったままどのくらいの時間か、出れなくなっていた。途中、何度か車両を移っては、適当な席に座り、駅員が巡回して来たらすかさず立ち上がって、手をあらいにいったり、ゴミを捨てに行くふりをして見せたりしたのだが、とうとう駅員に捕まってしまった。

 なんと言い訳したらよいのか分からず、私はただ黙ってしまい、駅員の男性は困ったような表情を浮かべた。この後、私は警察に連れていかれるのかしら、そんなことになったらもう生きていけない。もう誰とも顔を合わせられない。

 

 電車が駅に止まったタイミングで私は駅員を両手で強く推し、そのまま走って電車の中から飛び出した。そしてそのまま改札を飛び越えて、必死になって走った。

 途中から訳が分からなくなって、そうしたらなんだか気持ちよくなってきて、溢れ出す全能感に身を任せて走り続けた。優雅に飛ぶ蝶々の横を駆け抜ける。路上で喫煙をしている柄の悪い男の背中を思いっきり叩いて通り過ぎる。店先に置いてある冷えたラムネをそのまま盗んで走っていく。風の音がただ心地いい。不安は吹き飛んでいく。

 

 すっかり辺りは暗くなった。山と山の間から大きな月が顔を覗かせる。夏の虫が鳴き、今日の終わりが近い事を知らせてくれる。遠くのサイレンは小さくなっていく。

 高揚していた気持ちも、夜の闇の中に溶けだしていって、すっかりと冷静になる。

 ぼんやりと月を眺めていると、どうして私は生きているのだろうかと疑問に思った。私が生まれたことに意味なんてない。ただ生まれただけ。そして、ただ今まで、何も考えずに生きていただけ。でも、誰かの言うように生きていても、好き勝手してみても、どうしようもなく、自分が生きていることの意味が分からない。でも、私が私の生きている意味を、私自身に問い続けるということは、なにより生きるということに向き合っているんじゃないかしらと思う。

 

 きっと、答えはない。でも、間違いはある。

 誰かが私の生き方を決めるのは、間違いだ。私の生き方は、私の生きる意味は、私が決めなければならない。何処までも、自分と向きあうしかない。私はあのホームレスでも、顔のない人々でもないのだ。

 

 自分自身に問い続けよう、なぜ自分は生きているのか。この問いは決して否定的な事ではない。肯定的な問いだ。生きていくための問いだ。

 

 夜空をもう一度見上げると、月は丸く大きく、そして力強く輝いていた。月は確かな存在を私に示していた。