──夢の残響が、まだ耳の奥に残っている。
踏切の音。それは未だ知らない世界の音だ。冗談に思われるかもしれないが、僕は一度も、現実の踏切の音を聞いたことがない。鉄と木組みの線路が軋み、叫喚めいた音を立てる、あの凄絶な響きを、僕は画面の向こうの出来事としてしか経験していない。
ひとえに、それは僕の生というものが被っている、地理的条件のせいだった。
高知。高知県高知市。道州制が施行され、四国が一つの行政区画に変じてもなお、そこは地の果てでありつづけていた。その地方都市を満遍なく貫く路線は、いまだ存在しない。”あの”決定的な震災によって、抉られ、表層をさらわれたあとの大地とあっては、なおさら。
そこまで考えてから、僕はやるせない気分になった。それはどこまでも他人の言葉でしかなかったし、また、どこまでも他人事でしかなかった。当時まだ生まれていなかった僕は「災後」の世代だ。土地に刻まれた過去の傷は、僕らにとって決して自明じゃない。それはどこまでも情報にすぎなかった。歴史、と呼ぶには、それはあまりにも脆く、そして人工的な認識だった。
僕は布団から這い出した。秋の冷気に貫かれた室内はやや肌寒かった。普段ならそんなことはないのだが、今日は少し勝手が違っていた。僕は上半身に何も衣類を身に着けていなかったのだから。
秋になると、しばしばこういうことが起こる。寝ているうちに服を脱ぎ去って、そのまま、というようなことが。そういう場合の寝覚めはお世辞にもいいとは言えないものが多いのだが、今日はそうでもなかった。
壁にかけてあった制服を羽織りながら、僕は姿見に目をやった。シャツが覆い隠す前の裸体に刻まれた手術痕が、ふと視界の中央に現れる。
聖痕だ、と誰かが言った。たぶん母だったと思う。
それは聖なるあかしとして、僕を僕たらしめるあかしとしてあるのだ、と今の母は信じ込んでいたし、口にこそ出さなかったものの、父も同じように感じていただろうと思う。
ジッパーのような、あるいはひび割れのようなその痕の下には、人工の臓器が埋められている。それは今この瞬間も、生体磁気やその他もろもろのエネルギーを用いて駆動しており、この生命を分かちがたく規定し、支えている。
ロゴスティアの子どもたち。僕は、そのように呼ばれる一群のうちの一人だ。
企業複合体(コングロマリット)、ロゴスティア・レーン。一帯(レーン)の名を持つそれは、文字通り、環太平洋中に分布し、その経済・流通から、政治に至るまでを分かちがたく規定する集団だ。あるいは、システム、と呼んだ方がいいかもしれない。すでにその最高意思決定の場から、人間は排されているという。
そんな企業複合体が、全世界的に行っている福祉事業の成果こそ「ロゴスティアの子どもたち」だ。
スタンドアローンで駆動する人工臓器。定期的なメンテナンスも、世紀の中頃に問題視された部品の劣化も、まとまった外部動力さえも必要としない、完全な身体の模像。その模像によって、僕は生かされていた。
制服に着替え、リビングに降りると、ふと、声が右耳に飛び込んできた。
「あ、おはよう、柚人」
……一瞬、身体が硬直する。
一拍置いてから、つとめて冷静に、僕は言葉を返した。
「おはようございます、”麻里さん”」
それから、礼儀として彼女を一瞥する。三十代前半、といったところだろう、その容姿を。親父とは十以上も離れているであろうその存在を。二人目の母親の姿を。
今でも覚えている。あの日、人工の臓器を身体の隅々にまで詰め込まれ、病棟から帰還した日、リビングのソファに腰かけ、伏し目がちにこちらを見つめてきたその顔に、僕は全身を突き抜けるような違和感をおぼえたのだった。無論、それが不合理で、理不尽で、生活を成り立たせるうえで何よりも有害であることは分かっているつもりだ。だが、その姿ははっきりと、今自分が立っているのがもはや「元の家」ではありえないことを告げていた。それは確かな事実、現実だった。親父はすべてを了解済みで、何食わぬ顔でコーヒーをすすっていたのだし。
かくして、僕は僕の家にとっての異物になった。久利瀬家にとって、久利瀬柚人は決定的に「異邦のもの」だった。白亜の病棟から生まれ出でた、人工の生命。人工の実存。
僕は部屋の隅に置かれた黒いエナジーバー・ポッド──必要栄養素を瞬時に合成・結晶化させる三角柱型の家具だ──に親指で触れる。それで指紋と紐づけてあるパーソナル・データが呼び出され、瞬時に、現在の自分に合致したエナジー・バーが生成された。いささか気取った言い方をすれば、僕もまた、多くの人間がそうするように、栄養素を経口摂取しなければならないのだ。僕はそれを二本抜き、口に放り込むと、コーヒーで胃に流し込み、リビングを後にした。
「行ってらっしゃい」
背中にぶつけられたその声に、僕はやはりあいまいに言葉を返すことしかできなかった。
電動スクーターのメーターは、現在、その車体が毎時間六〇キロメートルの速度で進んでいることを示している。風景が、熾烈な快感とともに、超速で前から後ろへと流れ去っていく。
地獄谷、としばしば呼び表される、高知市南西部の春野町に向かう山路。その急坂を、僕は下っていた。時折対向車線には、ロゴスティア関連企業のロゴが刻印されたトラックが現れる。それで目線を横に向けると、山腹に黒い球体状の物体がいくつも取り付けられているのが見えた。これもまた、僕の身体同様、ロゴスティアの技術による「製品」だ。第三世代型ソーラー・パネルである。地下工場、およびオフィスを稼働させるための電力を精製しているのだろう。
四国州議会はもはやこの大地を所有していない、というのは言い過ぎだが、少なくとも維持・管理することができていない、というのは事実だろう、と、僕は毎朝、その風景を目にするたびに思う。生活に必要な電力を精製し、供給しているのがロゴスティアである以上──それに対してわれわれが対価を払っている以上──帰属意識は国家ではなく企業体に向かってしまうはずだ。異邦人たちの企業に。舶来の積荷(カーゴ)に。
地獄谷を抜けると、どこか無機質な田園風景が目に飛び込んできた。
無機質な。その言葉がまとう印象の源泉は、民家が一つとして存在しない事実にある。当然、目に映る景色にはコンビニも定食屋もない。そこに人は住んでいないのだ。その田畑の多くは、僕が生まれて間もないころに自動化されている。一帯を管制する本部は山間にあり、そこには社宅のようなものが一応存在しているようだが、ここは完全に無人だった。
多脚機械が忙しなく動いているのを横目に、僕は県道を走っていく。そろそろ着くな、とか、そんなことを考えているうちに、春野町を抜けてしまった。道はすでに国道だ。
仁淀川の対岸。コンテナめいた白亜の箱型建築がまばらに立ち並ぶ企業街を、スクーターは走っていく。そして僕は鋭く車体を傾けて左折した。瞬間、翡翠色のゲートがわずかに──運転を邪魔しない程度に──発光し、その光が、こちらの顔を刺し貫いた。網膜スキャンだ。コンマ一秒以下でパーソナル・データの照合が完了し、僕の身元が証明される。高校生であること。この先に広がる街の、従順な付属物(プロパティ)であること。その事実の証明。あるいは、その事実の、この身体と実存への刻印。
すでに道は国道ではなかった。しかし県道でもない。私道──ロゴスティア・レーン私有の道路だ。
山を割くように通されたその道路を通り抜けると、それが見えてきた。
ロゴスティア管轄の学園都市。最奥部、埋立地に建設されたモノトーン・カラーの医大のキャンパスを中心に据え、同心円状に開発されたその人工都市こそが、僕たちの青春の舞台だった。
要塞のようだ、といつも思う。一部の隙もないかのように振舞う、科学の言葉そのもののようなその風景は、人工的であることに徹底して居直っている。まるで自己増殖を繰り返す細菌のような、重層的な箱型建築の群れと、その隙間を縫うようにして安置された第三世代型ソーラー・パネルの漆黒。そして遠景に佇む核融合炉。六角柱型のその建築物は、この要塞の主として、静かに胎動しつづけている。
──震災を経た土地を、核の光が照らしているということ。
それがいかなる理路で正当化されたのか、僕は知らない。物心がついたときには、すでにすべては完了した後だったのだ。
僕は信号待ちの間、ぼんやりと、核融合炉の方を見ていた。その佇まいが否応なくはらむ自己矛盾、自己分裂性は、この空間全体そのもののようだった。
都市でありながら、要塞でもあるということ。日常でありながら、戦場であるということ。防衛対象でありながら、防衛主体であるということ。ハイブリッド。それはどこか、異物を抱え込み、異物において生きる一人の人間にも似て……。
そうして、僕は学校にたどり着いた。四国州ロゴスティア第三高等学校。付属校ではないが、医大との結びつきは強い。なにせ、通っている生徒の大半は、特殊な医療的処置を受けているのだ。さらにこの第三高校は、全生徒のうち六割が「ロゴスティアの子どもたち」である。
正門をくぐり、駐輪場まで行くと、停車を済ませて鍵をポケットに押し込んだ。瞬間、聴覚が「それ」を捉える。
ギター・サウンド。アコースティックギターのものだ。
僕ははやる気持ちを抑えつつ、上履きに履き替えて階段を上っていく。三階、四階と階層が上がっていき、ついには屋上にまで出る。
それで、目が合った。
フェンスに背中をあずけ、タイルに坐したまま、若緑色のエレアコ──エレクトリック・アコースティックギター──を爪弾いている同輩。梨(なし)島(じま)十河(とうが)。彼の眼はこちらを捉えたあと、再び自らの手元に向けられた。
旧校舎屋上。一応解放されてはいるが、各種厚生施設が充実しているために、誰も立ち入らないその空間に、僕らは毎朝通っていた。──十河が弾き、僕が聴く。その繰り返し。
彼の曲のレパートリーはあまりにも多岐にわたるため、いつもは曲名を当てることなどできないのだが、今日に限ってはわかった。
レッド・ツェッペリン《天国への階段》。同バンドの最も有名な曲である。タイトルも、バンドロゴすらも排したナンバリング・アルバムシリーズの四番目にあたる盤の代表曲として知られている。そのアルバムに付属の歌詞カードには《天国への階段》の歌詞と老魔術師のイラスト、そして由来不明のルーンが四つ、刻印されていた。
十河はそのイントロを引き続けているようだった。アルペジオ弾き。コードの構成音のひとつひとつに指で触れ、感触を確かめながら響かせていく。
「なあ、知ってるか」
ふと、彼が手を停めた。
「このイントロ、試し弾きであんまり演奏されすぎたもんだから、アメリカの楽器店じゃ張り紙までして禁止されてるってな」
「出典どこだよ、それ」
僕は反駁した。確かめられる論拠を示さないのは十河の悪癖だ。
「この曲がすべてだ。弾きたくなるんだよな、なんか。ジミー・ペイジのギターにはそれ自体、深い哀愁と感傷が宿ってるんだよ。ロックがロックとして生きられた、あの時代の混沌には最適だと思わないか」
「ロックは二〇世紀の特産品じゃない。現に、おまえみたいな奴がいまも感銘を受けているわけだろ」
「おれが感銘を受けてるのは、それが化石だからだよ。残骸、と言い換えてもいいかな……。それに盗品だしな」
始まった、と思った。語勢を強めて、十河は言葉を紡ぐ。
「レッド・ツェッペリンはしばしば盗作騒動で世間を賑わせたし、とりわけ《天国への階段》は、そのスキャンダルの渦中に置かれ続けてきた一曲だった。『スピリット』って、今じゃほとんど顧みられない連中の《Taurus》なんて曲があるんだが、《天国~》がそれの盗作なんじゃないかって裁判が、二一世紀に入ってから何度か起こってるんだな。結果としちゃツェッペリン側が全部勝ってるが……」
「ならいいじゃないか」
「盗作だと思った方が美しいだろう」
やれやれ、と言う代わりに、僕はため息にも似た忍び笑いをした。この手の話はうんざりするほど聞かされてきたのだ。
何かが盗まれる、ということに、十河は強いフェティッシュを感じる”たち”のようだった。それは強迫観念、と言ってもいいほど強いもので、いつからか彼は、そうした話を僕に語って聞かせるようになった。
実のところ、僕は彼のそうした話が嫌いではなかった。うんざりしているのは事実なのだが、しかし、そうした感情すらもどことなくかけがえのないもののように感じる瞬間が、時折訪れる。
「しかし、音数が足りないってのは考えものだな……《天国への階段》は寂しいだけの曲じゃないのに、これじゃ哀歌みたいだ」
「僕に言われてもな」
「柚人(ユズ)は楽器はやらないのか?」
訊かれて、一瞬、返答に迷った。
「やらないよ、たぶん。僕に音楽は作れないだろうしな」
「いや、作る話はしてないが」
「わりと同じことじゃないか? 〝自分の〟音を鳴らすわけだろ」
「そうでもないぜ。だから、何度も言ってるように、盗めばいいんだよ。他人の音を、他人として鳴らす。そんなんでも、自分の手から音が鳴ってるってのは、けっこう気持ちいいもんだけどな」
「……そうかな」
あいまいに返してから、僕は何とはなしに、空を振り仰いだ。十月の空の青は、心なしか寂しく見える。さっきの十河の話ではないが、郷愁が、寂寥が、そうしたすべてが溶け出したような色が、そこにはあった。
ふと、チャイムの音が鳴り響いたのを、僕らは聴いた。
「やべ、行かないと」
十河の言葉を首肯しつつ、僕は空から視線を切って歩き出した。
一日が始まる。昨日みたいな今日が。
─◇◆◇─
──夢を見ている、のだと思う。
見覚えのない住宅街、見覚えのない貸し駐車場、見覚えのない道路、そして見覚えのない踏み切り。視界を構成するどれ一つとして、僕の個人的な記憶と結びついているものはなかった。
それに、見える範囲の世界はひどく均質で、人工的に見える。ふつう、夢だとこう上手くはいかない。遠近感覚はめちゃくちゃで、焦点が合わないものは靄のように、あるいは霧のように見えるのが、夢というやつだったはずだ。ところが、僕の視界に写っているのは、どこまでも、精緻に設計された住宅街だった。
そのうち、目の前で踏切が降りる。
交互に点滅し、叫喚にも似た音を立てる機構。その様子を見ているうちに、僕は次第に、奇妙な感覚をおぼえはじめていた。
それは焦燥のようでも、不安のようでも、怒りのようでも、哀しみのようでもあるなにか──自分のものとはとても思えないほど激しく、また昏く、また深いのに、どこまでも身に覚えがあって、他人事ではありえないような感覚だ。去来、というにはあまりにも生々しく、切実にすぎるそれは、やはり夢らしい浮薄さを剥奪されたかたちであらわれていた。
ふと、足音が聞こえる。疾走だ。誰かが、後ろから走ってくる。
僕は踏切の音が鳴り響いているにもかかわらず、それを聞くことができて、そして──。
──そして、僕は目を覚ました。
夢の内容は、はっきりと覚えている。断片化などしていない。たぶん忘れることもないだろう。それは実際に経験したことと同じように、脳に刻み込まれている。
身体を起し、紙めいて薄い携帯端末を起動すると、現在時刻が七時であることがわかった。気分は奇妙に弛緩していて、登校するにはいささか緩みすぎていたが、それはごく自然なことだった。今日は検査日なのだ。
一応正装であるため制服に着替えると、僕はリビングに出た。今日は珍しく親父がいて、黒々とした背広を着こんだまま、ファン型モニター──二枚刃が駆動して、画面を映し出す家電だ──でニュース・クリップを観ていた。フランスの漁村についての、当たり障りのない報道だった。
葬儀デザイン会社付きのデザイナーである親父は、家庭ではノンポリを装うのが常だ。社会も政治も経済も、このひとは遠ざけていた。
無理からぬことだ、と思う。死を、死にまつわる哀しみを隅々まで理解し、それを「祓う」ために知恵をはたらかせつづけること。世界のすべてを遠ざけることは、そのあまりに壮絶な仕事を十何年と続けるうちに自然と染みついた処世術なのだろう。
東アジアのいくつかの国家やアメリカにおいて、これまで国家権力や草の根の信仰者たちが辛うじて維持してきた伝統的な宗教施設の多くは、加速しすぎた資本主義システムの濁流に押し流されるようにして、今や閉鎖されてしまった。信仰を伝導するものの消滅。それは信仰の多様化を生んだ。より正確に言えば、神の飽和を。それは路傍の石ころや木片に神を見出していた原初の信仰にも似て、人々の生と死にまつわる観念を規定している。しかしその強度や大小、”精度”には個人差があり、個人などというものを遥かに超越した限界状況の前にあってはまったく無力、ということも少なくない。大量死や迫害は当然のこと、親しい誰かの死であっても、それは時に個人的信仰を凌駕し蹂躙する。
そうした現実に対するセーフティネットとして、葬儀デザイン・サービスは発展した。顧客の個人的信仰と、現に直面している限界状況をくみ取り、しかるべき学知でもってその葬送を手助けすること。必要に応じてカウンセリングや治療を行い、時には信仰それ自体のブラッシュアップを行うこと。
「ん、どうした?」
ふと、こちらの目線に気づいた親父がそう訊いたのに「なんでもない」と返してから、僕はいつものようにエナジー・バーを人工の胃に押し込む。そしてリビングを後にする。検査の時間まで予定らしい予定はないが、このまま家にいる気にはなれなかった。
電動スクーターに鍵を差し込んだところで、ふと、昔通っていた小学校のことが頭をよぎった。
団地の近くにある小学校で、かつてはそれなりに大規模な教育機関だったと聞いているが、現在では廃校になっている。卒業してからわずか二年後だった。廃校決定後すぐに、外資系のテーマパーク企業が買い上げたことで、解体はなんとか免れているようだが、肝心のその企業が買収に次ぐ買収で空中分解したことが原因となり、校舎は現在、さながら廃墟の様相を呈しているという。
見ていくのもいいかもしれない。立ち入りは制限されているだろうが、そういった制約は年齢を重ねるごとに破りづらくなる。幸いにして、少年法はまだ存在しているし──連日廃止議論が盛り上がってはいるが──、ある程度までなら許される年齢では、辛うじてあるだろう。過去を懐かしむことが、この中途半端な年齢でしかできないというのは何かたちの悪い冗談のようだったが、それは事実なのだ。今しかない。
僕は近くの公園にスクーターを停めると、その足で旧小学校に向かった。門はしまっていたし、立ち入り禁止の看板も立てられていたが、僕はそのまま入ることにした。幸いにして、警備員も、それに類する自動機械も、監視カメラさえも配置されていないようだったし。
どう見ても廃墟ではない。最初によぎったのは、そうした印象だった。
定期的な清掃だけはされているのだろうか。多少埃っぽいものの、校舎はおおむね原型をとどめていたし、小動物や昆虫の類は一匹として見かけなかった。のっぺりとした静謐が建物全体を覆い、秋の暮れの陽光が、仄暗い廊下を遠慮がちに照らしている。すべてがあの日のままだ。
ふと、僕はトイレに入った。水滴も曇りもない鏡には、無表情の少年が写っている。それを無視して、奥へと進んでいく。
ここはかつて五年生用の男子トイレだったはずの場所だ。無論、今や誰もいないし、水道も止まっているかもしれない。
一番奥、突き当りの個室まで来ると、僕はその中に入った。いいとこ二〇一〇年代製、といった感じの洋式トイレで、ウォシュレットさえついていない。時代錯誤、という言葉が頭をよぎったが、そんなことを問題にするためにこんな場所まで来たわけではない。
トイレットペーパーが取り付けられているのとは逆側の壁。それを、僕は確認しに来たのだ。
果たして、そこには何もなかった。均質な、のっぺりとした白が広がるのみだ。
ほっと胸をなでおろし、僕はその場を離れようとし──響き渡ったシャープペンシルの音に、身をこわばらせた。
誰かいるのか、とは、不思議と考えなかった。ただ、まずい、と思った。それはどこかやるせなさにも似た、現在でも未来でもない、過去を志向するような思考としてあった。
音が鳴り終わると同時に、さっきまで真っ白だったはずの壁面に、文字が浮かび上がっていた。そこにはこうあった。
腐っていくような心持にも似て
夢のあとさきの白々しい空洞を
食べつくすあなたの指先からこぼれた赤黒い泪を
ぼくが知ることができたら あの窓の外で
ひどい詩だ、と思う。肝心のことが書かれていない。
わかってもらいたかったのだろう。それが何を意味するのか、伏せたままでもわかってもらいたかった、のだろう。でも。それでも。それでも、僕は──。
そこまで考えたところで、我に返る。冷静にならなければならない。明らかに、目の前で起きているのは尋常な事態ではないのだ。文字が自動的に浮かび上がるなどということはありえない。まして、それが無人の廃墟ならなおさらだ。
僕はトイレを出た。この場所から離れなければならない。そう強く思っていた。
だが、離れることができない。僕をその場に縫い留めるように響いてきたのは、いつかの声だった。
「なんであんなことしたんだ」
諫めるような、寄り添うようなその声。中年男性の鷹揚なテノール。遠い、遠いあの日の、それは決定的な断絶にも似て──。
違う。あれはどこかの空き教室で言われたのだ。断じて廊下ではない。そもそも、クローズドな場所で言われたことで、それがいま・ここにあること自体ありえない。僕は辺りを見回す。暗転した消火栓、塗装の禿げた壁面、手洗い場。音の発生源はどこにもない。
では、幻聴か。
そう思い、僕は手元の携帯端末の録画を停め、映像を確認した。せっかくなので撮っていたのだ。幻聴であれば、音は入っていないはずだ。
だが映像にはきっちりと、あの日の「声」が刻み込まれていた。どこから発したものかは、相変わらずわからなかったが、それが幻聴でないということだけは確かだった。
どうなってるんだ、と小さく呟き、僕は端末を閉じた。それで、横にある教室が、かつて自分が在籍していた五年三組であることに気づく。
鍵はかかっていなかったので、僕は中に入った。机は運び出されていない。すべてあの頃のままだ。
僕は歩いていく。何度か移動したので固有の席への思い入れは薄いが、二学期中座っていた窓際、後ろから三番目の席は別だ。柱の真横だったこともあって、相対的に強く覚えている。
一歩、一歩とその席に向かって足を踏み出し──何かにつまずく。丸いものが床に転がっていたのだ。僕は足を停め、バランスを取りながら足元へ視線をやった。
そこにあったのは鉛筆だった。中ほどから折れている。メーカー名は──見るまでもない。国語のアナログ・カリキュラムに「筆写」があって、その時に何度となく使っていたものだ。
ふと、ひときわ強い筆記の音が響き渡ったのに、僕は身をすくませた。それは先刻聞いたそれと比べると、一段強く、鈍い音だった。いっそ暴力的でさえあるそれは、僕の腰ほどの高さの、机から響いてくる。
おそるおそる、机に目をやる。そこに何があるかは、しかし、すでに知っていた。
紙。前時代的なルーズリーフだ。そこに黒い丸が、渦が、刻み込まれていく。筆圧も、軌道も、感情も、なにもかもが揺らいでいる。そのような渦の生成の過程が、そこには存在していた。
僕はただ、それを見ている──。
どうやって旧小学校を後にしたのかは、覚えていない。
気づいたとき、僕は学園都市に向かう道路の上にいた。スクーターを法定速度ぎりぎりで走らせていて、しっかりとヘルメットもかぶっていた。
ただ、記憶は鮮明にある。あそこで何が起こったのか、僕は鮮明に思い出すことができる。命じられれば記述することもできるだろう。幻覚としか思えない、いつかの記憶の断片(フラグメント)。
学園都市の一角にある大学病院で、人工臓器の稼働にまつわる諸々の検査を済ませた後、僕は父親ほどの年齢の主治医にその話をした。笑い話か、あるいはとびきり深刻な話として受け取られると予想していたが、予想に反して返答は淡泊だった。
「録画の話は擱くとして、聞く限り、それは夢だとしか思えませんね」
「まあ、そうですよね」
落胆を隠すことなく、僕はそう言った。しかしそれに答えた彼の声は、打って変わって、どこか生気に満ちていた。
「とはいえ、夢は決して軽んじられるべきものではありません。不定形の断片としての夢は、いまなお人間の意識にとっては巨大な謎なのです。身体がそうであるように」
「身体……身体が謎ですか」
「ええ。自然科学の多くは、身体そのものを十分に記述できているとは言いがたい。感覚される限りの身体が、恐ろしく不気味で、機構の把握できないものでありつづけているという側面を否定するのは、いささか野蛮で、暴力的であると言わざるをえないでしょうね」
「しかし、あなたがたの依拠する学知は、そうした揺らぎを許容できないのではないですか? そうでないと、治療もできないのでは……」
言ってから、僕は赤面した。まったくの素人が、つぎはぎの言葉で医学を擁護しようなどと、おこがましいにもほどがある。
しかし医者は気に留める様子もなく、鷹揚にうなずきつつ、言葉を返した。
「ええ。無論、そうです。しかし病める個人の個人的体験における、その不気味さ、その不合理さを無視してきた結果として、今日の医療”経験”というものが決定的に歪んでしまっているのは事実であるように感じています。ポエムのように記述された、根拠のはっきりしない東洋医学への傾斜や、いまなお根絶されていない似非科学の問題などは、その典型でしょうね。どこかで、この象牙の塔を傾ける必要があります」
「なるほど……」
相槌を打ちながら、僕は卓上に置かれたモニターに目をやった。そこには僕を生かしている混合物質の臓器の3Dモデルが映し出されていて、ゆっくりと回転している。
医学的な知の体系が、いまなお象牙の塔であるとすれば、僕はその影のようなものだろう。塔によって、僕は生かされている。由来も構造も分からない塔によって。不可知の塔の屹立、あるいはその泰然は、僕の生それ自体を揺らぎのなかに留め置かせる。影のような生。影としての生。
「夢ってのは興味深いっすね、センセ」
ふと、声が降ってきたので僕は振り返った。無精ひげを生やした、驚くほどラフな格好の若い男性が、そこには立っていた。名前は忘れたが、たしかロゴスティア関係の工学者だったはずだ。
「……リモートで確認されると伺っていたと思うのですが」
「いやなに、たまには出向かないと。”成果”の実感ってのが得られないもんで」
言い、彼はこちらを見下ろした。座位であることは抜きにしても、圧倒的な身長差がある。僕は委縮してしまった。
「どうだい、少年。調子の方は」
「も、問題ないです、たぶん……」
「夢、だっけか。人工臓器……っつうか、ナノマシンか。その辺の議論の中でもしばしば出てくるよ」
「そうなんですか?」
初耳だ。
「臓器ってのは基本的に生命機能を支えるためにのみ存在するわけだが、製品のクオリティを一定に保つために一応情報の記録・解析も行ってる。それはスタンドアローンに自己補完を行いつつ、中央のサーバーにフィードバックしたりもするわけだが……その情報の流れが、知覚に影響を与えてるんじゃないか、って仮説があるんだな。もちろん、著しくQOLを害するような報告は上がってきてないから、さしあたって対処すべき問題とは考えられていないんだが……でも、人工臓器関連でそういう話が出るっていうこと自体、とんでもなく興味深い事態ではある。臓器移植に伴う記憶や性格、人格の流入みたいな話は今なお決着を見ていないわけだしな。そんでもって──」
ふと、医者の芝居がかった咳払いに、工学者は話を止めた。
「……個人講義はよそでやってください。それに、あなたの役割はアウトプットではなくインプットですよ」
言い、彼はモニターを視線で示した。3Dモデルは、いまなお回転を続けている。
「了解です。それじゃあな、少年」
僕は大学病院を後にした。人工臓器の見る夢。人工の夢。ふと浮かんだそのフレーズは、なかなか消えてくれなかった。意識の底に滞留して、なお、存在感を示し続けている。
ふと、帰り際に、僕は歩道を歩く十河を見かけた。声をかけようとしたが、彼がひどく苛立ったような表情をしていたので、やめた。今は落ちついて話などできない、と思ったのだ。
しかしそれが、ひとときの気の迷いなどではないように見えたのも事実だった。それは明らかに、尋常な様子ではなかった。大き過ぎる何か──昏く、重すぎるなにかを、抱え込んでしまっているような。
─◇◆◇─
夢を見ている。
そこは相も変わらず見覚えのない住宅街で、見覚えのない貸し駐車場で、見覚えのない道路で、そして見覚えのない踏み切りだった。視界を構成するどれ一つとして、僕の個人的な記憶と結びついているものはない。いつもの夢だ。
踏み切りが叫喚のような音を立ててしまっていく。警告音がけばけばしく空間を満たし、黒と黄色のバーが目にうるさい。無論、そんな実感をどこかでおぼえたことはなかった。この感情は、この感慨は、すべて幻想であるはずだ。あまりに明瞭な夢なので、つい失念しそうになる。
そういえば、幼年期はそのような感情の濁流に充たされていたんだったか、と、僕はふと回顧する。烈しすぎる感情を遇しきれなくて、僕は数えきれないものをこの手のひらからこぼしてきた。友人も、家族も、希望も、そして自分自身すらも。
どうすればよかったのか。ふと心に浮かんできたその思弁に、僕は新鮮な驚きを感じる。それはどこか、自分の思考ではないもののように思えたのだ。内なる声ではない──それは別のなにかが、ある種の啓示として”もたらした”ものなのではないか、という懸念が、一拍おいて頭を突き抜ける。
冷静になれよ、と僕は思った。声にも出したかもしれない。そして膝を叩く。触覚がわずかに反応し、脳に手触りが伝わる。これもまた、夢ではありえないものだ。
ここには僕しかいない。他人の介在はありえない。美しくも正しくもない夢を誰かと共有することはできないし、そこに誰かが入り込んでくることもない。
だから背後から聞こえてくる足音の正体を、僕はすでに知っていた。
いつか見たように、あるいは聞いたように、それは踏切の音が響いているにもかかわらず、はっきりと聞き取ることができた。運動靴で疾走するときの、あの渇いた音。暴力の気配。
踏切はもう下りきっている。ほどなくして電車が通り過ぎるだろう。線路がきしむ音もまた、遠くから聞こえてくる。
そして、足音はついに僕を追い越した。
黄と黒の鮮烈な色の連なりの中に、そいつは真っすぐ突っ込んでいく。滑り込むようにしてバーをくぐると、右足を地面に叩きつけて制動を図る。身体が静止する。そして眼が合う。線路の向こうから、そいつは真っすぐにこちらを見据えている。
──そいつは、一四歳の僕だった。
言うまでもなく、うまく眠れなかった。
ひどい寝覚めだった。夢のことはすべて覚えている。そこで感じたものも。
一四歳の僕。三年前の僕。あのころの僕。
置き去りにしてきたはずのすべてのもの。忘れ去ったはずのすべてのもの。それがいま目前にあって、静かに僕を見据えていた。
制服に着替え、洗顔してから、リビングに足を踏み入れる。
そこには相も変わらず親父と麻里さんがいて、ファン・モニターはクリップ映像を映し出していた。今度はアメリカ中部に作り出されたゲーテッド・コミュニティについてのドキュメントのようだ。
僕は声もかけないままポッドに触れ、エナジー・バーを三本胃に放り込んだ。そしてその足で家を後にする。
「なあ、柚人……」
「行ってきます」
親父が何か言いかけたのを遮り、鍵を取って外に出る。秋はますます深まり、スクーター通学はいよいよ厳しさを増してきていた。
途中、僕はロゴスティア資本のコンビニに寄ってトイレを借りた。個室から出ると、怪訝そうな顔の中年男──どこかの会社員だろう──と目が合う。一メートルもない距離で。ひどいものだ。スペースのゆとりのなさは目に余る。
夢の余韻が、まだ残っていた。
焦燥にも似た不快感が、心の底に沈殿していた。歩いている人間を見るだけで無性に腹が立った。トレーラーが、ワゴンが、絶えず自分を苛む障害物のように見えてしょうがなかった。空の薄曇りも、まるで何かの予兆のようで。
僕は学校に急いだ。とにかく、誰か顔のある相手に、見知った相手に会う必要があった。
だが、その期待は裏切られることになる。
ギターの音が聞こえてこない。スクーターから鍵を引き抜いたとき、僕はそれに気が付いた。ただ弾かれていない、というだけならよかったが、脳裏によぎったあの日の十河の姿が、その直感になにか不吉な影を与えていた。
階段を上り、屋上にたどり着く。
扉を開けると、そこには両腕で身体をかき抱く十河の姿があった。背をフェンスにもたれかけさせて、震えている。
それは明らかに尋常な様子ではなかった。もはやあの、澱のような不快感にかかずらっている場合ではない。僕は十河に歩み寄りつつ、口を開いた。
「……どうした」
答えはない。僕は二、三度呼びかけ、身体を揺さぶった。それで彼はこちらに視線を投げてよこした。
ひどく虚ろな目をしていた。焦点が定まっていない。顔面も蒼白で、とても生者の顔には見えなかった。
「誰か呼んだ方がいいか。医務室はまだ──」
言葉を遮るように、彼は首を振った。
「……なにがあった?」
つとめて冷静に、威圧感をおぼえさせないように細心の注意を払いながら、僕は訊いた。
最後の一音が発されると同時、十河の眼に光がともった。獣のようなうめき声とともに、その光は獰猛に、熾烈に増幅していく。あっけにとられる僕の前で、ついに彼は口を開いた。
「なにもなかった……なにも……!」
「どういう……」
「俺の人生には、身体には、何の根拠もなかった……!」
「根拠なんて……」
言いかけて、僕は口をつぐんだ。何を言っても、白々しいお題目になってしまうように思えたからだ。だが言葉を止めることだけは避けなければならない、という確信も強くあった。第一、何一つ肝心のことが聞けていない。
「……話してくれないか、十河」
ゆっくりと、一字一句をたしかめるように、再度僕は問いかけた。その鷹揚さはかつて僕が強く嫌悪していたもので、一抹の怒りが束の間脳を吹き抜けたが、そんなことにかかずらっている場合ではなかったので無視した。
ややあって、十河はゆるやかに口を開いた。吐息にも似たうめき声が、口の端からもれる。眼に宿る獰猛さ・熾烈さには一切の変化がなかった。
「……やっぱり、ドナーがいたんだ。人工じゃなかった……やっぱりオレは〝ロゴスティアの子どもたち〟じゃなかった……」
「十河……」
「これが何を意味するかわかるよな。この州で、この街で手に入る臓器なんて一種類しかない……オレは薄汚い簒奪(さんだつ)者でしかないんだよ」
切迫した叫びのような声に、僕は完全に言葉を失った。
四国州では未成年の子どもを中心に、統計上無視できない数の脳死者が出ている。統計上、というのは、それがしばしば実感からは乖離した数値として提示されるものだからだ。現に、僕は周囲でそうした人々の姿を見たことがなかった。人知れず、見えないところで子どもが消えていくような領域として、この四国州はあり──そして臓器提供者(ドナー)の多くは、そうした人々の中から出てきている。
ロゴスティアに殺されているのではないか。脳死患者たちは、しばしばそのように評されている。
企業が臓器を「確保」するために、秘密裏に子どもを殺しているのではないか、という噂。それは恐らく荒唐無稽な陰謀論にすぎないのだろうが、そうした論説なき論説、空疎な動員の言説から距離を取ることができるのは、究極的に、そこで語られているものが他人ごとにすぎないからだ。身体の中に陰謀の種が巣食っているものにとっては、陰謀であれなんであれ、等しく現実として感じるほかはない。
十河が放った簒奪という言葉は、濃密な絶望の気配をまとって、僕らの間の空気に沈殿していた。
彼が、何かが盗まれる状況に固執していたのは、その現実を相対化し、受容するためだったのだ。彼は薄々、自分の身体の中のものがなんであるか感じ取っていたのだろう。臓器受容者(レシピエント)が臓器提供者(ドナー)の記憶や思考の流入を感覚する、という話はいまなおある。
立ち尽くすほかはなかった。慰めの言葉も、憐れみの言葉も、同情も、共感も、悲嘆も、嫌悪も、怒りも、何も出なかった。代わりに浮かび上がってきたのは、決定的な断絶だった。
僕が、十河の感じているものを我がこととして感じることはできない。どれだけ思いをめぐらせてもそれは、どこまでもリアリティを欠いた模倣に、妄想にすぎない。少なくとも、僕はそうした実感を振り払うことができない。
重く冷たい沈黙を破るように、チャイムが鳴り響いた。
その無神経な響きに、僕は初めて怒りをおぼえた。だが断絶だけは、はっきりとした輪郭をともなって、まだそこに佇んでいた。
十河の言葉が、まだ頭の片隅に引っかかっている。
放課後。ロゴスティアの私道を抜け、道は国道にさしかかったところだった。紫がかった空が日没を示す、黄昏の時間。要塞めいた学園都市が欠片も見えない道のただなかで、僕は僕の根拠を見つけられないまま、吹き付ける風を浴び続けるしかなかった。
そうして、僕は家に帰り着いた。鍵を置き、廊下を進み──ふと聞こえてきた話し声に、足を停める。親父と麻里さんの声だった。
「そんなに悪いんですか、その……」
「記録と数値がすべてだと取るなら、そうだろう。それに行動にしたって、振る舞いにしたって……」
「でも……」
「まあ、ろくに話もできていないんだ。はかりようがない」
「だって、心を開かれてない。しょうがないでしょう……!」
「責めているわけじゃないんだ。だが現実とは向き合う必要がある。今度こそ、手遅れにさせるわけにはいかない」
何を話しているのか、僕にはわからなかった。しかしその声色にたたえられた深刻さは、どことなく不快感をもよおさせるものだった。
何か決定的なことが話されている。あるいは、話されようとしている。そしてそれは、恐らくは──。
「柚人の『症例』が再発するリスクはゼロじゃなかった。むしろ高かったはずだ。君は誰よりも、そのことを知っていたはずだな」
「ええ、分かっています。分かっています……」
「どういうことだよ、親父」
堪えきれなかった。僕は扉を開け放ち、リビングに躍り出ると、掴みかからんばかりの勢いで親父に迫った。
「再発ってなんだ。多発性臓器うんちゃらってやつか。中学ぶりだな。だが検査では問題なかったみたいだぞ。どうなってるんだ。臓器がザルなんだったらロゴスティアの責任だが、ばかすか人の身体にメスを入れておいて『再発』か。随分おめでたいんだな、ええ!?」
ほとんど支離滅裂だった。だが言わずにはいられなかった。
ふと冷静になって辺りを見回すと、麻里さんの憐れむような表情が目に飛び込んできた。灼熱のような苛立ちが再び湧き上がってきそうになるが、それはこらえなければ話にさえならない。
親父はただ泰然として、僕の言葉を聞いていた。その顔に浮かぶ表情は、どこか現実というものを捉えかねているようにも見えたが、それは恐らく逆なのだろう。現実から剥離しているのは僕の方だ。だから、目に映るすべての現実が、どこか浮ついて見える。
長い沈黙の後、親父はようやく口を開いた。
「順を追って説明する。落ち着いて聞いてくれ」
「……ああ」
「まずおまえが言っていた疾患……人工臓器への交換を必要とした疾患だな、再発と言ったのはこれのことじゃない。無関係ではないが、その件に関してロゴスティアの責任はない」
「…………」
押し黙るほかはなかった。腹の底から突き上げるような恐怖が、ゆるやかに氷解していく。
「だから、このことを言うのは大変に心苦しい。というのも、私たちが柚人に対して、長いこと嘘をついていたことを白状しなければならないからだ。だが再発の危険があるとわかった以上、そこに甘んじているわけにはいかない」
嘘。その言葉に心臓が跳ねた。
何かが暴露されようとしている。僕の実存と分かちがたく結びついた何かが。
「この三カ月ほど、おまえの行動を監視していた。より正確に言えば、人工臓器を介して、身体の数値化可能なすべての情報を、三年前から閲覧していた。この三年間、おまえは『経過観察』の時期にあった」
ふざけるな、と言いたかった。しかし言葉が出てこなかった。
怒りが切れていた。悲しみもまた。僕を成り立たせていた感情の多くは、今や遠くにあった。そしてそのことへの当惑もまた、かき消えていく。それは唐突な消滅だった。あまりに不合理で不条理な心の動きに当惑する僕の前で、親父は再び口を開く。
「本来一本未満で一日の摂取量には事足りるはずの、エナジー・バーの過食。それに伴う嘔吐。法定速度を大幅に超過した危険運転。そして極めつけに、学校への侵入」
動揺が全身をかけめぐった。だが感情は回復しない。
「それだけなら単なる非行として見られなくはない。だがデータが示したおまえの足跡は、寸分たがわずあの日と一致していた。……あの日。そう、あの日だ。あの日、あの時、おまえがトイレで──」
「やめてくれ」
「幼年期外世界情報不和。社会学では、おまえのような症例のことをそう呼んでいた。成熟と情報処理のバランスが釣り合わずに、身に余る感情を抱えてしまうという──」
「やめてくれ……!」
僕は必死で叫んだ。だがその必死さは、話されている内容そのものに対する抵抗にはかかわっていなかった。それが向けられていたのは、ひとえに、僕の感情だった。
何も感じなかった。感情が、恐ろしく希薄になっていた。
もうずっと、あの夢でしか、あの夢に対してしか、激しい感情をおぼえていない。病的、と言い換えてもいいほど濃く、ひたすらに重苦しいそれは、しかし、格好の機会であるはずのいま・この状況にあって、完全に沈黙していた。
何かが決定的に喪われようとしている。再発、という言葉とは裏腹に。そのことへの当惑。そしてその感情すらも……。
それで、気づく。あの夢が一体何であるか。何を意味し、何を表しているのか。どこから来て、どこへ行くのか。そしてその結末も。この三カ月の間に得たもの、感じたもの、すべてがある種の啓示として、星座的な布置として、ただあるような閃き。それが束の間脳裏を駆けた。
「本当にすまない。本当に。もっと早く、このことを言っておくべきだった。そうしたら、おまえも──」
親父が言い終わるよりも早く、僕は走り出していた。リビングを抜け、玄関を抜け──外に出る。
「言っておくべきだった」その言葉のはらむ無神経さは、しかしある面では親父の誠実さをあらわしてもいた。すべてを知悉して、そうして、それを余すところなく開示しなければならない、という規範意識。親父にはそれが強くあって、この三年間、常にその規範を裏切り続けてきたことへの後ろめたさがあったのだろう。
だが一つ、決定的に見落としているものがある。主体、ということ。心、ということだ。なにがしかの情報を、情感を、感受する主体が、つねに万全の状態であるという無邪気な確信に下支えされた言葉は、結局のところ滅び去るしかない。
だから僕は走った。走って、走って、そして学校にたどり着いた。小学校に。すべてのはじまりの場所に。
あの日と同じ足取りで、僕は校舎内に侵入し、階段を駆け上がり、トイレに向かった。銀嶺めいた月明かりが窓から差し込んでいる。凄絶な光の束は、心なしかこちらを手招いているようにも見えた。
そして僕は一歩を踏み出した。束の間、浮遊感が全身を襲い、視界が暗転する。
僕は床のタイルに倒れこんだ。
─◇◆◇─
──夢を見ていた。
見覚えのない住宅街で、見覚えのない貸し駐車場で、見覚えのない道路、見覚えのない踏み切り──叫喚のような音を立ててしまっていく。
いつもの夢だ。
今や、その正体は明白だった。
主体を計測し観測し制御し、また規定するもの。僕の中にありながら、僕ではないもの。その機構の機構性、人工性の漏出(リーク)。
人工臓器の見る夢。それが、これの正体だ。
血中に紛れたごくごく微細なナノマシンが、情感や記憶をかすかな、断片的な情報として取り込み、整序をつける過程。それを視覚化したものこそが、いま僕が見ている風景なのだ。情報の連なりに、夢を生成する脳が視覚情報を付加することで生まれた風景。感覚された限りにおいて、情報に虚実の区別はない。だから見たことがないはずのもの、聞いたことがないはずのものもここにあるのだ。
情報を収集し解析し検討するナノマシンの神経配置は、いつか工学者が言っていたように内的なネットワークを──「場」を──作り出す。そして個々の構成物は、寓意として散在している。すべてのものが、なにがしかを含意している。
踏切が意味するもの。叫喚めいた音響が意味するもの。そして──駆けてくる少年が意味するもの。
いつか見た通りに駆けてきた一四の僕は、いつか見た通りに踏み切りの中へと入っていく。その顔は真っすぐにこちらへと差し向けられ、踏切の軋む音がますます強くなり、そして。
そして、僕は彼を突き飛ばした。地面を蹴り、バーをくぐり、貧相な中二の身体を向こう側へと押しのけると、自分もまたそちらの方へ飛び込む。
一拍と置かずして、電車が通り去った。
「なぜだ……なぜ止めた……」
掠れた声で、少年は吐き捨てた。
「なぜ行かせてくれなかった……なぜ一歩を踏み出さなかった……なぜ走り出さなかった……なぜ飛ばなかった……なぜ……なぜ……」
語気が強まっていく。その次に放たれる言葉を、僕はもう知っていた。
「なぜ、死ななかったんだ!」
──そのころ、ぼくは世界の、すべてがこわかった。
轟音と叫喚の中に消え去ることを望んでいた。どこか遠くの、誰も知らない、ひとりだけの国に旅立つことを夢に見ていた。自分のうちがわの空洞を──軋み、震え、破れ、壊れた僕という存在のすべてを、どこかに捨て去ることだけが、唯一確かな現実で、目的だった。
けれど世界は、僕を置き去りにして、そうして、ただ粛々と進んでいった。
臓器にまつわる重病への罹患に前後して、僕の中の烈しさは徹底的に変質していった。それは一四歳という時間のせいもあったろう。一四歳という身体のせいもあったろう。僕の烈しさは、痛みを痛みとも感じないあの凄絶な死の予感は、どこか遠くに消え去って、後には何かもっと不気味な、奇妙な怒りだけが残った。
そしてそれすらも、日ごとに消えていく。
この夢が人工臓器の作り出したものなら、感情についての問題もまた、それは僕を制約しつづけているこの臓器のせいだろう、と思う。それがもたらす血流のリズムが、体内の状況をモニタリングするナノマシンが、意識の中に人工性の住まう境域を作り出して、僕という主体を常に相対化しているのだろう。
時折、散逸する自分というものが、一つの全体として、手に取るように感じられることがあった。それは恐ろしく不気味な感覚で、そういう意味 では、僕はあの頃から、何一つ前進していないと言えるのかもしれない。
では、なぜ。
なぜ、僕は──。
僕は自問する。否、自問のまねごとをする。それは徹底的にアクチュアリティを欠いていた。それはもはや他人ごとにすぎなかった。
「……こんな顔、してたんだな」
ひとりごちると、少年はふざけているのか、とでも言いたいような表情でこちらを睨みつけてきた。しかし僕は憮然と言い返した。
「僕は一七で、おまえは一四だ。おまえは僕のことなんてわからないし、僕も、おまえのことなんかわからない。僕らの現実が、切実さが交わることは、たぶん一生ない」
「…………」
少年はうなだれた。それは踏切に飛び込んだときと同じくらい鋭い動作だった。不自然なほどに。
その不自然さに、僕は覚えがある。実感がある。世界との間に、決定的にリンクを欠いているその振る舞い。身体を身体として操ることを、決定的に損なっているような。
僕は口を開いた。どうしても、これだけは言っておかなければならない。
「でも。それでも、僕はおまえなんだよ。そこから逃れることだけはできない。だからおまえも、僕から逃れることはできない」
「……なにが……」
なにがいいたい。少年がそれを言い切る前に、僕は口を開いた。
「この夢の先で、僕は待ってる。それだけは忘れないでくれ」
──そして、僕は目を覚ました。
タイルに沈殿した冷気から頬を離し、立ち上がる。銀嶺の月の光は、夢に入る前からそうであったように、秋風とともに僕に降り注いでいた。しかし、すべては終わったのだ。
たぶんもう、あの夢は見ないだろう。人工臓器ネットワーク内で情報の整理が終われば、それが反芻されることはない。感情も、また。あの日々に紐づいた感情もまた、検討されるべき情報としての役目を終えたのだろう。すべては過程だったのであり、それはたった今終わった。
ひどく心が凪いでいた。烈しい感情は、もはやどこにも見つけることができない──しかしそれは喪失ではない。あるべきものが、あるべき場所に戻っただけなのだろう。あるいは、あるべきでないものが消え去っただけなのだろう。
僕はトイレに背を向けて、来た道を引き返した。
いまこうして生きているということ。それを肯定することでしか、僕はあのころの自分に反駁することができなかった。分割不可能な、分かちがたい根拠をもった希望。いま・ここにあるものとしての。しかしそれは、どこまでも偶有性に貫かれたものでしかない。
僕がこうして生きていること。そのすべては偶然にすぎない。あの日、あの窓から飛び降りてもなお生きていたことに必然性など認めようがない。
現にこうして生きているということからしかすべてを始められないものにとって、世界の酷烈さは希望になりえない。しかしそれは絶望ではない。
夜警のような世界が、すべてを予測し、監視し、制御するなら、僕は──否、”僕たち”は簒奪者になろう。異物を、人工物を、人ならざるものを継ぎはいで、それでもなお人であると言い張ろう。僕たちは人間だ。僕たちは生者だ。だから決して一つになることはない。共同性や連帯でありながら、同時にそれ自体ではないもの。簒奪の無根拠さ、無分別の中に、僕たちの未来がある。
僕は夜の闇の中に駆けだした。街のあかり、生活のあかりから隔てられたこの身で、明日に踏み出すために。
─◇◆◇─
もちろん、一日やそこらで何かが変わるわけではない。
あのあと、僕は無言で帰宅し、無言のまま就寝した。起床後は二言三言会話を交わしただけで、核心的なやり取りをしたわけではない。さしあたり自分が無事であること、昨晩は錯乱していたが、健康状態は恐らく問題がないだろうということ、検査日にはメンタルヘルスについてのチェックも一応受けるつもりだが、恐らく何も出ないだろうということを、特にいたわりや婉曲もなく伝え、平淡な返事をもらっただけだった。
とはいえ、それがありがたかったのは事実だ。「家族」というもののもつ粘膜的な共同性を僕は心底憎んでいた。そのことは、僕がまだ何の異物も持ち合わせてはいなかった頃に思い知らされたし、また思い知”らせた”ものでもあっただろうけど、いま、その気持ちが尊重されるとは思っていなかった。尤も、単に距離感をはかりかねているだけかもしれないが。
電動スクーターでゆるやかに坂道を下り、学園都市に行き着く。そして高校の駐輪場に車体を押しやると、真っすぐに屋上まで行く。
相変わらず、ギターの音は響いてこなかった。しかし十河はそこにいた。ぼんやりとした表情で、ただ空を眺めている。
ふと、彼はこちらの存在を認めた。弱弱しい声でおうともああともつかない挨拶をしてきたので、同じような調子で返すと、僕はバッグから細長い革袋を取り出した。
「なんだ、それ」
十河の質問に答える代わりに、ジッパーを開ける。それで、中のものが露わになった。
アルトリコーダー。小学校のアナログ・カリキュラムで辛うじて演奏した経験のある楽器だった。
困惑する十河の表情をよそに、僕はリコーダーを吹き始めた。──《天国への階段》。そのイントロを。
ふと、十河はうつむいた。それから小刻みに震え始める。一瞬不安が頭をよぎり、音が乱れたが、すぐに再開する。
顔を上げた十河の顔には、苦笑とも嘲笑ともつかない、どこか鋭い笑みが浮かんでいた。いつもの彼が戻ってきた、と思った。
「お前ってやつは……」
大丈夫だ、と伝えるつもりだった。僕たちは、きっと……と。だがその必要はなかったのだろう。
十河はギターケースからエレアコを取り出すと、おもむろに弾き始めた。アルペジオが、冬の気配をたたえた朝の空を小刻みに揺らす。
簒奪者(ぼくたち)の天国が、ここにはあった。
──〝FATALE leaks from Heaven〟closed