いま、そこにある静謐──上遠野浩平『海賊島事件』に見る「死者の帝国」の批評的解体

評論/城輪アズサ

 

注:本記事には上遠野浩平『海賊島事件』の結末に関する記述が含まれています。

 

「変化を続ける相手の過去に追いつこうとすることはただの回顧と変わりがない」──円城塔(*1) 

 

 ファンタジーミステリ、と呼ばれるジャンルは、ミステリと呼ばれる広大無辺な世界の、周縁に位置づけられているように見える。そしてそれには、ジャンルそれ自体が分かちがたく抱え込んでいる困難さが深くかかわっている。

 幻想、怪奇、異世界。そうした舞台設定から、解かれるべき「謎」を立ち上げること。一つの主体が情報と情報の網目から、真相というある種の星座的布置を作り上げること。それは常に、恐ろしく困難で、しばしば成立不可能なものと見られてきた側面がある。英文学の研究者、高山宏が指摘するように(『殺す・集める・読む』)、コナン・ドイルによる原典のシャーロック・ホームズは、一九・二十世紀のイギリスと不可分のものとしてあった。理性でもって世界を切り取り、テクストによって再配置することで、ホームズは事件を解決する。彼の知識は膨大な蔵書によって成り立っており、その言行はジョン・ワトスンというインターフェ―スを介して、われわれの感受しうる物語へと変じる。記述に次ぐ記述。整然とした記号の連なりでもって織られた事件についての記録(リポート)には、近代という時代、大衆文化が花開いた時代の、啓蒙”的”思想の気配が色濃い。

 そして、それを受け継いだ探偵小説においても、また。ゆえにこそ、ジャンルとしてのファンタジーミステリなるものは常に傍流の存在として、探偵小説という殿堂の周縁に位置づけられるものとして見られてきた、と断じることができるだろう。そして詳細は後述するが、本稿が取り扱う上遠野浩平『海賊島事件』およびそれが属する戦地調停師シリーズは、歴史的にも特異なかたちで隆盛を極めた、同時代のミステリ・ジャンルに対してさえ、周縁に位置づけられていた側面がある。ジャンルとしての確立はイニシアティヴの獲得を意味する。それはここにおいて、イニシアティヴの獲得されないジャンルはジャンルたりえない、ということでもある。

 

 しかしその地点からしか語りえないものが、たしかに存在する。

 先に引いた高山宏は続けて、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』に言及した。吸血鬼という神秘を暴く行為は、それ自体で一種の「解読」──探偵小説的欲動に支えられているのだ、と。怪奇と探偵が、ここにおいて合流する。そしてそのまなざしは、同時代の「見立て殺人」を取り扱ったミステリ作品へと向けられる。アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』、国内であれば、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』。その作品としての核心である「真相」に深く触れるため、ここで立ち入った言及を行うことはしないが、それらに通底しているのは、近代において周縁化され、抑圧されてきた「ある存在」の怨念めいた反動を、透徹した目で抉り出す、という姿勢であった、と高山は言う。怨念。数多くの民話が指し示すように、それは怪奇なるもの、今日ホラーと呼ばれるものの専売特許である。

 同様の言及は、ライターの木澤佐登志によってもなされている。『慈悲深いモノリスに見守られながら』(『大阪大学SF研究会・信仰SF』所収)において木澤は、ステファーノ・ターニの『やぶれさる探偵』に依拠しながら「推理小説はみずからが追い出したはずの反啓蒙的で超自然的な非合理性の亡霊を不断に回帰させる」として、怪奇(≒ゴシック)的なものと探偵(=ミステリ)の和合の系譜を描き出した。ターニの著作はポー『モルグ街の殺人』についての批評であり、探偵役たるデュパンの分裂を描き出したものだった(*2)が、木澤の論の射程は、先にも触れた小栗虫太郎『黒死館殺人事件』や、「論理的/実証的な合理主義的推理を突き詰めた結果、それが反合理主義に反転する短編」であるという摩耶雄嵩「答えのない絵本」などの、国内のミステリまで及んでいる。合理と非合理の混淆。理性の世界への、怪奇の侵入。そうしたヴィジョンは、いま・ここの日本においても有効である。

 

 コナン・ドイル、アガサ・クリスティの伝統を受け継いだ本格ミステリの潮流は、戦後、一九五〇年以降に、松本清張の受容によって社会派ミステリに取って代わられることになった。そしてそうした系譜を根本から覆した作品として見出されたのが、綾辻行人『十角館の殺人』である。

 フーダニット(誰が殺したか?)、ハウダニット(いかにして殺したか?)を追及するというミステリの基本構造を存置したまま、奇怪な状況を語ること。綾辻のそうした語り口は一つのムーブメントを、主に講談社を中心に形成した。「新本格ミステリ」の誕生である。関係者による証言も含む事の経緯や推移は、二〇〇六年に逝去した編集者宇山日出臣のトリビュート・アンソロジー──二〇二二年にクラウドファンディングで募った資金を元に制作・発売された──『新本格ミステリはどのようにして生まれてきたのか?  編集者宇山日出臣追悼文集』に詳しいが、ここで取り扱うのはそうしたジャンルにまつわるトリビアではない。あるジャンルという母胎(マトリクス)において成立した小説に内在する「異質なもの」にこそ、筆者は注目したいのだ。すなわち「怪奇」に。

 『十角館の殺人』において、とあるキャラクターが目覚め、疾走するシーンは、解かれ(え)ない謎として結末の後も残り続ける。その人物を突き動かした「なにか」の正体は、終ぞ明かされない。本書冒頭部で存在が示唆される「真相」入りのボトル──『そして誰もいなくなった』のパロディだ──が作り出すミステリの秩序と、それは決定的に断絶している。

 

 なぜそのようなシークエンスが挿入されたのか、ということを、われわれが確実に知ることはできない。しかし本書の成立過程における小野不由美の介在は、その手がかりの一つになるかもしれない。

 綾辻自身が「解説」で明かしたように、本書の大仕掛けは執筆当時から交際関係にあった小野不由美が助言し、作成したものであった。

小野不由美は『残穢』や『十二国記』シリーズなどの、ホラーやファンタジーとしての特徴が目立つ作品によって広く受容されているが、そのキャリアの始まりは講談社X文庫ティーンズハ―ト──少女小説を主に取り扱うレーベルだ──から刊行されることになる『バースデイ・イブは眠れない』というホラー・ミステリであった。ホラーとミステリ。その取り合わせがいかなる系譜をもつか、ということは先に確認してきた通りだが、そうした文脈が「新本格ミステリ」の始点に流入している、というのは、何か示唆的であるように思う。

 そして、「怪奇」とその領域を接する「超常」の気配は、新本格には色濃い。文芸批評家の円堂都司昭が指摘したように、新本格には山口雅也の『生ける屍の死』や西澤保彦の『七回死んだ男』などの作品が存在している。前者は死者が蘇る世界を、後者は同じ時間が突発的に繰り返す(それを認識できるのは主人公のみ)世界を、それぞれ舞台としていた。

 

 そして何より、京極夏彦である。

 『姑獲鳥の夏』(一九九四年)をはじめとする百鬼夜行シリーズは超常的な怪奇を作品の中核に据え、それを解体することで一つの世界を作り出していた。なお、同作は講談社メフィスト賞創設の直接的な契機となり、同賞の第一回受賞作である森博嗣『すべてがFになる』(一九九六年)とともに、その後の新本格や〈ファウスト系〉と呼ばれるような文芸ジャンルのモードを規定していくことになる。超常性の流入。それは同作が「憑き物落とし」を主眼に据えていることに象徴されるように、怪奇的なものの脱臭によって成り立っていた。そこには「解決」がある。

 ひるがえって上遠野浩平がゼロ年代において展開した、『殺竜事件』に連なる『戦地調停師』シリーズにおいて描き出される「異世界」に、解決はない。異世界は、ファンタジーは、それ自体強固な虚構としてたしかな質量をもって存在する。その超常性は、われわれの現実世界の示唆(=界面干渉、と作品内で呼ばれる現象)によってある種の裂開を被ってはいるものの、本質的に解決・解体されえないものとしてある。

 現実を剪定し編纂し、しかるのちに再構築することで成り立つ、不透明で強固なファンタジー。それは、たしかにわれわれの世界の隣にあって、境界面からわれわれをまなざしている。上遠野が描き出すのは、そのようなハードなファンタジーに他ならない。現実の寓話としてある、隣接するものとしての世界・物語。そのようなものとして。そしてそこから、ミステリは立ち上がってくる。

 ファンタジーにおいて「謎」を語ること。「事件」を立ち上げ、それに分かちがたく規定され翻弄される人々を描き出すこと。上遠野浩平はそのような語り口を選択し、ゆえにこそ『海賊島事件』におけるミステリは、大掛かりな舞台仕掛けと異世界の道理を持ってはいるものの、たしかな強固さをたたえていたように思う。そしてその強固さを下支えしているものこそ、深い影として、かつてミステリを規定し、いまなお残滓としてありつづけている「怪奇的なもの」なのである。

 

 ──事件がどこから始まっていたのか、誰もその真相と起源を知らない。

 そして人々が知ろうと知るまいと、いつだって事態は、人がそれと気がついたときには、既に手遅れなのだ。

 ──上遠野浩平『海賊島事件』

 

 『海賊島事件』は群像劇としてある。複数の時代、複数の視点が入り乱れ、断片化された情報が断続的に提示されることで、リゾーム様に「真相」が浮かび上がってくる。そのようなミステリとして本作はある。それは単線的な、秩序だった「解決」に、樹木(トゥリー)のように収斂していくものではなかった。

 ある世界、ある事件を、われわれは俯瞰するのではなく、垣間見ることになる。それはシャーロック・ホームズと読者がそうであったような「見下ろす」視線ではなく、同じ位置に立つパラレルな視線によって謎に接近するような仕方である。そのような情報との接触のかたちはまた、登場人物にとっても同じことだった。「物語の登場人物は、その役割の外側を知ることがない」(*3)。「謎」をまなざし、テクストを下支えする語り手であるところの「探偵」は複数人登場し、立つ位置も違う(クローズドな状況に集うことのない)彼らの目線から、物語は紡がれる。情報・目線の分断。──それはどこか、軍記の語り口にも似ている。

 

 架空戦記。ある対立という大状況を前提として、個々人の機微を描き出すジャンル。本作の骨子にはその想像力がある。

 国際社会を緊張関係の中で規定する、複数の国家権力の網目に位置するサロン〈落日宮〉における、聖ハローラン公国の王族、夜壬琥姫の死。精緻な体系に紐づけられた、「魔導」による密室殺人。それをめぐって発生した、〈落日宮〉の管理・運営への影響力を保持している、海上の独立海賊国家「ソキマ・ジェスタルス」(通称「海賊島」)と軍事大国「ダイキ帝国」の対立。本作の骨組みには、そのような大状況が存在する。「ソキマ・ジェスタルス」は夜壬琥姫殺害の、最有力候補の一人である男をかくまうが、それはダイキ帝国の間謀の情報──最重要の国家機密だ──を握っている可能性が高く、それゆえに、帝国側は容疑者の引き渡しを要求する。しかしあらゆる権力からの独立を志向する海賊島側はこれを拒否し、両者間の緊張は後戻りできないほどに高まりつつある──。

 本作にとっての「謎」は、そうした大状況との連関をもつものだった。しかしそれは、架空戦記的な想像力が、一人の死をめぐる「事件」に対して優越する、ということを意味しない。上遠野はここで、大/小の対立を転倒させるからだ。「死者」の、絶対的で圧倒的な存在感によって。

 「世にも美しい、何処にも傷がない癖に決定的なまでに生命をずたずたにされている、死体」。夜壬琥姫の亡骸はそのように表現される。透き通る水晶の中で永遠となった姫の死体。その「眩暈にも似た違和感をもたらす」ような美。本作の事件の中核に据えられるその美は、物言わぬ死体は、架空戦記的、政治劇的な大状況を絶えず規定していく。ダイキ帝国が容疑者を求めるのは、夜壬琥姫も含めた関係者が等しく沈黙しているからであった。言葉を発することも、謀略をめぐらすこともないがゆえに、国家の最高意思決定の段階において、それは致命的になる。死者の静謐が、ダイキ帝国の足場を突き崩そうとしている。

 

 同様のイメージを、かつて作家の伊藤計劃は批評において「死者の帝国」という言葉で表現した。「とことん在来的な存在であるにも拘らず、特定の領土を持たない国家。個々人の記憶をノードとして、国家と国家、人と人との関係性の中にのみ存在する仮想の帝国」。そのように表現される「死者の帝国」の最たる例として、伊藤はイスラエルを挙げる(「ホロコーストを引き合いに出すまでもなく、イスラエルという国家の国体はこうした『死者の帝国』に支えられている」)が、そうでなくても、われわれの生は、それを下支えする時空間の連なり・広がりは「存在しない死者のイメージ」に規定されうる。路傍に立てられた花瓶。ふと視界に立ち現れる集合墓地。日々流れゆく訃報の文字列。画面の向こうの大量死。われわれは死者からまなざされている。そのまなざしによって規定されている。分かちがたく。しかしここで扱われる実体を、われわれが本質的な意味でまなざすことはない。その意味において、われわれにとって死者は存在しない。そして不在は、不在自体の静謐は、常に超越的にはたらく。西洋的な神が偶像の不在によって超越・普遍になるように、死者もまた、固有のインターフェースを剥ぎ取られることによって超越に変じる。

 『海賊島事件』が描き出すものも、そのような「死者の帝国」に分かちがたく覆われた世界の姿だ。しかしここで超越・普遍は、完全な不在によってしるしづけられるものではなかった。偶像を棄却する宗教が、絵画や(物体としての)教典の聖性を許容するように、死体という実体もまた、普遍/有限(=個々人)の間隙に立って、媒介として機能しうる。

 

 やや話を戻せば、そうした超越/有限の問題は、しばしば怪奇的なものの中にも見られてきた。先にも引いた高山宏が取り扱ったような、一九世紀の怪奇小説がそれである。世紀末の想像力。近代の地底で息づく怪奇の気配。そうしたおどろおどろしい超越性を、テクストで──「理性の光」で──有限性の領域に引き下ろすこと。『吸血鬼ドラキュラ』はそのようにして書かれた(*4)。

 しかしここで、改めてその「美しさ」が問題となる。他のあらゆるものから隔絶された美は、死がそうであるように、あるいは死と結びついて、状況を規定し続ける。それはまた、一つの空洞でもあった。空洞としての美。空洞としての死体。空洞としての謎。そのようなものとして。

 どういうことか。それは本作の「真相」にかかわっている。

 本作の真相──夜壬琥姫を殺したのが、他の誰でもない姫自身であるということ。魔導の暴走を利用した自殺。その真相は容疑者をめぐる政治劇や軍事的脅迫の一切が、どこにも根拠をもつことのない、究極的に無意味な茶番でしかない、ということを意味する。しかし本作の胚胎する可能性は、そうしたシニシズムに留まるものではない。本作はそれを踏み越える。「海賊島」という状況によって。

 

 海賊島。海賊組織「ソキマ・ジェスタルス」の海洋国家。巨大カジノであり、いかなる国家の制約を受けることもない、国家に帰属しない、独立した領域。それを成り立たせるのは犯罪組織としての洗練されたシステムであり、血塗られた歴史であり、そして顔のない管理者の「声」だった。

 インガ・ムガンドゥ三世。海賊島を統治するその「王」の正体は隠匿される。しかしその五感は、島の隅々にまで及んでおり、彼の「声」こそが、ただちに島という共同体の最高意思決定として下達される。透明の監視者。一望監視塔(パノプティコン)状の社会が、そこにはある。そして監視者の権能を支えているのは、いま・ここにはいない、海賊島のもつ半世紀の歴史の中に葬られた先代の存在だった。

 そんなインガ・ムガンドゥ三世が「姿」を現すことで、物語は展開していく。その容姿が──基本設定とともに──描写されるシーンは、きわめて示唆的である。

 

 三世は首をすくめると、何やら小声で呪文を唱えた。

すると次の瞬間、彼の褐色の肌の上に、見るも鮮やかな濃い紫色の刺青がびっしりと浮かび上がった。

「…………!」

 私は息を呑む。これが、噂の──

(海賊島頭首の、世界最強の防御紋章……!)

 それは異様なものだったが、同時にひどく妖しい魅力を放つ光景だった。私は文字通り、息をするのも忘れてつい見入ってしまった。

 

 語り手の一人である女軍人レーゼ・リスカッセの目線を通じて語られるこの印象は「見るも鮮やかな」、あるいは「ひどく妖しい」といった表現が象徴するように、その刺青の持つ武器としての性質よりも「美」の方へ焦点が当てられている。

 「美」はこの物語において、他のあらゆるものから隔絶されて、それ以上分割することのできないものとして存在する。そのありかたが死者の静謐との間に連関を持つことはこれまでに確認してきた通りだが、ここで、三世が「生きている」ということが改めて重要になってくる。

 夜壬琥姫は死によって永遠になった。彼女は死の静謐と、美の静謐を同一化させることができた。ひるがえって三世に、その種の永遠・普遍の気配はない。しかし彼にとっての有限──いま・ここに自分がたしかにあるという感覚──もまた、若くして係累のほとんどと離別してしまっていることで、きわめて不安定な位相にある。顔のない一人であるということ。広大無辺な、血塗られた犯罪組織の歴史の、その先端に位置づけられていながら、個人が個人としてある根拠を喪失した主体。それこそがインガ・ムガンドゥ三世という「王」の実相であった。

 死と美。そしてまた、海賊島にまつわる「真相」は、そうした構造の絶対性を強化する。

 

 そこには異様なものが置かれていた。

 妙にくしゃくしゃと丸まった、紫色をした無数の線が全体を、うねうねと蠢きながら這い回っている物体で、しかしそれはよくよく見れば……

 

 「真相」が暴露される、このシークエンスにおいて上遠野は、一度も「醜い」という言葉を使っていない。一連の怪奇的なディティールの記述において、その言葉の疎外はどこか奇妙に写る。しかしそれは無理からぬことだ。なにせそれは「尊厳」の問題にかかわってくるのだから。

 肉体。ここで記述されているそれは、全き生者の肉体なのだ。

 

 ……膝を折り曲げて胸にぴったりと押し当てるようにして身体を丸めている人体なのだった。すぐに人に見えなかったのは頭がどこにあるのか不明だったからだ。頭部は胴と膝の間に、すとん、と落ちるようにして填っていた。首と腰の間接が外れていなければ、こんなに見事に丸くはならない。両腕と思われる部分は、球体化した身体からだらりと紐のように垂れ下がっていた。

 しかも、その肉体はかすかに、膨張したり収縮したりしていた。生きているのだ。

 

 インガ・ムガンドゥ一世。不審死を遂げた、海賊島の初代頭首の姿を、上遠野浩平は怪奇的な筆致で描き出した。美しさからも、そして醜さからも疎外された、ただ生きている固体として。そしてその存在は、海賊島の血塗られた歴史にとっての急所であるという意味において、彼らの運命を分かちがたく規定しているといえる。一世がまだ生きているということが世界に知られれば、三世の後継者としての正当性は揺らぎ、精緻な犯罪組織に亀裂を入れてしまう。

 「事件」は死者の美によって規定された。しかし、「状況」は──海賊島という一種の閉鎖空間(クローズド・サークル)は──生者が不断に生者たらんとする、その暴力的なまでの実存によって規定されていたのだ。それは本作の事件がそうであるような、現実の極限として物語を読むわれわれに、そしてインガ・ムガンドゥ三世という存在に、迫る。

 顔も、姿も、なにもかもが漠とした時間の連なりに溶けていく中で、ただ記憶だけが──回顧だけが浮かび上がる。探偵たちの視点を縫うようにして差しはさまれる「記憶」、土地が抱え込んだ、すでに亡きものたちの呪詛の断片の中に、三世は置かれていた。父の言葉たち。父の死相。断片化された、血塗られた歴史の連なりの、その最果てに位置する〈顔〉。「事件」の、「状況」の、終局において──架空戦記の最終局面において提示されるそれは、やはり、解かれえない「謎」としてあった。死者の静謐の彼方で、永遠の空洞としてそれはある。海賊島事件(the man in pirates island)。ミステリの構造が、死者の絶対性において再び立ち現れてくる。

 

 解かれえない謎。『海賊島事件』はどこまでも、遍在するそれと向き合う物語だった。記憶を辿り、断片を接続し、理性と創作の相剋から、真実らしきものを析出する、その行為。「謎解き」と呼ばれる行為によって、それと向き合う物語だった。ファンタジーミステリの営為。本作はどこまでも、それに真摯だった。

 だからその結末を、われわれは美しいとはもはや呼べない。醜い、と断じることもできない。すっきりとした解決でも、うやむやの調停でもない、分かちがたく謎そのものであるような「真相」の現出。最後の言葉。最後の姿。最後の真実。

 結末(コーダ)の、残響のような余韻とともに、われわれは常にそれを思い出すだろう。死の界面に接する、その「真相」を。