プロローグ
人が死ぬって何だと思う?
かの有名なマンガ「ワンピース」にはこんな一文がある。
「人はいつ死ぬと思う? ピストルで心臓を撃ち抜かれたとき? 違う。不治の病に侵されたとき? 違う。猛毒キノコのスープを飲んだとき? 違う。人に忘れられたときさ」
第一章 希死念慮
「行ってきます」
誰も入ってない家への挨拶を終わらせ、鍵を閉めた。
玄関屋根からのそっと出てきた僕に、待ってましたと言わんばかりに太陽がにやり顔で照り付けてきた。今はそんな憎らしい太陽が意気揚々とする季節、七月中旬だ。
左手で光源との間にシールドを張った僕、須方海人(スガタカイト)はそれでも指の隙間から侵入してくる日光に敗北した。敗者の証のように下へ頭を垂れ、高校という名の我が牢獄へと自ら足を進めた。
異常気象と呼ばれるほどの暑さで起こった陽炎のせいなのか、その暑さで起こった自分のめまいのせいなのか、考える気すらも起こらないが眼前で真っすぐ伸びる道はゆらゆらと揺れている。
蝉の鳴き声がワンワンと聞こえ、その鬱陶しさも焼け溶けそうな暑さを助長した。
「死にたい」
地面を一点で見つめたままぽつりと呟いた言葉は、生産性のない単純な時間へと消えていく。その道を揺らす原因となった暑さに従って僕の心はとてもブルーになっていた。
心と同じ色だというのに頭上に広がるすがすがしいほどの真っ青は、僕が抱えている重荷と反比例のような意味を持っている気がする。
「おっはよー。いやー今日も暑いなー」
下を向いてても分かる軽快な声の方へ顔を上げると脳内で構成していた通りの笑顔がこちらを見ていた。今日の空と同じ色のTシャツは高校生らしさはないものの、笑いかける天夜にはよく似合っていると思った。
同じクラスの五月雨天夜(サミダレテンヤ)は「賑やか」という言葉がぴったりな短髪の少年で僕とは古くからの知った顔だった。
肩からぶらさげた有線のイヤホンはこれまでの経験からどうやらファッションアイテムらしく、コイツが使ったところは見たことがなかった。
「なんて顔してんだよ。カイトはまだ梅雨明けしてないみたいだなー。顔に雲ばっか作ってると夏に置いてかれちゃうぞ(笑)」
そう言い捨てた天夜は先導するように僕の前をスタスタと歩いていく。
いつも通りの朝。
繰り返す日々。
変わらない日常。
そんな考えをしたことがあるのかと疑うほど天夜の歩みは軽く、爽やかだった。常に世界は退屈で、生きている意味はないと考えている僕とは対照的な場所にいるんだなと確信にも近い思考を巡らせ、ゆっくりと天夜の後を追った。
教室に着くと朝っぱらから無駄に元気な女子グループがかたまって雑誌を前に共感しあっていた。見ているのは占いの特集らしく彼女らが好きそうな話題だなと納得した。
「今日の一位はルビー! 今日起きて最初に話した人に願いをいうと叶うらしいよー」
「えーじゃあみんなお母さんじゃん!」
「私は目覚まし時計かなー。朝からうるさいって引っ叩いてきたよ」
「それ、人じゃないじゃーん」
「因みにラッキーカラーは青だって」
「さて、探すか―(笑)」
彼女らの会話に何となく聞き耳を立てつつ、よくもまあそんな普通の雑談でそこまで盛り上がれるよなーと思う。ラッキーか……。青なら確か、あいつがと短髪小僧へ目をやるともう既に先ほどの高音クラス内拡声器らに仏様の如く崇められていた。
本当にありふれた日常の光景だった――
学校は僕にとって確かに息のつまる場所だった。
六時間以上もの多大な時間を、休憩があるとはいえ、机に固定され続けることは苦痛以外の何物でもなかった。
教師も毎回話す内容を変えているのかもしれないが、僕の両耳を通り過ぎるころには既に同じ言葉に変換されているような気がした。
コンパスによる机にできたひっかき傷を眺めながら毎日考えることがある。
朝起きて、学校へ行き、帰って、寝る。この動作を何千回と繰り返し、大人になっても朝起きて、会社へ行き、帰って、寝る。これを何千回と繰り返すのだ。
僕たちはそんな無駄な、本当に何も生まれない時間の中で極僅かの小規模な幸せに縋り、糧として生きていく。それよりも多い苦痛やプレッシャー、ストレスに耐えて、耐えて、耐え忍んで、そして誰もが後悔だけを残して死んでいく。
意味のない世界。
だからこそ僕は特に意味もないけれど毎朝「死にたい」と口にするのだろう。
そして僕も当たり前に、当然に、灰に姿を変えるのだろう。
そんなことを考えていると今日も宿敵が赤く体を燃やしながらビルの間にゆっくりと落ちていくのが見えた。
もう、やっと、放課後だった。
「いやー終わった。終わった。まじ数学って意味が分からないよなーほんと数字大苦手だわー。帰りどっかよって帰らねー?」
下校の準備を終わらせた天夜が今朝と同じトーンで僕の席までやってきた。ふと思ったことだが、なぜこいつは僕に話しかけてくるのだろう。
不思議だった。
そりゃあ子供の時からの顔馴染みではあるが、それだけの関係だ。性格も僕とは真逆で友達も多いのに……。天夜の顔を見てもその答えは載っていない。ただ何も考えてなさそうなあほ面が楽しそうに喋っているだけだ。
昔から気になっていたことだがこれは胸の内に留めておこうと、そんなことを本人に聞くのは野暮だとそう思った。
「おいー話聞いてんのかー?」
他事を考えていたのが僕の顔にも出ていたようだ。少し眉をあげた天夜には何となく察していそうな気もした。
「ごめん、何だっけ?」
「だから、カイトもうすぐ誕生日だろ? その日にどっか行けないかなーって」
なるほど、全くもってありがた「迷惑」と言えば言いすぎだが、ありがた遠慮な話だな。
いつもひとりではあるが、まあ誕生日くらいは一人で細々と過ごさせてほしいというのが本音である。
しかしそれでも自由無碍の気持ちを無碍にしたくないとも思うから、僕は二つ返事でその約束を承諾することにした。
返事を聞いた天夜は嬉しそうに今日何度目かの笑顔を見せた。その顔に僕も静かに笑った。
そして僕は知っている。当日か、前日にドタキャンという流れを作るだろうと。
その笑顔をいつか壊すことになるのだろうと。僕というろくでなしの人間のことを。
「生きる価値などない」で括った僕と人生のことを。
もうすぐ夜が来る時分だ。僕たちはただ「いつも通り」の下校道に「当然のように」二人で足音を立てた。
第二章 死生有命
日に日に暑さは増していき、それでも僕の日常はほぼ変わらず過ぎていくだけだった。
この現代を生きる我々一般人にとって「死」とはとても身近なところにあって、いつでもどこでも簡単に得ることのできる代物である。
けれどそれでも、ほとんどの人が実行に移すことはない。理性というブレーキによって人は、僕らは、また今日という一日を生きることにした。
今日は一学期最後の登校日、終業式だった。クラスメイトたちは明日から始まる長期休暇を夢想し、楽しみだという気持ちを恥じらいもせず、自らの顔に書いていた。
「いやー明日から夏休みかー。やりたいことは山ほどあるんだよ! 祭りに、肝試しに、ボウリングだろ、キャン……」
「分かった、分かった。楽しみだよなー」
校長を初めとする数多の先生の不毛な自己満足トークを聞かされ、僕らはとぼとぼと帰路へついていた。
クラスメイト同様、天夜も当然夢見る一人だったようで、気分上々な様子で話す彼に、僕は流れ作業のような相槌を打った。
「カイトは? この夏予定あんの?」
「え、いや、特にないからあまり外に出ないだろうね」
「ってことはいつでも誘えるってことか」
あれ? 天夜の問いに分かりやすい直進的な答えを示したつもりだが、このタクシーはどうやら客の行きたいようには進んでくれないみたいだ。
僕の不服そうな顔にも、気にも留めないようなので、こちらも流れ作業を続行することにする。
「それにしても校長って生き物はどこの学校でも同じなんだなー。あんなペラペラよく一人で喋れるよなー。全くさ、隣のおばちゃんといい勝負だよ。こないだもさー……」
肩を並べて歩く人型メガホンは今日も変わらず、笑顔だった。僕の適当な反応も気にせず、楽しそうに語る天夜を見て、お前もいい勝負しそうだよ、と少し笑えた。
さて、夏休みに入って数日経ったある日、一本の電話が僕の携帯を揺らした。
「おっすー! なあ明日カイト誕生日だろ? だからさーキャンプ行こうぜ! キャンプ!」
いつかの口約束を思い出し、受話器越しに聞こえない程度にため息をついた。
つけというのはこうも簡単に回ってくるものなんだと、僕は久々に思い出した。
こうなっては仕方ないな。
以前に建てた計画通り、夏風邪でも起こしてキャンセルということにさせてもらおう。
せっかく誘ってくれた天夜には申し訳ないが、夏風邪ならそれも仕方ないことだろう。すまない、僕というクズはこういうクズなんだ。
そう言い訳をし、頭の中でのキャンプのお誘い決定事項の書類に「拒否」の判子を押そうしかけた、が。
「それからさー」
次の楽観発案者の一言で僕はその判子のついた書類をシュレッダーにかけることにした。
ウィーンと細切れになっていく書類を眺めつつ、僕は明日の準備に取り掛かった。
僕は今、とある山の中を、ここまでの経緯を振り返りながら歩いている。昨日のことだ。
「明日カイトの誕生日だろ? だからさーキャンプ行こうぜ! キャンプ! 朝の九時に迎えに行くから、今メールで送った準備物用意しといて。それからさー場所は陽木山(ひきざん)キャンプ場ね。あ、あと明日だけど多分あれだから先に言っとく。誕生日おめでとう! んじゃ、また明日」
「うん……」
天夜が口にした陽木山という場所は隣の県にある山で緑豊かな避暑地として人気があった。
僕たちが住んでいるこの街は生臭い金と鉄の臭いが充満し、自然といえば申し訳程度に植えられた木とそこに群がる蝉ぐらいだった。そんなこともあり僕は陽木山に憧れに近い感情を抱いており、一度でいいから訪れてみたい観光地の一つとしてあげていたのだった。
そんなわけで付いていくことにしたのだが、今朝迎えに来た車には僕の想像を超える人数が乗車していた。あいつが昨日前もってお祝いの言葉をくれたのは僕の気持ちを考慮してくれたからだということをぎゅうぎゅうの車内の中で感じながら、前もてるなら来る人数も教えとけよと眉間に皺を作った。
まあ教えなかったのもあいつなりの気遣いとしておこうか。
そんなこんなで山の中を十二、三分散策していると今回の目的地が見えてきた。そこには天夜の叔父のロッジがあるらしく、あいつは小さい時からよくこの山に来ていたそうだ。うらやま。
「うわーすげー」
いかにもテンションがあがった声に促され、顔を向けると、その先には自分が想像していた以上に優しい風景が広がっていた。
木で作られた暖かなロッジに入る木漏れ日が幻想的な空間をより一層強く仕上げていた。写真などで何度か目にした光景をこうして三次元の絵画として見られたことが身に余る体験そのものだった。
正に美しさを絵に描いたような景色だった。
日は段々と沈み、星たちが集まりだしてきた。
街では到底見えないであろう夜の姿が空一面を包み込んでいた。
「キャンプ」を一しきり楽しんだ僕らはロッジに入り、談笑に花を咲かせていた。
もしこれがミステリー小説であればこの中の誰かが死ぬことになるだろうシチュエーションである。が、現実であるこの空間では起こりえないことだと露骨にフラグを立てておくことにする。
話が進んでいくうちに僕は、赤の他人よりも赤い深紅の他人ぐらいに思っていた彼らが実はクラスメイトだったということを聞かされ、驚きと申し訳なさを噛みしめていた。
僕の存在は例えクラスメイトであっても彼らからしたら風景の一部、校庭の枯れ木であるはずである。しかしそれでも彼らは僕を認知してくれていたし、僕は彼らを全く認知していなかった。そんな申し訳なさを抱えつつ、僕は彼らの名前をあくまで確認という体で一人ずつ脳トに書き記していった。
クラスメイトは僕を入れて六人。男子四名、女子二名である。
順に僕、福野さん、小森くん、豊島さん、瀬田谷くん、そしてロッジの叔父の子はもういいか。
天夜以外の四人の名前を静かに頭の中に書き留めた。
そこからは愚痴や恋バナ、その他他愛もない学生特有の話をした。そしてその中には僕が中学二年生の頃に起こった、両親の死の話もあった。
「え!? 須方くんのご両親って亡くなっちゃってるの?」
「事故? 可哀そうに」
「じゃあ今、一人暮らしなの?」
「やめよーよ、こんな話」
彼らはそんな感じで話を転がしていた。
僕にとってももう既に他人事のような感覚になっていたため、彼らの言動にも場の雰囲気にも大して嫌悪感は抱かなかった。クラスメイトのしかも全く話さない枯れ木の親の死に熱心に感情移入する方が今では珍しいだろうというのが正直な答えだった。
こんな僕の話で盛り上がってくれるなら、山の賑わいになれるなら光栄ぐらいに、思った。
しかしその中で天夜だけはあまりとらない難しそうな顔で俯いていた。会話はそのまま何事もなかったかのように流れ、広がっていった。
口数も少なくなり、一人一人今日の疲れの後払い請求が来たようで、皆支払いのために夢の世界へ足を運ばせていった。
僕も同様に疲れてはいたが、慣れない場所ということもあり中々寝付けずにいた。
気分転換に夜風にでも当たろうかな、ウッドデッキに目をやるとそこには星を眺める先客の姿があった。
僕は布団から這い出し、そいつの正体を確かめるため、掃き出し窓を開けることにした。
「天夜か」
「ヒャッ! っなんだカイトかよ。相変わらず脅かすのうめーな」「……まだ、寝ないのか?」
どういう意味だよという疑念を抱えながら別の疑問を投げてみた。
「カイトだって起きてんじゃん。俺、O型だから蚊が寄ってきて眠れないんだよ」
寝る前に虫よけスプレーを回した時、こいつだけが
「俺はここに何度も来ているから蚊にさされないんだよ」と訳の分からない理由で使わなかったことを、すっかり忘れているであろうバカ丸出しの回答を聞き流し、隣で同じように空を見上げた。
虫の多い夏の夜なのに辺りはとても静かだった。
それはまるで自分だけの時が止まったような感覚であり、何故か置いていかれる寂しさを感じた。その寂しさが僕には心地よかった。
「なんか、死んだあとみたいだな」
天夜が独り言のように呟いた。
「そうだな。どうだ? こっちの世界は」
僕たちはこの問いに真逆の答えが多分浮かんだと思うけれど、お互いに口にすることはなかった。
「俺は死なないよ。だからここはあの世じゃねえよ。かの有名な天夜方程式さ」
「初耳方程式だな。多分死ぬまで使わないやつだ」
「おい、生きて使えよ。こんな便利な奴、もったいねえぞ」
僕たちの声しか聞こえない、本当に静かで美しい夜だ。
空に散らばる無数の星屑を一つ一つ丁寧に数える。
「僕はいつか死ぬからその時は死後の世界ってのがどんなもんなのか、死なないお前に特別に教えてやるよ」
「……カイトの死ぬとこなんて、一生見たくないな」
「もう、寝るか……」
二十二個目の星を数えたころ、この空間はまた静寂な時を刻んだ。
第三章 生死無常
それからの夏休みは溜めていた小説を読んで過ごした。
あのキャンプが終わってからも何度か天夜からの誘いはあった。しかし僕がその苦行に参加することはなかった。また知らない人がいたり、聞いてない情報があったりする可能性を危惧し断り続けた。
そもそも僕はもともとアウトドアなタイプではないのだ。
あの日は場所が陽木山だったし、誕生日でもあったからまだ行く気になったが、こないだのプールの誘いなんてインドアの僕からすればアウトど真ん中のイベントだ! 家から出るのすら億劫だというのに夏休みぐらい休ませてほしい。とまあこんな感じでいつも通りの日々を過ごし、程なくして二学期が始まった。
九月に入っても暑さは何一つ変わらなかった。八月になって腕まくりをし始めた太陽はまだその袖を元に戻す素振りをみせない。「残暑」なんて言葉が生ぬるい程に残りまくった猛暑がクーラーのかかった教室でもお構いなしに居座っていた。
「カイトー、夏何やってたんだよー」
久々に見た天夜の顔は焦げに焦げまくっていた。夏を満喫したものに与えられる勲章だと前に天夜は謳っていたが、太陽からの支配下の烙印としか僕には思えなかった。
「色々誘ったのに、全然出てくれなかったし」
「僕は休みたかったからね」
「夏休みと書いて夏遊びって読むんだから遊ばないと意味ないだろ。夏休みに遊ばないなんて、冬休みに遊ばないのと」
「同じだな」
何一つ変わらない無駄会話で僕たちはこれからも時間を消費していくんだろうなと信じて疑わなかった。
二学期が始まってしばらくして総合の授業があった。その時間はグループワークによる作業だった。そしてそのメンバーの中にキャンプにいた瀬田谷くんがいた。確かに彼は同じクラスだった。
「はい、今回の議題は生きていくために必要なことは何か。衣食住、優先するならについてグループで話し合ってもらおうと思う」
担任の隅田先生が今回のテーマについて説明し、グループワークが始まった。やっぱり食だよね。という意見が僕の班では大きかったが、班の誰かが一人暮らしをしているということが分かり話し合いの内容もそちらに変わっていった。
「へー一人暮らしか。なんで?」
「親の方針でね、自立のためにって」
「ほー金持ちは違うねー。どう? やっぱ忙しいの?」
そんな話題で班の皆は盛り上がっていた。僕は初めから全く話し合いに参加せず、ただ耳障りな時計の針を止めるにはどうすればいいかということに頭を使っていた。
「え、須方くんのご両親って亡くなってるの?」
彼がそう口にしたのはそんな考えの最中だった。
僕が聞いていなかった間にどんな流れがあったのかは知らない。
しかし何故かキャンプの時に話した内容をもう一度、彼、瀬田谷くんは僕に聞いてきていた。彼の表情はまるで初めてそのことを知り、本気で哀れんでいるような顔だった。
まるでキャンプでの会話なんて存在しなかったかのように。
総合の日から何週間か経った。その間に僕はキャンプにいた三人に僕の両親のことについて聞いて回った。やはりあの場にいた全員が同じクラスだった。
福野さん、小森くん、豊島さん、彼らは一様に驚き、心配の声を僕にかけてくれた。そして誰一人としてキャンプのことを覚えている人はいなかった。
十月になってからとうとう日の出てくる時間が短くなった。それに伴って暑さもその力を失い、アスファルトのフライパン 化も無くなっていった。彼らが嘘を付いているようには見えなかった。しかし全員が一、二か月前のことを忘れているということも考えられなかった。
話の内容だけならまだしもキャンプのことさえ丸々記憶から消えていたのだ。全員が全員、そんなことが本当に――
「なあ、カイト? 何かあったのか?」
今日も隣で歩く天夜が声をかけてきた。そういえばこいつはどうなんだろう。そもそもあのキャンプはこの阿呆が持ち掛けた話だった。
夕日に照らされた天夜の顔はいつも以上にのんきそうに見えた。
「天夜、お前さ、この夏ってキャンプとか行った?」
僕は藁にも縋る思いで、天夜にことの顛末、今自分が抱いている悩みの一部始終を話してみることにした。
天夜の答えは
「そういや、おじさんが隣の県にキャンプ場持っててさ、行きゃよかったなあ」だった。
天夜も瀬田谷くんたち同様何一つ覚えていなかった。
そして僕は鮮明にこの夏の出来事を覚えていた。
キャンプの計画。瀬田谷くんたちとの会話。僕の両親の死の話。ウッドデッキでのどうでもいいやりとり。メンバーが誰もそのことについて覚えていなかったこと。
全ての話を天夜は黙って聞いてくれていた。そして話終わると彼は落胆した顔で「何も覚えてない」とだけ吐き、僕たちはそのまま帰路へ着くこととなった。
夕方から夜へと濃くグラデーションをかける空が僕たちの未来を暗示しているかのように思えた。原因が分からないということが何よりも恐ろしかった。
翌日、朝起きて行ってきますを音にしながら僕は学校へ向かった。昨日の天夜の顔がひどく脳裏に焼き付いていつも以上に眠れなかった。
「死にたい」
最近強く、こう思う。
教室に着くと、天夜のバックが席に置かれていることに目がついた。普段なら同じか、それ以下の時間帯に来ているはずの天夜はもう既に教室に来ていた。というより来た上で、バックを置き、本人はどこかに行ってしまった後のようだった。
そして気になることがもう一つある。それはクラスメイトの、周囲の目だ。何となくこちらをチラチラ見ているような気がする。
「そういえば、ないかも」
なんて言葉も僕の地獄耳には届いている。耳だけは先に地獄へ行って予約席を取ってくれているのだ。まあ彼らの会話と僕に関係があるかは分からないが。嫌な予感がする。
とにかく僕はこのモヤモヤを晴らすため、クラスメイトの一人であろう何とかさんに何かあったのかと聞いてみることにした。やはり天夜が関わっていた。
彼から聞いた今朝の出来事はこうだった。
まず、普段は遅れがちな天夜が今日は何故か早くから教室に来ており、クラスメイトに僕、須方海人と最近のことで何か覚えている所があるものはいないかと聞いて回った。
何故、そんなことを聞くのか? 何かあったのか? と聞くと「俺、忘れちゃってさ」という謎の回答を残して他のクラスにも聞きに教室を後にしていった。らしい。
僕は何とかさんにお礼と何でもないから気にしなくていいよという言葉を渡し、自分の席へ戻った。僕はもうどんな気持ちでいればいいか分からず、机にあったひっかき傷をずっと眺めていた。
そこへこの事態のかき乱し人が帰ってきた。
「天夜、お前、何してんだよ」
「カイト、俺、もう忘れないから」
僕の問いに天夜は自信たっぷりにそう答えた。本当にこいつとはQとAが合わないなと感じたが、これが天夜なりの答えなんだろうといつものように納得した。
「……分かった。で、そっちは何か分かったのか?」
何故か天夜の言葉がストンと体に落ちた。二学期初めからずっとあったモヤモヤが答えになってない天夜の答えで払拭されたように感じた。きっといつも通り意味が分からない天夜の言葉で僕自身悩んでいることがバカバカしく思えたんだと思う。
天夜はまた笑って答えた。
「いや、分かんなかった。でも皆、覚えてなかったからこっちが忘れているだけでキャンプは確かにあったし、カイトとの記憶は例外なく誰でも消えているってことが分かった」
「なるほど。じゃあこれからどうすんの?」
「俺はカイトに今日あったことを逐一報告するようにする。もしかしたら記憶が無くなるものは条件があるかもしれないし、言い続けたら記憶って忘れないもんだろ?」
「なんだよ、それ」
「それでもし忘れているなって思ったらこの夏にあったキャンプのことを聞いてくれ! 俺は絶対覚えていると答えるから」
「分かった」
それから天夜は宣言通り、今日何の授業がめんどくさかったとか、体育で何点取ったとか、今日の夢が何だったとか、どうでもいいことを一つ一つ教えてくるようになった。内容には僕に関係ないこともあったし、本当にどうでもいいことばかりだった。だけど僕は正直に言うととても嬉しかったし、天夜から見た世界は楽しそうだなと思った。
そしてしばらくして冬が近づいてきた頃、天夜の報告はいつの間にか静かに終わっていた。きっと天夜もめんどくさくなったんだと思うし、単純に飽きたんだと思う。だから僕は天夜にキャンプのことは聞かなかった。
そしてもう二度と天夜に心配がかからないよう、いつも通りでいようと思った。
第四章 養生喪死
僕がもし誰かに一度だけ会えるなら誰に会いたいかと聞かれたら多分、前世の自分と答えると思う。
まあこの世に尊敬する人も、偉人もいないからの消去法である。もちろん両親という答えもあるかもしれないが、会ってしまうと愚痴を色々と言いそうで申し訳ないから、今回はやめておこうと思う。
愚痴は前世の自分に思う存分吐き捨てて、何で生まれ変わろうと思ったんだよ、と溜まった鬱憤を解消する捌け口として有難く使おうと思う。
夏休みから半年が経ち、段々と自分の状況が分かるようになった。
原因は分からないが、人の中で僕との記憶は一定の期間が過ぎると一定分、無くなってしまうという仕組みになっているようだった。そしてその期間は日に日に短くなっており、忘却の量は逆に日に日に増えていっているようだった。正確な数値は分からないが、初めてその能力? が発覚した時は一、二か月の期間が経ったのち、一、二か月前の数日が消えてしまっていた。そこから月日が経つごとに期間は一か月半、一か月と短くなっていき、月日が経つごとに量は半年間、一年間と長くなっていった。
もともと僕は人と話さない人間だったから、普通の人よりもその影響は少ないだろうと思う。だけどやはり違和感を多少なりとも皆感じているのだろうということは分かった。しかしそれでも僕が咎められることはなかった。それは恐らくまだ知らない別の作用によってうまいこと修正されているからだろうと結論付けることにした。
例えばある日、小森くんと話す機会があった。彼と話したのは僕の両親のことを知っているかと確認した以来だった。彼は委員会の仕事で図書館室の受付をやっていた。といっても意識して見たことがなかったからよく利用する図書室の人が知り合いだなんてその時まで気づかなかった。
「須方くん、SF好きなんだね」
貸し出しのため受付に行ったとき、彼から声をかけられた。
見るからに穏やかそうで優しそうな彼には確かに似合った仕事だと思った。
「僕も好きでね、特に……」
彼は僕におススメの本を紹介してくれていた。人間のカスである僕は彼の話をあまり覚えていない。
その時はふんふんと相槌を打ち、話に耳を傾けていたと思うが、今の僕は意外と他人と話せるもんなんだなあ、僕ってと自己採点をしていたことしか、自分のことしか印象に残っていなかった。
人は忘れる生き物だから、仕方ないのかもしれない。
図書室には僕と彼しかいなかったため、彼との会話は十五分、二十分ぐらい話していたと思う。
「あーごめんね。話しこんじゃって。じゃあここにクラスと名前とを書いてね」
それから本を借りるために必要事項を書いた。
「へー須方くんか、僕と同じクラスなんだね」
名前を書くころには僕と彼は知り合いではなくなっていた。まあ彼と話すことなんてもう一生ないだろうから、支障をきたすこともないだろうと思った。
僕は軽く会釈をしたあとで、天井を見上げ図書室を後にした。
今思えばまだ初期段階だったなと感じる。例えばある日、僕の番号が無くなった。多分このクラスにいた分の僕の記憶が皆の頭から無くなってしまったからだろうと思う。だけど、僕は椅子に座り、授業を聞いた。まあこうなる前からほとんど聞いていなかったから僕の態度はそこまで変わらなかった。
コンパスのひっかき傷や机の汚れは未だに残っているけれど、もう誰もその傷をつけた者の顔は知らないんだろう。
天夜との会話は高校一年生の時の話が多くなった。中学校からの知り合いはまだ僕を認知してくれているようだが、高校から知り合った人たちからは「あの人誰だっけ」という声がしばしば聞こえてくるようになった。
解決法なんてものはなかった。
ある日の帰り道、天夜がこんなことを聞いてきた。
「カイトってさ、よく冗談で『死にたい』ってことを口にするけどさ、死ぬことってそんなにいいことなの?」
天夜の口からは白い息が漏れ、辺りは薄暗くなっていた。
僕はその質問に敢えて明るく、死というものの素晴らしさをプレゼンしてやった。
「そりゃあいいもんでしょ。生きなくていいんだよ。勉強をする必要もないし、仕事をする必要もないし、人間関係を考える必要もない。世間体だって気にしなくていいし、お金に困ることだってない。お前がよく流している応援ソングだって、爆音で流せるし、人の目を気にせず歌える。イヤホン使えよって僕に言われることも無くなるんだ」
「そっか……」
僕のプレゼンを聞いた後、天夜はまた笑った。とても歪に笑った。僕はまた敢えて「何だよ」と聞いてみた。
天夜は、
「いや、そんないいならカイトが独り占めしないようにしないとと思ってね」
そう敢えて言った。
僕はそれ以上聞かなかった。きっと天夜の中で僕との記憶はここ一週間と小学校らへんのものしか残っていないだろう。
それでも僕は学校に行こうと思った。いつかまた普通になるだろうと願って。
そしてついにその日がやってきた。
僕はいつものように教室に入り、いつものように席についた。
親の顔を忘れたひっかき傷は自分の存在意義を探している。
その日、天夜はまだ来ていなかった。冬生まれにも関わらず、半袖の似合う彼は冬に弱く、朝に弱かった。
みんながバッグを片付け、雑談に時間を割いていた時、天夜は教室に入ってきた。彼は眠そうな顔で机にバッグを置くと、その奥二重のまま僕を見つけた。
天夜は僕の顔を見るなり、何かを思い出したかのように目を開け、軽い足取りで僕の席までやってきた。
「何かよう?」
僕がそう聞くと天夜は頭を搔きながら、またいつも通り、質問に噛み合わない答えを出した。
「いや、用っていうか、お前、誰?」
天夜の記憶にもう僕はいなかった。
「え、えーと……」
恐らくもうこの地球上で僕を覚えている人はいないだろう。僕は天夜との最後の言葉としてあの時の言葉を聞いてみることにした。
「あ、あのさ、夏にあったキャンプのこと、覚えてる?」
「ん? 何それ」
「いや、あいや、教室、間違えた」
不思議そうに見る天夜の横を僕は荷物も何も持たずに抜けていった。
天夜の中の須方海人は本当に消えてしまったのだと、彼が口にした二人称がそう確かに教えてくれた。
天夜に「お前」と呼ばれたのは初めてだった。もう誰からも呼ばれない「カイト」という名前は役目を終え、静かに眠りについた。
教室を出ていく時には既に僕の会話は聞こえてこなかった。いつも通りの朝、何の生産性もない話し声が冷えた教室を温めていた。クラスの中心である天夜は友達に笑いかけ、女子たちは雑誌を広げ、談笑を始めていた。読んでいるのは占いの雑誌らしく順位も終盤になっていた。
「最下位はルビー。今日あなたは死ぬでしょう(笑)」
第五章 酔生夢死
「本当について来なくていいの?」
母は不満そうにそういった。中学二年生だった僕は親と買い物にいくのが何故か恥ずかしかった。
僕は一人っ子だったから、親二人と僕一人という構図が羞恥心をさらに増加させていた。「一緒に行く」ではなく「ついてくる」という言い方も癪だった。
「いいから、二人で行ってきて」
「分かった。じゃあ五時には帰るから、留守番頼んだよ」
「はい、」
それから二人は帰ってこなかった。交通事故に遭い、あっけなく死んだ。
当てた向こうは飲酒運転をしていたらしく、事故の後も元気そうだった。親戚が引き取るという話もあったが、僕は断りこの家に住み続けた。親戚からの信用はあったようで、僕の要望はひと悶着あったものの受理された。幸い、相手からの莫大な賠償金があったから生活に不自由することはなかった。
意地なんてはらず僕も一緒にいけばよかったと今では後悔の念を抱いている。
一緒にいけば取り残されることなんてなかったのに。
生きることを続ける必要なんてなかったのに。
毛布と掛け布団に包まりながら、永遠と頭を回す。今が何月の何日なのかは皆目見当もつかない。
「須方海人」がこの世からいなくなったあの日から僕は学校に行っていない。
僕の症状はどんどんと悪化していき、スパンはさらに短く、量はさらに多くなっていった。僕との記憶は十五分ともたない。
ある日、ゲームセンターに行った。体験版のゲームソフトが並んでいた。下には「一ステージ遊んだら次の子に代わってあげてね」と書かれていた。全く興味のないそれを僕はやってみることにした。
一ステージを終え、二ステージを進み、三ステージに入った。後ろには製作会社が予想した対象年齢の子どもたちが待ち遠しそうに並んでいた。
並んでいく子どもをしり目に僕はゲームをやり続けた。
僕を咎める人は誰もいなかった。
僕との記憶は五分ともたない。
ある日、コンビニに入った。いらっしゃいませと言われ、おにぎりやお弁当のコーナーを巡った。飲料のコーナーを回り、再びお弁当の所へ戻った。僕はそこで一番大きいものを手に取って、レジの前を抜けていった。
ご飯を抱え、前を横切る僕を見た店員は慌てて僕の腕を掴んだ。
「ちょ、ちょっと君、まだそれレジ通してないよね?」
僕は商品を取り上げられ、ちょっと来てと手首をつかまれたままスタッフルームへ引っ張られた。椅子に座らされ、他にもとってないかボデイチェックをうけた。名前や学校名を聞かれたが、僕は何も答えられなかった。
何も答えないので病気かと疑われたぐらいに店員の態度が変わった。
「え、ちょっと君、何勝手に入ってきてんの! ここスタッフオンリーだよ」
店員はそういって僕を部屋から追い出した。
僕は商品を持ってコンビニを後にした。
僕との記憶は十秒ともたない。
ある日、街を歩いた。今日も北風が音をならし、耳許を通り過ぎていく。この街は歩く人が多い。
一緒に並んで歩く人もいれば、こちらへ向かってくる人もいる。僕は服のポケットから右手を出し、通り抜けていく男の顔を殴った。
殴られた男は驚きの表情を見せたあと、激しく怒り僕の胸ぐらをつかんできた。
周りの人も僕の奇行に不審な目を向けていた。
男は何してくれてんだ! という言葉を発したあと、僕の服を離し、そのまま何事もなかったかのように歩いて行った。
彼の頬は赤く腫れていた。
僕との記憶は一秒にも満たない。
ある日、僕は部屋にいた。電気はつけていなかった。窓から入る月明りがとてもきれいな夜だった。
僕は椅子に座り、床を眺めながら静かに涙を流した。涙は頬をつたい、顎から地面に落ちた。
地面は濡れなかった。こぼれていく涙は床に触れた瞬間に消えていった。僕は意味のない涙を流し続けた。
僕の姿は誰にも見えなくなった。
僕の声は、音は、誰にも聞こえなくなった。
僕の匂いは誰にも届かなくなった。
僕の存在はどこにも無くなってしまった。
見えた瞬間から、聞こえた瞬間からその記憶は消えていった。
見えていなくて、聞こえていない。僕の存在意義はなくなった。僕は幽霊と同じく死んでしまった。
毎朝願っていたことだった。羨ましがっていた世界だった。一人ぼっちだった僕が唯一縋れたことだった。
なのに、どうして嬉しくないんだろう。どうしてこんなに泣けてくるんだろう。全く分からなかった。
学校に行く必要もない。勉強する必要もない。仕事をする必要もない。人間関係も考えなくていい。世間体も気にしなくていい。服も髪型も見られない。お金に困ることもない。大きな声で歌っても怒られない。イヤホンで聞けなんて小言も言われなくて済む。
なのに、僕は悲しかった。退屈な日常を嫌って、繰り返しの毎日を恨んで、僕は生きていた。
非日常のことが起こると人の心は壊れるなんて聞くけれど、僕は全く普通だった。朝、親の死を思い出して、昼、友達の声を思い出して、夜、自分のことを考えた。
ショートなんて起こらなかった。ちゃんと悲しく、しっかり泣いた。
僕も忘れられたらどんなに楽だっただろうか。沢山の人がいるけれど、僕を見てる人は誰もいない。
朝起きて、夜眠り、朝起きて、夜眠り、朝起きて、夜に寝た。
何度寝かを終え、昼に目を覚ました。最近は買い出しに出る時以外、家から出ていない。買い出しといってもお金は払わない。好きなものを取り店から出ていくだけである。
暖かくなってきたので冬はもう終わったらしい。
他人からは死んだけれど、肉体も心も死んではいなかった。
これ以上自殺しようとは思わなかった。きっかけが分からないのだから、何かの拍子に戻るかも、なんて安っぽく淡い期待を抱いていたからかもしれない。
炊飯器の上に溜まったほこりを人差し指と親指で大事に掬い、ごみの上に乗せた。
今は何月、何日だろうか。僕は温度計を眺め、考えた。
第六章 起死回生
街を歩いた。やはり暖かくなっていたし、僕が手にした花からはいい匂いがした。
今日は墓参りをすることにした。墓石の前にある筒のようなものに水を汲み、持ってきた花をいれた。墓石にも水をかけ、手を合わせる。最近誰か別の人が来たのだろうか、墓の周辺には掃除された形跡があった。
ここに眠っている僕の両親はまだ誰かの記憶の中にいるんだ。僕とは違ってまだ想ってくれている人が僕の他にもいるんだと思った。
両親のことも天夜のことも一切合切忘れられたらこんなに苦しむことはなかっただろうし、親戚の家で過ごしていただろう。須方家の墓という文字を見ながら、もう一度水をかけた。
しばらく経って蝉が鳴くようになった。温度計は三十度近くを指すようになり、太陽は異常に喧しくなった。
最近は声を出していない。出す必要がないから当然の話ではある。一番最近で出したのはこの前の歌った時だと思う。街中で天夜が流していた応援歌を歌った。あいつが何度もかけるから意外と覚えていた。
僕が大声で歌っても――
今日ももう夕方になるのに誰とも話していない。
朝から日課になっている本屋へ行って、小説や他の本を読み漁った。太陽が沈んでいく様子を眺めながらこのまま一生こうなんだろうなあと思った。街を歩く。街を歩く。
ふと前を見ると、夕暮れに照り付けられた街の中に、天夜がいた。天夜を見たのは本当に久々だった。
天夜は頭を垂れ、俯きながら一人とぼとぼと歩いていた。あれだけ笑っていた顔は今や見る影もないほど、暗いものだった。きっと一人だと天夜はこんな風に笑わない人間なんだろう。
天夜は人の笑顔のために笑っていたのだ。そういうやつだった。髪は最後に見た時と同じぐらい短髪だったし、服も半袖だった。今日の空と同じ色のTシャツは高校生らしさはないものの、天夜にはよく似合っていると思った。
けれどいつも首にかけていたイヤホンは耳につけられていた。有線のコードは下に伸び、ズボンのポケットの中へと繋がっている。
そんな浮かない顔であの応援歌を聞いているのだろうか。僕はいつぶりかに天夜と肩を並べて歩いた。話しかけてもみたが、もちろん彼に僕の姿は映らない。僕の声は届かない。
僕は足を止めた。天夜は同じペースで進んでいく。止まった僕と天夜との差はあまりにも速く増していった。
ずっと隣にいてくれた彼にも、もう会えない。
僕は届かない声で小さくなっていく彼に最後の別れを告げようと届かない目で追った。
そこには天夜と異様なスピードでそこへ突っ込んでくるトラックの姿があった。
は? え、なんで……
トラックのスピードは変わらない。イヤホンをつけ、下を向いている天夜はこの状況に気づいていない。
全身に冷や汗をかく。バクバクと速くなっていく鼓動に任せて、僕は天夜の元へ走り出した。
「天夜ーー!!」
走りながら大声で叫ぶが、やはり聞こえていない。トラックはもう目前まで迫っているが僕は間一髪のところで天夜に追いついた。
僕はそのまま天夜を押しのけ、減速もしていないトラックに真正面から衝突した。
吹っ飛ばされている時に、押しのけられた天夜の姿が見えた。
彼は驚いた表情のまま、トラックに目をやっていた。
トラックは甲高いブレーキ音と共に急停止した。手足は変な方へ曲がり、体は動かない。右腕にいたっては関節が一つふえているようになっていた。地面に激突したまま自分の体から流れ出る血を見つめるのが精いっぱいだった。
肉体の死はもういいやと思っていたのに、きっと僕はもうすぐ死ぬんだろうなと思った。やっぱり死ってこうもあっけないんだな。
野次馬がゴロゴロと湧いてきたが、唯一の被害者である僕には誰も見向きもしなかった。
あーあ、こんな状態じゃなければ僕は友達を救ったヒーローとして新聞に載り、死後も慕われ、誰からも認知される人になってたかもしれないのにな。
力を振り絞って天夜を見る。彼は震え、顔は呆気に取られていた。片耳からはイヤホンが外れていた。
ぼくはいつか見た夢のような、幻のような時間を思い返していた。
……まあでもいいか。僕の死ぬところなんて天夜は一生見たくないって言ってたし。この能力のおかげで彼を悲しませずに済んだかもしれない。僕はポジティブにそう考えることにした。
ゆっくり目を閉じる。
僕はずっと死にたいと思っていた。両親を奪ったこの不条理な世界を憎み、僕を一人にした両親を恨み、同じ世界を歩みながら楽しそうに笑っている明るい天夜を妬んだ。
「当然のように」隣にいた天夜を、横目で見ながら死にたいと呟き、そうなりたいと思った。
鬱陶しく、喧しい太陽のようなお前に僕は嫉妬し、憧れていた。
そして、一人になって初めて僕は一人じゃなかったんだと気づいた。死んで初めて僕は死にたくないと気づいた。眩しいが嫌いで、自分の暗さを目立たせたくなくて、逃げたくて、逃げたくてやっと逃げることができたとき、本当は眩しいに近づきたかったんだと気づいた。とても勝手なクズの考えではあるけれど、僕はやっぱり――
「生きたい」
最後にそう呟いた。耳には何も聞こえなくなっていた。
消えゆく意識の中で今日、朝本屋で読んだ雑誌のことを思い出した。それはどうやら占いの雑誌らしかった。
「今日の一位はルビー。今日起きて最初に話しかけた人に願いをいうと叶う」
「ラッキーカラーは、オレンジ」
ミーン、ミーン――
蝉の声が次第に大きくなり、耐えられなくなった僕は目を覚ました。
目の前には暑さによって干からびたアスファルトが苦しそうに広がっていた。
「おっはよー。いやー今日も暑いなー」
聞き覚えのある声に引っ張られ顔を上げると、脳内で構成していた通りの笑顔がこちらを見ていた。
僕の体はいつかの夏の日に戻っていた。
「なんて顔してんだよ。カイトはまだ梅雨明けしてないみたいだなー。顔に雲ばっか作ってると夏に置いてかれちゃうぞ(笑)」
そう吐き捨てて、天夜は僕の前をスタスタと歩いていく。
トラックに轢かれ、死んだはずの僕は生きていた。
自分の手足を確認して僕は置いてかれないように、笑って天夜の後を追った。
何年ぶりかのようなその軽快な後ろ姿に目頭が熱くなった。
お前にもう一度会えたら、もう一度話ができたら伝えたかったことがあるんだ。
「なあ、天夜」
僕は袖で目をこすり、天夜を呼びかけた。
天夜は、ん? とこちらを振り返りニカっと笑って見せた。
笑いかける天夜に僕はあの日交わした約束を口にした。
「死後の世界ってのがどんなのかお前に教えてやるよ」