薄暗い黄昏時。
吹き抜ける風が砂を巻き上げ、乾いた音を立てて転がる空き缶が静寂な空気を破る。河川敷の誰からも忘れられたような使い捨てられた小さな工場には、色褪せたコンテナが無造作に積まれ、穴の空いた屋根から燃えるようなオレンジ色の光が差し込む。
(困ったな…………)
ラノは一人声に出さず周囲を見渡す。周りには自分よりも頭二つほど高い男たちが円陣を組んでおり、ラノはその中に居た。つまり包囲状態。一人の女子高生相手にずいぶんと容赦の無いことよ、と必死に冷静を保つために場違いな戯言が心の中で垂れる。気付かれないように視線だけ動かすと、男たちの右手首をそれぞれ確認する。無骨な手の根本には、事前に知らなければ分からないぐらい小さな紅い「M」の刺青が彫られており、それを認識した瞬間、ラノは『平穏に脱することを諦めた。』
(……まぁ分かってたことだけど……)
決して某ファストフード店のイニシャルでも、有名な某配管工の名前でもない。紅き文字が指すのは意味不明な殺しを繰り返す教団「Mort(モース)」。信じる神からのお告げと宣いながら、まるで殺しをすることが自分たちの使命だと言わんばかりに白昼堂々と他者の命を奪っており、その非人道的な行いと様子ははっきり言って反吐が出る。何か他にも理由があるのかもしれないが、そんな奴らのことなんて詳しく知りたくもないし、知らなくとも十分狂気であることは明白だ。
(ともかくMortの奴らなら、容赦しない……)
静かにラノは闘志と殺気を燃やす。これが普通の高校生なら今頃縮こまって泣き喚いていたかもしれないが、ラノは文字通り普通では無い。ラノがここまで猛る理由はただ一つ。
両親をMort(こいつら)に奪われたから、だ。
訳も無く両親を殺されたラノの涙は枯れている。次に涙を流すのは「Mort」を自分の手で壊滅させるという悲願を遂げたときだけ。その悲願こそがラノなりに考えたこの世に居ない両親への唯一の親孝行だ。天国に居る両親は血に塗れる復讐を望まないに違いないが、それでも内なる鬼を鎮めるには他に方法が無かった。
「随分と余裕そうじゃねぇか」
包囲の外からリーダーと思しき男がラノに絡んでくる。黒のサングラスをかけていて顔の大半が分からないが、推定年齢は二十代後半。中肉中背でどぎつい色の革ジャンを羽織っており、いかにもガラが悪そうだ。まあ実際こうして拉致られて恐喝されたのだから本当にヤバい奴なのは間違いないが。
「……私に何の用かしら。用があるなら早く済ませて貰える?」
心底「めんどくせぇ」といった声色で本心を包み隠さず言い放つ。すると包囲している内の見るからに頭の悪そうな一人が目の色を変え、ラノに掴み掛かろうとするが、リーダーのサングラス男がそれを制する。見た目の割に冷静な人物なのか、それともか弱い女子高生を男数人で相手していることへの余裕か。
革ジャン男は態度を崩すことなく円陣の外からラノに詰め寄る。
「てめぇ、俺様の部下をさんざん可愛がってくれたみてぇじゃねえか」
「……何のことかしら」
「とぼけんじゃねぇぞ。てめぇがこの間ボコして警察(サツ)に突き出しやがったアイツだ。忘れたなんて言わせぇぞ」
「あー……」
ラノは数日前、登校前にMortの一匹狼がコンビニで強盗していたので情報を吐かせるついでに締め上げたことを思い出した。……結局遅刻はするわ、その後の授業で眠くなるわでただの徒労に終わったが。
「そうね。そんな奴も居たわ」
淡々とそう言うとさすがのリーダー男も頭に来たのか、平然を装いながらも青筋を立ててご立腹している。完全にキレた周りの取り巻きを宥めつつ、怒りを孕んだ声色でラノを問い立てる。
「可愛い部下をてめぇみたいな女(アマ)にボコられて俺も心中穏やかじゃねぇ。どう落とし前つけてくれようか」
成程、差し詰め部下の尻拭いといったところか。面倒な奴を締めちまったなぁ、と思いながらラノは静かに臨戦体勢を取る。
しかし、復讐が目的なら問答無用で殴られてもおかしくは無いのに、わざわざ報復内容を提案してくる辺り相当な余裕があるのだろう。現に男たちはこれから起こるであろう未来なんて微塵も考えておらず、いつでも殺(ヤ)れるといった具合に煮えたぎっている。
はぁ、と嘆息するとラノは最大限ドスを切らしながら男どもを睨む。
「いいわ。どこでも気が済むまで殴ってもらって。だけど一つだけお願いされてくれないかしら」
「ふん、最期ぐらい聞いてやる」
腰を低くして言うと意外にも律儀に要件を呑んでくれる。ここまでされると完全に舐められていると分かってしまい、沸々と腹が立ってくるが。
「アンタたちの本拠地から総領の名前までMortに関する情報を全て話しなさい」
「…………チッ」
聞いた俺が馬鹿だった、とも取れる何かがブツンと切れた舌打ち。男の周りの空気が明らかに変わる。しかし、飽くまでも冷静さを保ちたいのか、煙草を咥え喉まで込み上げてきた鬱憤を飲み込むように吸うと、獣のような声と共に副流煙を吐き出す。
「足元見やがって……取引は解消だ。ンな機密情報、てめぇみたいな奴に言う訳ねぇだろうが」
「…………」
やっぱりだめか。いつもMortの連中を捕まえては痛めつけて情報を吐くよう促すのだが、うまくいった試しは無い。もう少し言い方を工夫すれば何とかなるかもしれないが、心理戦が苦手なラノには物理的な痛みと社会的立場を脅かす他方法が思いつかなかった。
「もういい、お望み通り好きなだけ痛ぇのを味わわせてやる。お前ら、殺(ヤ)っちまいな」
鶴の一声。サングラス男が言い放つと、取り巻きの男たちは溜め込んでいた感情を爆発させながら一斉に襲いかかってきた。絶体絶命。しかし、ラノは慌てることも逃げようともせずただ一言。襲われているとは思えない言葉を放った。
「……汚らしい」
集中という名の冷たい糸が全身を貫くと同時に感覚が冴え渡り、周りの時間がまるでスローモーションのように遅くなる。体の内側から迸る力が限界まで達したのを感じると、止めていた息を吐き出すように一気に解き放った。
その瞬間。ラノを中心に凄まじい空気の爆発が起こり、今にも殴りかかろうとしていた男衆がまとめて吹っ飛ばされる。
どおぉぉんっ……。
コンマ一秒遅れてやってきた爆発じみた轟音が廃工場に響き渡り、巻き上げられた空き缶たちが落下する。辺りを見渡せば、吹っ飛ばされた衝撃でコンテナや地面に全身を打ちつけた男たちが目を回して伸びており、立っているのはラノと離れていたリーダー格のサングラス男だけになっていた。
「さて、と……どうする? あんたの部下、全員寝ちゃったけど」
ラノが普通の女子高生では無い真の理由。それはサイコパワーなるものを有している「超能力者」だと言うことだ。読んで字の如く、常人を超えた能力を持つ者。個人によってその力量は異なれど、生まれつきこの能力を持っていたラノはMortへの復讐の為に我流で鍛えた結果、今のように自分よりも背の高く、重い人間をまとめて倒せるまでの強力なサイコパワーを持っていた。
爆心地から離れていたサングラス男は、革ジャンに付着した砂を払いながら防御姿勢を解いているところだった。倒れた部下たちを一瞥すると、首を鳴らしながらラノを見下ろし、ぎりぎりと歯を言わせる。
「派手にやってくれるじゃねぇか……だけど、てめぇなんざこの俺一人でも十分なんだよ……!」
まるでこの後瞬殺されそうな台詞を言うサングラス男。我を忘れて突っ込んできたところをもう一度サイコパワーで吹っ飛ばせば終わり。そう考えていたラノは、再び力を収束させるべく集中し始めた。
「降参するって言うなら許してあげるけど」
ま、降伏しても警察には突き出すが。
「調子に乗るなァ!」
男が咆哮した。空気が震え、体が持っていかれるような奇妙な感覚。大声量による比喩的表現では無い。遅まきにラノはサングラス男が今まで余裕のある態度を取れていた理由に気づくと、内心で毒づいた。
(なるほど……アンタも超能力者って訳ね……!)
男を中心に放たれた手を使わずとも物を動かす波「念動力波(サイコキネシス)」によってわずかに自由を奪われたラノは、攻撃用に溜めていたサイコパワーを防御として自身に纏い、相手の力と中和させる。自分の意思で地に降り立つと、気持ちを宥めるように深呼吸。油断は自分を陥れる。そう言い聞かせ、相手は普通の人間だと油断していた自分に叱責すると、気を引き締め直して本格的に戦闘モードに入る。
超能力者は都市伝説と謳われるほどそれに該当する人物は少ない。しかしながら同じ素質の者は出会いやすい呪いでもあるのか、ラノは何度かこういう対面を経験している。表裏一体とはよく言ったもので、与えられた力を正しく使う者が居れば、それとは反対にその力に溺れて悪事に手を染める者も居る。Mortにはそのような悪の超能力者が多く、対峙してしまった際は全神経を擦り減らすような攻防を強いられるので、こうなってしまうと情報の為に締める、というよりもいかに被害を抑えて事態を迅速に収束させられるかの戦いとなってしまう。
「超能力を持ってんのは何もお前だけじゃねぇ……持たねぇ部下共の分まで俺が殺(ヤ)ってやるからせいぜい腹括りな」
「ふん、望むところよ」
すっかり日の沈んだ夕闇に緊張の空気が張り詰める。両者とも呼吸を忘れるぐらい集中し、視線で射殺せそうなほど睨み合っている。沈黙に耐え切れなくなった空き缶が風に煽られて宙に舞った。組織の最高地位の名を冠する黒いコーヒー缶は、驚くほどゆっくりと焦らすかのように落下を開始し、やがて二人のちょうど間に落ちた。
くあぁん……。
その音が合図だったかのように、二人はほぼ同時に動いた。両者の念動力波(サイコキネシス)が衝突、相殺し合い、ぶつかった境界線にあったコーヒー缶は悲鳴を上げて何処かへ吹っ飛ぶ。目には見えないサイコパワーの応酬によって空気が暴れ、嵐のような風圧がラノの一つに結えた長い髪を激しくたなびかせる。
廃工場で起こった局地的な乱気流は始まったときと同じく突然収まった。再び無言の睨み合いが始まるかと思いきや、ラノが地を蹴り、男に向けて駆け出した。
「早まったかァ!」
男は動かずにその場で三度念動力波(サイコキネシス)を発動させる。しかし今度の狙いはラノでは無く、二人の両側に積まれたコンテナ。その内の最も小さいのが男のサイコパワーによって宙を浮き、少女の方目掛けて飛んでいく。中身があるか定かでは無いが、まともに当たれば無事では済まない。しかし、ラノは勢いを止めること無く、ギリギリまで引き寄せると、地面とコンテナの僅かな間にスライディング。自分の真上を凶弾と化した貨物入れが通過し、壁に当たって破砕音を轟かせる。
コンテナのような重い物を動かすほどのサイコパワーを使うと、少しの間は超能力が使えない。その間に勝負を決めるべく、大きく前へと跳んで一気に距離を詰める。刹那の飛行の間で、ラノは自分の”右脚”にサイコパワーを集中させると、男に肉薄したと同時にその脚を勢い良く突き出した。
「ぐおおおっ!?」
強烈な飛び蹴りを食らった男はくぐもった悲鳴を上げた。物の流動に作用するサイコパワー。それを纏った体術は純粋に攻撃力を高めるだけで無く、炸裂すると本来の性質を発揮し、更なる追撃を叩き込む。
「――飛んで」
どっ…………!
サイコパワーの奔流がラノの蹴り脚から放たれ、それに触れていた男は声を上げる間もなく吹っ飛ばされる。まるでボールがゴールに向かって飛んでいくかのように後方へ一直線。人球はコンテナに激突すると、轟音と砂煙に包まれる。
「はぁ……はぁ……」
酷使した心臓と肺が抗議の声を上げ、膝に手をつき、肩で息をする。ラノの中でも決め手クラスに匹敵する威力を誇る反面、相応に消耗も大きい。それでも早期決着が着くなら安いものだ。とっとと帰って然るべき休息をとろう。そう思って踵を返そうとしたその時だった。
「……っつあ……いってぇ……」
「え………………」
まだ、終わっていない。ラノは消えかけた集中力をかき集めると、埃でぼやけた声の方を睨む。どうやら想定よりも男は固く、まだ勝負を決めさせてくれないようだった。
激突したコンテナを凹ませながらも、男は後頭部をさすりながらむくりと半身を起こす。必殺の一撃を喰らったのに、恐ろしいタフさだ。ラノが必死に次の一手を考える中、男は立ち上がりながら悠々としゃべり出す。
「受け身遅れてたらマジ危なかったな……ああ痛ぇ……」
そう言いながらも、どこか声色は良い。むしろ攻撃される前よりも心なしか明るい気がしてラノは無意識に後ずさる。
(何、こいつ……なんでこんなにご機嫌なの……?)
じり、と困惑するラノ。そしてそれ見下ろすサングラス男。革ジャンは汚れて破け、髪もぼさぼさだが、放つ殺気は変わっていない。
「さっきの一撃、凄ぇ効くじゃねぇか…人をボールのように蹴り飛ばしやがって……だけどよ、一つ礼を言わなきゃなんねぇな」
「……どういうこと」
質問の意図がくみ取れず、ラノは聞き返す。男は楽しそうに笑うと、足元にあったプラスチック製の籠を蹴り倒し、中身をばら撒く。
「!?」
じゃらじゃらと金属音を立ててでてきたのは、錆びついた長い釘。それを見て、この後何が繰り広げられるかを想像するのは容易だった。
「てめぇにぶっ飛ばされたときにいいもの見つけちまった。ここを使ってた連中の忘れモンだろうな……」
すっ、と多量の釘の内数本が男の念動力波(サイコキネシス)によって宙に浮く。長年ここに放置されて付着した赤錆が、今は血のようにも見え、ラノの鼓動は早鐘のように加速する。
「ずいぶんと錆ついてるが……てめぇを殺(ヤ)るのには十分だ……!」
血色の長釘が勢い良く飛んでくる。その数なんと十。
「うわあっ!!」
ラノは慌てて転がって避ける。間一髪、全弾回避することに成功したが、予想外の攻撃に無駄な体力を消費してしまった。
「あんだけ強ぇ攻撃だったんだ。相当な力と体力を使ったんじゃねぇか? 息が上がってるぜ」
「うる、さい、わね……!」
口では反論しているが、実際は男の言葉通りだ。一気に勝負を決めに行ったのが仇となり、ラノの気力体力は残り少ない。さっきの投擲攻撃も、本調子なら自分も念動力波(サイコキネシス)を使って軌道を逸らすのだが、サイコパワーを放出し過ぎたせいで今はガス欠状態。しばらくは回避に徹するしかなかった。
「くくく……余裕が無くなってきたな……焦りは人を殺めるぜ、せいぜい気をつけなすって」
じゃらっ……ビュビュビュン!!
長釘が男の見えない手(サイコパワー)によって持ち上げられ、ラノを串刺しにすべく、飛んでくる。必死に弾道を予測して避けていくが、次第に男もコツを掴んだのか、飛来してくる速度が加速していく。要領を心得た男の表情にも疲れは見られない。このままだと、ラノの体力が尽きた瞬間、殺(ヤ)られる。
(絶対、隙はできる……)
ラノは懸命に自分を鼓舞する。いくら効率の良い攻撃ができるようになったとはいえ、男の気力も釘の数も有限だ。いつかは攻撃の手が止まる。だが、釘の嵐は止まることは無く、軌道もどんどん不規則を極めており、半ば勘に頼って避けているのにも等しかった。
ビュビュン!
顔目掛けて飛んでくる釘。それを避けるためにしゃがむと、さっきまで顔があった位置を鋭い鉄針が通過する。
「掛かったァ!」
「!?」
ラノは低空で飛んでくる釘を見た。一直線では無く、緩く弧を描く奇妙な軌道。男の念動力波(サイコキネシス)によってあらゆる法則を無視した長釘は、先刻の攻撃を囮にして飛んできており、ラノに向かって唸りを上げた。
「くぅっ!!」
ラノはわずかに回復した体力を使って念動力波(サイコキネシス)を発動。当たるギリギリで弾き飛ばすに成功するが、今ので疲労が一気に蓄積したのを感じる。ラノの避ける動きも、判断も鈍ってくる。
「喰らいな!!」
ビュオンッ!!
鋭い切先が空を切り、耳障りな音を立てて飛来してくる。ラノは何度目とも知れぬ回避行動を取ろうとした。しかし、思っていた以上の疲労が溜まっていたからか、脚がラノの意思を裏切り、もつれた。
「なん、でっ……!」
抗議の声を漏らしている間も釘とラノの距離はどんどん短くなる。もはや回避不可。少女は持っていた学生鞄を盾にし、その後ろになるべく身を隠す。
スドドドッ……!
数本はラノの真横真上を掠め、数本は学校指定の丈夫な鞄に突き刺さった。しかし、とうとう数ある内の一本の釘がラノを襲った。
グサッ!!
「づッ……!!」
盾からはみ出ていた左脚に釘は命中し、黒いタイツに血色のシミが作られる。焼き切れるような熱さと、凍傷になりそうなほどの冷たさ両方を含んだような激痛。ラノは立つことができなくなり、その場に倒れる。積もりに積もった疲労と明確な負傷(ダメージ)によって、ラノはとうとう動くことができなくなった。脚を抱えて悶える少女に男の念動力波(サイコキネシス)が降りかかる。
「ぐっ……ああっ……!」
ギリギリとサイコパワーの縄がラノの体を押しつぶすかのように締め上げる。男は念動力で低空に浮かんだ満身創痍の女子高生に悠々と近づき、今までの鬱憤を晴らすかのように話しかける。
「さっきまでの減らず口はどうしたァ? なァ?」
ラノは全身に走る痛みと男の念動力波(サイコキネシス)でまともに喋ることができない。自分の超能力を使えるほどの体力の残っていないラノは、呪縛から逃げることができず、呻き声と絶え絶えの呼吸を繰り返した。その無様とも取れる様子に男は快感を憶えたのか、自分の煙草を手に取ると、ラノの学生服から覗く細い鎖骨の辺りに着火した部位を押し付ける。
「ぎゃあっ!! あ、熱いッ!?」
地肌を焼かれ、白い肌に赤い火傷痕が作られる。男は使い物にならなくなった煙草を捨てると、急に表情を一変させ、今度は苛立ちの感情を浮かべた。
「こんな奴にアイツらはやられて、俺は足蹴にされたのか……」
感情の急転直下。喜怒の落差が激しい奴である。男は満身創痍のラノを見て満足すること無く、自分たちのプライドが一瞬でも傷つけられたことに対する屈辱を感じると、力任せに(といっても念動力波(サイコキネシス)だが)少女を吹き飛ばした。自分がラノにされたことと同じように。
がしゃあああん!!
長年の放置で鍵の壊れていたコンテナは、人球の衝突に耐えられず、中への侵入を許した。そんな爆音も今の男には何も感じないらしく、自分の周りに散乱している鈍色の長釘を従えると、自分で飛ばしたラノを追って、もうもうと立ち込める埃まみれのコンテナに入った。
「げほっ、ごほっ……おえっ……」
痛い。それはもう、尋常じゃないぐらい。コンテナの開封部に衝突する前にサイコパワーを放出して最悪の事態は免れたとはいえ、被害は大きかった。全身の激しい打撲、左脚の出血及び刺し傷、極度の倦怠感。気を失えばこの苦しみから解放されるかもしれないが、全身を蝕む痛みが意識を手放すことを阻む。形勢逆転を許してしまい、完膚無きまでに反撃されてしまったラノは、男衆に取り囲まれていたときの強気な態度は鳴りを潜め、絶望のあまり今まで抑え込んでいた負の感情が流れ出した。
(私、このまま死ぬのかな……Mortのあいつに……何もできずに殺されるかな……)
心で復讐を誓ったはずなのに、頭の中で反響するのは弱気な言葉ばかり。肉体だけでなく、心にも傷を負っていた。がしゃん、と音を立てて男がとどめを刺すためにラノが横たわるコンテナに入ってくる。もはや死ぬのも時間の問題。早く逃げないと、本当に命は無い。だけど、息が止まりそうなほどの激痛が体の自由を奪い、倒れた姿勢から動くことができない。
(もう、無理だよ……)
ラノは全てを諦めて目を閉じる。見つかるその瞬間まで息を潜め、命が刈り取られるのを待とうとしたときだった。
いくつかの光が脳裏に瞬いた。走馬灯と化した過去の光景が瞼に映される。そこに居たのは小学生の頃の自分と、同じ歳の男子学生。今とは違って内気で行動力の無かったラノ。中学生になるのを期に離れてしまった彼の信念を見習い、彼のような前向きさと行動力を会得して変わったはずなのだが、心と体を打ち砕かれた拍子に驚くほどあっさりと数年前の自分に戻ってしまっていた。
(ねえ……どうするのが正しかったの……)
藁にも縋る気持ちで、思い出が描き出す彼の虚像に問う。返事は無い。当たり前だ。ラノは自嘲的な笑みを浮かべると、幻覚すらもかき消すべく、心を閉ざした。目尻に溜まっていた涙が一筋、薄汚れた白い頬を伝う。
(もう一度だけ、会いたかったな……)
――諦めるには少しだけ早いと思うぜ
!?
…………!?
………………!
………………。
…………………………。
(……偉そうなこと、言ってくれるじゃない…………)
我ながらなんと都合の良い幻聴だろうか。何となく彼が言いそうな台詞ではあるが、わざわざ彼の声を使ってまで己を励まそうとする自分に、嘲笑を通り越してもはや恐怖すら憶える。
………それでも。
ラノの戦う意志に再び火が灯った。冷え切った体に、温かい血が音を立てて流れ、石のように重かった全身が軽くなる。今はここに居ない、離れてしまったラノの親友……いや、「想い人」の言葉が勇気を与えてくれた。
ラノは目を開く。目の前には何かが転がっていた。使えるかどうかも考えず、直勘に任せてそれを掴むと、痛みを考えること無く足に刺さった釘を抜く。体力が底尽いているのにも関わらず、サイコパワーだけがラノの意志に従い、負傷した脚の代わりを買って出る。
生まれたての子鹿のような滑稽な立ち上がり。しかし、ラノの瞳には活力が宿り、殺(ヤ)る気に満ちていた。
(ありがと、…………)
ボロボロになっても、死にそうなくらい痛くて苦しくても。やっぱりこの世からは消えたくなかった。
彼にもう一度会うまでは。
「チッ…しつけぇぞ……! いい加減くたばれよ……!!」
「お生憎ね、鬱陶しいぐらいしつこいのが今の私なのよ」
男が鬼の形相を浮かべ、周りの空気が目に見えて変わる。
猛って、畝って、憤って。外傷的に余裕が無いのはラノだが、真に余裕が無いのはもはや一目瞭然だった。
「とっとと逝きやがれ……!」
男は持っていた釘を全て投げつけてくる。ラノは避けない。代わりに超能力で補った機動力を持って、前方に突進した。高揚、しかし冷静な頭で鉄弾の無い空間を予測し、他の人よりも小さく、細身な自分の体を置く。被弾しそうな物はサイコパワーで弾く。だが、それも心臓や顔面に飛んでくる致命打のみで、あとは手をつけること無く『被弾』を甘んじる。
グサッ、グサッ……!! ザクッ!!
「……ッ! ……ッ!!」
右肩と胴に一本ずつ食い込み、二の腕を釘が掠める。冬場の制服で良かった。もし露出の多い夏服だったら耐えられそうも無かった。
ラノは電流のような激痛を無理矢理意識から排除し、勢いを落とすこと無く男に接近する。
「こ、こいつッ……! 無茶苦茶かよ……っ!!」
ラノは答えない。その為に思考を働かせれば、たちまち痛みに屈してしまうからだ。男の呻きには憤りも、余裕も感じ取れない。あるのは「焦燥」だけだった。
釘も使い切り、ここまで連続して念動力波(サイコキネシス)を使用していた男は遂に息切れを起こし、目の前に迫ったラノを凝視することしかできなかった。
「やあぁっ!!」
自身に念動力波(サイコキネシス)。超低空でラノは無事な右脚を伸ばし、宙返り蹴り(サマーソルトキック)を放つ。全てはこの攻撃の為。決して多くの無い気力体力を攻めに集中させる為には、被弾も妥協せざるをえなかったのだ。半月状の弧を描く曲線美の帯びた脚は、ゴッ、という鈍い音と共に足の甲が無精髭の生えた顎にクリーンヒット。蹴り上げられ、天を仰ぐ姿勢となった男の顔からサングラスが外れ、男の素顔が現れる。
ラノは呼吸を置かず、痛みに悲鳴を上げる背筋と腹筋を無理矢理に働かせて体勢を戻すと、浅く積もった砂と空気中に漂う埃をサイコパワーで収集。手のひらに収まる程度の量が集まると、狙いを定め、念動力波(サイコキネシス)で男の露わになった目に発射する。
「ぐわあぁぁッ!?」
目潰しを喰らった男は絶叫する。攻撃を貰っても根性で踏ん張ったが、視界を奪われた以上、狙いもバランスも定まらない。ラノは止まること無く思考を加速させる。付き纏ってくる痛みや苦しみを置いていく勢いで。少女は持っていた何か――戦闘開始を告げて無慈悲に吹き飛ばされた黒いコーヒー缶をサイコパワーを使って男のふらつく足元に投げ入れる。
目を覆って呻き声を上げている男は転がってきた缶に気づかず、盛大に空き缶を踏んだ拍子に足首を捻り、後方へ勢い良く倒れた。
「だあぁッ!!」
後頭部を強打した男は全身を弛緩させ、大の字に伸びる。それでも凄まじい執念で立ち上がろうとするが、その体は勝手に、男の意思とは関係無く地面と垂直に起立する。
「アンタも、大概、しつこい、わ……」
残り体力は二割。その一割を使って男を持ち上げたラノは、耐え切れなくなった痛みに飲まれそうになりながらも、力を振り絞って男を上へ投げ飛ばす。声も上げられずほんの数メートルを上昇し、落下してくる男を待つ間に、最後のサイコパワーを放出。残りの一割を全身の力と一緒に右脚に纏うと、小さく跳躍。男の視線とラノの視線が初めて交錯する。男のその目は怒りと悔しさ、その他様々な負の感情を秘めた暗い瞳だった。
「――寝ながら後悔しやがれ(オ・ルボワール)」
この日一番の衝撃が空気を震わせる。男も今日聞いた中で一番耳障りな悲鳴を上げ、猛烈なストレートキックとサイコパワーの大奔流を喰らって吹っ飛ぶ。せめてもの情けでラノが配慮した段ボールの山に。
轟音、絶叫、強風。その全てが止むと、廃工場内には何事も無かったかのような静寂が訪れた。
何も聞こえない。
何も、動かない。
* * *
「はぁ……はぁ……っつ……」
ラノは、紅い体液を流し続ける左脚を引きずり、右肩を押さえ、腹部を庇うように背を丸めながら、必死に足を動かす。壁に身を委ね、亀よりも遅いその移動はとても歩行とは言えず、もはや這っているのにも等しかった。
(いたい……くるしい……あつい………)
地球の重力ってこんなに強かっただろうか。体がいつもより数倍重い。内側から熱が込み上げ、真夏のような暑さを感じているのに、這い寄る冷気が体を激しく震わせ、冷や汗が止まらない。今までも傷を負って帰ることはあったが、ここまでの重傷は初めてだ。ラノは全神経と多大な時間を使って一歩を踏み出す。
ラノに復讐してきた男どもは、廃工場を去る前に警察に通報したので当分は刑務所で過ごすことになるだろう。Mortの人物を監視の行き届いた牢獄にぶち込めたのは嬉しいが、肝心の奴らに関する情報の収穫はゼロ。今回も骨折り損で終わってしまった。
(つかれた……ねむい……しんどい……)
踏み出す足はどんどん遅くなり、視界の端に白い光が瞬く。ごうごうと耳鳴りも聞こえ始め、いよいよ本格的に危なくなってきた。家まではまだ遠い。
「うっ…………!」
とうとう疲労と痛みに耐え切れなくなった体がラノの言うことを拒み、まともに受け身も取れず転んでしまう。
立ち上がることができない。息が苦しい。
月明かりが控えめに照らす路地裏。こんな所に、こんな時間に誰も来ないとは思うが、それでも人目には触れたくない。手足に命令して再び歩くよう指示するが、満身創痍の体からの応答は無い。
(はは……体、動かないや…………)
指一本すら動かせず、今のラノには目を開けているだけで精一杯。文字通りぼろ雑巾のように成り果て、起きているのか気絶しているかも分からない混濁とした意識の中、薄れつつある聴覚が音を拾った。
「……!?……ラノ!?…………ラノ!?」
自分が自分への放った労いだろうか。それすらもが彼の声で再生されて辟易するが、それでも心なしか落ち着く気がする。遠のく意識を留めておくのすら限界だ。
「……ラノ!!…………」
ずいぶんとしつこい幻聴である。思ってた以上に自分は夢見がちな性格なようだ。だけど、そんなのはもういいから寝かせて欲しい。今は何も考えられそうに無い。
「おい……ラノ!!」
「……!?」
ぐわん、と体が持ち上がる。いや、『持ち上げられた』と言うべきか。いつの間にか仰向けにされ、半身を起こされていた。腹部の傷がびりびりと痛むが、ラノの意識には届かなかった。
夢を見ているのだろうか。彼が目の前に居て、自分を抱え起こしているなんて、ありえない。彼はここには居ないはずなのに。
その存在を確かめたくて。ラノは震える重い手を伸ばす。すぐそこにあるのに、途方もなく遠い。
お願い、届いて。
伸ばした手は彼の顔に届かなかった。|『彼がその手を掴んだから』だ。
「ラノ、俺だ。分かるか? 何でこんな傷だらけなん――――――」
温もりがラノの冷えた体を包む。ずっと空いていた心の穴が埋まる。何がこんなにも嬉しいのだろうか。枯れていたはずの涙が自分でも驚くぐらい溢れ、止まらない。
どうして彼がここに居るのか甚だ疑問だったが、ラノは再会できた喜びをなんとかして伝えようと、消え入るようなか細い声で懸命に言葉を紡いだ。
「ずっと……会いたかった……」
意識が黒く染まる。どこまでも落ちて、どこまでも上がってゆく。体を蝕むような疲労により、気を失ったラノは、糸の切れた人形のように彼の腕の中で動かなくなった。
しかし、その顔は復讐に燃える少女とは思えないぐらい静かで穏やかであった。
――――運命の歯車が動き始める。