悪魔

白夢 翔

 

 「だめだ、もうどうしようもない」

 

 男は部屋の中で誰かが居るわけでもないが声を出した。

 彼は一人暮らしであり、両親は既に亡くなっている。さらに、現在職には就いていなかった。そのため 所持金はほとんどなく、アパートの家賃と水道光熱費を滞納していたが、働く気は起きなかった。

 

「このままでは追い出されるな。かといって働くのは気が乗らんが、野垂れ死にはもっと嫌だ」

 

 昔は貿易会社の社長を務めていたが、不景気により倒産してしまった。かつての地位が忘れられず、普通・底辺の仕事を嫌がり続けた結果がこの有様である。

 

「だいたい、俺のような人間が発生しないようにするのが政府の役目ではないのか。職安の人間も俺を見るたびに嫌そうな顔をしやがる」

 

 追い詰められると、あらぬ方向に怒りをぶつけるのもいつもの癖であった。そもそも職安に行って男がすることは、職員の提案する働き口に対し、滅茶苦茶な文句を言い最終的には突っぱねることの繰り返しである。職員の顔に影を差しているのは自分であると彼は気づいていない。

 

「全くなんて世の中だ。ろくな酒も飲めやしない」

 

 安い酒を流し込み、テレビを見る。テレビは少し昔の怪奇映画を映していた。

 

「悪魔だと? そんな都合のいいものがいたら俺も頼りたいさ……」

 

 劇中では主人公が現れた悪魔に誘いを持ちかけられている。思わず笑顔になるも、願いの代償は魂と告げられた彼は、一転、主人公とは思えぬほど情けない顔になり、それは男の機嫌をより損ねることとなった。

 

「そんな便利な相手、俺なら大歓迎だね」

 

 現実味など欠片もない言葉だったが、今の男にはそれくらいしかできることがなかったのである。

 

「いや、待て。悪魔か。この八方塞がりの状況、悪魔にでも頼るしかない。魂くらいがなんだ、今より悪いことが他にあるものか。それに、俺にはもっと上手く扱える自信がある」

 

 翌日の二日酔いで痛む頭を抑えつつ、男は悪魔を呼び出すことを決め、方法を探すことに熱中した。悲しいかな時間だけは有り余っているのだ。金が無いため図書館に通い詰め、世界各地の伝承から中世に流行した錬金術、果ては昔の新聞やオカルト雑誌の記事まで余すところなく調べ上げた。 

 膨大な量だが、苦ではなかった。調べ、考えていく中でかつての情熱と頭脳が蘇って来たからである。

 

「こんな可能性に満ち溢れた取引相手は昔にも居なかった。何としてでも呼び出してみせるさ」

 

 現役時代を思い出しながら男はその頭脳、機転を利かし、見事に呼び出す手段を見つけ出した。

 方法を見つけ出した後はスムーズに進んだ。部屋に残っている中で使用できる物は少なかったが、質に出せる物は全て出し、なけなしの金をかき集め、なんとか道具を揃えることに成功した。

 男の心は舞い上がっていたが、頭は極めて冷静だった。

 

「ここからが肝心だ、万が一失敗すれば全ては水の泡。何としてでも成功させなくてはならない」

 

 入念な準備のもとそれは行われた。男は自身が調べ上げた方法通りの時刻に、自室の床に五芒星を描き、記された品を並べ、解読した文句を読み上げた。

 しばらくするとそれは出現した。映画や小説であるような妖しい光や煙といったものは欠片もなく、染み出るように五芒星の上に現れたのだ。

 

「む、成功か。思った以上に淡白な登場だな……」

 

 拍子抜けしたが、男にとっては待ち望んだ最高の取引相手であることに間違いはない。

 それは、黒のスーツを着込み、身長は男より少し低い程で、男性にも女性にも見えたし、若いようにも老け込んでいるようにも見えた。

 

「言葉が通じるかわからんが聞くぞ。お前が俗に言う悪魔というやつか?」

「はい。貴方達がおっしゃるところの悪魔でございます」

 

 声色も、しっかりと通るが、高低がよくわからない奇妙な余韻を耳に残した。

 

「本物のようだな。待ち望んでいたぞ。聞くが、願いを三つ叶えると言うのは本当なのだな」

 

 男の中には既に定めた三つの願いがあった。何度も言うが、頭は悪くないのだ。資料を漁る中で考え抜き、悪魔に揚げ足をとらせない完璧な願いだと自負している。

 

「もちろんもちろん。叶えて差し上げましょう。ご存知かと思いますが、今後思ったこと全てが叶うようにしろ、というような無限になってしまう願いは不可能でございます。そして、魂を死後には頂きますが、よろしいですか?」

 

 そう言って、悪魔は伺うような目を向けた。

 

「わかっているとも。もちろん、タダで取引できるとも思っていない。覚悟は済んでいるから、安心してくれ。では言うぞ、一つ目の願いはだな……」

 

 男が少し弾んだ声で言おうとした時、思わぬ制止が入った。

 

「お待ちください。実のところ近年は我々のような存在を呼び出すような者だけでなく、信じる者まで大きく減ってしまいまして。その中であなた様は違う。独力で呼び出しただけでなく、その様子から察するに願いも既に決めていた模様。その姿勢に感激いたしました、私の権限を最大限に活用し五つ、願いを叶えて差しあげましょう」

「なんだと、本当か。まさか悪魔からセールスマンのような事を言われるとは思わなかった。ううむ、ならばだな……」

 

 

 

 いつかの悪魔の声がした。

 

「いかかでしょうか、お決まりになりましたか」

「ああ、君には悪いのだがまだ決まらなくてな……」

 

 男はシンプルながらも気品を感じさせる高価な椅子に座りながら困り顔で答えた。彼は今、椅子にふさわしい高級なスーツを纏い、書類とにらみ合っている最中だった。

 

「いえいえ、我々にとって時間は無限にあります。お決まりになった瞬間、すぐにおっしゃって頂ければ良いのです」

 

 男の側にはあの悪魔が立っていた。

 

「まさかここまでしつこいとは」

 

 内心、男は吐き捨てる。

 あの日、予定通り三つの願いを叶えてもらい、かつての地位と富を取り戻すことには成功した。     

 しかし、その後が問題だった。残り二つの願いも必須であり、それを言うまで一人になると必ず悪魔が出現するようになったのだ。自宅や社長室、マンションの廊下に居るとき、トイレ、風呂、車を運転している時さえも。

 

「俺の前に現れるな」を願いにしてやろうとも考えたが、悪魔の方が巧かった。一言、二言の返事をすればすぐに消えてくれるため、男にとっては我慢ができる範囲である。また、このようなくだらない願いは魂が代償である以上、まず頼もうとは思えず、かといって当初の願いは叶えられた今、特別強い願望も浮かんでこない。

 

「すまないがそろそろ会議なのだ。しばらく」

「承知しました、それでは本日はこれにて。また明日にでも」

 

 そう言って、悪魔は姿を消した。

 男が会議室に向かうべく部屋を出ると、秘書が頼んだ資料を片手に待っていた。

 

「待たせて悪かったね。資料ありがとう。では、行こうか」

 

 道中、秘書が尋ねてきた。

 

「社長、申し訳ございません。先ほど待っている時、誰かとお話をなさっているのが聞こえまして。もし、新規の取引先様でしたら、私にも教えてくださるとありがたいのですが」

 

 男は複雑な顔をしながら答える。

 

「そんないいものじゃないさ。今一番望んでいない取引相手だよ」