私は、絵筆を持ちながら祖国とは違った空を見上げていた。1940年6月22日、私の祖国ドイツは、フランスとの戦いを経て、休戦協定を結び、ようやく勝利を手にしていた。そして、シャンゼリゼ通りのエワール凱旋門にハーケンクロイツが掲げられドイツ兵が凱旋した。そう、その日からフランス国旗の掲揚はできなくなったのだ。私の父も、陸軍の将校として、パリに入り家族で住むことになっていた。それは、とっても大きな家で、軍人も多く行き来した。父の仕事場はそのまま軍の指揮がとれる場所なのだ。それを、語る父はとっても嬉しそうで、ドイツに仕えることがすべてのようであった。
しかし、私はドイツの勝利などには全く興味がなかった。
私が愛してやまないものは絵を描くことだ。パリに来たのだから芸術の勉強がしたかった。ただそれだけだった。父はこんなご時世にと怒って、士官学校へ入学しろと迫ってきた。自分から、芸術をとってしまえば何にも成らないのに、銃を持って走り回ることは不可能であるといったのに、聞く耳を持ってはくれなかった。あと、数日もすれば、父とともにドイツに帰って士官学校に入学することが勝手に決まっていた。これから、こんな風に芸術を志す若者は戦場に参加し。そんなことを空想してなくてはいけないだろうか、さっき反抗したときに怒りとともに燃やされてしまった画材道具を眺めた。思い出深い画材カバンをもって、次の日、私は街を歩きながら、ドイツ人に向かって嫌な顔をして向けられる視線を見ていた。この中には、私と同じように芸術を志している人がいるのかもしれない。しかし、我がドイツに踏みつぶされているのだ。そんな風に考えながら歩いていると、前から若い東洋人が来るのを見つけた。彼は、私に近づいてきていった。
「あなたはドイツ人ですか? こんなご時世ですからパリをひとりで街を歩くものではないですよ。見たところ軍人さんではありませんよね」
私は、話しかけられたことに驚いた。しかも、彼が話しているのは、流暢なドイツ語ではないか。
「忠告どうもありがとう。私の名前は、ドレイクといいます。よくわかりましたね。君は一体何者だい?」
私を憎き軍人と見なかった東洋人は、こう答えた。
「僕の名前は、浜野一。日本人です。芸術を勉強しようとパリに来ていたんだけど、フランスの凱旋門近くの街に今は店を構えています。浜野コレクションという店におじさんとおばさんがいて高齢で仕事ができないっていうんで代わりに数年前から経営を任されているんです。だから、画材カバンの特徴は把握できているんです。ドレイクも絵をかくのかい?」
なんという偶然だろうか。やはり、芸術の都パリというだけある。彼もわざわざ遠い日本から芸術にひかれてやってきたのであろう。奇妙な出会いではあるが、初めて会ったという感じがしない親しみやすさからか彼に軍に入らないようにするためのを相談してみようと思った。
「すまない。会ってすぐで悪いのだが、芸術を志しあう同志であることもあって私の悩みを聞いてほしいのだ」
彼は頷いて、私は今までのことを話し始めた。このままでは、絵が描けなくなってしまうこと、この道を志すきっかけは、エドゥアール・モネやジャン・フランソワ・ミレーであったこと。その話に、彼はうれしそうに「私もだ」と笑った。そして、話し終わると、それまで真剣に聞いていた彼がこう切り出した。
「君は、それでいいのかい? 私は抗議をするべきだと思う。そうだ! 君の士官学校の健康診断書を書き換えるのはどうであろう」
彼は、そう声を潜めて私にささやいた。私の家は、家自体が軍のものなので、書斎には重要書類とともに自分の健康診断もしまっているのだ。しかし、父に見つかってしまえばそれだけで終わりだ。一生絵をかけなくなってしまうかもしれない。
「それは、難しい。しかし、君が言う通りそれしかないのかもしれない」
そうだ、今は祖国ドイツは自分にとって敵なのだ。そう心に誓った。悠長なことは言ってはいられない。時間はないのだ。ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』で自由な死について書かれていたように、私が信じたもののために死にたいと思えた。
彼は、地図を読むことにたけていた。見たものはすぐ頭に入るらしい。軍施設の病院と居住区の正確な地図を私が一度説明しただけで理解できていた。決行は、今夜ということになった。
話が終わったとたんに、後ろから小声で話している私たちを怪しんだ兵士が近づいてきた。私たちは逃げるように解散することになった。
家に帰って、夜の食事をしているとき、また、父と口論になった。
「お前の兄は、立派に軍人として活躍しているのになぜなのだ。名誉ある軍人になりたくはないのか」
と、士官学校の入学手続きの紙を再び出してきた。数日前、検査した時の、数値が書かれている。父は、息子は確実に合格すると信じていたので数値を見ていなかったのだ。
今夜、病院に忍び込んで、自分の数値を書き換えて、家にある金庫から診断書と同じものにするのだ。
家を出ると、門の前には一が立っていた。
「ドレイク準備はいいかい?」
私は、頷いて暗がりの路地を走った。
売薬が本業の、病院には似つかわしくない建物に着いた。門の前には、警備の兵隊が立っていた。名目では、軍の病院の警備であろうが、本当のところは、小さな市民暴動にも即座に対処できるように立っているのだろう。
しかし、ドイツ軍もパリに入ってから市民から反抗の気配が薄く何も起こっていなかったからか、かなり隙があった。一は、近くにあった木箱にオイルをかぶせ、持っていたマッチを放り投げた。すると、瞬く間に火が広がった。
「誰か来てくれ、火事だ!」
私が大きな声で叫ぶと警備の人たちが銃を抱えて走ってきた。しかし、火事の現場を見ると銃をおいてバケツをとりに行き消火活動に加わり始めた。一は、頭から毛布をかぶせて、けが人の振りをしながら、軍人に声をかけた。
「すまない。友人が怪我をしてしまったのだが、病院で治療を施していただけないだろうか」
それに対して、一人の軍人が頷いた。見るからに初年兵で、現場に慣れていない感じだった。
火はどんどん大きくなり、警備が宿泊している兵舎にまで広がっていた、すると、中からぞろぞろと兵士が出てきて火を消すのに視線が集中していた。今が最大のチャンスである。怪我人がでれば、病院も開くことになるだろうが混雑に乗じて抜け出せそうだ。病院の中は真っ暗だったので、医者は帰ってしまっているらしい。記憶が正しければ、入口から真っすぐ行くと二階に行ける。一階は、診察室としてのみ使われているのだ。
階段を上ると、二階の片部屋から光が漏れていた。警備は一階だけではなかったのだ。一は、部屋に入ると、若い兵士はすぐさま銃を構えて、発砲してきた。急に東洋人が入ってきたことに驚いたのだろう。しかし、それを、かわし兵士に近づくと足をかけたかと思うと、手を掴み床に倒し気絶させ、手際よくどこから取り出したのか縄で彼を縛り上げた。私は、あっけにとられていると、彼は笑いながら言った。
「兵士が一人で助かった。彼にはしばらく眠っていてもらおう」
見渡すと、この部屋は資料室ではないようだった。となると、隣の部屋だけだ。ドアを少し開け注意深く中を見て入ると、警備のものはおらず診断書がきれいに並べられてあるだけだった。名前を探すとすぐに自分の名前が見つかり、そこにこう書きこんだ。ペストである、と。これは、我がドイツ軍が嫌いな病気の一つである。私は、これほど縁起の良くない病気もないけどねというと、軍で死ぬのとどっちがいいと聞かれるとやはり、この選択肢しかなかった。きっちり数値も書き込み下に降りると兵士と近くの市民の避難所になっており人が多くいたため混乱に乗じて抜け出すことに成功した。
病院が見えなくなるまで、二人で思いっきり走った。河原まで来ると、顔を見合わせて、成功したことを讃えあった。
「一! 病院の診断書の書き換えは成功だ! 僕は、生まれて初めてこんな悪いことをしたよ」
全力で走ったことと、あまりにも緊張していたこともあって息切れが止まらなかったが、達成感に包まれていた。
「ドレイク! こんなことができるなら君は兵士に向いているんじゃないか」
一は、笑いながら冗談を言ってきた。
「しかし、まだこれで終わりじゃないぞ。君の家の診断書を書き換えなくてはいけないんだから、喜ぶのはそれからだ」
そう、私はまだ安心することはできないのだ。人生で最大の危機を挑むことと回避することが一緒だということはなかなかないだろう。
家から病院までの道を戻りながら、呼吸を整えて、作戦を頭の中で繰り返した。
今回の作戦は、自分が家に戻って家族に顔を合わせた後、裏口をあけ一を入れさせ、私が、父の書斎の外で見張っている間に、彼に、診断書を書き換えてもらうのだ。
父は、書斎には息子たちを決して入れさせなかったため、自分が入っていることがばれること事態が非常にまずいのだ。家に入ると、父と母は机に座って談笑していた。
私を見て、ただ「おかえり」と一言声をかけた。
すぐさま裏口を開け、一を入れた。階段を上り、右の大きな部屋はちょうど開いていた。
「一、 僕は、ここでしっかり見ておくから頼んだよ」
そして、一は急いで作業に取り掛かった。
ドアの奥で机が開く音がする。診断書を探しているのか、紙がすれているような音もしていた。
待っている私は気が気ではなかった。どうかばれずにおわれと祈り続けた。そうして、十分がたった。ちょうど時計が一時をさして鳴り始めたころだろうか。階段を上がってくる音がした。急いで一に伝えようとドアを開けると、一は飛び跳ねるように驚いてこっちを見た。
「ドレイク、君のお父さんが上がってきたのかい?」
頷き返すと、彼は書類を元に戻し始めた。そうしていると、父が上がってきた。ごまかすため、最近体調がすぐれないということを伝えた。また、それかと口論になったが、それも作戦のうちだった。話しながらも、さっき扉を開けたときに見えた地図が頭からはなれなかった。なぜ、一はあれを熱心に見ていたのだろう。よく見えなかったが、フランス全土が描かれていた。考え事が頭をよぎったおかげで、話に隙間ができてしまった。
「これは、父との約束だ」
と、捨て台詞をはいて部屋に入った。扉が閉まる瞬間部屋の中をのぞくと、一の姿はそこにはなかった。
おかげで、軍役のことは父の思惑通りにはいかなかった。
数日経って、一通の手紙が届いた。私の士官学校受け入れ拒否の手紙だ。
晴れて、私は病人として療養のため、家族とも軍役から離れて生活することになった。
そして、さみしいときに思い出す。彼とは、あれから会えていない。ちゃんとお礼も言えていないのだ。
けれども、芸術の都の出会いとしては大変面白い話だ。
彼の幸福を祈っている。
時間をさかのぼって、夜の事件から陽が昇り始めたパリの街を早足で歩く東洋人がいた。
その名前は、浜野一という、日本人である。現在はドイツ駐在武官のお付きの少尉をしながら、諜報活動を行っていた。
普段はベルリン在住だが、今はフランス内部に入り込んで調査中であった。少尉という身分でさえ、自分の本来の身分ではないのだ。武官の大佐も先月、急な異動に驚いていた。移動先秘匿の紙を見たときは驚いていただろう。すると、浜野という名前を与えられ潜伏していたのだ。諜報活動を行うまで、陸大でドイツ語を学び、成績が良かったためドイツ留学を経てから中野学校に推薦を受けた。そこでは、無駄に死ぬなという陸大で学んだことの逆を徹底して教え込まれた。
それは、潜伏して自らの身分をばれないように生き続けそこで活動しろということだった。それから、訓練課程を終えると、待っていたのは、ドイツへ向かう船だった。与えられた武官のお付きという肩書もいわばカモフラージュである。
今回の件も、ドレイクの趣味や経歴、親の軍での立ち位置を調べ上げたうえで近づいた。そうやって、いろんな場所で諜報活動を行ってきたのだ。
ドレイク邸を出てからは、指示通りの行動をした。河原からセーヌ川沿いを歩くと、ひっそりとしたところに建つ小屋があった。中に入ると部屋の奥では、一人の初老の老人が座っていた。老人ではあるが、やはり、軍人らしく背筋も伸びている。この人が、直属の上司だ。
そして、活動報告を始めた。街に潜入することで分かったドイツ軍の街での様子、フランスから広がりを見せる軍の行動図、これからフランスを統治するうえでどう産業を支配していこうとしているかを話し終わった後、初老の男性から、ただ一言、日本の商売船が出るのは最後になるとだけいわれた。これで、戦争の陣営は決まったといえるだろう。ドイツはまともな防衛策を持っていないということと独裁であるがゆえに暴走した場合、軍は混乱に陥りやすいということを先日、報告したのだが情報が生かされないように思えた。ドレイクは、きっと戦火など及ばぬところで絵を描いているだろう。私のようなものになるよりずっといい。
パリに、陽が昇り始めた。