一九〇二年一月、雨の日のこと

翠蝶

 

 しとしとと糸のような細かな雨がロンドンの街に降り注ぐ。雨の多いこの国で生まれ育ったものとしては、いつもの光景だ。ボーラーハットを目深に被り、傘も差さずに先を急ぐ男性。あちこちに水が溜まった石畳の悪路で、水しぶきを立てながら走る馬車。馬車が跳ねた泥水が通りがかりの老人にふりかかり、その老人はラウンジ・スーツの裾を汚されて悪態を吐く。これといって代わり映えのしない日常だ。

 今日も青年は、特にすることもなく漫然とした心地で虚空をを見つめて過ごしていた。

 目の前に置いてあるフラットハットに、濁った瞳でチラリと視線をやる。濡れてみすぼらしい姿になった帽子には、今日も今日とて一ペンスすら入っていない。正確な時刻は時計を持っていないから分からないが、もうじき日が暮れることは確かだろう。人通りも徐々に少なくなってきており、一文無しで夜を過ごすことになりそうだ。

 青年は弱弱しい力で平らなズボンの裾を握りしめる。

 せめて足さえあれば。戦争で右足を失うことにさえならなければ、こんな惨めな思いをせずに済んだものを。

 ろくに読み書きもできない青年にとって、思うように体を動かすことができないということは、すなわち死を意味していた。政府から支給される恩給などあってないようなもので、とうの昔に使い果たした。老いた母を頼ることも出来ず、他の兄弟や親戚連中も自分たちが食べていくだけで精一杯であるため、青年を養う余力はない。当然走ることもできないから、盗人に堕ちることすら叶わない。唯一青年に残された選択肢は、神の救済を求めて協会や金持ちの家の壁に寄りかかり、日に日にやせ衰えていく身体を茫々と眺めながら、天上へと頭を垂れるくらいのものだ。

 

 今日も日がな一日、朝から目についた豪奢なヴィクトリアン様式の邸宅の前に座り込んでいる。協会はともかく、貴族たちの邸宅の前に居座るのは、青年にできる最大限の復讐のつもりだ。

 そもそも、こんなことになったのは、ひとえに貴族や政治家たちのせいなのだ。裕福な家庭に生まれなかったというだけで、どうしてこんな仕打ちを受けなければならないのか。

 もう自分は長くないのだろうということは、無教養な青年にも分かっていた。浅い呼吸を繰り返す度にロンドンの黒い霧がどんどん青年の肺を汚し、咳き込む度に残されたわずかな体力を削っていく。 

 貴族でなくても、せめて中間層の生まれであればこんな不遇な人生を歩まずに済んだだろう。だが、栄華極めし大英帝国といえど、国民の大半は満足な衣食住もままならない貧困層の労働者が占めている。青年と似たような境遇、似たような末路を辿る者、すでに辿った者はその辺の裏路地に一歩足を踏み込めば掃いて捨てるほどいる。

 そんな青年たちに対し、世間は冷淡だ。労働者が貧しいのは自分たちの努力不足。労働者に教育が行き届かないのは自分たちが浅ましい生まれゆえ。戦争で人間が必要になったとき、職業軍人に加えて徴兵した労働者だけで足りなければ、数多く存在する帝国領内の有色人種の植民地から無造作に徴収すればいいだけのこと。自分たちの目が届かない路地裏で何人もの労働者たちの死体が積み重なろうとも、貴族たちにとって知ったことではない。国を取り仕切る連中が考える貧乏人の命の価値なんて、そんなものだ。

 だったら最後に、やつらの目の前で己の死体を晒し、死臭漂う肉と体液で玄関を汚してやる。どうせメイドやフットマンあたりが嫌な顔をしながらさっさと片付け、テムズ川に沈められるだけなのだろうが、構いやしない。このまま裏路地で同種の人間たちと折り重なって腐り落ちていくだけなら、このフィナーレの方が幾分かまだマシだ。

 ふつふつと全身を燻る憎悪を持てあまし、青年が世の不条理を呪っていると、幾台もの馬車が忙しなく通りすぎていく中、そのうちの一台が青年の目の前で停車する。この家の住人が帰ってきたのだろうかと重い頭をやおら上げると、ちょうど同じタイミングで小柄なシルクハットをかぶった男が馬車の中から降りてきた。

 その男は、一目で位の高い人物であるとうかがえる貴族風の衣装を着こなしているものの、肌の色は黄色く、背は異様に低かった。子供かと思えば顎には立派な白髭が蓄えられており、皺だらけの顔は童顔ではあるものの老人のそれだ。

 明らかに欧米人の出で立ちとは異なる奇妙な存在に好奇心を駆られていると、今度は邸宅の方から人が出てきた。覚えのある顔だ。たしか、この邸宅の主人の執事だった記憶がある。

 執事らしきその人物は、そのまま馬車から降りてきた老人に向かって真っすぐに歩いていくと、慇懃なしぐさで簡単な挨拶を述べた。それに対し、老人もシルクハットを軽く持ち上げ、親しみやすい気さくな様子で挨拶を返している。どちらも訛りのないクイーンズイングリッシュだった。 

 一体この老人は何者なのだろうか。礼を尽くした執事の態度から、貴族階級の人間かはたまたそれに近しい身分の人間であるということは憶測が付く。一方で、背後に控えているフットマンらしき男に対して、時折聞いたことがない言語で話しかけている。異国のお偉いさんかなにかなのだろうが、その容姿や彼が操る言語は、青年がこれまで見聞きしたことのある南アフリカ大陸の連中や支那人とも違っていた。

 老人は執事に誘われ、いつになく険しい顔つきで青年の横を通り過ぎ、明るい邸宅の中へと吸い込まれていく。その後に老人のフットマンが続き、最後に執事が丁重なしぐさでパネルドアを純白の手袋に包まれた手によって閉めた。その際、ほんの一瞬ながら投げかけられた執事のひどく冷徹な視線を、青年は見逃さない。時すでに遅しではあるものの、負けじと青年がパネルドアの向こう側にいる執事を睨みつける。しばらくしてサッシウィンドウの向こう側から、メイドやフットマンたちに邸宅の前に居座る青年をどこかへ追いやるように命じる執事の声が聞こえてきた。

 

* * * * *

 

 不思議な老人を見かけてから三日後、今日もあいにく、ロンドンは雨が降っている。青年もまた、同じ邸宅の前に居座っていた。先日は使用人たちに箒で追い立てられてしまったため、仕方なく住処であるボロ家に帰ったが、かといって仕事もなければ行く当てもない。だから、こうしてどこかの壁に寄りかかって丸一日時間を潰すしかない。

 今日もこの邸宅の主人の元に客人が訪れているらしい。青年がこの定位置に居座る以前から馬車が邸宅前に停まっており、乗客の帰りを待っている。することがなく、暇を持て余しているのか、御者は時折大きなあくびを漏らし、馬も心なしか退屈そうに首を振ったり足踏みを繰り返したりしている。

 なんと羨ましいことだろうか。

 あの男の五体満足な体に血色のいい肌、ふくよかな体形。整った服装に身を包み、おまけに御者という仕事もある。実に健康的で素晴らしく充実した生活を送っていることだろう。あの老人もそうだ。白人でもないくせに、随分といいご身分なことだ。

 卑屈な感情に支配され、片足の体でどうやって御者の財布を奪い取ってやろうかと考えていると、不意に玄関のパネルドアが開かれた。考えていた内容が内容だけに、挙動不審にドアの方向を見上げると、昨日の老人がそこに立っていた。

「君かね」

 意外なことに、老人が青年に声をかけてきた。まさか老人の方から話しかけてくるとは夢にも思わなかった青年は、驚きのあまり目を瞬かせるばかりだった。

「三日前にもここにいたようだが……ああ」

 玄関前の階段を悠々とした足取りで下りながら、返事をしない青年に構わず老人は青年の欠けた右足に向けて視線をやり、一人でに納得していた。

「なるほど。確かにその足ならろくに働くこともできんでしょうな」

「何だよ爺さん」

 青年の傍に片膝をついた老人に、青年は唸るような声で応える。金持ちが自分を嘲笑いに来たのかと身構えていれば、老人はくつくつと喉の奥から笑い声をこぼした。

「親愛なるわが大日本帝国の友となる国の人間だ。友人をこのまま路上で野垂れ死にさせるわけにはいかんだろう」

 訳の分からない言葉を並べ立て、老人は柔和な顔つきで青年に微笑みかける。それから、背後に付き従うフットマンに対して青年には理解できない言葉でなにかを命じた。老人の命を受けたフットマンは、持っていた手荷物の中から財布を引っ張り出し、その中から金貨を手に取り、地面に裏返し状態で放置されていたフラットハットの中に一枚落とした。

「なんだよ、それ?」

 初めて見る形のコインに、青年は怪訝な顔をする。パッと見た感じだと、青年が手にしたこともない高価値な硬貨のようだが、稚拙なその審美眼では実際の価値を推し量ることができない。

「いまこの帽子の中にはは、五ポンド硬貨が入っている」

「ごっ……!?」

 おそらく、今後生い先短い一生の中で絶対に手にすることも見ることもないであろうと思っていた額に、青年は息をのんだ。

「これで腹を満たし、服を買い、身なりを整えなさい。余った分は勉強に使いなさい。金はすぐに手元から離れていくが、身に着けた知識はそう簡単に離れてはいかん。その知識を使って、賢く生きなさい」

 老人は今しがた自身に訪れた幸運を理解しきれず、目を白黒させている青年に対し、演説慣れしたややオーバーな言葉遣いでそう言った。

「なんで、こんな大金……」

「言っただろう、この国は近いうちにわが祖国の友邦となる。そんな国の民が目の前で野垂れ死にしそうになっているのに見殺しにはできまい。それに、私は今すこぶる機嫌がいい。いや、安堵していると言った方が適切かな? まぁ、それでも昨今のわが祖国の情勢はいつ大国に食い尽くされてもおかしくはないがね」

 相貌を崩し、穏やかな雰囲気を醸し出していた老人はそこで表情をわずかに固くした。よく見るとシルクハットの陰に隠れてよく見えなかったが、どうやらその老人はひどく疲労がたまっているらしく、目の下には濃いクマが目立っている。

「では、我々は帰国するとしよう。やるべきことはまだまだたくさんある。達者でな、青年よ。くれぐれも路

上で強盗に襲われないように注意したまえ」

 鷹揚なしぐさで老人はそう言い残して立ち上がると、フットマンを伴って馬車の中へと入っていった。老人とフットマンが乗り込んだ馬車は、ゆっくりと動き出し、すぐに見えなくなっていく。

 残された青年はしばらく呆然と走り去っていく馬車を見送っていたが、やがてフラットハットの中でキラリと光る五ポンド金貨に視線を戻し、誰の目にも触れないように急いでズボンのポケットにしまい込んだ。

 これ以上この場に居座る必要はない。むしろ、似たような境遇のものいつ襲われてもおかしくはない。

 青年は手元に置いていた歪んだ杖を手に取り、危なげな様子で立ち上がる。

 もうずっとろくな食事をとっていない。母が工場労働で稼いできたわずかな日銭でどうにか生き永らえてきたが、もう限界だ。あの老人が話していたようにまずは帰り道でパンを買い、母と自分の腹を満たそう。それと、多少身なりを整えれば、字が読めなくても足がなくてもどこか雇ってくれるところがあるかもしれない。

 久々に温かい食事にありつけるかもしれないと考えると、心なしか体に力がみなぎってくるようだ。

 

 ロンドンの街は今日も雨が降っている。冬の季節ということも相まって、吐く息は白く、濡れた体は寒さで凍えている。温かい食事にありつきながら、母にさっきのことを話すのが楽しみだ。