【二人目】
『君のことをいつも考えてしまう』
スマホの画面から表示されるキザなセリフ。
くしゃりとした笑顔。風に揺れる茶色い毛先。
何もかも私を癒してくれる要素が詰まっていた。
「佳恋!」
「はい!?」
同僚であり親友でもある永井桃香の声により現実世界に引き戻される。
仕事が思ったより早く終わったオフィス内。
さっさと出ていく社員もいれば、優雅にコーヒーを飲む社員、床に転がり込む社員。
私は癒しである恋愛ノベルゲームの章を読み終えてから帰るつもりだった。終わり間近、桃香に声をかけられた。
「今からジム行こうよ」
「えーやだ」
「あんた全然運動しないじゃない。なのにラーメンばかり食べちゃって。だから太るのよ」
「わかったからこの章終わってから――」
「ダメよ」
桃香がスマホを奪い取る。
ああ、あと一タップすれば攻略対象である『ヤマト』のイラストが表示されたのに。桃香の鬼め。
スマホを奪い返そうとした腕をつかまれ、ズルズルとスポーツジムへ連れていかれる。
スポーツジムの自動ドア前、二足歩行の犬のマスコットである『キョウくん』と『フ―ちゃん』に出迎えられる。
元々スポーツジムのマスコットであった二匹。
あまりの可愛さに某くまや某なっしーのように人気が爆発し、全国にグッズが展開された。
笑顔がテンプレートのゆるキャラたちと違い、二匹ともに青ざめた恐怖顔だったことが人気を呼んだのだろう。
受付には、あるべき場所にバランスよく筋肉のついた男性に出迎えられる。
「千葉さんこんにちは。うちの問題児連れてきましたよ」
桃香はその男性に親しく挨拶したかと思えば、私の背中を枯れめがけて勢いよく押す。ジェットコースターにでも乗ったかのように体が一瞬浮遊した。
「ど、うも。問題児の矢上佳恋です」
どうにか態勢を整え、深くお辞儀をする。
「かれん? え、あの佳恋⁉」
頭上から明らかに自己紹介後ではない反応が返ってくる。どの「かれん」だよと心の中で突っ込みながら顔をあげた。
もしかして、私はスマホ画面に吸い込まれたのだろうか。目の前の顔は液晶越しで眺め続けた “ヤマト ”、違う。
ヤマトにそっくりの
「え、なおとって、あの直人?」
語彙が消滅した目の前の男女に困惑する桃香。
二人が知り合いだなんて知るはずもなかった。
千葉直人は幼少期から中学まで仲良くしていた幼馴染だ。
直人がスポーツ学科のある高校に進学したことを機に連絡先を交換しそびれたまま接点がなくなっていた。
こんな偶然もあるのかとひそかに感動する。
「はい、見つめ合いや思い出話はトレーニング中にしてください」
ノスタルジアに浸った脳内を桃香が破壊する。
そうだった、運動するために来たのだった。
本来の目的を思い出し、私のトレーナー担当になった直人についていく。
「永井さんの同僚ってことは、佳恋も近くの出版社で働いてんのか」
「そう、芸能人の特集に関わってる」
近況を報告しあいながら、直人に体を支えてもらいながらトレーニングメニューを進める。体重計の結果で絶望したばかりなのに、なかったことのように気持ちが軽くなる。
「直人はこのジム長いの? こんなに職場が近かったのに会わなかったよね」
「まだ一年目、ここ以前は地元で働いてた」
「へー、私大学卒業してすぐ上京したから、お互いすれ違ってたんだね」
仕事が板についてきたタイミングで再会するなんて、何か意味があるのだろうか。すっかりノベルゲーム色に染まった脳みそでは今後の妄想をすることしか頭になかった。
脳内にある花がすべて完全に咲けば、トレーニング中だということも忘れ、足が宙を舞う。
「危ない!」
間一髪で地面と頭部の衝突は免れた。
ただ、なぜか安心よりも背の凍るような恐怖に襲われる。
直人の顔がすぐそばにある。
頬にかかる吐息がさらに体を凍らせていく。腕は背中に回され、身動きが取れない。
「佳恋、おい、大丈夫か」
気づけば体中が異常な痙攣を起こしていた。
“何か“に激しく恐怖の反応を体が起こしていることがわかる。
でもいったい何に?
なにもわからない。それが余計に体を震わせた。
「はな……っれて」
意識を無視した言葉が飛び出る。
どうして離れてと言ったのだろう。まるで誰かに支配されているように、うまく行動できない。
直人が言われた通り、一定の距離を離れた。
徐々に体の震えが静まっていく。
荒かった呼吸も規則正しく動き始めた。
「なん……で」
わけのわからないまま、直人に振り向く。「なんで」は俺のほうだよと言いたそうな彼に対し、「ごめ……なさ……い」と口が勝手に動いた。
「災難だったわね」
あれから数日たった。来慣れた美容室でマッサージされる休日。直人との再会の日を思い出しながら、事の経緯を担当のオネエさんに話す。
直人と一定の距離をとれば、発作と痙攣は生じなかった。その距離を保ち、事情を話してくれと頼まれた。
退勤後、カントリー調の雰囲気を醸し出す静かな喫茶店で待ち合わせた。
「私にもわからないの、こういうこと、初めてで」
ジョッキの二倍もするガラスコップに入ったミルクティーを、規格外の長さをしたストローで吸う。丸みを帯びた透明なストローが次第にミルクティー色に染まっていく。同サイズのコップに入ったメロンソーダを直人は頼んでいた。
「え、俺だけ⁉ それはそれでショックなんだが。他の男に触られて一回もないのかよ」
「そもそも男の人に密接に触られたことないもん。強いて言えばよく行く美容室の三本さんにマッサージしてもらってるけど、あんな症状出なかったよ」
「ふーん」
ふてくされたようにスマホをいじり出す直人。私も自分の症状についてなにか情報がつかめないか、ストローを口にくわえたままスマホを開く。
『触られる 気持ち悪い』と検索をかけると、似たような症状を持つ女性たちの知恵袋にヒットした。彼女たちは好意を持たれている相手に触られると気持ち悪いと感じるらしい。ただ、発作や過呼吸などの症状について書かれたものはほぼなかった。
「男性恐怖症ではないのか?」
「そうだったら今この仕事してないよ」
といいながらも『男性恐怖症』と検索をかけてみる。
「「原因は恋愛に関するトラウマによる場合がある」」
同じサイトを開いていたのか見事に直人とシンクロする。
「ないない。彼氏いない歴=年齢の私があるわけ」
「告白して振られたとか」
「告白したことないです」
はぁぁぁ、と空っぽのガラス越しに息を吹きかける直人。どでかいため息をつきたいのは私も同じだよ。
「ま、直人が私のパーソナルスペースに入り込まなければ大丈夫よ」
「なんだよそれひでぇな」
たくましい体つきの男がこぼれない程度の涙を出した。なんて情けない、ヤマトはこんなことで泣かないぞ。
「とにかく、俺も佳恋の症状についてもうちょっと調べてみるから、何かあれば連絡してくれ」
ジムで渡された名刺と違い、住所、ラインⅠⅮの書かれた紙きれを渡される。わかったと返事をし、ジョッキ二倍分の尿意を合図に解散した。
「三本さんに触られても症状出ないし、私じゃなくて直人に問題があると思うんだよね」
「私が百パーセント”男”だから、症状が出ないのではなくて?」
鏡越しにニッコリとほほ笑む三本さん。髭の跡が一切なく念入りにケアされたすべすべの肌。金木犀の香るクルミ色のロングヘア―。男と感じられる要素は、心拍数を上昇されかねない誘うような低音ボイスだけだ。
「好意を向けられているかいないかは関係なさそうだし、佳恋ちゃんの気持ちの問題だと思うわ」
「好意は関係ないってどういう――」
三本さんの一文に引っ掛かりを感じるが、椅子を一八〇度回され会話が遮られる。一瞬鏡に映った三本さんの表情がどこか切なげなのは気のせいだろうか。
【三人目】
仕事終わり、いつものように寂れた引き戸を開ける。
ガタガタと音を鳴らしのれんをくぐれば、「らっしゃっせー」と野太い声が店内を響きわたせる。
右端のカウンター席が私の特等席。上着を脱いで座れば、バイトのお兄さんが爽やかスマイルで注文を取りに近づいてくる。
「ご注文は何にしますか?」
爽やかスマイルで注文票とペンを構えるお兄さん。メニューを言おうと顔を上げたときだった。
お兄さんの背後から男性が強引に注文票とペンを奪った。
お前は厨房に戻れと促し、爽やかとは言えない、不気味なスマイルを向けられる。
白いエプロンに付けられた名札には『館山』と書かれていた。
このラーメン屋には平均週に二回通っているが、一度もこの店員をみたことがない。
運よく私が通う日と彼のシフトが被らなかっただけなのか。
髪は長いのか後ろでくくられ、剃りきれていない髭の跡がある。
「豚骨ラーメン……で」
と答えると、また不気味スマイルを向けられる。
彼が爽やかお兄さんから注文票を奪ったときから悪寒がする。
直人と必要以上に距離が近くなった時のように、その ”何か ”が迫ってくる感覚がする。
館山は表情を変えぬまま厨房へと消えていった。
数分後、いつもの品が目の前に置かれる。
湯気が顔に当たり、胃が空腹を訴えるが、喉がそれを拒否した。味がしない、呑み込みにくい。汁ごと完食していたお店で、初めて半分以上残してしまった。
「なんや元気ないな」
気さくな店長が残された皿を見て驚愕する。
脳は残したくないと訴えているのに、体が言うことを聞かない。
店長に対し申し訳なく感じ、顔を上げることができなかった。
「店長ごめんなさい。次は残さないから」
「気にすんな、そんな日もある。はよ家帰って休みい」
やわらかい脂肪をまとった手のひらがポンポンと肩に当てられる。
触れた肩から恐怖は感じられず、むしろ落ち込みが削られたような感覚を受けた。
店長も男なのに、違いは何なのだろうか。
空はすっかり青さを失った。明りの強い星だけが現れた黒い空の下をトントンと歩く。家までの帰り道は、どうしても一通りの少ない道に進まないといけない。街頭が淡い光で照らしてくれるが、不審者には最適な道だろう。普段よりも歩くスピードを速めているが、人通りの少ない道へ入ってから聞こえる足音が消えない。ラーメン屋での出来事があったせいで敏感になっているかもしれないが、”何か”につけられている気がする。
足音は一向に止まない。勇気を振り絞って後ろを振り返ってみる。暗い、何も見えない空間で街頭が目立つ、その真下にいた。全身黒ずくめでフードを深く被った男性。しかし、特徴のある口元に見覚えがあった。このまま帰るのは危ない気がする。スマホ起動し、手は真っ先に直人の連絡先に伸ばしていた。桃香に泊めてもらおうと思ったが、同じ女だし、同じく被害を生んでしまうかもしれない。なら、ある程度見た目に刺激のある直人の元へ避難すればついてくることも諦めるだろうと考えた。
スマホを耳に当てた瞬間、「どうした」と鼓膜を震わされた。軽く状況を説明し、直人の自宅であるビルに着けば、数秒もしないうちにオートロックが解除された。玄関先でなく、ロビーで直人が迎えに来てくれる。直人が顔を出した瞬間、ずっとなっていた足音が初めて遠のいた。思った通りの結果に安堵のため息をこぼす。
直人の部屋はビルの最上階にあるらしい。玄関を開けば、大好物である出来立てのラザニアが鼻を包む。底をついていた食欲が復活し、おじゃましますの代わりにお腹が鳴った。死にそうな笑い声を上げる直人を横目に、大人しくダイニングチェアに座る。向かい合って手を合わせたその光景は、幼少期の自分たちを思い出ださせるものだった。
「あのさ、佳恋」
「なに?」
口周りについたラザニアソースを上質なナフキンで拭く。口紅とソースの色の違いを眺めていた時だった。
「来月あたり一緒に実家帰らねえか」
実家、海と山が同時に視界に入る素敵な街で静かにそびえたつ住宅群が思い浮かべられる。そういえば長いこと帰っていない。むしろ父親が「帰ってくるな、東京での生活を楽しめ」といつも帰省を断ってくる。彼女もつくらない孤独なシングルファザーを慰めたいのに、ツンデレ度合いにも程がある。どうせあの頑固おやじが断るとナフキン越しで返事しようとした。
「おじさんにも言っといた。了承してくれたよ」
まじかよ、一体どんな手を使ったんだ。
「このラザニアで釣ったんじゃないでしょうね」
頭に血が上った状態でもラザニアの食わせてやれば落ち着く父親の弱点を利用したのだろう。この必殺技は近所の全員が知っている。直人は一瞬驚いたような顔をしたが、ちげえよとすぐに突っ込んだ。
「実家に帰れば、佳恋の症状を治すことができるかもしれない」
「私の症状と実家に何か関係があるの?」
直人がゆっくり頷く。どういうこと、全く心当たりがない。片親だから? 幼少期から注げられた愛情が足りなかったから? 少なくとも幸せな記憶しか私にはない。母親がいなくても十分幸せだった。脳内でぐるぐると思考を巡らせる。いくら考えても明確な答えは見つからなかった。諦めたところで、車のキーを五円玉のごとく眉間に揺らされる。
「家まで送る」
「うんありがとう」
不審者の足音は消えたが、まだ外で待機している可能性がある。直人に甘えてアパートまで送ってもらい、私が完全に玄関のカギにロックをかけるまで見守ってもらうことにした。
無事自宅の玄関前までついた。直人はまだ車で待機してくれている。やっと肩の荷がおろせると思ったが、取っ手にビニール袋が下げられていることに気づく。中身はカップ麺と一切れのメモ。
『今日隣に引っ越しました、宜しくお願い致します。館山』
最後の二文字に背筋が凍る。その瞬間、ガチャリと左隣の扉が開いた。くくられていない乱れた長髪に、剃りきられていない髭。今日からお世話になりますと、不気味スマイルとともに、また新たにカップ麺が渡される。
「あはは、お世話になります。たまには夕飯の残り物、お裾分けしますね……なんて、あはは」
自分のスマイルも不気味だったに違いない。
【一人目】
今年分の運を使い切ったかもしれない。
直人と実家に帰省をするため、有給の申請をしたいと上司に問い合わせたところ、担当された新人俳優のインタビュー取材が丁度地元で行われるらしい。
つまり出張の名目で帰省することが許された。
有給は桃香との旅行で取っておきたかったため、本当にラッキーだ。
一週間地元で休暇と仕事の同時進行。というのも、今回取材する新人俳優の出身地が私と同じであったらしい。
本名である『福島颯太』で芸能活動しているが、『福島』という知り合いはいない。
福島颯太だけでなく、彼の家族や友人に取材する時間も設けられているが、どれも見覚えのない名前であった。
世界は広いのか狭いのかよくわからない。
そして出張当日、運の悪い直人は有給を消化して帰省することに。直人の車に乗り、関西の風を追いかけた。
先に取材という名の仕事を消化した後に私情について調べていこうということになった。
福島颯太本人の取材は東京で済まされ、代わりに地元で知人や家族を徹底取材する形を出版社は選んだ。
期間は三日、カメラマンとともにそれぞれの自宅へ訪問する。最終日は兄である『福島幸樹』を取材し、地元での仕事が終わる。
カメラマンとともに最後の人物の元へ車を走らせる。
”知らない ”人に会いに行くのは慣れているのに、なぜか今回は胃が重たくなるほど緊張している。アクセルを踏む足が浮き上がる。
速度落ちてますよと助手席のカメラマンに指摘され、無意識に訪問することに恐怖を感じる自分に気づく。
ただ、原因は全くわからない。
到着場所に近くなればなるほど悪寒が体中を走る。
まるで体全体が訪問することを拒絶するように。
でも仕事は仕事。これが終われば症状の原因を探るのだから、ラストスパートだ。
そう自分に言い聞かせ、無理やり恐怖感情を奥にしまう。
そして着いてしまった。
立派なタワーマンションの最上階。素朴な住宅が佇む周りで、ひときわ目立つ常に新築の臭いを漂わせるビル。
セキュリティーも頑丈に徹底され、セレブ街のビルが郊外にテレポートしたかのようだ。
部屋番号を入力し、訪問の許可を得る。
鍵が解除されば、ホテルにあるような艶のあるエレベーターが出迎える。
見覚えがあると思ったと同時に、体中の悪寒がまた解放される。エレベーターに乗れば、数字が上がるたび体中の拒絶反応が加速する。
最上階の雰囲気はお化け屋敷のようだった。
ずかずかと進むカメラマンに追いつけないほどゆっくり歩くことしかできない。
エレベーターを出てから数歩、既にチャイムは鳴らされ、部屋の住人である福島颯太の兄、福島幸樹が顔を出した。
目が合う。
「久しぶり」
優しい笑みを向けられた。それがトリガーになったのか。
触られていないのに、手の届かない距離にいたのに、目が合い話しかけられただけで、直人の時以上の過呼吸と痙攣が襲ってきた。
息ができない、立てない、涙が止まらない、思い出した、全部思い出した、あの人は……あの人は。
「矢上さん大丈夫ですか⁉」
カメラマンの心配する声を最後に、意識は完全に途絶えた。
地元を愛しすぎた結果、バスで三十分先にある大学を進学先にした。慣れない化粧を施し、キャンパスライフを楽しんだ。友達を作るためサークルに所属した。
恋愛のベルゲームで語り合える友人もいれば、そんなコンテンツに興味を示さずに現実の恋愛を語る友人もいた。
ゲームの影響で理想がスカイツリー並みの私には刺激が強く、美味しいネタをたくさんいただいた。
恋愛話は女子大生だけが興味を持つわけではない。
男子大生だって彼女が欲しいと嘆くことがあった。
そんな中、同サークルにいた ”幸樹 ”と出会った。
気さくに話してくれては、いつも私を楽しませてくれた。
理想の高すぎる私には彼が完璧に見えた。
恋愛ノベルゲームの攻略対象がそのまま画面から飛び出した存在の人を誰も見逃さないわけがない。
珍しくフリーな幸樹を、容赦なく捕まえてやった。
恋愛経験が一ナノミリもない自分が積極的になるなんて思ってもみなかった。恋愛は人を強くする、というより暴走させるエンジンのようだ。
優しい笑顔とともに告白を了承した幸樹。まずはデートから、定番の水族館や遊園地、私しか得しない恋愛ノベルゲームの聖地巡礼スポットにも付き合わせた。足に錘が付くほどたくさん歩いても文句を一切言わない、おまけのようにゲーム内のセリフを再現してくれてはゲラゲラ笑い合う。幸せな記憶しかなかった。幸樹からは素敵な恋愛経験を贈られ、これからも素敵な愛を贈り続けてくれると思っていた。
デートは外出だけじゃなく、お互いの家で映画を見る、ただダラダラ過ごすこともあった。幸樹は一人暮らし、私は実家暮らしだったが、親も幸樹を気に入ってくれ、お互いの合鍵をつくった。息子当然のように夕飯を共に過ごすこともあれば、二人きりで親からもらったラザニアのレシピを参考に料理したこともある。この幸せな時間がいつまで続くかわからないが、家族当然の生活を共にしたなら、結婚も視野に入れてみたい。いつ結婚の話題を打ち明けようかと、大学卒業間際考え始めた。
卒論完成の記念にお酒を持ってツルピカなエレベーターに乗る。最上階のボタンを押し、鼻歌交じりに袋の中のお酒たちをカンカンと鳴らした。幸樹も卒論が完成したらしく、お祝いにはもってこいの日、サプライズで家に押し掛けた。
合鍵で玄関を開けば、見慣れないブーツを目にする。幸樹の母親が来ているのだろうか。ならなおさら卒論完成記念パーティーは盛り上がるだろう。
「幸樹、来たよー」
そっとリビングのドアを開けたが、返事がない。疲れて寝ているのだろうか。アルコールを持ったまま幸樹の部屋の扉を開ける。それが自分を狂わせることも知らずに。
今まで嗅いだことのない生臭い空気、床に散乱する男女の下着、ベッドのきしむ音。相手の漏らす生々しい声は、人生で最も長く聞き、好いた人のものだった。
浮気された、冷静にそう認識できたが、あまりにも目の前の状況は脳が処理するには限界があった。全身の震えと過度な呼吸が加速する。落とされたハンマーは内臓の内側まで簡単に砕いた。袋に入った酒がカラカラと音を立て床に転がる。自分もぶちまけられた酒のカン・ビンの一部だったかのように崩れていった。それが私の失われた記憶。
気づけば病院にいた。規則正しく鳴る音とともに、強く左手を握った父が目に入った。私は気絶した、どうして気絶したのかわからないが、卒論でまともに睡眠時間を確保できなかったからだろうか。
「佳恋、よかった……本当によかった」
手加減なしの父からの強烈なハグ。どれだけ眠っていたのだろう。長かったことが明らかなほど父の喜びが伝わった。
「母さんと幸樹との面会は断っておいた、安心してくれ」
「幸樹? 誰それ。私にお母さんなんていたの?」
父の言っていることが理解できなかった。幸樹なんて名前の知り合いはいない。母は元から存在していない。衝撃のシーンを処理しきれなかった私の脳は、原因である二人の記憶を奥底に保管し、ストーリーでその記憶の表面を塗り替えた。精神を破損しかねない爆弾級のウィルスを無理やり封じ込めたのだった。父も察してくれたのだろう。「そういえばそうだったな」とデタラメストーリーを肯定した。
いつ爆発するかわからない地雷原を抱えたまま地元に残ることは難しい。そう判断した父は東京で仕事を探せと強く促した。地元は離れたくなかったものの、父の鬼のような顔には逆らえず、仕送りとともに上京した。なぜ帰省を断ってくるのか、娘への愛情がすべての理由だった。
【〇人目】
ついに封印された地雷が爆発した。五年の月日を超え、爆弾を受け止められるほどの精神に成長したことを感じる。意識が戻れば、あの時と同じ、父が左手を強く握ってくれていることに気づく。
「お父さん、全部思い出したよ」
「佳恋、悪かった……佳恋を守りたかったのに、思い出させちまって悪かった」
父の涙を見たのはいつぶりだろう、私が生まれた時の映像かな。画面越しで二人の愛情を嫌というほど浴びた記憶がある。気さくで笑いを毎日飛ばす父に、飽きることなく笑い続ける母。笑顔のあふれる家庭で私は育った。
母は私の一番の親友だった。二人で父をからかってみたり、服をおそろいにしてみたり、父と私の大好物であるラザニアを、更に美味しくする研究を一緒にしてみたり。悩みは全て母に打ち明け、心のありどころになっていた。幸樹のことも、惚れた瞬間母に報告した。幸樹ね、お父さんに似てるところがあるんだよと、親子ともにタイプが同じことで笑い合っていた。
幸せな記憶しかなかった。それが爆弾の威力を知らず知らず強力にしていた。
「ねえお父さん、私、お母さんに会いたい」
どれだけ人生を苦しめられたのか計り知れないし、裏切り行為を一生許すつもりはない。それでも、お母さんは私が生まれた瞬間、いや、生まれる前から長く深く愛している存在だ。か弱く小さい私を抱えてくれた、支えてくれた、愛情を注いでくれた。記憶が戻った今でも、裏切りによる嫌悪よりも愛が余裕で勝っていた。昔のように笑い合うことはできなくとも、『大好き』を伝えたい。
「わかった。でも父さんは会いに行かないぞ。父さんは佳恋のように強くないんだ」
より一層強いハグが帰ってくる。お父さん、大好きだよと素直に伝えば、情けない大の大人の声が部屋を響き渡らせた。
あの事件以来、父は母を今後一切私たちと関わらないよう書類を書かせた上で、片田舎に追放したらしい。どこを見渡しても田んぼや畑、そこでひっそりと高齢者とともに農作業をしているという。仕事先を紹介してまで追放した父の行動は、母に向けた最後の愛の贈り物だったのかもしれない。大人しく田舎に居座る母も、一生罪を償う気でいるのだろう。
私のことを心配して仕事を上司に押し付け、実家まで来てくれた桃香と車を走らせる。畑、畑、畑。情景がループされる中でGPSのありがたさを実感する。
『目的地に到着しました』
一角に車を止め、日差しを浴びる。稲が揺れる視界の中、きれいな黒髪を日差しから守る麦わら帽子を見つけた。相手の顔が見えなくてもすぐにわかった。
「お母さん!」
風に乗って言葉が送られる。抑えられた帽子が時間をおいて揺らぐ。
「か……れん」
やっと顔を上げた母はやつれた姿ではなく、健康的な体で稲を抱えていた。
久々の母を前に、そっと微笑む。対して母は涙を流し、私の腕にしがみつき膝から崩れ落ちた。
「ごめん……ごめんねぇ、えぅ……ごめんなさい」
あーあ手袋が鼻水だらけ。なんて情けない、こんな母親を見たかったわけじゃないのに。母との視線を合わせ、心に響くよう言い聞かせた。
「お母さん、大好きだよ。それを言いに来たかっただけ」
父に負けないくらい強力なハグを贈った。恨みも愛情もすべて詰めてやった。その贈り物は私の服すらも鼻水と涙の海にさせられる結果になろうとも。
お互いの目が腫れたところで、再び車を走らせた。開いた距離は久々の再開で修復されることはなかった。それでも、素直に愛情をぶつけたことで、親子の絆は切れたことにならないだろう。おかげで地雷爆弾の残り香から何までも全て取り除かれた。あの忌まわしい症状も消えたことだ。
「ねえ佳恋」
助手席にいる私に振り向かず、真剣な表情で運転する桃香。
「なに」
母から無理やりもらったせんべいを頬張る。
「佳恋のあの症状って、”相手”が恋愛感情を向けて接したから発動するんじゃなくて、”佳恋”が恋愛対象としてみることができる相手に接されたから発動したんじゃないの」
何それと否定しながらも今までの症状発動の原因先を思い返す。幼馴染の直人、ストーカーかと思いきやただの隣人だった館山さん、元カレの幸樹。
「いやいやいやなにこの最悪な選択肢、王道と個性が極端すぎ」
ゲーム脳をぶちまけた感想に桃香がにやにやと笑いだす。
「もお素直になりなよ。で、誰攻略するの?」
現実はゲームじゃないんだからと思いながらも、既に思い浮かんだ相手は決まっていた。
私は──