短編/月夜見
“恋愛は釣りと同じ”
この言葉にピンとくる者は存在するだろうか。私の恋愛経験が一般的なものであるかは分からないが、恋愛は釣りそのものだと思っている。こう感じるようになったのは五年前のことで割と最近ではあるが、あの日のことは昨日のことのように覚えている。
今から五年前。二五歳の私はある女性に一目惚れをした。黒く艶のある髪、吸い込まれそうなほどの大きな瞳、白く透き通った肌は私の心を魅了した。彼女の名は一条 麗華。名前の通り本当に美しい女性だ。彼女の家は代々続く弁護士の家系でかなり裕福である。教育熱心な両親に育てられ、幼少期からヴァイオリンを習っている。お姫様そのものだ。
ある日の夕暮れに彼女の大学で演奏会が開かれた。ここで彼女と出会ったのが全ての始まりだった。私の友人も彼女と同じ音楽大学に通っておりコントラバスを専攻している。友人の名は明智直登。彼の家は父親が作曲家で、彼もその影響で音楽に目覚め、コントラバスを習い始めた。彼の誘いで私は演奏会に誘われた。私立の音楽大学はそれは豪華な創りで、あまりの広さに私は迷子になってしまった。校庭をさ迷っていると、ある女性がベンチに座って泣いているのを見かけた。真っ赤な美しいドレスを身にまとい、その姿はまさにプリンセスだった。開演時間が迫っていたので早く会場のホールに辿りたい気持ちがあったが、目の前の美人への話してみたさが勝ってその場に立ち尽くしてしまった。話しかけるにしても、何と話しかければ良いのだろうか。何故泣いているのかを尋ねるなんてデリカシーに欠けているし、素敵なドレスですねなんて言うとナンパと間違えられてしまう。第一、相手が泣いている状況で掛ける言葉ではない。こんな場面は映画やドラマでもありそうだが、こんな時、世の男性は何て声を掛けるのだろうか。そもそも声を掛けるのだろうか。いや、声を掛けなければ物語は始まらない。そうだ、声を掛けなければ物語は始まらないのだ。昔観た海外映画にありそうなくさいセリフでも良い。何か声を掛けたい。もしかしたらこんなに美しい女性は私の人生に二度と現れないかもしれない。これが最後のチャンスかもしれない。身だしなみを確かめるとズボンのポケットからハンカチがはみ出ていることに気付いた。よし、これだ。
「ハンカチ、良かったら使いますか」
いかにも映画に出てきそうなセリフだ。今思うと顔から火が出てきそうなくらい恥ずかしい。
「いいえ、大丈夫です。お気遣いいただきありがとうございます」
彼女は申し訳なさそうに首を振った。しかし、大丈夫そうにはとても見えなかった。目がかなり腫れている。相当泣いたのだろう。
「そう言わずにどうぞお使いください」
もう一度彼女にハンカチをすすめてみた。すると彼女は、申し訳なさそうにハンカチを受け取った。名前を聞きたかったが、それどころではないと思い、そっとしておくことにした。腕時計を見ると開演まで五分を切っていた。さすがに間に合わないと思い、その場を後にした。
運良く案内板を見つけ、なんとか開演までにホールまで辿り着き、席に着くことが出来た。直前に着いたので席は二階席の最後列になってしまったがここからでもステージは良く見えた。
演奏が始まり三十分ほど経った。フルートやホルンの美しい音色を聴きながら眠くなっていたところだった。弦楽器の楽団が登壇した。ステージの右端に明智がいるのを見つけた。タキシードを着ているせいかいつもよりうんと大人に見えた。ステージ全体を見渡していると見覚えのある赤いドレスが見えた。よく見ると先ほど出会った彼女だった。涙は渇き、さっきまで泣いているようには見えなかった。指揮の方に意識を研ぎ澄ませ、その姿は尚美しかった。ヴィヴァルディの四季“春”を演奏していた。明智には悪いが、彼女のことしか見ていなかった。彼女しか目がいかなかった。ヴァイオリンはこの人のために生まれたと思うほど彼女の姿に見とれていた。
演奏が終わり、私はどうしても彼女ともう一度話したいと思った。明智と彼女は同じ弦楽器だから、彼を利用すれば話せるかもしれない気がした。
早速、楽団の解散を見計らって明智を呼び出した。赤いドレスを着てヴァイオリンを演奏していた女性に会いたいとせがんだ。彼は、こっちに来いと私をレッスンルームへと連れていった。そこには一人でヴァイオリンを演奏している彼女の姿があった。普段着になっていたので一瞬誰だか分からなかったが、凛とした黒髪を見て彼女だと確信した。
「この人は、東雲誠人っていって僕の高校時代の同級生なんだ。君と話したがっていたから連れてきたんだ」
明智は彼女に私のことを話し、彼女は“さっきの人だ”と言わんばかりに目を大きく見開いていた。
「先ほどはハンカチありがとうございました。お恥ずかしい限りです。洗って返させていただきます」
彼女がそう言うと、明智は彼女が私を知っていることに驚き、きょとんとしていた。
「いえいえ。そのままで結構です。ヴァイオリンの演奏、とても素晴らしかったです」
と私が言うと、彼女は照れくさそうにしていた。
「私があのように泣いていたのは、実家の事務所が倒産して、来月に大学を辞め、ヴァイオリンも売り放すことになり、これが最後の演奏会になるので、泣いていたのです。ヴァイオリンは私の体の一部のような存在でした。倒産してから、気が済むまで毎晩ここでヴァイオリンを弾くと決めました」
やはり、あの時泣いている理由を聞かなくて良かった。彼女はこんなにも大きな事情を抱えていたのだ。
「それは、何というか…お気の毒に。ご家族は演奏を見に来られたのですか」
「いいえ。身辺整理に忙しくてそれどころでは」
「そうですよね…。私でよければ力になりますので」
「お心遣いありがとうございます」
彼女の演奏を明智と二人で聴き、気が付けば二十時になっていた。明智は、私たちに気遣ってか明日も早いからここで帰ると言い、私は彼女と二人きりになった。今思えば私もここで帰っていれば良かった。
「私たちもそろそろ帰りましょうか」
「そうですね。遅くなると危険ですし。いつもは何時までここにいるのですか」
「七時くらいまでここで演奏しています。でも、夢中になっている時は十時過ぎまでいることも」
彼女のヴァイオリンに対する熱意が伝わってきた。かれこれ話していると駅に着いた。家の方向が反対であるためここで解散になる。
「やはり、あのハンカチは私が洗います。ハンカチを貸してください。また家に着くまでに泣いても大丈夫なように」
そう言われると、思わずハンカチを差し出した。
「必ず返しますね。明後日必ずお渡しします」
「分かりました。どこで受け取ったらよろしいですか」
「大学の北門前にカフェがあるのでそこでお渡しします」
「では、明後日にそのカフェで。時間は正午くらいでよろしいですか」
「そうですね。正午に待ち合わせしましょう」
私は頷いて、お互いおやすみなさいと挨拶してそれぞれの電車に乗った。
電車に乗っている間も、駅から家までの道も、就寝する直前も彼女のことが頭から離れなかった。私は、明後日までずっと上の空だった。恋をするとは幸せなことだ。
約束の当日になった。私は舞い上がっていた。服装に気を使って、バッグもいつもは使わないハイブランドのものにした。香水もしてみたりして、普段と違う自分に酔いしれていた。
約束の正午になった。実は約束の一時間前に着いていた。家にいると気分が落ち着かなくてつい早く出てしまった。北門前のカフェはすぐに分かった。音大に隣接するにふさわしい洒落たカフェだった。カフェに入ってから、珈琲を飲み、今で二杯目になる。この店の珈琲が美味しいのか、私の気分が高揚しているのか、珈琲は香ばしい香りで、まろやかな味わいだった。珈琲を味わっていると彼女がやってきた。後ろに厳つい男性を連れていた。
「遅れてごめんなさいね。こちらの男性と話し込んでいたもので」
「いえいえ。私も今来たところですからお構いなく。そちらの男性は知り合いですか」
彼女は黙り込んだ。
「お前が東雲誠人だな。麗華の借金を立て替える約束をしたそうだな。この契約書にサインしてくれ。」
私は頭が真っ白になった。彼女の実家の事務所が倒産したのは聞いていたが、借金の立て替えを私がすると言う約束はしていない。私はただハンカチを貸しただけだ。
「東雲さん、あなた仰いましたよね。“私でよければ力になりますので。”と。だから私はあなたに借金の立て替えをお願いしようと思って。私にはあなたしかいないのです。ねぇ、私の借金払ってくださりますよね」
あまりにも無茶苦茶なお願いだった。私の好意は珈琲と共に冷めていった。最初からこれが目的だったのか。
「借金はいくらですか」
「五百万だ」
「そんな契約した覚えはありませんのでお断りします」
「なんだと。今更逃げる気か。この女を見放すのか」
「申し訳ございません」
そう言ってその場を去ろうとした時だった。私は男性に腕を掴まれ、強制的にペンを持たされた。
「お前、中々良い鞄持っているじゃないか。金あるだろ」
怖さのあまり何も言い返せなかった。こんな理不尽な出来事が他にあるだろうか。男性のズボンのポケットを見るとジャックナイフらしきものが見えた。男性の顔に視線を向けると鋭い目つきでこちらを睨んでいる。この男なら殺しかねないと感じた。気の弱い私は脅迫に負けて契約書にサインしてしまった。本当に愚かだ。
契約書を渡すと男性は店から出て行った。彼女と私だけが残された。
「あの時、あの場所で泣いていて良かったわ。よく私に声を掛けたわね。どの男も金のない方ばっかりだったから丁度良かったわ。ああ、あの男は近所の暴走族で家が破産してからお世話になっているの。悪く思わないでね」
彼女はケラケラ笑っていた。私は絶望した。つまり、私は彼女の容姿という罠にかかり、まんまと釣られてしまった。
「男性が女性にハンカチを貸すのは常識ですものね。まさか明智君の知り合いだとは思わなかったわ」
彼女から見れば全て計算通りだったのだ。このままだと彼女を殴ってしまいそうだから、カフェを後にした。手を上げなかった私を褒めてほしいくらいだ。
あれから彼女とは会っていない。大学は辞めなかったらしい。どんな汚い手を使ってもヴァイオリンだけは手放さなかったそうだ。彼女のヴァイオリンのことを思うと同情心が芽生えてくる。一度持った恋心というのは実に厄介なものだ。明智に彼女とのことを話すと、噂は本当だったのかと驚いていた。どうやら大学でも借金の噂が出ていたらしい。実家の名を失った人間はこうも変わり果てるものなのだろうか。
今も私は借金の取り立てに追われている。弁護士に相談したいが、そんな金はない。私は自分の経済力の無さに失望した。無料で相談できるシステムもあるらしいが、もうその気力もない。何より、人を信じることが出来なくなってしまった。明智は私に精神科病院を勧めてきた。精神科医だろうが何だろうがもう誰にも会いたくない。両親にも合わせる顔がない。新聞社の仕事も辞めようかと思ったがニートにはなりたくないという意地があるので何とか続けられている。
見た目という餌にかかり、まんまと釣られ、借金を返すまでバケツからは逃げることないのだ。餌だけ食べて逃げて行った男たちが羨ましい。
そして今日も取り立てのドアチャイムが鳴った。
了