チョコフラペチーノをベンティで!

森野真宵

 わたしは、呪われているのだ。彼女を見るたび、そう思う。風になびく黒髪。すらりと伸びた手足。凛とすました表情。儚げに、文庫本に視線を落とすその瞳。その絵に描いたような美しさは、朝日よりも眩しく見える。

 

坂を上りきった頂上の、他より一回り太い電柱。そこがわたしたちの、毎朝の待ち合わせ場所だ。

 

「おはよーフラちゃん、待った?」

 

「一分と七秒くらい待った」

 

「よっしゃ、あんまり待ってないね」

 

 いつもわたしは待たせる側だ。というか、フラちゃんの到着がやたら早い。

 

「んで、本日の遅刻の言い訳は?」

 

「食パン食べてた」

 

「食べながら来たらいいでしょ」

 

「それで転校生とぶつかったらどうすんの」

 

「トラックよりマシでしょ」

 

「そりゃトラックよりはね」

 

 あまりに意味のない会話。寝て起きたらきっと忘れている。そんなやり取りでわたしたちは、笑いながら学校へ向かう。いつもの、普通の景色だ。

 

普通に学校に行って、普通に授業を受けて、たまに寝て、普通に一日を終える。転校生とはぶつからない。海賊も忍者もいない。誰も隣の世界から攻めてこない。突然化け物になったりしない。殺人事件に遭遇しない。トラックには多分轢かれない。当たり前の、普通の日常。

 

 

午前の授業の終了を告げるチャイムが鳴り、昼休み。隣の席のモカちゃんに起こしてもらい、目を覚ます。お弁当と教科書のはいったカバンを持ってダッシュで中庭へ向かう。さっきの日本史の授業はしっかり眠れたからお元気いっぱいだ。

 

フラちゃんの教室から中庭まではすこし距離がある。今度こそ先回りしてフラちゃんを驚かせてやる。今朝のリベンジだ。フラちゃんが驚いているとこ、あんまり見たことないけど。

 

教室を出てわずか一分。フラちゃんはすでに中庭のベンチに座って本を読んでいた。ズコーッ、と古いタイプの漫画のように、わたしは脳内で滑った。

 

「ちょっとフラちゃん、はやすぎない? 授業いま終わったとこだよ? あ、さてはサボったな」

 

「サボるわけないでしょ、チノじゃないんだから。たまたまはやく終わっただけよ」

 

「サボってないですー。授業中に寝てるだけですー」

 

「似たようなもんでしょ」

 

「でもほら、睡眠学習ってあるじゃん。あれだよ、あれ」

 

「それで? 効果の方は?」

 

「フラちゃんよ。この世にはね、解明してはいけないヤバい謎というものがあるのよ」

 

「そうね。あんたの思考回路とかね」

 

 ぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら、もぐもぐとお弁当を食べ続ける。口がまったく休まらない。マナー的にはいけないのだろうが、ここにはわたしとフラちゃんのふたりしかいない。周りのことなど気にせずマシンガントークを乱射できる。いつの間にかお弁当箱が空っぽになっていた。わたしはカバンからメロンパンをとり出す。

 

 フラちゃんのお弁当はまだ半分ほどのこっている。といっても、フラちゃんのお弁当はわたしより多い。運動部の男子くらいあるんじゃなかろうか。華奢な体でよく食べるなあ。すっと伸びる黒髪の上に白い光を踊らせながら、ほっぺたをふくらませてもぐもぐしている。

 

なんて美しいんだろう。なんて可愛らしいんだろう。ふう、と、ため息が漏れる。胸が絞めつけられるように、微かに痛む。フラちゃんを見ているといつもこうなる。なにが原因なのか、さっぱりわからない。わたしは呪われている。それだけが、なんとか納得のできる答えだ。

 

「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」

 

 フラちゃんはおもむろに立ち上がりそう言った。ごゆっくり、と、メロンパンをくわえたまま返事をする。

 

時間を持て余し、なんとなく空を見上げてみた。真っ白な雲がのんびりと、鯨のように泳いでいる。時間までゆっくり流れているみたいだ。このまま時が止まってしまえばいい。フラちゃんの隣で、ずっとふたりで柔らかな風に吹かれたい。心からそう思う。

 

不意に、刺すような視線を感じる。ぐりんと首を回して背後をみる。だけどベンチのすぐ後ろは壁。すこし見あげたところに窓があるが、そこから校舎内の様子は角度が悪く見ることができない。逆に、この窓からわたしたちを見ようとするなら、身を乗り出さなければいけないはずだ。

 

そこにちょうど、フラちゃんが戻ってきた。よかった。そばにいてくれるだけで心強い。

 

「ねえ、いま誰かに見られてた気がしたんだけど」

 

「気のせいに百ドル」

 

「賭けないから」

 

「じゃあこいつじゃない?」

 

 フラちゃんはななめ後ろを指さす。金属製の、謎のオブジェがある。表面はつやつやとしていて、ぐにゃりと歪んだわたしたちが映りこんでいる。ちょうど、わたしたちが立ったときより、やや大きいくらいだ。人間のような形をしていなくもないが、実際になにをかたどっているのかは、さっぱりわからない。普段は気にも留めないが、このときばかりはやけに不気味に感じた。

 

「いやいや、それはないって。こわいこと言わないでよ、もう」

 

「とりあえず、教室もどろっか」

 

 フラちゃんはお弁当箱をカバンに突っ込んだ。すこし目を離した隙に、お弁当を平らげている。フラちゃんはいつも好物を最後にほおばる。その一口はほかのおかずを食べているときよりしあわせそうで、もぐもぐする時間も長い。そんなかわいい瞬間を見逃すなんて。くそう、誰かはわからないが、視線の主め、ゆるさない。

 

「ほら、行くよ」

 

「ちょっ、まってまって」

 

わたしはのこりのメロンパンを口に詰め込んで、その場を後にした。

 

 

 

午後のホームルームが終わり、挨拶とともに教室が騒がしくなる。どのクラスも同じような時間に解散するため、廊下は混雑している。いま帰ろうとしても、歩けたもんじゃない。もうすこし人が減るまで待つのが得策だ。

 

ゆっくり帰りの支度をしていると、昼休みの視線をまた感じる。やっぱり、あの変なオブジェじゃない。けれど、今度は人が多すぎて、誰かわからない。こっちを向いているようで、そうでない人なんていくらでもいる。

 

じっと人混みを凝視していると、いきなり視界いっぱいに、髪の長い女の顔面が落ちてきた。わたしはびっくりして、おもいきり飛びあがった。窓枠に後頭部をぶつけ、鈍い音が響く。何人かの生徒が、なにごとかとこちらを見ている。

 

「ごめんごめん。そんなにビビるとは思ってなかった」

 

 フラちゃんが、覗き込むように上半身を折り曲げていた。その表情はいたずらが成功したこどものそれだ。

 

「あのね、フラちゃんね、やっていいこととね、悪いことがね、あると、おもうんだよ」

 

 いくらなんでも、これは心臓に悪い。フラちゃんだから怒りはしないが、嬉しくはない。かわいいぬいぐるみにぶん殴られた気分だ。わたし、誕生日にサプライズでパイとか投げつけられたら喜べないタイプだな。そんなことされないと思うけど。

 

「だからごめんってば。パン買ったげるから許して」

 

「そんなもので餌付けされるほど安い女じゃないの」

 

「じゃあ『星空珈琲』奢るって言ったら?」

 

「わたし、フラちゃんにならなにされたっていいわ」

 

しかたない、許してあげよう。それに、ちょうどさっきの視線の話がしたかったところだ。この場を去る理由ができたなら、善は急げだ。わたしはフラちゃんとともに、逃げるように教室を出た。

 

星空珈琲。わたしたちの憩いの場だ。なにかあった日は必ずふたりでここに来る。言わばふたりの聖地だ。もちろん、なにもなくてもしょっちゅう来る。

 

「チョコフラペチーノをベンティで」

 

 わたしたちはいつも同じものを飲む。期間限定の新商品が出ていようが、見向きもしない。

 

 店員が、またこいつらか、という顔をする。ベンティはめちゃくちゃ大きい。この店で一番大きいサイズだ。正確な量は知らないが、五百ミリリットルのジュースより重たい。それだけに、めったに注文されないのだろう。新人の店員だと、どのくらいの量で作ればいいのか他の店員に聞いている様子をよく見る。

 

 けれどわたしたちはベンティで飲む。それだけ飲まないと胃も心も満たされないのだ。おいしいものはいつまでも味わいたい。そんなこと、義務教育で習うまでもない常識だ。

 

 おまけに女子には別腹が備わっている。好きなものの数だけ、胃袋がある。牛は胃袋が四つあるらしいが、私たちはその比ではない。それだけ内臓が詰まっているのだから、くびれなんてできなくても仕方ない。だけどフラちゃんはなぜかくびれている。わたしと同じものを飲んでいるのに、この差はなんだ。きっと、胃袋の位置が違うのだろう。そうだ、そういうことなのだ。

 

「そういえばね、聞いてよフラちゃん。さっきも教室でね、誰かに見られてる気がしたの」

 

「マジで? あれ気のせいじゃなかったんだ。どうしよ、百ドルとかいまパッと出せないわ」

 

 後ほどなら出せるのかよ。というツッコミは置いておく。フラちゃんがてきとうなことを言いがちなのはいつものことだ。

 

「じゃあその百ドルで、真面目に相談を依頼したいのだけれど」

 

「……なによあらたまって」

 

 フラちゃんの目つきが、すうっと真剣になる。フラちゃんは表情の変化の振り幅が乏しい。ふざけたことを言っているときや、美味しいものを食べているときだって、傍から見れば真顔に見えるだろう。けれどよく観察すると、ちゃんと表情は変わっている。なんなら、顔に出やすいくらいだ。だからいま、フラちゃんが真剣に話を聞いてくれようとしているのもよくわかる。

 

「さっきから言ってる視線の話。本気で怖いんだけど」

 

「んー、チノの気のせいじゃないのはわかったけど、だからってすぐにどうとは言いきれないんだよねぇ」

 

「そこをなんとか、安心できる答え出してよフラえもん」

 

「きがるにいってくれるなあ」

 

「あたし気色悪くって、午後の授業も眠れなかったんだよ?」

 

「それはいいことじゃん」

 

 フラちゃんの言うことはもっともだ。

 

「あれじゃない? あんたのこと好きな奴が見てんじゃない?」

 

「ない。それはない」

 

 それだけは本当にない。わたしに好意を寄せる人間なんて、いるはずがない。

 

「わたしのこと好きな人なんて、ほんとにいたら雪が降るよ」

 

「冬場はわりと雪降るけどね、この辺」

 

わたしは色恋沙汰とやらがよくわからない。いままで男の子を好きになったことなんてないし、意識したことすらない。もちろん、好きになられたことも一切ない。だから、まわりの誰が誰を好きで、誰と誰がなんだという話にはとびきり疎い。流行りの映画とかの話よりさらに疎い。

 

 わたしは、フラちゃんと一緒にいることができればそれでいい。恋愛なんて、無縁でいい。恋人がいる人たちは楽しそうにしているけれど、いまのわたしには必要ない。

 

「まあとりあえず、不届きなやからがいたらすぐ私に言いなよ。殴り殺してあげるから」

 

「いまのフラちゃんが一番不届きだよ」

 

 フラちゃんは満面の笑みで言った。フラちゃんはときどき、当たり前のように物騒な発想を口にする。そういえば、はじめてフラちゃんの声を聞いたときも、危ないこと言ってたっけ。

 

 この日は、はやめに家に帰った。一応心配だからと、フラちゃんが家まで送ってくれた。その間、視線は一度も感じなかった。

 

 眠ろうと目を閉じると、真っ暗な中でフラちゃんの言葉が蘇る。

 

「わたしのことを好きな男の子……」

 

意味不明な戯言を、声に出してみた。そんなはずないと、何度も否定する。しかし、フラちゃんの声はいつまでも繰り返される。その声は、いつもより冷たく感じた。

 

 

 

次の朝、あまりいい目覚めではなかった。いつも身支度は遅い方だが、この日は輪にかけて進まなかった。けれど昨日の今日でちんたらしていては悪い。牛乳だけ飲んで、クロワッサン片手に家を出た。

 

玄関先で、フラちゃんが待っていた。

 

「お、今日ははやいね」

 

「なんでいるの? 方向真逆じゃん」

 

「猫追いかけてたら、たまたまね。別に昨日の話が心配だったからとか、そんなんじゃないから」

 

「フラちゃん犬派でしょ。いいのにわざわざお迎えとか、大丈夫だよ」

 

「いやほんと心配とかしてない。マジでしてない」

 

「ちょっとはしてよ」

 

昨日から引きずっていた不安は瞬く間に消えてなくなった。やっぱり、フラちゃんといると安心する。きっと、わたしの気のせいなのだろう。うん、そういうことにしよう。考えすぎるのはよくない。なんだって前向きにとらえなくては。よし、今日も授業中に眠れそうだ。

 

例の視線は、丸一日感じなかった。昼休みにはすこし怯えながらお弁当を食べることになったが、結局なにもなかった。

 

 午後の国語の授業は、開始三十秒くらいでもう退屈になった。雑談をしてから授業に取り掛かるのはいいのだが、いかんせんその話が面白くない。いまも話している、雪山に遭難した時の話なんて、もう三回目だ。

 

 わたしはぼーっと窓の外に目をやった。昨日の青空は、灰色の雲の隙間に追いやられていた。空模様さえ退屈だ。そのうちまぶたが重たくなって、わたしはまどろみに沈んでいった。

 

 

 

「まあ、無駄話するだけいいんじゃない」

 

 フラちゃんが、わたしの隣の机に腰かけて言う。授業が終わり、ホームルームが過ぎても寝ていたわたしは、担任にあきれられ、怒られもしなかった。帰り支度をしながら、廊下の渋滞が緩和されるのを待つ。

 

「フラちゃん国語の先生だれだっけ」

 

「気だるげロン毛。わかりやすいけど、淡々としすぎ」

 

「あー、あの先生ね。それはもっと無理。寝ちゃう」

 

 まあ、誰の授業だろうと寝るときは寝るのだけど。

 さあ帰ろう、と立ちあがったところを、突然呼び止められた。

 

「あ、あの、千野……だよな」

 

「え? あ、うん。えっと……?」

 

 同じクラスの男の子だ。授業中の班組みとかで、何度か話したことがある。

 

「何か用? 牧屋」

 

 ひどく不愉快そうにフラちゃんが訊ねた。正直、怖い。眉間にくっきりと三本のしわが刻まれている。これで不機嫌じゃなかったら、タチの悪い顔芸だ。

 

「あ、ああ。千野にちょっと話があるんだけど、いいかな」

 

 わたしに? 一体なんだろう。唐突に話しかけられるようなこと、した覚えがない。

 

「チノと話したけりゃ、まず私通しな」

 

いや、そんなルールないのだけれど。

 

「悪い、富良辺。いまだけ、千野とふたりにしてほしい。ごめん、頼むよ」

 

牧屋君はまっすぐフラちゃんの目を見つめている。それと対称的に、フラちゃんは、いまにも殴りかかりそうな形相で彼を睨みつけている。この場面だけ切りとると、フラちゃんの方が悪者に見えてしまう。

 

「ふうん、そ」

 

何度かわたしと彼の顔を往復した後、ため息を吐いて教室を出ていった。

 

「それで、話って?」

 

そう質問した途端、緊張が込みあげてきた。いつもフラちゃんといっしょだから、フラちゃん以外の人とふたりになることなんてほとんどない。せいぜい授業中にモカちゃんと喋るくらいだ。それにさっきのフラちゃんの表情。あんなにも感情が剝き出しなところ、初めて喋った時以来だ。昨日の夜、何度も反芻したフラちゃんの言葉が、いままさに耳打ちされた気がした。

 牧屋君はキョロキョロと辺りに目をやっている。他に人がいないことを念入りに確認しているみたいだ。それから大きく深呼吸をして、真剣な面持ちでわたしを見た。

 

「オレ、千野のことが好きなんだ。よかったら、付き合ってほしい」

 

 頭が真っ白になった。まさかすぎる。こんなことが、ほんとうにあるなんて。なんて返せばいい? どうすればいい? フラちゃん、助けて。なんでどっか行っちゃったの。世の男女はこんな駆け引きをしていたのか。よくもまあ心が壊れないものだ。

 

「あ、ええと、その」

 

 なにが正解? こんなこと、考えたこともなかった。なに? わたし明日死ぬの? もうなにがどうなっているのかわからない。ドッキリ? そうだドッキリだ。誰かがカーテンの裏とかに隠れていて、カメラで撮影してるんだ。

牧屋君も、恥ずかしそうにしている。耳まで真っ赤だ。一瞬、目が合いそうになり、お互いすぐに目を逸らした。

沈黙が続く。なにか言わなきゃ。でも、なにを? 自分がどう思っているのかもわからない。嫌ではないのだけれど、嬉しいのかと言われると、どうにもそれはぴったりと当てはまらない。恥ずかしい。その一点張りだ。とにかくどうすればいいのかわからない。誰か助けて。

 

フッていいよ」

 

 え? 誰? 女の子の声。フラちゃんじゃない。フラちゃんの声はもっと低い。でも、聞き覚えがある。

 

「だから言ったじゃん。話したこともないのにコクってもダメだって。アツトあんた、いいかげんに学習しなって」

 

 カーテンの裏から、女の子が出てきた。まるで漫画のワンシーンみたいだ。カメラは持っていない。

 

「モカちゃん?」

 

「やっほチノちゃん、おひさ」

 

 そう言って現れたのは、同じクラスの真壁モカだ。わたしがフラちゃん以外で面と向かって会話ができる、数少ない友達だ。でも、どうしてそのモカちゃんがここにいるかは理解できない。牧屋君も、さっきまでの赤面が嘘みたいに青ざめている。

 

「モカお前、いつからいたんだよ! ていうかなんでいるんだよ!」

 

「あんたアホだからね。なんかやらかさないように見てたの。ほんとはカメラ回して弱み握っとこうかと思ったけど充電なかった」

 

「これ以上オレの弱み握ってどうすんだよ」

 

「冗談よ」

 

 なんだかもうよくわからなすぎて、頭が痛くなってきた。とりあえず、撮影されてなくてよかった。いや撮影されてそうな前提がおかしいのだけれども。

 

「あとね、アツトが好きな人できたっていうから聞いてみたら、チノちゃんだっていうから。心配で見にきちゃった。チノちゃんそーゆー系の話、疎そうだし」

 

「あ、うん、なるほどね。いや、なにもなるほどじゃないけど。いまどういう状況なの」

 

 そうだ。わたしはいま、どうなっているんだ。次々に状況が渋滞していくから、牧屋君も置いてけぼりだ。

 

「あー、じゃあ、ご両人、さっきの続き、どうぞ」

 

「どうぞ、じゃねえよ。どうすりゃいいんだよ」

 

 どうもさっきから牧屋君とは意見が合う。そりゃあ告白の場にほかの人がいたらこうなる。フラちゃんにそばについていてほしかったが、なるほどいなくてよかったかもしれない。

 

「……じゃあ、返事、いいかな」

 

 よくないよ。牧屋君、切り替え早すぎ。わたしは依然どうすりゃいいんだよ。前言撤回、やっぱフラちゃん助けて。いや誰でもいいから誰か助けて。この際モカちゃんでもいい。

 

「あ、えっと、その……はい」

 

 言ってしまった。

 

「え、いいの? ホントに?」

 

「ちょっとチノちゃん、こいつに気とかつかわなくていいって」

 

 気をつかっているとかじゃない。むしろ、ほんとうに彼のためを思うなら断るべきだろう。好きかどうかもわからないのに付き合うなんて、相手の心を弄ぶようなものだ。けれど、面と向かって好きだと言われて、無下にできるほどわたしは強くない。それに、いつかの視線が牧屋君からのものだったら。そう思うと、断るに断れない。わたしだって、フラちゃんのことをいつも見つめている。好きなものは見つめていたい。わたしのことを好きになるというセンスは理解できない。けれど、見ていたいという気持ちはわかるのだ。

 

恋愛というものがわからないわたしにとっては、あまりに残酷な二択。だったら、付き合っていれば好きになるかもしれないという、都合のいい可能性に縋ってみる方が良いかもしれない。

 

 かくしてわたしは、人生初の、彼氏というものができたらしい。やけに肌寒い、春の日だった。

 

 

 底冷えする朝だった。部屋のなかは明るいのに、布団に包まっていても寒い。得意げに街を照らす太陽が、偽物に思えた。

 

 朝の待ち合わせ場所に、フラちゃんはいなかった。どうしたのだろう。風邪でもひいたのだろうか。それなら連絡してくるはずだ。先に行った? だとすればショックだ。昨日のこと、相談したかったのに。

 

 昼休み。いつものベンチに向かう道中、ちょうど教室からフラちゃんが出てきた。目が合った途端、顔をしかめられた。彼女は教室に向き直った。

 

「ねえフラちゃん、お弁当いっしょに食べよ?」

 

「いや」

 

 即答だ。

 

「牧屋と食べれば? デキてんでしょあんたら」

 

「いや、あれは……」

 

「見りゃわかるわ、あんなもん。牧屋に絡まれてもメンドいし、私ひとりで食べるから」

 

「ねえ待って」

 

「しつこい。ひとりなんて慣れっこよ」

 

 荒々しく音を立ててフラちゃんはドアを閉めた。はっきりと、拒絶の意思を突きつけられた。

 

 怒ってる。フラちゃんが怒ってるところはあまり見たことないが、これは完全に怒っている。だけど、ただ怒っているだけにも見えない。なんで? わからない。その理由をききたくても、とりあってはくれない。わたしは、どうすればいいんだろう。

 

「あたしじゃご不満かい?」

 

 知らぬ間にモカちゃんが背後に忍び寄っていた。わたしはぎょっとした。昨日もそうだったけど、なんでこの子はこんなにも気配がないんだろう。ともかくわたしは首を縦に振った。

 

 階段を登りきった先に、ぼろぼろの机と椅子が危なげに置いてあった。たしか、去年くらいに男子生徒がたむろして煙草を吸っていたせいで、立ち入り禁止になった場所だ。その前から生徒は入ってはいけなかった気もするが。

 

「いいの? 先生にばれたらダメなんじゃない?」

 

「そりゃ先生にばれたらダメだよ。だからばれないようにしないと」

 

 モカちゃんは唇に人差し指をあてて、得意げな笑みを浮かべた。そして堂々と素知らぬ態度で侵入していった。

 

積みあげられた大量の机と椅子は、歪んだものが複雑に絡まり組み合わさり、崩壊寸前のピサの斜塔のようだ。踊り場のドゥオモ広場には埃のかぶっていない一帯があり、わたしたちはそこに腰を下ろした。

 

「で、どう? アツトとはうまくいきそう?」

 

「んー、まだわかんない。今日まだ喋ってもないし。目が合ったらすぐ逸らすし」

 

 そう言いながら、あの時の視線はやはり彼のものだったのではないかと思った。もちろん、中庭の件はどうやって見ていたのか不明なままだが、どこかしらから視線を送っていたのだろう。

 

「あー、たしかにあいつそーゆーとこあるかも。根性ないから、付き合ってからも話しかけられないんだよ。中学のときも同じようなこと、あいつの彼女に相談された」

 

 あ、もう元カノか、と、わたしの目を覗き込みながら訂正する。

 

「だから、なんかあったらいつでも言ってよ。あたし自慢じゃないけど、あいつのことあいつより知ってるからさ」

 

 にっ、と白い歯をのぞかせて、モカちゃんは笑った。

 

「……よく見てるんだね、牧屋君のこと」

 

「見てるっていうか、ほら、見ないといけない的な? 幼なじみとしてっていうか、あいつアホだからね。保護者みたいなさ、そーゆーのだよ。別に見たくて見てるんじゃないよほんとに断じて決してマジで」

 

 彼女は一息に弁明した。途中でうっかりジュースの紙パックを握りつぶして、悲鳴をあげた。オレンジ果汁の染みこんだサンドイッチをかじる。難しい顔をしていた。何度計算しても答えが合わないときのようだ。それから大きく深呼吸をして、のこりのサンドイッチを袋にしまった。

 

 バレバレのごまかし方に、フラちゃんの姿が重なった。

 

 

次の日も、その次の日も、フラちゃんに会わない日が続いた。会わない、というより、見かけても声をかけられない。反対に、モカちゃんや牧屋君と一緒にいる時間が増えた。いつの間にか、昼休みは自然と立ち入り禁止の場所へ向かっていた。モカちゃんとふたりのときもあれば、牧屋君をまじえて三人のときもある。

 

だんだん麻痺していくみたいに、フラちゃんのことを考えなくなっていった。いやきっと、ほんとうに麻痺していた。どうすればいいのかわからない自分を騙すために、フラちゃんといなくていい理由を作ろうとしていた。それが心地よくなっていた。

 

「そういやさ、なんで千野って富良辺のこと苗字で呼んでんの?」

 

 ある日、唐突に牧屋君はきいた。

 

「呼びやすい呼び方すりゃいいでしょアツトほんとアホ」

 

「語尾みたいに暴言吐くのやめろよ」

 

 モカちゃんは机に座り膝下を振り子のように揺らしている。そのつま先はあからさまに牧屋君の顔面を狙っていた。牧屋君も牧屋君で、メトロノームみたいに体を揺らして回避している。ふたりとも慣れたしぐさのようだ。

 

「べつに、女子がみんな名前で呼び合うわけじゃないし。てゆか『フラちゃん』ってあだ名みたいなもんでしょ。ねえチノちゃん」

 

「んーまあ、そういうのもあるけど、わたしらは、ややこしいから」

 

「ややこしい?」

 

 ふたりは口をそろえて言った。モカちゃんはすぐに納得していたが、牧屋君はちっとも見当がつかないといった調子だった。

 

 

「最近、フラちゃんに避けられてる気がする」

 

 わたしは、思い切ってモカちゃんに相談してみた。この頃にはもうすでに、モカちゃんと昼休みを過ごすのが当たり前みたいになっていた。

 

「だと思う。一緒にいるとこ見ないし」

 

 うーん、とうなりながら、モカちゃんは言う。

 

「あれだね。アツトがチノちゃんとっちゃったからだね。あいつ一回懲らしめよっか」

 

「牧屋君は悪くないと思うけど……」

 

 だけど、モカちゃんの言うことは正しくも思える。フラちゃんと会わなくなったのは、わたしが牧屋君の告白を受けてからだ。決して牧屋君のせいではないのだけれど、それが事の発端には違いない。だとしたら悪いのは、中途半端な態度をとり続けているわたしだ。牧屋君に対しても、フラちゃんにも。

 

「ふて腐れてんのかなあ。フラちゃん、あんましそーゆー態度とらない子に見えるけど」

 

「……そうでもないよ」

 

フラちゃんは、見た目よりずっと感情的だ。たった一度だけ、フラちゃんが本気で怒ったところを見たことがある。思い返せば、あれがわたしとフラちゃんが仲良くなるきっかけだった。

 

一年生のとき、つまり去年の春だ。クラスの男子がふざけて割ったガラスが、わたしの方にも散らばってきた。男子たちは気にする様子はなかった。わたしもケガもしていなかったしそう危なくもなかったから、男子ってバカだなとしか思っていなかった。

 

けれどフラちゃんは違った。黙ってわたしの腕を掴んで割れた窓から遠ざけ、ハンカチを放り投げてきた。そして、ガラス片を踏みつけながら男子たちに歩み寄り、猛獣のように吠えたのだ。あまりの衝撃に、彼女以外の誰もが凍りついた。廊下のざわめきさえ姿を消した。どこから拾ってきたのかわからないありったけの罵詈雑言で、容赦なく男子たちを滅多打ちにした。男子たちは完全に委縮していた。泣きそうなやつもいた。それでもフラちゃんは攻撃を続けた。結局、教頭先生が駆けつけ無理やりその場をおさめるまで、怒号の嵐は止まなかった。

 

ぶっ殺すぞ。はじめて聴いたその声は、稲妻のように激しく、そしておそろしく美しかった。それが、呪いのはじまりだった。

 

あのときフラちゃんは、わたしのために怒ってくれた、一度も話したこともないわたしなんかのために、彼女は感情を剥き出しにした。それなのにわたしは、フラちゃんをひとりにさせてしまっている。わたしは、裏切り者だ。

 

「どうしたの? おなかでも痛い?」

 

 モカちゃんが心配そうにきいた。上履きにひとつ水滴が落ちた。それに続いてひとつ、またひとつ、丸い粒がこぼれてはつぶれた。わたしは涙を流していた。

 

「ううん、だいじょうぶ。痛くないよ」

 

 痛いのは、胸の奥だ。こんな苦しみは初めてだ。骨がきしみ、心臓が握り締められているみたいだ。息もできない。身体は熱いのに、震えがとまらない。わたしは、呪われている。そうでなければ、こんな痛みが身を貫くことはきっとない。

 

「ねえほんとに大丈夫? 次の授業休んだほうがよくない?」

 

「だいじょうぶ、だから。先に教室戻ってて。授業はちゃんと出るから」

 

「……わかった。でも無理しちゃダメだかんね。なんかあったらすぐ保健室行きなよ」

 

 わたしは、精一杯の笑顔をつくってみせた。モカちゃんは去り際に背中をさすってくれた。足音が聞こえなってから、わたしは崩れ落ちて泣いた。誰にも気づかれないように、声を押し殺して。

 

 

 フラちゃんの姿さえ見なくなって、一週間が過ぎた。わたしは日に日に、体調が崩れている気がした。今朝も頭が熱っぽい。けれど、学校に行けばフラちゃんに会えるかもしれない。ほとんど無意識にそう考え、登校していた。

 

授業中に寝ていたら、しんどいなら保健室に行けと、先生に促された。最近はなにかと心配される。というよりは、他の生徒にうつされたくないのだろう。あるいは、単に授業中に寝られるのが嫌なのかもしれない。どうであれ、申し訳ない。本格的に風邪をひいたとはおもっていなかったが、そのうちほんとうにちょっとしんどくなって、その次の授業が終わるまで、机に突っ伏して寝た。

 

「マジしんどそうじゃん。大丈夫か?」

 

 ホームルームが終わると、牧屋君が話しかけてきた。

 

「だいじょうぶ、へいきへいき。あれだよ、しんどそうって言われたらほんとにしんどくなっちゃうやつ」

 

「ああなんかそんなのあったな。フラミンゴ効果だっけ」

 

「プラシーボ効果だと思う」

 

 わたしも正解はわからないのでこの話はこのへんにしておく。帰ろうと席を立つと、ドアの向こうのフラちゃんと目が合った。わたしはフラちゃんのもとへ走ろうとした。だけど、人が多くて近寄れない。フラちゃんは隣の牧屋君に目を向けると、足早に去ってしまった。

 

「おうどうしたマジで大丈夫かよ。なんか今日変だぜ」

 

「だいじょうぶだって。いっつも変だし」

 

「千野がそう言うならいいけど……。そうだ、この後時間ある?」

 

「……あるっちゃあるけど」

 

「『星空珈琲』行こうぜ。しんどいときこそ美味いもん飲んだ方がいいからさ」

 

「うん。行く。ありがと」

 

 なんだか、申し訳ない。彼はわざわざ、気にかけてくれているのだ。わたしは自分のことだけでいっぱいいっぱいなのに。この優しさを、どうしてわたしなんかに向けるのだろう。ほかにもっといい人がいるに決まっているのに。

 

「オレなに飲もっかな。期間限定の美味いんだっけ。千野はどうする?」

 

「チョコフラペチーノの、うーん、ショートかな」

 

「それでいいの? なんか期間限定の出てっけど」

 

「いいよ。わたしそれしか飲まないから」

 

「へー、そなんだ。変わってんな。んじゃ買ってくるよ。先にどっか座ってて」

 

「おっけ、ありがと」

 

 本音を言えばベンティがいい。というかベンティでも足りない。いまならベンティ三杯はいける。だけどそんなに飲んだら、多分絶句される。一杯でも店員に、正気かよという顔をされるのだ。男の子の前でそんなに飲めない。さすがにそのあたりはわたしもちゃんと女の子なのだ。

 店内の落ち着ける席を探して座る。前にフラちゃんと来たときと同じ席を選ぶ。

 

「ほーい買ってったよ。ショートってこんな小さいんだな」

 

 めちゃくちゃ小さいよ、ショートは。一番小さいサイズだもの。誰が飲むんだよってくらい小さい。まわりの目とか気にしてる人なら飲むのだろうか。

 

「やった、ありがと。いくらだっけ」

 

「いーよいーよ。奢るって」

 

「ところで牧屋君、ちょっと質問があるんだけれど」

 

「ん、どした」

 

「こないだの昼休みさ、中庭でわたしたちがお弁当食べてるところ、その、見たりしてた?」

 

「いいや、見てないけど。なんで?」

 

 牧屋君じゃない? じゃあいったい誰が? いや牧屋君だと勝手に断定するのも失礼な話だけど。ともかく目の前の彼が否認するのなら、疑うのはやめよう。

 

「いやべつに、なんでもないよ」

 

「なんだそれ。」

 

 牧屋君はあきれるように笑った。

 

「あれじゃね? なんか変なオブジェあるじゃん」

 

「ああ、あの銀色のなんか変なやつ」

 

「そうそう。あれに反射した自分が見てたとか」

 

「こわいこと言わないでよ。ひっぱたくよ」

 

 牧屋君は期間限定のなんたらマキアートを吹きだしそうになった。口をぎゅっと閉じてがまんしたら、すぐさま飲みこんで、それからクラッカーが弾けるみたいに大笑いした。こどもみたいに、無邪気な笑顔だった。モカちゃんがずっと一緒にいるのもわかる気がする。

 

「千野お前、結構えげつないこと言うんだな」

 

「そう?」

 

 そんなことはないと思う。調子がいい時のフラちゃんの方がよっぽど切れ味抜群だ。もしかして、フラちゃんの言いそうなことがうつっているのだろうか。

 

「まあ、そーゆーとこもかわいいけどな」

 

「やめて恥ずかしい」

 

 かわいい。たしかにそう言われた。男の子の声で、かわいい、と。なんだろう、この感じ。おなかが、ぐるぐるする。若干、いや、かなり気持ち悪い。途端に、チョコフラペチーノから味がしなくなった。ショートだったのが幸いだ。それでも、残り一口が億劫だ。男の子に奢ってもらったチョコフラペチーノ。そう思うと、飲む気が失せてしまう。あんなに好きだったのに。これを飲めば確実に吐いてしまう。

 

「なあ、やっぱ調子悪そうだよ。もう家に帰った方がいいって。送ろうか? 倒れたりしたら危ないし」

 

「ごめん、そうする。でも、ひとりで帰れるから。フラペチーノ、ありがとう。おいしかった」

 

 わたしは財布から小銭を数枚取り出し、彼の前に並べた。吐き気の理由はわからないが、なぜかそうしたほうが軽くなる気がしたのだ。牧屋君は最後まで心配してくれた。だけど心配されればされるほど、胃の中がかき混ぜられる気分になった。わたしはなんとか家に辿り着くと、そのままベッドになだれ込み、気を失った。

 

 

ひどい熱が出た。全身が鉛みたいに重く、身動きが取れない。なにも口にしていないのに、吐き気がして堪らない。心臓が潰れるような痛みが、鼓動のたびに押し寄せた。痛みは反響する音のように、重なりあってどんどん強まる。滲んだ涙でもうなにも見えない。苦しみにあえぐ声も出ない。朦朧とする意識を、手放したり、掴まえたりを繰り返した。

 

夢の中でさえ眩暈がした。真っ白な場所を、ただ歩いた。地面を踏んでいる感覚はなかった。何度も躓いて、何度も転んだ。遠くでフラちゃんが手招きしている。けれど、必死に歩こうとするほど、足になにかが絡みついて、歩けなくなる。やがてフラちゃんは、わたしに背を向けた。行かないで! 這いつくばって近づこうとするけれど、もがくほどに身体は動かなくなる。フラちゃんは振り返って言った。

 

「だいじょうぶ」

 

 フラちゃんは光に呑まれて消えた。

 

 目が覚めた。

 

 

 次の日、放課後にわたしは牧屋君を呼び出した。ひとりで黙って泣き崩れた、あの場所に。

 

「ごめんね急に」

 

「オレはいいけど……。千野、大丈夫かよ。昨日学校休んでたけど」

 

「うん。だいじょうぶ」

 

 だいじょうぶ。心の中でそう唱えた。大きく息を吸い込んで、吐く。目を閉じて、開いた。牧屋君のまっすぐな瞳が、こちらを見つめる。

 

「わたし、やっぱり、牧屋君とは付き合えない」

 

 ごめん。彼のことを見ていられず、わたしはうつむいてしまった。期待させておいて、あとでフるなんて。わたしは最低だ。

 

「そっか、うん。いや、なんとなくわかってたよ」

 

 彼は意外にも、明るい調子で言った。さわやかな、憑き物の落ちたような顔だ。

 

「断り切れなかったんだよな。そんな気がしてた。気づいてたのに、言ってやれなかった。こっちこそ、ごめんな」

 

 わたしはひたすら謝った。彼もひたすらに、気にしなくていいと笑った。

 

「つーかどーせこのあとまだ用事あんだろ? 早くそっち行ってきな。オレのことはもういいからさ」

 

「え、あ、うん。ごめん。なんでわかったの?」

 

「だってなんかそわそわしてるし。それにオレ、そーゆーのすぐ気づくんだよ」

 

 彼はこれでもかとドヤ顔をしてみせた。

 

「ほんとにごめんね、ありがとう。でもだったら、もうちょっとモカちゃんのことも見てあげなよ」

 

「はあ⁉ なんでいまあいつが出てくんだよ!」

 

 最後にもう一度、牧屋君にごめんねと手をあわせる。それから急いで教室に向かった。ドアを開けると、わたしが呼び出したモカちゃん以外は、誰もいない。

 

「どうしたの? 相談って」

 

 オレンジ色に染まる教室の中、モカちゃんは窓際の机の上に座っていた。ゆらゆら揺れるカーテンに隠れては現れる。

 

「もしかしてアツトのこと? それだったら、ほっといたらいいって言ってるじゃん。あたしがなんとかするから」

 

「ううん、それはもう大丈夫。そうじゃなくて」

 

 校庭では、運動部の生徒の声がする。誰もが、自分の選んだ道に夢中になっている。

 

 わたしは、すべてを話した。やっぱり、彼のことは好きになれないでいる。嫌いではない。わたしのことを考えてくれているし、友達でいられたらいいと思う。けれど、彼の笑う顔を見て、思い浮かべるのはフラちゃんだ。彼の声を聞けば、フラちゃんの声が聞きたくなる。彼との時間を過ごすほど、フラちゃんのいない時間が苦しくなる。夢の中でまで、フラちゃんに会いたがっている。

 

わたしは、呪われているのだ。言葉にして口にすると、気の遠くなるような痛みが胸を貫いた。

 

逆光で、モカちゃんは影を帯びている。そのせいか、彼女の笑顔は不気味に見えた。モカちゃんは黙って、静かに机から降りた。そして、ささやくように、だけどはっきりと、言った。

 

「それはね、呪われてるんじゃなくて、恋してるっていうんだよ」

 

 キン、と白球を打ち上げる音が、空高く響いた。それからしばらく、なにも聞こえなかった。カーテンの隙間から、夕日が鋭く差し込んだ。眩い光がいっぱいに広がって、私のいるこの場所が、まるでこの世じゃなくなったみたいだ。

 

 耳にしたことはある。そういう人もいるのだと。だけど信じられない。わたしも、そうだなんて。わたしも、恋をしているだなんて。わたしにかけられた呪いが、そんなに美しい名前を持っているなんて。

 

ああ、そうだ。わたしはフラちゃんが好きだ。

 

「言ってきたら。好きって」

 

「うん、いや、でも、変だよ。おかしいよ。女の子なのに、女の子が好きだなんて。」

 

 伝えたい。たまらなく、気持ちを伝えたい。でも、こわい。きっと、嫌われる。好意を寄せられることがどれだけ重荷になるか、それに半端に応えることがどれだけ罪深いか、わたしは身をもって知っている。おかしいのはわたしなのだ。わたしにかけられた呪いに、フラちゃんを巻き込みたくない。そんな十字架を、フラちゃんに背負わせたくない。

 

「好きな人を好きでいることに、おかしなことなんてなにもないよ」

 

 当然のように、彼女は口にする。その言葉は、水面に落ちた雫のように、わたしのなかに溶けていった。そして波紋のように、揺らめきながら溢れていく。

 

「ほら、わかったらさっさと行った!」

 

モカちゃんの手が、わたしの背中を強く叩いた。ばん、という音とともに、わたしのなかでなにかが弾けた。

 

宙を舞う花びらのように、ふわっ、と浮いた感覚がした。そう思った時にはもう、わたしは廊下を駆けていた。

 

階段を飛び降り外に出て、中庭を突っ切る。生い茂る木々。錆びたベンチ。なにかよくわからないオブジェ。いつもの景色が、矢のように視界を抜けていく。隣にフラちゃんはいない。

 

 遠くに人影が見えた。ちょうど、下駄箱から出てこようとしている。風にあおられなびく黒髪。間違いない、フラちゃんだ。わたしはよりいっそう速度を上げた。いまのわたしは、髪はぼさぼさで、顔もぐしゃぐしゃで、汗にまみれて息を切らして、ひどくぶさいくなのだろう。それでも構わない。見た目を気にしていたって、体裁を繕ったって、どうしようもないのだ。わたしは張り裂けるような声でフラちゃんを呼んだ。

 

「なに?」

 

 フラちゃんは目線だけこちらに向けて、冷たい声でそう返した。

 

「チノ、あんた男といたんじゃなかったっけ」

 

「違うの、あれは、断りきれなくって。でも、もう断ったから、だから……」

 

「ふうん、そ」

 

 フラちゃんはわたしに背を向け歩き出した。その動きに沿って、黒髪が曲線を描く。こんな時まで、フラちゃんの髪には見惚れてしまう。

 

「お願い、話を聞いて!」

 

 聞きたくない。そんなふうに、フラちゃんは遠ざかろうとする。ダメだ、このままじゃ。いま伝えなければ、わたしは一生伝えない。けれど、いざ口にしようとしても、うまく言葉にならない。こわい。言葉にして、声に乗せて、相手に伝えるのが、たまらなくこわい。だけど、何も伝えられないのは、もっと嫌だ。

 

 わたしは、思いきり叫んだ。

 

「わたし、フラちゃんが、チヨコちゃんが好きなの!」

 

 言ってしまった。もう戻れない。伝わるだろうか。いや無理だ。終わりだ。わたしたちはもう、友達ではいられなくなる。ああ、消えてしまいたい。ごめん、フラちゃん。本当に、ごめん。わかっている。わたしは、呪われているのだ。

 

フラちゃんは立ち止まり、振り返った。細く、白い指が頬に触れる。

 

「私も好きよ。チヨコ」

 

 目が合った。透きとおる宝石のような瞳が、すこし潤んでいる。好き。たしかにフラちゃんはそう言った。望むことすらままならなかった奇跡を、彼女はいま口にした。

 

「気づかなかった? 私、ずっとチノのこと見てたのに」

 

 温かく、優しく、包み込むような声だった。フラちゃんはふっとはにかんで笑った。

 

このときはじめて気がついた。フラちゃんは、怒ってなどいなかった。ただ、寂しかったのだ。ただ、苦しかったのだ。わたしと同じ。フラちゃんも、呪われているのだ。

 

 たかい空から、季節外れの雪が降ってきた。舞い降りたひとひらの粒は、彼女の黒髪によく映えた。

 

わたしははじめて、名前を呼んだ。わたしははじめて、名前を呼ばれた。

 

 

 

それからわたしたちは、いつもの場所へ向かった。歩きながらの会話は、いつもよりぎこちなかった。だけど、いまならなんでも言えるようだった。

 

「あのさ、フラさんよ、質問があるんですけれども」

 

「なにその口調」

 

「いったい、いつから、その、すすす好きだったりするんでしょうかね」

 

「受験のとき」

 

「え?」

 

 いま、なんて言った? 受験のとき? わたしたちまだ二年生のはずだけれども。中学は別々だし。

 

「私ね、この学校来る気なかったの。第一志望受かってたし。だから試験もやる気もなかったんだけどね」

 

 なるほど、やけに成績がいいのはそのせいか。でも、それとわたしがどうつながるのだろう。

 

「そしたらね、試験教室がわからなくて困ってるあんたを見つけてね。ちょうど、いつものベンチのとこ。それで、決めたの。私ここに通う、って」

 

「ごめんちょっと言ってることが理解できない」

 

 ほんとうになにを言ってるんだこの子。話がめちゃくちゃなのは慣れたことだが、今回は過去最高にめちゃくちゃだ。しかもそれ、わたしの人生最大のピンチのときじゃないか。

 

「はー、この世の終わりみたいな顔で迷子になってたあんたの、かわいいことかわいいこと」

 

「やめて! あのときほんとに絶望してたんだから! ていうか助けてよ、見てたんなら!」

 

「いやそんときは私も試験あったし」

 

「なんでそこはドライなの」

 

 そんなときから見られていたとは。まったく、いつなにがあるかわかったもんじゃない。まあ、わたしもフラちゃんのことはずっと見ているんだが。そのためにずっと隣にいるわけだし。ということはまさか。そうだ、なんで疑わなかったんだろう。いつも一緒にいるせいで勝手に除外していた。そうだ、視線を感じるとき、決まってその場にいなかった。

 

「ねえ、もしかしてさ、フラちゃんわたしのこと見てたりした?」

 

「いつ?」

 

「中庭でお弁当食べてたとき。というか、わたしが相談した件全部」

 

「ああ、うん、とうとうバレたか」

 

「バレたか、じゃないよ。言ってよ! わたし本気でこわいって言ったじゃん」

 

「いやあ、言ったら怒られそうだったから、つい。あとほら、こわがってるあんたがかわいくって」

 

わたしの苦悩はなんだったのか。相談までしたのに。ただまあ、どっちもどっちかもしれない。わたしも、フラちゃんを横から見つめてばかりいるから。

 

「というかじゃあ、もう一つきくけど、中庭のとき、あれどうやって見てたの? あの窓からじゃ見えなくない?」

 

「うん、直接は無理。でも、あのオブジェには反射して映るから見えるのよ。ゴミも使いようね」

 

 そんな馬鹿な。なんて突飛な覗き方をするんだこの子は。そこまでするなら直接見てくれればいいのに。そうしたら、お互いウィンウィンなのに。わたしはもう、ため息しか出てこなかった。

 

「あ、やっぱ怒った? だから隠してたのに」

 

「もーしらない。フラちゃんのバカ。百ドルよこせ」

 

そうこう言っているあいだに星空珈琲に辿り着いた。

 

星空珈琲。なにもない日でも、ふたりでここに来る。言わばふたりの聖地だ。もちろん、今日みたいな日には、必ず。

 

「チョコフラペチーノをベンティで!」

 

好きな人と、同じもの。好きな人と、同じ名前。好きな人と、同じ気持ち。

 

わたしたちは、呪われているのだ。だけどそんな呪いさえ、これからもっと好きになる。