「追憶と葬送」

長編/人間ドラマ/城輪アズサ

 

 ──眼裏(まなうら)の空虚な暗闇に、光が瞬いているのが見える。

 暴力的な微睡みの中──覚醒前の、余韻も情緒もない重苦しさの中、僕はその光を捉えようとする。けれどそれは、見えた、と思った次の瞬間にはか細く、儚く溶けてしまう。

 残照も何もなく、再び視界を暗闇が支配する。

 それは僕がかつて属していた世界、あるいは今も属し続けている世界からの啓示であるように思えた。意識と無意識のあわい、虚構と現実のあわい、そうしたものからの、叫びのような、あるいは糾弾のような啓示。

 暗闇が、夜の空虚が、存在そのものが、針のように僕を刺している。僕はそれに応えなければならない。何かを言わなければならない。言い足りていない言葉を。かつて言い損なったものを。

 ──だが、僕は目覚めてしまった。どうしようもなく。

 

「う……」

 ひとつ呻き、僕は辺りを見回す。そこは現実だった。横からは、やや乱れた寝息が聞こえてくる。

 僕はベッドから這い出し、ぬるい水を腹の底に押し込むと、シャワーを浴びた。水とともに汗が身体からこぼれ落ちていくが、後から後から、身体は新しい汗に覆われていくようにも思えた。

 それと同じように、夢の記憶は、残滓は意識の表層に這い出し続けている。

 蛇口をひねり、身体を拭き、シャツをまといつつリビングに戻ると、ベッドの上で、起きたばかりの怜菜(れな)がぼんやりとした表情でスマホを見ていた。

「おはよう」

 義務的に発された僕の言葉に、彼女は目線だけで返事した。

 僕は小さく息を吐き、横に目をやった。時計は十一時三分を指しており、カーテンの隙間からは激しい陽光が顔を覗かせている。

「夏菜子(かなこ)ちゃん、今日も来てないって……」

 夏菜子。鹿能夏菜子。その名前に、僕は一瞬動きを止めた。

「……夏菜子」

「……まだ、連絡取ってる?」

 気だるげに発されたその言葉に、僕は首を振った。

「これでもう一ヶ月……大丈夫かな」

「…………」

 僕は言うべき言葉を見つけられず、押し黙った。それはカーテンを開け、窓を開放しても変わらなかった。

 やがて彼女は朝食も摂らずに手早く準備を済ませると、早々に部屋から出て行ってしまった。意地でも授業には出たいらしい。「じゃあね」という言葉をかき消すように響き渡ったドアの開閉音すらも消えてしまうと、あとには平日の午前の、清潔な静寂だけが残る。

 僕はベッドを直すこともないまま、ゼリー飲料で喉を圧迫し腹を満たし、椅子に身体を投げだすと、卓上に放置されていた『グレート・ギャツビー』の村上春樹訳をぱらぱらとめくった。そしてそれに飽きると、ようやくペンを取る気分が回復してきた──ように思う。液タブの上にくたびれた様子で鎮座するペンは、手を拒むようにわずかに滑った。

 画面を起動すると、そこには描きかけのイラストが表示された。否、その表現は誤りだ。それは構図をひととおり書き出しただけの抽象画にすぎない。あるいは落書きに。青を基調とした、女子高校生のイラストになる予定のそれは、未だあいまいな、モノクロの靄のなかにあった。

 納期までにはまだ時間があるが、リテイクのことを考えるとそう悠長に構えてもいられない。僕は青臭い葛藤や怒りにも似た義務感から、迷い線が生まれるのも躊躇わずペンを走らせ始めた。けれどその間にも、脳裏には別のイメージが奔っていた。

 夏菜子が失踪して一ヶ月。僕は僕の所在を見つけられないままだ。

 鹿能夏菜子。何度呼んだか分からないその名前は、不思議と舌に馴染まなかった。その理由はたぶん、僕の方にあるのだろう。僕の心の臆病な部分が、どこかで彼女を遠ざけていたのだ。

 ──あの夏の日のことは、今でもありありと思い出せる。

 

─◇◆◇─

 

 夏菜子と僕は、高校の生徒会で一緒だった。それが彼女との出会いであったが、僕らが頻繁に会うようになったのは、卒業後のことだった。

 ──あのころ、僕は凡庸な熱に浮かされた凡庸な専門学生で、たぶん彼女も同じようなものだ。僕たちはまるで似ていなかったけれど、その底にあるものは同じだったのだろうと思う。あるいは、それはただの願望で、やっぱり本当のところは、僕にはぜんぜん分かっていないのかもしれない。

 

 ──もう三年以上も前のことになる。あの日は、たしか夏ではなかったように思う。梅雨だったか、あるいは春の終わりだったか、とにかく、あの日は雨が降っていた。

 学校でもらったチケットを手に、僕は県立美術館を訪れていた。ロココ美術展だ。その種の美術に特有の、無邪気とさえいえる、清涼な色彩にむせ返りそうになっていたとき、ふと視界の端に、僕は夏菜子を見つけた。

 偶然彼女が振り返ったときに、目が合った。そうして、彼女は少し驚いたような表情をしてから、周囲に配慮した声量で、

「久しぶりだね」

 と言った。

「ああ、久しぶり……卒業ぶりだね」

 僕はオウム返しをするようにして言葉を放ったが、それはあまりに小さかったようだった。彼女はあいまいに相づちを打った。たぶん正確には伝わっていないだろう。

 しかし一方で、彼女は言葉が伝わらないことのもどかしさを感じたようで、ハンドサインで外に出るよう促してきた。僕はそれに頷き、《ポンパドール夫人》の微笑みに背を向ける。背徳に似た思いとともに、靴音を響かせて出口へ向かう。

 青白い廊下の隅、空きベンチに腰掛け、僕らはしばらく思い出話をした。それに飽きると近況の報告をし、それにも飽きると、とりとめもない話を、ぽつぽつと放り続けた。

 それから、僕と夏菜子は定期的に会うようになった。

 

 ──なぜ彼女が、消えなければならなかったのか。僕はそのことを、知りすぎているくらいに知っているけれど、それでも、それはやはり言葉でしかない。言葉は言葉のためにしかはたらかない。

 僕は足を止めた。目線の先には、高台の公園へと続く階段が並んでいる。

 そこは何度となく訪れた公園だった。実家からはやや距離があるが、行動範囲の広がった小学校高学年くらいから今に至るまでの、あらゆる記憶がそこには刻印されている。錆び付いたシーソーにも、改修を重ねすぎて原型を留めていないブランコにも。

 誰かがうち捨てた煙草の箱を踏み潰して園内に入ると、ブランコに腰掛けている顔と目が合った。

 拓真。工藤拓真。彼もまた、高校の同級生で、そして、夏菜子の『恋人』だった。目に痛いくらいの白いカッターシャツを着、黒いズボンをはいている。しかしそこには、高校生に特有の刺々しい幼さは見て取れなかった。それもそのはずだ。彼は大学四年生。既に大人なのだ。──僕と同じように。

 ここに僕を呼び出したのは拓真だった。近況を聞きたい、などと言っていたが、この会合の目的が一つしかないことは明白だった。

「よう」

 そう言う拓真に、僕は軽く手を挙げて挨拶を返し、彼の横に腰掛けた。そして口を開く。

「その格好、就活か?」

「まあ、そんなところだ」

「もう四回生だもんな。そりゃそうか」

「出遅れたからな。遅れを取り戻さないと」

「…………」

 ふと、僕は口をつぐんだ。言うべきことが舌に張り付いて、出てこなかったのだ。

 そんなこちらを慮るように、拓真は一つ息をつき、どこか哀れみのような表情を浮かべながら言った。

「……遠慮するなよ。夏菜子のことだろ」

「……わるいな」

「謝るなよ。こっちが申し訳なくなる……しかし、高校のときから変わらないな。そういうとこ」

「夏菜子から、何も聞いてないのか」

 その言葉に、拓真は苦虫を噛み潰したような表情をした。拳を片方の掌に打ち付け、地面を睨み付ける。

「……ああ。何の前触れもなく、消えた。そんなことあるか? くそっ」

「……誘拐とか、何か犯罪に巻き込まれたんじゃ」

「そんなことはもう考えたさ。飽きるくらいにな。今も警察の連中は考えてるだろう。どこまで本気かは知らんが」

 警察。その単語に、僕はふとぞくりとした。失踪という言葉の持つ奇妙な浮薄さが、その繭のような甘ったれた柔さが、一瞬にして崩壊したように感じたからだ。

 夏菜子はいないのだ、ここには。

「あいつは昔から、何を考えてるのか分からないところがあった」

「……たしかに」

 ためらいがちに返すと、ふと、拓真はこちらの目を覗き込んできた。

「……だがそれは、あくまでもオレの話だよ」

「……え?」

「あいつは、お前にだけは本心を見せていたはずだ。あの無表情を、堅い口を割らせることができたのはお前だけだった。違うか?」

「買いかぶりだ。それに──」

 遮るように拓真は口を開く。そこには、はっきりと嫌悪の感情が浮かんでいた。

「〝僕と夏菜子はつきあってない〟か? オレにまで、この期に及んでまだそんなこと言うのか」

「それ以上に、言い様がない」

「とぼけた奴だ。いいか、誰も言わないからオレが言ってやる。お前と夏菜子は──付き合ってたかどうかは知らんが、通じ合ってた。それはたしかだろう? お前とあいつにしか通じない回路みたいなものがあったはずだ」

 僕はため息をつき、目線を外して言う。

「そうかもな。けど──僕にもう、その資格はない。彼女を追いかける権利は、もう僕にはない」

「資格に、権利か。珍妙な言葉だ。言葉でしかない」

「そういう仕事をしてるもんでね」

「この前打ち切られただろ。どうすんだ、これから」

 意識的に数度呼吸を繰り返すと、僕は時計を見やや間を置いてから口を開いた。

「……さあね」

「オレの言えた義理じゃないが……いつまでもそんな生活は続けてられないだろ」

 今度も、返答までには間が開いた。蝉の声が、厭にはっきりと響いている。

「就活」

 ふと、喉から出てきた言葉に自分でも驚いた。だが、それを止めることはできなかった。限界だった。

「え?」

「就活、がんばれよ。それじゃあな」

 言い終わると、なおも回ろうとする舌を封じ込めるように、僕は立ち上がった。

「お、おい!」

 ふと声をかけられ、僕は立ち止まった。振り返ると、そこにはやはり、哀れみの表情を顔に浮かべた拓真がいた。

「お前も頑張れよ。何か出したら買ってやる」

「ああ」

 ほとんど嘆息のような返答とともに、僕は立ち去った。足は、鉛のように重かった。

 

 電気ケトルが湯を沸かすまでの間、僕はデスクトップ・モニターに正対し、視線を彷徨わせていた。ポスター、タペストリー、タスクを書いたホワイトボード、画集、そして漫画。単調な装丁の単行本だ。その巻数は三巻で止まっている。

 ──拓真の言葉は、まったくの事実だった。誰も知らないような中堅出版社に載せた漫画が打ち切られたことで、僕は定期的な収入も、殉ずることのできる、短期的な目標も喪失した。ついでに言えば、本業のイラスト業の方をおろそかにしてしまっていたため、市場における新規性が錆び付き、そちらの仕事の方も日に日に減ってきている。

 専門学校を卒業してから一年半が経とうとしている。僕はまだ青年のまま、日々終わりゆく世界のただなかで自分をすり減らしている。

 鹿能夏菜子と僕は付き合っていなかった。それは間違いない。だが彼女が失踪した理由に、心当たりがないというのは嘘だった。

 あの日。あの夏の日、僕は彼女に呼び出され、そこで──。

 

─◇◆◇─

 

 ──蝉の声がしている。

 郊外に位置するこの大学は、夏になるとそこら中から蝉の鳴き声が聞こえてくる。無論それは授業の進行の妨げになるのだろうが、そんなことは部外者である僕には何ら関係のない話だった。

 古い映画の上映会があるというので、僕は久々に、大学を訪れていた。拓真と夏菜子が通っていた大学に。

 ここには何度か来た。だがそれは、あまり印象に残る来訪ではなかった。はっきりと覚えているのはそれこそ──あの夏の日くらいだろう。

 僕はベンチから立ち上がり、歩き出した。キャンパスの細部ひとつひとつが、あの日の記憶を代替しているように感じられ、僕は目を細める。

 

 ──一年前、夏。夜のことだ。

 僕は電話を手に、ただじっと、夏菜子の声を聞きながら立ち尽くしていた。

 ひとをころした。最初に耳に飛び込んできたのは彼女の動転した声と、その言葉だった。僕は何も言えなかった。でもその間にも、事態はどうしようもなく進行していっているようだった。あるいは、彼女自身が、その絶対的な存在感を前に一歩も動けなくなっているかのようだった。やがて僕は、痛いくらいの沈黙に耐えきれなくなって、ほとんど発作的に〝君は悪くない〟と言っていた。それは実に白々しい言葉だったが、それ以上の表現を、そのときの僕は思いつくことができなかったのだ。

 やがて、彼女は会って話したいと言い、部外者であるはずの僕をキャンパス内に呼び出した。大学は外に向かって開かれた公共空間だから、それ自体は何の問題もなかったが、その次に発された言葉が問題だった。

 僕の前で、彼女は自分の罪を告白した。そのとき、そこにはもう動転はなかったように思う。

 バイトの先輩だったんだよ、と、彼女はそう言っていた。そこには非難の色も、激昂のわななきもなかった。ただ淡々と、彼女の喉は事実だけを大気に向かって放っていた。

 しかし僕はそこに一つ、嘘の響きを感じ取っていた。それはたぶん嘘だった。僕に対して何かしらの配慮があるのか、あるいはもっと別の理由があるのか、とにかく、彼女は僕に対して、すべてを打ち明ける気はなかったのだ。

 問題はここからだ。彼女はその死体を埋める手伝いをしてほしい、と僕に頼んできた。

 僕はつとめて冷静に、それを承諾した。瞬間、彼女はぎこちなく微笑む。それは無理に笑っているようにも、笑いをこらえているようにも見える、妙に屈折した表情だった。

 考古学教室から持ち出したというスコップを手に、僕らはキャンパスの中を歩いた。

 そうして、僕らは自家用車のトランクから、死体袋を降ろした。それは流石に重かったが、持てない重量じゃなかった。僕らは二人がかりで、監視カメラの穴を突きつつ死体を運んだ。ルートは事前に策定していたらしく、僕は逐一飛ぶ彼女の指示に従い、ほとんど自動的ともいえる動きで歩いた。

 到着してからが一番の重労働だったが、とはいえ、その作業に対する心理的抵抗は、死体を運ぶよりはずっと少なかった。途方もない掘削作業の中、静謐に満たされたキャンパスの中で、彼女の息づかいだけがゆっくりと、しかしたしかに響いていた。それだけがたしかなことだった。後のことは、何か茫洋とした靄の中に溶けてしまっている。

 砂をかけ、死体が完全に埋まったのを確認してから、僕たちはキャンパスを後にし──徒歩で、自宅まで行った。

 

 ──映画はあまり面白いものではなかった。それはなにか、学術的価値を見出すにも決定的なものが欠けているように思えた。だがそうした感慨は、結局のところ僕と、あらゆるものとの断絶を表し、強化するはたらきをしか持たないものだ。

 僕は足早にキャンパスを後にした。あの日のように。

 

 虚ろな目の夏菜子に、僕はホットミルクを出した。彼女はそれを全部呑みきると、しばらく黙った後、静かに眠った。

 起きたとき、彼女はすっかり元通り、という調子で快活に笑ってみせた。けれどその目の端に、あるいは言葉尻に、あるいはその内奥に、〝罪〟の意識がうごめいているのは明白だった。そして多分、僕もそうだったのだろう。

 僕らはあの日。あの夏の日、罪を共有した。心の深いところで、融け合い、一つになったはずだった。……でも、彼女はいま、この街を、この小さな世界を去り、そして僕は、まだ留まり続けている。

 ──彼女は、耐えきれなくなったのだろうか。本当に?

 

─◇◆◇─

 

 スマホの画面が霞んでいく。焦点が合わない。意識の輪郭が解けていく。滲む視界の中程には、メッセージアプリのチャット画面が表示されている。

 右に吊り下げられた「今週末会えない?」というテキストと、それを拒絶するように、十分な距離をとって反対側に吊り下げられている「ちょっと難しいかも」というテキスト。そちらの側には「就活が忙しくて」「ごめんね」という二つが継ぎ足されている。

 何かが変わりつつあるのだ、と思う。僕の周りはめまぐるしく変わっていく。望むと望まざるとに関わらず。

 日々終わりゆく世界。その漠とした広がりの中に僕はいるはずだ。だが世界という『連なり』の中に、僕は含まれていないようだった。いつもそうだ。文学にもあるように、ただ、一切は過ぎていく。そうして、不可知の、不可視の文脈は、物語は、僕を置き去りにしていくのだ。

 そのことに対して、僕は青臭い憤りを覚えずにはいられないけれど、でも、それもいずれは過去になるのだろう。いずれは。いつかは。ありうべき未来には。

 そのときは近付いているのだろうか。あるいは、すべて何の根拠もない虚妄に過ぎないのだろうか。僕には分からなかった。

「…………」

 ひとつため息をつき、僕は立ち上がった。

 〝いずれ〟なんて言葉よりも早く、その時間が来てしまったのだ。

──『勤務時間』が。

 

 大通りから僅かに逸れたところにある、貸しビルの五階に、それは位置している。

 久木探偵事務所。ビル外観のどうしようもない寂れに対して、その領域はどこか小綺麗に見える。

 僕は来客用のインターホンを押し、『職員として』中に入った。

 そこはこじんまりとしたオフィスだった。その部屋の中央には、シャツを洒脱に着こなした男が座っており、大量の書類とノートPCに向かい合っている。

 僕は彼に向かって口を開く。

「今日は事務仕事もですか、久木(ひさぎ)さん?」

「そうしてくれ。給料分は働いてもらうぜ、学生さん」

「もう卒業したんですけどね」

「やってることは変わらんだろ? こうしてバイトで食いつないでるしな」

「それを言われると痛いですけど」

 言いつつ、僕は掃除機を手に取り、オフィス内の清掃をはじめた。

 久木修司さんは、かつて通っていた専門学校で講師をしていた人だった。本職は分からない。こうして私立探偵をやっていることもあれば、壇上でイラストレーションについて滔々(とうとう)と語っていることもある。時には、スーツを着込んでコンサルタントをやっているということも。彼はこの社会で生産活動をするための、あらゆる職能を手にしているように見えたけれど、それは全部偽装であるように僕は思う。でもそんなことは僕には関係のない話だった。僕は事務所の片付けや事務に手が回らないという彼の代わりに、細々とした給料と引き換えにそうした仕事を請け負っているのだ。

 ──と、ふと。久木さんは手を止め、僕にも聞こえるように大声で言った。

「ああ、そうだ。鹿能夏菜子って、たしかお前の知り合いだったよな」

「──え?」

 僕は掃除機を止めた。

「生徒会で一緒だったんだろ、高校のとき。いや、探してくれって頼まれたもんでね。依頼主はスーツの奴だ。たぶん恋人だろうな」

 拓真だ、と思った。そんな僕に構わず、彼は話を続ける。

「探偵に頼もうってのは、随分短絡的だよな。近頃の大学生ってのは皆そうなのかね」

「…………」

「とはいえこれがかなり難しくてな。お前、何か知らないか?」

「いえ……でも何で、生徒会のことを?」

「おいおい、寝ぼけてんのか? これでもれっきとした探偵なんだぜ、こっちは。それくらい調べがつく」

「……そりゃそうですね」

「しかしなあ……こうも足取りが掴めないとなると、彼女はもう、自ら──」

「それはたぶん……違いますよ」

 咄嗟に、僕はそう言っていた。

「ん?」

「夏菜子がいなくなったとしたら、それは、何か考えがあってのことなんじゃないでしょうか。少なくとも、衝動的にいなくなるなんてことはないと思います」

 白々しい言葉だった。それはお為ごかしじみた弁解だった。彼女の〝考え〟が、あの夏の日に接続していないことはありえない。僕は、僕らは誰よりも、そのことを知っているはずだった。

「……どうかな。人間ってのは時折ふらっといなくなっちまうもんだ。何の脈略も道理もなく──まるで泡が弾けるみたいに、あるいは、夢から醒めるみたいにな」

 勢い込んで、僕は反駁した。

「でも、それじゃ探しようがない」

「ちげぇねえ。だから厄介なのさ。バイト先にも手がかりはなさそうだったしな」

「バイト……?」

「ああ、お前は知らないよな。一ヶ月前……つまり失踪の四週間前だな。彼女はバイトをやめてるんだ。パン屋だった。人間関係は良好だったみたいだし、とりたてて特筆すべき事項もなかったんだが……」

「ま、待ってください」

「なんだよ?」

「彼女はバイトをしていたんですか? それも──長期にわたって?」

「そりゃ大学生だからな。そういうこともあるだろ」

「いや、しかし──」

「なんだよ。繰り返すが、特筆すべき事項はなかった。へまをやらかしたとか、不自然に人の入れ替わりがあったとか、そんなこともない。それも三年以上も。ここに失踪との関連はないはずだ」

 僕は押し黙った。久木さんは訝しげな表情をしばらくこちらへ向けていたが、やがて見切りをつけたかのように仕事へ戻っていった。

 

 ──走っている。

 時刻は十八時半過ぎ。人通りは既に少なく、不審がられることもなければ、目撃されることさえもない時間帯だ。

 道は身体が覚えていた。あの日通った道を、僕は走る。そしてあの場所まで辿り着くと、そこに置いてあったスコップで死体を掘り返した。なぜスコップが置いてあるのだろう? 誰かが忘れていったのか、あるいは、あの日のままなのか──とにかく、その時の僕は「それ」を掘り返すことができた。

 ──黒い袋は、あの時のまま、そこに鎮座していた。

 僕はスコップを置き、「それ」を穴から引きずり出した。そして丁寧に口を解き、中を確認しようとし──ふと、中からこぼれ落ちてきたものを拾い上げる。

 封筒。ためらいがちに膨らむそれは、間違いなく、彼女の言葉が刻印された、あの日の痕跡だった。

「……ああ」

 思わず、声がもれる。

 たしかなものは、それだけだった。──それ以外は、なにもかも、すべて嘘だった。僕は薄々勘付いていたのかもしれない。分かっていながら、それに対して目を閉ざし続けていたのかもしれない。

 どこかで望んでいた。安寧で息苦しい生活と、差し迫った破局に怯え続ける心とが、こわれることを。

 どこかで望んでいた。彼女と融け合い、一つになることを。だから僕は信じた。信じるしかなかった。それが偽物だと知っていながら。

 ──そこには、死体なんかなかった。

 

─◇◆◇─

 

 わからなかった。

 これまで、夏菜子の周りの人間が散々感じていたであろうことを、僕は今、切実なものとして感じている。僕にはもはや、彼女のことが分からなかった。なぜ偽物の死体袋を埋めさせるような真似をしたのか。あの動揺は、あの憔悴は、すべて演技だったのだろうか。すべては張りぼての、茶番に過ぎなかったのだろうか。わからない、わからない、わからない。

「……わからない」

 呟き、僕はペンを手に取り、何かを描こうとした。しかしそれは形にならない、不定形の、黒渦にしかならなかった。

 僕は多分、今回の事態の中心にはいなかった。拓真が言っていたような特別性は、たぶん僕にはなかった。僕もまた、夏菜子に振り回された人間のうちの一人にすぎなかったのだ。

 秩序だった物語。そういうものがあるとして、僕はたぶん、そうしたものの片隅にうごめく、断章のような存在だったのだろう。ごくささやかな、異邦人(ストレンジャー)の物語。それこそが僕で、あの夏の日の出来事だったのだ。

 ひどく疲れていた。とにかく今は、眠ってしまいたかった。僕は封筒を卓上に置き、ベッドに横になって眠った。

 目覚めたとき、陽光はわずかに翳りを見せていた。スマホを手に取ると、現在時刻が十六時であることがわかった。長い時間眠っていたらしい。

 スマホには、昨晩のうちに送られたと見えるメッセージが表示されていた。それは拓真からのメッセージだ。

 ──と、ふと、部屋いっぱいに、インターホンの音が鳴り響いた。

 カメラを確認しに行と、そこには拓真が映っていた。

「拓真か」

「何やってたんだ、電話にも出ずに……上がるぞ」

 言われ、僕は鍵を開けて拓真を迎え入れた。リビングまで行き、椅子を勧めると、拓真はそこにどさりと腰掛けた。僕は一つ息を吐き、ベッドに座る。

「悪い、寝てたんでな」

「くそっ……まあいい……夏菜子のことだが……」

 僕は意識的に息を吸い込んだ。くる、と思った。

「いいか、落ち着いて聞いてくれ。夏菜子は、夏菜子が……」

「待ってくれ」

 ふと、口を突いて出た言葉は、やはり僕の予期しないものだった。だがそれは、いつか放たれなければならない言葉だった。常に感じていた不安。常に感じていた怒り。常にそこにあり、僕を制約し続けていた絶望。そうしたすべてに対する言葉。それが今、自分の中からこぼれ落ちようとしている。

 止めてはならない、と、ふと、僕は心底思った。

 言わなければならない。これだけは、絶対に。

「……え?」

 間の抜けた声を出す拓真の前で、僕ははっきりと宣言した。

「その先は言わないで欲しい」

 それに、拓真は訝しげな表情をしつつ腰を浮かせた。

「……なんだって?」

「だから、話す必要はないって言ってる」

 ついに拓真は完全に立ち上がった。その顔には呆れたような、怒っているような表情が張り付いている。

「気にならないのか、お前……」

「拓真は何も言う必要ないし、僕も何も聞くつもりはない。それだけだ」

 彼は一歩踏み出し、僕に詰め寄った。だが止まるつもりはなかった。

「おい、ふざけてるのか、こんな時に……!?」

「……僕は別に……」

 彼は頭を掻きつつ、叫ぶように言う。

「頼む、なあ、頼むよ、真面目にやってくれ」

「僕はいたって真面目だ。けど、それが伝わるかどうかは分からない。僕には信じてくれ、そして話さないでくれとしか言えない」

 堪えかねたのだろう。拓真は僕の胸倉を掴んだ。よれたシャツに無数の皺が刻み込まれる。

「それのどこが真面目だ、ああ!? いいか、お前は知らなきゃならない。そのはずだ」

「気になるとか気にならないとか、実在とか不在とか、生きるとか死ぬとか、そういうあれこれはもういいんだよ。僕は……僕は何でもなかった」

「何を言ってる……?」

「僕は、僕たちは一つじゃなかった。それは薄汚い自己愛に過ぎなかった。僕は僕でしかなく、夏菜子は夏菜子でしかなかった。拓真が拓真でしかないように。そして僕は、その世界にはもう含まれていない。それは永遠に過ぎ去ってしまった」

 彼は僕から手を放しつつ黙り込んだ。やや間があって、呆れたように、観念したように息を吐く。それで、僕は再び口を開く。

「僕は君たちの文脈には回収されない。されたくない。僕は知らなけりゃならないんだ。〝知らない〟ということを。僕が何も知らない、薄っぺらで幼い子どもだということを。僕はたぶん、そこから始めなきゃいけない。いや、始めたいと思う。だから僕は、拓真の話を聞かない。拓真の物語には組み込まれない」

 拓真はしばし沈黙したあと、鼻で笑い、口を開いた。それは心底冷え切った声だった。

「作家様は言うことが違げぇや。いやまったく、最高だよ、お前」

「すまないとは思ってる」

「どこまでも身勝手な奴だ。まあいい。お前はそういう奴だもんな。そういうことにしておくよ」

 そうして、じゃあね、とは言わずに、拓真は出ていった。

 僕は鹿能夏菜子が見つかった、という話を聞かなかった。あるいは見つからなかったという話を。けれどその時も──今もやはり、仕事はしていなかった。僕は何も前進していない。何も変わっていない。一つ違うことがあるとすれば──この封筒だけだ。

 僕は封筒をカッターで開け、中身を取り出す。それは写真だった。その裏には、文字が刻まれている。

 そこには「わたしたちはどこから来たのか、わたしたちは何者か、わたしたちはどこへ行くのか」と書いてあった。達筆な字だ。いつか見た、彼女の字。

 裏返すと、そこには僕と夏菜子が写っていた。僕も、彼女も、ぎこちない表情だ。およそ写真に記録すべき表情ではない。アナログなプリント写真というメディアの中で、僕らは明らかに浮いていた。世界のどこからも、僕らは浮いていた。そのはずだった。──だが、今やすべては過去だった。

 僕は微笑した。それから、写真をアルバムにしまい、デスクに座った後に黒丸の落書きを消してペンを手に取る。もう、滑ることはなかった。

 ──絵を描こう。そうしてもう一度、生き始めよう。強く、本当に強く、僕はそう思った。