開幕 君にも言うよ
第一幕 嬰児から幼児
第二幕 小学生
第三幕 中学生
第四幕 高校生
閉幕 君にも言わない
君は産まれた。ある日の午後に。
そして死んだ。あの日の午後に。
開幕 君にも言うよ
君を宿した人間が妊娠していると発見したのは、妊娠週数が第三週目のときだった。この週は受精卵が子宮粘膜に着床する時期に当たる。今までの人間たちと同じように発見できたことが嬉しくて、つい、君を宿した人間に声を掛けそうになったよ。声を掛けても意味なんてないのにね。
第四週目から第六週目も同じだった。異常は見られず、へその緒や心臓が形成されていった。神経や脳といった重要な器官も、日々少しずつ形成されていったよ。君を宿した人間が、君に声を掛けたのもこの時期だった。笑顔を浮かべて、君のことを見て、「おはよう、げんきかな?」って言うんだ。寝る前も「おやすみ、あしたもげんきでね」って言葉を欠かさずに、お腹を撫でて一日が終わる。まだ数週間しか経っていないけれど、君はもう愛されているんだよ。
第七週目は少し違った。基準値を外れる項目が多くあったんだ。でも、その原因が薬の副作用だとわかったから、すぐに薬を変えた。早めに対処できたおかげで、君も君を宿した人間も三日も経てば元気になっていたよ。
第八週目以降は順調だった。第十一週目になると指がバラバラに分かれたり、耳たぶができたりした。第十五週目には体の器官はほとんど形成されて、羊水を飲み吐きしたり、各器官の機能を少しずつ発達させたりしていったんだ。妊娠週数が更新されていくたびにお腹の中で動いて、脳波が流れて、体重もどんどん増えて……そして君は産まれた。妊娠週数はちょうど第四十週目だった。
分娩方法は普通分娩だった。弱めの陣痛が始まって、強めの陣痛がきて、破水する。周りは「ヒッ、ヒッ、フー」という有名な呼吸法……確か、ラマーズ法だったかな。それを使って息を止めないように注意していたけれど、痛みが辛くてそれどころじゃなさそうだったよ。出産に痛みを伴うことは知っていたけれど、あんなに苦しむなんて知らなかったよ。
それでも、君は無事に産まれた。君を宿した人間にとって、君は一生懸命お腹の中で育てきった証であり、宝そのものだよ。もちろん、無事に産まれることができなくても、宝であることに変わりはないけれど。
おぎゃあと泣いて君が呼吸しているとわかったとき、周りは一斉に安堵の息を漏らしたよ。遠くから見ているこちら側でも確認ができたから、リストにある出産成功欄にマルの記号を付けた。これがもしサンカクだったら危険の意味、バツだったら失敗の意味があるけれど、それらを付ける必要はないみたいだね。
さて、記号を付け終えたら伝えなくちゃいけないことがあるんだ。これは記号の種類に関係なく言わなくちゃいけないこと。絶対に口に出すのが唯一の決まり。だから君にも言うよ。
「初めまして」
さあ、元気を出して。産まれてきたんだから。たくさん泣いて成長してね。ああ、これからの君の人生が楽しみだ。何が起きるかな。
第一幕 嬰児から幼児
君を宿した人間は、君を産んだ人間になった。君は産まれて数時間経つと、新生児特定集中治療室に入った。通称「NICU」と呼ばれるそこは、低出生体重児や新生児の疾患などに対して昼夜問わず対応している。君は胃腸が動いていなかった。だからそこで約二週間を過ごしたんだ。覚えていないだろうけれど。
数値的にも平均で問題がないのを確認してから、君はNICUを出て、抱えられながら家に帰った。家の景色は見れただろうか。お腹の中にいたときは見れなかった景色。太陽の光に照らされてキラキラと輝く君の家は、とても綺麗で惹かれるよ。でも、産まれてから数週間しか経っていない君には、まだ見えないかもしれないね。だから、早く見れるように祈っておくよ。
家で過ごす君たちはとても平和だった。君は泣いてばかりだったけれど、君を産んだ人間は嬉しそうにしていたよ。「おしごと、がんばっているんだね。えらいねえ」と、泣いている君に向かって言っていたのをよく見かけたんだ。口角が上がって、頬が少し染まって、目を細めていた。誰が見ても「親」の顔だったよ。
四歳になった君は、施設で暮らすようになった。育ててくれる人がいなくなってしまったから、入るほかなかったんだ。
そう、君を生んだ人間は自殺した。夕日が周辺を照らす午後五時に、君の目の前で、橋の上から飛び降りて。死体の顔は笑っていた。
君を産んだ人間は、確かに君を愛していた。けれど、愛していたからこそ、死という選択に手を出してしまったんだ。
グチャグチャだったから、君は死体を見ていない。落ちる姿しか見ていない。子どもには刺激が強すぎるから、周りの大人たちが見せないようにしていたんだ。周りの大人たちは、君にこれ以上傷ついてほしくなかったんだろうね。
数時間後に君を愛していた証拠が見つかった。押し入れにアルバムが隠されていたんだ。中には、思い出と称した君の写真が残されていた。一枚一枚にコメントを書いて、見返したときに思い出せるようにしていた。本当に、君はとても愛されていたんだよ。覚えていないだろうけれど。あの自殺が起きた後、君を産んだ人間の配偶者は、病気で亡くなった。居なくなっても君が生きていけるように、その配偶者は事前に準備をしていたんだ。親戚と話し合って、引き取り先──すなわち、新しい両親を決めて、施設の方がいいだろうとコンタクトも取っていた。だから君は、両親を失ってすぐに施設に入所したんだ。まだ小さい君にとっては、不安しかなかっただろうけれど。
施設に入所してちょうど一年が過ぎたとき、君は五歳になった。そう、施設入所日と君の生誕は同じ月日だったんだ。これもなにかの縁かもしれないね。嫌な縁にならないことを願うよ。
ようやく施設での暮らしに慣れてきたころに、君は六歳になった。プレゼントはランドセルと手提げ袋。そして、三人部屋。この施設では、小学生以降は新しく部屋が割り当てられるんだ。性別ごとに、先に入所していた先輩と同室になるように、毎年四月に行われる。四月までまだ時間はあるけれど、誰と一緒でどこの部屋なのかはこのときに教えられたんだよ。君はとても喜んでいたから、きっと大好きな「先輩」と一緒だったんだろうね。照明に照らされた君の笑顔はとても綺麗で美しかった。
……ああ、「先輩」って呼んだ理由は、君がそう呼んでいたからだよ。君より年上の、君より先に施設に入所していた人たちをそう呼んでいたんだ。君より後に施設に入所した年上の人は居なかったから、同級生以外の全員を「先輩」って呼んでいた。他にも、施設の食堂で働いている人には「食堂の人」、それ以外の人には「先生」って呼んでいたかなあ。さすがに全員の名前を覚えるのは難しかったんだろうね。
そういえば、君は誰かと顔を合わせるたびに、元気に挨拶をしては「元気ですか?」って聞いていたなあ。何かの絵本を読んで、体調を尋ねることが君のマイブームになっていたみたい。顔を合わせるたびにそれをしていたから、当然一日に何回も同じことを尋ねられる人もいたんだ。でも、嫌な顔一つせず「元気だよ!」って返していたから、その人も結構楽しんでいたみたい。君がその場を立ち去る姿を、微笑ましそうに見ていたから、きっと嬉しかったんだろうね。入所したころは笑顔一つ見せなかった君が、笑顔を浮かべて施設内を動き回っていたんだ。そのときから君を知っている人からすれば、それはとても嬉しくて、幸せなことなんだろうね。
第二幕 小学生
少し話が逸れてしまったね。話を戻そうか。
四月になって、君は小学校に入学した。毎日ランドセルを背負って、同じ小学校に通う施設の人たちと一緒に登校するんだ。歌を歌ったり、しりとりをしたりしながらいつも歩いていたよ。どういうわけか、君は雨の日にかぎって必ず転んでいたなあ。思わず手を貸しそうになったよ。手を貸しても意味なんてないのにね。
小学校は広くて、迷子になるような大きさだった。小学一年生からみれば、誰でもそう思うのかもしれないけれど。教室に行くにも図書室や体育館に行くにも一苦労だったね。まだ慣れない場所で、慣れない地図を見て、上下左右に動くんだから。施設に帰るころには、すっかり疲れ果てていたのを覚えているよ。睡魔に抗いながら読み書きをして、ご飯を食べて、お風呂に入る生活をしばらく過ごしていたかな。
やっと小学校の生活に慣れてきたころには、もう六月になっていた。授業にも移動にも慣れて、放課後はお友達と一緒に遊ぶ日々を過ごしていたよ。最初は門限よりも何時間か早く帰っていたけれど、二年生になるころには、門限ギリギリまで外で遊ぶようになっていった。君は聡い子になったから、気づいてしまったのかもしれないね。
施設に入所している他の子たちは、あまり君をよく思っていなかったんだ。その理由はね、土日は必ず外泊をするからなんだよ。施設にいる子どもたちは、ほとんどが虐待を受けた子なんだ。だから土日に誰かが会いに来ることはないし、外泊だってしない。もちろん、施設のイベントで、全員で旅行する場合は例外なんだけれどね。けれど君はそうじゃない。施設に入所した理由は両親の他界と経済的問題で、虐待は一度も受けていない。土曜日に君を引き取った親戚の人が迎えに来て、外泊して、日曜日に帰ってくる。そして平日は施設から学校に通う。そういう生活だったんだ。戸籍上、引き取った親戚の人は両親になるし、そもそも入所した理由を子どもたちは知らないから、嫉妬していたんだと思う。「親と会えるなんてずるい!」とか、「親と不仲じゃないのに、なんで施設にいるの」とか、そういう言葉にたくさん気づけるようになったんだ。それが良いことなのか悪いことなのかは君の捉え方次第だけれど。
だから君は、施設にできる限り居ないようにしたんだ。そうすれば、いろんな悪口も妬みも聞かないでいられるから。
でも、その行動は君にとってとても寂しいことだった。だんだんと、周りが見てくれなくなったから。そのせいで、施設内でも一人で過ごすことが増えてきたんだ。君は一人が寂しいことを知っているから、どうにかして輪に入ろうと思った。人気女児アニメのダンスを同級生と一緒に真似して踊ったり、共有スペースの掃除をしたりね。結果は惨敗。君だけが無視される世界が完成したんだ。「先生」の前では無視しない例外を残して。
それからは、君は輪に入ることを諦めた。最低限の時間しか施設に居ないようにしたんだ。「先生」は気づかない。その人たちの前では、今まで通り接してくれるから。「先生」の目が節穴だったのかもしれない。子どもを保護する機関で、いじめが起きるなんて、あってはならないことだから。
でも、「先生」は悪くない。子どもたちの芝居が上手かっただけ。特に君は、依怙贔屓なしに上手かった。施設に入所している子どもは、全員がカウンセリングを受けるんだ。もちろん、全員の時間をずらして、一対一で行うよ。けれど、そのカウンセラーは何も気づかなかった。気づかないフリをしていたのかもしれないけれど、そんな行為をしたって意味はない。だから気づかなかった、の方が正解かなあ。君は何も起きていない、何の異常もないフリをしてプロの目を誤魔化したんだ。演劇にはもってこいの才能だね。
三年生以降は、頼ることをしなくなった。なんでも一人でこなすようになったんだ。共同作業のときは、一緒になった子と作業をしていたけれど、それ以外は全部一人でしていたよ。
唯一の救いは、学校でいじめを受けていないことかもしれないね。友達やクラスの子たちは、君が施設で暮らしていることを知っても、除け者にしなかったから。「先輩」や施設の同級生は、体面を意識して学校では関わってこなかった。それも救いだったかもしれない。けれど、その裏には関わりたくないから無視をしようっていう思いがあったんだ。……うん、君はそういったのを見抜いて上手く立ち回るのに秀でていたよ。
そういう日々が過ぎて、とうとう君は小学校を卒業した。同時に、この日、君は施設を退所した。
第三幕 中学生
卒業式を終えた翌月、君は中学生になった。親戚の都合がついて、卒業式の日に君は施設を退所した。児童福祉法の関係で、施設の退所はほとんどが十八歳だけれど、君は保護者がいるからね。少し早い退所になったんだ。施設での扱いを「先生」や親戚の人に話してはいないよ。そもそも君は話そうとも思っていなかったから。
君が次に暮らす場所は、施設のあった市から少し離れたところだった。高い堤防のすぐ下にあって、日当たりも良好、緑も豊かな場所だったよ。この場所に来て、君はある意味自由になった。施設という枠から抜け出したから。ああ、枠っていうのはただの例えだよ。気にしないでいい。
入学までまだ時間はあったから、その間に君はさまざまなことをした。テレビをずっとつけっぱなしにしたり、新聞を読んでみたり、市の図書館に行ってみたり……とにかく、数えきれないほど、たくさんのことをしたんだ。施設での制限がなくなったから、いろんな初めてを経験したかったのかもしれないね。初めてを経験する君の表情は、とても魅力的だったよ。笑顔が似合う、って言えばいいのかな。思わず写真を撮りたくなったんだ。写真を撮ったって意味なんかないのにね。
中学校は、緑に囲まれていて、地域との繋がりが深いところだった。校舎も三棟あって、大きくて、比例するみたいに多くの生徒がいたなあ。……あ、そうそう、君も含めて、新入生はちょうど桜が満開になったころに入学したんだよ。あまりの量に、桜に攫われそう、って思ったんだ。あれは予想外だったから驚いたよ。
誰一人として知り合いがいない中で、中学校生活が始まった。ほとんどの生徒は指定の中学に行くことになっているから、君が引っ越してここに通うことになったことはすぐに広まったよ。自己紹介で出身校を伝えたことも広まる要素になったかなあ。君自身はさほど気にしていないようだったけれど。
君が配属されたクラスは、元気な生徒ばかりだった。君の性格とは少し合わないところがありそうだったけれど、順調にクラスに溶け込んでいったよ。誰が聞いても、「クラスの頼れるリーダー!」って答えていたんだ。そう、君はいつの間にかクラスの中心になっていたんだ。
でも、ある日突然それは崩れた。君はとうとう限界を超えたんだ。いや、もしかしたら超えていることにやっと気づいたのかもしれない。周囲からの視線が、期待が、圧力が、嫌になってしまったんだ。
どちらかというと、君は目立つのが好きな方だった。「自分を見てくれている」って思えるからだろうね。目立てば目立つほど、周りは視線を向けてくれるから。注目して、視線を集めて、誰かの役に立ちたかったんだ。そうすれば、褒めてもらえるから。褒められる機会が少なかった君は、褒められる言動をすることで、愛を抱いてほしかったんだよ。両親からの愛と、”両親”からの愛は同じじゃない。君は両親からの愛が欲しかった。でも、もう他界しているからもらえない。だから、代わりに別の愛を求めた。たとえそれが「偽りの愛」だとしても、もらえない方がもっとつらくて苦しい。一人は寂しいと知っている君は、そうやって身を守ろうとした。
けれど、君のこころが体に追いつかなかった。体だけ先走って、それ以外を置いてきてしまったんだ。学年が上がるころには、クラスへ行くことなく、保健室で過ごすようになっていた。
最初はクラスに戻ろうと努力していたよ。半日だけクラスに行くとかこの授業だけ休むとか。そういうルールを作っていたんだ。けれど、徐々に体に不調が出てきて、気づいたころには、クラスに足を運ぶことができなくなっていた。
幸いなことに、その学校は優しい先生が多かったから、君がクラスに行けなくなっても責めなかった。「保健室に来れて偉いね。頑張ったね」って褒めるんだ。君は迷惑をかけていると思って申し訳なさでいっぱいだったけれど、同時にそのやさしさに救われていた。だから君は、不登校になることなく、学校に通うことができたんだ。
最終学年になっても、君は変わらず保健室に登校する日々が続いた。クラスの中心になっていたことを、もう誰も、当時のクラスメイトさえも忘れていた。「ああ、こんな人がいたな」と思う程度になっていたんだ。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど、少なくとも君はホッとしていたから、君にとってはプラスだったんじゃないかな。卒業式を含めた全ての行事に参加しないまま、とうとう君は中学校を卒業した。
第四幕 高校生
君は卒業後、私立の特進科に進学した。保健室登校だったけれど、個別に授業を進めたり、独学で知識を身につけたりして、受験に合格したんだ。同じ学校からの進学者はいない。
君の”両親”は、無理して行かなくていいと言っていたけれど、君はそれを否定した。受験料や学費を払ってくれているのに、それを仇で返すような真似はしたくなかったんだろうね。震える手足を懸命に動かして、玄関扉を開けて、高校に通い始めた。
高校では、君は目立たない存在だった。いわゆる「モブ」っていうやつだね。どういうわけか、中学での状態を担任が知っていたから、保健室に初めて避難した君は驚いていたよ。知っているなんて思っていなかったから。
でも、それだけじゃない。君が保健室にやってくる回数が増えたころに、君について担任が「体調を崩しやすいんだ」とクラスメイトに伝えていたんだ。崩しやすい理由はプライベートだからと内緒にして。「昔の自分に似ていたから、つい勝手なことをした」と担任は反省していたけれど、君はそうは思わなかった。むしろ、ありがたいと思ったんだ。担任の起こした言動は、少なからず君のこころを軽くさせたよ。その証拠に、君は嬉しそうに笑って、礼を言っていたからね。
それからは何事もなく、クラスと保健室を行き来する日々を送っていた。学校行事もたまに参加していたよ。中学の君とは大違いだった。環境に恵まれたのかもしれないね。
君は変わった。少しずつ笑顔になる回数が増えて、話す相手もできて、君のこころは満たされていった。完璧に満たされることはなかったけれど、また体だけ先走ってこころを置き去りにするようなことにはならなかった。それほどまでに、今の生活は居心地が良かった。
……ああ、そろそろ”これ”も終盤だね。先に結果だけ言おうか。
君は死んだよ。十八歳のときにね。桜が咲き始めたころだったかな。誕生日の日に橋の上から飛び降りるなんて思っていなかったから驚いたよ。ましてや君を生んだ人間と同じ場所で、同じ時間に、笑いながら飛び降りたからなおさら。もしこの日に雲がなくて、夕日が周辺を照らしていたら、あのときと全く一緒になっていたよ。
自殺の原因は、生きることがつらくなったから。
あれから君は学年も上がって、居心地の良い生活も続けて送れていたけれど、ふと違和感を抱きはじめたみたいなんだ。自分のジェンダーについてね。
そして、本やネットで調べていくうちに、君は自分が不定性のXジェンダーであることを自覚した。今まで体の性別と性自認は同じだと思っていたけれど、その違和感をきっかけに性自認は体の性別とは違うことを知ったんだ。
違和感を覚えはじめたきっかけはわからない。観察していたけれど、特にこれといった要因は見当たらなかったから。
自覚してからは、今まで感じなかった違和感を覚えるようになった。どうして女性の制服はスカートなんだろう。どうしてトイレマークの色が決まっているんだろう。どうして一人称が体の性別と違えば好奇の目に晒されるんだろう。どうしてこの制度は――っていう風にね。今でこそジェンダーによる格差は減少しているけれど、当時はかなり酷かったからね。今言った例はまだ軽い方だと思うよ。もっとも、格差に軽いも重いもないんだけれど。
ジェンダーによる格差は君にとって生きづらいものだった。自覚してからは一度も学校に行かずに引き籠るようになったんだ。ジェンダーについて同じように悩んでいる人と交流する機会もあったけれど、数回行ったあとはずっと家に留まるようになった。今まで格差を見て見ぬふりをしていたことに罪悪感を抱いたのかもしれないね。
気にかけてくれた担任や”両親”、何度か話したクラスメイトから心配している声が届いたけれど、それを受け止める余裕はなかった。こころが体に追いつかなくなって、やっと体に追いついて、少しずつ落ち着いてきた矢先にこの出来事があったからね。君自身が気づかないうちに、限界がきたのかもしれない。
あの日、久しぶりに部屋を出ては唐突に走り出して家を出て、君は橋へと向かった。人の視線に敏感な君が、パジャマ姿であることを気にもしないで。
そうして君は、人生の幕を閉じた。
閉幕 君にも言わない
「――これが君の……いや、生きていた君の全容だよ」
裏表紙を閉じてそう呟いた。静寂が辺りを包み込む。
気まずくはないけれど、全容を話し終えたこの時間は苦手だ。
先代はそのうち慣れると言っていたけれど、絶対に嘘だと思う。
心臓をバクバクとさせながら、早く何か言葉を発してくれないかと視線を向けてみる。
「……」
視線に気づいた様子は見られない。何か考えているのかもしれない。
心臓なんてもう存在しないのに、鼓動のスピードは上がっているように感じてしまう。もしかすると、緊張しているのかもしれない。
「……思っていたより、何も感じないのですね」
顔を上げて、静かに、けれど、はっきりと君は言った。 「そうだね。今までの子たちも同じような反応をしたよ」
「いつから担当を?」
「さあ。けれど、四桁は軽く超えていると思うよ」
二人の声が空気を揺らす。曖昧な返答に不満げな表情を見せる君は、随分と子どもらしくて愛おしい。十八歳で止まったままの姿で、今日で二十年が経ったけれど、君はまだまだ幼稚園児並みに若い。その若さでそんな表情をされたら、罪悪感というかなんというか……とにかく、つい余計なことまで口にしてしまいそうだ。
別に隠している訳じゃない。いつからこの担当になったかなんて忘れてしまったし、話してきた回数は四桁になってから数えるのをやめてしまった。覚えるのも結構大変だからね。
「この場所、今日初めて来ました」
脈絡もなく、君はそう言った。
「そうなんだ」
適当に言葉を返した。
この世界に来るためには条件がある。とても簡単な条件で、死んでいれば誰でも来れる。死者の世界があるなんて、ファンタジーのように思えるけれど、それが事実だから何も言えない。時間をかけて受け止めていくしかないんだ。
風が吹いて草原が揺れる。草原と、一つの岩以外は何もないこの場所は、とても見晴らしがいい。全容を話すにはもってこいの場所だ。
死者はこの世界で、生まれてくる人間の一生を記録する。死者は死んだ当時の姿のまま、記録係を続ける。老いることはない。そして、この世界に来て二十年が経過する日、自分の一生を語り手係から伝えられる。語り手は、対象についての記録を読み上げる。このサイクルを永遠と繰り返して、一定の域に達したとき、世代を交代する。その基準は、誰にもわからない。
「……正直、今も信じられないです」
「聞いた直後はみんなそうだよ」
生きていたころの一生を話されても、それを自分の一生だと信じるには時間がかかる。
生きていたころの記憶は、この世界に来る代償として失われているから、思い出すこともない。
思っている以上に感じなかったのも、今も信じられないのも、記憶がないからだよ。言わなくても知っているだろうから、口には出さないけれど。
「何か聞きたいことがあるなら、今なら受け付けるよ」
記録を話すのは一度きり。その機会以外で、語り手と話すことはない。語り手は、指定の位置から離れることはできないから。だからこそ、こうやって聞きたいことはないかと尋ねる。
「……」
また黙り込んで、君は下を向いた。そのまま下唇を噛んで、強く手に力を入れる。血が出てしまわないか心配だ。この世界に血なんて存在しないけれど。死者の中身は空洞だから、内臓も何もない。それでも体は動くから、この世界は不思議なことばかりだね。
さて、あまり長時間話すわけにはいかない。
明確に決められてはいないけれど、時間は平等に与えなくては。
一人だけ時間を長くしたら、他の人が嫌がるかもしれないから。
「……死んだ本当の理由は、なんでしょうか」
風で消されてしまうほどの小さな声で君は言った。
「……」
息を吞んだ。
「聞いた限り、そんな理由で死ぬとは思えません」
この問いをされるのは別に初めてじゃない。
息を呑んだのだって、驚いたからじゃない。
ただ、君がこの問いをするとは思わなかった。
「うん。にしても、珍しいね。そこまで感情的になるなんて」
理由が嘘だと肯定した。少し考えて、まあいいかと思った。直接会うのは今回が最初で最後だけれど、その前から君については知っていた。生きていた君も、この世界に来てからの君も。
「知っていたのですね」
頷いて肯定する。知っている理由を話す必要はない。君がいま求めているのは、自殺した本当の理由。
そして……
「君の両親の居場所」
「――っ」
君は目を見開いた。少し考えればわかることなのに。
生きていたころの記憶は失われる。例外はない。居場所を知って会いに行ったところで意味はない。何一つ覚えていないのだから、会いたかった、となることもない。せいぜいできるのは家族ごっこぐらいだろうか。
「理由を知って、居場所を知って、君はどうしたいのかな」
純粋に知りたくなった。何事にも深入りせず、一歩引いていた君がどう動くのか。
生きていたころの性格と、死んでからの性格が同じとは言えない。そもそも、この世界とあっちの世界では何もかもが違うのだから、記憶と性格に関連があるのかもわからない。かとって、調べることもない。記録と開示を繰り返すだけの世界に、それは必要がないから。
「どうもしません。ただ純粋に、知りたくなりました」
今度ははっきりと、決意を固めた声で君は言った。
残念ながら、死んだ本当の理由を話すことは禁じられている。だから君にも言わないよ。
代わりにヒントをあげよう。
「この記録を書いたのは、君を生んだ人間だよ」
君はまた目を大きくした。草原が大きく揺れて、風がゴオッと音を立てる。君は反射的に目を閉じた。
「――会えて嬉しいよ、■■」
小さく呟いたこの声は、果たして君に届くだろうか。