親子ゲンカ

漸化乃ソラ

 

「おい、お前。ちょっと来い」

 

 とある平日の夜。自分の部屋でスマートフォンのゲームをしていた俺は、不機嫌そうな顔をした父親に呼ばれて、父親の部屋へと赴いた。

 父親は椅子に深く座り、一枚の紙切れを険しい顔で眺めている。

 

「そこに座れ」

 

 俺は、促されるままに父親の向かいの椅子に座った。

 

「なんやこの成績は」

 

 父親が、激しい口調で俺に迫る。見せられた紙は、先日のテストの成績表だった。出来は最悪で、半分以上の教科が赤点である。今日帰宅したときに母親に渡したものだが、それを父親に見せたのだろう。

 父親からの問いかけに、俺は何も答えず黙ったままだ。

 

「お前、前のテストの成績忘れたわけちゃうやろな。なんで今回もこんなに悪いねん。言うてみろ」

 

 再度の質問にも俺はやはり答えない。父親は顔をしかめながら、椅子の肘掛けをコツコツと叩いている。

 

「おい、答えろ言うてんねん。なめとんちゃうぞ」

 

 うるせえ、黙れ黙れ黙れ。

 

「……わかったわ。お前がその気ならこっちにも考えがあるぞ。おい、携帯寄こせ。没収や」

 

 そのとき、俺はやっと口を開いた。

 

「それは、ちょっと待ってくれ」

「おう、なんや。こんなときだけしゃべるんか。そんなに携帯取られんのが嫌やったら、ちゃんと勉強してええ点数取れや。ほら、そのポケットに入ってるやつさっさと出せ」

 

 俺はズボンの右ポケットに入っているスマートフォンを握りしめる。

 俺のそんな様子を見た父親は、呆れたような笑みを浮かべた。

 

「はは、お前、今めっちゃ真剣な顔してんな。ホンマ、こういうときだけ必死になるんか。情けないやっちゃな」

 

 相手を馬鹿にし蔑むような笑い。表情には出してないが、俺は今、自分の中の理性を必死に保っていた。

 

「お前、何ができんねん。言うてみろや」

 

 プツリ、と頭の中で理性の糸が切れた感覚がした。俺は思わず椅子から立ち上がり、言葉を放った。

 

「黙れや殺すぞ!」

 

 家中に響き渡る大声。多分家の外にも聞こえているかもしれない。

 俺の激昂した叫びを聞いた父親は、勢いよく椅子から立ち上がり右手で俺の胸ぐらを掴んだ。

 

「ええ度胸やないか。お前、誰に向かって『殺す』とかほざいてんねん」

 

 この瞬間、俺の脳裏に激しく後悔の念がよぎった。こんなこと言わなければよかった。しかし、過ぎ去ったことはなかったことにできない。

 

「今すぐこの家から出てけ。ほら、出てけや。目障りやから俺の前から消えろ、ダボ!」

 

 父親は左手で俺の頭を殴り、床に突き飛ばした。激しく尻もちをついた俺は、殴られた箇所を右手で抑える。すると、右手にぬるぬると気持ち悪い感触がした。一瞬、それは血かと思いヒヤッとしたが、掌を見てみるとそれが汗だったことがわかった。

 気がつくと、顔や背中は汗びっしょりとなっていた。

 

「おら、出てけ言うてるやろ。聞こえんのか」

 

 床に座り込んだ俺を見て、父親はまた責め立てるような口調で話しかける。

 俺は何も言わず立ち上がり、深々と頭を下げた。

 

「ごめんなさい」

 

 自分の弱々しい声は、自分自身に一番突き刺さる。

謝ってしまえば、自分の弱さや愚かさを認めたことになる。しかし、家から出てけと言われて、本当に出ていく勇気は俺にはなかった。仮に出ていってしまえば、再び戻るのにはさらに大きな勇気が必要になると思ったから。

 父親は俺の情けない姿を見て、腕組みをしながら言った。

 

「謝るくらいやったら、そんなこと言わんかったらええやろ。どうしようもないな、お前は」

 

 ああ、これはダメだ、手の打ちようがない。この流れは、前にも何度か経験したことがある。叱られる側が反抗的な態度を取った場合、そのことを指摘され、反抗したことを謝ってもまたそれに対して非難される。つまり、説教を最も早く終わらせる方法は、叱る側の言うことを最初から終わりまですべて肯定し続けること。それができなかった時点で、叱られる側が傷つき続ける負の無限ループだ。

 俺は今、抜けられない地獄の中にいるのだ。

 

「お前はホンマにいいご身分やな。親の金で学校に行かせてもらって、毎日遊んでばっかでなあ」

 

 俺は、はい、はいと頷き続けることしかできない。これが現実だ。どれだけ汚い言葉で刃向かっても、本質的に子は親に勝てないのだ。

 もう嫌だ。逃げたい。この苦しみから逃れたい。しかし、逃げるのはダメ。そうすると、自分が弱いと自認するも同然。逃げれば地獄、逃げなくても地獄、どうすることもできない。

 いっそ死ぬか。盛大に自殺してやるか。遺書に「父親が憎かった。俺を殺したのは父親だ」とでも書いとくか。そうすれば父親は社会的に抹殺だ。ざまあみろ。いや、母親が悲しむか。母親は何も悪いことしてないのに。あはは、自殺もダメか。

 父親はさらに続ける。

 

「もっぺん考えるんやな。自分が何のために学校に行ってるか、自分がどれだけ恵まれてるか。ほんで、これからどうしていくか。わかったら自分の部屋に戻れ」

 

 俺は重苦しい足どりで父親の部屋を出た。すると、出たところに母親が心配そうな顔で立っていた。

 

「あんた、どうしたの。何か叫んでたみたいだけど」

 

 俺はか細い声で「別に」とだけ言って、自分の部屋に戻った。

 その夜は何もできず、ただ声を殺して泣くだけだった。

 

 

 翌朝。

 俺はいつも通り制服に着替え、学校に行く準備をしていた。昨日の一件を綺麗さっぱり忘れたわけではなく、自分の心の中にはまだモヤモヤがある。しかし、それをいつまでも引きずっているわけにもいかない。

 俺は着替え終わると、いつも通り朝食を食べに階段を下りてリビングに向かった。そこには、朝食の準備をしてくれていた母親と、スーツを着て新聞を読んでいる父親がいた。

 

「おはよう。今日はそのパンと牛乳飲んでね」

 

 母親はいつも通りの口調で言った。昨日のことは父親から何か聞いているかもしれないが、そのことには触れまいとしているのだろうか。

 俺は無言で頷き父親の向かいの席に座り、トーストを食べ始めた。

 無言の時間がしばらく続いた。時折、父親の新聞をめくる音が聞こえるくらいだ。

 そして、父親が急に口を開いた。

 

「まあ、なんや。最近仕事で色々あってイライラしとったんや。……殴ったのは謝るわ。すまんな」

 

 俺はトーストを食べるのを止めて父親のほうを見たが、父親は新聞を読んだままでこちらを見ようとはしない。

 

「ただ、あの成績を許したわけちゃうぞ。もっと勉強せなあかんのは事実やろしな。まあ、お前も色々あるんかも知れんけどもうちょい頑張ってくれや」

 

 俺は「はい」と一言だけ言った。それ以降、父親は何も話さなかった。やがて時間になると、仕事に向かっていった。

 再び訪れた静寂の中で、俺はまた無言でトーストを食べる。その光景は端から見れば何も変わりないが、俺の心中には少し変化があった。

 晴れやかな気分、とまではいかないが、自分の心のモヤモヤは少しほぐれた気がした。