月影に融ける

長編/城輪アズサ

 

 ──夏の終わり、秋の頭。夢走(ゆめばしり)予備校五階、A教室。

“日常が奪われた、と誰かが言った。わたしたちは抑圧されていた、と誰かが憐れんでいる。けれど、そう言う人たちは気付いてないんだ。わたしたちの日常はすでに、どうしようもなく破綻しきっていて、もはや取り返しがつかないのだということを”

 ──そこまで書いたところで、わたしは我に返った。

 古典の配布プリントの隅。「秋月芽以」と、自分の名前が書かれた部分の真横。レイアウトの関係で余白になった部分。そこに、わたしの文章が躍っている。無意識のうちに書いてしまっていたらしい。悪い癖だ、とは分かっているけれど、それをやめることはできそうにもなかった。

 それはわたしにとって、一種の防衛機制だった。世界と自分との折り合いを付けるために必要な行為だった。それでも、それがもう何の役にも立たないこと、それがわたしの絶望にとっては何ら価値のないものだということは、自分が一番よく分かっていた。

 わたしはそのプリントをずらし、下敷きのようにして隠していたプリントを垣間見た。まるで、かさぶたを剥がすように。

(ああ──)

 瞬間、わたしの心に去来したのは、どこか柔らかな戦慄だった。隠されたプリント。その中央に、シャープペンシルで黒々と穿たれた渦。それはわたしの傷で、罪で、そして心そのものだった。

 絶望的な気分になった時、わたしはそうすることにしていた。腕を切るのも、焼くのも、どちらもわたしには怖かった。だからその代償行為として、わたしはそれに手を出している──。

「壁には蔦(つた)葛(くず)延(は)ひかかり、庭は葎(むぐら)に埋もれて、秋ならねども野らなる宿なりけり……秋ではないが、秋の野のように荒れた家だったと。男が目を覚ましてみると、そこは廃墟だったと、そういうことなんですね。よって答えは②です。では次──」

 ふと、大学生のアルバイトとおぼしき講師の声が耳に入ってくる。うるさいな、と思いながら、わたしは真面目に授業を聞いているふりをしつつ、ゆっくりとそのプリントを隠した。

 授業を聞かなくなってから、もうずいぶん経つ。いつからそれを覚えたのかは、もう記憶にない。ただ、さらさらと、街を流れる車の音のような、あるいは、心臓の拍動の音のようなものとして授業を受け流すことは、今やわたしにとっての日常と化してしまっていた。その代わりにわたしを支配しているのは、言葉だった。思考、と言い換えてもいいかもしれない。

 ──どうして、わたしはこんなところにいるんだろう。そんなことばかりを、ずっと考えている。

「まあここの正答率は三十三パーセントほど。決して多いとは言えないわな」

 話は続いているようだったが、もうそれはわたしの耳には入ってきていなかった。

 夏期講習が終わって、九月。模試の季節になっても、わたしの成績は伸び悩んだままだ。いや、〝伸び悩み〟という言葉は適切じゃない。成績が伸びたことは一度もないからだ。もうずっと、下がり続けたまま──。

 そこで、チャイム音が鳴り響いた。なおも授業は続いているが、そんなことはわたしたちにはどうでもいいことだった。もうクラスの三分の一ほどは授業など聞いていない。弛緩した空気は、瞬く間に広がっていく。

 そこで耐えかねたように、講師は口を開いた。

「はい、今日はここまで。今週末にはまた、模試があるのでね。ただ、しっかり対策すれば難しいもんじゃない。共通試験まで日がないので、気張っていきましょう」

 どきりとした。次いで湧き上がってきたのは、怒りだった。

「…………っ!」

 叫びそうになるのを必死で堪える。もう限界なのは目に見えていた。

 ──それでも、わたしはまだここにいる。

 

 バスに揺られて三十分ほどで、わたしは市内にある自宅に帰り着いた。西洋風の新築だ。いわゆる日本家屋的な、木をあしらった部分は一つもない。ヨーロッパ趣味もここまで来ると偏執だ、と思ったところで、わたしはまだ怒りを堪え切れていない自分に気がついた。

 それでも、家に帰らないわけにはいかなかった。わたしは玄関の扉を開ける。

「ただいま」

 ゆるやかな歩調で歩きながら、つとめて冷静にわたしはそう言った。手を洗い、リビングに行くと、母親が待っていた。父は風呂に入っているようだ。テレビからは脳天気そうな芸人の笑い声が聞こえてくる。

「おかえり。どうだったの、模試の結果は?」

 ──そしてその瞬間、そうしたすべての思考は、感覚は吹き飛んだ。

 わたしは足を止めた──のだと思う。

「ま、まあまあかな」

 視線をあらぬ方向に向けたまま、わたしはなんとかそう言った。

「まあまあって何よ、まあまあって?」

 母はねちっこく絡んでくる。気が立っているのはあの人も同じなのだ。けれど、わたしのそれと、母のそれは違う。絶対に違う。

「言葉通りの意味でしょ……」

 わたしの言葉など聞こえていないかのように、母は続ける。

「分かってるんでしょうね、次が最後の模試なんだからね」

「うるさいな……」

 言ってからはっとなった。でも、もう遅い。

「……なんですって?」

 母の表情が曇っていくのが分かる。だけど、その時にはもう止まらなかった。止めることができなかった。わたしは叫ぶ。

「ちゃんとやってるから! おかまいなく!」

 カバンを持ったまま、わたしは二階へ昇っていった。そして部屋に入り、鍵をかけると、授業で配られたプリントを取り出して、シャープペンシルで塗りつぶしていく。

 無数の英単語が、黒の下に埋没する。すべてがまとまりを失い、一つのディティールへと還元されていく。

 と、ふと、芯がぽきりと折れる感触で、わたしは我に返った。

「………~~~~ッ!」

 声にならない叫び声をあげながらベッドに倒れ込むと、わたしは声を押し殺して泣いた。どうして。どうしていつもこうなんだろう。どうしてわたしは。

 けれど、そのことに応えてくれる人は誰もいなかった。こうして、今日も夜が過ぎる。

 

─◇◆◇─

 

 午後三時半ごろ。その時、わたしはまとめた燃えるゴミを集配所に運んでいた。

「あ。秋月さん!」

 ふと名前を呼ばれ、わたしは振り返った。そこにいたのは、数少ない友人の一人である町田さんだった。彼女は、わたしと同じようにゴミ袋を抱えていた。

「最近どう?」

 そう聞かれても、あまり怒りのわき上がってこない自分に、わたしは驚いた。実にいい加減だ、と思うが、その矛盾はわたしを傷つけなかった。

 町田さんは一年生の時に同じクラスだった。そして、今は理系のクラスに進んでいる。獣医学部を受験するのだそうだ。尊いことだと思う。きっと彼女は、社会でも誰かの役に立つようになるのだろう。

「まあまあかな」

「毎日大変だよね。まあぼちぼち頑張ろうね」

 言い、彼女はゴミ袋を集配所に置いた。そのために身をかがめたとき、ふと、ポケットから物が落ちるのをわたしは見逃さなかった。

 それは単語カードの束だった。咄嗟にそれを拾い上げたわたしは、一瞬、その表面の単語を見てしまった。

 見たこともない単語だった。意味は当然のことながら分からない。一瞬にして、全身から血の気が引いていくような心地がした。

「あ、拾ってくれたんだ。ごめん」

 そう言って、彼女はわたしの手からカードを受け取り、「それじゃあね」と言ってからクラスに帰って行った。

 頑張ろうね、と彼女は言った。それは実にありふれた言葉だ。でも、それが指し示す対象はあまりに多様で、その差異が、わたしにはたまらない。

 

 夕方。

 学校帰り。わたしは通学路を、バス停に向かって歩いていた。片手には、模試の成績を握っている。

 ふと脳裏に、これまで浴びせかけられた言葉が蘇る。

〝やっぱり英語が弱いね。息切れしないように……全体のペース配分を考えたら?〟

 わたしはため息をついた。だが、心は止まらない。

〝単語覚えるだけじゃダメだよ、もっとこう──因果関係を整理しておかないと〟

「………っ!」

 ため息ではもうどうしようもない。わたしは掌に力を込めた。それでプリントは歪んだ。もう何が書いてあるか見るのは難しい。わたしはプリントを丸め、完全にゴミにするとカバンにしまい込んだ。

 気付いたときには、バス停の前まで辿り着いていた。

 わたしは単語帳を開いた。相変わらず、内容は頭に入ってこない。一夜漬けで定期テストを突破し続けてきた弊害だ。単語が、覚えたはずの単語が、自分のものになっていないのだ。 しばらくしてから、バスがやってきた。空圧ドアが力強い音とともに開いていく。

「夢走予備校前行き、発車します」

 わたしは単語帳をしまい、バスに乗り込もうとして──そこで足を止めた。

(これに乗れば、今日もまた同じだ──)

 思考は強く瞬き、わたしの身体を支配した。そして、縫い止められでもしたかのように、その場から動けなくなる。

 間があって、バスの扉が閉まる。その中にわたしはいない。

 そうして、わたしは去って行くバスの背をずっと眺めていた。その先には、寂しげな都市の、夏の残滓を引きずった空が広がっている。

 ──多分、それらを目にした瞬間だった。わたしが決意をしたのは。わたしは横断歩道を渡り、そこにあるバス停のベンチに身体を投げ出した。

 しばらくしてから、再びバスが到着した。わたしはそれに乗る。

「中岡二丁目経由、黒耀(こくよう)ニュータウン行き、発車します」

 ──決意。それは、家出をしよう、という決意だった。

 再び耳朶を打った、バスの空圧ドアの閉まる音に、強いその決意はわずかに打ち震えた。

 

 ─◇◆◇─

 

 バスを降りると、そこには草の臭いがあった。

 無論、そこは一般に人が想像するような田舎ではなかった。反対車線にはコンビニも建っているし、コインランドリーも見える。だが、そこには都市に特有の臭いはなかった。あの臭みは。あの頽廃(たいはい)は。

 わたしは歩いて行く。この街──黒耀ニュータウンを。

「…………」

 と、ふと。わたしは、向こう側から歩いてくる高校生二人と目が合った。

(なに……この感じ?)

 どちらも歩調が速いため、早々にわたしたちはすれ違った。それでも、わたしの中に生まれた違和感が消えてなくなることはなかった。

 彼らはどこか、虚ろな眼をしていた。そのうえ、二人で並んで歩いているというのに全くの無言だった。どう見ても、それは「自然」な高校生の姿ではなかった。

「……まあ、いいか」

 一つ呟き、わたしは再び歩き出した。

 

 どれくらい歩いただろう。ふと視界に、見慣れないものが飛び込んできたので、思わず口を開いてしまった。

「時計塔……」

 それは時計塔だった。ビルで言えば三階ほどの高さだろうか。煉瓦造りのそれは、天を衝かんばかりにそびえ立っている。

「珍しい?」

 ふと声をかけられ、わたしは後ろに跳び退ってしまった。その声は背後、さっきまで誰もいなかった筈の場所から発されたのである。

「うわっ!?」

 跳び退り、振り返ると、そこには古いタイプのセーラー服を着た、同い年くらいの女の子が立っていた。

 驚くわたしを余所に、彼女は言葉を続ける。

「あなた、この辺の人じゃないね?」

「あ、えっと……」

「その制服……見たことない。街の方の人?」

 それはこっちのセリフだった。彼女の着ている種の制服は、今やあまり見ない。この辺りではまだ使われているのかもしれないが。

「まあ、そんなところかな……あなたは?」

「私? 私はここに住んでる。この──時が止まった街に」

「それは……どういう……」

 わたしは聞きかえした。時が止まった街。一瞬、何を言われたのかさえ分からなかった。しかし彼女はそれには答えず、

「私、影山って言うの。影山結。あなたは?」

 と続けた。

 わたしはいそいそとそれに答える。

「あ、秋月だけど……秋月芽以」

「そう。芽以ちゃんか。いい名前ね」

 思わず吹き出しそうになるのを、なんとか堪える。絶対に真面目な顔で言う言葉ではない。

「今日日(きょうび)聞かないよ、そんな常套句……」

「自分の名前、嫌い?」

 ふとその言葉に、わたしはあの顔を思い出してしまった。母の顔を。母とはまだ、ぎくしゃくしたままだ。

「……そ、れは……」

 しばし、気まずい沈黙が流れた。わたしは何も言えず、結もまた何も言えないようだった。 やや間があって、彼女は手を叩いた。

「そうだ! この街、案内したげる。ここ来たの、初めてでしょ?」

「う、うん……」

 案内? と聞きかえすことはしなかった。彼女の顔は、表情は、そうした追及を許さないほどに輝いていた。

「黒耀ニュータウンにようこそ……ってね。きっと気に入るわ。ここは良い街だから」

 言い終わると、結は歩き出した。わたしもそれに続く。

 

 ─◇◆◇─

 

 黒耀ニュータウンは、やはりどこにでもあるニュータウンだった。少し歩けばシャッターの閉まったままの小売店や、蔦の生えた空き家が顔を覗かせる。そこには都市の頽廃とは別種の、倦怠のような行き詰まりがあった。

 ──そんな中で、彼女だけが生き生きとしている。

 道まばらに遊具のある公園の前の道の真ん中で、彼女はふと口を開いた。

「ここ、小学校の時によく通ったな」

「今は違うの? その……この町、そんなに広そうには見えないけど」

「明け透けだね」

「なんか……ごめん?」

「まあでも、無理もないよ。ちょっと特殊なの。小学校と中学校が反対にあってね。導線っていうのかな……それが別々の方向に伸びてて、二つの生活が交わらないようになってるの」

「二つの生活……」

「ほら、小学校と中学校って全然違うでしょ。中身も、外見(そとみ)も。それを体感として覚えられるようにってね。制服もあるしさ」

「制服……そっか、普通、小学校に制服はないんだ」

「へえ、小学校も受験したの?」

「……うん。親の意向でね。まあ、結局中学に上がる時にまた受験して離れちゃったんだけど」

 言いながら、段々とわたしはあの頃のことを思い出していた。家から学校へ、学校から塾へ。同じ構造の生活の中を繰り返す──その中で、世界だけが移り変わっていく。世界だけが、確実に変わっていく。細かくなり続けるテキストの文字、離れていく友だち、そして──下がり続ける点数。

「受験と生きてきたって感じだね。それじゃさっきの喩え、ちょっとわかりにくかった?」

 言われて、わたしは受験のことを言われているのだと気付いた。普通、公立の小学校というのは受験とは無縁だ。

「ううん。受験だけじゃない……やっぱり全然違うよ、小中は。けどそれでいて、通学路は全然変わらない……人も……目的も……なんか……バカみたい」

「芽以ちゃん……」

「ここに住めたら良かったのにな」

 止めるべきだという思いはあった。これは表に出してはいけないものなのだと。ここではないどこか。わたしではないわたし。それへの欲求が理解されるはずはない。そんなことは、とっくに分かっていたはずなのに。

 結は、しばらくわたしを見つめていた。その眼は、どこかわたしを見透かしているようで、そして、彼女はその口を開いた。

「……芽以ちゃんは、自分のことが嫌いなんだね」

 わたしは顔を上げた。かあっと全身が熱くなっていくのが、手に取るようにわかった。それは「恥」の感覚だった。

「ど、どうして、そのこと……?」

「分かるよ。私もそうだったから」

「…………」

 押し黙るわたしの前で、結は言葉を続けた。

「何も考えない方がいい、って皆気楽に言うけど……やっぱり、そんなことできるわけがないのよね」

「あなたは、どうやって……その……」

 辛うじて絞り出すことのできた声があまりに無防備なのに、自分でも驚いた。それは告解のような声だった。あるいは、母を求める子どもの。

「乗り越えたの、って? ──期待に添えないようで申し訳ないけど、多分、私も乗り越えてはいない」

「で、でも……」

「そう、ここにいる。とはいえ、私にできることはそうした、存在の主張しかない。そして誰でも、恐らくはそうなんだと思う。それが祝福なのか、呪いなのか──教えることは、誰にもできない。それでも、その選択肢があることだけは分かる。それは、確かに存在する」

 わたしは気圧された。その言葉はたしかに彼女から発されたものでありながら、どこかもっと遠く──遙か彼方の深淵から発されたもののように思えたのだ。

「選択肢……わたしにも、いつか選べるかな」

 その言葉に、彼女は微笑んだ。

「きっとね」

 ふと、結は空を見上げた。それにつられてわたしも空を見上げる。それで、夕暮れ時の茜色の空が目に飛び込んでくる。

 やや間があって、ちらと腕時計を見た彼女が口を開いた。

「あー……日が暮れちゃうな」

「もうそんな時間かぁ……」

 そこで、彼女は再び時計に目をやった。そこには、真剣そうな表情が浮かんでいる。

「……うん、まだ間に合うな」

「え?」

「もうちょっとで、最後のバスが来る。それで、今日はもう帰った方がいいよ」

 それは打って変わって切実そうな声だった。

「え、でも……」

「間に合わなくなるからさ」

「……ど、どうして?」

 戸惑いを打ち消せないまま、わたしはそう聞いた。

「もうじき、夜がこの町を呑み込むの──そうなったら、ここにいない方がいい。……きっと、帰れなくなるから」

 それは深刻そうな声だった。使われている言葉の一つ一つはありふれたものなのに、そこに乗っている重みは、これまで感じたことのないものだった。

「…………」

 呆然とするわたしの前で、彼女は、

「それじゃあね、芽以ちゃん」

 と言い、その場を立ち去った。後には自分と、暮れなずむ空だけが残る。

 彼女のことは、裏切りたくなかった。彼女が帰った方がいいと言うなら、それはきっとそうなのだろう。次のバスに乗って、それで市内に帰るべきなのだろう。……でも。それでも。それでもわたしは、帰りたくなかった。今のわたしに、帰る場所はない。その時、わたしは強く、それを確信していた

 日が沈んでいく。世界の輪郭がほどけて、闇の中へと埋没していく。

 長い間があって、わたしは、よろよろと一歩を踏み出した。

 

 ─◇◆◇─

 

 バス停付近は、流石に明るかった。街灯が整備されているからだ。

「…………」

 どうにかここまできたが、わたしはこれ以上動ける気がしなかった。くすんだ青で塗装されたベンチに、身体を投げ出すようにして腰掛けると、ぼんやりと道の向こう側を眺める。

 と、ふと、夕闇を切り裂いてバスがやってきた。古い機体だ。車体の表面に行き先が表示されていない。

 それを補うように、車内のアナウンスが聞こえてくる。

「県庁前行き、まもなく発車いたします」

「…………」

 それを聞いても、やはりわたしは立ち上がることができなかった。それを察知したのだろう。運転手はこちらを一瞥すると、すぐに進行方向に視線を戻した。空圧ドアの音が響き、目の前でバスが発車する。

 そうして、暗くなった街には、わたしだけが残された。

「……これから、どうしようか……」

 呟き、いっそう深くベンチに身体を埋め──ふと、わたしは耳朶を打った大音響に飛び上がった。

 それは鐘の音だった。昏くなった街に、鐘の鳴る音が響き渡っている。それは恐ろしく不気味な音だった。わたしは咄嗟に身体をかき抱いてしまった。

「なに……この音……」

 音はだんだんと大きくなっていく。それはどこか祭り囃子の太鼓に似ていた。その音が頂点に達した時──ふと、街に光が充ちた。

 それは蒼色の光だった。蒼の街灯は犯罪の抑止のために使われると聞いたことがある。網膜から脳を侵すシグナル。しかしそうした意図は、今のわたしには何ら効果をおよぼさなかった。

 一斉に街灯が点く、というのは、普通ではあり得ないことだ。おまけに、今ここでわたしは一人だった。恐怖を感じないわけがない。

 反射的に、わたしはその場から離れた。道を渡り、シャッターの降りた店と店の間の道を抜けようとし──ふと、振り返った。

 ──それで、目が合う。

 中年の男たち。彼らは一様に、虚ろな目をしていた。一瞬、その黒々とした塊が、人間のものだと思えないほどに。それは皮蛋(ピータン)のような、およそ人の身体には相応しくない存在感をもってそこにあった。

 否、「目が合う」と言ったが、多分それは表現としては適切ではないのだろう。それは一方的なものだったからだ。わたしはたしかに、彼らの「目」を見つめていた。けれど、相手の「目」はこちらに向いてながら、視線は絶対に、こちらには向いていなかったはずだからだ。

 彼らはただ、歩いて行く。その足取りはフラついていながら、正確だ。彷徨っているようには見えない。そこには確かな目的が感じられた。

 ふとわたしは、その進行方向には時計塔があったことを思い出した。

 ──そこに行けば、なにかがあるのか。

「…………」

 わたしは小道から出た。そして、歩き出す。彼らと同じ方向へと。

 

 

 時計塔周辺は異様な雰囲気に包まれていた。

 そこでは、塔を中心に蒼色の光が立ち上っている。ライトアップ、というにはあまりに不気味なそれは、町中に充ちている光と同じもののようだった。

 そこに向かって町民とおぼしき人たちが歩いて行く。彼らは一様に押し黙っており、それはまるで、人形か何かのように見える。あるいは、葬列に。

 男女比はある程度保たれており、統一感のない構成ではあったが、一つはっきりと言えることは、そこには子どもがいない、ということだった。

 ふと、わたしはその人たちの中央に、一人の男が立っているのを見た。のり付けの施されたスーツに整えられた髪。それが町長だと、瞬時にわたしは悟る。──と、ふと、彼は無機質な表情のまま、口を開いた。

「君、こちらへ」

 それで、その場の人間が一斉にこちらを向いた。

 それは実に迅速で、また鋭い反応だったが、しかし、その目に宿っているものは先刻と何ら変わりの無いものだった。その目には何も移っていない。虚無だ。だが「目」のもつ威圧感に、わたしは気圧されてしまった。

「…………!」

 わたしは。否、わたしの身体は、気付いたときにはふらふらと時計塔の方向へ向かっていた。

 一歩ごとに自分がゆるやかに解(ほど)けて、消えてなくなってしまうかのような錯覚に、ふとわたしは襲われた。視界が霞んでいく。微睡みのような、この状況にはまったく相応しくないどこか安らかな感覚が全身を支配していくのに、わたしは抗えない。

 そうこうしているうちに、時計塔の下まで移動していたようだった。町民たちは、距離感を保ったままわたしを取り囲んでいる。

「君も、我々と同じだ」

 ふと放たれた言葉で、僅かにその感覚は和らいだ。それでなんとか、わたしは口を開くことができた。

「な、に……を……」

「ここにいるのは、深い傷を負ったものたちだ。澱のように日々この世界に積もっていく不幸の残滓(ざんし)、残響──そうしたすべての、嘆きそのものだ」

 意識の混濁とは裏腹に、言葉それ自体はすんなりとわたしの中に浸透してきた。それは奇妙な感覚だった。自分も、自分を取り囲む人々も、この矮小で不出来な身体から抜け出して、心だけになったかのようだった。わたしたちはむき出しの言葉で、むき出しの心で向き合っていた。

「君はどうなんだ?」

 その言葉は、厭にはっきりと耳朶を打った。

「わたしが……なんだって……」

「この世界に、嫌気がさしているんだろう? 傷が、痛みが、蛇のように全身を這い回る──そんな感覚に襲われることはないか?」

「……それは……それは、違う……」

 言ってから、その言葉が反駁(はんばく)として成り立っていないことに気付いた。それはもはや外に向かって開かれた言葉ではなかった。それはほとんど自省と変わりがなかった。 そこではたと気付く。あの人たちもそうなのだ。あの目は、内側を見つめている目なのだ、と。

 だけど、わたしはそれを認めることができなかった。認めたくなかった。それを認めてしまえば、わたしがわたしであることの──生の根拠──そうしたすべてが、崩れ去ってしまうように感じたからだ。

「だから、ここに来たんだろう? この喪われた街に、あの世界の外側に」

「違う……違う……!」

 わたしは暴力的に耳を塞ぎ、首を振り続けた。

「もう楽になっていい。ここはそれを許す。そのための場所だ。そのための──」

 言葉は、相も変わらず身体に、心に浸透していく。

「違う……わたしは……!」

「君の苦しみはよく分かる。辛かったろう」

 ふと、町民の一人が口を開いた。それに同調するようにして、他の人々も口を開いていく。

「でも、その先には何もない。ただ闇が広がるだけ」

「どこにも辿り着くことのない闇だ」

「知っているよ。君は死を望んでいる。だからここに来て、そして帰らなかったんだ」

「死はどこにでもある。我々の裏側で常に蠢いている」

「でも、誰もそのことを考えない。顧みもしない」

「こうして、世界には悲しみだけが降り積もっていく」

「だったらその前に」

「その前に」

「その前に」

「その前に」

 わたしはうずくまった。もう限界だった。

「もうやめて! 何も聞きたくない! 何も──っ!」

「目をつぶっても」

「耳を塞いでも」

「事実は変わらない」

「絶望を忘れても、虚無は消えない。苦しみを消すことはできない」

 ──それらが他人の言葉なのか、自分の言葉なのか。わたしには、もう分からなかった。

 ずっと考えないようにしてきたこと。ずっと閉じ込めてきたもの。夜の闇の空虚に浮かぶ、存在しえないもの。でも、たしかにそこにあるもの。

「さあ」

「さあ」

 それがいま、わたしを取り囲んで──。

「さあ」

「さあ」

「その、言葉を言うのだ」

 町長が言う。それは最後通牒だった。

 生の根拠を失った後に、人が辿り着く場所。それは一つしかない。

「もう、わたしは──」

 そしてわたしは、その言葉を言おうとして──。

 瞬間、辺りに爆発音が響き渡った。それでわたしも、周囲の町民も口をつぐむ。

 どこか遠くで爆発が起こったようだ。それによって生まれた光によって、蒼い光は一瞬にしてかき消え、辺りは代わりに、朱(あか)い光に満たされる。

 光は次第に揺らめき始めた。それと同時、何かが燃えるような音が響き渡ってくる。

「これは……炎……?」

「ダメだよ、皆」

 ──声が、聞こえた。

 わたしは天を振り仰いだ。紺碧の空、暗幕のような夜空を。そこには彼女がいた。影山結。セーラー服をはためかせて、地面に降り立ってくる。

「今日はもう帰って」

 群衆を一瞥すると、彼女はそう宣言した。それで、町民たちは無言でその場から去って行き──後には、わたしと彼女だけが残される。

「帰って、って言ったのに」

 困ったような表情で、彼女はそう言った。そこには疲弊し、呆然としているわたしを慮るような雰囲気があった。そのことが情けなくて、わたしはなんとか口を開いた。

「ごめん……でも……何だったの、あれは……?」

「やっぱり、気になるよね」

 表情を変えないまま、結はそう返した。心理的な距離を、わたしは今はっきりと知覚した。この先に踏み込まれることを、彼女は望んでいない。けれど、ここまで関わってしまった以上、もうそれを放っておくことはできなかった。

「……うん」

 逡巡の果てに、わたしは頷いた。

「あなたになら、いいかな」

 ──と、次の瞬間、再び爆発音が響き渡った。その音はさっきよりも小さなものだった。戦争映画でよくある、誇張した爆音ではない。それはどこまでも現実の側に属した、何かが燃えている時に不意に現れる音だった。

 遠くで、豪勢な邸宅が燃えているのが見える。音と光の源はそこにあるようだった。

「あれは……」

「あれは、私。そして私たち。かつて影山家と呼ばれたもの。そして、今はもう、どこにもないもの」

 わたしは目を見開いた。ここに来るまでに薄々感じていた予感が現実のものとなろうとしていることを、はっきりと感じながら口を開く。

「じゃあ、あなたは……」

「そう。影山結という人間は、もう死んでいる。ここにあるのはその残響。あるいは呪詛。ま、さっき聞いたか」

「そんなことって……」

「よくある話でしょ? 田舎にいる女子高校生の幽霊。死んだ怨念で、訪れる人を呪い殺す──」

 そう言って、結は自嘲するように笑った。その表情が痛ましくなり、わたしは追うように言葉を紡いだ。

「でも、あなたはここにいるって……そう言ってたんじゃ……」

「そう。私は強く残りすぎてしまった。だから厳密には幽霊じゃない。土地に縛られた──そう、地縛(じばく)神(しん)というところになるのかもしれない」

「地縛の……神(かみ)……」

「強すぎる怨念は他人を引き寄せる。あるいは、他人の中の昏(くら)い部分を引きずり出す。ここにいる人たちは、そうして少しずつ狂っていったんだ」

「だから、〝どこにも辿り着くことのない闇〟って……」

「まあ、彼らは元々そういうところがあった。誰もが時代の中で敗北して、後には身体だけが残った。そしてその空虚な生を埋め合わせるために、こうして毎晩、魂だけがこの時計塔の下に集まってくるの。この、喪われた夢を、止まった時を、いつまでも記録するランドマークの下に」

「時が止まった街。あなたはそう言っていた。どういう意味なの、それは? 時代の中での敗北って、どういうこと?」

 そこで、彼女はさっきまでの、どこか憐れむような表情を崩した。代わってそこに立ち現れたのは、寂しげな、少女の表情だった。

「スペリオル都市開発って、聞いたことある?」

 懐かしむように、一文字一文字を噛みしめるように、彼女はそう問いかけた。

「……なにそれ?」

 わたしは恐る恐るそう問い返した。それに対して結は気丈に、

「昔存在した会社。幅広く事業を手がけていた。例えば──そう、ニュータウン開発とか」

 と返す。

 ニュータウン開発。ふとその言葉に、わたしは目を見開いた。

「待って、それじゃ……」

「社長──一代で会社を巨大にした実業家の名前は、影山信彦。そう、私の父だった人」

「…………!」

 息を呑んだ。

 これまで彼女が語った言葉のすべてが、圧倒的な重みをもってわたしにのし掛かってくるようだった。

「不動産価格の高騰。高度経済成長の残滓。バブル期と呼ばれた時代が、私たちを、いえ、父を狂わせた。手が届く位置まで降りてきてしまった、浮ついた夢のために、しがない地方公務員だった父は退職し、ここに街を築いた。需要ならあった。すべては、うまくいっていた──」

 言葉が耳朶を打つたびに、わたしの意識は、次第にさっきと同じように混濁し始めた。視界が霞み、現実の輪郭が解け、認識が、過去へと立ち返る──。

 

 ─◇◆◇─

 

 ──家は人の気配で充ちていたが、しかし、そこには奇妙な静寂があった。それは安心するような静けさだった。

「ただいま」

 少女は扉を開け、鍵を閉めると、靴を脱いでスクールバックを肩にかけたままリビングへと向かった。影山結。それが彼女の名前だ。わたしはそれを、どこかから俯瞰していた。

「おう、おかえり、結」

 リビングには彼女の父親、信彦がいて、机の上にジオラマを広げている。それはテーマパークのようだった。

「どうしたの、それ?」

 結は物珍しそうな顔でそう問いかける。それに対し父は、

「夢の結晶だよ。遂に叶うんだ。長年の理想だった。この片田舎に、テーマパークを作るんだ。そうしてゆくゆくは全国と、世界と結びつくだろう。このニュータウンは、その玄関口になるんだ……」

 と、演説するような調子で返した。その目線は結と、その向こう側、窓から見える黒耀ニュータウンへ向いている。

 計画されたニュータウン。十全な生活を実現するためのマトリクス。それは父の半身でもあったのだろう、とふと結は思う。そして今、それは拡張されようとしている。

「ふうん……なんか分かんないけど、頑張ってね。応援してるから、これからもずっと──」

 ──だが、それは夢だ。

 

 

 ──雨音が響いている。あれからどれだけの時間が経っただろう。

「ただいま」

 傘を置き、結はスクールバックを持ったままリビングへと進んでいく。明かりのついていない廊下に、部屋に不気味さを覚えながら。 

 リビングでは、父と母が椅子にすわってうなだれていた。机の上では、いつか見たジオラマがぐちゃぐちゃに壊れている。

 明らかに、それは尋常ではなかった。

「……どうしたの……?」

 怯えを隠しきれない声で、結はそう問いかけた。それに、父はうわごとのように言葉を返す。否、それは本当に返答だったのだろうか。彼の、彼らの目に、娘は写っていたのか。

「すまない……すまない、結……」

「許してね……結……これから、私たちがすることを……」

 言い、母はよろよろと椅子から立ち上がると、結の肩に手を置いた。その腕から震えが伝わり、彼女の全身から力が抜けた。参考書で膨らんだスクールバックは腕からすり抜け、フローリングに激突する。

 そこで視界は暗転する。記憶が途切れている。その風景を記憶しているものは、今はもう誰もいないのだ。

 鳴り響いている音がある。警告音。それは火災報知器の音だった──。 

 

 

「一九九〇年代初頭。バブルの崩壊……」

 ──意識は、気付いたときには鮮明になっていた。

 わたしの言葉に頷いてから、彼女は口を開いた。

「それと、広げかけていたテーマパーク事業がぶつかってしまった。返しきれない負債を抱えた父は早々にすべてに絶望すると──一家心中をはかった」

 ぞくりとして、わたしは両手で口許を覆ってしまった。一家心中。その言葉の怜悧(れいり)な響きは、わたしの心の内奥を揺らした。

「練炭自殺だった。邸の中でやってしまったから、不審火で家は燃えた。消し止められた時には、私たちは既に死んでいて、後には、こうして呪詛だけが残った」

「そんな……そんなことって……」

「人の夢は、脆く、移ろいやすい。だから、普段は考えられないようになっている。その暴力的なまでの残酷さを」

 突き放すようなその言葉に、わたしはわたしの至らなさを痛感した。

「……だって、そんなの……小説の中だけの話だと……」

「そうね。関わった人は皆こうなったから」

「わたし……知らなくて……っ」

「あなたが罪悪感を覚える必要はないわ。すべてはもう終わっている。今問題にするべきなのは──あなたのことよ、芽以ちゃん」

「……え?」

 思わず間の抜けた声を出してしまい──ふと、気付く。

 辺りが明るくなっている。だがそれは、電灯が灯ったからではない。辺りは淡い、橙色の光に──夕暮れ時の光に満たされている。

 時間が逆行していた。否、元に戻った、と言った方が正しいだろうか。あるいは、時間など最初から経っていなかったのか。

「さっきの人たちも言ってたでしょ、事実はどうしようもないって。だから、選択をいつまでも保留にしておくわけにはいかない。いま・ここで決めなければならない」

「……祝福か、呪いか。──生か、死か」

 口にしてから、わたしはその言葉の重みをまざまざと実感した。衝動的な希死念慮とは違う、澄明な死と、その対岸の生。それが今、わたしの前に分岐路として、はっきりと現れている──。

「結局のところ、人生にはその二択しかない。さっき私があの人たちを止めたのは、追い詰められた状態ではそれが決められないと思ったから。追い込まれた時に人間が見せる反応は、結局のところ〝混乱〟でしかない。それは本性じゃない」

 わたしは頷いた。たぶん決然とした表情を浮かべながら。決断を下す自信は欠片もなかった。けれど、わたしの中には、確信があった。

「……今が、その時なんだね」

「選んで、芽以ちゃん」

 そう言った彼女の顔は、どこか寂しげに見えた。その口から発される言葉の一つ一つは、わたしに向いていながら、どこか、彼女自身を切り裂いているように見えたのだ。わたしは選ばなければならない。生か死か──その二択を。彼女が選べなかったその二択を。でも、結は──彼女自身は、それを望んでいないようにわたしには見えた。死神の役を、死と恨みを引き寄せる地縛神の役割を、彼女は背負いたくないのだ、と。

「……分かった」

 長い静寂を破るように、わたしはそれを口にした。

「……え?」

「あなたの気持ちは、よく分かった。ずっと──そう、会ったときからずっと、あなたはそれを望んでいた。それを訴えかけていた。わたしが気付けていなかっただけで──」

「…………」

 押し黙る結の前で、わたしは言葉を続ける。

「生きることも、死ぬことも、やっぱりわたしにはよく分からない。わたしは多分、死ぬことを望んでいたんじゃなくて、生きることを諦めていたんだ。だからそれは選択じゃない。あなたに応えることのできる言葉を、わたしは多分、持ち合わせてない」

「…………」

「でも、あなたにそんな顔をさせる選択肢なら、多分応える必要はないんだ。まだ保留でいいんだ。今はそう思う。それじゃダメかな?」

 言い、わたしは真っ直ぐに結を見据えた。黄昏(たそがれ)の世界に佇む幽(かそ)けきひと。その身体を。その全存在を。

 結はあっけにとられたような表情を徐々に綻ばせ、微笑んだ。

「──ありがとう」

 言い、結は手を差し出してきた。わたしはそれを握る。

 最初に感じたのは冷たさだった。この世ならざる冷たさ。でも、それは些事でしかなかった。彼女は今、たしかにここにいて、そしてわたしはその手を握っている。それがすべてであるように、わたしは強く感じていた。

「こちらこそ。もうちょっと、頑張ってみる」

「無理だけはしないでね。でも──頑張って」

 しばらくそうしていた後、結とわたしはほとんど同時に手を放した。それは実に小気味よい別れだった。

 わたしは後ろを向いた。時計塔に背を向け、バス停の方向に歩いて行く。振り返ることはしなかった。多分、彼女もまた、後ろを向き、あるべき場所へ、行くべき場所へ帰って行くのだろうと感じた。

 その先に何が待ち受けるのか、わたしは知らない。けれどそこに希望があることを祈りながら、わたしは今日も、一歩を踏み出す。いつか、その選択に応えるために。

 

 ─◇◆◇─

 

 一コマ目の終わりごろに、わたしは塾の部屋に入室した。それで授業は数秒停まったが、やがて何事もなかったかのように再会された。

 心持ちが変わっても、実力が変わるわけではない。相変わらず授業内容はあまり分からなかった。けれど、昨日までの絶望感は、潮が引くように、わたしにとっては遠いもののように感じることができた。

 チャイムが鳴り、授業が終わる。次のコマも部屋は同じであるため、わたしはしばらく席に座ったままぼうっとしていたが、やがて思い立って、カバンをあさり始めた。

 そうして、わたしは黒塗りにしたプリントをすべて取り出すと、離席して、ゴミ箱にそれらすべてを突っ込んだ。

 ここから明日を始めよう。そんなことを考えながら、窓外に見える、すっかり昏くなった街に目をやる。

 彼方の黒耀ニュータウンは、暗闇の中に、つかの間眠っているように見えた。