ケンジはゆっくりと膝をついた。視線の先には一匹の蛙がいる。大きな水たまりにも見える池の中で、一匹だけがその空間にたたずんでいた。
しかし、井の中で暮らして威張っているようには見えなかった。なぜならその蛙は、両方の後ろ足を失っていたからである。
可哀そうに、それだけを思った。おそらく子供のいたずらに運悪く巻き込まれてしまったのだろう。その蛙の元々太ももがついていた部分から、うっすらと血が流れだしていた。
おそらくもう死んでいる。池の端から口元だけ出してうつぶせにぐったりとしていた。
「生きているかい」
ケンジは優しく囁いた。当然のことなのだが、人間であるケンジと蛙である彼は会話ができるはずはない。
ケンジ自身、そんなことは言われずとも理解していたし、返事など元より期待していなかった。愛犬家が飼い犬に人間と同じ話し方をするのと同じように、ケンジも憐れみを込めて声をかけていた。
だから、その声が耳を通り抜けた時、彼はかつてない驚きを感じた。
「生きているとも」
淀みはあるが不快ではない、低く唸るような声だった。誰かに聞かれていたのかと思い、周囲を見回したが人影はない。死にかけの蛙に話しかけている姿なんて見られたら、とてもじゃないが平静ではいられなかっただろう。ケンジは一息ついて視線を蛙に戻した。
「不思議だな。聞こえたのか」
本当に、不思議なことが起きている。目の前の蛙から、その声が発されており、言葉に合わせて口元が動いていた。
今見たものは現実か。誰かにからかわれているのか。しかし、間違いなく声は足元から聞こえた。ケンジの脳内は混乱を極めて、今にも爆発してしまいそうだった。
彼はそんなケンジの動揺を気にするはずもない。
「まあ、こういうこともあるか」
そう言って、くつろぐように目を閉じた。
ずいぶんと鷹揚なやつだなと呆れた。両足を失っているというのに、さもそれが自然であるかのように、呑気に欠伸までしている。
死を間近にしているんじゃないのか。それとも自分が知らないだけで、蛙という生き物は案外強い生命力を持っているのだろうか。
ケンジはじっと彼を見つめた。次に彼が話す言葉を聞き逃さないようにと、耳をすませて集中していた。
「おっと」
彼はぱっと目を開いた。
「危ない。もう少しで死ぬところだった」
けらけらと笑いながら、「君もわかっていたのなら起こしてくれたらいいのに」と冗談交じりにケンジを責めた。
「え、いや、すまない」とケンジはあっけにとられて素直に謝っていた。
「またこうして意識がとんでそうだったら喋りかけてほしいんだ」
彼は、申し訳ないと続けた。
ケンジはいまだにこの状況を理解できていなかった。だが、そんな中でも納得だけはすることにした。自分はこの蛙と会話をすることができる。そして、彼が死んでしまわないように声をかけ続けなければならない。義務はないはずだが、不思議と使命感にあふれていた。
やりとりがやりとりなら、彼の第一声を認識したときから卒倒していたかもしれない。
しかし彼の屈託のない雰囲気のおかげか、ケンジにも妙な落ち着きがあった。
「とはいえ、どんな話をすればいいのやら」
考えてみれば、こんな機会滅多にない、というか普通はありえない状況なのだ。蛙と会話ができるなんて。興味は際限なく湧いてくる。
ケンジは好奇心に駆られて、たくさんの質問を投げかけた。
彼も同じことを考えていたのか、ケンジに呼応するように人間について多くのことを尋ねた。
ケンジの想像をはるかに超えて会話は弾んだ。
人間特有の道具や経済、科学については当然ながら理解を示さなかったが、驚くことに感情や死の概念、他生物への認識にそこまで差異はないようだった。
人間のことも認知しているが、人間が他の生物の顔をまともに見分けられないのと同じで、彼も人間の顔はみんな同じに見えるらしい。
「そうだ。あの人間は君の子どもかい」
彼が唐突に言った。ケンジに心当たりはない。
「僕に子どもはいないよ。それに、僕も半分ぐらい子どもみたいなものだし」
「そんなに大きいのに」と彼は驚いたようだった。
「その子どもがどうかしたのかい」
「負け惜しみみたいで嫌なんだけどね」と前置きをして言った。
「君より、二回りぐらい小さい人間が、少し前に現れてね。逃げる暇もなかったよ」
彼の話によると、彼が後ろ足を失くしたのはどうやらその子どもが原因らしい。乱暴に捕まえられたかと思えば、次の瞬間には足を根元からつままれ、そのまま引きちぎられてしまったのだそうだ。
恥ずかしい話だが、そんな残酷なことをする人間がいないとは言い切れない。
「やっと戻れたと思ったら、後ろ足がなくなっていて、強い眠気が襲ってきたんだ。あれが死ぬってことなんだろうね。君がいなけりゃ本当に危なかった」
先刻の嫌な予想は当たっていたようだ。自分が手にかけたわけでもないのに罪悪感が生まれた。
「雨の日だったら、きっと逃げられたんだけどなあ」
彼は反省するように語った。彼の声は人間を責めているようには聞こえなかった。
「怒らないのかい」
「油断していた僕が悪いさ」
「君は優しいな」心からの感想だった。
「そんな馬鹿な。僕のことを優しいなんて言うのは過言だよ。媚びてもなにも出せないよ」
謙遜などではないようだった。
「僕だって普段は羽虫なんかを一口にしているんだ」
「そうしなきゃ君も生きられなかっただろう」
確かに、命を奪うことに変わりはない。だがそれはあくまで食事であり、悪意を持って害をなすのとは訳が違う。
「彼だってそうだ。こうしなきゃ生きられなかった」
そこで、ケンジは違和感の正体に気がついた。彼がこれほどまでに寛大な意見を示しているのも、全ては生き物が他の生き物を傷つけるのは、自身が生きるために必要なことであり、そうしなければ命を保てないのだと、信じて疑わないからだったのだ。
「だから別に、怒る理由なんてないんだよ」
そして、その思考は間違いである。ケンジは目の前のか弱い生き物を見つめた。
食用の蛙は確かに存在する。しかしその少年がそのために彼をこんな目に遭わせたわけではないことは断言できた。
「僕らって、そんなにおいしいのかい」
思わず息を飲む。目を合わせると、全て見透かされてしまうようだった。
「いや、その、わからない」
はっきりと答えるこができなかった。言い訳をするように、すまないと付け足した。
彼の瞳がわずかに陰ったような気がした。
「そうか、そういうものなのか」
少しだけ、声色も曇っている。
「まあ、そういう生き物もいるってことか」
そう声を落とした心の奥に秘められた感情は見えない。ケンジも言葉を返せず、しばらく沈黙が流れた。
「そういえばさ」彼は口を開く。一転変わって声の調子は明るいものだった。
「人間は、雨が嫌いなのかい。君たちはいつもいろんな方法で雨を遮っている」
彼が言いたいのはきっと傘や雨合羽のことだろう。
「そうだね。雨を嫌う人も多い。でも、僕は好きだよ。ひしひしと降っているときは特にいい。静かで、心が落ち着く」
「そっか、それは良かった」彼は満足げに呟いた。
「今日は、よく晴れている」
ケンジもつられて空を見やった。彼の言う通り、快晴そのものだった。彼は「こんな天気も嫌いじゃないんだけどね」と続けた。
この時、ケンジは姿も形も違う友人と、一つの情景を共有できていることに密かに感動していた。
「そろそろ疲れたから、一休みするよ」
彼は、ふうと一息ついて、空を見上げたまま目を閉じた。昼寝をするような、穏やかで奔放な寝つきだった。
彼は今、深い眠りについている。底の見えないほど暗く静かな場所へと、ゆっくりと潜っていくのだ。
「生きているかい」
返事はなかった。もう一度同じように呼びかけてみたが、それも同様の結果となった。
包み込むように両手を伸ばした。実のところ、普段ケンジは蛙の類は見るのもためらうほど苦手なのだが、この時だけは自然と手が動いた。
冷たい体だった。しかしその小さな体からは確かな熱を感じた。
このぶよぶよとした皮膚の感触も、指先につたう血の跡も、すべて彼が今この瞬間まで命を持っていたことの証明なのだ。
「それ、生きてるの」
一日のうちに、二度も飛び上がるような話しかけられ方をされることも初めてではないか。
声の主はまたも蛙、ではなく小学生ぐらいの少年だった。口調はぶっきらぼうだが、顔つきにはあどけなさがあった。
驚きのあまり、彼を池に落としてしまう。
すまない、つい口からこぼれそうになったが、目の前に少年がいたので声に出さずに押し込んだ。
ケンジは動揺していることを悟られないように、極めて平静を装いながら答えた。
「もう死んでいるよ。だから――」
もう、土に還してあげよう。
そう言おうとしたとき、少年が彼の前足をつまんで持ち上げた。
「ふうん。まあ、いいや」
そう言って、彼を目の前の森にむかって放り捨てた。
その光景は走馬灯のようにはっきりと捉えられた。四肢は遠心力のまま宙にむかっており、腹部の白色が焼きつくように網膜に鮮明に映し出された。
少年は何事もなかったかのように踵を返し、手元をシャツで拭いながら歩き出した。
ケンジは茫然として、その一連の光景を眺めていた。
喉元を抑えつけられているかのような、不快な息苦しさがケンジを襲った。黒く滲んだ感情が、血流に混じって心臓を激しく脈打たせているようだった。
ケンジは拳を握り締め、そのまま少年の後を追った。足音に気づいたのか、少年と目が合う。しかしケンジは構わずに、少年にむかって拳骨を振り下ろした。
少年は頭を押さえて、眼頭に涙を溜めながら逃げていった。
梅雨明けの夏風を浴びても、気分が晴れることはなかった。
了