ティアラとドレス

森野真宵

 

 

ティアラ。というのが俺の今の名前だ。もちろん本名ではない。ネット上でだけ使う、いわゆるハンドルネームとかいうやつだ。俺はこの名前で、女子高生のふりをしている。

 

 なぜこんなバカみたいな名前にしたのか。それはバカみたいなほうが女子高生っぽいからだ。俺は正直、ティアラだとかいう名前の奴はバカにしているし、そんな名前をつけた親は、俺がバカにするまでもなくバカだと思っている。

 

 しかし、バカが生んでバカに育てたからだろう、おかげで俺を同じ女子高生だと思ったバカが今しがた一人見つかった。

 

 手口はいたって簡単だ。

 

 適当になんたら映えだとかいうあれから、アプリだなんだで加工してある女子高生の写真を採取してきて、プロフィール欄に貼りつければ、俺は一人の女子高生だ。

 

 そこで趣味とか好きなものとかを言っておけば、バカな女が仲間だと勘違いして、勝手に寄ってくるという寸法だ。

 

 それにしても、こんなに上手くいくとは思わなかった。

 

 お互い加工した顔しか見せていないのに、今度の日曜会いませんか、だと? 俺が高校生だったころではありえない。あまりにも不用心すぎてなんだか心配になってくるのは、俺が本物の女子高生じゃなくて、三十八のオッサンだからだろうか。俺は娘もいないし結婚すらしていないが、娘を持つ父とはこんな気持ちなのだろうかと少し想像してみる。

 

 だが、そんな躊躇いなどはあってはならない。ついに出会うところまでこぎ着けたのだ。俺は憧れの女子高生を好き放題ひどい目に遭わせるために、女子高生になりすましているのだ。

 

 俺は煙草に火をつけ、相手の情報に目を通す。煙がゆらゆらと伸びてゆく。

 

 ドレス。なんて頭の悪そうな名前だ。どの漢字を当てはめたらドレスなんて読み方になるんだ。日本人の知能が下がっているのか、俺の脳みそが古いタイプなのかいよいよわからなくなってきた。だが、名前よりも重要な点がある。

 

 十七歳。これだ。これを確かめたかったのだ。高校生でなければ意味はない。十六歳も十八歳も高校生だが、会おうとは思わない。なんとなく、十七歳の方がそそるのだ。こればっかりは好みの問題だ。

 

 顔もなかなかだ。加工はしてあるが、それでも実物の素材がいいのだろうとよくわかる。俺は毎晩、ありとあらゆる画像を漁っている。それは仕事でくたびれた俺を癒す唯一の慰めである。そして、より俺の心を掴む一枚を求めるべく、独自の審美眼を磨いている。その俺が言うのだから間違いない。

 

 ふぅっ、と吐き出した煙が、空中に溶けてなくなった。

 

 時計に目をやる。午前五時二十二分。待ち合わせの時間まで、十二時間をきっている。

 

 そろそろ寝なくては。生活リズムを崩している俺にとって、夕方に待ち合わせなのはありがたい。部活帰りだということにすると、向こうも同じだと言った。

 

 待ち合わせに遅刻してはいけない。先に待機しておいて、向こうの姿を確認しておかなくてはならない。そして、まさかこちらがオッサンだとは気づかないうちに、力ずくで連れ去る。そのために、人気の少ない通りを待ち合わせ場所に設定したのだ。

 

 ベッドに腰を下ろし、灰皿にぐりぐりと押し付けて火を消した。赤く滾っていた先端が、灰になって崩れる。なんとなく胸の奥に痛みを感じたが、誤魔化すように俺は布団にもぐった。

 

 

 

 三度目のスヌーズで、ようやく目を覚ました。体がだるいのはいつものことだ。布団から這い出し、煙草の箱に手を伸ばす。逃げるように滑り落ちた箱が、軽い音を立てる。空っぽだ。そうか、寝る前のが最後の一本だったか。

 

 仕事を失った右手で、とりあえずテレビをつける。文化人気取りのタレントが、最近のニュースについて討論ごっこを繰り広げている。今回はやけに白熱しているようだ。

 

 出会い系サイトで女子高生になりすました男が、相手の女子高生を襲った挙句殴り殺したらしい。酷いことをする奴がいたもんだ。人の命を何だと思ってるんだ、まったく。俺はピンクの可愛らしいパーカーに袖を通した。

 

 家を出る前に、相手の服装をいま一度確認する。ブルーのパーカーに、銀縁の眼鏡だそうだ。少しふっくらした体型が恥ずかしいと言っていた。運動部ではなさそうだ。なんとなく、合唱部とか、かな、と想像を膨らませてみる。

 

 さぁ、いよいよ出発だ。ニュース番組で、逮捕された犯人の映像が流れた。貧相な顔つきで、フケまみれの髪。不潔が服を着ているようなものである。情けなく口を開いているくせに、眼球だけはぎょろりと血走っている。犯罪者として説得力のある顔だ。俺の偏見だが。

 

 いけない。見入っている場合ではない。俺はテレビを消して家を出た。

 

 待ち合わせ場所までは、徒歩で一時間ほど。少し距離があるのは仕方がない。俺は今から女子高生に会いに行く。もとい、罪を犯しに行くのだ。生活圏内で事を起こすわけにはいかない。また、移動手段も徒歩に限る。自転車や車は足がつくし、公共機関も目撃者が現れる。人気のない道をあらかじめ調べて、慎重に行かねばならない。

 

 歩きながら、会った後の計画を考える。といっても、なにも思いつかない。こんなことは初めてだし、本当に会うことになるとも思っていなかった。ほとんど行き当たりばったりなのだ。とりあえず口を塞ぐためのガムテープと縛るためのビニール紐は持ってきたが、それでいいのだろうか。嗅ぐと気を失う薬品を染みこませたハンカチとか用意すべきだったかもしれない。どうやって手に入れるかはわからないが。

 

 分かれ道にあたるたび、薄暗い道を選んだ。かび臭い路地を、そそくさと抜けていく。人の気配を感じると、すぐに物陰に身を隠した。どれも俺の勘違いに終わったが、万が一のこともあるため、気が気でなかった。

 

 不意に、嫌な考えが頭をよぎる。ドレスちゃんに会った後、俺はどうなるのだろう。つかまえてどうするこうするの話ではない。そのもっと後だ。きっと、警察に捕まるだろう。そうしたら、もちろん会社はクビだ。そうなったら、俺の仕事は誰が引き継ぐのだろう。俺は会社にとって必要不可欠な存在ではない。むしろ、いてもいなくても誰も気にしないだろう。けれど、俺がやっていた仕事というのは確実に誰かがやらされる。誰が上司の機嫌をとるのか。誰が部下の責任をとるのか。俺が背負っていた苦労は、誰になすりつけられるのだろう。

 

 帰ろうか。やっぱり帰ってしまおうか。だけど、そうなると今度はドレスちゃんに悪い。

 

 しばらく歩き、目的地に着いた。道中、人と会わなかったのは幸いだが、すこし不安にも感じる。とうとうここまでやってきた。思いとどまらせてくれる人間は、もういない。

 

 あたりを見渡す。この場にいるのは、俺と、もう一人だけ。そいつも同じようにきょろきょろしている。ゆっくりと一定のペースで首を振る動きは、まるで扇風機だ。

 

 胸ポケットに煙草の形があるのを確かめる。ここに来る途中、自販機で買っておいたものだ。息を吐き、肺いっぱいに吸い込み、また吐く。微かにヤニの臭いがした。

 

 よし、と小さくつぶやく。俺は女子高生と会うぞ。女子高生と会って、あんなことやこんなことをしてやるんだ。心の中で念仏のように繰り返しながら、女子高生の姿を探す。

 

 首振り機能のタイミングが重なったのか、ふいに目が合った。

 

 ブルーのパーカーに、ややふっくらとした手足。銀縁の眼鏡をかけた、オッサンだ。

 

 違う。あれじゃない。というか、あれであってほしくない。確かに、聞いていた通りの服装ではある。体型もふっくらしている。けど、肝心の部分が違う。パーカーの下に制服を着ていないとか、ソックスの丈が膝上までないとか、それが太ももに少し食い込んだりしていないとか、なんかちょっと想像していたのと違うとか、その程度なら許せた。模範解答ではないが、部分点をあげてもいい。だけどこれは、違いすぎる。前提条件が守られていない。採点する気も起きやしない。

 

 オッサンもまたこちらをじっと見つめている。というか、こちらを向いて呆然としている。そりゃそうだ。あちらも女子高生に会いに来たつもりだったのだろう。

 

 俺はオッサンと見つめあったまま状況を整理する。女子高生に会いに来たらオッサンだった。うん、最悪だ。ふざけるなよ。なりすましなんて、卑劣極まりない。

 

 いや、もしかすると、違わないのかもしれない。ただオッサン面した、女子高生なのかもしれない。現に、こちらに歩み寄ってきてるではないか。今に話しかけてくる勢いだ。きっと、可愛らしく澄んだ声色に決まっている。

 

「あ、あの……」

 

 油汚れのような、ねっとりとした声が届く。やめろ。話しかけるな。俺はお前なんか知らん。

 

 ふと、ある考えが頭をよぎる。そうだ、こいつはただの道を間違えたオッサンだ。たまたまドレスちゃんと似た格好をしているだけで、まったくの別人なのだ。ドレスちゃんは部活で遅くなっているのだろう。目の前のこのオッサンはドレスちゃんではないし、俺はただの通りすがりのオッサンだ。ティアラちゃんなどでは、断じてないのだ。

 

「ひょっとして、あの、その、ティアラちゃ、さん、ですか?」

 

 勘弁してくれ。もう許してくれ。ちくしょう。俺が何したっていうんだ。しようとしたけど、まだしてないだろう。だいたい、ティアラちゃんってなんだ。どういう名前だ。お願いだからこれ以上俺を辱めないでおくれ。

 

「えっと、あ、その、ドレスちゃ、や、ドレス、です」

 

 聞いてないし聞きたくなかった。自己紹介なんて要求していない。あと自分をちゃん付けで呼ぼうとするな。

 

 ああ、くそ。もうどうにでもなれだ。俺は会話の主導権をドレスちゃんなるオッサンに丸投げした。

 

「あ、その、あの……」

 

 喋れや。自分から話しかけておいて、黙り込むんじゃない。お前も女子高生に会うつもりだったんだろう。そんなのでどうにかなると思ったのか。本当に女子高生に会えたらどうするつもりだったんだ。どこか暗がりに誘い込んだりする気だったんだろう。根性を出せ、根性を。

 

「あの、えっと、これも、何かの縁ですし、その、せっかくなんで、飲みにでもいきませんか?」

 

 何かってなんだよ。どういう縁だよ。すれ違いざまにぶつかってお高い壺を割ってしまったほうがまだ縁を感じるぞ。なにを考えてるんだ、このオッサン。俺を飲みに誘ってどうしたいんだよ。まったく、オッサンの考えることはわからん。いったいなんて返事をしたら正解なんだ。

 

「そうですね」

 

 なにを考えてるんだ、俺は。出会い系で出会ったオッサンとサシ飲みだと? 俺が会いに来たのは女子高生のはずだろ? いや、それは目の前のオッサンも同じか。考えれば考えるほど、惨めな気持ちになってくる。ここは案外、オッサンの言う通り、飲みにでも行った方が良いのかもしれない。というか、もう飲まないとやってられない。

 

 俺たち二人のオッサンはぱっと目についた居酒屋へ向かった。

 

 

 

 とりあえず生で。そんな台詞を使うやつが現実にいるとは思わなかった。俺はどうにも生ビールという飲み物の良さがわからん。いかにもかさ増しのためと言わんばかりにこんもりと盛られた泡を信仰するあの精神が、どうにも理解に苦しむのだ。俺はとりあえずマッコリを注文した。

 

「マッコリですかぁ、おしゃれですねぇ。よく飲まれるんですかぁ? マッコリ」

 

「たしなむ程度に」

 

 人が変わったように話しかけてくるオッサンに、俺は面食らった。こいつ、もう酔っていやがるのか? まだ注文したところだぞ? ほんとうに大丈夫だろうか。戸惑いを隠せないでいる俺をよそに、オッサンは続ける。

 

「どうしたんですかぁ? 鉄砲食らった鳩みたいな顔して」

 

「それ即死ですよね」

 

「あ、そうか豆食った鳩かぁ」

 

「鳩はみんな豆食うでしょ」

 

 頑なに鳩に主体を置いているのはわざとか。言葉の間違いを指摘するか迷っているうちに、生ビールとマッコリ、ついでお通しの枝豆がやってきた。

 

「乾杯とか、します?」

 

 首を縦に振ったのは、オッサンに調子を崩されたからだろう。

 

 静かに、カチン、と清涼な音色が響く。人付き合いで乾杯をしたことは幾度かあったが、無言で交わされたのは今回が初めてだ。おい、オッサン。お前今の今まで喋っていたじゃないか。なに急に黙って飲んでるんだ。しかも一度に喉を通る量が少ない。もっと豪快に飲んだらどうなんだ。ふぅ、じゃない。プハーってなるもんだろ、ビールってのは。テレビのコマーシャルとかで見たことないのか。それとも初めて飲むのか。どうなんだ。

 

 心の中で、絶え間なくオッサンへのツッコミが飛び交う。ビールを口にしてからずっと黙りこくっているので、今度はこちらから話しかけてみる。

 

「どうして、こんなことを?」

 

 しまった。ほかに言い方はなかったのか。これじゃまるで取り調べじゃないか。自分も同業者のくせに。

 

 俺が言葉を選びなおすよりはやく、オッサンは答えた。

 

「相手が、ほしかったんです」

 

 さっきまでの素っ頓狂な態度は消え失せ、その表情は悲哀に満ちている。オッサンは少ない髪をわしゃわしゃとかき混ぜ、肺の中身をリセットするみたいに、大きなため息を吐いた。アルコールに混じって、染みついたヤニの臭いがする。

 

 普段ならこの辺で呆れて席を立っていただろう。しかし、どういうわけか話を聞かずにいられないと思ったのは、多分、酔いが回ってきたからではない。

 

「そりゃね、最初は体目当てでしたよ。でなきゃ女子高生の真似事なんて、できっこない」

 

 オッサンは無理矢理、ほとんど歪めるみたいに、口角を上げる。誰かをバカにするような、薄ら笑いだ。バカにしているのは、おそらく、自分自身だろう。

 

「でもね、会う約束をしてから、なんか急に虚しくなってきたんですよ。私、なにやってんだろう、って」

 

 ほんとうに、なにやってるんだろうな。俺は、自分に問うた。

 

「で、気づいたんですよ。私がほしいのは、相手をしてくれる人だったんだな、って。こうして話を聞いてくれる相手が、ほしかっただけなんです」

 

 画面越しにテロップ付きででも聞けば、性犯罪未遂の男が、なにをほざいていやがる、とでも思うだろう。なんならその場で口にして、チャンネルを変えている。だが、今はそうは思わない。同じなのだ。俺とこのオッサンは、同じなのだ。性犯罪者予備軍であることではない。俺も、相手を欲しがっていたのだろう。一人の人間として扱ってくれるのならば、女子高生でも、オッサンでも、誰でもよかったのだ。俺は、オッサンに向かって、けれども、自分に言い聞かせるように言った。

 

「だったら、よかったじゃないですか。いざ会ってみたらオッサンで。おかげで俺ら、性犯罪者にならなくて済みましたよ」

 

 笑って見せた。強がりではあったが、オッサンも、安心したように笑みを浮かべた。

 

「それもそうですね。ありがとうございます、ティアラさん」

 

「その名前で呼ばないでください」

 

 一瞬、ぶん殴ってやろうかという思いが顔を出したが、マッコリと一緒に飲み込んだ。

 

「そういえば、ほかにもあったそうですねぇ。出会い系の事件」

 

「ああ、ニュースで見ましたよ。犯人捕まったって」

 

「そうそう。見ました? あの犯人。ちょっと小汚い恰好してましたねー。女子高生に会うときもあんなんだったんですかねぇ? 正直、ヒいちゃいますよ」

 

 小汚いというか、かなり汚かったと思う。あと、あんたもわりと汚い。特に脇汗はどうにかした方が良い。せっかくのきれいなブルーのパーカーが、脇のところだけゴミの浮いた海みたいな色になっている。もっとも、無精ひげの伸びた俺が言えたことではない。適当に相槌を打っておいた。

 

 酔いが回ってきているのか、オッサンはまたよくしゃべるようになった。口調も砕けはじめている。俺も俺で、心の中での毒づきが、漏れ出てしまうようになった。

 

 それから随分話し込んだ。仕事の愚痴を聞いてもらうと、心が軽くなった気がした。部下の尻拭いをしながら、上司に媚びへつらう日々。そんな毎日を、オッサンも過ごしていた。つらいのは自分だけではないと、この時ようやく気がついた。学生時代の話もした。お互いひとりぼっちで、思い出と呼べるものはなかったが、あまりに似たようなことを考えていたので、なんだかとてもおかしかった。

 

 酒を飲もうが飲むまいが、よくしゃべる方ではないのだが、この日ばかりは俺も口が回った。女の趣味が合ったからだろう。十七歳、高校二年生がもっともグッとくるというのが共感を得た瞬間は、思わず手を握ってしまった。一年生だと、中学生の延長でまだ幼さが残る。三年生になると受験でナーバスになってしまう。最も自由で、しかしむやみに遊んではいない二年生。子供と大人の間を謳歌している瞬間にこそ、女子高生の魅力は溢れ出すのだ。それがわかるとはこのオッサン、できるオッサンだ。

 

 俺たちはすっかり意気投合して、バカみたいに笑いあった。

 

「ところで、なんでティアラなんですかぁ?」

 

 オッサンは完全に軽薄な調子を取り戻している。

 

「なんたらネームってやつですよ、流行りの。妙ちくりんな名前の方が面白いし、なにより、バカっぽくていいでしょう」

 

「わかります、それぇ。私も一緒ですよ。どんな字書くんです?」

 

「あー。字。字ねぇ。そこまで考えてなかったな。字かぁ、うーん、姫冠とかどうでしょう。姫の冠」

 

「まんまっすねぇー。姫冠。でもひねりがなくてつまんなくないですかぁ?」

 

 即席とはいえ指摘されると若干腹が立つが、そんな些細な苛立ちは、すぐにゲップとともに出て行った。

 

「だったら、そっちはどうなんです? ドレスとか、難しいでしょう」

 

「そぉですねぇ、努麗子とかですかねぇ。よさげでしょう、努める麗しい子」

 

「うわー、昔の暴走族みたいですねー、それ。画数多すぎて、テストのときとか泣きをみますよ」

 

 それもそうですねぇ、と、オッサンは朗らかに笑う。店員が通りがかったので、生ビールとマッコリをおかわりした。

 

「ま、なんでもいいんじゃないですか? このご時世、名前の意味なんてあってないようなもんですよ。知ってます? 運命って書いてバッハって読ませる子もいるらしいですよ」

 

「あはは、そりゃぁ傑作ですねぇ。運命でバッハ! 運命はモーツァルトでしょうに」

 

「ベートーヴェンですよ」

 

「へぇ?」

 

「ベートーヴェンです」

 

 オッサンがすっとぼけた様相で首をかしげるので、もう一度、ベートーヴェンですよと、念を押しておく。

 

「あ、ああ。言われてみればなんかそんな気もしますねぇ。あはは」

 

 オッサンは誤魔化すように、運ばれたばかりの生ビールを口にした。やはり飲む量は少ない。

 

 単にこのオッサンがバカなのだろうか。それとも相当酔ってきてるのだろうか。どちらにせよ、ここらで切り上げよう。いつの間にか十二時を回っている。まっすぐ歩けなくなる前に家に帰りたい。オッサンはもう手遅れかもしれないが。俺たちは会計を済ませ、店を後にした。

 

 別れ際にオッサンは、よければまた飲みましょうと言った。そうですね。短く、そう返した。

 

「では、おやすみなさい、ティアラさん」

 

「おやすみなさい、ドレスさん」

 

 もはやティアラさんと呼ばれることに抵抗はなくなっていた。呼び方など、すでにどうでもいい。

 

 偽物のティアラとドレスで着飾って出会った俺たちは、たしかにありのままを話すことができたのだ。

 

 胸ポケットから煙草を一本つまみ出し、先端に火をつける。だが、それを咥えることはなかった。せっかくだし、禁煙でもしてみるか。想像を絶する苦痛らしいが、今の俺なら大丈夫だろう。俺はもう孤独ではない。喜怒哀楽のすべてを分かちあえる、相手がいるのだ。つらくなったら、またあの名も知らぬオッサンと飲めばいい。オッサンもきっと、同じことを思っているのだろう。

 

 俺は煙草を壁に押し当てた。じりっ、と寂しげな音を小さく漏らし、火が消える。暗闇に放たれた煙が、街灯に照らされ散っていった。