かつて、アメリカでは死刑囚が死刑執行の直前に人生最期の食事を選べる「ラスト・ミール」という制度があった。ステーキやフライドチキン、ピザといった好物を注文する者や、オリーブ一つだけ食す者など、そのメニューは千差万別だったという記録が残されている。
ただ、中には注文自体を辞退する者、豪華な食事を前にして、一口二口しか手をつけなかった者もそれなりにいたらしい。まあ……これから殺されるっていうのに、呑気に食事なんてできるわけがないと言われたら、一理ある。数時間後には胃に収めた食物ごと火葬されて、骨しか残らないんだから、そりゃあ食欲だって失せるよね。
あなたなら、最後の食事に何を選ぶ? 日本人らしく寿司? それとも、豪華なステーキ? 母親が作った料理なんて洒落たことを言う人もいるだろう。この問いに正解はないし、実際に死刑宣告でもされない限りは何を食べたいかなんて大抵の人は分からないはず。
ちなみに、私はもう答えは決まっている。カレーだ。絶対、最後の晩餐はカレーが食べたい。理由? そんなの、ただの好物だからとしか言えない。
物心がついた時から、私の一番の好物はカレーだった。給食や夕食でカレーが出た日には目を輝かせていたし、家の食事当番を任されるようになってからは月に一回は必ずカレー週間を作るようになっていた。別に、料理自体はそこまで好きじゃなかったけど、カレーに関しては調理に苦を感じるどころか、至福の時間とさえ思っていたほどだ。
というわけで、もし、最後の食事が選べるなら、私は絶対にカレーを選ぶと思う。いや、それ以外考えられない。これからも、私はカレーをおばあちゃんになるまで食べ続けて、最後はカレーを食べて死ぬんだろう。
そう、三年前までは思っていた。
*
一九九✕年、世界は核の炎に包まれることも、恐怖の大王が降臨することもなく、ただ平穏に時は過ぎていった。でも、二〇二〇年春、その生物災害(バイオハザード)は突如として発生した。発端は確か、中国のある都市だったと思う。
「新型狂犬病」と呼ばれたその感染病は騒動初期のニュースでは人から人に伝染する狂犬病の一種だと報じられていた。海外で流行っている未知の病気、最初は誰もがそう認識していた。予想外だったのは――その感染病は風邪やインフルエンザよりも感染力が高く、ある特殊な経路(ルート)によって、数か月で爆発的に全世界に広まってしまったことだろう。
ここまで言ったら、もう分かるか。そう、この世界で蔓延したのはただのウイルスじゃない。感染者は理性を失った〝ゾンビ〟になり、新たな感染者を増やそうと人を襲う。こうして、発症率一〇〇%の接触感染によってネズミ算式に感染者が増えた結果、ウイルスが発見されて僅か数か月で……日本は、世界は生きた死者という矛盾を抱えた存在に支配された。頭を潰さない限りは手足がもがれても動く不死身の兵隊。しかも、掠り傷でも付けられたら、あいつらの仲間入り。こんなの、クソゲーもいいところだ。唯一の不幸中の幸いは感染するのはヒトだけってこと。これで、他の哺乳類や鳥類までゾンビ化したら……とっくに人類は滅んでいただろうな。
人類をもっとも絶滅に追い込んだ細菌といえば中世に流行した「黒死病(ペスト)」の名が挙げられる。黒死病による死者は全世界で五千万人――当時、全人類の四分の一が命を落としたと言われているけど、ここまでの死者を出して、なぜ黒死病は人類を死滅させることができなかったのか。それは……黒死病はあまりにも致死率が高すぎたから、と言われている。簡単な話だ。ウイルスは人から人に伝播して、感染する。でも、その媒体主が他人に感染させる前に命を落としたらどうなる? 経路はそこで絶たれることになって、感染者はそれ以上増えない。要するに、黒死病はあまりにも殺意に溢れていた。そのおかげで、徹底的に感染者の隔離を進めれば、そのうち物言わぬ死体だらけになって、流行は収まる。じゃあ、もしもこの死体が動き始めたらどうなるのか。その結果が……これだ。
世間だと、安直に〝Z-ウイルス〟って名称が付けられたこのウイルスがここまで爆発的に広まったのは――その独自の潜伏期間にあると私は睨んでいる。
Z-ウイルスの発症率、致死率は一〇〇%――一度、感染者に噛まれたり、引っかかれたり、粘膜接触をしたら確実にゾンビになる。私の知る限りでは例外や抗体なんてものは存在しない。明日の生活すら保障されていない貧乏人も、税金をたらふく納めている富裕層も、皆、平等に感染したら肉を求めるゾンビになる。でも……噛まれてすぐにゾンビになるわけじゃない。Z-ウイルスに感染し、発症するまでには死亡しない限りは七二時間の猶予(タイム)時間(リミット)があるのだ。この時間差が肝、感染しても三日間は普通の人間と変わらない思考を保てることになる。じゃあ、ここで質問。もし、あなたがゾンビに噛まれるとする。隣には友人、家族、恋人がいる。その人たちに、自分が噛まれたことを申告できる?
チッチッチッ。はい、終了。多分、十人中八人か九人くらいは申告できるって自信満々に言うと思う。でも、現実はそうじゃなかった。
単刀直入に言うと、自ら死を選べる人間は極々少数派だったってこと。感染したことを隠して、避難所に人々が大量に押し寄せた結果が……あの阿鼻叫喚の地獄を世界中で作り上げた。
あー……あれは本当に、今でも思い出すと吐き気がするし、時々夢にも出てくる。人が人を食べる。叫び声と泣き声が反響しながら、内臓の血生臭い香りが狭い室内に充満して……致命傷を負った死者が即座に蘇ってまた人を襲う。「増え鬼」って、小学生の頃にやらなかった? ほら、交代する鬼ごっこじゃなくて、タッチされた人も鬼になるやつ。閉鎖空間であれをやったらどうなるかって想像してもらえると分かりやすいかな。あぁ、我ながらこのたとえはナイスだ。人を喰う鬼と餓鬼(ゾンビ)はよく似てる。
まあとにかく、そうやって傷を隠した人が各避難所には絶対一人はいたそうだ。その結果、生き残りが密集していた場所は一瞬で屍の巣になりましたとさ。ちゃんちゃん――はぁ、今のはちょっと不謹慎だったかな。
でも、こうでもして茶化さないと語れない。本当に、なんでゾンビになるって分かってるのに、避難所に来たんだろ。自分は感染しないって謎の自信でもあった? それとも、死ぬのが怖かったから、誰かを巻き添えにしたかった?
――いや、このどちらでもないか。あの人たちはただ、怖かっただけだ。現実から目を逸らして、問題を先送りにした。だから、普通は絶対にしない愚行を犯してしまったんだろう。この世界屍戦争(ワールド・ウォー・ゼット)で人をもっとも多く殺したのはゾンビじゃない。人間が引き起こす感情、混乱(パニック)だと私は思う。
「……って、誰に向かって一丁前に考察を垂れ流してるんだか」
延々と心の中で独り言を唱える行為に対して、馬鹿らしくなった私、赤羽雪音(あかばねゆきね)は溜息を漏らす。まったく……この三年、誰とも関わらない生活をしていると、孤独を紛らわせるためにどうも独り言が多くなってしまう。でも、今回は違うか。私もまだ、混乱しているんだ。
時計を見ると、時刻は午後五時を指している。あぁ、もうあれから二時間も経ったのか。
「……さて、どうするかなぁ」
再び、足の甲に視線を移す。そこには――数時間前に付けられた痛々しい噛み跡が、タトゥーのように残っていた。
*
私、赤羽雪音は運がいいと自称している。その理由は過去に大災害を二度も経験して、生還しているからだ。その中の一つが三年前に起こった生物災害というのは言うまではないだろう。では、残りの一つは? それは……今から一二年前に、東北で発生した〝大震災〟だ。
そう、私の出身は福島県。当時、九歳だった私はあの災禍を経験した被災者の一人だった。午後二時四六分に鳴った地響きを忘れることはないだろう。一瞬で日常は崩れ去り、私は母を亡くした。
父は自衛官ということもあり、無事だった。でも……それはあくまで身体的なもので、精神面はどれだけ傷ついていたのかは子どもだった私には計り知れない。とにかく、あの大震災は父の心にも大きな傷跡を残したのは間違いないと思う。後のことを思うとね。
震災後、私と父は関西に移住することになった。慣れない言葉、慣れない土地、慣れない住民。色々、苦労はしたけど……父の助けもあって、何とか乗り越えることができた。 余談ではあるけど、それから少し内向的な性格になって、その、まあ……かなり、サブカルチャー関連にのめり込むことになる。おかげで、今回のゾンビパニックも平然と受け入れることができたけど。
でも、移住してから数年後、確か、中学生に上がったばっかの頃だったかな。そこで、私は父のちょっと異常な部分を目にすることになる。
ある日、家に大量の缶詰が届いた。これだけだと、精々段ボールひと箱分くらいって想像すると思うけど、実際はその数十倍の量だった。何も知らない私は父に質問した。
「この缶詰、どうしたの」
「備えあれば患いなしってやつだよ」
父は――ただ一言、そう言った。缶詰は父がネットショッピングで購入したもので、後日、また同じ量の缶詰が届いた。多分、合計金額は……軽く三桁万円は行ってると思う。
それから、父は何かに怯え、憑りつかれたように、防災意識に異常な執着を見せるようになった。バッテリー、ラジオ、ライト、医薬品。とにかく、お金に糸目をつけることなく、最新式の防災グッズを揃えた。家も改築して、避難用のシェルターみたいな地下室まで作った時はさすがの私も言葉が出なかった。
多分、父は……もう二度と、後悔をしたくなかったんだと思う。少しでも、私を含めて、目の前の命を救おうとしたんだ。いざという時はあの缶詰をご近所に配って、市民を助けようと、わざわざ自腹で何百万円も払った。しかも、缶詰の賞味期限が切れる一年前には食べきれなかった分を全部フードバンクに寄付した。
本当に……立派な人だと思う。私と違って。
その後、私は二度目の大災害を経験することになる。それがご存じ、このくそったれな生物災害。死者の夜明け(ドーン・オブ・ザ・デッド)だ。
そもそも、人を化け物にするこのウイルスはどこから流出したのか、情報は錯綜としている。中国の研究所説、アメリカの製薬会社説、アフリカの古代花説、ヨーロッパで封印されていた寄生虫説、あと、隕石に付着してた未知のウイルス説なんてのもあったっけ。まあ正直、発端なんてどうでもいい。それこそ、地獄で死者が満員になって、地上に溢れた可能性だってある。重要なのは結果だ。こんな事態になったら、誰にも責任を追及することなんてできない。
でも、もしこれが科学技術の発達によってもたらされたものなら……それは人類という種の自業自得だろう。蝋でできた翼で太陽を目指そうとしたギリシャ神話のイカロスと同じ。中国の始皇帝をはじめ、歴史上の権力者たちは不老不死を夢見て、研究を重ねてきた。ある意味、そんな神を冒涜するような真似を続けてきたら、いつか罰が当たるというものだ。まあ、私は無神論者だけどね。もし、この世界に神様がいるなら、そいつはこの現状を見て大笑いしているクソ野郎ってことになるし。
話を戻そうか。Z-ウイルスが日本に上陸して、最初の数週間はその動向を完全にコントロールできていたと思う。確かに、日が経つにつれ感染者は増えていたけど、それでも一桁か精々二桁。ちゃんと隔離をして数を抑えることには成功していたし、街には緊急事態宣言が出されて、みんな外出を控えるようになった。うまくいけば、そのまま収束する可能性も万に一つはあったと思う。
でも、段々と雲行きが怪しくなってきた。最初に大規模な感染拡大を起こしたのは……都内某所で行われたある音楽フェスだった。
あぁ、うん。言いたいことは分かるよ? なんで人をゾンビにするウイルスが流行ってんのに、そんなフェスをしてんのかって? んなの私が聞きたいわ。本当に、馬鹿じゃないの。これが映画なら、リアリティのない展開だってレビューでボロクソに叩かれてると思う。でも、実際こんなアホみたいな出来事が本当に起こってしまった。
まだ自粛ムードが漂う中で、強行されたその音楽フェスには数百人の参加者がいた。その中に、感染者が紛れていたみたいで、フェスの最中に発症。瞬く間に、音楽の祭典は血と贓物の祭典へ。当時、まだZ-ウイルスが人をゾンビにするってのは都市伝説みたいな扱いだった。政府は徹底的にただの新型の狂犬病だって言い張っていたから、国民もそれを信じてた。一応、海外ではもう既にかなり感染が進んでいて、ゾンビが人を食う動画は投稿されていたんだけどね。まあ、当事者にならないと、信じないのも無理ないか。私も、さすがにガセネタだと思ってたし。
その音楽フェスを機に、一気に情勢が変わった。まず、東京で徐々にゾンビが増えだして、それが他県にも広がり始めた。東京の人口密度はご存じ? 一平方キロメートル当たりに約一万五千人、一辺が一キロの正方形の中にこれだけの人数が入る計算になる。こんなに感染に都合がいい都市も中々ない。この頃になると、国内でも人喰いの動画が出回りだして、本当にゾンビなんじゃないかって風潮ができたんだけど、時既に遅し。一週間もしないうちに、感染は全国に及んだ。
さて、その時に私、赤羽雪音一八歳は何をしていたかというと……ネットでその様子を眺めながら、ただ「ヤベー……」って呟いていただけでした。
いや、だって仕方なくない? その時、私ちょうど大学に進学したのに、授業が全部取り消しになったんだよ? そんなの、めちゃくちゃ暇でニートやるしかないじゃん。というか、結局大学なんて一度も行ってないし。こんなことになるなら、受験勉強なんてせずにずっと遊んでたわ。貴重な高校生活と入学金返せやボケ。
……思い出したら腹立ってきたな。まあいいや。そういうわけで、私はただ一人、テレビをSNSで実況しながら、無駄に時を過ごしていた。間抜けなことに、その時の私はまだ、この生物災害を異国の出来事のように感じていて、どこかで楽しんでいた節がある。あぁ、行きつけのインドカレー屋にしばらく行けないなぁとか考えてて……死体はもうすぐそこにまで、迫ってきていたっていうのに。
風向きが変わったのは遠征中で家を空けていた父から電話がきた時だ。まだ、騒動初期はネット回線が生きていて、こうして連絡を取り合うことができた。それも、本格的にゾンビが溢れるようになってからは回線が混雑(パンク)して、いずれは電波自体が入らなくなったけど。
父は私に、最寄りの避難所に向かうように伝えた。最初は私も、そんなに乗り気じゃなかったけど、電話越しの父はどこか必死で、この時にようやく事態が深刻だと私は気付いた。そして、避難所である小学校に向かったわけだけど……結果は前述した通りだ。安息の場所は一瞬で崩壊してしまった。
命からがら、私は避難所から逃げ出すことができた。これに関しては本当に運がよかったとしか言えない。目の前で走っていた人は曲がり角の死角からゾンビに襲われて噛まれてたし、文字通り、一歩間違えれば私はとっくにあいつらの仲間になっていたかも。それでも、私は生き延びることに成功した。
避難所は亡者の餌食になった。気が付けば、右も左もゾンビだらけ。街はあっという間に生きた死者に占領されてしまった。周囲には至るところ火災が発生して、車があちこちで事故を起こし、悲鳴が絶え間なく響いてる。恐らく、どこの避難所も似たような状況だろう。そう判断した私は……一目散に、自宅へと戻ることにした。
通常、こんな状況で籠城は悪手以外の何物でもない。まず、食糧の問題がある。一般的な家庭の備蓄では精々持ってひと月かそこらが限度だ。水道も使用できなくなることを考慮するなら、もっと短い。必ず限界が来る。でも……うちの場合はちょっと事情が違った。
父が缶詰の補充をしたのはこの生物災害が起こるちょうど一年前。つまり、期限はかなりの余裕がある。加えて、長期保存水もまだ大量にあった。つまり……私一人なら、数年生きられる程度の蓄えは用意されていた。
恐らく、どこの避難所も私が抜け出した小学校と同じような惨状になっているのは間違いない。テレビを付けると、この一日で全国的に感染爆発が起こったようで、全ての局で避難を呼びかける緊急特番を放送していた。もはや、安息地は残されていない。ただ一つの場所を除いて。
私は……この要塞と化した家で籠城することにした。大丈夫、現実にゾンビなんて出ても、近代兵器の力の前では最長でも数か月もあれば駆逐できるはず。自衛隊には父もいる。そうすれば、必ずこの家にも救助は来るはず。
でも、現実はそうじゃなかった。
それから数日、数週間、数か月経っても騒動が収まることも、父から連絡が来ることもなく、ただ時は過ぎていった。そして、二〇二三年秋、三年近くが経過しても、まだ外には死体が彷徨い、事態が解決した兆しは見られない。
ここ二年は外部から情報を得られていないから確証は持てないけど、この惨状は世界中どこも同じだと思う。つまり、人類は窮地に立たされている。あの憎たらしい腐った死体どもは見事に人類を絶滅寸前にまで追い込むことに成功したってわけ。
なぜ、殺戮兵器が星の数ほどあるのに、ただの死体にここまで手こずっているのか。それに関しては……まあ、方向性の違いというやつだと思う。要するに、銃や爆弾なんてものは人間を殺すために作られた武器で、ゾンビには向いてなかったってこと。
ただ人間を相手にするだけなら、土手っ腹に一発でも鉛玉をぶち込んだり、化学兵器の毒ガスを散布すればいい。でも、相手がゾンビだとしたら? あいつらの胴体にはいくら撃ち込んでも、その歩みを止めることはできないし、毒なんて効かない。そうなると、頭を破壊するしかないわけだけど、二十センチしかない目標の、更に内側の直径十センチほどの脳幹を何百、何千、何万、何十万、何百万、何千万、何億も――的確に撃つなんて、不可能だ。ゾンビの一番の武器はその牙や爪じゃなく、暴力的で圧倒的な数にある。どれだけの弾薬を揃えても、膨大な肉壁の前では絶対に押し切られる。つまり、銃で掃討するのは不可能ってわけ。じゃあ爆弾でもミサイルでも使ってまとめてぶっ殺せばいいじゃんとは私も思ったけど、その作戦にも穴がある。
ゾンビは集団行動する生物じゃない。生餌を使えばある程度は集められるけど、それでも限度がある。爆弾で粉々にできるのはあくまで氷山の一角どころか、欠片程度しか削れない。各所に分散している小規模の群れを潰すのにわざわざ何トンもする爆薬を使っていたら。地球の方が更地になっちゃう。もしゾンビを根絶することに成功しても、人間の住処なんてものは残ってない。待っているのは緩やかな死だ。
まあ、一番の要因はこの地球上でまともに動ける軍隊は多分残されていないってことにあると思うけど。え? どういう意味かって? 言葉通りだよ。だって、ゾンビと本格的に戦う前に、もうボロボロになっちゃったんだもん。意味分かんないって? もう、鈍いなぁ。
だから核戦争したんだよ。世界中、あちこちの都市で核が落とされて、もう国家なんて概念は崩壊したの。
先に核を落としたのは名前を出すまでもなく、あの二大大国だ。最初は隣接するその二国の争いだったんだけど、いつの間にか中東の国々も加わって、ついにはニューヨークが標的にされて……原因は分かってる。ここでも混乱(パニック)が起きたってこと。お偉いさんが疑心暗鬼になったせいで、核弾頭で多少のゾンビと大勢の一般市民が吹き飛んだ。
幸い、日本に三度目の核が落ちたとは聞いていないけど、それもどうだか。今の私には確認する術はない。
ってなわけで、私の考察だと、初動でこのZ-ウイルスを止められなかった時点で、人類に勝ち目はありませーん。特効薬のワクチンでも開発しない限り、徐々に人員と物資を削られて、いつの間にか詰んでる状態でーす。
――あぁ、もう。考えれば考えるほど、嫌になる。くそったれが。それで、どこまで思い出したっけ。あぁ、そうだ。私がこの家に籠城すると決めたところで、逸れたんだったか。
籠城生活一日目。まず、家中の窓と扉を塞ぐことから始めた。理由は単純、ゾンビの侵入経路を塞ぐのと〝匂い〟を外に漏らさないためだ。騒動初期、というか厳密には今でもそうなんだけど……あの死体どもがどうやって人間を探知しているのか、その原理はよく分かっていない。多分、視覚にはそこまで頼っておらず、異常に発達した嗅覚と聴覚の総合的な情報によって、襲ってくるってのが主流の説だ。だから、外に人間(わたし)の匂いが漏れたら、大量のゾンビ軍団が押し寄せてくる可能性がある。そのため、最低限の換気ができる以外は扉と窓にダクトテープを貼りまくった。
次に、水と食糧の確認。地下室いっぱいにあったその物資の合計は……五年間、私一人が生活するには困らないほどの量だった。でも、それはあくまで目安。缶によっては消費期限が年単位で違うし、エネルギー摂取量も変わってくる。そこで、物資の仕分けと計算をする必要があった、まあ、この計算は後々、いくつも欠陥(ボロ)が出てくることになるんだけど。
ただ、唯一の不満は……私の好物のカレーの缶詰が少なかったことだ。いや、本当に贅沢な悩みだってことは分かってる。そもそも、辛いものってのは水分も摂取するようになるから、この手の災害時には向かないってことも。残されたカレーの材料は一年以内に消費しないといけないルー四箱に、各種スパイス五本、カレー缶詰十個だった。え? それは今残ってるのかって? 三年も経ったら一個も残ってないに決まってるじゃん。私はケーキの苺は初めに食べるタイプなの。
籠城して二週間か、三週間ぐらい経った頃だったかな。その頃にはもう電気も水道も完全に使えなくなった。インターネットもサーバーに繋がらなくなって、外部から情報を得ることができなくなった。でも……ただ一つだけ、生きている情報源(ライフライン)があった。それが“〝無線〟だ。
どうやら、どこかの無線オタクが籠城中に自前の設備を使って、毎日お昼の時間に世界中の電波を拾って仕入れた情報をあるチャンネルを使ってラジオ形式で流していた。この周波数を偶然、防災ラジオでキャッチできたのは幸運だった。海外で起こった核戦争も、ゾンビに関する情報も、彼から得たものだ。
正直……彼の放送にはすごく助けられた。そりゃ、知識的な意味でもそうだけど、一番は外部との繋がりがまだ残されているという安心感だ。孤独っていうのは本当に精神に来る。いくら餓死する心配はないって言っても、二四時間、閉鎖空間で監禁されている状況だったらまた話は違ってくる。しかも、外には人喰いゾンビ共が溢れて、今も私を狙っているかもしれない。最初の数か月は本当に……自殺すら考えた。でも、結局慣れちゃったんだから、人間の適応力ってすごいなとは思うけど。
その無線オタクは自分のことを「DJ飯田」と名乗っていた。年齢は四六歳。昔から、アマチュア無線を趣味にしていたようで、その縁からラジオ局に勤めていたらしい。どうやら、孤独を感じていたのは彼も同じようで、何も情報がなかった時は自らの身の上話をよくしていた。アマチュア無線のどこがいいのかとか、昔、お見合いをしていたけど三十回連続でフラれてから結婚を諦めたとか、子どもの頃に好きだった特撮の話とか……今、思うと本当にくだらない話も多かったけど、不思議と私はその話を聞き入っていた。いつの間にか、私は自分より二回り以上も上のオッサンDJのファンになっていた。
でも、その放送も、終わりが訪れる。籠城を開始して季節が一周し、一年が経とうとしていた頃――唐突に、DJ飯田のラジオは途絶えた。
理由に関しては何も分からない。機材の故障か、それとも食糧が尽きたのか、はたまたゾンビに噛まれたのか。いずれにしても、不測の事態があったことは間違いない。そして、それと同時期に、私の方にも問題が発生した。
その問題とは……水不足だ。いつの間にか、貯蔵していた保存水の在庫が半年分を切っていた。これに関しては完全に私の見積もりが甘かったとしか言えない。生活用水を余分に使い過ぎたり、夏場に水分を取り過ぎたり……とにかく、考えられる要因は大量にある。当初は四年持つ予定だったのに、いつの間にか倍近くの水を使用していた。
食事に関しては切り詰めればいい。でも、水はそうはいかない。何をするにも、水は欠かせない存在だ。どうにかして、補給する必要がある。それは――一時期的に、外に出なければならないということを意味していた。
自宅から最寄りの川までの最短距離は実に三百メートル、往復で六百メートル。そこまで遠い距離ってわけじゃない。でも……血肉を求めて彷徨い歩く亡者の群れの中を駆け抜けると考えたら、気が遠くなるほどの距離だ。結局、外に出る決断を下すのに、更に一か月近くかかってしまった。
そして、ついに覚悟を決めた。このままでは太陽に焼かれたナメクジのように、干からびて死んでしまう。どうせ死ぬなら、足掻いて死ぬべきだろうと。
それに万が一、ゾンビと遭遇しても……対抗手段はある。それは地下の貯蓄庫に、眠るように段ボール箱の中で収められていた。多分、この生物災害がなかったら、家にこんな物騒なものがあるなんて想像もしなかったはず。
世間一般ではその武器は〝クロスボウ〟と呼ばれているものだ。弓の一種だけど、弦が固定されて、バネの力を利用して矢を飛ばす。殺傷能力は……頭蓋骨を容易く貫通するほどだ。こんな危険なものがよく市販されていたと思う。規制をされていてもおかしくない代物だ。
恐らく、対ゾンビという意味では日本で入手できる範囲で最上級の遠距離武器ということは間違いない。これより上となると、猟銃くらいしか思い浮かばないけど……静音性を考慮したら、こちらの方が上まである。弾薬である矢を使いまわせる点もグッドだ。
一体、父はなぜこんなものまで購入していたのか、その真意は分からない。まさか、ゾンビパニックまで想定していた? んなわけないか。まあ、多分……緊急時の自衛手段として、私にも扱えるものを用意してくれたんだと思う。本当に……父には助けられてばかりだ。
クロスボウの全長は六十センチ程度。女子が携行するにはやや大きいサイズだけど、盾にもなると思えば悪くはない。でも、扱うには二つ問題があった。
まず一つ、命中精度だ。自慢ではないけど、私がこの手の弓に触れたことなんて、小学校の頃に自然学校で行ったアーチェリー体験が最後。試しに何回か試射したけど、五メートル先の止まってる的でさえ当てるのは難しい。実戦で使うなら、練習が不可欠になる。
そして、もう一つが装填速度(リロード)。発射後、再装填するにはまた矢をセットする必要があるんだけど、これがめちゃくちゃ重労働。矢筒から矢を取り出して、弦を元の位置に戻し、照準(エイム)を合わせる――最初はこの一連の動作だけで、二十秒もかかっていた。とてもじゃないけど、ゾンビに囲まれた場合は使い物にならない。
それからはクロスボウを取り扱うための特訓をした。ひたすら的に向かって試射、基礎体力兼装填速度を上げるための筋トレ、実戦を想定した模擬訓練……時間だけは有り余っていたから、そこまで練習は苦じゃなかった。むしろ、目標ができて楽しかったくらい。更に一か月後、万全とはいかないけど、どうにか形にはなるくらいの腕前にはなった。ここでようやく、私は変わり果てた外の世界へと踏み入ることになる。
念入りに準備はした。DJ飯田の情報ではゾンビに噛まれる可能性が特に高いのは関節部分。手首、足首、首元……これらの部分を率先して狙う習性があるらしい。そこで、手足に何重にも布を巻き付けることで、簡易的な防護服(アーマー)を作ることにした。無論、服装自体も肌を見せないように厚手のものを着る。これに関しては大正解だった。この装備のおかげで、確かに命拾いしたことがある。
近接武器も忘れてはいけない。クロスボウが必ず命中するとは限らない。距離を詰められた時のために、腰に刃渡り二十センチの刺身包丁を装備する。いざとなれば、これで脳天をぶっ刺す。また、ゾンビは嗅覚が発達している可能性も高い。防臭剤をよく服に振りまいて、体臭をできる限り消す。もっとも、これは気休め程度だけど。
川への経路は何度も頭に叩き込んだ。焦らず、慎重に、周囲を警戒しながら、迅速に向かう。片道十分、水の確保に五分、帰宅に更に十分。合計二五分で作戦は完了する。そして、ついにその日がやってきた。
一年と数か月ぶりに、外に出た時の感想は……太陽の眩しさに驚いた。窓から日光を眺めることはあったけど、基本的には貯蔵庫の地下で過ごしていたら、どうしても目が暗所に慣れてしまった。夏真っ盛りということもあり、燦燦とした日光が眼球を刺激するけど、太陽の恵みを有難がっている場合じゃない。まずは周辺確認。ゾンビの姿を念入りに探す。自宅の周辺には……奴らはいなかった。作戦続行。小走りで私は川へ向かった。
生物災害が発生して一年と数か月。住宅街の様子は……まるで映画に登場するポストアポカリプスの世界のように、荒廃した雰囲気が醸し出されていた。でも、惨禍の痕跡は残っている。電柱に突っ込んでいる車。明らかに致命傷を負ったと思われるが、その持ち主が消えている血痕。道路に放置された干からびた臓物。
しかし、周囲には人の気配どころか、物音ひとつもしない。一体、ここに住んでいた住民はどこに消えてしまったんだろう。そんな疑問を思い浮かべていたまさにその時……前方三十メートルほどの距離に、動く影があった。
ゾンビだ。一目見て、直感した。その予想は正しく、成人男性と思わしき体格のいいゾンビがヨタヨタとこちらに向かって歩行をしていた。顔をよく見ると、顎の肉を食われたのか、下唇が消失しており、歯茎が剝き出しになっている。そのグロテスクな姿は本能的な恐怖を抱いてしまう。ほんの一瞬、逃走という選択肢が頭を過ったけど、川へ向かうにはこの道を通るしかない。周囲には他の敵影はいない。一対一、初戦にしてはこれ以上にない好条件だった。
まずは相手の種類(タイプ)を見極めることが重要。大まかに分けて、ゾンビは個体によって二種類の行動パターンがある。それが歩行者(ウォーカー)と走行者(ランナー)だ。名前の通り、ゾンビの中には走れるやつがいるってこと。原理(ロメロ)主義者が見たら憤怒する光景だろうな。
この個体差についても詳しいことは何も分かっていない。腐敗の速度によるものなのか、元の運動神経が関係しているのか、ウイルスが変異したのか。とにかく、相手が走行者だった場合は厄介だ。数は少ないけど、一瞬の油断が命取りになる。
クロスボウを構えながら、私は徐々にゾンビに接近する。やっぱり、初めての実戦ってこともあって、遠距離狙撃はなるべく避けたかった。確実に当てる距離で、一発で仕留めるのがベスト。十メートルほどの距離にまで近づいた時点で……ゾンビが私の存在に気が付いた。
『ウゥ……』と低い唸り声を出し、白目を剥き、両腕をこちらに向けながら、ゆっくりとゾンビは歩み始める。運がいいことに、そいつは歩行者だった。
私は深呼吸をして、クロスボウの照準を目の前のゾンビに合わせる。ゆらゆらと不規則に頭が揺れていたけど、そこまでのズレじゃない。素人でも、充分に偏差を見極めることができた。そして、引き金(トリガー)を引く。
ピンッ ビシュン
弦が振動する軽快な音と同時に、矢が空を切る。刹那、ゾンビの頭部に――一本の〝棘〟が生えた。この時、私は初めて……ゾンビを殺した。いや、殺したって言い方はおかしいか。元から死んでるんだし。
躊躇や罪悪感といった感情は特になかった。ただ、心にあったのは上手くいったという少しの達成感だけ。正直、自分でもここまで何も感じないとは思わなかった。これまで他人に暴力を振るった経験なんてないのに、いともたやすく撃ってしまった。果たして、これが私の持つ元々の性分なのか、それともこのイカれた世界で私もイカれてしまったのか。今となっては真相なんて分からない。
ゾンビの頭から矢を引き抜いて、回収用の矢筒に入れる。べっとりと白玉みたいな脳味噌が矢に付着していたけど……使い切りにするわけにはいかない。あとで川の水で洗えば汚れは取れる。初戦に勝利した私は再び川を目指す。ここまで来たら、もう目と鼻の距離だ。そこから数分で、無事に目標地点である川に到着した。
持参したタンクに川水を入れる。移動に影響が出ない範囲だと……五リットル前後が限界。それ以上は私の体力と筋力に差し支える。用心に越したことはない。その時、ついでに水分補給もしようかと考えたけど……やめておいた。どんな細菌がいるのかも分からないし、腹痛を起こす可能性がある。最低限、一度火は通しておかないと。もしも、この川水にウイルスが紛れ込んでいたら、私は一巻の終わりってことになるけど、そうなったらもうどうしようもない。最悪の可能性は無視することにした。
これで半分の作業は終わった。あとは帰宅するだけ。でも、この帰り道がもっとも危険だと言える。行きと違って、リュックの中には五キロのタンクが入っている。いざとなれば、タンクを捨てて逃走することも視野に入れて、私は警戒しながら自宅へと戻った。しかし、そんな心配に反するように、結局、その日の帰り道にはゾンビに遭遇することはなかった。
初めての遠征を終えて、無事に自宅に戻った時には……どっと疲れを感じたのをよく覚えてる。結局、その日はすぐに眠ってしまった。
さて、水を回収したのはいいけど、ただ一度、五リットル程度の水を獲得しただけでは根本的な解決になっていないというのは既にお分かりのはずだ。つまり、これからは定期的に、最低でも一週間に一度の頻度で、私は川に向かわなくてはならない。いや~……それからがキツいのなんのって。五、六人程度のゾンビの群れに遭遇するわ、走行者タイプに噛まれかけるわ、川の水を飲んでめちゃくちゃお腹壊すわ……この二年間で、色々なことがあった。でも、幸運が重なって、何とか私は生き抜いてきた。
そして、あの日常が崩壊した日から……三年以上が経過した。私こと赤羽雪音もお酒も飲める成人を迎え、御年二二歳。普通なら、大学四年生になっていたはずなのに、今では立派な生存者(サバイバー)。本当に、なんでこんなことになったのやら。
水を補給するようになって二年、ゾンビとは何度も遭遇したけど、結局他の生存者を目にすることはなかった。まあ、私の生活圏内は自宅から川への三百メートル以内だし、一度も生存者と出会わなくても何の不思議もないけど。
でも、時々……不安に思うことがある。もう、この世で生き残っている人間が私だけで、他は全員死体になんじゃないかって。そう思うと……途方もない虚脱感に襲われることがある。このまま生きて何になるのか。私も、あいつらの仲間になった方がいいかもしれない。
――なんて、ね。それだけは絶対にない。死んだら、そこで全て終わりだ。この文字通りに腐った世界でも、多少はまだ幸福を感じる時がある。本当に、些細な幸福。例えるなら、四つ葉のクローバーを偶然発見した程度のものだけど、その瞬間こそ、一番の生を実感できる。私はまだ生きていいって、誰かに肯定されているような感覚が……確かにある。だから、自分で命を絶つような真似は絶対にしない。死ぬ時まで、足掻いてみせる――そう、思ってたんだけどな。
*
「……はぁ」
なぜか、これまでの人生がテレビ番組のように頭の中で流れて、やっと回想が終わった。なんで急に、こんなことを思い出してしまったんだろ。これじゃまるで――
「……走馬灯」
ぼそりと、呟く。その瞬間、自分で言ったことを後悔してしまった。できる限り、考えないようにしてきた。どうにかして、助かる道はないか。治療法はないのかって。あぁ、当事者になって、やっと分かった。
〝死〟という現実は――受け入れたくない。
そっと、足の甲に付けられた傷跡に触れる。傷は浅い。でも、確かにあのゾンビの歯は私の肌に食い込んだ。確実に、Z-ウイルスは私の体内に入ってしまった。
油断はしていない、と言ったら嘘になる。でも、あんなの予期しようもない。どうやっても、私はあそこで噛まれる運命だった。逃れられない死の運命……ってやつかな。
いつものように、川に水を回収しに行った時の出来事。もうその頃になると、ただ水を取るだけじゃなく、簡易的なペットボトルの罠を使って海老や小魚を取るようになっていた。やっぱり、缶詰よりは生物(なまもの)の方が美味しい。サイズは少し小さいけど、海老の塩焼きが何とも言えない絶品で……って、そんな話はどうでもいいか。私はペットボトルの罠を回収しようと、川の中に足を踏み入れた。その時、足に何か、衝撃を感じた。
そこにいたのは――下半身どころか、上半身すらもほぼ残っておらず、胸元から上しかないゾンビだった。そのゾンビが、私の足に向かって噛みついていた。
一体、いつからそいつは川底に沈んでいたのかは分からない。偶然、橋から落下して流れ着いたのか。それともずっと前から人間が来るのを待っていたのか……どちらにしても、皮肉なことに、罠を仕掛けられていたのは私の方だったわけだ。すぐに腰元の包丁を取り出し、ゾンビを仕留める。まだ靴を履いていたら、何とかなったかもしれない。でもその時の私は……川に入るということで、素足になっていた。戦々恐々としながら、ゆっくりと足を確認する。確かに、そこには……噛まれた跡があった。
本当に、最悪だ。世界中探しても、こんな形で噛まれた者はいないだろう。今日この日、私が世界でもっとも不幸だったと断言できる。偶然、川にゾンビが沈んでいて、偶然、素足になった瞬間に噛まれるなんてこと普通ある?
ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない、ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない――はぁ。不幸ってやつは本当に、確率論なんて無視して起こる。もう逆に笑えてくる。ハハッ。
「……いや、全然笑えないわ」
あぁ、もう駄目だ。ここ数時間で、完全に冷静さを失ってる。一度、休憩した方がいい。そう判断した私は布団の上で横になり、仮眠をとることにした。
願わくは――今日の出来事が、いやこの生物災害こそが夢でありますように。そう思いながら、私は目を閉じて、夢の世界へと旅立った。
*
「……んっ」
目が覚める。体感時間では二、三時間程度の就寝だろうか。時計を確認すると、時刻は夜の八時。ふと、足を確認する。
「……夢、じゃないか」
確かに、そこには噛み傷が残っていた。これで確定した。あれは悪夢じゃない。紛れもなく現実。私の寿命は……残り、六六時間四五分。あと三日も経たないうちに、私は死ぬ。
「…………はぁ」
これまで吐いたこともない巨大な溜め息が漏れる。どこか、溜め息と一緒に生気も吐き出しているような気がして、余計に嫌な気分にさせられる。
どうする……この残された時間で……私は何すればいい?
突然始まった人生のカウントダウン。あまりに唐突すぎて、何をすればいいのか全然分からない。好きな小説や漫画でも読み直そうか。どうせ水や食糧も使い切れないんだし、暴飲暴食するのもいいかな。それとも、最後にゾンビをぶっ殺しまくる? あぁ、ダメだ。何をしても、満足できる気がしない。三日という期間はあまりに短すぎる。こんなことを考えている時間すら惜しい。
「……とりあえず、何か食べるか」
一度、頭を空にして、考え直すことにする。そして、残ったのが……〝空腹〟という感情だった。そういえば、まだ昼食を食べてなかったな。三日後には絶対死ぬってのに、お腹は空く。人間の体ってやつはなんて不便なんだろう。まあ、いいや。もう節約なんてしなくていいんだもん。久しぶりに、満腹になるまで食事ができる。
フルーツ缶、ツナ缶、醬油漬け鯖缶、パスタを取り出し、キッチンへと向かう。そして、固形燃料を加えた七輪にマッチで火を付ける。パチパチと、炎は弾け、徐々に熱を帯びる。その上にフライパンを置く。これで準備完了だ。
まず、フライパンにパスタが浸る程度の水を投入する。そして、下味の塩を加える。鍋と比べ、少量の水ということもあり、すぐに沸騰する。そこにすかさず、パスタを加える。全体がしんなりとしてきたら、蓋をして、時々かき混ぜる。八分程度でパスタは完全に茹で上がる。いつもなら、この茹で汁もスープに使っているけど……もう、そんな節約術は必要ないだろう。
次に、ツナ缶から油だけを取り出して、茹で上がったパスタにかき混ぜる。缶詰の中でも、もっとも汎用性に優れているのがこのツナ缶だと私は思う。油は料理にも使えるし、ツナ自体がどんな食材にも合う。まさしく、最強の缶詰だ。ある程度、油とパスタが馴染んだら、ツナも一緒に炒める。そして、最後に醬油漬け鯖缶のタレだけをパスタに和える。これで和風ツナパスタの完成だ。
フルーツ缶と残りの鯖缶も加えれば、もう立派な晩飯(ディナー)だ。とてもじゃないけど、社会が崩壊してから三年経った食事とは思えない。さて、実食。いただきます。
「……うっま」
思わず、賞賛の声が漏れてしまった。我ながら、会心の出来だ。まあ、パスタとツナと醤油の組み合わせが不味いわけがない。あぁ、本当に美味しい。店を開けるレベルだ。
生物災害発生後、もっとも重宝される職業は〝医者〟と〝料理人〟だと私は思う。医者に関しては災害前でも言わずもがな、医療現場が崩壊した現在ではただの風邪ですら命取りになる。また、ゾンビの襲撃以外でも、負傷する可能性は大いにあり得る。簡易的な診療、応急処置ができる医者の重要度は更に上がっているだろう。
では、なぜ料理人に医者と並ぶほどの地位があるのか。それは……単純に、この世界は食事以外の娯楽が少なすぎるからだ。電子(デジタル)の遊戯が使用不可能になった以上、生き残ったのは紙媒体(アナログ)のみ。これはこれで悪くはないけど、あれだけ娯楽に溢れた時代を生きた現代人にとっては……あまりに平坦すぎる日常だ。はっきり言うと、退屈、常に暇を持て余している。
そこで重要なのが、食事だ。日に二度か三度は必ず訪れる貴重なイベント。どんなに暇で退屈な日常でも、お腹だけは減る。唯一、灰色の日常に個性を持たせられるのがこの食事といってもいい。朝、昼、晩。それぞれ、何を食べようかと考える時間は……唯一、脳が全力で稼働していると感じる。誰かが言ってたな。人間の本体は実は腸で、身体と脳は腸に食事を送る器官に過ぎないって。それも、あながち間違いじゃないかもしれない。
とにかく、食事の質によって、その日の満足度が大きく変わる。調理に失敗して、不味い飯を食べた時には……三日は引きずるね。だって、貴重な物資と機会を一回潰して、何も得るものがなかったんだよ? もう虚無としか言いようがない感情に支配される。本当に、日々の食事っていうのは普段の生活のモチベーションに関わっていると痛感する。もしも、食糧が乾パンしか残ってなかったら……さすがの私も、死を選んでたかも。いや、冗談じゃなくて。
「……ふう。美味しかった」
ツナパスタ、鯖、フルーツ缶を無事に完食する。一回の食事で三缶は開け過ぎたかな。フルーツはいらなかった……と、若干の後悔を残す食事になってしまった。まあ、空腹に苦しむよりはマシだけど。既に日は沈んで、室内には手回し充電式のライトが周囲を照らしている。その光をボーっと眺めながら、私は残りの寿命をどう過ごそうか考えていた。
何かやり残したこと、あったっけ。いや本音を言うと、未練だらけなのは間違いない。でも、この状況で何ができるというのか。悔いを残さないようにするには……どうしたらいい。どうせ、死ぬなら、好きなことや好きなものを食べて――
「……あっ」
その時、天啓に近い閃きが、私の中で巻き起こった。あった。一つだけ、これをしないと、死んでも死にきれないと思うこと。
「カレーが……食べたい」
もしも、ここに第三者(ギャラリー)がいたら、ズッコケる発言だろう。でも、私の中では……これが確かな心残りだった。人生の最期に食べるのはカレーがいい。いや、カレーしか考えられない。
最後にカレーを食べたのは一年半前……確か、メニューはツナカレースープ。そこで、私は手元のカレー粉を全て使い果たしてしまった。あの時の背徳的な味は今でもよく覚えている。メニュー自体はカレー粉を溶かしたスープに、塩とツナ、コンビーフを突っ込んだ簡素なものだったけど……今でもあの味を思い出すと、涎が出てくる。あぁ、ダメだ。完全に舌がカレーの味を求めている。こうなったら、もうどうしようもない。絶対にカレーを食べないと。よし、目標は決まった。ウイルスが発症するまでの三日間で、理想のカレーを完成させて……最後の晩餐にしよう。そうと決まったら、まずは材料を選出しないと。
私はメモとペンを取り出して、必要最低限の、残されている可能性が高い物資で、理想のカレーを作るためのリストを作成し始めた。あぁ、この三年間で、一番脳が働いていると実感する。死がそこまで迫っているというのに、私の口元には笑みが零れていた。
*
「できた……これが、ベストだ」
そして、一時間後――ようやく、完成した。これが、私の理想のカレーだ。ライスはまだ缶詰が残っているから、作るのはルーだけでいい。材料も、恐らくまだ外に残っている可能性が高いものを集めた。実現性は高いと思う。使いたい〝隠し味〟もあったけど……この状況だと絶対に手に入らないものだし、諦めることにした。
・カレー粉
・トウガラシ
・クミン
・ガラムマサラ
・コリアンダー
・レッドペッパー
・ターメリック
・片栗粉
・ニンニク
・トマト
・タマネギ
・ニンジン
・ジャガイモ
まず、第一優先はカレー粉だ。最低でも、これさえ手に入れば形にはなる。本当は市販品のルーを使いたいけど、災害以前のものは確実に期限が切れている。カビが生えていたり、味が落ちていたりする可能性が高いから、なし。次にトウガラシ。辛味と旨味を引き出すためにはこれも必要不可欠。最悪、あとの材料が手に入らなくても、この二つさえあればいい。
次に、各種スパイスだ。クミン、ガラムマサラ、コリアンダー、レッドペッパー、ターメリック。香り付け、味付け、色付けにはこれらのスパイスが欠かせない。でも、一応このスパイス群はカレー粉に内蔵されているもので、代用自体は可能。そもそも、カレー粉ってのは本場であるインドで生まれたわけじゃない。インドを植民地にしていたイギリス人が、本国で現地のカレーを再現するために作った総合スパイス調味料の総称だ。日本に最初に入ってきたカレーも、元はそのイギリス風カレーで、そこから更に派生したのが日本カレー文化で……一言でカレーと言っても、これだけの派閥がある。絶対不可欠というわけじゃないけど、このスパイスは最低でも二種類は欲しい。スーパーでも普通に置いてるから、入手難易度はそこまで高くないはず。
次に片栗粉。これの用途は簡単。ルーにとろみを出すためだ。小麦粉、薄力粉でも一応代用はできる。まあ、煮込めば水っぽさはある程度解消できるから、そこまで重要度は高いってわけじゃない。でも、一応時間制限があるからね。用意するに越したことはないと思う。
ニンニクとトマトは下味を整える役割があるから、結構優先度は高い。スパイスのちょい下くらいかな。ニンニクは乾燥品、トマトは未開封のケチャップや缶詰があるから、まだ入手難易度は易しめ。
そして最後に……具。多分、これが一番入手するのが難しい。肉はまだ缶詰で代用できるけど、野菜やイモはそうはいかない。特に、タマネギはカレーを作るなら絶対に欲しい。カレーには辛味と同様に、甘味が必要になる。俗に言うところの〝コク〟というやつだ。このコクを凝縮させる担い手がタマネギなんだけど……どこで入手すればいいのか、現段階では皆目見当がつかない。街中で偶然生えている確率なんてゼロだし、缶詰に……あるのかな。祈るしかない。ニンジンも同様に、甘味を出すのに必要。そして、ジャガイモだけど……これに関しては賛否両論があるだろう。カレーにジャガイモを入れるかどうか論争は私も承知している。でも、私の……母が作ったカレーにはいつもジャガイモが入っていた。だから、今回は絶対にジャガイモは入れる。何か、文句でもある?
これで全部の材料は出揃った――改めて眺めると、一からこの全てを集めるのは苦労しそうだ。地図を取り出して、近場の商店の位置を確認する。まず、二百メートル先に最寄りのスーパーマーケットがある。そして、五百メートル南下すると、そこそこ大きめのスーパーマーケットが更に一つ。そこから五百メートル先には周辺で一番品揃えのいいチェーンのスーパーマーケットが君臨している。道中にはコンビニ、商店街も立ち並んでいるし、駅周辺には飲食店もある。よし、ひとまずはこのルートを通って、食材を探そう。
「……ん?」
めぼしい店を探している最中、六キロほど先に――大型のショッピングモールがあることに気付いた。あぁ、そういえば、あったな。いつも利用している駅の先にあって、普段は立ち寄らないから、すっかり存在を忘れていた。
ショッピングモール――それなりにゾンビ映画を見ている者なら、この忌まわしき聖地に良い印象を持っている者はいないだろう。大抵の作品ではこのショッピングモールという場所は物資の豊富さから人類最後の砦として選出され、そして必ずと言っていいほど、悲劇の舞台になる場所でもある。例えるなら、屍の楽園(ゾンビ・ランド)ってところか。うーん、どうしよう。確かに、品揃えはただの商店の非じゃない。でも、嫌な予感がするんだよなぁ。脅威はゾンビだけじゃない。狂人(サイコパス)が住み着いている可能性がある。まあ、候補には入れておこう。距離もそれなりにあるし、最後の手段だ。
「よし……できた」
それから二時間かけて、カレー完成へのルートマップが完成した。移動範囲は三キロ圏内に収めてある。これなら、日帰りもできる距離だ。フフッ、我ながら、惚れ惚れする。完璧な道程だ。どれだけ物資が残っているかによるけど、これならかなり高確率でカレーを作ることに成功するんじゃない?
「ふふっ……ふふふふ」
死が三日後に迫っているということを一瞬忘れて、薄気味悪い笑い声を出してしまった。時刻を確認すると、夜の十時を過ぎている。ここまで夜更かししたのは久しぶりかも。大抵はもう八時か九時になると、寝てるから。
ゾンビに噛まれたのが三時一五分頃、残された時間は約六五時間――あまりにも短い。
「……上等じゃん。やってやる」
赤羽雪音。最後にして最大の一仕事が、始まろうとしていた。
*
翌朝、朝の五時に起床した。季節が秋ということもあり、まだ日は昇っていない。睡眠時間は充分に取った。体調は万全……体内にZ-ウイルスが潜伏している以外は。
朝食を取りながら、リュックサックに物資を詰め込む。水、食糧、マップ、武器、調理器具。日帰りでも問題ない距離ではあるけど、何が起こるか分からない。もうこの家には帰ってこられない可能性だってある。用心に越したことはないはず。材料自体はそこまで多いってわけでもないから、リュックには小袋一枚分のスペースさえ残しておけばいいだろう。荷物の総重量は……十キロ前後ってところかな。うん、結構重いけど問題ない。この三年で、私もだいぶ鍛え上げられた。これぐらいなら、動きに支障が出ることはない。
クロスボウのメンテナンスも完了。最初は三十本あった矢も、今では一八本まで減っちゃったけど、まだ戦える。最悪、そこら辺に転がってる鉄パイプや木片でぶん殴ればいい。時刻を確認すると、六時を回っていた。よし、時間だ。忘れ物がないか、あらかじめ作成しておいたリストを確認する。物資は全て詰め込んだ。あとは――
「……〝お守り〟はどうしようか」
棚に厳重に保管しておいたその「お守り」を見て、私は呟く。必要か否かと問われたら――持っておくに越したことはない。でも、これは本当の最終手段だ。できれば、頼りたくない。これを使用することは……全ての失敗を意味する。
「……やめておくか。縁起でもないし」
数分間、悩んだ挙句に、置いていくことにした。これで準備は整った。さぁ、出発の時だ。
「……いって、きます」
無人になった家に別れを告げる。果たして、再び戻ってこられるどうか。無茶な冒険をするよりも、余生を静かにこの家で過ごした方がいいのではないかと、正直、今でも悩んでいる。でも、引きこもるのはもう飽きた。それに、今の私にはカレーという悔いが残ってしまった。その欲望を抑えることなんて、不可能だ。あぁ、これだと、食欲に支配されているゾンビと何も変わらないな。結局、もっとも原始的な欲望の〝食べる〟って行為には……誰も逆らえないってことか。
そのどこか皮肉にも思える本能に笑みを零しながら、私は自宅を後にした。こうして、私のカレーを追い求める死出の旅路(ウォーキング・デッド)が始まった。
*
まずは二百メートル先の大型協同組合スーパー「スコップ」だ。ここは何度も利用しているってこともあって、完全に店内の見取り図は頭に入っている。そこまで大型の店舗ってわけじゃないけど、必要最低限の品揃えはある。運が良ければ、ここで全ての材料が揃うかもしれない。
普段の川への遠征とは真逆の方向ってこともあって、三年ぶりに通る道だ。でも……ざっと見る限りではこちらも変わらない。人の気配はまったくないと言ってもいい。本当に、静かだ。
さて、これからスーパーに入るわけだけど、屋外と違って、屋内ではゾンビと遭遇した際には少し注意することがある。それが、退路の確保だ。極端な話、出入り口を複数のゾンビに塞がれたら、脱出するのが非常に困難になる。よって、まずは最低でも二か所のルートの安全を確保してから、探索をしないと、取り返しのつかないことになる。まあ……こっちはもう感染してるから、死ななきゃどうとでもなるんだけどね。一応、致命傷を負わせられるって可能性もあるから、念には念を込めておかないと。
外部から状況を確認できないこの不確定要素が、一番怖い部分でもある。だって、下手したら大量のゾンビが建物内に監禁されて、すし詰めになってるかもしれないんだもん。わざわざ個人宅に押し入らずに、こうやってスーパーや商店で物資を探すのも、少しでも視界を確保したいって事情がある。
これは私の予想だけど……感染者が全員、外に解き放たれてるってのは考えにくい。家で籠城中に家族が発症して、そのまま一家が全滅したってパターンも珍しくないはずだ。そうなると、施錠した狭い密室に、数体のゾンビが今でも新鮮な肉を求めて蠢いているってことになる。歩行者だけなら楽だけど、走行者も紛れていたら……私でも、対処は難しい。
ってことで、できる限りこちらも自由に動ける大型商業施設に絞って、材料を探すことにした。他の人の家に押し入るのも、泥棒みたいであんまり気分はよくないしね。まあ、今からやろうとしていることは盗人そのものなんだけど。
そうこうしているうちに「スコップ」が見えてきた。無意識のうちに、クロスボウを持つ手が震えてくる。怖いってわけじゃない。緊張とか、武者震いに近い生理現象……だと思う。とにかく、ここの物資の確認は重要だ。あの生物災害から三年、一般的なスーパーマーケットで、どれだけの商品が残っているか、その例(サンプル)を知ることができる。つまり「スコップ」の状態によっては――私の計画自体が、破綻する可能性も出てくる。そう思うと、見たいようで、見たくないな。
まずは二階の確認からだ。この店舗は二階の出入り口が駐車場になっていて、その駐車場が直接道路と繋がっている。ゆっくりと、物陰から駐車場の様子を伺う。人影は……ない。安全(クリア)、次。出入り口の窓から店内を確認する。動く物体は……ない。ここも安全。既に電源が絶たれて役目を失った自動ドアをこじ開けて、中に侵入する。
「……んっ」
その異様な雰囲気に、思わず息を呑んでしまった。あぁ、嫌だな。こういう見慣れた場所が、廃墟同然の場所になってるのは……こう、心に来る。かつては繁盛していたこの「スコップ」も、現在では見る影もなく、明らかに人の気配は感じられない。災害当時に行われていたと思われる安売りの張り紙が、痛々しくさえ思える。隣には家族と子どもが描かれているイラストが添えられていた。
……感傷に浸っている場合じゃないな。まずは一階の出入り口を確認しないと。一瞬、緩んだ気を引き締め直して、私は薄暗い階段を降りて一階へと向かった。
「──マジか」
売り場である一階に降りて、思わず声が漏れてしまった。そこにあった光景は……〝無〟だ。目に入る全ての棚の商品が空になっており、一個も残っていない。畜産、農産、水産、総菜、缶詰からお菓子コーナーまで、全てが売り切れだった。一〇〇%セールでもあった? 閉店間近の大晦日でも、まだ多少は商品が残っているだろう。隅々まで確認するまでもない。この店には文字通り、何もない。
これは……ちょっと、いや、かなり予想外だった。まさか、ここまで何も残されていないとは。自分の思慮の浅はかさに泣きたくなる。恐らく、三年前、このスーパーには大勢の人が押し寄せたのだろう。目的は食糧の確保。まともに金を払ったのか、それとも暴徒にも近い状態で略奪が行われたのか。全てが奪い去られた今、それを確認する術はない。
「……はぁ」
疲労二割、落胆八割が込められた溜め息を吐く。いきなり出鼻を挫かれてしまった。この「スコップ」が特別何もないというのは考えにくい。つまり、他の店舗も……似たような状態だろう。こうなると、食材のリストが金銀財宝を書き連ねた無理難題のものに見えてきてしまう。もしかして、私は……とんでもない無謀な冒険をしているのではないだろうか――ダメだ。どうしても思考が最悪(ナーバス)な方向に傾いてしまう。切り替えないと。
そんなことを考えていたまさにその時、ふと視界の端に何かが動いた。
「――ッ」
咄嗟にクロスボウを構える。そこにいたのは――体長約数センチ、長い触覚を震わせ、黒光りの体を輝かせている、ただの〝ゴキブリ〟だった。
「…………」
その姿を見た瞬間、全身が悪寒に包まれる。あぁ、もう、こいつだけは本当に今でも慣れない。この人間の生理的嫌悪感を最高に刺激させる忌まわしいゴキブリという昆虫は……現在でも、度々現れる。さすが、三億年前から生き延びている種族とでも言うべきか。この程度の災害は屁でもないらしい。むしろ、こいつらの生息数は以前と比較すると、更に増えた。
その理由は想像がつく。外には奴らの大好物である死体(生ゴミ)が自立歩行しているためだ。そう、現在のゴキブリはゾンビを食べて、繁殖している。ちょっと前に、ゾンビの体に大量のゴキブリが蠢いているのを発見した時は……さすがの私も、叫びそうになった。あぁ、Z(ゾンビ)とG(ゴキブリ)。考えられる限りで史上最悪の組み合わせだ。もうマジで勘弁してほしい。唯一の不幸中の幸いはZ-ウイルスは人間以外の生物には効力を発揮しない点だろう。これで、ゴキブリまで感染して、巨大化でもした日には――正真正銘、人類の終わりだ。
でも、そんなゴキブリにも、意外なことに、使い道はある。現代のゴキブリは死肉を主食にしている。つまり、ゴキブリがいる場所というのは……ゾンビがいる可能性が非常に高い。ゆっくりと、私はゴキブリが走り去った方向を確認する。
そこには一体のゾンビが、立ち尽くしていた。なぜか、その場から動こうとせず、何かを眺めているのか、ボーっと突っ立っている。まだ、私の気配には気付いていないようだ。
ふぅ、良かった。こっちが先に見つけて。探索をするまでもなく、もうここには用はない。ゾンビもいることだし、さっさと出よう。そう思い、私は振り返る。
ブンッ
刹那、何か聞き慣れない音が……足元から聴こえた。例えるなら、モーターが振動するような機械音。小刻みに何か揺らすような、そんな音。あ、違う。もっと身近な例えがあった。そう、それはまるで、昆虫の飛行音――ッ⁉
「ギャッ⁉」
足元に視線を移した瞬間、私は情けない叫び声を上げてしまった。ゴキブリが……服に飛びついていたのだ。こ、このクソゴキブリが! 反射的にゴキブリを払い落とす。無理無理無理無理! これだけは絶対に無理!
そして、僅かコンマ一秒後に、私は自らの愚行を後悔した。
『アァ――』
「……最悪」
せっかく隠密していたのに、先ほどの叫び声のせいで、ゾンビは私の姿を視認してしまった。目の前の新鮮な肉を追い求めて、そのゾンビは一目散に走りだした。
「チィッ!」
思わず舌打ちをしてしまう。不幸なことに、そのゾンビは走行者タイプ。屋内ではもっとも遭遇したくない相手だった。こいつらを相手にするには普通のゾンビとはまた違った戦術を取る必要がある。
距離は十メートル。このままでは数秒もしないうちに、ゾンビは私の喉笛を嚙み千切るだろう。しかし、クロスボウで迎撃しようにも、相手の動きはかなり素早い。万が一、頭を狙って外したら……無防備な瞬間を襲われることになる。つまり、まずは相手の機動力を潰さなくてはならない。
私はクロスボウの照準を下にズラし、足に向かって引き金を引いた。シュンッと空を切る音と同時に、目の前のゾンビのちょうど膝の辺りに矢が刺さる。
『アァ――』
瞬間、ゾンビは態勢を崩し、その場で転倒した。そりゃ、全力疾走中に足を撃たれたらこうなる。致命傷にはならなくても、人間の構造上、衝撃で必ずバランスを崩す。矢が刺さっている状態では再び起き上がるのに十数秒はかかるだろう。ジタバタと地面を這っているゾンビに近付き、脳天に包丁をお見舞いする。
『アッ――』
断末魔のような声を上げ、死体は動かなくなった。膝に刺さった矢を回収して、一丁上がり。これが、走るゾンビ対策の戦術。一対一(タイマン)なら、歩行者も走行者も対処は容易だ。まあ、こんな手が通じるのは本当に周囲に他のゾンビがいない場合だけ。基本的に三体以上が現れたら、こっちも逃げるしかない。やっぱり、ゾンビの一番の武器は物量だ。いくら知恵と武器に頼っても、一人では対処できる数に限りがある。
さて、長居は無用だ。先は長い。さっさと次の目的地に行かないと。くるりと振り返ると、また足元に……ゴキブリが一匹いた。まさか、こいつ……私を死体と勘違いしている? どうやら、既にゴキブリにとっては人間と死体に差はないらしい。どちらも巨大な歩く餌、ってことか。ちょっと……頭にくる。
バンッ
私は右足を持ち上げ、そのままゴキブリを踏み潰そうとする。しかし、その動きに危険を察知したのか、ゴキブリは一瞬でそ走り抜け、棚の下に潜ってしまった。
「…………」
な、何か……ゴキブリに出し抜かれたようで……腹が立つ。こ、この野郎。次に会ったら覚えとけよ。生命力だけはしぶといやつめ。
「……って、それは人間も同じか」
こんな世界になっても、少なくとも私はまだ生き残っている。ある意味、ゴキブリよりしぶといのが人類かもしれない。そんなことを思い浮かべながら、私は「スコップ」を後にした。
*
道中、何件かコンビニに立ち寄ったけど、結果はどこも同じ、棚は全て空だった。予想はしてたけど、最悪だ。やっぱり、行動するのが遅すぎた。このままだと、カレー作りどころの話じゃない。本当に、どうしよう。
二件目の大型総合スーパーマーケット「ショウビー」に到着する。ここは三階建て、一階が外食店、二階が食品売り場、三階が日用品売り場になっている。さて、どこから攻めようか。一階の外食店は……正直、かなり小規模な店ということもあり、あまり入りたくない。こんなところで接敵したら、五メートル以内の近接戦をすることになる。なるべくリスクは避けたい。でも、そんなことを言っている場合じゃないってのも事実。
「……行くかぁ」
意を決し、外食店内から先に捜索することにした。一応、窓から内部を確認する。ゾンビの姿は……ない。鍵も施錠されていないどころか、ガラスの一部が割れていた。引き戸を押すと……ドアに備え付けられている鈴がチリンと鳴り響いた。
ここは個人経営の喫茶店だ。店名は……何だったかな。一度も入ったことないから、覚えてない。クロスボウを構えて、周囲を確認する。他の気配は……ない。中にゾンビがいるなら、さっきの鈴の音で反応しているはず。一応、安全ってことでいいのかな。ふと、テーブルの方に視線を送ると、メニューが置いてあった。これは有力な情報になると思い、手に取る。
喫茶店ということは色々な料理を取り扱っているはず。つまり、カレーもメニューに入っている可能性は非常に高い。カレー、カレー……その文字列を私は必死に探す。
「……ない」
どうやら、その喫茶店ではカレーは取り扱っていないようだ。いや、今時カレーも出してない喫茶店なんて、どうかしてるでしょ。なんてこと思いながら、メニューをテーブルに戻す。まあ、いいや。最初からあんまり期待はしていなかった。喫茶店にあるカレーは大体レトルト品だ。置いてあっても精々業務用の缶詰、そんなのじゃ私の舌と胃袋は満たされない。それより、重要なのはスパイスだ。飲食店ということはある程度の調味料が揃っているはず。探せば私が求めている材料があるかもしれない。
カウンターに入り、まずは冷蔵庫内を確認する――空。次は戸棚――空。ちょっと待って。いくら何でも、何もなさすぎない? 普通、調味料ぐらいは残っててもいいのに。これじゃ、まるで手当たり次第に誰かが奪い去ったみたいな――
「……っ」
ふと、喫茶店の正面扉を確認する。その瞬間、カチリと、歯車が噛み合う音が脳内で鳴り響いた。
「あー……そういうことね」
やっと、理解した。ここまで店に物資が何も残ってない理由。私は……遅すぎたってことか。既に、ここは先客に荒らされた跡だ。あの割れたガラス、最初はゾンビの侵入跡かと思ったけど、よく見ると内鍵を開けるようにして傷つけられている。
考えてみれば何らおかしいことじゃない。生物災害発生初期段階にて、私のように自宅で籠城を選択した人も大量にいたはずだ。でも、一般家庭の備蓄食料なんてものはたかが知れている。数週間も持てばいい方。なら、飢えに苦しんだ人々はどこに向かうか。そう……僅かな食料を求めて、商店や飲食店へと殺到したはず。その結果が、これ。
「…………はぁ」
夏草や兵どもが夢の跡。いや、これはちょっと意味が違うか。そりゃそうだよね……もう、あれから三年も経ってるんだ。今更この店に来た私なんて、ほぼ最後尾(ビリ)みたいなもの。何か残ってるかと期待する方がおかしい。そして、この状況は……どこも同じ。そんな状況で、カレーを一から作るなんて……無謀もいいところだ。
急に、肩に地蔵が乗ったような重力を感じる。もう、帰ろうかな。幸い、まだ家を出て数時間しか経過していない。今ならまだ、最後に残された貴重な七二時間を多少犠牲にした程度で済む。カレーは作れないけど、他の保存食はまだ残ってるし、静かに余生を過ごせるはずだ。明らかに、恩恵(メリット)と損失(デメリット)が割に合わない。私も、もう子どもじゃない。とっくに成人した大人だ。たかが好物のために、ここまで命を張ることもないか。
徐々に、身体の中の熱が冷めていくような感覚を覚える。よし、帰ろう。これ以上は無駄骨だ。駅から少し離れた場所でさえこの有様ということは……繁華街に近付くにつれて、確率が低くなるってのは明らか。しかも、その分ゾンビの数も増える。どれだけ命があっても足りない。
ようやく、自分の計画が荒唐無稽なものだったことに気付いた私はくるりと振り返り、出入り口へと向かう。気分は最悪。猫背の姿勢になり、目線は下に向いていた。でも、その時――偶然、テーブルの下に、何か小瓶が転がっているように見えた。
「………ん?」
これは何だろうか。単純な好奇心から、その小瓶を拾い上げる。それは赤いラベルが貼られており、こう記載されていた。
『一味唐辛子』
「…………んんっ⁉」
その文字列を思わず二度見する。確かに、そこには一味唐辛子と記載されていた。某大手食品会社から販売されている二八グラム税別二一八円の何の変哲もない一味唐辛子。だけど、今の私にとってはその価値は砂金と同等、いやそれ以上だ。でも、まだぬか喜びという可能性もある。小瓶を振って、中身を確認する。
パラッ パラッ
多少、消費はされているけど、それでもまだ体感七割近く残っていた。
「は、はは……マ、マジか」
なぜ、こんな場所に転がっていたのか。先駆者がありったけの物資を奪った際に落としてしまい、そのまま忘れてしまったのか。あぁ、何という幸運だろうか。意外な形で、必須材料の一つであるトウガラシを獲得してしまった。あとはカレー粉さえ手に入れば……カレーではなくとも、カレー風味の料理を作ることができる。
ゴクリと、唾を吞む。脳が記憶を遡っているのか、舌が徐々にカレーの味へと染まっていく。こうなってしまったら……元には戻れない。昔、カレーだと思って帰宅したら、ビーフシチューでガッカリしたという出来事を思い出す。それと同じだ。一度、カレーの味を認識してしまったら……どんな料理を食べても、満足することはできない。カレー欲を満たせるのはカレーだけ。引き返すのは――不可能。
「分かったよ。こうなったら、最後までやってやる」
私はこの偶然、幸運、奇跡を……何らかの啓示だと認識した。どうせ、あと二日とちょっとで死ぬんだ。もう失うものなんて何もない。一瞬でも弱気になってしまった自分に苛立ちを覚えながら、店を出た。残りの材料はまだまだある。絶対に、私はカレーを食べてやる。
*
その後「ショウビー」一階の飲食店を散策したけど、成果はゼロ。結局、一階で手に入れたのはこの一味唐辛子だけだった。次は二階。食品売り場だ。
停止したエスカレーターを駆け上り、警戒しながら二階に辿り着く。普段は新鮮な農産コーナーが目に入るのだが、当然何も残されていない。ただ空っぽの棚が並んでいた。
「……暗いな」
電気が止まっているため、照明は点けられていない。「スコップ」はまだ窓からの日差しで多少は明るかったけど「ショウビー」の売り場は広いため、太陽光が届かない店の奥は昼間とは思えないほど闇に包まれていた。両手で構えていたクロスボウを一度置き、持ち手部分にライトを取り付ける。これで、暗所でも探索が可能になる。実際に使うのは初めてだけど。
カチッ カチッ
ライトの電源を頻繁に点滅させて、周囲を警戒しながら物資を探す。無論、これはただ遊んでいるというわけじゃない。実際にアメリカの特殊部隊なんかでも使用されているテクニックの一つだ。こうすることで相手に自分の位置を悟らせないようにする……らしい。ゾンビ相手にどれだけ通用するかは不明だけど、まあやっておいて損はないだろう。この三年間は父の書斎にある本で暇を潰していたせいで、こういうミリタリー関連の知識が無駄に増えてしまった。
しかし、案の定と言うべきか、見事に食品売り場はもぬけの殻だった。少しは譲り合いの精神で残しておいてほしい……というのは自分勝手な意見か。生きるか死ぬかって時に、赤の他人のことまで配慮しろなんて、虫が良すぎる話だ。
「……っと」
ちょうど、冷凍食品売り場に差し掛かったところで――レジの方向に、人影が見えた。咄嗟に物陰に身を隠して、姿を確認する。まあ、こんな場所で突っ立ってるやつなんて、正体を確認するまでもないか。
『アァ……』
低い唸り声を出しながら、そのゾンビはレジの周囲を徘徊していた。数は一体。この暗闇で放置しているのも危険だし、仕留めるか。ゾンビがいる方向にクロスボウを構えて、ライトの電源を付ける。
カチッ
『ア――』
一瞬、ゾンビと目が合ったが、もう遅い。二秒ほどで照準を調整して、引き金を引く。見事に矢はゾンビの眉間に命中した。
「ふぅ」
突き刺さった矢を引き抜く。実は最近、疑問に思うことがある。ここ一年で出会うゾンビはどこか、鈍い気がするのだ。歩行者と走行者に限らず、全てのゾンビが発生初期と比べると、動きが遅くなっているような……完全な気のせい、ではないと思う。
直接の因果関係があるのかは不明だけど、最近のゾンビはかなり腐敗が進んでいる者が多い。今、仕留めたやつもそうだ。こいつは全身の皮膚が膿んでいて、酷い腐臭が漂っている。確実に感染から三年以上経ったベテランのゾンビだろう。衣服も形だけが辛うじて残っていて、膿で染められて変色している。オエッ、まじまじと見てたら、吐き気してきた。
とにかく、私が言いたいのは……腐敗速度と移動速度、これが繋がっているんじゃないかって話だ。つまり、日が経って腐っているゾンビほど、動きが遅くて仕留めやすくなっている。最長のゾンビで、三度も夏を経験していることになる。腐敗には湿度が大きくかかわっているってのは今更説明するまでもない。基本的に、三〇度を超えると、微生物の増殖が活発になって、腐る速度が加速するのはゾンビにも当てはまるはず。こいつらがなんでここまで腐乱死体になっても動いているかは謎だけど、それでも確実に影響は受けているんじゃないだろうか。
……ってことは、いつになるか分からないけど、ゾンビはいつか腐食によって自重を支えられなくなって、動けなくなる? 本当に、どれだけの年月を重ねればそこまで腐るのかは分からない。数年かもしれないし、それこそ数十年かかるかもしれない。でも、そんな可能性があったとしたら、人類にも、まだ光はあるのかもしれない……まあ、私はもうすぐ死ぬから、関係ない話ではあるんだけど。
「さて、と」
一通り食品売り場の探索は終わった。成果は……ゼロ。三階の日用品売り場には用はない。結局「ショウビー」で得たのはこの一味唐辛子一本だけ。
――充分な成果だとは思う。でも、やっぱりこの調子だと間に合わない気がする。時計を確認すると、もう昼の一一時。家を出てから、五時間近くが経過していた。あと四時間で……残り時間が四八時間、二日を切る。探察できる時間は陽が昇っている日中だけだ。さすがに、夜に街を徘徊するのは危険すぎる。そうなると、残り五二時間というのはあくまで表記上のもので、実際に活動できるのはこの半分程度だと思っていいはず。ちょっと、マズいかな。胸の辺りから焦燥感が滲み出てくる感触がある。もっと、効率よく探さないと。他の人があんまり来ないような、食糧の保管庫みたいな場所を探す必要がある。でも、そんな場所どこに――っ。
「あ」
ふと、背後を振り返る。そこには――スーパーの裏口、従業員通路へと繋がる扉があった。
「……行って、みるか」
*
通路の中は更に漆黒の闇で覆われており、ライトがないと十メートル先も見えない。こんな場所で襲われたら、ひとたまりもない。ゾンビが現れないことを祈りながら、歩みを進める。
今、私が通っているのは……スーパー内の従業員用の通路。所謂「裏方(バックヤード)」というやつだ。実は高校時代、こことは違うけど、デパートでバイトをしていた時期がある。つまり、この手の職場の内情には私もちょっとだけ詳しい。いや、まあ本当にちょっとだけね。何しろ、三か月で辞めちゃったから。
その経験談から言うなら、商品棚に陳列しているものが全ての商品ってわけじゃない。スーパーには……必ず、段ボールに詰められた配送直後の商品を保管している場所があるはず。私の場合は小さな倉庫だったけど、この「ショウビー」にもそれに近い場所があると思う。
でも、あんまり期待はしない方がいい。三か月で辞めた私ですら思いつくってことはそこも既に荒らされている可能性が高い。あくまで確認ということを肝に銘じておかないと……また、落ち込むことになる。とりあえず、裏口から階段を降りて、一階を目指そう。
「……ッ」
曲がり角に差し掛かったところで、足が止まる。あーあ、やっぱり……安全な場所ってわけでもないか。
そこには床にべったりと、血溜まりの痕があった。とっくに血は鮮やかな赤から黒に変化し、凝固していることから、年単位の時間が経過していることは間違いない。でも……ここにも確実に、ゾンビがいた。まったく、少しはゾンビがいない安全な場所ってのはこの世にないのか。
一階へ降りる階段はすぐに見つかった。そこから更に道なりに進んで、保管場所を探す。まだ、ゾンビの姿はない。
「……あった」
そして、発見した。その空間は前方はシャッターで閉鎖されていることから、外と直接繋がっている商品の搬入口に近い場所だったんだろう。周囲には空の段ボールが大量に散乱しているし、ここで間違いない。ざっと見た限り、大方は既に奪い去られた後だけど、喫茶店のようにいくつかの品物が転がっているのが確認できる。探してみる価値は……ありそうだ。宝探しに挑む子どものような気分で、私は残飯漁りを開始した。
*
「ふぅ。これで、一通りは終わったかな」
ほぼ空の段ボールだったということもあり、一時間程度で探索は終了した。成果は――上々、といったところだ。集めた物資を目の前に並べ、悦に入る。
入手できたのは以下の四点。コリアンダー、片栗粉、トマト缶数個、そしてリストには入ってなかったけど、中濃ソース……いいや、上々どころか、かなりよくない? ここまで理想の品物が残っているとは思わなかった。
特に、コリアンダーとトマト缶が手に入ったのは大きい。カレーの香りを増大させるにはコリアンダーは不可欠。更に、トマトの酸味も相性抜群。そして、この中濃ソース。リストには入れなかったけど、これもカレーに投入するには悪くない。ソースってのは野菜、果物、スパイスが大量に詰め込まれた総合調味料だもん。相性が悪いわけがない。隠し味として充分に仕事をしてくれる。かなり完成に近づいてきた。
さて、貰えるもんは貰ったし、さっさと撤収するか。ライトで周囲を照らしながら、出口の裏口を求めて、ホクホクの気分で私は「ショウビー」を後にした。
*
時刻は午後一時を回った辺り、ちょうど、お昼の時間だ。少し繁華街から離れたビルの一室で、私は〝下〟を見降ろしていた。
「……やっぱり、増えてるな」
視線の先には……二体のゾンビ。そして、更にその三十メートルほど前方には五体もいる。更に更に、道路には何体かのゾンビが徘徊している姿もある。ざっと、数えられる範囲でも二十体はいるか。まあ、予想はしていた。人口密集地に近付けば近付くほど、ゾンビの数も増すということは。ここから先、ゾンビは無視だな。一体を処理する間に、別方向からもう一体か二体増えることになって、キリがない。クロスボウは強力な武器だけど、一度使ったら、なるべく矢は回収したい。つまり、殲滅必須。安全を確保する必要がある。便利だけどこういう集団戦には向かないな。
なんてことを考えながら、昼食の準備を進める。死体やゴキブリを間近で見たあとでも、やっぱりお腹は空く。朝から重労働を済ませたから、余計にぺこぺこだ。ここまで運動したのは実に久しぶり。できるだけ、エネルギーを補給できるメニューにしたい。
「ん~……」
リュックからいくつか缶詰を取り出し、吟味する。昼食は……これでいいか。乾パンとコンビーフ、そして先程入手したトマト缶を取り出す。キャンプ用の折り畳み式コンロを組み立てて、鍋にも使える小型フライパンをセットしたら準備完了だ。
まず、コンビーフに塩を加えて炒める。ある程度ほぐれたら、トマト缶を投入。ここで、少し煮詰める。味見をしながら、トマトの酸味が少しなくなるまで煮る。で、ちょうどいい頃合いになったら、中濃ソースをかける。これで、簡易的なデミグラスソースを作る。さっそく、中濃ソースが役に立ったな。さて、味は……うん、何かちょっと足りないな。他に、使える調味料を持ってきてたっけ……あ、そうだ。コンソメが一欠片あったはず。リュックの中からコンソメを取り出し、フライパンに投入する。さて、どうだろう……うん、おいしい。
これで完成。名付けて、乾パンバーガー。このソースに乾パンを浸して食べる。おぉ……本物には程遠いけど、どこかハンバーガーを思い出す味がする。これは中々美味だ。
「……うっま」
自分で言うのもなんだけど、かなりの力作だ。まったく、外はゾンビで溢れているというのに、こんなにうまいものを食べていいのだろうかと、自問するほどだ。ただ、欠点を上げるなら、これが乾パンではなく、普通のパンだったら……完璧だった。そして、コンビーフだけではなく、タマネギもほしい。そうしたら肉の旨味とタマネギの甘味の相乗効果で、更に一段上の味になったけど……贅沢は言えない。
最後はソースを全て飲み干して、完食。はぁ、おいしかった。やっぱり、トマト缶がMVPだな。トマトって野菜は本当に何にでも使える。ケチャップの汎用性を考えると、当然の話ではあるんだけど、改めてその偉大さが身に染みて分かってしまった。このトマト缶を使ったカレーなんて……もう、最高の味だろうな、うん。
満腹になったにもかかわらず、カレーの味を思い出すと、空腹の感覚を覚える。思わずボトルを取り出し、水で腹を満たす。よし、エネルギー補給完了。次の目的地「クローバー」を目指して、出発した。
*
「スコップ」「ショウビー」に引き続き、三つ目に向かう場所は……近畿地方、関東地方を中心に展開しているスーパーマーケットチェーン店「クローバー」。この周囲ではもっとも規模が大きいスーパーだ。構造は二階建て。一階は食品売り場、二階日用品売り場。今回、用があるのは一階のみ。でも、この一階のスペースがかなり広い。最初の「スコップ」の軽く四倍くらいはあると思う。まあ、他と同じように、表の商品棚には何も残ってないとは思うけどね。最初に人が殺到するなら駅に一番近いここだろうし。「ショウビー」みたいに裏の保管庫狙いで行こう。
「……いや、めちゃくちゃ多いな」
家から持ち出してきた双眼鏡を覗きながら、私は溜息混じりで呟く。現在地は「クローバー」から百メートルほど離れたビルの物陰。そして、その視線の先には……軽く十体程度のゾンビが店の前を徘徊していた。ちょっと、あの数は計算外だった。これじゃ、表から入るのは不可能だ。あれだけの数を相手にする勇気はない。ってなると、裏口から侵入するしかないかな。どこにあるかは分からないけど、真反対に回ればそれっぽい場所が見つかるはず。くるりと方向転換をして、まずは裏口を探すことにした。
「……あそこ、かな」
十分程度で、裏口を発見することができた。でも、問題がある。その裏口付近にも……三体程度のゾンビの姿が見えた。
どうする。一度に三体を相手にするのは避けたい。一体はクロスボウで仕留められるとしても、残りの二体が矢の装填を待ってくれる確証はない。そうなると、近接武器の包丁で残りを相手にすることになる。特に、走行者が紛れている場合は……クロスボウでの足止めが必須だ。かなり、リスクを抱える戦闘になる。
「――見た感じはあそこを通らないと中には入れないし、やるしかないか」
悩んでいる時間が惜しい。幸い、それぞれ三体の距離は離れている。あれなら、一対一を三回繰り返すだけで済むかもしれない。クロスボウを構えて、私は歩を進めた。
『アァ――』
『ウゥ――』
今の私の腕だと、動いてる的に当てるには十メートル以内が限界。それ以上の狙撃は著しく命中率が下がる。そして、そこまで接近したら……確実にゾンビに視認される。つまり、この十メートルが、私に与えられた有利点(アド)ってことになる。
獲物が姿を現したことに気付いた二体のゾンビは両腕を突き出して、真っ直ぐこちらに向かってきた。奥の一体とはまだ距離があるから、とりあえずはこいつらを片付けないと。幸い、三体とも歩行者タイプ。まあ、走行者なんて体感十体に一体くらいの割合だから、そんなポンポン出てこられたら困るんだけど。
まずは戦闘の一体にクロスボウの照準を合わせる。発射。
ヒュンッ
『アッ――』
バタンッ
命中。後ろのゾンビとの距離は……七、八メートルってことか。これなら、距離を取るまでもないか。矢筒から矢を取り出す。弦を引き、矢を装填(リロード)する。この間、僅か四秒。最初の頃と比べると、見違えるように手際がよくなった。おかげで腕の筋肉が無駄に付いて、ちょっと恥ずかしいけど。まだ二体目の距離は五メートルもある。これなら楽勝。確実に、頭に当てられる。
ヒュンッ
『ウッ――』
バタンッ
難なく二体目も処理完了。三体目との距離は……まだ十メートルはある。余裕で間に合うな。三本目の矢を取り出して、装填。そして、目の前のゾンビに向かって小走りで駆け寄る。
ゾンビは機動力において、致命的な弱点を抱えている。その弱点とは――旋回だ。要するに、こいつらは方向転換が下手ってこと。獲物が急にその場で左右どちらかに散ったら、まずその方向に首を振って、歩み始める。動作が一瞬(ワンテンポ)遅れるのと同時に、足自体が止まる。この癖さえ知っていれば、近接武器しかなくても仕留めるのはそこまで難しいことじゃない。
ゾンビとの距離が二メートルまで縮まったところで、右方向に旋回して、照準を合わせる。その間、ゾンビの動きは完全に止まって、首を振って私の姿を目で追おうとしていた。
ヒュンッ
バタンッ
三体目も処理完了。何とか、掃討することができた。それぞれ頭に突き刺さった矢を回収して、一息吐く。いや、何を安心しているんだ、私は。大変なのはこれからだ。
周辺だけでも、これだけの数のゾンビがいるってなると、中は更に地獄絵図の可能性もある。開けた場所なら、こうやって複数と対峙することもできるけど、狭い通路内だとそうはいかない。常に撤退の選択肢は頭に入れておかないと。一段と気を引き締めて、裏口から「クローバー」内へと侵入した。
「うっわぁ」
その光景を目の当たりにして、思わず口元と鼻を抑える。鼻孔を通り抜けたのは強烈な腐敗臭。裏口を抜け、すぐ目の前に広がっていた光景は――大量の死体の山だった。恐らく、これは戦闘の跡。私と同じ考えに至った先駆者が物資を求めて、ゾンビを撃退したものだろう。どの死体も頭部が損傷している。
しかし、よくこれだけの数を相手にできたな。足場が困るくらい、軽く数十体はいる。もしも、この中にまだ動けるゾンビがいたら……他の死体と見分けられる自信がない。例えるなら、〝ゾンビ地雷原〟ってところか。厄介な地帯を作ってくれたもんだ。なるべく近付かないように、壁に沿って移動する。幸い、全員の息は絶えていたようで、再び動き出す者はいなかった。
地雷原を抜けると、いくつかの分かれ道があった。どこがどこに繋がっているかまったく分からないから、勘で進むしかない。
「……こっちにするか」
何となく、直感を信じ、左の通路を進むことにした。
*
「これは……当たり、ってことでいいのかな」
通路を通ると、そこには「ショウビー」と同じように、大量の空の段ボールが置かれている場所(エリア)に到達した。さて、また宝探しの時間だ。ライトで周囲を照らしながら、置き去りになった物資を探す。
しかし、ここを漁った者たちはしっかりしていたのか、それとも何回も人が訪れたのか、中々残留物が見つからない。むむ、駅前のスーパーってなると、やっぱり人気があるのかな。クロスボウの先端を使って段ボールの隙間まで隈なく確認する。
「うわっ!」
その時、またゴキブリが隙間から姿を現した。不意打ちの出現に、思わず声が出てしまう。しまった。それなりに大きな音を出してしまった。咄嗟に口元を掌で覆う。まだゾンビの姿は見えないけど、ここは屍の巣の真っ只中。物音を出すなんてことは論外だ。
大丈夫、かな。うん、大丈夫。道中にはゾンビの姿はなかったんだもん。少し大きな声を出したくらいで、寄ってくるわけが――
『――――ゥ』
刹那、私の耳は確かにその僅かな呻き声のような音を捉えた。距離はだいぶ遠い。自分でもよく聴こえたと感心するほどだ。勿論、気のせいという可能性も充分に考えられる。でも、この状況では僅かな物音が命に繋がる。急いで私は通路へと走り出す。
「……最悪」
目の前の光景に、軽く眩暈がする。前方二十メートル先、出口に繋がっている通路には――先程にいなかった五体のゾンビが佇んでおり、ゆっくりとこちらに向けて歩を進めていた。
オーケー、状況を整理しよう。多分、あの私の叫び声を聞きつけて、この店に潜んでいたゾンビが獲物を求めて姿を現した。通路には五体のゾンビ。通り抜けられるような隙間はなくて、ここは一本道、後方は行き止まり。つまり、逃げ道はない。この閉鎖空間で、五体のゾンビを相手にしなきゃいけない。
――ファッキュー。
考える時間が惜しい。コンマ数秒でその結論を出した私はクロスボウを構えて、一番先頭にいるゾンビの頭目掛けて矢を発射する。
ヒュンッ
バタッ
距離が不安だったけど、命中。これで残りは四体。まだ余裕はある。焦らず、慎重に狙えばあと二、三体は仕留められ――っ⁉
その瞬間、後方のゾンビをかき分けて、新たなゾンビが出現した。視界に私を捉えたそいつは砂漠で干からびる寸前にオアシスを見つけた探検家のように、一目散に私を目掛けて走り出した。本当に、最悪。ここで更に増援。しかも、走行者と来たもんだ
どうする。クロスボウの装填はまだ終わってない。あいつがここに到着するまであと四秒か五秒、猶予はある? 否――照準を合わせるまでの時間は残ってない。なら、迎え撃つしかない。クロスボウを盾のように構えて、腰に差している包丁に手をかける。
『アァ‼』
「ぐっ……」
クロスボウにゾンビの顔面が衝突する。歯をガチガチと鳴らしながら、私の喉笛に喰らいつこうと、飢餓の咆哮を上げている。あぁ、もう、息が臭いんだよ!
右手で構えていた包丁を脳天に向けて振る。ぶちゅりと脳を貫く感触が包丁越しに伝わってきた。電池切れの玩具のように、走行者のゾンビはその場で倒れる。あと、四体。いや、ダメだ。相手にするのは二体にしよう。これ以上、増援が来たら……本格的にまずい。矢を装填して、再び先頭のゾンビに向けて引き金を引く。
ヒュンッ
バタッ
命中。すかさず矢を装填する。残りの三体のゾンビとは距離が七、八メートルにまで縮まっていた。この距離なら、絶対に外さない。
ヒュンッ
バタッ
よし、二体まで減らした。これでいい。目論見通り、その二体のゾンビの間には人が通れるほどの隙間ができていた。私は走り出し、その小さな空間に目掛けてスライディングをする。
『アァ――』
『ウゥ――』
ザザッ
突然、姿勢を低くした動きにゾンビは対応できず、首を振りながら私を見送る。作戦成功。何とか、すれ違うことができた。走りながら、最初に仕留めたゾンビの頭に突き刺さっている矢を回収する。あとの二本は諦めるしかない。残り一六本。曲道を抜けて、ゾンビ地雷原があった裏口へと駆け出す。しかし、その瞬間、私の足は止まった。
出口へと向かう通路には――更に三体のゾンビが待ち受けていた。これは……別の抜け道を探すしかない。くるりと方向転換をして、未開の通路へと駆け出す。
出入り口が一つしかないわけがない。絶対に、どこか別の裏口が残っているはず。ライトで周囲を照らしながら、それらしき扉を必死で探す。
「……あった!」
そして、見つけた。非常口だ。頼むから、鍵がかかっているオチは辞めてくれと願いながら、私はドアノブを回す。
ガチャ――
扉が開き、太陽光に抱擁される感覚を覚える。でも、まだ安堵するには早い。急いでその場から離脱した。あぁ、クソ。「クローバー」では収穫がないどころか、クロスボウの矢を二本も失ってしまった。まったく、品揃えが悪いどころか……とんだぼったくりスーパーだった。
*
「はぁ……はぁ……」
息を切らしながら、ようやく周囲にゾンビが見当たらない公園を発見し、ベンチに腰を下ろす。あれから、散々な目に遭った。ゾンビの巣窟の「クローバー」を抜けた先でも、いくつかの集団(グループ)に遭遇してしまった。幸い、走行者がいなかったから、逃げ切ることができたけど……この小一時間はずっと走りっぱなしだった。さすがに、体力が持たない。
ボトルに入った水を飲み干す。少し、楽観的に考えすぎていた。まさか、繫華街のゾンビがここまで多いとは……無傷で生還できたのが奇跡だと言ってもいいくらいだ。やっぱり、屋内は襲撃のリスクが高すぎる。もっと慎重に行動しないと。
時計を確認すると、午後三時。もう残り四八時間、二日を切っていた。あと数時間で、日が沈んでしまう。時間は有限だ。ただ休憩をしている暇はない。私は地図を広げて、現在の状況を確認する。
「スコップ」「ショウビー」「クローバー」――当初の目的ではこの三つのスーパーマーケットで大体の食材を集める予定だったけど、結果、入手できたのは……トウガラシ、コリアンダー、片栗粉、トマト缶。それぞれの品名にチェックを入れて、リストを埋める。
・カレー粉
・トウガラシ ✓
・クミン
・ガラムマサラ
・コリアンダー ✓
・レッドペッパー
・ターメリック
・片栗粉 ✓
・ニンニク
・トマト ✓
・タマネギ
・ニンジン
・ジャガイモ
「……これじゃ、帰るわけにはいかないか」
これではカレーモドキすら作れない。やっぱり、どこかでカレー粉は入手する必要がある。でも、まだ心当たりがないわけじゃない。むしろ、最有力候補が残っている。それが、ここ、カレーショップ「ソコニ」だ。場所は「クローバー」から百メートル西に進んだところにある。この辺では唯一のカレー専門店……だと思う。探せば他にもあると思うけど、私が知ってるのはここだけ。いや、最寄り駅の飲食店事情ってあんまり知らなくない? どうせ外食するなら、電車に乗ってもっと都会の方で食べるし。割と行く機会がないんだよね。って、そんなことはどうでもいい。とにかく、カレー専門店があるってことが重要。何らかのカレーに関する物資を入手できる可能性は非常に高い。
問題は二点。個人経営店だから、根こそぎ奪われて何も残ってないのが心配なのと……また、大量のゾンビに出くわす可能性もあるってこと。最悪なのはこの二つの要素が重なる場合だ。徒労に終わるどころか、状況によってはそこで私の人生も終わる。さて、どうしたものか。
「……って言っても、ここまで来たら行くしかないよね」
*
再び、繁華街に戻ってきた。
相変わらずゾンビの数は多い。走ればある程度は撒けるけど、確実に何匹かゾンビを引き連れてこっちに誘導することになる。時間はかけていられない。さっさと行かないと。
できるだけゾンビの視界に入らないように、物陰に沿って移動する。目標の「ソコニ」まであと三十メートル。ここからは表通りに身を乗り出す必要がある。よく周辺確認をして、タイミングを見計らう。
よし、今――と、身を乗り出した瞬間、妙な物体が九時の方向に見えた。それはゾンビとは違い、二足歩行ではなく、四足歩行をしている生物のような影(シルエット)。猫か犬……じゃない、それにしては大きさが違う。まだ百メートルほどの距離が離れているから、正確な数値は分からないけど……軽く人間と同じ重量(サイズ)はあるように見える。その不可解な光景に、一瞬、足が止まる。
段々と、その影はこちらに近付いているのか、輪郭がはっきりしてきた。ここで私は胸に何かザワザワとした胸騒ぎを覚える。例えるなら……蛇に睨まれた蛙。そして、ようやくその全体像が見えた。
「……うっそでしょ!」
即座に私は「ソコニ」を目掛けて駆け出す。なんで、市街地にあんなのがいるの⁉ あり得ないでしょ⁉ この三年間で、信じられない光景は色々見てきたけど、その中でもこれは最上位(トップ)。間違いなくナンバーワンだ。最後の確認、疲労で幻覚を見た可能性を捨てるために、一瞬だけ背後を確認する。
体長は一・五メートルから二メートル。全身を茶色の体毛で包まれており、象徴的なのは顔の周囲を覆っている鬣(たてがみ)。猫は猫でも、そいつはネコ科で最強の生物――獅子(ライオン)だった。
あり得ない! あり得ない! あり得ない! あり得ないいいいいいいいいい‼‼‼
心の中で、三下のデータキャラが叫んでそうな台詞を復唱する。しかし、それほどまでに信じられない光景だった。なんでこんなところにライオンがいるのか。動物園から脱走して、そのまま野良猫ならぬ野良ライオンになった? ちょっと待ってよ。冗談じゃない。ゾンビだけならともかく、ライオンにまで襲われたら本当に命がいくらあっても足りない。あの俊敏な動き、銃でもない限りは人間に勝ち目なんてない。あぁ、もう! くそったれ生物災害(アウトブレイク)め!
どれだけ距離を詰められているのか確認したいけど、そんな暇はない。チーターには及ばないにしても、ネコ科ということはかなりの速度のはず。もう真後ろに迫っているのかもしれない。私にできるのはただ祈りながら走るのみ。入口まであと十メートル。お願い、間に合って!
扉の取っ手に触れる。そして、全体重をかけて引き戸をこじ開けて、乱暴に戸を閉める。幸運なことに、取っ手のすぐ下には内鍵(ドアガード)があった。その鍵を施錠して、店の奥に駆け込む。
そして、数秒後――ゴンッという巨大な肉の塊がガラスに衝突する音が鳴り響いた。テーブルを盾にするようにして、私はクロスボウを構える。
それから二分程度、ライオンはどうにかして店内に侵入しようと扉をこじ開けようとしていたけど、やがては諦め、どこかへと去ってしまった。な、何とか……乗り切ることに成功したようだ。
「マ、マジで……なんなの……」
正直、生きた心地がしない。心臓は今でも一秒に十回は鼓動をしているんじゃないかってくらい爆音で体内に鳴り響いている。これならまだゾンビの方がマシだ。今回は運がよかった。あと数秒、反応するのが遅れていたら……今頃はライオンの胃の中だった。
「はぁ~……」
今日一番の溜め息を吐く。これからはライオンの徘徊も視野に入れて、行動する必要があるってこと? もう、勘弁して。
しかし、ここでうかうかしている暇もない。一応、目標であるカレーショップ「ソコニ」には辿り着くことができた。とんでもない事故(アクシデント)があったけど、本題はここから。ざっと見る限りではここも荒らされて何も残っていないように見えるけど……スパイスの一つや二つは残っていてもいいはず。探索開始だ。
*
「こんなもんか」
一通りは探し終わった。その成果は……二点。クミンと、ガラムマサラの小瓶を入手した。どちらもほぼ空だけど、辛うじて一食分は残っている。多分、使い切ったと思われて、そのまま放棄されたんだろう。それ以外の物資は……根こそぎなくなっていた。
悪くは……ないと思う。カレー粉が手に入るのがベストだったけど、ガラムマサラが手に入ったのは大きい。このガラムマサラは簡単に言うなら、インドでのカレー粉のようなものだ。イギリスで作られたミックススパイスがカレー粉。一方で、インドではこのガラムマサラがカレー粉の役割を果たしている。つまり、これさえあればカレー自体を再現することは可能ってわけ。でも、私が作ろうとしているのはあくまで日本式のカレーだから、できればカレー粉は使いたいわけで……うん、難しい問題だ。まあ、とにかくこのスパイス二種が手に入ったのは大きい。これで、最低限の土台はできた。
時刻を確認すると、もう五時前。そろそろ、今日は切り上げるか。野菜をどうやって調達するかは未定だけど、それは明日の私に任せることにしよう。とりあえず、ゾンビがいない安全地帯を確保しないと。念のために、ライオンが待ち構えている可能性を考慮して、裏口から出ることにした。
*
さて、今日の寝床はどこにしようか。理想はゾンビの侵入を完全に防げて、非常口が確保できるベッド付きの住居。なーんて、さすがにそんなところあったら誰も苦労しないか。ベッドは諦めよう。郊外のビルの一室なら、ゾンビ化した住人もいないだろう。陽が沈む前に、手頃な物件を見つける必要がある。
しかし……今日はとんでもない日だった。一体、何体ゾンビをぶっ殺して、死にかけたのか。数えるのすら馬鹿らしい。自分でも、よくまだ生きていると感心する。既に、陽は傾き始めている。早く繫華街を抜けて、暖かいご飯が食べたい。
「……っ」
周囲を確認し、後方に視線を向けたその時――向かいの横断歩道に人影を発見した。また、ゾンビだ。しかも、走行者タイプ……一心不乱に、どこかに向けて走っている。思わず物陰に隠れたけど、どうやら私を追っているわけではないらしい。そのままゾンビは真っ直ぐ走り、歩道橋に上った。
「……ん?」
その時、ある違和感に気付いた。先頭を走っているゾンビの背後に、軽く数十人近くのゾンビの群れがいることに気付いた。その全てが走行者タイプ。まるでそのゾンビ軍団は先頭の一匹のゾンビを追うように、続々と歩道橋を上がっている。
ちょっと……おかしくない? あれじゃ、まるでゾンビがゾンビを食べようとしているみたい。ゾンビの共食いなんて聞いたことがない。あいつらが興味あるのは生肉だけ。腐った肉は専門外のはずだ。なら、あの先頭にいるのは――よく目を凝らして、観察する。
年齢は一五、一六くらいの女の子。多少、服は血で汚れているけど、僅かに見える白い素肌は健康な人間そのもの。そして、その表情は……恐怖に怯え、今にも泣き出しそうな顔をしている。あぁ、あれが、ゾンビなわけがない。ここでやっと、私は彼女の正体を察し、歩道橋に向かって駆け出した。
「いやっ……いやっ……」
距離を縮めるにつれて彼女の懇願するような声が聴こえてくる。どうやら、無我夢中で走っているようで、まだ私の姿には気付いてない。彼女の十数メートル後方にはその姿を追うゾンビが雪崩のように押し寄せている。恐らく、逃走を繰り返しているうちに、走行者タイプのゾンビだけを引き連れてきてしまったのだろう。見る限りでは武器になりそうなものは何も持っていない。なぜ、あんな丸腰同然の装備でこの亡者の世界をうろついているのか、その理由も気になるけど、今は彼女を助けることが最優先だ。
歩道橋の真下に到着する。ちょうど、彼女は階段を下り始めていた。大丈夫、まだ間に合う。リュックの中から〝瓶〟を出す。ポケットからライターを取り出して、蓋部分に着火する。これで準備完了。あとは――投げるだけ。
「伏せて!」
階段前に立ち、私は彼女に警告する。一瞬、私のことをゾンビだと勘違いしたのか、彼女は目を丸くしていたが、すぐに言葉の意味を理解し、階段を降りながら、姿勢を低くした。
そして、私は――階段を下り始めたゾンビ目掛けて、瓶を投擲した。曲線を描きながら、瓶は宙を舞い、先頭のゾンビの胸に衝突し、破裂した。パリンと、軽快な音が鳴ると同時に、緋色の閃光が発生する。刹那、熱風がこちらにまで伝わってきた。
これは私の特製火炎瓶……父の書斎にある本を参考にして作った。多分、今では所持しているだけで何らかの法に接触する本だと思うから、製造法は内緒だけど。
炎はゾンビに対してそこまで有効ってわけじゃない。あいつらは火だるまになっても、数十秒間は活動できるのは実証済み。灰になるまでは歩みを止めることはない。でも、足止めには使える。炎はゾンビの五感を鈍らせる効果がある。嗅覚、視覚、聴覚、どれを使って人間を探知しているのかは分からないけど、炎に包まれた状態だとその探知能力が著しく下がり、こちらを追跡することが不可能になる。地面に置いていたもう一本の瓶にも着火して、再び同じ場所に向かって投げる。
一瞬にして、歩道橋は炎に包まれた。先頭にいたゾンビ集団は完全に火だるまになり、その場で転がっている。更に、後続のゾンビも足元のゾンビに躓き、続々と引火していた。
「……え?」
階段を降り、背後に振り返った少女は困惑の表情と声を漏らす。
「大丈夫? 噛まれてない?」
「えっ、あっ、は、はい!」
ざっと彼女の身体を見回すが、噛み傷らしきものは確認できない。
「よかった。走って。逃げるよ」
「え? あ、あの……」
「いいから、早くしないとまた追ってくる」
「わ、分かりました!」
今は互いの身分を説明している暇はない。私は彼女を引き連れて、急いでその場を後にした。
*
「ふう。ここなら……安全か」
「はぁっ……はぁっ……」
数十分後、ゾンビの追手を撒き、郊外のビルにあるどこかの会社の事務所内に足を踏み入れる。一応、ゾンビが潜んでいないか入念に確認はした。扉には鍵をかけておいたし、いざとなれば非常階段を使って逃げることもできる。一晩を過ごすにはこれ以上にない好条件の物件だった。
「あ、あの……ありがとう……ございました……」
「ん? あ、あぁ……うん」
他の住居者がいないか確認が終わり、オフィスに戻った直後、目の前の女の子は感謝の意を伝えた。その突然の言葉に、私は少し動揺してしまった。あれ、私って……こんな人付き合い下手だっけ。いや、前も得意な方でもなかったけど。
「私、紅葉(くれは)……斎藤紅葉(さいとうくれは)って言います。歳は一五です。お名前を聞かせてもらってもいいですか?」
「……赤羽雪音」
ちょっと待って。全然あの子と目を合わせられない。どうしちゃったんだ私。まさか、この三年間で――対人恐怖症になった? せっかくの三年半ぶりの生身の人間との会話だってのに、これじゃこっちが変なやつみたいじゃん。もっと平然としないと、不審がられる。というか、私……臭くないよね? 最後に水浴びと洗濯をしたのは三日前、まさか……他の生き残りと会うなんて思ってなかった。だ、大丈夫……かな。
「あ、あの! 赤羽さん!」
「え?」
襟元の匂いを確認する私を見かねて、斎藤紅葉を名乗る少女は声をかけた。あれ……なんか……めっちゃ可愛くないか。この子。ここで、私はやっと自分が助けた少女の顔を真正面から見た。顔はまるでアイドルのように小さく、瞳は吸い込まれるような澄んだ黒色。首元まで伸びたセミロングの髪はファッション雑誌から出てきたモデルのようで――って、何気持ち悪いことを延々と考えているんだ私は。いや、確かに美人だけど、どこか見覚えがあるような……そこが引っかかっているんだ。
「さっきは本当にありがとうございました! 赤羽さんがいなかったら、私……」
「……別に、大したことはしてない。危なかったから、助けてただけ」
「そ、それでも! 赤羽さんは命の恩人です! ありがとうございました!」
「……う、うん。どうも」
んぐっ……どうも苦手なんだよな。年下の子って。一人っ子だし、学校ではずっと帰宅部だったから、後輩みたいな年下とはどう接すればいいのか分からない。まだ目上の方がやりやすいくらいだ。あんまり偉そうにするのもあれだし……って、そんなことはどうでもいいか。今はこの子の事情を聴く方が先だ。
「どうして、あんなところにいたの?」
「そ、それが……実は……私、町野宮駅の生き残りなんですけど、物資を集めるために外に遠征していた途中に、ゾンビに襲われて……」
「町野宮駅の……生き残り?」
町野宮。聞き覚えがある。確か、ここから少し離れた先にある地下鉄の駅名だ。
「はい。ゾンビから逃げた人たちが集まって、今はそこでみんな集まってで生活しているんです。多分、数は合わせて二百人くらいはいると思います」
――良かった。まだ、この世界の人類は滅んでいなかった。少なくとも、数百人は生きている。その事実に、どこかほっとする自分がいた。でも、地下鉄か。確かに、逃げるならゾンビの手が及ばない空か、海かとは思っていたけど、地下はどうなんだろうか。侵入口が限られている分、防御はしやすいと思う。けど、一度ゾンビが入り込んだら逃げ道がない。まあ、こんな素人でも分かる問題点なんて、とっくに解消してるんだろうけど。
「急に……走るゾンビの大群が現れたんです。それに、みんな食べられて……でも、田中さんが私を逃がしてくれて……それで……私だけが生き残って……昨日から、ずっと逃げ回ってました」
「……そう」
大体の事情は分かった。多分、今日私が「クローバー」で遭遇したような事故が、彼女の身にも起こったのだろう。そして、唯一生き残った。それから単独でゾンビからの逃走をしているうちに、私と出会ったってわけか。可愛い顔してるけど、この子もあの地獄を見た生存者の一人。いや、引きこもってた私に比べたら、もっと辛い経験をしているはず。少し前まで自分が世界で一番不幸だと思っていたことを恥じる。今も変わらず、世界中では多くの死がもたらされている。人間のまま意識を保って死ねるだけ、、まだ私はマシだ。
「あ、赤羽さんは……どうして、あんなところにいたんですか?」
「……私?」
「はい、もしかして、赤羽さんもどこかのコミュニティの生き残りですか? この辺の人は私たち以外、みんなゾンビになってたと思っていたので、ちょっとびっくりしました」
「……私、は」
一体、どこまで話せばいいのだろうか。三年間、ゾンビから逃れるために引きこもっていたこと。昨日、ゾンビに噛まれたこと。残された寿命で、好物のカレーを食べるために奔走していること。わ、我ながら……なんて馬鹿らしいことをしているんだろう。これじゃ、食い意地の張ったガキと同じだ。とても人には言えない。でも……私は既に感染者だということは伝えるべきだ。これだけは最低限の、人としての配慮(マナー)。この子の安全を守るためにも、言え。早く。言ってしまえ。
「…………っ」
喉元の辺りで何かが詰まる。なぜだ。その言葉を放つことができない。私は……何かに臆している? 一体何に……この斎藤紅葉と名乗る少女に? 違う。私が怖いのは――人と見られないことに、だ。
今、私が感染者だと告げたら、彼女はどういった反応をするだろうか。いや、容易にその反応は想像できる。一瞬にして、彼女の眼差しは羨望、敬意に溢れたものから、失望、敵意へと変わる。表情に出すことはなくとも、些細な動作で必ず気付く。この事実を告げたら、私は……同族(ヒト)と見られない。外にいる大量の歩く死体と同じ扱いだ。
「……私は、この三年、ずっと家で籠城していたの。でも、食糧がついに底を尽きて……こうやって表に出てきたってわけ」
あぁ、クソッ――言えない、言えない。怖い、怖い、怖い。結局、私も……どこにでもいる平凡な人間だった。そうか。みんな……こんな気分だったんだな。迫る死の恐怖だけじゃない。一番恐ろしいのは……同じ人間に敵だと認識されることだ。それが何よりも怖い。こうやって、結局伝えられないまま時間切れになって、更に二次被害が発生したんだろうな。今、やっと分かった。
「え……ま、まさか、ずっと独りで戦ってきたんですか⁉」
「まあ、そうなるかな」
「す。すごいです! そ、そんな人、初めて見ました!」
「……すごくないよ。全然」
どこか、彼女の視線が突き刺さるように痛く感じる。これは傷を隠していることに対しての後ろめたさなのか、父が市民のために用意した保存食で生き長らえていることに対しての罪悪感なのか。あぁ、自分で自分が嫌になってきた。何の意味もなく、窓の外の風景を眺める。時刻は午後七時。もう陽は完全に落ちており、部屋に入ってきた時に火を付けておいた蝋燭が唯一の光源だ。お腹、空いたな。
「……とりあえず、夕食にしようか。話は食べながらすればいいし」
「え……そ、そんな。いただけませんよ。だって、赤羽さんの食糧じゃないですか」
彼女は遠慮をしているように、手を振りながら拒否の仕草(ジェスチャー)を取る。よくできた子だ。一日中走り回って、自分も体力の限界を迎えているだろうに、ここにきて遠慮ができるなんて。
「いいよ。そんなケチなこと言うつもりなら、最初から助けてないし。水も飲んだ方がいい」
リュックから水のボトルを取り出して、彼女に投げる。
「わっ……あ、ありがとうございます。じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて」
丁寧にお辞儀をして、彼女は水を受け取る。それはもうすごい勢いで飲み干していた。やっぱり、相当疲労していたらしい。水と食糧を余分に用意しておいてよかった。
固形燃料に火を付け、夕食の準備をする。さて、メニューは……魚鍋にするか。念のために、調理中も手袋は付けておく。私が直接触れたら、あの子も感染しちゃうかもしれないから。
ツナ缶、鯖缶、サンマ缶、水、塩をフライパンに投入して、沸騰させる。出汁自体は缶詰の汁で出てるから、あとは煮えるまで待つだけ。実に簡単な料理だ。ただ煮るだけで形になるんだから、鍋ってやつは楽でいい。でも、これだけじゃちょっと物足りないだろうから、ご飯の缶詰も投入して雑煮風にする。小型サイズってこともあって、フライパンの中は具と汁とご飯で溢れかけていた。そろそろいいか。火を止めて、フライパンを運ぶ。
「完成。食べようか」
「お、おいしそう……」
予備のスプーンを彼女に渡し、一緒に同じ鍋を囲む。他人と食事を共にするのも、三年ぶり。
「い、いただきます。ん! お、おいしいです!」
「……そう。口に合ってよかった」
料理の味を褒められるのはかなり嬉しい。でも、あんまり喜ぶのも恥ずかしいから、必要最低限の反応(リアクション)をする。あー……こんなんだから、友達があんまりいなかったんだろうな、私。自覚はしているけど、今更治せる癖じゃない。
「……本当に、おいしいです。う、うぅっ」
「ちょっ、だ、大丈夫?」
鍋を口に運びながら、彼女は泣き出してしまった。え? も、もしかして、そんなにまずかった? おかしいな。私は普通に食べられる味だと思うんだけど。
「ご、ごめんなさい……暖かいご飯を食べたら、何か安心しちゃって……」
「そ、そう。よかった」
あまりにまずくて涙が出たというわけではないらしい。まあ、そりゃそうか。今日だけで何人も身近な人の死を見届けて、自分も死にかけたんだから、緊張の糸が解けたら涙も出る。ましてや、まだ一五歳の女の子だ。でも……こういう時、なんて言葉をかけたらいいんだろうか。わ、分からない。
その後、私が対応に困ってしまったせいで、特に会話が続くことなく、二人で鍋を平らげてしまった。いや、だから……年下の扱い方が分からないんだって。普通なら、もうちょっと話せるから。マジで。と、誰に向けて言っているのか分からない言い訳を心の内で呟く。
「……赤羽さん」
「……んっ?」
気分が落ち着いたのか、彼女が声をかけてくる。何か、年下の子に気を使わせてしまったようで、ちょっと居心地が悪い。
「赤羽さんは……これから、どうするつもりですか?」
「……どう、する?」
反射的に、その問いを聞き返してしまった。これからどうするか、と言われても……私に残された時間はもう二日を切っている。カレーを食べるしか、目的はない。その後に待ち受けているのはただの死だ。でも、こんなことはこの子には言えない。
「特に、考えてないかな」
「じゃ、じゃあ! 行く宛てがないなら、町野宮駅に来ませんか⁉ きっと、みんな歓迎してくれると思います!」
「…………」
まあ、そうなるよね。今の私はただの住所不定。あ、もう学生でもないから、無職にもなってるのか……嫌なことに気付いちゃったなぁ。って、そんなことはどうでもいい。この子を助けた以上、同じコミュニティに誘われるのは必然。
「私なら、駅の場所も知ってますし! 一緒に行きましょう!」
「……そう、だね。じゃあ、そうするか」
彼女を送り届けることに関して文句はない。むしろ、最初からそのつもりだった。でも、私の役目はそれまで。町野宮駅に着いたらそこで別れよう。私にはまだ、やり残した使命がある。
その後、夜も更け、体力も回復させる必要があるということで、話は明日の朝に回し、すぐに就寝することにした。
*
その日、夢を見た。夢の中で……父が出てきた。自衛官で、三年前のあの日以来、連絡が取れていない父だ。
夢は嫌いじゃない。むしろ、こんな血と内臓に塗れた世界になってしまった以上、あの頃の日常に戻る唯一の手段が夢だ。現実世界で交友関係が更新されないと、夢の中の登場人物も変わらないというのは今回の騒動で初めて知った。無論、悪夢を見ることもあるけど……今でも、平和だった日々の夢はそれなりに見る。目が覚めるたびに、現実世界への帰還に落胆するほどだ。叶うなら、一日中寝ていていたい。
恐らく、父はもうこの世にいないと私は認識している。死の報せがない以上、生存している可能性も僅かにはあると思うけど、それはあまりにも高望みというものだろう。でも……それでも……ほんのちょっとだけ、まだ父は生きていると願っている。その方が、気が楽になるのは確かだ。
「…………はぁ」
前の世界の夢を見ると、毎回溜め息を吐いてしまう。もう二度と戻ることはない日々の記憶は尊いものだけど、残酷でもある。手に届かない宝物を見せつけられているようで、気分が悪い。
ふと、向かいのソファを見る。まだ彼女は――眠っているようだ。窓を見ると、ちょうど陽が顔を出し始めていた。先に朝食を準備しておくか。重い身体を持ち上げて、調理に取り掛かった。
*
「……んっ。あ、れ。ここは……」
「おはよう。よく眠れた?」
「あ、はい。えっと、私……」
瞼を擦りながら、彼女は周囲を見回す。どうやら、ひと眠りしたことで、自分が置かれている状況を一瞬忘れてしまったようだ。
「あ、そうか……」
そして、全てを思い出した一瞬だけ、儚げな表情を見せたのを私は見逃さなかった。恐らく、昨日見た惨状も一緒に脳裏に蘇ってしまったのだろう。
「朝食用意したし、食べようか」
「あ、ありがとうございます」
朝食の乾パンとスープを二人で食べる。昨日の晩から二人分の食事を用意しているということで、予備の食糧もちょっと底が見え始めてきた。恐らく、この調子では今日の夕食分もないと思う。まあ……それだけあれば、充分か。今日中には彼女を町野宮駅に送り届けて、あとは物資を集めながら帰宅する。そこで、集まった材料でカレーを作ろう。よし、完璧な日程だ。
「それで、ちょっと町野宮駅について聞きたいことがあるんだけど」
地図を取り出して、場所を確認する。私は町野宮駅には直接出向いたことがないから、正しい道順を聞く必要があった。
「場所はここで合ってる?」
「はい。そこで大丈夫です」
「じゃあ、現在地はここだから……最短だとこういうルートになるか」
目標は四キロ先の町野宮駅。そこまで遠い距離じゃない。数時間もあれば、問題なく到着できるはず。で、その道中にあるのが――指を添えて、経路をなぞる。
「……ショッピング、モール」
「あ〝オゾン〟ですね」
大型ショッピングモール「オゾン」。この辺では一番規模が大きい集合商業施設。最初に、目を付けた場所の一つだ。そのショッピングモールが……ちょうど、町野宮駅と現在地を挟む場所にあった。
「実は私たちのグループ……最初はこの『オゾン』を目指していたんですよね」
「え? そうなの?」
「はい。実はこっちも食糧にちょっと困ってて……それで、ちょっと遠征をして物資を探そうってことになったんです。でも……」
その結果は言うまでもない。なるほど、町野宮コミュニティも、このショッピングモールは未知の領域。つまり、物資が大量に残っている可能性がある。私にとっても好都合だ。
「……どうする? 帰る途中で、ここに寄ってみる?」
「え?」
「もちろん、無理にとは言わない。ここも、大量のゾンビが溢れているかもしれないし、ちょっと覗いて、ダメそうなら、そのまま町野宮に行こう」
「……そう、ですね。みんなが……命がけで行こうとした場所ですもん。私も、見に行きたいです」
ゾンビの楽園か、人間の楽園か。確認する価値はある。決まりだ。「オゾン」を中継点にして、町野宮駅に向かおう。
「それにしても……すごいですね。それ」
ふと、彼女は私の背後にあるクロスボウを指差した。
「ん……? あぁ、まあ、自衛用にね」
「ちょっと、触ってみてもいいですか?」
「いいけど、結構重いよ」
クロスボウを持ち上げ、彼女に向かって渡す。
「ほ、本当だ……結構重い」
正確な重量は分からないけど、多分、七百から八百グラムはあると思う。最初はダンベルを持ち上げているかと思うくらい重く感じだけど、今となってはもう慣れた。
「ほ、本当に、すごいですね。赤羽さん。あの火炎瓶も……自分で作ったんですよね」
「まあ……そうだけど」
「私たちも自衛用の武器を色々作ってますけど、あんなの、誰も作れませんよ」
「あー……はは」
まさか、学生運動の最中に極左団体が発行した本を参考にして作ったとはとてもじゃないけど言えない。本当は爆弾も一緒に作りたかったけど、さすがにそっちは材料が揃わなかった。
「そうだ。武器といえば……一応、これ」
私は彼女に予備のカバー付きの包丁を手渡す。
「今、何も持ってないでしょ。一応、護身用にはなると思うから」
「あっ……ありがとうございます! ごめんなさい。私、本当にドジで……逃げる途中に、武器も落としちゃったみたいです」
乾いた笑いを彼女は零す。しかし、本当にこの斎藤紅葉という少女は可愛らしい顔をしている。女の私ですら、見とれるほどだ。もし、私が男なら……って、なに下世話な妄想しているんだ。今のはさすがにキモすぎる。
「あの、私の顔に何か付いてます?」
「あっ、ご、ごめん。そういうわけじゃなくて……もしかして、元芸能人だったりする?」
やっぱり、この子にはどこか既視感がある。でも、こんな美少女の知り合いはいない。つまり、以前にどこかの雑誌か、テレビで目撃した可能性が考えられる。これだけの美貌だ。モデルか子役でもおかしくない。
「あ、はは。そうですね。今でも、たまに言われます。一応、芸名は佐藤クレアで活動していたんですけど」
「佐藤……クレア……」
思い出した。聞き覚えがある名だ。確か、当時はそこそこ有名な子役で、バラエティに出演していたのを見たことがある。年齢も、髪型も変わっていたから気付かなかったけど、言われてみると――面影がある。やっと、謎が解けた。
「私、テレビのロケの最中にこの騒動に巻き込まれたんです。だから、今でも家族と連絡が取れてなくて……」
「それは……大変だったね」
見知らぬ土地で巻き起こった生物災害。私以上に、この子が死線を潜ったのは間違いないだろう。しかも、当時の年齢はまだ一二歳。本当に、よく生き残ったと感心する。
「……一体、いつになったら、元の生活に戻るんですかね」
「…………」
その問いに、私は答えることができなかった。いや、明確な回答は用意してある。ここまで国家という概念が崩壊してしまった以上、元の生活に戻ることはない。諦めろ――と。でも、そんなことを一五歳の子どもに言えるわけがない。しばらく悩んだあと、私は口を開いた。
「多分、もう人類が繁栄することはない。このまま死体の餌になって、滅びる運命だと……私は昨日まで思ってた」
「…………」
「でも、あなたと出会って、他にも生き残りがいることを知った。大丈夫、こんな狭い町でも、これだけの生き残りがいるんだよ。まだ日本にも、世界にも……生き残った人たちが大量にいるはず。まだ人間は負けてない。きっといつか……元に戻る日が来るよ。絶対」
「そ、そうですよね!」
嘘は吐いていない。私も、その日が訪れることを願っている。もっとも、私がその終戦記念日を迎えることはないけど。
「じゃあ、そろそろ行こうか。えっと……」
「どうかしました?」
「いや……名前。どう呼べばいいのかなって」
その時、私は初めて彼女の名、斎藤紅葉の名前を呼ぼうとしたが――思いとどまってしまった。昔から、人の名を呼ぶのはどうも慣れない。どこか、馴れ馴れしい気がして、躊躇してしまう。同世代の子でも、名前を呼ぶまで最低でも三か月はかかっていた。
「あ、紅葉で大丈夫ですよ。みんな、そう呼んでくれますので」
「じゃあ……紅葉、ちゃん。行こうか」
「はい! 赤羽さん!」
こうして、何の因果か、私は元子役の斎藤紅葉ちゃんを町野宮駅に送り届けることになった。
*
「大丈夫。こっち」
「は、はい」
本来なら徒歩で二時間もかからない距離でも、そこら中にゾンビが徘徊しているとなると話は別。迂回を繰り返して、接敵を避ける必要がある。所要時間は倍、いや、三倍はかかると見込んでもいい。それでも、どうしても戦闘が避けられない場合もある。その時は……やるしかない。
「……あそこのゾンビは一体しかいないし、ここを通らないとまた回り道することになるから、倒そうか」
「わ、分かりました」
クロスボウを構えて、照準を合わせる。距離は一二、一三メートルってところか。ゾンビはまだこちらに気付いていない。まあ、ギリギリ射程範囲内かな。
ヒュンッ
カンッ
「…………」
「あっ……」
両者の間で、沈黙が発生する。は、外した。初めて人前で射撃する緊張感からか、手元が狂ってしまった。あんなドヤ顔で撃っておいて、恥ずかしっ。
「…………」
顔に血液が集まっていく感触がある。無言で矢を装填し直して、再び狙いを定める。
ヒュンッ
バタッ
「あ、当たりましたね」
「……うん」
さすがに二度も外したら面目が経たない。二本の矢を回収して、先に進む。頼りない下手くそだと思われたらどうしよう、なんて呑気なことを考えながら、私たちはショッピングモールへと徐々に距離を縮めて行った。
*
「あそこ、かな」
「ですね。間違いないと思います」
数百メートル先に、巨大な建築物が見えた。数時間の移動の末、太陽が真上に上がり切る前には大型ショッピングモール「オゾン」へと到着することができた。
「ゾンビは……いないか」
大体のゾンビ映画ではショッピングモール前っていうのは大量のゾンビ軍団が押し寄せているけど、見た限りでは姿は見えない。つまり、ショッピングモール内も無人、ということだろうか。
「紅葉ちゃんはゾンビの生態について、どこまで知ってる?」
「ゾンビの生態……ですか? えっと、一応コミュニティの人たちから教えてもらったぐらいは」
「あいつらって、どうやって人間を探知しているか分かる? 匂いとか、音とか」
「私たちの間では……直接、姿を見られるのが一番ダメだって言われてます。でも、大きな音や血の匂いにも寄ってくる性質があるみたいで……詳しいことはまだ分からないです」
やっぱり、大体どこも同じ情報量か。あいつらがなんで突然現れるのか、どうやって人間を探知しているのかは依然として不明。つまり、今この場にいなくても、不意に大量発生する可能性もある。
「慎重に、行こうか。中にもゾンビがいるかもしれないし、あまりにも対処できない数だったら、その時点で引き返そう」
「は、はい。分かりました」
最悪なのは――表から見えないショッピングモール内がゾンビの巣になっているパターンだ。屋内だとゾンビの脅威度が跳ね上がるのは嫌というほど体験している。常に撤退の二文字は意識した方がいいだろう。
「とりあえず、入口を探してみようか」
「ですね」
紅葉ちゃんと共に、ショッピングモールの出入り口を探す。しかし、正面口へと回った時点で、ある異変に気が付いた。
「……これ、閉まってる?」
「そう……ですね。多分」
外周をぐるりと回るように歩いていると、正面口だと思われるゲートを発見した。しかし、そこは閉鎖されているようで、二メートル近い柵(フェンス)が門番のように立ち塞がっていた。
「入れますかね。ここから」
「無理かな。他の場所を探そうか」
正面からの侵入は不可能だと判断し、更に外周を沿って入れそうな場所を探す。すると、駐車場の辺りで、一・五メートルほどに柵が下がっている場所を発見した。
「ここなら乗り越えられそうかな。行こうか」
「は、はい!」
二人で柵をよじ登り、敷地内に侵入する。何か、泥棒にでもなった気分だ。やろうとしていることは完全にそれに近いけど。無事に着地し、周囲を警戒する。ゾンビの姿は――ない。ここまで静かだと、逆に不気味なくらいだ。
「大丈夫?」
「え、えぇ。も、もうちょっと……」
ふと紅葉ちゃんの方を確認すると、柵を乗り越えるのに苦労していた。あまりに危なっかしいので、手を貸す。
「あ、ありがとうございます」
にっこりと、紅葉ちゃんは笑みを見せて、感謝の念を伝える。あぁ、もう、可愛いな。こんちくしょうめ。おじちゃんおばちゃんが若者をやけに可愛がる理由が分かった気がする。何というか、全ての動作が愛くるしい。お小遣いをあげたくなる。
「私が前方を見張るから、紅葉ちゃんは後方をお願い。何かあったらすぐに伝えて」
「分かりました!」
背中を紅葉ちゃんに任せて、ショッピングモ―ルへと歩みを進める。しかし、特に異変が起きることもなく、無事に建物の裏口らしき扉へと到着した。だが、そこで予想外の事態が発生した。
「……鍵、かかってる」
「え? 本当ですか?」
侵入をしようとした裏口には鍵がかけられており、開く気配がない。別の場所を探すしかないか。それから二人でしばらくの間、モールの外周の出入り口を確認したが――全ての扉は施錠されていた。
「どこも……閉まってますね」
紅葉ちゃんの表情には影が見え始めていた。当然だ。目の前には大量の物資の宝箱が見えているというのに、肝心の入口が開かないというのは何とももどかしい。仕方ない。あんまり紅葉ちゃんには見せたくなかったけど……アレをやるか。
「待ってて。開くか試してみる」
「え? どうするんですか?」
「まあ、ちょっとね」
私はポケットから針金を取り出して、鍵穴に突き刺して構造を探る。
「え、それって……」
そう、これは俗に言うところの開錠(ピッキング)というやつだ。なぜ、私がこんな芸当ができるのかというと……例の如く、父の書斎にあった本で勉強した。いや、本当になんでお父さん、こんな本、持ってたの? というか、あの本も法律的にも絶対危なくない? ま、まあその本の知識が役に立ってるから、あんまり強いこと言えないけど。
さて、無事に開けられるかな。一応、暇つぶしに練習して、家の鍵くらいは簡単に開けられるようになったけど……これはどうだろう。うーん、なるほど。これが、ここで、こうなってっと。
カチッ
「あっ、開いた」
「えっ⁉」
どうやら、そこまで複雑な構造でもなかったらしい。特に苦労することもなく、鍵開けに成功した。でも……これはあんまり紅葉ちゃんに見せたくなかったな。これじゃ、本物の泥棒と同じだ。ちらりと、後方に振り返り、彼女の顔色を確認する。
「すごいです! 赤羽さん!」
紅葉ちゃんは――目を輝かせて、私に尊敬の念でも送っているような表情でこちらを見ていた。え……普通はちょっと引くと思うんだけど……この子、もしかして、ちょっと天然なのかな。まあ、私もあんまり人のことは言えない性格してるけど。
「じゃ、じゃあ……行こうか」
「はい!」
裏口の扉を開けて「オゾン」内に侵入する。他の建築物と同じく、通路内は陽の光が届きにくいため、昼間と思えないほど薄暗い。ライトを付けて、周囲を照らす。
「あ、赤羽さん……」
紅葉ちゃんは怯えているのか、私の袖を掴む。仕方ないか。建築物ってのは人の温もりがあって初めて安心感を得られる。逆に、人気(ひとけ)がない廃墟ってのは……普段のギャップも相まって、恐ろしいほどに不気味だ。下手なお化け屋敷よりも怖い。これでは屋外のように見張りの役目は任せられないだろう。
「私から離れないでね」
「わ、分かりました」
慎重に、足音の一つも聞き逃さないように、通路を進む。そして、数十メートルほど進んだ辺りで――広い空間に出た。
「ここは……」
「モール内のメイン通路かな」
天井のガラスからは太陽光が差し込んでおり、周囲を照らしている。紅葉ちゃんも少し安心したようで、ようやく袖から手を離してくれた。
「ここも、ゾンビはいないようですね」
「うん。でも、用心は怠らないでね」
メイン通路にも、ゾンビの姿は見られない。周囲を観察していると、あるモノを発見した。
「あ、それ、ここの地図ですか?」
「そうだね。私たちのいる場所は……ここか」
通路内に設置してある案内図から、現在地を確認する。今、ここは一番北のフロア。ここから南に数々の店舗が立ち並んでいる。しかし、だいぶ数が多いな。ざっと見る限り、五十近い店がこのショッピングモール内にはあるらしい。全てを回っている時間は当然ない。
「とりあえず、優先度が高い食品関係の店だけ今回は回ろうか」
「はい。私もそれでいいと思います」
地図を見ると、近場の飲食関係の店は……あった。二階に食品売り場がある。今日はここを中心に探索しよう。
「……あ、紅葉ちゃん。ちょっと待って」
「どうかしました?」
二階に登る前に、ある店に通りかかり、足が止まる。
「はい、あげる」
そして、彼女に向かって、あるモノを投げつけた。
「これ……リュック、ですか?」
そう、私が手に取ったのはアウトドア用品店に並んでいたリュックサック。容量はかなり入りそうで、普段はキャンプや登山で使用されるものだと思われる。今、紅葉ちゃんはほぼ手ぶらの状態。装備は私が渡した包丁を腰に差しているだけだ。このままではせっかくこの「オゾン」で物資を入手しても、持ち帰る手段がない。
「それなら、手土産を持って帰れるでしょ?」
「あっ……た、確かに! ありがとうございます!」
紅葉ちゃんは嬉しそうに、身体のサイズには少し大きいリュックを背負う。あぁ、もう、本当に可愛いな。こいつめ。
*
「ここ、ですかね」
「うん、そのはず」
二階の食品売り場に辿り着いた。通路は日光が差し込んでいたけど、店内はやっぱり薄暗い。ライトを付けて、周囲を確認する。
「――ッ⁉」
「どうかした――ッ⁉」
その光景を見て、二人とも、言葉を失ってしまった。店内には……まるで、三年前にタイムスリップしたかと思える光景、陳列棚には大量の食品が残されていた。
ま、まさか――ここまで物資が残されているとは思わなかった。心のどこかで、このショッピングモールも他と同じく、もぬけの殻になっていると考えていた。そこに現れた予想外の僥倖。はは……新大陸を発見したコロンブスの気分だ。地上にこんな楽園がまだ残っていたなんて……小躍りでもしたい気分だ。
「や、やりましたね! 赤羽さん!」
「うん……さっそく漁ろうか」
「はい!」
この場所にもまだゾンビが潜んでいるかもしれない。そんなことすらも忘れて、私たちは百パーセントオフセールの買い物を始めた。
*
「うーん……やっぱり、お菓子とかは賞味期限がとっくに切れてますよね。食べられるのかな、これ」
紅葉ちゃんはスナック菓子の裏面を眺めながら、物欲しそうな目で眺めていた。
「未開封なら、多分食べられるとは思うけど、味に関してはだいぶ落ちていると思うよ」
お菓子なら、多分そこまで影響がないはず。私も災害前にうっかり二年も期限が切れているお菓子を食べちゃったけど、ちょっと湿気ているくらいで特に味は変わらなかった。でも……今ではどうしても、この手の期限には気にするようになってしまった。というのも、一度、それで文字通り痛い目に遭ってしまったのだ。
あれは二年くらい前だったかな。地下を整理していると期限切れのカレーの缶詰を見つけて、それを食べたことがあった。まあ、缶詰なら特に問題ないと思ったんだけど……大失敗。それから数日、めちゃくちゃお腹を壊した。あれは本当に地獄だった。私が神の存在を信じるのは腹痛の時だけ。必死に神に縋りながら。涙目でお腹を摩ってずっと横になってた。それ以来、もう期限が切れている食品は口にしなと決めたわけだ。今でもあの時の出来事を思い出すと、ちょっとお腹が痛くなる。
「……うん。やっぱ、やめておいた方がいいよ。持って行くなら、缶詰とかにしといた方がいい」
「やっぱりそうですよねぇ。もったいないなぁ」
お菓子のコーナーを通り過ぎて、缶詰の棚を二人で眺める。
「……っ」
そこには大量のカレーの缶詰が並んでいた。お、おぉ……本当に、宝の山だ。あぁ、もっと早く、ここに来ればよかったな。今の私だと、残されている食事の回数は三回。大食いの胃袋がこの世界でうらやましく思う日が来るとは思わなかった。でも、私の本命は缶詰じゃない。もっと重要なものが……ここには必ずあるはず。
「紅葉ちゃん。私、ちょっと店内を一周してくるから、何かあったら大声で叫んで」
「分かりました。赤羽さんも気を付けてくださいね」
持ち帰る缶詰を吟味している紅葉ちゃんを置いて、その場を離れる。念のため、ゾンビがこの店内にいないか確認する必要があった。店内をぐるりと一周し、他の人影がないか確認する。
「よし、大丈夫」
この店には私と紅葉ちゃんしかいない。これで、安心して物色することができる。一直線に、調味料の棚へと向かう。そして、ある商品の前を通りかかった時――私の思考は一瞬停止した。
「あ……あった」
そこには確かに、こう書かれていた。
『万能カレースパイス粉』
あぁ、やっと……やっと、手に入れることができた。夢にまで見たカレー粉。しかも、この商品は私が日頃から愛用していたブランドの一つ。これで、限りなく理想通りの味に近付く。
「お、おいおい……マジか」
カレー粉を手に取り、道なりに他の商品を眺めていると、とんでもない発見をしてしまった。なんと、この店はスパイスコーナーも用意されているではないか。クミン、コリアンダー、ガラムマサラ、レッドペッパー、ターメリック、シナモン、ナツメグ……ガーリックスパイスまで⁉ や、やばい。これはやばい。さすがの私も、平静でいられない。興奮が抑えられない。一旦、落ち着くためにも、リストを取り出して、手に入った材料にチェックを入れる。
・カレー粉 ✓
・トウガラシ ✓
・クミン ✓
・ガラムマサラ ✓
・コリアンダー ✓
・レッドペッパー ✓
・ターメリック ✓
・片栗粉 ✓
・ニンニク ✓
・トマト ✓
・タマネギ
・ニンジン
・ジャガイモ
野菜以外のリストが一気に埋まってしまった。いやいやいや、最強か? もうこんなのほぼカレーじゃん。やっぱりショッピングモールって最高だ。ゾンビ映画でみんな揃って行く理由が分かった気がする。さて、あとはタマネギ、ニンジン、ジャガイモだけど、実はもうさっき缶詰コーナーをざっと見て、目星は付けてある。この三つの食材が採用されていて、保存食になっている可能性が高い料理。それは――
「あ、赤羽さん。どうでしたか?」
「うん。ここは安全みたい」
再び、紅葉ちゃんがいる缶詰の棚に戻ってくる。そして、端から端を、慎重に指でなぞりながら、一段ずつ見落とさないように商品名をチェックしていく。
「……あった」
そして、ある缶詰の前で足が止まった。
『非常食 肉じゃが』
「……最高」
「ん? 何か言いました?」
「いや、何でもないよ」
まったく、日本の加工食品業界には頭が上がらない。特に、保存技術はインスタントラーメンからレトルトカレーに至るまで、常に日本は最前線を走ってきた。缶詰も、国民食と呼ばれるものは大半が長期保存の加工に成功している。カレーと材料に共通点が多い肉じゃがも……例外じゃない。
これで、任務完了(ミッションコンプリート)。あとは家に帰還して、カレーを作るだけ――いや、まだ最後の仕事が残っていた。
「あ、それ肉じゃがの缶詰ですか? へぇ~おいしそう」
あとは紅葉ちゃんを町野宮駅に送り届けるだけ。これが終わったら、ついに私の最後の晩餐だ。
*
その後、昼食を店内で済ませ、出発の準備をする。時刻は午後二時。この調子なら、陽が沈む前には町野宮に到着する。
「……紅葉ちゃん。さすがにちょっとそれ多くない?」
「あ、あはは……やっぱり、そうですかね」
彼女が背負っているリュックは缶詰がギチギチに詰められており、今にも溢れようとしていた。というか、絶対持ち帰れない量だ。
「んんっ! お、重い」
「はぁ……ほら、もっと減らさないと」
紅葉ちゃんの身長と筋肉量を考えると、精々持ち運べるのは三キロから四キロだろう。それぐらいの量になるように、缶詰を外に放り出す。
「よし、これくらいかな。大丈夫?」
「はい! オッケーです!」
ある程度、紅葉ちゃんの荷を解き、出発する。今のところはまさに理想的の展開。これで終わってくれるなら、何も問題はない。でも……私の中で、ある疑念が頭を過っていた。
「…………」
「どうかしたんですか?」
「いや……別に、気にするほどのことでもないと思うんだけどね。ほら、あの店の棚、ちょっと変じゃなかった?」
「……?」
やっぱり、紅葉ちゃんは特に不審には思わなかったらしい。私が心配性なだけ、だと思いたい。
「あそこの店、一部の商品だけがちょっと数が少なかったんだよね」
そう、あの店の陳列には違和感があった。一見すると、均等に商品が並べられているように見えたけど、よく見ると偏りがあった。なぜか、焼き鳥や牛丼といった肉の缶詰が異常に減っていたのだ。まるで、誰かがそこだけを抜き取っているかのように。
「あー……確かに、お肉の数だけなんか減ってましたね。でも、それが何か?」
「……いや、別に何かあるってわけじゃないんだけど」
やっぱり、気にし過ぎだ。もう忘れよう。縁起でもないし。そうこうしているうちに、メイン通路の一階へと到着していた。あとは……またあの裏口から外に出るだけ。
その時――ふと、物陰に、何か妙なものが見えた。反射的に、クロスボウを構える。しかし、その影は私が照準を合わせるより先に――紅葉ちゃんに襲い掛かった。
「え――っ⁉」
「なッ――‼」
一瞬の出来事だった。私の中で最悪の予知が思い浮かぶ。喉笛を噛み千切られ、生気が抜ける目でこちらを見つめる紅葉ちゃんの姿が――っ。
「おいお前! 動くなよ!」
――ゾンビじゃない。こちらに向けて、その人物は警告を発した。
「その武器を捨てろや! こいつ刺すぞぉ!」
人間だ。野太い声、薄い頭髪、無精髭、そして手元に握られたナイフは紅葉ちゃんの首元に当てられている。その男は血走った目でこちらに向かって叫んでいた。
「あ、赤羽さん……」
何が起きているのか分からず、紅葉ちゃんは今にも潰れそうな声を発する。もっとも、状況を呑み込めていないのは私も同じだ。突然現れた謎の男。握られたナイフ。人質にされた紅葉ちゃん。察するに、この男は……ショッピングモール内を根城にしている生存者、ということになる。
「……落ち着いて。私はあなたに危害を加えない」
「いいから置いて両手上げろやぁ! こいつが殺されてもいいんかぁ!」
対話を試みるが、効果はないようだ。明らかに冷静な人間とは思えない。どうする、ここでクロスボウを手放すべきか。いや、応戦するなら、それは避けたい。でも……向こうには紅葉ちゃんがいる。恐らく、私が戦闘の意思を見せるなら、この男は容赦なく彼女を刺すだろう。接近戦ではナイフの方が速い――ってことか。
「……分かった。これでいい?」
おとなしく、私は彼の言葉に従い、クロスボウを足元に置いて両手を上げる。
「へへ、それでいいんだよ……」
男は紅葉ちゃんを捕らえたまま、クロスボウを拾い上げる。あぁ、最悪。これで、反撃する手段が消えた。
「おう、てめえら……どっから来たんだよ。他の生き残りなんて、もう何年も見てなかったのによ」
クロスボウをこちらに向けて、男は質問してきた。
「……とにかく、落ち着いてほしい。私たちはただ、物資を求めてここに来ただけ。ここがあなたの陣地(エリア)だったなら、取ったものは返すし、何ならお詫びにこっちの物資をあげるから、その子を離してあげて」
できるだけ相手を刺激しないように、丁寧な物言いで交渉する。紅葉ちゃんは……涙をこらえながら、こちらに助けを求めている。クソ、何とかしないと。考えろ、考えろ。
「あん? 答えになってねえだろうが‼ どっから来たのかって聞いてんだよ‼」
男は激昂しながら、地団駄を踏む。まずい、このままだと矢が飛んでかねない。
「……町野宮。町野宮の地下鉄に、生存者のコミュニティがある。私たちはそこから来た」
厳密には私は違うけど、そんな事情を話す時間もないだろう。
「地下鉄だと……? そんなところに集まってたのか。ったく、俺以外は全員死んだと思ったのによ」
どうやら、この男も私と同じで、1人でこのショッピングモールを占拠して、何年も生き延びていたらしい。どこか親近感を感じ――るわけもない。こんなやつと、一緒にされてたまるか。
「ほら、こっちの食糧は全部あげる。だから、その子を離して」
背負っているリュックを降ろして、彼に差し出す。
「はぁ? 何言ってんだてめえ。食いもんなんてな。こっちはまだ腐るほどあんだよ」
「……じゃあ、何が望み?」
「望み? そんなの……決まってんだろ」
男の下衆な視線が、舐め回すように全身を這う感覚がした。あぁ、本当に――最悪。これでやっと分かった。この男は正真正銘、ゴミクズクソゲロ野郎だ。これから何を要求してくるかなんて、容易に想像できる。ゾンビとは別の意味で腐ったやつ。ある意味、ゾンビの方がマシだ。
どうする。まだ私はいい。だって、感染している私はこいつを最悪道連れにすることができる。でも、紅葉ちゃんは違う。この子だけは絶対に助けないと。どうすればいい。
こちらから仕掛けるのは絶対に無理だ。少しでも不審な動きを見せれば、紅葉ちゃんに危害が及ぶ。どうにかして、あいつの死角から不意の一撃を喰らわして、紅葉ちゃんを解放する必要がある。そうなれば、いくらでも手はある。でも、どうやって――っ。
その時、紅葉ちゃんの腰元に――包丁の柄が差さっているのが見えた。そうだ。あれは護身用に持たせておいた武器。ちょうど、鞘の部分が腰元で隠れているから、あの男も気付いていない。残された手はこれしかない。
私は紅葉ちゃんに向けて、アイコンタクトでサインを送る。小刻みに首を下に振り、彼女に包丁の存在を思い出させる。お願い。気付いて――っ。
「……てめえ、何してんだ?」
「……首が、痒くて」
自分でもだいぶ無理がある言い訳だと思う。でも、これぐらいしないと、紅葉ちゃんには伝えられない。彼女に目を合わせて、促すように視線を下げる。
「……っ」
私の動作に釣られるように、紅葉ちゃんは自分の腰元に視線を見た。そして――気付いた。そこに、武器があることに。
「…………」
「…………」
言葉はないが、互いに瞳で意思疎通ができたという手応えを感じた。今、私にできることは全部やった。あとは……彼女に任せるだけだ。こっそりと、自然な動作で、紅葉ちゃんは自分の腰元に腕を動かす。そして――
グサッ
「っ痛(いって)ぇ⁉」
紅葉ちゃんは――男の太腿付近に、包丁を突き刺した。本当によくやってくれた。あとは……私の仕事だ。
「こ、このっ……!」
男は目の前の紅葉ちゃんに向かって、ナイフを振る。しかし、足を怪我しているため、踏み込みが足りず、その刃は届くことはない。そうだよね。緊急時には……使い慣れた武器に必ず頼るよね。自分の手に、遠距離用の武器が握られていることは忘れて。
「――ッ!」
私は全力で男の背に向けて、タックルをお見舞いする。今、あいつの意識は完全に自分に危害を加えた紅葉ちゃんに向けられている。加えて、左脚は負傷していて、バランスが不安定。つまり、女の私の突撃でも、充分に通用する威力になる。
ドンッ
「うぐっ⁉」
突然、背後からの衝撃。あの足の傷だと、僅かな衝撃でも耐えることはできない。たちまち、男は転倒した。その手に持った、クロスボウと一緒に。
カランッ
「なっ……」
その衝撃音で、男は自分がクロスボウを手放したことを悟る。でも、もう手遅れ。無傷の私の方が、拾うのは速い。
「……っ!」
男が接近するよりも素早く、クロスボウを回収し、照準を合わせる。これで、形勢逆転。あとは――引き金を引くだけでいい。私は男の額に狙いをつけ、引き金を引いた。
シュンッ
グサッ
「がぁっ⁉」
矢は――男の左膝の皿を貫いた。
「あがっ……痛(いて)ぇぇぇ‼」
男の左脚は既にその役目を果たすことができないほどの深手。駄々をこねる子どものように、その場を転げ回っていた。
「あ、赤羽さん!」
「紅葉ちゃん、ありがとう。本当に、よく気付いたね」
「い、いえ。私、包丁のことなんてすっかり忘れてて……全部、赤羽さんのおかげです」
本当に、よくやってくれた。きっと、失敗したら……突き刺されているのは自分だと覚悟していたはず。私が思っていたよりも、紅葉ちゃんは強い子だった。
「あの……赤羽さん。どうするんですか。あの人」
「ク、クソオオオオオオオオオ‼ 許さねえぞてめえらあああああああああああ‼」
「…………」
まだ男は床を芋虫のように這っている。その瞳には確実に殺意が込められており、近付こうものなら、容赦なく嚙みついてでも反撃してくるだろう。
「行こうか。もう、ここには用はない」
「……そう、ですね」
多分、トドメを刺すまでもなく、この男はもう助からない。太腿ってのは人間の部位の中でも特に血管が集約している場所だ。あの傷を放っておいたら、どんどん血が流れて、失血死は逃れられない。しかし、その事実を紅葉ちゃんは知らなくていい。
あの瞬間――私は確かに、こいつの額を狙って、矢を撃った。でも、実際に命中したのは膝。そう、私は反射的に、この男を直接手にかけることを躊躇してしまった。今までゾンビの頭を何十体も撃ち抜いてきたのに……なぜだろう。
あぁ――そうか。そういうことか。どうやら……ゾンビは殺せても、私はまだ、殺人には抵抗があったらしい。よかった。最後にそのことに気付けて。
「待てゴラアアアアアアアア‼ 逃げんなああああああああああああ‼」
モール内には男の怒号が響き渡る。その声を無視して、私たちは「オゾン」を後にした。
*
その後、私たちは順調に町野宮駅に向かって歩を進めていた。現在時刻は午後五時過ぎ。陽も傾き始めている。いつの間にか、私に残された猶予時間も二四時間を切っている。このまま町野宮駅で一晩を越して、夜明けと同時に出発すれば……何とか、間に合うかな。本当に、ギリギリだと思うけど。
「紅葉ちゃん。あと駅までどれぐらい?」
「この道は見覚えがあるので、もうすぐだと思います。あと数百メートルぐらいです」
ふう。やっと、ここまで来た。おっと、最後まで気を緩められないな。私にはまだ本命の使命が残ってる。理想のカレーを食べるまでは死んでも死にきれない。この町野宮駅周辺も、ゾンビの数はそれなりに多い。どこに尖兵が潜んでいるか、分かったもんじゃない。
「あっ! あ、あそこです! あれが入口です!」
紅葉ちゃんは前方百メートルほど先にある場所を指差す。あれは……地下鉄の出入口に続く階段、だろうか。シャッターが閉め切られていて、外部と完全に遮断されている。
「どうやって入るの?」
「各出口の近くには絶対に一人は見張りの人がいるんです。その人に向けて合図を出せば、中に入れてくれると思います」
なるほど。セキュリティは完璧ってわけか。伊達にこの三年間を生き延びている集団じゃない。シャッター前に到着すると、紅葉ちゃんはコンコンと、何回か不規則なリズムでシャッターを叩く。恐らく、これがゾンビと人間を見分ける合図なのだろう。
『誰だ?』
「私です。斎藤紅葉です」
『紅葉ちゃん⁉ ちょ、ちょっと待っててくれ』
シャッターからは聴こえた声は明らかに動揺しているようだった。そりゃそうか。向こうから見たら、一晩経っても帰ってこない遠征隊なんて、何らかの事故か襲撃に遭って全滅したとしか思えないはず。それが生還して帰ってきたんだから、幽霊と対面してる気分になるよね。
シャッターが半分ほど開く。紅葉ちゃんは中腰になって構内に足を踏み入れる。その動作を真似て、私もお邪魔する。
「うおっ⁉ そっちのは誰だ⁉」
私の顔を見た見張りの男は一瞬ゾンビかと警戒して、さすまたのようなものを構えていた。なるべくこちらも無害なことをアピールするように、両手を上げる。
「あ、その人は大丈夫です。実は話すと長くなるんですけど……」
そして、紅葉ちゃんはこれまでの経緯を彼に話した。遠征中に、ゾンビの襲撃に遭い、自分だけが生き残ったこと。そこで、私と出会い、共に町野宮に帰還したこと。道中のショッピングモール内での出来事は……彼女もあまり思い出したくないのか、省いていた。
「そうか……大変だったな。みんな本当に心配してたんだ。紅葉ちゃんだけでも、帰ってきてよかった。そこの……赤羽、っていったか」
「はい」
「よく紅葉ちゃんを助けてくれた。あんたは恩人だ。本当にありがとう」
「……どうも」
見張りの男は深々と頭を下げて、感謝の念を伝えた。この男の態度だけで、紅葉ちゃんがどれだけ慕われているのか、分かった気がする。まあ、めったにいるもんじゃないか。こんな顔も性格もいい子。おまけに元芸能人。アイドル的な扱いを受けていても不思議じゃない。
「さっそく、みんなにも知らせてやらねえとな。ついてきてくれ」
そう言うと、男は階段を降りて、地下へと進む。続いて紅葉ちゃんが。私は二人の後を追うように、その背中を追った。
*
「紅葉ちゃん⁉ 無事でよかった!」
「おい、紅葉ちゃんが生きてたぞ!」
駅構内に入ると、続々と大勢の人々が紅葉ちゃんを出迎えた。最初は彼女以外の遠征組の生存者の全滅の報せを聞くと、皆、悲しみの表情を見せていたが、一人でも生き残りがいたということを喜ぶべきだという流れに変わった。多分、彼らもまた……身近な死が多すぎて、慣れてしまったのだろう。しかし、本当にこれだけの人間がまだ生きていたとは驚きだ。中には赤ん坊を背負っている女性の姿も見かけた。まだ、人類は生命のバトンを繋ぐことができている。その事実は――どこか、感動の念を覚える。
「あの人が紅葉ちゃんを助けてくれたらしいぞ」
「ありがとう! 本当に、ありがとう!」
「ど、どうも」
話が広がり始めると、私の方にも人が集まってきた。困った。どう反応すればいいのか分からない。そして同時に、人々の視線が、突き刺すように痛くも感じる。この場で、私が感染者だということを知っているのは――誰もいない。そのことを伝えたら、私は英雄から一転、死体もどきとして即追い出されるか、最悪この場で叩き殺されるだろう。それが、とてつもなく恐ろしい。
その時、非常に体格のいい男が人混みをかき分けるように、私たちの前に現れた。うわ、でっか。身長は一九〇……いや、二メートルはある。しかも、肩幅と胸筋も半端じゃない。前職は消防士か、ラグビー選手かと疑うほどの巨体だ。何らかの体育会系だということは間違いない。
「あぁ、よかった……本当に、紅葉なんだな」
「く、熊野さん」
「よかった……本当に、よかった……」
そう言うと、熊野と呼ばれた人物は紅葉ちゃんに熱い抱擁をする。一瞬、二人の関係性を疑ってしまったが――すぐに、余計なお世話だったということを察した。熊野という人の顔は完全に、娘の無事に安堵する父親の顔だった。
「赤羽さん、紹介します。この人は熊野さん。町野宮駅の代表を務めている人です」
「君が、紅葉を助けてくれた人か。ありがとう。感謝しても、しきれない」
「……どうも」
代表(リーダー)、か。納得。明らかに、他の人とは雰囲気が違う。まさしく、人を束ねるに相応しい器の人物だろう。初対面の私ですら、こう感じるほどだ。きっと、彼を中心に、このコミュニティが形成されたに違いない。
「少し、慌ただしくなってきたな。紅葉はみんなに無事を報告してきなさい。俺は少し、赤羽さんと話をする」
え、知らない人と二人きり……気まずい。と言いたいけど、まあそんなこと言っていられる状況でもないか。それに、年齢はだいぶ年上に見えるし、これならまだ話しやすい。
そんな流れで、私は熊野さんの部屋に案内され、用意されたソファに腰を下ろす。すごいな。元地下鉄だってのに、ちゃんと家具が用意されてる。一体、どうやって運んだんだろう。 そういえば、駅に入ってからずっと気になってたけど、電気は既に止まっているはずなのに、この駅は照明が生きている。自家発電の設備もあるってことか。
「既に冷めてしまっているが、どうぞ」
「あ、どうも」
やかんに注がれたお茶を差し出される。一瞬、飲もうか迷ったけど……既に私は感染者だ。万が一ということもある。ここは遠慮しておこう。というか、ここに来て、私って「どうも」しか言ってないな。どんだけ口下手なんだ。
「事情は一応、他の者から聞いている。今回は本当に……紅葉を助けてもらって、ありがとう。感謝しても、しきれない」
「い、いえ……そんな。私はただ、当然のことをしただけです」
「正直……昨日、遠征班が帰ってこなかった時点で、覚悟は皆していたんだ。でも、紅葉だけでも帰ってきてくれた……これは奇跡としか言いようがない。本当に、ありがとう」
熊野さんは深々と頭を下げる。誠実な人だな。紅葉ちゃんにあれだけ慕われているのも分かる。
「ところで、赤羽さん。君は一体、どこからやってきたんだ? 他にも生き残りが集まっているコミュニティがあるなら、ぜひ情報共有したいんだが」
「えっと……私は……」
ここで、私は熊野さんに、自分の素性を明かす。この町野宮駅から数キロ離れた地区の自宅で籠城していたこと。そこで偶然、紅葉ちゃんが襲われているところに通りかかって、助けたこと。無論、既に自分が感染者だということは伏せて。
「だから、私がいた地区に他に生存者が残っていたかどうかは分からないです。お役に立てずにすみません」
「……そうか。だが、まだゾンビがそんな何体も徘徊しているとなると……生き残りは絶望的だろうな」
私も、彼と同意見だ。何となくだけど……私がいた地区には町野宮のようなコミュニティはもう存在しない気がする。
「あ、あとこの駅に来る途中に、紅葉ちゃんと『オゾン』の方に寄ってみたんですけど、そこにも一応生存者はいました」
「……なに? オゾンにも? それは本当か?」
「えぇ。でも……私たちを襲ってきたので、このクロスボウで足を撃って逃げてきました。多分、もう今頃は……」
「……そうか。気に病む必要はない。どこでも起こり得る事態だ。俺もこの三年間で、何人もそういう輩を殺めたことがある」
予想はしてたけど、そこまで珍しいことじゃないのか。生存者同士でも争うことって。まあ、そうだよね。現代人が犯罪を起こさない理由なんてのは結局、警察っていう圧倒的な法の暴力によって支配されているからで、それが機能しなくなれば、あとは個人の善性に頼るしかない。殺すのも、奪うのも、好きに生きるやつが出てきても、何も不思議じゃない。でも、そこまで腐ってしまったら……ゾンビと何も変わらないと、私は思う。
「赤羽さん。君はこれからどうするつもりだ? 町野宮のコミュニティは君を歓迎する。ここで一緒に暮らしてもらっても、何も問題はないんだが」
「…………」
やっぱり、こうなる、か。どうしよう。この流れで断るのはあまりにも不自然だ。よっぽどの理由じゃないと、納得してもらえないはず。いや――もういっそのこと、告白してしまった方がいいかもしれない。これが一番、説明するなら手っ取り早い。
「ごめんなさい。私、嘘をついていました」
「嘘?」
「はい。これは紅葉ちゃんにも言っていません。あの子には……私がここを去るまで、黙っていてください」
私は靴と靴下を脱ぎ、足の甲を熊野さんに向けて見せる。そこには――確かに、噛まれた跡が残されていた。言葉はいらない。これだけで、全ての事情が伝わるはず。
「……っ」
一瞬、熊野さんの私を見る目が変わった。分かってはいた。こうなることは……でも、紅葉ちゃんだけにはこんな目で私を見てほしくない。
「安心してください。噛まれたのは二日前の午後三時。まだ、猶予はあります」
「……そう、か。君も……本当に、残念だ」
熊野さんの目は元に戻っていた。本当に、いい人だ。心の底から、初対面の私に同情してくれている。
「よく……よく言ってくれた。俺に手伝えることはあるか? できる限り、協力したい」
「そうですね。じゃあ、一晩だけ、ここで休ませてください。明日は日の出と共に出発して、最後は自宅で過ごそうと思っています」
「分かった。他の者と接触させるわけにはいかないが、個室を用意しよう」
よかった。追い出されずに済んで。さすがに、私も夜の闇の中でゾンビを躱しながら、帰宅する自信はない。こうして、私は用意された駅の部屋で、一晩を過ごした。紅葉ちゃんには……私は疲労で、既に眠ってしまったと伝えてもらった。これが彼女と顔を合わせる最後の機会だったけど、多分、私の方が耐えられなかったと思う。これでいい。もう、あの子が泣く顔は見たくないから。
*
翌朝、私は熊野さんに連れられて、昨日訪れた西出口へと向かっていた。昨晩は本当によく眠れた。同じ屋根の下、というか地下だけど、他人がいる空間というのは本当に安心して床に就ける。
「自宅まではどのくらいあるんだ?」
「大体、七、八キロってところですかね。急げばギリギリ間に合う距離です」
そう。唯一の懸念事項は――制限時間(タイムリミット)に間に合うか、ということだ。現在時刻は午前六時。発症まで残された時間は九時間。カレーを調理する時間もあるから、できるなら二、三時間前には到着したい。そうなると、かなりのペースで歩く必要がある。最悪、道半ばで調理することも考慮した方がいいだろう。
「……かなりの距離だな」
「えぇ。でも、できる限りは頑張ります」
「……そうだ。ちょっと待っててくれ」
そう言うと、階段の手前まで来た辺りで、熊野さんはどこかに行ってしまった。五分程度、私はその場で待ち惚けていた。いや……時間、ないんだけどな。
「すまない。待たせてしまって」
そう言うと、熊野さんは両手に何かを抱えて登場した。一瞬、それが何なのか、頭に疑問符を浮かべてしまったが――すぐに正体に気付いた。
「それ……もしかして……〝自転車〟ですか?」
「あぁ。使えるかと思って持ってきたんだが……必要か?」
自転車――そうか。自転車か。徒歩以外の交通手段は考えていなかった。正直、間に合うか不安だったけど、これなら何とかなるかもしれない。
「……最高ですよ」
シャッターの外に出ると、ちょうど顔を出したばかりの太陽が輝いていた。朝日って、こんなに綺麗だっけ。あぁ、死ぬにはいい日、ってやつかな。
「本当に、ありがとうございます。これなら、時間までには間に合いそうです」
熊野さんから譲ってもらった自転車の存在は大きい。これなら、ゾンビに怯えることなく、駆け抜けることができる。走行者ですら、追いつけない速度のはずだ。
「紅葉のことを思えば、このぐらいお安い御用だ。本当に、最後にあの子に会わなくていいのか?」
「えぇ。私が行ったら、熊野さんから伝えてください」
「……そうか。最後に、紅葉に何か伝言はあるか?」
「……伝言、ですか」
言いたいことは山ほどある。もっと、紅葉ちゃんと色々話したかった。でも、これでいい。きっと、交流を深めれば深めるほど、別れが辛くなる。私が最後にあの子に残してあげられるものは何だろうか。少し、一考する。
「……じゃあ、これを」
私は手に持っていたクロスボウと腰にある矢筒を取り外し、熊野さんに差し出す。
「これを紅葉ちゃんにあげてください。もう、私には不要のものなので」
「……いいのか?」
「えぇ。自転車に乗ったら使えませんし、リュックに入れることもできないので。それに、私よりもあの子が持っていた方が……父も、喜びます」
ふと、父のことを思い出してしまった。元々、これは父が管理していた倉庫から拝借したもので、所有者は私じゃない。きっと、お父さんなら――「人助けのために使え」と言うだろう。なら、これが最良の判断だ。
「……分かった。本当に、ありがとう。赤羽さん。俺たちは君のことを忘れない」
「大げさですよ。私のことなんて、すぐに忘れてもらっていいです。じゃあ、これで……さようなら」
「あぁ、無事に家に戻れることを祈っている」
熊野さんに別れを告げて、町野宮駅を後にする。まだ、全部終わったわけじゃない。私には最後の仕事が残っている。それを果たすまでは――死ねない。カレー・オブ・ザ・デッドはこれからだ。
*
「着いた……」
午前一一時。二日ぶりに、自宅に戻ってきた。町野宮駅を発ってから五時間。多分、徒歩では間に合わなかった。本当に、熊野さんには感謝しないと。自転車から降りて、家のドアを開ける。
「……ただいま」
誰に向けているのか分からない挨拶を告げ、自宅に足を踏み入れる。さて、ゆっくりと横になりたいけど、そうも言っていられない。もうすぐお昼だ。これが、人生最後の料理。私にとっての「ラスト・ミール」になる。
「……よし。作るか」
リュックから、この三日でかき集めた材料を取り出し、私はキッチンへと向かった。
七輪に火を点ける。フライパンにツナ缶から取り出して油を引いて、これで準備完了。まずは肉じゃがの缶詰から、ニンジンとタマネギを取り出して、ニンニクと一緒に炒める。とは言っても、既に火は通っているから、本当にさっと火を通すだけでいい。ジャガイモはあんまり早くから入れると煮崩れしちゃうから、後回し。
次に、トマトに火を通す。トマト缶から取り出したカットトマトを半分くらい投入。あんまり多すぎると酸味の主張が激しくなるから気を付ける。大体、二分から三分程度煮ればいい。同時に缶詰から取り出した牛肉も一緒に入れる。
ここでようやく、各種スパイスの出番だ。カレー粉、トウガラシ、クミン、ガラムマサラ、コリアンダー、レッドペッパー、ターメリックを投入。香り立たせるように、さっと全体と混ぜ合わせる。
そして、水を二五〇ml加える。あとは仕上げまで煮るだけ。本当は具に火が通るまで念入りに煮た方がいいけど、今回は加工済みの缶詰を使ってるし、あんまり時間はかけない方がいいかな。大体、五分くらいでいい。
「これは……」
五分後、フライパンの様子を見ると、そこには――完全にカレーらしきものが出来上がっていた。いいぞ。あと一息だ。ここでジャガイモと、リストには書いていなかった中濃ソースを投入。そして、塩を加えて、味を調える。どれ、味見。
「……っ」
あぁ、涙が出てくる。完全に夢にまで見たカレーだ。でも、何か足りない。これは……辛味? 実を言うと、ちょっとトウガラシとレッドペッパーの量を控えていた。あんまり辛くすると、カレー本来の味を損ねると思って。でも、やっぱりこの程度の辛さじゃ物足りない。もう少し、トウガラシを加えよう。
一振り、更に一振り。よし、これでいい。これで――もう一振り行っちゃえ!
「うわぁ。やっちゃったよ」
思わず、自分でも呟いてしまった。トウガラシを三振り、三振りかぁ。結構行っちゃったなぁ。辛いぞぉこれは。
もう味見は不要だ。どれだけ辛いか、食べてからのお楽しみ。最後に水溶き片栗粉を振り撒いて、とろみを付ける。湯煎しておいたご飯の缶詰を取り出し、白米を皿に盛る。そして、ルーを注いで――完成。
「……んっ」
目の前の光景に、息を呑んでしまう。これが、三日間死ぬ思いをして材料を集めて作った、最後の晩餐カレー。食べるのすら惜しい。このまま芸術作品として、眺めていたい。でも……私の胃袋は耐えられそうにない。
「……いただきます」
その一声と同時に、スプーンで掬ったカレーを口に運ぶ。
「…………」
言葉はいらない。これが、私の求めていた――最高のカレーだ。本当に、ここまで生きてよかった。間違いなく、今日この日が、私にとって人生最良の日だ。胸を張って言える。
死ぬにはいい日だ、と。
*
「……懐かしいな。これ」
カレーを食べ終え、現在時刻は午後二時を回っている。残された寿命は一時間。その最後の時を私はアルバムを見て過ごしていた。人生を振り返るという意味ではこれ以上の道具は存在しない。亡き母が写っている写真を見ると、どうしても耐えられなくなってしまって、これまでアルバムをあまり開けなかった。でも、ようやく……見ることができた。
一通り感傷に浸り、時計を見る。もう、二時五十分。あっという間だな。あと十分ちょっとで、私の人生は終わる。最後に思い出すのは……この三日間の出来事だ。川でゾンビに噛まれ、カレーを食べて死ぬと決心してから、本当に色々なことがあった。そして、気付いたことがある。
私は……そこまでカレーを食べたかったわけじゃない。ただ、死に場所を求めていただけだ。
昔、「ラッキー」という猫を飼っていた。私が小学校の帰りに拾ってきた捨て猫で、父に無理を言って飼ってもらった。でも、ラッキーは生まれつき腎臓が悪くて、私が高校生の頃に腎臓病で死んでしまった。いや、正確に言うと、死んでしまったと思う。私はあの子の死に際には立ち会っていない。ラッキーは死ぬ直前に、家から脱走して逃げてしまった。
ずっと、不思議だった。なぜ、ラッキーは看取らせてくれなかったのか。そこまでして、外に出たかったのかと。今なら分かる。どうせ死ぬなら、悔いは残したくない。自由にやりたいことをやって、死にたい。ラッキーにとって、残った悔いがそれだったのだろう。あの子は最後に、自由を手に入れて、この世から去った。それは……とても幸福だったと思う。
私がカレーを食べようと思った理由もこれに近い心情だったと思う。正直、カレーの出来に関してはどうでもよかった。ただ、最後に何か……目的がほしかった。この文字通りに腐った世界でも、何かをやり遂げたって達成感がほしかった。紅葉ちゃんを助けたのもそうだ。私が彼女を助けた理由はただ正義感に駆られたわけじゃない。無論、それもあったと思うけど、本質的には違う。
私はずっと、後悔していた。父が市民のために残した食糧をただ貪り、生きている日々を。
最後に、私も誰かの助けになりたいと思った。その時に現れたのが紅葉ちゃんだった。私は――彼女を利用した。彼女を救えば、自分の罪が少しでも清算されると思った。
「はは……そりゃ、合わせる顔もないか」
今頃、紅葉ちゃんは何をしているだろうか。熊野さんから全てを聴いて、泣いているのかな。最後に託したあのクロスボウが、少しでも彼女の助けになることを祈る。
父の貯蓄によって、私は命を救われた。そして、私は紅葉ちゃんを町野宮駅に送り届けた。多分、こうやって人類は……命のバトンを繋げて来たんだと思う。親から子へ。人から人へ。その輪に少しでも貢献できたと思うと、案外、私の命も無駄じゃなかったと思う。これで、心残りはなくなった。
「……時間か」
時刻を確認すると、午後三時一二分。ついに来てしまった。私は戸棚に向かい〝お守り〟を手に取る。それは一年前、偶然出会った警官のゾンビから拝借したものだった。
正式名称は「ニューナンブM60」――日本警察で正式採用されている拳銃の一種だ。装弾数は五発のリボルバー型。一九六〇年から正式に運用されてから三十年間、日本の主力拳銃として活躍して、生産終了後の現在も使用されている……らしい。最初にこの銃を手に入れた時は興奮した。クロスボウだけじゃなくて、拳銃まで手に入ったら鬼に金棒。大抵の状況は何とかなる。でも、一つだけ、問題があった。
この拳銃に残された弾丸は一発のみだった。つまり、使い切りってこと。一発撃ったら、あとはただの鑑賞用の置物にしかならない。はっきり言って、一発しか撃てない銃なんてものは何の役にも立たない。殺せる数は一体だけなのに、馬鹿でかい発砲音を鳴らして、更にゾンビを引き寄せる可能性がある。唯一、使い道があるとしたら自決用のお守りだろう。ゾンビになって死ぬよりは頭を撃ち抜いて死ぬ方がマシ。まさか、本当にそうする日が来るとは思わなかったけど。
拳銃を手に取る。以前、持った時よりも……重く、冷たく感じる。手が震え始めた。大丈夫、怖くない。怖くない。私はこれまで出会ったゾンビの姿を思い出す。ここでやらないと……私も、あいつらのようになる。それだけは死んでも嫌。これしか、選択肢はない。何度も自分に言い聞かせているうちに、震えは自然と止まった。
この銃には安全装置が付けられていない。あとは引き金を引くだけでいい。目を瞑り、最後に深呼吸をして、心を無にする。
………………あぁ、死にたく、ないな。
最後に、ずっと押し殺していた感情だけが残ってしまった。死にたくない。死にたくない。死にたくない。でも、ここまで来たら、引き返せない。
ふと、また紅葉ちゃんの顔を思い出してしまった。もしも、このまま引き金を引かなかったら、私は……歩く死体になって、彼女と再会するかもしれない。それだけは絶対に嫌だ。ここで――ケリをつけるんだ。そして、私は引き金を引いた。
カチッ
「…………」
数秒間の沈黙が発生する。鼓膜には確かに引き金を引いた音が届いている。しかし、なぜか――発砲音はしなかった。もしかして……もう死んだ? この目の前に広がる闇が――死なのだろうか。
あ、違う。暗いのは目を瞑っているからか。ゆっくりと、私は目を開けた。
「…………は?」
そこに広がっていたのは――先程と変わらぬ光景。自宅のリビング。何がどうなっている。私は確かに、自分の頭部に発砲したはず。もう一度、銃口を頭に向けて、引き金を引く。一度目はあれだけ重かった引き金が、今度はいとも容易く引けた。
カチッ
しかし――発砲音が鳴ることはない。カチリと、乾いた機械仕掛けの音が鳴るのみであり、銃弾は発射されなかった。
「ちょ、ちょっと……待ってよ……」
もう一度、更にもう一度、引き金を引く。しかし、カチカチと、まるでBB弾が装填されていないエアガンのような音が鳴るのみ。まさか、弾の方に不具合があるのだろうかと、回転式の弾倉を確認する。そこには確かに、一発の弾丸が装填されていた。
ど、どうなってるの。まさか、そんなまさか……こんな土壇場で……
「こ、故障……?」
何らかの予期せぬ不具合によって、拳銃は故障していた。素人の私にはどこに問題があるのは皆目見当もつかない。徐々に、顔面が青ざめる感触を覚える。こんな可能性は考慮していなかった。だ、だって、仕方ないじゃん。弾は一発しかないんだから、試射をすることなんてできない。ぶっつけ本番でやるしかない。い、いや……今はそんなことはどうでもいい。銃が使えないと分かった以上、何らかの別の手段で命を絶つ必要がある。時間がない。早くしないと、私もあの哀れな動く死体になってしまう。
拳銃を投げ捨て、急いで脱ぎ捨てた衣服の元へと駆け寄る。そこには既に役目を終えたと思われていた一本の包丁が転がっていた。
「……んっ」
その刃を見て、思わず息を呑んでしまう。ただ指を動かすだけの拳銃と比べると、包丁で自らを刺すという行為は……やはり、躊躇ってしまう。切腹をする武士にでもなった気分だ。でも、やるしかない。
腹や首を刺すだけじゃ意味がない。脳が無事な限り、保菌者は死んだらその場でゾンビになる。一切の躊躇なく、こめかみに包丁を刺す必要がある。で、できる……? そんなこと……や、やるしかない。
包丁を両手で持って、狙いを定める。呼吸が乱れて、手が震えているせいで、上手く持てない。そういえば、あと、時間は何分残っているんだろうか。もたもたしている暇はない。一度、時計で時刻を確認することにした。
『15‥16』
「…………は?」
太陽光充電式のデジタル置時計は確かに、午後三時一六分を指している。その時刻を見て、思わず間抜けな一声が漏れてしまった。なぜなら、その時刻は――私が訪れるはずのない、未来の時刻を指しているからだ。
私がゾンビに噛まれたのは三日前の午後三時一五分。これは確かだ。噛まれた直後に時計を確認したから、間違いない。つまり、七二時間の猶予はもう時間切れ。私は既に、ゾンビになっているはず。咄嗟に全身を確認する。腐敗している様子は……ない。いや、そもそも今の私は確かに思考して、言語を発している。ゾンビにはできない芸当だ。
「な、何が……どうなって……」
反射的に、足の甲の傷を確認する。噛み跡は……ある。噛まれたのは間違いない。なら、なぜ私は発症していないのだろうか。い、意味が分からない。もしかして、既に私は死んでいて、ここはあの世なのかと疑ってしまう。ただ、ここまで来たら……試してみる価値はあるだろう。包丁を置いて、私は時計と睨めっこするように向かい合う。
あと十分。あと十分だけ、様子を見る。それで、もし発症しなかったら……確定だ。気付かないうちに時計自体がズレていたという線もあり得る。危ない賭けになるが、私はその僅かな可能性を信じてみることにした。
*
『15‥30』
「……マジか」
十分どころか、一五分過ぎても、発症する様子はない。つまり、私は――元から感染していなかったか、何らかの要因で発症を逃れたということになる。
「い、いやいや……あり得ないでしょ。どうなってるの」
自分でも事態が呑み込めない。一応、無理矢理に解釈するなら……私が噛まれたゾンビは感染能力を失っていた、という可能性だろうか。長期的に水に浸っていたことにより、ウイルスが全部洗い流されて……いやいや、さすがにそんな都合がいい話はない。そもそも、ウイルスが体内に存在しないなら死体が動くわけがない。
じゃあ、私が噛まれたと思った傷は実はそんな大したものじゃなくて、歯が血管内にまで届かなかった……とか? 一応、これはそこまでとんでも説というわけでもない。実際に、痛みはほぼ感じなかったし、跡は残ってるけど、この三日間の運動にも支障はなかった。ゾンビの歯が少し表皮に食い込んだだけで……厳密には噛まれてなかったのかもしれない。
あとは何が考えられるだろう。仮に感染をしていたと仮定して、この三日間で私が行った特殊な行為といえば……
「……カレー?」
は、はは……まさか、死ぬ寸前にカレーを食べたから、未知のインドパワーによって、ウイルスの抗体ができたとか? それなら、日頃からカレーを食べてるインド人は絶対に感染しないじゃん。ばっかじゃないの。自分で考えたあまりにもアホらしい考察を一蹴する。と、とにかく……理由は不明だけど、私はゾンビにならなかった。これが現実だ。今はそれしか分からない。
「な、なにそれ……じゃあ、この三日間はなんだったんだよ……」
腰の力が抜けて、その場にへたり込む。
本当に何それ……これまでの努力は一体何だったのか。私は死の幻想に勝手に怯えて、何度も死にかけながらカレーを作ろうと躍起していたってことになる。世界中探しても、こんな間抜けはいないだろう。まさしく、馬鹿の世界チャンピオンだ。
肩に象が乗りかかったような疲労感が襲ってくる。これは生存したことの安堵というよりも、拍子抜けというか……ある意味、落胆の心情に近い。
正直、やっと、やっと――死ねると思った。死体が歩く狂った世界から、明日の生命すら保障されていない生活から、解放される。確かに、死ぬのは怖い。でも、こんな世界で、独りで生き抜くのも死と同等の恐怖が常に付き纏う。その不安が解き放たれたこの三日間はここ数年で一番気楽だったというのは言うまでもない。
やっぱり、私は――悪運が強いらしい。二度の災害を乗り越え、ゾンビにも噛まれた上に感染することなく、拳銃の故障によって自殺も防がれた。つまり、合計四回も死の危機を乗り越えたということになる。自分で言うのもなんだけど、まさしくゴキブリ並みのしぶとさだ。偶然、幸運、奇跡。どの単語で片付ければいいのか。私の方がゾンビより不死身なんじゃないかって思うほどだ。
「……あぁ、そうかい。じゃあ……もう少し生きてやるよ。クソが」
信じたくはないけど、この時、私は確かに――何らかの超常的な存在の意思を感じてしまった。これが俗に言うところの「神」というやつなのだろう。この世界を腐敗させ、何の救いも与えないくそったれの神はどうやら、まだ私を殺したくないらしい。
そいつに従うようで癪に障るけど、あともう少しだけ……私も、この世界で生きてやろうと思う。私の命はまだ何かの使い道があるはず。正直、このままだと両親に顔向けできない。あとどれだけ時間が残されているのかは分からないけど、どうせ死ぬなら、人生に悔いは残したくない。私が犯した罪はまだ清算されていないのだから。
「……さて、どうしようかな」
これからどうするか。そんなことは考えなくても決まっている。町野宮というコミュニティの存在を知ってしまった以上、私も彼らの力になりたい。何より……紅葉ちゃんの顔をまた見たいというのもある。あんな別れ方をして、実は生きてましたなんて言うのもちょっと恥ずかしいけど。
でも、私が感染者だったいうのは既に事実として伝わっているはず。そうなると、今から戻っても……ゾンビ予備軍としか見られない。三日間、いや念には念を込めて、七日は間を置いた方がいいだろう。これで、私が感染していないということは理解してもらえるはず。
つまり、あと一週間は――暇。また、独りで時間を潰さなくてはならない。この家で過ごす最後の一週間。さて、何をしようか。
「…………」
ちらりと、キッチンの方角を見る。そこには――使い切れなかったカレーの材料が残されていた。
「……よし、カレー作るか」
今から仕込みを始めれば、夕食時までには昼食よりも更に洗練されたカレーを作ることができるはず。どうせ暇なんだ。この一週間は最高のカレーを追い求めてみよう。
こうして、私の三日間に及んだカレー・オブ・ザ・デッドは終わりを告げた。そして、ようこそ。新たなカレー・オブ・ザ・デッド。この屍が彷徨い歩く世界でも、最期まで、私はカレーを食べることは辞めないだろう。好物を食べて、幸福を味わう。それが――生きるってことだと思うから。