天国の扉

長編/海

 

 この世界に神は実在するのか。

 恐らく、この疑問は人類なら誰でも一度は考えたことがあるだろう。ふと、就寝前に思い浮かんでしまい、なかなか寝付けないという経験も珍しくないはずだ。

 そもそも、神という存在が曖昧であり、定義を決めるということ自体が難しい問題ではあるのだが、ここでは人類の上位存在であり、この地球を作り出した者と仮定しておく。

 ある神話では創造神、またある神話では破壊神として、神についての記述は世界中に残されている。そして、その神々を信仰し、崇拝する“宗教団体”という組織は現在では星の数まで溢れかえっているほどだ。だが──それらの全てが正しい組織というわけではない。中には反社会的な思想を持ち、邪神を信仰する組織も存在する。

 この条件に当てはまる団体は“カルト”と呼ばれており、たびたび社会を騒がせている。教祖にあたる人物が善良な市民を信者として洗脳し、時には命を奪う事例も珍しくない。一体、なぜ人々はカルトに惹かれてしまうのか。この疑問もまた、人類にとっての永遠の謎かもしれない。

 

「……書き出しはこんなところでいいか」

 とりあえず、即興で考えた文章をスマートフォンのメモ帳に打ち込み終えた俺は電車の外の風景を眺める。季節は冬、十二月某日。世間はクリスマスシーズンで賑わっているが、俺にとってはいつもの日常と変わらない。

 俺の名前は藤木義彦。三流、いや、四流出版社で発行されているオカルト雑誌のライターをやっている男だ。今年で四十歳になる。そろそろオッサンを通り越して、ジジイの領域に入ってしまった。体中にガタが来ており、日々老いというものを実感させられる。

 そんな俺が今、どこに向かっているのか。まあなんとなく予想はついているだろうが──編集長の命で俺はとあるカルト宗教団体に潜入取材をすることになってしまった。

 そもそもの話、この手の宗教に関する問題ってのは出版業界にとっては禁忌、タブーってやつなんだがな。人権やら、信仰の自由にかかわる問題ってのもあるが、一番の理由は宗教団体ってやつは敵に回すと、とてつもなく面倒くさいという点にある。

 今から三十年近く前の出来事になるが、こんな話がある。とある大手出版社が、当時かなり勢いがあった新興宗教団体に対しての批判記事を雑誌に掲載したことがあった。やれインチキ宗教だの、カルトだの、それはボロクソに叩いていたものだった。で、その結果どうなったのか。

 数百を超える抗議の電話が、一斉に社内に鳴り響いたのだ。会社の業務用回線は一瞬にして、その宗教団体に乗っ取られてしまい、更に本社の前では連日のデモが発生し、社員の自宅にも抗議の手紙が届く事態になってしまった。こうなってしまったら、業務どころの話じゃない。加えて、全国各地で信者が名誉棄損の裁判まで起こした。

 結果的に、その大手出版社は大打撃を受けてしまい、この一件は宗教には手を出すなという業界の教訓になってしまった。まあ考えてみれば、人員と金という分野においては宗教団体の右に出る者はいないだろう。いくらこき使っても文句を言わない人海戦術に、その信者からかき集めた有り余るほどの金。これらの全てを動員すれば、大企業相手でも十分優位に戦える。

 要するに、割に合わないというやつだ。よほど世間の関心が高くない限り、マスコミというやつは宗教には手を出さない。

 ではなぜ、大手には程遠い四流出版社に勤める俺がわざわざ業界のタブーを犯そうとしているのか。それについては──四流だからこその事情がある。まあ、なんだ。簡単に言うなら“ネタ切れ”というやつだ。

 一般的に世間でオカルトブームが巻き起こった期間は七十年代から九十年代にかけてだ。当時はノストラダムスの大予言やら、UFOブームが重なり、かなり会社も儲かっていたらしい。実際、その頃に少年期を過ごしていた俺から見ても、当時の人々はオカルトという概念に熱狂していた。心霊写真、宇宙人、UMA、都市伝説──今となっては馬鹿馬鹿しいと一蹴りされてしまう者たちが、若者にとってのムーブメントだったのだ。

 しかし、二十一世紀に入ると、途端にそのブームは終わってしまった。結局、アンゴルモアが地球に襲来することはなかったことから人々はオカルトに冷めてしまったのか、それともただ単に飽きが来てしまったのか、技術の発展に幽霊が追い付かなかったのか。真相は定かではないが、徐々に勢いは落ちていく。結局、Jホラーブームの終焉と共に、界隈も息を止めた。近年では見る影もない。

 つまり、どこもかしこもオカルト業界はネタに飢えているのだ。何か使えるネタはないかと血眼になって探している。そこで目を付けたのが──禁忌として扱われている宗教、カルトというわけだ。節操がないというか、必死というか。ある意味、感心する。

 ということで、俺はこれから宗教団体「天国の扉」へと三泊四日の体験研修に向かっている。まあ、俺自身も過去にフリーライターの時期に何度かこの手の潜入取材を経験したことはあるし、カルトに関しても個人的な非常に興味があることから、そこまでの嫌悪感はない。むしろ、少し楽しみだと思っている節さえある。

 

「……天国の扉、ねぇ」

 再度、鞄の中に収納していたパンフレットを広げる。

 宗教法人──天国の扉。十年ほど前に設立され、現在の信者数は合計二百人弱。神道系に、ちょいと過激な終末論を加えた信仰を基本としている。少し変わった特徴として、この団体は信者たちが集って集団生活をしているという点が挙げられる。片田舎に移住して、老若男女関係なく一つのコミュニティを形成して暮らしているのだ。

 まんま世間が浮かべるカルト団体のような光景だが、ここまで直球なのは珍しい。数人程度ならともかく、百人を超えるともなると、世界的に見てもあまり例を見ない。だからこそ、編集長もこの団体に目を付けたのだと言える。確かに、なかなか興味深いやつらだ。

 一見すると、パンフレットには様々な年代の者たちが楽しそうに自給自足の生活を送る様子が写されているが、よくよく文章を読み込むと、彼らの信仰の異常性を察することができる。

『私たち人類はかつて同じ血を分けた“きょうだい”でした。ですが、文明が発達するにつれて、そのきょうだいの縁は途切れてしまったのです』

『私たちの真のお父さまとお母さまは天の国の住人です。再び、天の国の扉を開け、人類を救済することが、私たちの最終的な目標であり、成すべきことなのです。そのため、我々は教団による寄付を非常に歓迎しています。実際に、この“天使の故郷”に移住した方々は全財産を教団に寄付しています』

 カルトの定義は国によって異なるが、これだけ献金を勧めて集金に必死なところを見ると、十中八九、悪質な宗教団体とみていいだろう。しかし。この手のカルトってのはどうして『平和』だの『幸福』だの『救済』だのを謳い文句にしているのだろうか。あまりにきれいごとを並べすぎて、逆に怪しいことになっているとは思わないのか。

 いや──それだけ洗脳、マインドコントロールは恐ろしいということか。客観視できるほどの判断力すらも奪われている。そのような集団の元へと今から赴くことを考えると、ほんの少しだけ不安を覚える。

「……ふう」

 急に喉が渇き、ペットボトルに入ったお茶を飲み干す。

 とは言ってもだ。さすがに、身に危険が及ぶなんてことは考えすぎか。現代社会においてはたとえカルトでも、部外者に対して暴力という行為にまで発展することはまずない。彼らにも社会的な立場がある。宗教法人という国から与えられた特権を自ら捨てるほど愚かではないのだ。

 時計を確認すると、目的地の駅に到着するまであと五分を切っていた。そろそろ、降りる準備でもしておくか。隣の空席に畳んでいたジャンパーを羽織りながら、俺は案内役の天国の扉の使いの者の顔を想像し、冬の曇り空を眺めていた。

 

「やぁやぁ。長旅、お疲れさまでした」

「あっ、どうも。もしかして、天国の扉の方ですか?」

「えぇ、わたくし、使いの比津地(ひつじ)と申します。以後、お見知りおきを」

「初めまして。藤木です。今日からよろしくお願いします」

 駅のホームを降りると、白の軽自動車の前に立っていた男に声をかけられる。

 初老で白髪交じりのやや薄い頭髪をした男は自ら比津地と名乗り、満面の笑みを浮かべていた。年齢は──恐らく五十前後、俺より年上だろうか。

「さぁ、外は寒いですからね。乗ってください。今から本部にお送りいたします」

「ありがとうございます。失礼します」

 後部座席に乗り込み、数秒間、車の中を観察する。

 不自然な点は──何もない。どこにでもあるデザインの車内だ。

「では、出発しますね。あぁ、一応、シートベルトは付けておいてください。あまり舗装されていない道を通るので、揺れますから」

「分かりました」

 比津地はキーを差し込む。

 年季を感じさせられる鈍いエンジン音が鳴り、車は発進した。

「いやーそれにしても、疲れたでしょう。藤木さんは東京からいらっしゃったのでしょう?」

「そうですね。空港までは飛行機で一時間ちょっとだったんですけど、そこから電車で三時間乗り継いできました」

「ははは。ここら辺は交通の便が悪いですからねぇ。新規で来る人は皆さんそんな感じですよ。一応、駅の周辺にちょっとした繁華街がある程度で、まあ静かなところです」

 比津地と他愛のない雑談をしながら、俺は窓の外から周囲の景色を観察する。

 確かに、彼の言う通り、最初に駅に降り立った時は想像よりは発展していたと思ったのだが、ひとたび車を走らせると、周囲には田んぼが広がっていた。なるほど、かなりの田舎だ。

「どのくらいで本部には着くんですか?」

「そんなにかかりませんよ。車を走らせて二十分ぐらいです。パンフレットの方はお読みになりましたか?」

「えぇ。まあ一通りは」

「でしたら、ご存じだとは思いますが、うちの本部は廃校になった小学校を建て直したものなんですよ。だから、そこまで山奥にあるというわけではないんです」

「……へぇ」

 そう、天国の扉が本部としている施設は過疎化によって廃校になり、放置されていた小学校を改築したものだ。その小学校で現在、二百人余りが集団生活をしている。無論、中にはまだ幼い子どもたちもおり、学校の代わりに教団が教育を施しているとパンフレットには記載されていた。

 活動自体には問題がないが、やはり、何か少し腑に落ちない。果たして、義務教育を受けずにこのようなコミュニティの中で育った子は一体どのような思想になるのか。その結果を想像するのは実に容易い。

 あぁ、駄目だ。少し辛気臭い表情になっているということが自分でも分かる。今の俺は記者じゃない。天国の扉という宗教団体の活動に少し興味がある、冴えない中年のオッサンだ。そのことを意識して、振舞わなければ正体を勘付かれてしまう。それだけは絶対に避けなくてはならない。

「そういえば、藤木さんのご職業は?」

「えっ? あぁ……ちょっと前までしがない会社でサラリーマンをやっていたんですけど、ちょっと前にクビになってしまって、それで、落ち込んでいたところに天国の扉のことを知って、ちょっと興味が湧いたんです」

 適当に一晩で考えた脚本を俺は比津地に向かって話す。

 嘘を吐くことに罪悪感はない。しがない会社に勤めているのは本当だし、いつ倒産してもおかしくないのも事実だ。上手な嘘を作るには事実をスパイス程度に混ぜるのがコツだ。

「それは……お気の毒でしたね。ですが、私たちの教団のことを知ったのも、きっと神、お父さまの思し召しですよ。あなたは幸運だ」

「は、はは……そうなんですかね」

 神の思し召し、か。幸運にも不幸にも当てはまる、なんと便利な言葉だろうか。

「失礼ですが、ご結婚はなされているんですか?」

 続けて、比津地は家族関係について尋ねてきた。想定内の質問だ。俺はあらかじめ用意していた回答を話す。

「……えぇ。ですが、数年前に妻と娘に逃げられてしまいました。甲斐性のない私に愛想が尽きたそうです」

 ──これもまた事実だ。実際に、俺は一度、結婚をしているが、数年前に妻とは別れた。

 理由に関しても嘘じゃない。俺みたいな弱小出版社に勤めている記者の給料では彼女たちを十分に養うことができなかった。いや、実際にそれなりに最低限の給料は貰っているが、記者としての俺の金の使い方に問題があった。

 昔から、気になったことに関してはとことん追求するのが俺の性分だった。そのおかげで取材費を超過するのは当たり前。自費で負担してまで、真実を求める。結果、大した成果にあり付くこともなく取材終了というのが日常茶飯事だったのだが、それでも満足だった。少なくとも、俺はこの仕事が自分にとっての天職だと思っている。じゃないと、このご時世にオカルト雑誌の記者なんてやっていない。未知、謎、神秘。その言葉の魔力に、俺も取り憑かれてしまっている。

 だが──妻はそうじゃなかった。当然だ。俺も女だったら、こんなダメ男とはすぐ別れている。むしろ、三年もよく持った方だろう。

 まだ歩き始めたばかりの娘を連れて、妻は実家へと帰ってしまった。それから養育費を払ってはいるが、一度も娘と顔を合わせたことはない。

「……なんかすみませんねぇ。答えにくいことばかり聞いてしまって」

「別に構いませんよ。もう終わったことですから」

「安心してください。天国の扉はあなたのすべてを受け入れます。あそこにいる人たちは俗世間の者と違って皆さんいい人ですから」

「そう、ですか」

 いい人、か。教団にとって都合のいい人の間違いじゃないかという疑念が一瞬頭を過ったが、表情に出る前に心の奥底に秘めておくことにした。

 

「着きましたよ」

「ここが……天使の故郷、ですか」

 比津地の言う通り、駅から二十分程度で、カルト教団“天国の扉”の本部である“天使の故郷”へと辿り着いた。パンフレットにも写っていたが、間近で見ると、外観はかなり小学校の面影が残っている。何も説明もないと、ここが宗教施設とは思わないだろう。

 ちゃんと駐車場も用意されており、何台かの車も停車している。一応、完全な自給自足の生活をしているらしいが、多少は街から生活必需品を調達しているらしい。ちらりとだが、窓から大量のトイレットペーパーが積まれているのが見えた。

「では、これから“天子様”の元へと案内します」

「……はい」

 さて、いよいよこの天国の扉の教祖様とのご対面だ。と言っても、既に資料で顔はもう把握しているがな。だが、この目で確認しないと、少し信じられないのは確かだ。

 比津地に連れられ、校内へと足を踏み入れる。外観と同様に、内装もあまり変わっていないようだ。ふと、通っていた小学校のことを思い出し、懐かしい気分になる。このどこか親しみを覚えてしまう精神作用も、洗脳に利用されているのではないかと勘繰ってしまう。

「ここです。では」

 ある一室の前で比津地は止まり、扉にノックをする。

「比津地です。藤木様をお連れしました」

『どうぞ。入ってきてください』

 扉からは──まるで小鳥が囀るような、可憐な女の声が響いた。

 あぁ、やっぱり、マジであいつが教祖なのか。これはたまげたな。教祖の許可が下りたことにより、比津地は戸を開ける。

「初めまして。藤木さん。今日はよくおいでくださりました。私がここの代表を務めている“天子”と申します」

「……どうも。藤木です」

 目の前に現れた天国の扉の教祖は──十代と見間違うほど若々しい姿をした女性だった。

 人種としては西洋人の血が混じっているのだろうか。純日本人には見えない。まるで人形のように整った顔立ちをしており、恐ろしいほどの美人だ。髪は腰にかかるほどの長髪で、色はどこかアルビノが入っているようなベージュ色。白いワンピースのような修道服を身にまとっており、神秘的な雰囲気を醸し出している。

 この“天子”と名乗る女が、天国の扉の親玉である教祖だ。とてもじゃないが信じられないな。

 一般的には教祖という存在は男性のイメージが強いが、実は教祖が女性というのはあまり珍しい事例でもない。有名な女性占い師が立宗し、客をカルトの信者へと変える例も存在する。しかし、この天子という女の場合は──明らかに不自然だ。あまりにも教祖としては若すぎる。

 天国の扉が生まれたのは十年前のはず。仮に天子の現在の年齢が二十代後半だと仮定しても、十代の頃に宗教を立ち上げたということになる。果たして、そのようなことがありえるのだろうか。いや、絶対にありえない。何か、裏があるはずだ。

 考えられる可能性はひとつ。天子は“傀儡教祖”だということだ。彼女はあくまで表舞台用の客引き。裏で誰かが実質的な支配権を握っているはず。

「おや。どうかしましたか?」

「……いえ」

 天子の言葉に、俺はわずかに動揺する。

 まずい。思い浮かんだ疑念がそのまま態度に出てしまったか。いや、これは当然の反応だろう。俺が記者だということを抜きにしても、このような若い女の教祖が存在するということに多少は怪しく思っても不思議ではない。つまり、ここは隠さずに正直に言うのが正解だ。

「実は……ちょっと驚きました。こんなに若い人が、代表をしているなんて。女性に年齢を聞くのは失礼だと百も承知ですが、おいくつですか……?」

「ふふっ……よく言われます。今年で二十六歳になります。これでも、四捨五入すると三十路ですよ?」

 ってことは十六歳で新興宗教を立ち上げたのか。いやいや、あり得ないだろ。どうなってやがる。

「藤木さん。気持ちはわかりますよ。私も初めて天子様に会ったときは同じことを思いましたから」

 困惑する俺をフォローするように、比津地が声をかけてきた。

「ですが、天子様の力は本物です。彼女の力の前では年齢なんて些細な問題なんですよ」

「は、はぁ……」

 俺が気になっているのはそこじゃない。まだ十代の小娘が宗教を立ち上げるって経歴の不気味さに対してだよ、この馬鹿。もういい。少々不自然かもしれないが、ここは正直に問い詰めた方がいいだろう。このまま見過ごすのは俺の記者魂が耐えられそうにない。

「あの……パンフレットにはこの天国の扉は十年前に設立されたって書いてありましたよね? つまり、天子さんは……十六歳の時にここの代表になったんですか?」

「えぇ。そうですね」

「す、すごいですね。まだ高校生なのに」

「ふふっ──そんなに、私のことが気になりますか?」

 その瞬間、俺は背筋に嫌な気配を感じた。

「……っ」

 なんだ。今の感触は──氷柱で背中を撫でられたような悪寒が全身を駆け巡る。その発信源は間違いなく、目の前の女、天子から発せられたものだ。

 まずいな。少し深入りしすぎたか。怪しまれてしまったのかもしれない。

 俺も一応、記者の端くれ。この業界には二十年近くいる。コンビニに立ち並ぶ雑誌の中でも、端に置かれている誰が買うのかわからないオカルト雑誌の記者ではあるが、取材という分野に関しては大手の出版社の記者にも負けない自信はある。

 その経験から言うなら、取材をするときには必ず守らなくてはいけない“デッドライン”が存在するのだ。取材相手に聞いてはいけない事項。プライバシーや倫理的な面で、相手に不快感を与えしまうことは業界では絶対にNGな行為だ。

 今──軽く、そのラインを踏み外してしまった感触が確かにあった。

「まあ……そうですね。話すとちょっと長くなりますし、お茶でも飲みながら話しましょうか。比津地さん、あなたは外で待機していてください。私と藤木さんで二人きりのお話をします」

「はい。分かりました」

 天子の言葉に従い、比津地は退室する。

 まさか、こんなに早く教祖と二人で話せるとは思わなかった。

「はい、どうぞ。藤木さん」

 俺の警戒心を解くように、天子はお茶を差し出す。

 カルトから差し出されたお茶、か。どこかで聞いたことがあったな。とある教団が一般人の来客に薬物が入った飲み物を差し出して、そのまま神秘体験と称して幻覚を見せるって話を。

 しかし──そんな可能性を考えても無駄だ。今の状態で飲まないという選択肢は存在しない。意を決し、湯呑を口元に運ぶ。

「……んっ」

 味は──普通の緑茶だった。        

「どうですか? そのお茶はここで栽培した葉を使用しているんですよ」

「え、えぇ……おいしい、です」

「ふふっ。それはよかったです」

 天子は軽く微笑みながら、目を合わせる。そのビー玉のようにきれいな目に一瞬吸い込まれそうになり、俺は目線を外す。

 あぁ、この女の美貌は本物だ。蠱惑的、とでも言えばいいのだろうか。間違いなく、人を惑わす力がある。恐らく、芸能人にでもなっていればテレビでは見ない日がないほどの売れっ子になっていたに違いない。一般人とはオーラが違う。

 過去から現在において、カルトの教祖が例外なく所持している才能がある。それは“カリスマ性”だ。彼ら、彼女らの一挙手一投足、そして、その口から放たれる言葉には謎の魔力が宿っている。神託を告げる預言者のように、人々はなぜか惹きつけられてしまう。

 天子は──その才能を持っている。しかも、俺の経験から言わせてもらうなら、その中でもトップクラス、指導者として天賦の才だ。ここまでのカリスマ性を持った者は歴史上でもなかなか見ないのではなかろうか。成程、この若さでこれだけの人間が付いてくるのにも納得する。

「それで、何の話でしたっけ……あぁ、そうそう。私がなぜ、この天国の扉を立ち上げたのか……でしたね」

 天子もお茶を口元へと運び、一息つく。

「えぇ。確かに、不自然な話ですよね。まだ高校生の女の子が、宗教を開くなんて、とても信じられない話です。実は私……孤児院で育ったんですよね。どこかで捨てられていたところを保護されたみたいで、それからは親を知らずに施設の人に育てられました」

 天子は淡々と、自身の過去について語り始めた。

「ですが、ある時……突然、声が聴こえたんです。忘れもしません。それは十六歳の誕生日でした」

「声、ですか?」

「えぇ。部屋でこれから眠ろうとしていた瞬間、どこからか声が聴こえたんです。当然、部屋の中には私ひとりだけ……しかも、脳内に直接響くような声が。その声はこう言っていました。天子、あなたはこれから人々を導き、天の国の扉を開け、多くの人々を救済する役目があると。そこで、私はこの世界には更に上の次元の世界。天の国と呼ばれる場所があることを知りました。そして、その声の持ち主は我々を作り出した真のお父さまとお母さまであり、私はふたりに選ばれた使者であると」

 天子は胸元で手を重ね、当時の光景を思い出すように語っている。その真剣な表情から放たれる言葉には確かに重みがあり、信じる者がいてもおかしくはないだろう。

 しかし──なぜだろうか。俺はどこか、彼女の話は“嘘”が混じっていると直感してしまった。

 いや、神からお告げがあったというのが真実ではないというのは百も承知だ。そういう意味ではなく、何か、このエピソード自体が教団設立とは無関係なのではないかと感じている。

 つまり、どこか後付けのようなイメージがあるのだ。根拠は何もない。俺の直感だ。ただ、仕事上、俺もよく身分を偽ることが多くあり、同胞(うそつき)の匂いはなんとなくだが嗅ぎ分けることができる。

 その経験から言うなら、天子は──間違いなく、嘘をついている。

「最初は本当に小さな集会だったんです。ですが、徐々に私の意見に賛同してくれる人たちが集まってくれて。ここまで教団が大きくなったのも、皆さんのおかげですよ」

「それは……大変な道のりでしたね」

 一体、天子は何を隠している。その真相は気になるが──これ以上詮索するのはさすがに怪しすぎるだろう。ここは素直に引き下がるしかないか。

「あぁ、もうこんな時間ですか。少しおしゃべりしすぎてしまいましたね。時間は有限です。藤木さんにはまだ色々見てもらいたいものがあるんですよ。では、後は比津地に任せますね」

「えぇ。貴重なお話、ありがとうございました」

 収穫はあった。まだ初日にもかかわらず、予想以上の成果だ。この天使の故郷にはまだあと四日滞在できる。それまでに、何か大きな特ダネを持ち帰ることができるはずだと、俺は確信していた。

「あぁ、そうそう。藤木さん」

 ふと、部屋から出ようとしていたまさにその時、天子に呼び止められる。

「藤木さんは……“因果”という言葉を信じますか?」

「……因果、ですか?」

 どういう、意味だ。因果、つまり──物事には原因と結果が繋がっているということか。何の意図があって、そんな質問をしている。

「……さぁ。よく、分からないですね」

 俺はありのままの心情を天子に伝えた。

「ふふっ。そうですよね。突然言われても、何のことか分かりませんよね。要するに、私と藤木さんが出会ったのも……予め決められた因果律の結果かもしれない、ということです」

「……はぁ?」

「いえ、気にしないでください。ではまた、お会いしましょう」

 天子は笑みを浮かべながら、手を振り、別れの挨拶をする。この時、俺は彼女のある癖に気が付いた。

 彼女には時折、鼻で笑う癖がある。まだ対面して数十分も経っていないが、既に何回かその動作を目撃していた。無意識なのか、意図して行っているかはまだ分からないが、何らかの癖であることは確かだ。

 俺には──その笑いが、こちらの心の奥底を見透かされ、嘲笑っているような、不気味で不快なものだと思えてしまった。

 

 

「ここが食堂です。普段、皆さんはここで食事をとっています」

「へぇ……ここが」

 天子と別れた後、俺は比津地に連れられ、施設の案内を受けていた。廃校をそのまま再使用しているということもあり、校内はかなり広い。これだけの空間ならば、軽く数百人は収容することが可能だろう。

 信者たちの生活時間の大半は農作業だ。主食が周囲の敷地で栽培された野菜や穀物ということもあり、それらの収穫や耕作に大部分を使っている。また、毎日二時間の瞑想が義務づけられているらしく、合間の休憩時間には専用の教室で座禅を組んでいるとか。

 まあ──健全と言えば健全な生活だ。老後の趣味としては悪くない。ここにいる者全員が、あの天子に全財産を寄付したという事実さえなければ、今の情報化した社会を見つめ直す場としては悪くないとさえ思える。

「あとは……あぁ、そうそう。“集いの場”が残ってましたね」

「集いの場、ですか?」

「えぇ。そこで毎朝、天子様がありがたいお言葉をいただけるんですよ。だから、ここで暮らす者は起床後、まず集いの場に行って天子様の言葉を聞いて、仕事を始めるんですよ」

 全校集会みたいなものか。いよいよ、学校と変わらなくなってきたな。

 しかし、毎日よくそんな集会続けられるな。普通なら一か月程度で話のネタが尽きると思うんだが、それも天子の能力が成せる技か。

 ふと、そんなことを考えていた時──通りかかった教室の前で足が止まる。

「……ん?」

「どうしました? 藤木さん」

「いえ、あれ……」

 俺は扉越しに、それを指差す。

 そこには数十人程度の子供たちが、授業を受けているような光景が広がっていた。黒板の前には教師のような大人が立っており、まるで普通の小学校の授業風景と見間違えるほどだ。

「あの子たちは何をしているんですか?」

「あぁ“学びの場”ですね。ここにいる子どもたちはああやって、勉強を大人から教わっているんですよ」

「……そう、ですか。あれが」

 話には聞いていたが、本当にこの教団の信者の子は学校には通ってないらしい。そんな状態では校区内の学校や児童相談所が黙っているとは思えないが、まあ信教の自由やらなんやらを盾にしてうまくやり過ごしているのだろう。

 個人的な感想だが、この国の公的機関というものは「信教の自由」という言葉にとても弱いと感じる。確かに、この信教の自由というものは人権と同様に憲法で守られており、過去に迫害した経験からも、決して蔑ろにしてはいけないものだろう。だが、今はその自由という概念が無関心へと変貌しているのではないかとさえ思う。

 最近の調査では特定の宗教を信仰していないと答えた日本人は実に六割近くいたそうだ。自分は無神論者だから、宗教に関することには極力触れない。このような人間は決して少なくないはずだ。ある意味、理解をするという行為すら放棄した思考。学校や試験でも歴史として宗教に関することを教えることはあるが、それらの宗教がどのような思想を持っているかはあまり触れられない。果たして、神道と仏教の差異を答えられる日本人は何割いるのだろうか。

 元を辿れば、一週間という概念も、食前の「いただきます」という挨拶も、すべては宗教からきている。ハロウィンやクリスマスも、宗教のイベントだ。宗教ほど、我々の生活にかかわっているものはないだろうに、それらの信仰については学ぼうとも、学ばせようともしない。まったく──日本の国際化が遅れているのも、これが要因になっている気がするな。つくづく、この国には島国根性が根強く残っていると感じる。

「藤木さん?」

「……あぁ。すみません。行きましょうか」

 おっと、少し思考が脱線しすぎたか。悪い癖が出てしまった。学びの場で楽しそうに授業を受ける子どもたちを見送りながら、俺は比津地の背中を追う。

 信教の自由、か。昔、とある弁護士がこんなこと言っていたな。「信教の自由は許されても、人を不幸にする自由は許されない」と。果たして、あの子たちにとって──この生活は不幸なのだろうか。その答えは部外者の俺にはまだ分からない。

 

「ここが集いの場です」

 比津地に案内されて到着した集いの場と呼ばれる集会場は──学校の体育館にあたる場所だった。まあ薄々そんな予感はしていたが、やっていることが学生時代にあった朝の会と変わらんな。

「……ん?」

 その時、また妙なものを体育館内で発見した。

「比津地さん、あれはなんですか?」

 俺は体育館の壇上を指差す。

 壇上自体は多少宗教感の漂う装飾がある程度で、何の変哲もないのだが、その下の部分、ちょうど段差の辺りに扉のようなものが設置されていたのだ。

「あぁ。あれは“祭壇”ですね」

「祭……壇……?」

「えぇ。実はあの扉の先は地下に繋がっていて、有事の際に使用する祭壇が中にあるんですよ」

「有事の際って、どんな時です?」

「それは……ちょっと私の口からは」

 基本的に聞けば何でも答える比津地が、この時に初めて自ら口を閉ざした。直感した。あの祭壇と呼ばれる地下室には──何かある。

 しかし、だ。無断で侵入するわけにもいかない。扉の前には錠前がいくつもあり、厳重に守られていた。恐らく、あの警備を破るのは不可能だろう。中に何があるのは気になるが、今は引くしかない。

「さて、大体は終わりましたね。では、これから藤木さんの宿泊される場所に行きますか」

 どうやら、主要な施設の紹介が終わったようだ。残すは俺の部屋のみ。

 そうか。これから三泊四日、ここで寝泊まりするんだったな。そりゃ、部屋が用意されてるか。この時に初めて、俺はこの天使の故郷で生活するという実感を得た。

 ここで暮らしている信者たちは家庭によって、それぞれ生活スペースとして空き教室が割り当てられているらしい。とは言っても、専用の場というわけではない。何グループかに振り分けられ、一教室辺りに大体十人前後が共同生活しているんだとか。

 まさか──俺もそんな感じでどっかのグループに入ることになるんだろうか。それはちょっと勘弁願いたいな。取材記録を整理する場がなくなってしまう。

 さすがに、信者たちの目の前で堂々と記者の仕事をするわけにはいかない。さて、どうしたものかと悩みながら、俺は比津地の背中を追った。

 

 

「……いらない心配だったな」

 十分後、俺はベッドに寝転び、天井の染みを眺めながら呟いた。

 結論から言うと、他の信者との共同スペースに放り込まれるという事態は回避できた。当然と言えば当然か。一応、俺は、まだ見学に来ただけの部外者なんだからな。言わば来客に近い立場。そんな客人に、信者と同じ扱いをするのはさすがにないか。

 教団が用意した部屋は恐らく学校の教員が寝泊まりをする際に使用されていたと思われる宿直室を改築したものだった。広さは六畳より少しスペースがある程度。格安ホテルに比べたらだいぶ上等な部類だろう。文句はない。だが──ちょっとした問題が発生した。

「……やっぱ、携帯は没収されるわな」

 そう。今、俺の手にはスマートフォンがない。比津地によって取り上げられ、どこか別の場所に保管されてしまったのだ。

 本人曰く、機械の部類はここでは誰も持ち歩いておらず、文明社会から離れて自分を見つめ直すチャンスとのことだが──まあ十中八九、外部からの連絡を防ぐのと、写真や音声といった物的証拠を残されるのはまずいという判断だろう。これに限っては予想通りだ。こちらも最初から、期待はしていない。

 ならば対策として、サブ端末を用意することも最初は考えたが、見つかった時のリスクが大きすぎる。取材は信頼関係で成り立つものだ。途中で中止なんて事態に陥ってしまえば、元も子もない。幸いなことに、メモ帳とペンは没収されることはなかった。これだけあれば、仕事には十分だろう。

「あー……疲れた」

 時刻は夕方の五時を回っている。駅に着いたのが正午付近だったことから、既に天国の扉に来てから数時間が経過していた。やはり、潜入取材というのは神経を使う。これでまだ初日だと思うと、津波のような疲労感が肩に覆いかぶさる感覚を覚える。

「ちょっと……寝るか」

 ここでの夕食は七時から始まるそうだ。その時間になると、比津地が部屋まで呼びにきてくれる。それまでは空き時間、明日からの予定を考えると、多少は大目に休息をとった方がいいだろう。

 そう判断した俺はすぐに夢の中の世界へと旅立った。

 

 俺がこの業界に入るきっかけは──“あの事件”だったと思う。

 そう、世紀末に差し掛かり、世間がどこか陰鬱な雰囲気に漂っていた頃に例の新興宗教団体が起こした歴史的なテロ事件だ。

 やはり、九十年代というのは世界的に見てもどこかおかしい年代だったようだ。旧世紀が終わり、新世紀が始まる。それは期待感以上に、人々に不安感を与えたのだろう。そして、その不安はカルトが介入する絶好の機会だった。

 当時、まだ子どもだった俺はその事件に衝撃を受けた。今まで、宗教というのは自分に縁がないものだと思い込んでいた。教会や神社といった施設も、公園のような公共施設と何ら変わらない。映画に出てくるシスターのように、宗教の信者というものは優しく、人に危害を加えることは決してない──そう思っていた。

 しかし、その事件の時に初めて、俺はカルトという存在を知った。小汚い中年を救世主だと信じ、テロ行為まで行う奇妙な集団。少し、不謹慎に聞こえるかもしれないが──俺には彼らがとても興味深い存在に見えてしまった。元々、オカルト関連が好きだったということもあり、俺は徐々に、例の事件の文献や記事を読み漁り、カルトという存在に対して知見を深めていった。

 

 そして、大学生になった俺に転機が訪れる。なんと、俺はカルトに接触する機会を得たのだ。

 当時、俺は大学内で貼り出される新聞系のサークルに所属していた。所属する仲間も俺と似たようなジャーナリストの卵に憧れる者たちばかりで、楽しい時を過ごしていたと思う。しかし、そんな日常を送っていた最中、とある事件が発生する。

 発端は──ある後輩からだった。何やら、部内で怪しいセミナーが流行しており、既に数十万円近く使い込んでいる部員がいるらしいとのことで、どうにか止めてほしいという相談を受けたのだ。

 そのセミナーの正体は当時流行していたとある新興宗教団体を母体として行われていたマルチ商法だった。まさか、自分が通う大学内にまでカルトの魔の手が及んでいるとは思わなかった。いや、入学当初は怪しげな勧誘に注意という警告は何度も耳にしていのだが、それでもどこかカルトという存在はテレビや記事の向こう側の存在、一般人の手に届かない場所にいるとどこかで思っていた。しかし、彼らの脅威は既に社会に浸透し、すぐ傍まで迫っていたのだ。

 それからはマルチ派と反対派で部内が分裂してしまった。大学側にも何とかしてもらおうと相談はしたのだが、やはり宗教が絡んでいると臆してしまう。結局、彼らと和解することなく、マルチ派はサークルを去ることになった。その際に残した言葉が──なぜか、俺の心にずっと残っている。

「お前らは本当の友達じゃない」

 本当の友達とはいったい何なのか。確かに、俺や部内の仲間は彼らの身を案じて行動していたはず。しかし、その想いは届くことはなかった。

 彼らにとって真の友とはマルチを操る新興宗教団体なのか。それが本当に正しい友情と言えるのだろうか。その後、マルチ派は揃って大学を中退してしまったため、現在の行方は分からない。

 俺は──正しい行いを実行できたのだろうか。答えはまだ、見つかっていない。

 

 

「──藤木さん。夕食の時間ですよ」

「……んっ」

 扉から聞こえる比津地の声で、俺は目が覚めた。

 あぁ、二十年近く前の懐かしい夢を見てしまった。寝起きは最悪だ。急いで身支度をして、部屋の外に出る。

「あぁ、よかった。反応がないので、何かあったのかと」

「すみません……ちょっと眠ってしまって」

「ははは。やはり、初日は色々疲れますよね。では、夕食に向かいましょうか」

 比津地と共に、食堂へと向かう。食堂に到着すると、そこには既に多くの信者が集っており、黙々と食事を進めていた。

「藤木さん。食事はこちらのカウンターから受け取ってください」

「分かりました」

 目の前で食事を受け取る比津地の動作をまねて、俺もカウンターから夕食を受け取る。どれどれ、メニューは──お粥、山菜のおひたし、みそ汁、そして、寒天のような謎のデザート。

 予想はしていたが、味気ない質素な食事だった。教団の生活から、肉や魚の類は入っていないことは覚悟していたが、これでは入院食と何ら変わりない。毎食、よくこんなメニューで農作業ができるものだと感心するくらいだ。

「では、いただきましょうか」

 空いている席に着くと、比津地は十字を切るような動作をして、食前の祈りを始めた。

「父よ。母よ。あなた方の慈しみに感謝して、この食事をいただきます。今日も我らは天の国へと一歩近づきました。我が命はあなた方と共に。アーメン」

「ア、アーメン」

 一応、俺も祈っておいた方がいいだろう。長ったらしい前説を省略して、最後の祈りの言葉だけを唱える。そして、まずはお粥を口に運んだ。

 まあ、味気ないただのお粥だ。うん。山菜も多少の塩味を感じるが、それだけ。一番マシなのはみそ汁だ。寒天もどきに至っては一瞬吐きそうになるぐらいに未知の味がした。どんな工程を踏めばこんなまずいものができるのかと、心の中で愚痴を吐きながら水で流し込む。

 結局、十分もしないうちに完食してしまった。とてもうまいと言える代物ではなかったが、空腹には抗えない。だが、これでも腹八分目どころか、五分目がいいところだろう。外の食事と比較すると、圧倒的に量が不足していた。この食事をあと三日分、か。失敗したな。何か菓子でも持ってくればよかった。

「お口に合いましたか?」

「え? え、えぇ。まあ……」

「ははは。無理はしないでいいですよ。外の食事と比べると、味が薄いでしょう。でも、じきに慣れますよ」

 自覚があるなら調味料のひとつでも用意してほしいんだがな。と思いながら、三杯目の水を胃に流し込む。これで多少は腹が膨れた。

「それで、夕食の後には何か予定はあるんですか?」

「いえ、基本的には陽が沈むと、そこで仕事は終わりです。あとは朝まで体を休める時間なので、今日は藤木さんも休息を取ってください」

「そう……ですか」

 残念だな。信者と交流を図る機会があると思ったんだが、明日に持ち越しか。まあ、時間はある。焦らずにゆっくり行くか。

「では、明日は朝の六時にお迎えに上がります。お風呂は部屋に備え付けられているシャワー室を使ってくださいね。今日はゆっくり休んでください」

「分かりました。今日はありがとうございました」

 比津地に一度別れを告げ、俺は自室へと戻った。

 ベッドに腰を降ろすと、大きな溜息を吐く。何とか一日目は乗り切った。初日にしては成果も上出来だろう。その後は流れるようにシャワーを浴びて、就寝の準備をする。

「……さて」

 後は今日の取材記録を書き残すだけだが、その前に確認しておくことがある。それは──誰かに“監視”されていないか、確かめるということだ。

 まあ、さすがにそこまではしていないとは思うが、相手はカルトだ。反社会的な思想を持っているということは常に意識しておかなくてはならない。常識が通用する相手ではないのだ。

 仕掛けやすい場所は大体こちらも把握している。角度を意識しながら、一か所ずつしらみつぶしにカメラと盗聴器がないかチェックする。二十分程度で、作業は終わった。

「……ま、さすがに考えすぎか」

 結論から言うと、どこにも俺を監視するような機器はなかった。これでこの空間は誰にも干渉されない唯一の場所だということが証明された。ようやく本当の意味で緊張が解けた実感がある。

 その後、二時間程度で本日の取材の成果を書き残し、就寝した。明日からは本格的にこの天国の扉での活動が始まる。多少は面白い記事になる出来事が起こることを若干期待しながら、俺は再び夢の世界に旅立った。

 

「んっ……今、何時だ」

 慣れない寝床ということもあり、二日目の朝は比較的に早く起きた。

 部屋に備え付けられた時計を確認すると、朝の五時半。朝の集会まで、まだ三十分近くある。中途半端な時間に目が覚めてしまったな。しかし、二度寝をするわけにもいかない。ゆっくりと身支度をしながら、時が過ぎるのを待っていた。

『藤木さん、起きてますか?』

「えぇ、今行きます」

 前日はかなりの睡眠をとったことにより、体力はほぼ満タンだ。懸念することがあるなら、あの食事量で一日が持つかどうかという不安だろう。腹の虫を抑えながら、俺は比津地と共に集いの場である体育館へと向かった。

「……これは」

 到着すると、まずその人の多さに驚かされた。

 軽く百人は超えている。まさか、信者が全員集まっているのかと疑うほどに、人々がごった返していた。

「これ、ここで暮らす人が全員集まっているんですか?」

「全員、というわけではありませんよ。でも、九割近くはいますね」

 いや、ほぼ全員だろ。こんな朝方から、わざわざ天子の顔を見るためにご苦労なことだ。

 その信仰心に感服しながら、空いている椅子に着席する。俺たちの位置は壇上からはだいぶ遠い。じきに挨拶が始まるということもあり、少々出遅れてしまったようだ。

「あの、この席の順番って早いもの勝ちなんですか?」

「えぇ。そうですね。熱心な人は夜明け前から場所を確保してますよ」

 扱いがアイドルのそれと同じだな。あの美貌なら頷けるが、それにしても、こんな朝っぱらからこれだけの人数が集まるのは異常だろう。周囲を見回すと、子どもを連れている親らしき人物もいる。比津地の言う通り、九割の人間が集まっているのは事実のようだ。

「あ、もうすぐ始まりますよ」

 壇上に数人の信者が立ち、何やら準備をしているようだった。そして、その数十秒後──天子が現れた。

「おおおおおおおっ」

 瞬間、周囲からどよめきが発生する。お前ら、毎朝この集会に来てんだろ。今更そんな騒ぐ必要あるのか。

「静粛に! これより、天子様のお言葉を授ける!」

 そして、その騒ぎを収めるように、壇上の信者が声を張り上げる。すると、先程までの騒ぎが嘘のように、静寂な空間が訪れた。

 まるでよくしつけをされている犬のようだと思いながら、俺もその様子を見守る。

「皆さん。おはようございます。今日も今日という日を迎えられたのも、皆さんの信仰が天の国に届いたおかげでしょう」

 そして、天子のスピーチが始まった。ここから十分程度、話は続いたわけだが──実のところ、彼女が何を言っているのか、俺にはよく理解ができなかった。

 いや、言わんとしていることは分かる。天国の扉の特徴として、信仰にやや過激な終末論が組み込まれているということが挙げられる。この手のカルトにはあるあるだ。近い将来に世界は滅ぶなどとノストラダムスの大予言やハルマゲドンをパクった話をでっち上げ、信者たちの恐怖を煽り、より信仰心を結託させるのが目的のものだろう。しかし、それにしては──具体的な例が出てこないのだ。

 要するに、どこか話が安っぽいというか、主体性がない。天子は近いうちに世界は滅びの道をたどることになると言っているが、どうなるかまでは語らない。そのためには天国の扉を開け、向こう側にいるすべての人間にとっての真のお父さまとお母さまの力を借りるしかないとも言っているが、その二人がどのような名前と姿なのかも言及していなかった。

 何か──少し、違和感を覚える。だって、おかしくないか。信仰をする神の名前すらも出てこないというのは。思えば、最初から疑問には思っていた。この天国の扉は何を信仰し、崇め奉っているのか。その全貌が一切見えてこないのだ。まるで、隠蔽をしようとしているのではないかとさえ感じてしまう。

 

「──では、今日もお父さまとお母さまに向けて、祈りを捧げましょう」

 そうこうしているうちに、話は終わり、祈りの時間へと移行していた。慌てて俺も周囲の人間に合わせて、手を組む。

「お父さま。お母さま。我が身を御身に捧げます。アーメン」

「アーメン」

 しかし、これも不気味な祈りだな。まるで、人間に食われることに感謝する家畜のようだ。

 天子は丁寧にお辞儀をすると、壇上から去り、どこか裏口へと姿消した。これで集会は終わったようで、周囲の人々も続々と出口へと向かう。

「では、私たちも朝食に行きましょうか」

「え、えぇ。分かりました」

 一瞬、比津地に先程のスピーチの疑問をぶつけようとしたが──留まった。

 俺の記者としての勘が告げていたのだ。それはデッドラインだ、やめておけ、と。ここは大人しく、その警告に従うことにした。

 

 

 朝食は夕食とはメニューが少し違っていたが、相変わらずの味だった。昨日と同様に水で腹を満たし、何とか完食する。あぁ、ここで一か月も暮らせば、嫌でもダイエットは成功するだろうなと冗談を心の中で吐きながら、食堂を去る。

「では、藤木さんにはこれから本格的に我々の活動を手伝ってもらいます。とは言っても、まだ体験の段階なので、リラックスしてくださいね」

「え、えぇ。よろしくお願いします」

「ところで、藤木さんは体力に自信はありますか?」

「体力……ですか? まあ、人並みなら」

「それはよかった。なら、安心して任せられます」

 にっこりと、比津地は俺に向かって笑みを向ける。どことなく、嫌な予感がするが──恐らく、俺に拒否権はないだろうなと、覚悟を決めることにした。

 

「はぁ……クソ、なんで俺はこんなことしてんだ」

 季節は十二月にもかかわらず、額から零れ落ちる大量の汗を拭いながら、俺は呟く。

「藤木さーん。そろそろお昼にしようかぁ」

「はーい。今行きまーす」

 背後から聞こえてきた老婆の声に返事をする。

 やっと昼か。ってことはあれから三時間も経っていたのか。そりゃ疲れるわけだ。息を切らしながら、休憩所へと向かう、

「はい、これが藤木さんの分だ」

「どうも……」

 渡されたのは塩むすび二個。これだけエネルギーを消費したのに、こんだけかと落胆しながら、俺はおにぎりを頬張る。

 比津地から紹介された教団の仕事、それは──農作業の手伝いだった。予想自体は昨日の段階ではしていたのだが、まさかここまでこき使われるとは思わなかった。まだ体験の段階だぞ。入信させる気はあるのか。一応、普段から鍛えてはいるつもりだが、それでもこの作業量は四十の中年にはきつい。

 ここ三時間、俺はひたすら鍬を振り、畑を耕していた。こんなのはトラクターを使えば一瞬で済むだろうに、ここではその手の機械は使わないらしい。なら車も使ってんじゃねえ。矛盾してんだろうが。

「どうだ。藤木さん。うまいか」

「え、えぇ……おいしいです」

 と、まあ心の中ではボロクソに貶しているのだが、当然こんなことは言えるわけがない。

 しかし、なぜだろうか。意外と昼食のおにぎりは食堂の飯と比べて本当に美味に感じた。疲労した体が塩分を欲しているからだろうか。もしも、これがあのまずい飯に慣れさせるために意図的に組まれた食事だとするのならば、かなりの策士だな。

「“遠藤さん”は……天国の扉にどれだけいるんですか?」

「私はもう五年になるねぇ。いいところだよ。ここは」

 遠藤ヤス子──それがこの老婆の名前だ。御年七十六歳。教団の中でも、かなりの高齢者に部類されるだろう。だが、歳の割にはまだまだ元気だ。俺が畑仕事に苦戦している間に、楽々と収穫の仕事をこなしていた。もしかして、俺より体力があるんじゃないか。

 それから、彼女と休憩がてらしばらく他愛のない雑談をしていた。こういう一般の信者と交流できるのはこれ以上にない取材のチャンスだ。役職を与えられていないからこそ、生の意見が聞ける。

「それで、どうしてここに移住することになったんです?」

 さりげなく、俺は入信のきっかけを聞き出す。

「実は私、この近所が地元でねぇ。正直、最初は胡散臭い集団だと思ってたんよ。でもねぇ、あれを見ちゃったらねぇ」

「あれ?」

「うんうん。天子様、あの人の力は本物よ。私も、実際に目の前で見ちゃったもの。あれを見たら、ねぇ……」

「あれって、一体なんです?」

「天子様はねぇ。病気を治す力があるんよ」

「……病気を?」

 心霊治療、というやつだろうか。これもカルトではよく聞く話だ。霊感商法や自然療法を利用して、自らに病気を治す力があるということをアピールする。

 しかし、これもほぼインチキとみて間違いはないだろう。確かに、一時的にだがこの手の処置によって、病状が回復したという例も報告されている。しかし、それはあくまでもプラシーボ効果、治るという暗示によってもたらされており、科学的な根拠は一切ないのだ。実際に、医学の知識がない教祖が誤った知識の元で処置を施してしまったために、信者が死亡するという事件も珍しくはない。

「それって、具体的にはどんなことがあったんですか?」

「うちの亡くなった主人はねぇ。ずっと足が悪かったのよ。でも、天子様が主人の足に触れたらねぇ、何ともなかったみたいに、治っちゃったの」

「…………」

 この段階ではまだ何とも言えないな。当事者に実際の状況を聞くのが一番手っ取り早いが、既に亡くなっているならまた話は変わってくる。天子は一体、どのようなトリックを使って治療をしたのだろうか。

「主人はねぇ。ずっと天子さんに感謝してたんよ。だから……最期まで、天の国に身を捧げることに、なーんの後悔もなかった。私も、もう覚悟はできてるからねぇ」

「……はい?」

 今、なんと言った。

 天の国に身を捧げる──覚悟。その言い方だと、まるで自らを供物にするように聞こえるぞ。

「遠藤さん。結局、旦那さんってどうなった──」

「藤木さーん」

 その時、俺の言葉は後方からの声で途切れてしまった、

「あ、比津地さん……」

 現れたのは比津地だった。何やら少し急いでいる様子で、息を切らしている。

「ちょっと今、空いてますか?」

「え、ええ。昼休憩に入ってるので、大丈夫だとは思いますけど」

「それはよかった。なら、ちょっと来てください。天子様がお呼びです」

「え?」

 天子が──俺を直々に呼ぶだと。何かやらかしたか。いや、心当たりは何もない。正体はバレていないはずだ。なら、何の用だ。

 その刹那、様々な可能性が俺の脳裏に浮かぶが、考えても仕方ないだろう。ここは大人しく従うしか道はない。比津地に連れられて、俺は天子の元に向かった。

 

 

「あぁ、藤木さん。お呼び出しして、申し訳ございません」

「は、はぁ。別に、自分は構いませんけど」

「では、私はこれで」

 比津地が退室し、昨日と同じように再び天子と二人きりの空間が訪れる。

 あぁ、クソ。苦手なんだよな、これ。この女と一緒にいると、独特の緊張感みたいなものが発生する。それがこの女の持つ力というやつに起因しているのか、俺が教祖という肩書に対して畏怖の感情を抱いているのかは分からないが、非常に居心地が悪い。

「ふふっ。そんなに畏まらないで大丈夫ですよ。別に、怒るわけじゃないんですから」

 そんな俺を見かねて、天子は鼻で笑いながら、語りかける。

「藤木さん。どうですか? 一晩、ここで暮らして、心境の変化はありましたか?」

 さて、どう答えるべきだろうか。

 あるかないかで言えば、当然そんなものはない。こっちは教団のインチキを暴くために潜入取材をしているんだからな。だが、それはあくまで俺の記者としての役目だ。それらの感情を無視して、答えるのならば──

「……正直なところ、まだあまり変化はありません。でも……ここで暮らす人たちに、興味が出てきました」

「興味、ですか?」

「えぇ。現代社会からかけ離れ、不便という言葉で溢れかえっているこの場所でも……ここの人たちは皆さんからはどこか不思議なエネルギーを感じます。恐らく、その原動力は私や外の人たちが持っていない何か特別なものなのでしょう。その正体が少し……気になりますね」

「……へぇ」

 天子は俺の心の奥底にある感情を探るように、目を合わせてくる。

 一瞬、その迫力に気圧され、視線を逸らそうとしたが──思い留まった。ここで逃げるのはどこか俺に敗北感を与えてしまうような気がした。それはただの“意地”以外の何物でもない行為だったが、記者にとってはその意地というやつが案外重要なものなのだ。

「ふふっ。面白い人ですね。藤木さんは。そんなことを言う人、初めてですよ」

「そう……ですかね」

「えぇ、他の人にはない、情熱のようなものを感じます。赤く、燃え滾るような……炎。でも、気を付けてくださいね。その炎は自らを焦がすものかもしれませんよ?」

「……はい?」

「失礼します。天子様」

 その時、扉をノックする音が響き、信者と思われる男が部屋に入ってきた。

「どうしました? 今、私は藤木さんと対話中ですよ」

「すみません。ですが“降誕祭”の件について、ちょっとお話が」

「……そうですか。ごめんなさい、藤木さん。ここで少し待ってもらえますか? すぐに戻りますので」

「は、はぁ。別に構いませんけど」

「では、失礼しますね」

 そう言うと、天子まで退室し、彼女の部屋には俺だけが残されてしまった。

 なぜか教祖の部屋に一人きりという奇怪な状況に直面し、俺は若干困惑しながら周囲を観察する。

「……そういえば、降誕祭ってなんだ」

 そして、少し落ち着きを取り戻したところで、先程の天子の会話を思い出す。

 降誕祭。確かに彼女はそう言っていた。その言葉が指す意味は──おおよその目星はついている。ふと、部屋に飾られているカレンダーへと視線を移す。

「クリスマス……だよな」

 現在の日付は十二月二十二日。ちょうどあと二日で、クリスマスが訪れるのだ。世間ではクリスマスイブは本番であるクリスマスの前夜祭というイメージが持たれているが、厳密にはそれは間違いだ。正確に言うならば、日付変更の境界が日没のユダヤ暦でのクリスマスは二十四日の日没から二十五日の日没まで。当然、この教団でもその法則に沿って、二十四日に何らかの催事があるだろう。しかし、そうなると疑問が湧く。この天国の扉での降誕祭は──誰のことを指すのだろうか。

 本来のクリスマス、降誕祭はイエス・キリストのことを指すということは今更語るまでもないだろう。しかし、この教団ではキリストという単語は一度も聞いたこともない。彼らが信仰しているのは“お父さま”と“お母さま”だ。これがキリストや聖母マリアを指すということは──考えにくい。

 クソ。また謎が増えちまったじゃねえか。今日を含めると、まだ二日半残ってはいるが、聞き取りだけだと限度がある。さすがに、そろそろ何か証拠を握っておきたいな。

「…………っ」

 その瞬間、俺の中に悪魔的な発想が噴き出す。

 もしかして、今、この時間は──天国の扉の秘密を探る絶好の好機なのではないだろうか。

 教祖天子の部屋に、侵入が成功し、彼女は席を外している。退室してからまだ二分も経っていない。移動時間を考えると、最低でもあと五分は帰らないと見積もっていいはずだ。つまり、その間は──自由に室内を物色することができる。

 い、いや、いいのか。そんなことをして。やることはほぼ泥棒だぞ。それに万が一、天子の帰りが早かったらどうする。現場を見られたら、言い訳は不可能だ。取材自体が終了する。

 しかし、それらのリスクを加味しても、千載一遇のチャンスだった。天国の扉の確信に迫ることができるかもしれない。謎の正体がすぐそこにある──そう思った瞬間、俺は自分自身の好奇心を抑えることはできなかった。

 

 まず、部屋の外を確認する。人影はない。大丈夫、数分間は誰も来ないはずだ。それに本人以外は必ず入室前にノックをすることは分かっている。つまり、天子以外の来訪者ならば、対処が可能だ。

 まずは彼女のデスクへと歩み寄った。鍵穴らしきものは確認できないから、施錠はされていないだろう。

 そして、ゆっくりと中を確認する。あぁ、このパンドラの箱を開くような高揚感と緊張感。記者としての生を実感するな。

 中にあったのは無数の紙束だった。ざっと内容に目を通すと、教団の予算に関連した資料だろう。献金の額から信者の個人情報までびっしりと記載されている。これらの全てを確認する時間は──ないな。携帯が手元にないことから、記録に残すことも叶わない。名残惜しいが、これは求めているものではない。

 俺が知りたいのはもっと教団の信仰に関連する情報だ。お父さまとお母さま。この二人の正体は誰なのかを知りたい。何か、経典のようなものはないだろうか。

 四コマ漫画を捲るような速度で資料を確認するが、デスク内には金に関連する資料しかなかった。ここはハズレだな。

 時計を確認すると、既に一分三十秒を過ぎていた。残りは三分といったところか。急がなくては。

 次に確認するのはデスクに備え付けられているオフィス用のキャビネットだ。引き出しの数は三段。こちらも鍵のようなものはない。とりあえず、急いで一段目を開いて中を確認する。

「……これは」

 そこに収納されていたのは一枚の書き写されたメモ帳のような紙切れだった。他には何もない。デスクの資料と比較すると、ずいぶんと情報量が少ない。

 しかし──そこに書かれている“数字”に、なぜか俺の目は惹かれた。

 

 1978 〇

 1987 ×

 1993 ×

 1994 ×

 1997 ×

 2000 ×

 

 なんだ、これは。

 一見すると意味不明な数字と記号の羅列だ。いや、これだけでも一応考察することは可能だが。

 この数字は──西暦のように見える。そうなると、下の記号は何らかの成否に近い情報なのではないだろうか。つまり、一九七八年に、何か起こったということか。

「……何か、引っ掛かるな」

 一九七八年。この数字に、俺は既視感を覚える。今から四五年前、昭和五三年。俺が生まれる五年も前、半世紀近く前の年号だ。だが、なぜだろうか。この数字に見覚えがある。なんだ、俺はどこで見かけたんだ。

 貴重な十秒間を使って、記憶の片隅から呼び起こそうとするが──駄目だ。思い出せない。クソッ。恐らく、インターネットで検索をすれば一発で分かるはずなのに、寸前のところで出てこない。これも歳のせいか、情報化社会の弊害か。どちらにしても、今はこの数字に時間をかけている暇はないだろう。

 俺は急いでメモ帳とペンを取り出し、内容を書き写す。よし、これでいい。残り時間は──二分を切っていた。急がなくては。紙切れを元の位置に戻し、二段目の引き出しに手をかける。

「…………っ」

 “それ”を見た瞬間、俺の思考は一瞬停止する。

 あの数字も意味不明なものだったが、これはそれ以上に奇怪なものとしか言えない。だが、ある意味では俺が求めている情報に非常に近いものだろう。ゆっくりと、丁寧に、貴金属を扱うように、俺はそれを持ち上げる。

 それは御神体のような形をした木堀の像だった。一見すると、ただの工芸品のように見えるが──よくよく観察すると、妙だ。とてもではないが、俺はこれが“神”には見えない。

 そいつは山羊のような頭をしており、腕が四本、翼と尻尾が生えているという不可思議な姿をしていた。いや、俺はこの姿を知っている──これはまさしく古来の“悪魔”の一人だ。

 名は確か「バフォメット」だっただろうか。キリスト教に伝わる有名な異教の悪魔であり、頭部が山羊というのが最大の特徴だ。まさか、このバフォメットが──お父さまとお母さまの正体、なのか。

 本格的に邪教っぽくなってきたな。探りを入れて正解だった。これは特ダネだぞ。昂る感情を抑えながら、俺はその像をよく観察する。

「……ん?」

 その時、像の下部に妙な文字が彫られていることに気付いた。察するに、この神の名前だろうか。

『彁混神』

「かま……かみ?」

 反射的に、俺はその文字を読み上げる。

 いや、正しい読み方だという自信はない。少なくとも、この「彁」という漢字は見たことがなかった。何となく「可」につられて「か」と読んでしまったが──これで合っているのだろうか。

 一応、メモ帳に彁混神の名も記しておく。時計を確認すると、既に制限時間である五分を超過していた。

 どうする。残りの棚は一段残っている。ここは諦めるべきか、調べてみるか。いや──答えは既に決まっていた。

「…………」

 俺は三段目の引き出しに手を──かけることなく、来客用の椅子へと戻った。

「ふーっ」

 そして、大きな深呼吸をする。

 あぁ、息が詰まる。まるでこの五分間は呼吸を止めていたようだった。いつの間にか、全身からは汗が滲み出ている。

 分かっている。分かってはいるんだ。あそこは三段目を開けるべきだった。一段目と二段目を見るに、三段目も何か入っていた可能性が非常に高い。しかし、臆してしまった。

 最初から、五分を過ぎたら止めるというのは決心していたのだ。この与えられた五分という時間はあくまで希望的観測、勘に近い。俺は記者としての直感を信じることにした。これ以上、探るのはまずい。ここがデッドライン、限界だったはず──だ。

 そのようなことを考えていた時、後方から部屋の扉を開く音が聴こえた。

「すみません。藤木さん。待たせてしまって」

「え、えぇ。大丈夫ですよ」

 天子が戻ってきた。咄嗟に時計の秒針を確認する。五分三十六秒。あのまま引き出しを開けていたら、間に合わなかっただろう。

 結果として、俺の勘は当たっていた。やはり、いざという時に信じられるのは経験則から培った直感だ。危ない橋だったが、何とか乗り越えることができた。果たして、三段目には何が閉まってあったのか、その中身が非常に気になるが──今は忘れるべきだ。

「それで、何の話をしてましたっけ?」

「え、えぇ? さぁ……自分もちょっと忘れましたね」

 数分前に命がけの物色をしていたということもあり、すっかりそれより前の天子との会話が抜けてしまった。

「あぁ、そうそう。藤木さんが私たちに興味を持ってくれた、という話でしたね」

「あー……そういえば、そうでしたね」

「ふふっ。嬉しい限りです。残りの時間で、藤木さんの人生に何か良いものが残ることを祈っていますよ」

「あ、ありがとうございます」

「では、時間も押しているので私はここで。表に比津地さんを待たせているので、午後からはまた彼に従ってください」

「分かりました。では失礼します」

 よし、乗り切った。これ以上にない成果を持ち帰ることができたぞ。

 高笑いをしながら小躍りをしたい気分を抑えて、俺は部屋から退室しようとする。しかし──その時、俺は大きなミスを犯してしまった。

 コンッ

 立ち上がった瞬間、軽いプラスチックが落下するような音が室内に響く。

「おや、何か落としましたよ?」

 咄嗟に、俺は足元を確認する。そこには──メモを取る際に使用したボールペンが落ちていたのだ。

「……っ⁉」

 一瞬で全身に鳥肌が立つような感覚を覚える。

 い、いや──焦るな。ただ、ペンを落としただけじゃないか。何も疑われる要素はないはず。しかし、普段からペンを持ち歩いているというのは少し不自然じゃないか。まさか、記者と疑われるんじゃ。

 そのコンマ数秒に満たない時間の間に、俺の脳裏には様々な感情が入り乱れる。

 そう、ただペンを落としただけ。それだけなのだ。しかし、このカルトが支配する施設の中で、数分前に無断で室内を物色し、重要な情報を持ち帰ることができたという要素が加われば──話は変わってくる。

「はい。どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 天子は足元に転がっているペンを拾いあげ、俺に差し出す。

 だ、大丈夫だ。現時点では何も気付かれていないはず。それより、動揺を隠さなくてはならない。

「おや……? 藤木さん、どうしました? 汗でびっちょりですよ」

「え、えぇ?」

 天子のその言葉で、俺は額から大量の汗が流れ落ちていることに気付く。

 な、何をやっているんだ俺は。こんな明らかに取り乱してどうする。冷静にならなくては。

「もしかして、暖房が効きすぎてましたかね?」

「あ、そ、そうですね。ちょっと、それで暑いのかも」

 天子の言葉に、俺はすかさず便乗する。

「ふふっ」

 しかし──その瞬間、天子は不意に笑みを見せた。

「藤木さん、この施設に暖房器具はありませんよ?」

「──ッ」

 天子は俺を嘲笑うかのように、怪しげな笑みを見せた。

 

 

「あぁ、クソ……やらかした」

 ベッドの上で、俺は天子とのやり取りを思い出し、悶えていた。

 あれから、特に天子はペンに言及することなく、俺はまた作業に戻った。そして、現在の時刻は午後六時。日が沈み、二日目の取材が終了しようとしていた。

「大丈夫……だよな」

 傍から見れば、何も怪しいことはないはずだ。ただペンを落としただけ──だが、天子の表情を思い出すと、どうも気になってしまう。あの顔は──俺を揶揄していた。例えるなら、花瓶を割ってしまってデタラメな言い訳を繰り返す子を見る親といったところか。確実に、何らかの意図があったに違いない。

 だからこそ、あれ以上何も言ってこなかったところが不気味なのだ。意図や思考が読めない。できるなら、もう会いたくないとさえ思ってしまう。まさか、俺は泳がされているのだろうか。全ては天子の計画、なのか。

「はぁっ」

 大きな溜息を吐く。考えていても仕方ない。

 とにかく、俺は無事に生還した。今はこの事実さえあれば十分だろう。ポケットの中からメモ帳を取り出す。

「あとは……この謎解きだな」

 天子の部屋から持ち帰った成果を改めて振り返る。

 西暦のような数字が羅列された暗号。そして、バフォメットのような姿をした像に記されていた『彁混神』という文字。さて、こいつらをどうするか。

 やはり、気になるのは数字の方だ。特に、最初の『1978 〇』という部分。ここがどうしても引っ掛かる。

「……頭までは出かかってるんだが」

 確かに、俺はこの数字に見覚えがある。しかし、どこで目撃したんだ。ここ数か月以内の出来事なら、さすがに思い出せるはず。ってことは──それより前に見たということになる。

「……駄目だ。思い出せん」

 三十分近く記憶を遡ってみたが、正解に辿り着くことはなかった。そうなると、あとはこの“彁混神”だ。

「……なんだ。この漢字」

 出版業界に席を置いているということもあり、活字に関しては俺もそこそこ自信がある。だが、それでもこの「彁」という文字に関しては──見覚えがなかった。

 常用漢字、または一般的に使われる漢字ではないというのは確かだ。となると、やはり何か宗教的な意味を持っているのか、中華圏で使用されている文字の可能性が高い。これもネットで検索すれば一発で分かるだろうに、携帯がこの場にないのがもどかしい。

 結局、持ち帰った情報は現時点では何も解明できないという結果で終わってしまった。最低でもあと二日はこの謎を抱えたまま過ごすことになる。

「……いや、無理だな」

 ただでさえ三段目が開けなかったことをまだ引きずっているのに、それに加えて解明に二日も生殺しにされるのは耐えられない。それに、期限まで待っていたら──間に合わない。何となくだが、これらの暗号は二日後に控えている降誕祭とやらに深く関わっている気がする。そうなると、最低でも明日中には全容を理解しておく必要がある。

 しかし、どうする。恐らく、俺一人では解決するのは不可能だ。かと言って、信者に聞き回るのは論外。携帯を取り戻すというのも現実的じゃない。つまり、残された道は──

「……脱走、だな」

 

 

 食堂で夕食を済ませ、軽く仮眠をとった。

 現在時刻は深夜の十二時。ちょうど、日付が変わる頃合いだ。

 計画はこうだ。まず、この天使の故郷を抜け出し、公衆電話を探す。そして、相手にメモの内容を告げ、再び何事もなかったかのようにこの部屋に戻ればいい。

 事前に周辺の地図は頭に入っている。夜道ということもあるが、人通りがある場所までは一時間程度で出るはずだ。つまり、多く見積もっても往復三時間もあれば、戻ってこられる計算になる。

 ここに住む住民は大半が翌日の朝礼に出席するということもあり、深夜は寝静まっているに違いない。抜け出すにはこのタイミングしかないのだ。勝算は──かなり高いと見込んでいる。

「……行くか」

 唯一の懸念材料を挙げるならば、門番の存在だろう。一応、正面の門は夜になると施錠されるのだが、容易に乗り越えられる高さだ。しかし、警備の者が周囲にいたなら、素直に諦めるしかない。

 ゆっくりと、部屋の扉を開け、左右を確認する。人影は──ない。照明も付いておらず、月明かりだけが唯一の光源だった。

 事前に暗闇に目を慣らしていたということもあり、ある程度の視界は確保できている。ゆっくりと、足音を立てないように、俺は移動を始めた。

 

 数分後、無事に正面門の前に到着する。

 さて、ここが一番の難所だ。この時点で誰か見張りがいるなら、作戦は中止。大人しく尻尾を巻いて、部屋に戻るしかない。頼むぞ。

 物陰から様子を伺う。ざっと見る限りは周囲には誰もいないようだ。よし、こうなったら、もう行くしかない。

 意を決し、俺は門へと駆け寄り、内門の施錠を足場に、木登りの要領で乗り越える。

 ドンッ

 静寂な闇の空間に乾いた着地音が鳴り響く。慌てて、周囲を警戒するが、誰も来る気配はなかった。脱走は──成功だ。

 あとは体力勝負。一直線に俺は市街地に向かって走り始める。目指すはその先にある公衆電話だ。今のご時世、携帯電話の普及ですっかり数は減ってしまったが、いくつか目星はある。設置の法則さえ知っていれば、そこまで探すのに苦労はしないだろう。

 いつの間にか、俺は笑みを浮かべながら走っていた。あぁ、まさか、ここまで順調に事が進むとは思わなかった。我ながら、できすぎているとさえ感じる。あいつらの言葉を借りるなら──これも神の思し召し、というやつなのだろうか。つくづく、便利な言葉だな。

 

 

「はぁっ……はぁっ……」

 教団を抜け出してから、現在一時間が経過していた。その間、ペースを抑えていたとはいえ、ずっと走りっぱなしだ。さすがに体力が尽きてきた。こりゃ、帰りは更にきついな。だが、その成果もあって、比較的早めに住宅街に到着することができた。あとは公衆電話を探すだけだ。

 最も設置されている確率が高いのはバスの停留所周辺だろう。しかし、土地勘のない俺ではどこにその場所があるのか分からない。こればっかりはしらみつぶしに探すしかない。道路沿いをよく観察しながら、時刻表の看板を探す。

 五分程度で、最初の停留所を発見することができた。

「……ハズレか」

 しかし、周辺に公衆電話は確認できない。次の停留所を求めて捜索を続ける。

「……あった!」

 そして、更にニ十分近くが経過し、三つ目の停留所を発見したところで──ようやく、公衆電話が設置されているボックスに辿り着いた。やはり、俺は運がいい。あと十分探して見つからなければ、引き返すことも視野に入れていた。

 急いで電話ボックス内に入り、財布の中から百円玉を投入する。番号はうろ覚えではあったが、ちゃんと覚えている。深夜の一時を回っているが“あいつ”なら恐らく起きているだろう。ボタンを押し、電話をかける。

 プルルルル プルルルル

 よし、通じた。少し自信がなかったが、番号は合っていた。頼む。出てくれよ。

 プツッ

 コールが四回鳴った直後、通話に成功した合図である機械音が鳴る。

『もしもし?』

「あぁ、よかった。通じた。俺だ。藤木だ」

『藤木……? おいおい、なんで非通知からかけてんだ?』

「こっちにも色々事情があってな。時間がないから、要件だけ伝えるぞ」

 電話先の相手である“高橋”は若干困惑している様子だった。そりゃそうか。こんな深夜に、いきなり非通知で突然連絡が来たら、対応に困るはずだ。

 今回、俺が頼ることにしたこの電話先の男の名は高橋。本名は高橋秀樹といい、学生時代の旧友だ。俺と同年代ではあるが、彼は民俗学を専攻し、この若さで大学の教授にまで上り詰めている優秀な男だった。その専門知識の高さから、俺も取材の際にはたびたび彼の力を借りているほどだ。

「今、紙とペンはあるか? 今から俺が言う数字と記号をメモしてくれ」

『はぁ……? どういうことだ?』

「いいから、時間がないんだよ」

『はいはい、分かったよ。ちょっと待ってな』

 十数秒程度、電話先からはガサゴソと物色する音が聴こえた。

『ほら、いいぞ。早く言え』

「あぁ、まずは一、九、七、八……」

 俺はメモ帳に記した数字を淡々と読み上げる。

「──で、最後は二、〇、〇、〇。これにバツの記号だ」

『……なんだこれ。何かの暗号か?』

「次は漢字だ。まず弓偏に、可能の「可」を二つ書いてくれ。そして、混沌の「混」に、神様の「神」だ」

 数字を読み終わり、彁混神の説明へと移る。

「高橋。その単語に見覚えはないか? どっかの土着信仰の神とか」

『……いや。ないな。ところでいい加減、これが何なのか教えてほしいんだが』

 やはり、高橋も知らないか。ここで正体が分かれば楽になったが、仕方ない。

「実は今、天国の扉ってカルト宗教に潜入取材しててな。これはそこで見つけた資料だ」

『はぁっ⁉ お前、そんな危ないことしてんの⁉』

「お前にはその数字と「彁混神」って神が何者なのか、調べてほしい。できれば今日中に」

「いや急だな! 俺だって大学の仕事があるんだぞ!」

「頼む。お前もこの手の分野には興味はあるだろ?」

「……って言ってもなぁ」

 数十秒間、高橋は沈黙する。

 無茶な頼み事だというのは分かっている。しかし、彼もまた、こっち側の人間だ。沸き上がった好奇心には逆らえない。

『……いつまでだ』

「二十四時間以内だ。明日のこの時間に、また連絡する」

『はぁ~仕方ねえなぁ。分かったよ。一応、やってみるさ』

 やはり、高橋なら引き受けてくれると信じていた。

「じゃあ時間がないから俺はここで。頼んだぞ」

『はいはい。お前も死ぬなよ』

 あまり冗談に聞こえない冗談を高橋は放ち、通話を切る。

「……ふう」

 一仕事を終え、無意識に俺の口からは溜息混じりの呼吸が漏れ出る。

 あとは帰るだけ──しかし、調査を依頼したことで新たな問題に直面してしまった。

「また明日も……ここに来るのか」

 最初から想定していたことではあるが、二十四時間後、高橋から報告結果を聞くためにまた脱走劇をする必要がある。一度ならともかく、深夜に連日となると、さすがに体力的に不安があるというのもまた事実だ。

「……まあ、やるしかないよな」

 

 

 それからまた二時間程度を労して、天使の故郷へと戻った。

 時刻は既に四時を回っている。まだ太陽は昇っていないが、熱心な信者は朝礼の準備でもう起床している可能性がある。ここにきて見つかったら洒落にならんぞ。

「…………っ!」

 周囲に人影がないことを確認し、前回と同じ要領で門をよじ登る。

 そして、今度は慎重に着地音がしないように飛び降りる。さて、どうだ。

 周囲を警戒するが──誰もこちらに来る気配はない。成功だ。何とか──成し遂げた。そのまま教団の敷地内に入る。ここまできたら、誰かとすれ違ったとしてもトイレだの散歩だのいくらでも言い訳ができる。堂々としていればいい。

 しかし、そこから先も誰ともすれ違うことなく、俺は宿直室に辿り着くことができた。部屋の扉を開け、ベッドに寝転ぶ。

「……フッ」

 しばらく放心状態のように天井を眺めていたが、不意に笑みが零れてしまった。

「ハハッ。ハハハハ」

 あぁ、まさか、こんな簡単に成功するとは思わなかった。いや、正直なところ──どこかで障害が発生し、結局失敗になるのではないかと思っていたのだ。いくら何でも、無茶な計画だった。

 しかし、無事に遂行することができた。さすがの俺も、感情を抑えることができなかった。ここまで嬉しいのは大学受験以来だ。脳内麻薬が湧き出ているのを身に染みて実感する。

 それから日が昇るまで、俺は内に秘める興奮を抑えながら、迫りくる朝礼に向けて仮眠を取ることにした。

 

「藤木さん。もしかしてちょっと睡眠不足ですか?」

「え? あぁ……えぇ、分かります?」

 先日と同様に天子の退屈な話を欠伸しながら聞いていたところ、比津地に指摘されてしまった。

 そりゃそうだ。仮眠を挟んだとはいえ、昨日はあれだけのハードスケジュールをこなした上に、実質的な睡眠時間は三時間未満。目に見えて疲労は溜まる。

「なら、今日はちょっと予定を変更しましょうか。そのまま無理に動いてしまって、倒れてしまったら元も子もない」

「い、いえいえ。そんな……」

 それはそれでこちらも困る。この天国の扉に滞在できるのはあと二日しか残っていないんだ。その限られた時間でネタを集めるのが俺の仕事。これでも、若い時は四十八時間ぶっ続けで張り込みをしたことがある。その時に比べたら、まだ休憩の時間が取れるだけマシというものだ。

「大丈夫。負担が少ないだけで、こちらもちゃんとした活動ですから」

「は、はぁ……」

 比津地に案内されたのは瞑想の間と呼ばれている場所だった。座禅を組み、この世界を俯瞰することで天の国と交信するのが目的──とのことらしい。ただ目を瞑って座るだけでいいとはなんと楽な修行だろうか。半分眠りながら、朦朧とした意識の中で時は過ぎていった。

 その後、降誕祭を前日に控えているということもあり、準備を手伝うことになった。と言っても、そこまで大層なものでもない。多少、いつもより食事が豪華になるらしく、その仕込みの手伝いだ。同じく調理係の信者の者たちと情報収集を兼ねて交流しながら、三日目の業務は終わった。

 

 

 そして──ついに、高橋との約束の時間が迫った。

 現在時刻は深夜の十一時を回ったところ。体力的にも、昨日よりは少し早めに抜け出した方がいいだろう。

「……行くか」

 頃合いを見て、部屋を出る。

 二度目ということもあり、多少は手慣れた動作で門を飛び越え、再び脱出に成功した。そして、月明かりを頼りに住宅街までのルートを走る。

「ハァッ……ハァッ……」

 十二月ということもあり、夜風は心地よいとは呼べないほどの冷気だった。しかし、なぜだろうか。俺の体の奥底からは熱が溢れ、むしろ暑いくらいだ。

 理由は──分かっている。あと少しで、あの暗号の謎が解けるからだ。一体、どのような意味が込められているのだろうか。高橋は優秀な男だ。一晩もあれば、きっと調べてくれる。

 まるでサンタからのプレゼントを待つ子どものような気分で、俺は電話ボックスへと向かった。

 

 そして、一時間後──到着した。

「着いた……」

 少し飛ばし過ぎたせいで、完全に息が切れていた。途中見かけた自販機で購入したお茶を一気に飲んで、水分を補給する。

「ふーっ……」

 一分程度時間をかけて、呼吸を整える。よし、心の準備はできた。

 電話ボックスに入り、百円玉を投入する。そして、ゆっくりと、丁寧に、ボタンを押す。

 プルルルル

 コール音が鳴り響く。口内にはいつもより唾液が分泌されており、思わず唾を呑み込む。あと数秒だ。数秒にも満たない未来に──全てが分かる。

 プツッ

『おう。藤木か。時間通りだな』

「た、高橋……分かったか? 昨日の暗号」

『まあ……一通りはな。時間がなかったってこともあって、完璧とは言えないが、大まかには解読できたと思うぞ』

 あぁ、やはり、高橋は優秀だ。持つべきものは教授の友人だな。

「そ、それで……どういう意味だったんだ? あの数字は」

「…………」

 俺の問いに対して、高橋は意味深な沈黙をした。

「高橋? どうした?」

『いや……まあ……ちょっと言いにくいんだが……』

 明らかに彼は言葉を濁している。「言いにくい」とはどういう意味だ。

「あまり時間がないんだ。早く教えてくれ」

『あぁ……単刀直入に言うと、この数字にはある共通点がある。お前も察してるとは思うが、これは西暦を指している。つまり、ここに記されている一九七八年から二〇〇〇年までに、ある事件が起こっているんだ』

「事件……?」

 俺の予想は的中していた。

 だが、問題はここからだ。一体、その年に何が起こっていたのか。やっと知ることができる。

「それで、その共通事項ってのはなんだ?」

『……ちょっと言いにくいんだが』

 高橋は少し声のトーンを落とす。

 それはまるで、周囲に聞かれてはまずいような話をするように聞こえた。だが、この数秒後──俺はなぜ、彼がここまで話すのを躊躇っていたのかを知ることになる。

『……集団自殺だよ』

「……は?」

『だから、この数字の年に、宗教団体が集団自殺事件を起こしているんだよ。オカルトライターのお前なら知ってるだろ。一九七八年といえば……“あの事件”が起きた年だ』

「──ッ!?」

 ここで、俺はようやく思い出した。ずっと抱えていた既視感の正体は──これだ。

 一九七八年、南米で発生した集団自殺事件。新興宗教団体の教祖が信者たちを扇動し、一斉に九百人を超える信者が服毒自殺をした歴史的な大惨事だ。あぁ、これで全て合点がいく。そうか──俺は──最初から天国の扉とあの団体をどこか重ねていたんだ。だから、すぐにあの数字に何か察するものがあったのか。クソ、どうしてあと一歩、思い出せなかった。

 自分の間抜けさに腹が立つ。こんな重要なことを忘れて、何が記者だ。一人前を気取っていた自分の愚かさに腸が煮えくり返る。

『おい、大丈夫か?』

 電話の向こうの異変に察したのか、高橋が心配そうに語りかける。

「あぁ……続けてくれ」

 今は自戒している場合ではないだろう。時間が惜しい。先に全てを知るのが先決だ。

『さっきも言ったが、ここに書いてある数字は宗教によって集団自殺事件が発生した年だ。まあ、中には自殺なのか殺人なのか議論されているものもあるが、宗教が関連して多数の死者が出てるってのは変わらないな』

「それで……記号の意味は分かったか?」

『いや、それに関してはちょっと分からないな。マルとバツってことは何らかの“成功”か“失敗”を指すと思うんだが……宗派も国もバラバラで、集団自殺ってことくらいしか共通事項がない』

「……成功か失敗、か」

 なぜ、この書き起こしが天子の部屋にあったんだ。まさか──最悪の可能性が脳裏を過る。

『それで、次は漢字の方なんだが……』

 整理が追い付かないまま、高橋は話を続ける。

『これに関しては検索してもほぼ情報が出てこなかったな。ただ、一点だけ……この「彁」に関しては分かったことがある。こいつは一般的に使われる文字じゃない。俗に言うところの“幽霊文字”ってやつだ』

「幽霊……文字?」

 聞き慣れない単語が出てきた。

『お前でも知らなくても無理はない。これはオカルトってより、どっちかと言うと日本語学の話になってくるからな。一九七八年……何の偶然か知らんが、あの事件と同じ年だな。ちょうどその年に、コンピューターで取り扱う日本の漢字をまとめようってことで「JIS C 6226」って規格が制定されたんだよ。要するに、デジタル上の漢字辞典だな』

「それが……幽霊と何の関係があるんだ?」

『その規格の中に、どこにも出典がない漢字が紛れ込んでいたんだ。存在しないはずなのに、なぜかデータ上に存在する文字、これを幽霊文字と呼ぶらしい。“彁”はその幽霊文字の一つだ』

「……っ」

 成程。幽霊文字とはよく言ったものだ。確かに存在するが、誰もその意味を知らない文字。まさしく、幽霊の名を持つに相応しいだろう。

『まあ、こんなミスが発生した原因はただの誤写とは言われているがな。それでも“十二文字”が今でも幽霊文字として記録されている。分かったのはこんぐらいだな。この……便宜上は彁混神(かまかみ)と呼ぶことにするが、こいつに関する情報は他には何も出てこなかった』

「……そうか」

 集団自殺。幽霊文字。クソッ、どうなってやがる。謎を解明するどころか、余計に増えてないか。頭が痛くなってきたぞ。

『……なぁ、藤木。お前、今、カルトの取材してんだろ? 悪いことは言わないから、今すぐ逃げた方がいいぞ。とてもじゃないが、まともな集団とは思えない』

「……あぁ、分かっている」

 ちょうど俺も、これからのことを考えていたところだ。果たして、このまま教団に戻っていいのか。十二月、降誕祭、集団自殺、彁混神──嫌な予感がしてきた。

「すまん、ここで切る。ありがとな。色々調べてもらって」

『おう。今度の飲みはお前の奢りってことで許してやる。もう俺たちも若くないんだから、あんま無茶すんなよ』

「そう……だな。じゃあな」

 受話器を戻し、俺は頭を抱える。

「どうする……これから……」

 確証はない。しかし、俺の記者としての──いや、生物としての防衛本能が警鐘を鳴らしていた。これ以上は関わらない方がいい。逃げろと。

 一体、天子が何を企んでいるかは知らないが、既に一般人の俺が足を踏み入れていい領域を超えている。このまま教団に戻ってしまえば、何が起こるか分からない。生命の危機を脅かされる可能性まである。過去にカルトに関わり、命を落としたジャーナリストを──俺は何人も知っている。

「…………っ」

 しかし、しかしだ。ここで引き上げてしまったら真実は永遠に闇の中だ。今、ここで天国の扉が何をするのか見届けられるのは世界中でただ一人、俺だけだ。この仕事は俺にしかやり遂げることはできない。

 意を決し、電話ボックスの扉を開ける。そして、俺は──教団本部に向かって走り始めた。直接、この件を天子に問い質す必要がある。その仕事を遂行するまでは帰れない。

 夜明け前ということもあり、周囲は更に漆黒の闇に覆われていた。昨晩と比べても、どこか影が濃くなっているように思える。俺にはそれが“天国の扉”へと続く道標のように見えてしまった。

 

 

「おかえりなさい。藤木さん」

「…………っ」

 門の前には──天子と数人の屈強な男性信者が待ち構えていた。

「さて、少しお話があります。一体、どこに行っていたんですか?」

「…………」

「黙秘、ですか。ふふっ、まあそれでも構いませんよ。今更、止められませんから」

 まるで、俺の行動を全て見透かしているような口振りで、天子は笑みを浮かべる。そして、隣の信者にアイコンタクトで何かの合図を送った。

 瞬間、信者たちが襲い掛かってきた。その動作に迎撃の姿勢を取るが、相手は四人もいる。抵抗虚しく、俺は取り押さえられてしまった。

「クソッ! 離せ!」

「少々、予定は狂ってしまいましたが……藤木さん、あなたにはまだ役目が残っています。その命を最後まで私たちのために使ってくださいね」

 そう言うと、天子は俺の鼻と口を覆うように布を被せる。

 その布の匂いを嗅いだ瞬間──俺の意識は全身麻酔に当てられたように、闇の中へと落ちていった。

 

 

「…………っ」

 なんだ。何が起きた。

 目を覚ますと、俺は殺風景な教室の中で寝転んでいた。

「うっ……なっ……」

 何とか立ち上がるが、足元がおぼつかない。記憶が混濁している。

 確か──俺は──高橋と連絡を取るために抜け出して──そこでメモの内容が集団自殺の年月だということを知って──っ。思い出した。その後、教団に戻ったところを天子に襲われたんだ。

 クソッ。ついに本性を見せやがったな。綺麗ごとを並べていたが、結局のところ、あいつらは異常な信仰を持っているカルトだ。しかも、他人に危害を加えることに一切の抵抗を持っていない。このまま野放しにしていい集団じゃない。急いで警察に行かなくては。

 教室から出ようとした瞬間、俺はある違和感に気付く。

 ちょっと待て。なんで俺以外に誰もいないんだ。普通、見張り役がいるべきじゃないのか。

 室内どころか、教室の外にも人の気配はなかった。妙だ。襲われたことを考えると、俺は監禁に近い状態にあるはず。それなのに、なぜ誰もいない。

「……今、何時だ」

 ふと、現在の時刻が気になり、腕時計を確認する。針は午後六時を指していた。ということは──半日以上も意識を失っていたのか。つまり、現在の日付は十二月二十四日午後六時。

「……降誕祭はもう、始まっている?」

 まさか、その祭りが始まったから、信者は消えたのか。いや、さすがにそれはあり得ない。いくら何でも、都合が良すぎる解釈だ。やつらもそこまで間抜けではないはず。ではどこに消えた。

「どちらにしても……ここで悩んでいる暇はないか」

 ひとまずはこの施設からの脱走が先決だろう。祭りに夢中になってくれているなら、願ったり叶ったりだ。教室を抜け出し、出口を探す。

「ここは……三階か?」

 廊下の窓を覗くと、その風景から俺が眠っていたのは本校舎の三階だということを察する。

 ここから一階まで降りて、正面玄関を抜けて外に出る。それも、誰とも遭遇することなく──か。かなり骨が折れる作業だな。時と場合によっては手荒な手段を使う必要がある。

 だが、もう色々と俺も振り切れた。向こうがその気なら、容赦はしない。徹底的にやってやるぞ。階段を一段ずつゆっくりと降りて、警戒をしながら拳に力を入れる。だが、そんな俺の覚悟は意外な形で空回りすることになる。

 二階へ到達した瞬間に、妙なものが廊下に転がっていることに気付く。

「……なんだ、あれ」

 距離は十メートルほど離れていたが、それは遠目から見てもかなりの大きさだった。そう、例えるなら──成人ほどの人間が寝転がっているような──

「──ッ⁉」

 俺は慌てて、その物体に駆け寄った。

 距離が狭まるにつれて、疑惑が確信へと変わる。

「ひ、比津地……?」

 そこに転がっていたのは──天国の扉で最初に知り合った信者である比津地だった。

 しかし、どこか様子がおかしい。彼は廊下で横になったまま、うんともすんとも言わない。まるで──既に事切れているかのようだった。

「お、おい!」

 うつ伏せになっている彼の肩を持ち上げる。

「なっ……⁉」

 彼の顔を確認した俺は──言葉を失ってしまった。

 その表情からは既に生気が消えており、白目を剝いている。素人でも一目で分かる。比津地は──死んでいる。ここにあるのは命が宿っていない、ただの亡骸だ。

「う、嘘だろ……なんで……」

 長年、オカルト業界に勤めてはいるが、間近で家族以外の死体を見たのは初めての経験だった。まだ死んでそこまで時間が経っていないのか、死後硬直は始まっておらず、僅かにだが人肌の温もりは残っている。しかし、それはただの残滓に過ぎない。間違いなく比津地は死んでいた。

 なぜ、彼がここで死んでいる。心臓発作、脳卒中、不整脈──様々な突然死の症例が思い浮かぶが、それにしては不自然な点がある。彼が倒れていた床には血溜まりが発生しており、口元から流血していた。

「毒、か?」

 自ら服毒自殺を実行した。そう考えると、合点がいく。

 服毒自殺──その言葉で、俺は先日の高橋との会話を思い出す。

「……お、おいおい。まさか」

 まさか、あり得るわけがない。そんなことが起きるわけがない。

 脳内では目の前の現実を否定する言葉が溢れかえる。考えすぎだ。現代日本で、あのような惨劇が発生するなんてことは決してない。その時、ふと、目の前の教室の扉が不自然に半開きになっていることに気付く。

「…………っ」

 なぜだろうか。目の前の死体を無視して、俺はその教室に誘われるように、足を運ぶ。そして、扉を開いた。

 そこには──比津地と同様に、白目を剥きながら数十人の信者が教室内で倒れていた。

「あっ……あっ……」

 その光景に圧倒され、腰が抜けて尻もちをつく。

 死んでいる。全員。

 腐敗臭や刺激臭とはまた違った匂いが教室内には充満している。これは──“死臭”だ。大量の人間の死の匂いが漂っているのだ。

 傍には紙コップが並んでいる。まさか、これで毒を──っ。

「うっ⁉」

 たちまち胃酸が込み上げ、俺はその場で嘔吐してしまった。

 吐瀉物の匂いが死臭と交じり合い、鼻孔を塞ぎたくなるほどの悪臭が発生する。このままでは余計に吐き気が増す。四つん這いに近い態勢で、何とか教室を離れた。

「な、んだ……何が起こっている……」

 呼吸が乱れる。正常な思考ができない。口内にはまだ酸味が広がっている。

 一度、落ち着く必要がある。このままでは気が狂ってしまう。

「すー……はー……すー……はー……」

 深呼吸を繰り返して、呼吸を整える。そのまま数分間、俺は比津地の死体の前で何とか平静を取り戻そうとしていた。

「はぁっ、はぁっ」

 駄目だ。昨日から色々なことが起こり過ぎて、おかしくなる。まさか、俺はずっと夢を見ているのか。そうだ。これが現実であるわけがない。

 夢なら──痛みはないはずだ。

「ぐっ⁉」

 俺は目の前の壁に頭を打ち付ける。衝突の甲高い音と共に、額から血が零れ落ちた。

「……夢じゃ、ない」

 そこにあったのは確かな“痛み”だった。これは紛れもない現実だ。頭に上っていた血が抜けたおかげか、多少は落ち着いてきた。

 間違いない。今、この天使の故郷では一九七八年に発生した集団自殺と同じことが起こっている。そして、それを扇動したのは教祖である天子だ。この教団に所属している二百人以上の信者は──十二月二十四日の降誕祭で、全員服毒自殺をする予定だった。

「なんだよ……これは……」

 何が天国の扉だ。こんな光景のどこに天国がある。これは紛れもない──地獄だ。そして、天子は何の罪もない人間を死に追いやった悪魔そのもの。あいつは一体、今どこにいる。あの女がそう簡単に信者と一緒にくたばるわけがない。きっと、あいつだけはまだ生きているはず──っ。その時、彼女の居場所の一つだけ心当たりがあることを思い出した。

「……そうか。あそこか」

 あれは三日前の出来事、比津地に案内をされた際に、この施設内で唯一、普段から立ち入ることが許されていない場所があった。

 集いの場の“祭壇”。そこに必ず、天子はいる。そんな予感がした。

「くっ……」

 足腰に力を入れて、何とか立ち上がる。

 予定変更だ。俺は集いの場である体育館に向けて、歩き出した。

 あの祭壇と呼ばれる場所に、全ての答えがあるはず。俺はそれを──見届けなくてはならない。

 

 

「はぁっ……はぁっ……」

 手すりを使って、何とか一階まで降りてきた。

 頭部からはまだ絶え間なく出血が続いている。クソ、強く頭を打ち過ぎたな。傷が深い。

 右手で頭を押さえながら、体育館に続く渡り廊下を目指す。その最中、通りかかった教室の窓からは──先程と同様に、信者たちが服毒自殺している光景が広がっていた。

「お、おい……誰か、生きてるやつはいないのか」

 いつの間にか、俺は生存者を求めて、声を張り上げていた。しかし、返答は──ない。二百人近くが共同生活をしているとは思えないほど、校舎内は静寂に包まれていた。

「だ、誰か……いないのかよ……」

 本当に全員死んでしまったのか。二百人だぞ。あれだけの人数が、一人の女の命令で、全員が死んだのか。頼む。一人だけでもいい。誰か、生存者はいないのか。

「……っ⁉」

 生存者を探そうと左右を見回していた時、ある教室が目に入った。

「あ……あぁ……」

 その光景を見た瞬間に、俺は嗚咽を漏らしてしまった。

 こんな、こんなことが許されていいのか。あぁ、神よ。

 涙が溢れ、全身が震える。

 その教室は──学びの場として使用されていた場所。そう、そこには──身を寄り添うように、数十人の子どもたちが机にうつ伏せになって倒れていた。

「お、おい……おい……!」

 俺は扉を開けて、一番前の子に語りかける。しかし、反応はない。その隣の子の肩も揺らすが、同じく既に事切れていた。

「あ、あぁっ……な、なんで……なんでだよ……」

 この子たちが何をした。なぜ、この歳で死ななくてはいけない。

 あまりに理不尽な光景に、怒りさえ覚える。まだ年端もいかない彼らは──なぜ、この集団自殺を共に遂げたのか。一体、ここの信者たちは何を信仰して、尊い命を捧げたんだ。

 この先の祭壇という場所に──答えがあるのだろうか。

「……ぐっ」

 涙と血を拭って、俺は立ち上がった。

 あと、もう少しだ。もう少しで、その答えが分かる。

 

 

「……開いてる」

 体育館に足を踏み入れると、あれだけ厳重に施錠されていた祭壇への扉が開かれているのが目に入った。やはり、天子はこの先にいる。

 扉に近付くと、まるで地獄の入口のように、地下へと続く闇が広がっていた。ゆっくりと、足場を踏み外さないように、階段を下りる。そして、三十段ほど下ったところで──最下層へと辿り着いた。

 周囲は薄暗く、光源は壁に数十本の蝋燭が立っているのみ。しかし、その闇の中でも“彼女”の姿だけは鮮明に見えていた。

「天、子……」

「ん? あぁ、藤木さん。もう起きたんですね」

 くるりと、天子はこちらに向かって振り向き、笑みを見せる。

 相変わらず、憎たらしいほどの美貌だったが、もう騙されることはない。この女は人間の皮を被った悪魔だ。巧みに言葉を操り、二百人以上を死へと導いた扇動者。歴史に名を残す大罪人。

「お前がしたかったことは……これなのか……」

「これとは?」

「ふざけるな! 信者に集団自殺を命じたのはお前だろうが!」

 この状況でも白を切る天子に対して、俺は怒りをぶつける。

「あぁ。そっちのことですか。そうですね。正解でもあり、不正解でもある……とだけ、言っておきましょうか」

「はぁ……?」

「ふふっ。藤木さん。あなたはタイミングがいいです。やはり、全ては因果律によって定められていたのですね。あなたがここに来ることも、私の部屋でメモを盗み見ることも、そして、これから目撃することも──」

「な、何を……」

 その時、天子の背後に妙な物体が見えた。

 テーブルのような台座に、布に覆われた“何か”が蠢いている。まさか、あれが祭壇の正体か、

「お、おい。後ろに、誰かいるのか」

「さて、時間です」

 そう言うと、天子は布を剥ぎ取る。

 そこにいたのは──“妊婦”だった。手足を拘束され、身動きが取れない状態にされており、口元には猿轡が巻かれている。

「ふふっ。大丈夫ですよ。恐れる必要はありません。あなたは依り代に選ばれたのですから」

「フーッ。フーッ」

 優しく、我が子に語りかける親のように、天子は妊婦の髪を撫でる。なんだ。この光景は。これから天子は何をしようとしているんだ。

「その人を……どうするつもりだ」

 答えを聞くのが恐ろしかったが、俺は天子に対して問いかける。

「ふふっ……決まってるじゃないですか。これから始めるんですよ」

「始める、だと」

「えぇ。“降誕祭”をね」

「ンンンンンンン‼」

 瞬間、妊婦の体が海老のように仰け反り、肥大化した腹が更に膨張する。

 ど、どうなっている。臨月だとしても、あそこまで膨れるのはあり得ない。何百匹の蟲が詰め込まれているかと疑うほどに、妊婦の腹は胎動を始めた。

「う、うまれ──ルッ」

 今、産まれる、と言ったのか。まさか、降誕祭の目的は──集団自殺じゃない。あの腹に入っている何かを産み落とす儀式を指す言葉だったのではないだろうか。

「あぁ、やっと……この時が来ました。今度こそ、成功です」

 天子は妊婦の前で天に腕を掲げる。

 そして、ついに──出産が始まった。

「ギャッ……」

 妊婦の金切り声と共に、彼女の腹は真っ二つに裂ける。

 腹から出てきたのは──大男のような筋肉質の太い腕だった。最初は片腕だったが、数秒後にもう片方の腕も出現し、そのまま妊婦の腹をまるで扉を開けるように外側に裂きながら、そいつはこの世界に降誕した。

「あ……あ……」

 常軌を逸した光景に、言葉を失う。全身に鳥肌が立ち、悪寒で震えが止まらない。

 妊婦の腹から現れたのは──全身を漆黒に染め、頭部が山羊の形をしており、腕が四本、背部には翼と尻尾が生えている巨体の奇妙な生物だった。いや、俺はこいつの名を知っている。そうか、こいつが──

「彁混神……」

 天子の目的は最初からこいつを呼び出すことだった。

 恐らく、天国の扉という宗教団体はこの怪物を呼び出すためだけに用意された贄だ。天子は十年もの歳月をかけて、神へ捧げる供物を育て上げた。

「あぁ……お父さま。よくぞおいでくださりました」

 忠誠を誓う家臣のように、天子は膝をつく。その姿を前にして、彁混神は──彼女の頭部を撫でるように触れた。

「……私の天命は遂げました。次は藤木さん。あなたの番です」

「──ッ⁉」

 天子の言葉に、心臓の鼓動が跳ね上がる。

 俺の番。俺もまた──贄ということか。ここで彁混神に殺される。

 逃れられない死。この短期間で数多くの死を目撃したせいか、俺の体は自然とそれを受け入れていた。全てを知った今、後悔は何もない。この光景を俺は心のどこかで望んでいた節さえある。我ながら、どうしようもない男だ。

 ゆっくりと、彁混神と天子は俺に近付いてくる。抵抗なんてしても無駄だというのは分かっている。俺は一歩も動くことはなく、残された時間でこれまでの人生を振り返っていた。

 そして、彁混神は俺の前に立つ。時間はあと何秒残されている。二秒か、三秒か。その太い腕で俺の胴体を貫くのか。頭蓋骨を嚙み砕くのか。内臓を毟り取ってボロクズのように捨てられるのか。様々に悲惨な結末が思い浮かぶ。

 刑の執行を待つ死刑囚のように、俺は目を瞑って闇の中で死と同化する時を待っていた。しかし──なぜだろうか。五秒。十秒経っても、俺はまだ生きている。彁混神はとっくに俺の前にいてもおかしくない。そして、二十秒が経過する。

 さすがに不自然だ。なぜ、俺はまだ生きている。ゆっくりと目を開けると──彁混神は俺の横を通り過ぎていた。

「……なっ」

 階段を上り始めている彁混神の隣には天子が補助をする形で体を支えていた。

「お、おい!」

 思わず、俺は叫び声を上げる。彁混神はその声に反応すらしなかったが、天子はこちらに振り向いた。

「な、なんで……なんで俺を殺さないんだよ!」

「殺す? 私が? なぜ、藤木さんを?」

「は、はぁっ⁉ 普通、殺すだろ! いいのか! 俺は全てを知っているんだぞ!」

「あぁ……ふふっ、どうやら……あなたは少し勘違いをしているようですね」

 天子は口元を掌で覆う。その時に見せた笑みはどこか、これまで見せた仮初の愛想笑いではなく、心の底から笑っているように見えた。

「藤木さん。あなたは最初から……今日の出来事を世間に公表するために呼ばれたんですよ。神話には記述者が必要、ということです」

「……記述者、だと」

「では、私はこれで。お仕事、頑張ってくださいね」

 俺は──記述者。最初から、天国の扉の最期を見届けるために用意された駒──

「うっ……」

 ここで、俺は意識を失った。

 その後、天子と彁混神はどこに消えたのか。それは誰にも分からない。

 

 

 あの日から二週間が過ぎた。

 次に俺が目を覚ましたのは翌日、病院のベッドの上だった。

 どうやら、近隣住民の通報により、俺が意識を失ってから数時間で天国の扉集団自殺事件は発覚したらしい。犠牲者は合計二百三十五人。教団にいた者は天子を除き全員死亡。うち三十人は未成年の子どもだった。教祖である天子の死体は未だ見つかっておらず、重要参考人として警察が行方を追っている。

 現在のワイドショーやニュース番組はこの事件で持ちきりだ。そりゃそうだ。平和な日本で発生した二百人以上の集団自殺。世界的に見ても、ここまでの人数が一斉に命を絶ったという事例は数件しかない。タブーと言われた宗教ネタだが、見逃せる限度を超えているだろう。恐らく、数か月はこのお祭り騒ぎが続くだろうな。

 そして、唯一の生還者である俺のことも──既にマスコミに報道されていた。生き残ったのは偶然、潜入取材をしていた雑誌記者。これ以上においしいネタもないだろう。今は関係者以外の面会は拒絶しているが、そのうち俺にも取材陣が押し寄せることになる。皮肉な話だ。今まで俺は追う側の立場だったのに、追われる側になってしまうとは。

 

「おぉ、藤木。もう元気そうだな」

「えぇ。怪我自体は軽傷ですから」

 編集長はここしばらく、毎日見舞いに来ている。

 一応、俺に潜入取材を命じたのは彼だからな。多少の責任は感じているか。だが、それも──あいつの言葉を借りるなら、定められた因果というやつだったのだろう。

「どうだ。退院はできそうか」

「医者の話だと、あと一週間もあれば完治するそうですよ。まあ、体調自体はもうとっくに戻ってますけど」

「そ、そうか。無理はするなよ」

 いつもは偉そうにしている編集長が、この病室に来るとやけに物腰が低くなる。安心してくれよ。あんたを訴えるなんて真似はしないから。

「昨日、奥さんと娘さんが見舞いに来たんだってな。どうだった?」

「“元奥さん”ですよ。別に、感動的な再会ってわけでもありませんでした。ただ、もうこれ以上危ないことはしないでくれって泣かれましたけど」

「お、おう……そうか……」

 

 この事件を機に、離婚した妻とはたびたび連絡をとるようになった。とは言っても、そこまで関係性が変わったわけじゃない。彼女も俺も、再婚する気はさらさらない。あくまでこれはただ友人としての付き合いだ。それ以上に望むものはない。

 だが、数年振りに、歩けるようになった娘と再会した時は──年甲斐もなく、泣いてしまった。これから先も、しばらくは顔を合わせるのを許してくれるそうだ。これが俺にとって、一番の収穫だったかもしれない。

「で、編集長。例の件はどうなりましたか」

「あぁ、問題ない。ちゃんと枠は取れたぞ。上層部も、今回の事件は大きなチャンスだと思っているらしい」

「そうですか。そりゃよかった」

 ノートパソコンでタイピングを続けながら、俺は笑みを浮かべる。

 俺はあの事件の真相をまだ誰にも話していない。警察の事情聴取にも、信者の自殺現場を目撃し、逃走する天子を見たとしか語っていない。メモの件や彁混神を知っているのは──俺と、高橋だけだ。彼にも口止めはしている。信頼できる男だ。決して外に情報を漏らすことはないだろう。

 なぜ、事実を誰にも告げないのか。そんなことは決まっている。一体、誰がこんな突拍子もない話を信じると? 凄惨な現場を目撃して、頭がおかしくなったと思われるだけだ。

 だが、俺もこのままあの日の記憶を墓場まで持って行くつもりはない。公表するには──時と場を選ぶ必要がある。

 そこで、ある作戦を考えた。どうすれば最も効率的に、この事実に真実性を持たせることができるのかと。それは世間の関心が最も高まっている時期に、全国規模で一斉に情報を公開するという方法だった。

つまり──俺が本を出版すればいいわけだ。あの日、何が起きたのか。目撃した全てを書き起こした記録を発表する。勿論、事前に内容は伏せておく。これで余計な情報が錯綜することなく、俺の体験をそのまま伝えることができる。

 しかし、内容が内容だからな。原稿を編集長に見せたら、計画自体が中止になる可能がある。その時は素直に別の出版社を探すか、最悪ネットで公開すればいい。今のご時世、発表する場はいくらでもある。

 天子は最後に、俺は記述者だと言った。この事件の記録を残し、世間に発表する。最初からあいつはそれが目的で、俺を招いたのだろう。あの女は──彁混神と共に、新しい神話を後世に残そうとしているのだ。このまま俺が本の内容を公表すれば、天子の狙い通りになる。果たして、それでいいのだろうかと、今でも悩んでいるのは事実だ。だが──それ以上に、あの彁混神を野放しにしておくのは危険すぎる。

 今だからこそ分かる。彁混神はこの世の者ではない。通常の生命と違って、あいつは死の渦から産まれてきた怪物、化け物だ。このままでは彁混神は死を撒き散らし、大勢の犠牲が出ることになるだろう。いや、もう既に手遅れかもしれない。

 だからこそ、一刻も早く、この状況を人々に伝える必要があるのだ。邪神が存在するなら、善の神も存在するはず。彁混神に対して、何か対処法を知っている者が現れるかもしれない。俺にできる仕事は──その者に、全てを託すことだ。あの女の好き勝手にさせてたまるか。俺を殺さなかったことを後悔させてやる。

 

「それで、タイトルはもう決めているのか?」

「えぇ。それは最初から。タイトルは──」

 

 

 

『天国の扉』