あと数十年で、幽霊は絶滅する。
最近、このような話題がニュースサイトで物議を醸しているのを目撃した。事の発端は幽霊に関連するとある媒体が近年において減少傾向(絶滅危惧種という単語の方が適切かもしれない)であり、その流れで幽霊という存在そのものが消滅してしまうのではないかと懸念されているのだ。
さて、察しのいい方ならもう心当たりがあるかもしれない。その媒体とは――「心霊写真」と呼ばれているものだ。
一般的には心霊写真は何らかの意思を持った霊的存在が写ってしまった写真、またはそのデジタルデータのことを指し、幽霊本体が写し出されるパターンもあれば、被写体である人物の体の一部分が焼失し、オーブと呼ばれる光る球のような物体が写りこむというケースもある。「おわかりいただけただろうか」というフレーズはまさしく心霊写真の魅力を一言で伝えられるものだろう。一見すると何の変哲もない日常を写した写真だが、よくよく観察すると異形の存在が写りこんでいる。これだけお手軽に、年端のいかない小学生でも恐怖を味わえる媒体は近年においても中々ない。
心霊写真という概念はカメラが発明された一九世紀から存在しており、日本でも二十世紀初頭から撮影されていた記録が実在する。だが、やはりその名を広めたのは一九七〇年代から巻き起こった大々的なオカルトブームからだ。今では少し考えられない現象だが、当時は心霊写真を集めた写真集がベストセラーになり、多くの出版社が挙って心霊写真集を販売していた。しかし、現在ではそのような本たちは見る影もなく、心霊写真自体がめっきり数を減らしてしまった。
なぜ、心霊写真は消えてしまったのか。その原因は――デジタル技術の発展による弊害だと言われている。
この三十年の間で、カメラは著しく進化を遂げた。九〇年代に初めて家電量販店にデジタルカメラが登場して以降、その後は携帯電話やゲーム機にもカメラ機能搭載され、近年のスマートフォンに内蔵されているものはかなりの高性能であり、映画の撮影にも使用されるほどである。だが、技術が発展するにつれて、ピンボケやブレ。多重露光といった不具合を発生させることが困難になった。
「やらせ心霊写真」はこれらの不具合を利用して、不気味な写真を意図的に作成していたと一部の関係者は証言している。つまり〝それっぽい〟写真が作れなくなってしまったことから、心霊写真は数を減らしてしまったのだ。
また、昔と違って、今では一般人でも画像を加工するのが容易になってしまったことも原因に挙げられる。
何らかのアプリを使って、自撮り写真をホラー風に加工した経験は現代の若者ならば一度はあるはずだ。このように、素人でも容易に心霊写真を作り出せるようになってしまっては――少し幽霊が見切れている程度の写真なんて、誰も見向きはしない。たとえ、それが本物の心霊写真であっても。
話を戻そう。技術の発展により、心霊写真は数を減らした。そのことから、近いうちに幽霊も忘れ去られる存在になるのではないだろうかという説が出ているのだ。だが、筆者の見解を述べるならば「それはあり得ない」と断言することができる。
何の根拠があって、断言することができるのか。簡単な話だ。現代の幽霊、または死者は――突然変異を繰り返し、時代に適合する存在に昇華していると私は考えている。
例を挙げるならば『メリーさんの電話』という都市伝説をご存じだろうか。ある日、見知らぬ人物から電話がかかってくる。
「私、メリーさん。今、〇〇にいるの」
そこで、電話が途切れる。再び、電話が来る。
「私、メリーさん。今、〇〇にいるの」
先ほどと違い、その場所は自身の生活圏内になっている。何度も電話を繰り返すうちに、徐々に電話の声の持ち主は自宅へと近づいてくるというのがこの怪談の肝である。そして、肝心のオチはこうだ。
「私、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの」
思わず、咄嗟に聞き手も背後を確認してしまうほど、見事な構成だろう。筆者がこの話を知ったのは小学生の頃だったが、それからしばらくは自宅の固定電話に出るのが恐ろしかったことをよく覚えている。
ここで注目してもらいたいのが、電話というアイテムの存在だ。
この話を聞いて、メリーさんが江戸時代から伝わる怪談だと思う者はまずいないだろう。一体、なぜだろうか。
明らかに電話という近代機器が登場しているからだ。これが手紙といった前時代的な情報共有ツールならば、その起源は相当古いものだと考察することも可能だが、電話の登場によって、最低でも戦後に作られた創作だと特定することができる。また作中に登場するのがプッシュ式電話、携帯電話ならば、更に後期の時代だろう。
要するに、現代の怪談というものは時代によってアップデートされているのだ。その時代の最新のテクノロジーを組み込むことによって、リアリティが増す。呪いのビデオ、呪いのチェーンメール、呪いのネット動画……現在ではこれらはあまり聞かくなってしまったが、技術の発展と共に、様々な怪異が誕生した。
時代と共に、幽霊は突然変異を繰り返し、適応する。まるでウイルスのように、人から人に伝播し、姿形を変えながら。これが、私が導き出した結論だ。よって、更なるデジタル化が進んでもこの手の怪談話は滅ぶことはないだろう。
少々、前説が長くなってしまったが、ここからが本題だ。では、現在進行形で最新型の怪異は一体何だろうか。少し、一考してもらいたい。
最近、AI関係のニュースをよく見かけないだろうか。昨年の二〇二二年はまさにAI元年と呼べるほどの躍進を遂げた年だった。一般人でも人工知能との会話が可能になり、まるで人間と会話しているかのように、こちらの問いをAIが回答してくれる。この技術を利用して、小学生が宿題をAIにやらせるというまるで未来の世界に足を踏み入れたようなニュースも目撃した。
中でも、画像生成AIに関しては筆者も驚きを隠せなかった。特定のワードを打ち込むだけで、ニューラルネットワーク上で学習したAIがそのワードに適した絵を数秒で描き上げる。
まだ精度はあまり高いとは言えないが、現在でも驚異的な速度でAIの学習は続いている。数年後にはどうなっているか未知数であり、課題はまだまだあるが、絵画の歴史を根本から覆す可能性もある。
さて、時を遡ること数か月前、二〇二三年二月末。オカルト界隈で、このAIに関係する非常に興味深い一報が舞い降りた。それが、以下の内容だ。
「画像生成AIで〝青木ヶ原〟と打ち込むと、謎の女が現れる」
青木ヶ原――それは富士に広がる巨大な森林地帯であり、樹海と呼ばれるほどの木々が生い茂っている土地だ。一二〇〇年前に誕生したという森林にしてはまだ若輩者と呼べるほどの歴史だが、広大な原生林には様々な動植物が生息し、国の天然記念物にも指定されている。だが……このような自然よりも、一般的に青木ヶ原という名でまず思い浮かぶのはまた別のものだろう。
そう。この青木ヶ原樹海は日本でも屈指の自殺の名所だ。
なぜ、この樹海を最期の場所に選ぶのだろうか。その謎に関しては様々な諸説があるが、とにかく多くの人々がこの地で命を絶っているというのは否定できない事実だ。首吊りが一番オーソドックスな方法らしく、ロープを巻き付けた巨大なミノムシを第三者が発見するというのは珍しい話ではない。
そのような土地の名をAIで画像生成すると、なぜか毎回髪の長い女が現れるというのだ。実に不気味で恐ろしく、現代らしい怪談だろうか。偶然とはいえ、あまりの完成度に感服するほどの出来である。
この謎に関しては明確に原理が判明したわけではないが、インターネット上では同名の長髪が特徴的な著名人の名前からAIが自動学習しているのではないかという説が有力のようだ。カラクリが判明してしまうと、少々拍子抜けしてしまうのは事実だが――それはどのような怪談にも通じることであり「怖い」という目標が達成されるならば、真相自体はどうでもいい。
人の手から離れ、独自の進化を遂げたAIは果たしてどこからその情報を入手し、学習したのか。その無機質な情報に恐怖を覚えるのは――我々が感情のある人間だからこそかもしれない。ある意味ではAI画像が現代の心霊写真の役割を果たす日も近いのではないだろうか。
さて、ここで一枚の画像をご覧に頂きたい。
周囲の歪な木の形から察する通り、この画像は筆者自身がAIによって出力したものである。
一見すると、森の中で一人の青い服を着た女が佇んでいるだけであり、確かに不気味ではあるのだが――前述した青木ヶ原の話題に比べると、どこか二番煎じの印象を受けるだろう。
だが、問題は画像の元になった地名にある。実はこの画像、筆者の地元の「■■山」(諸事情により、名は伏せる)をAI画像生成に入力したところ、出力されたものである。
この■■山というのは他県ではあまり有名とは言えないが、地元の人々の間ではそれなりに名の通った所謂心霊スポットであり、某検索エンジンで調べたところ、何件かのスレッドや動画が候補に上がっていた。興味深いのは――山に伝わる怪談の一つに「青い女」が登場するという点にある。
私も■■山が心霊スポットなのは存じ上げていたのだが、青い女の噂はこのAIが作り出した画像に関連する話がないか、調査をしていた時に偶然発見したものであり、耳にしたことがない話だった。
そこで、ある疑問が沸き上がった。一体、AIは……どこから青い女の情報を入手し、学習したのだろうか。「■■山」と「青い女」――両者はどのような関係で結ばれているのか。広大な電子の大海原から学習するAIの性質上、インターネット上にはその痕跡が残っているかもしれない。また、偶然であったとしても――何らかの因果関係を証明できないだろうか。
私はこの事実に非常に知的好奇心を覚えた。そこで、学生の身ではあるのだが、この■■山と青い女に対して、独自で調査を開始した。
長々と経緯について語ってきたが、本稿の題材は■■山に出没する青い女についての情報を筆者と協力者が追跡、記録したものである。また、後述する人名、地名、引用文献では■■山と同じく、一部の名を伏せ字、または仮名として扱っていることをご容赦頂きたい。
最初に読んで頂くのは今回の主軸である■■山に関してインターネット上に残されている逸話だ。都市伝説を扱った匿名掲示板のスレッドの一つに何回かに分けて書き込まれているのだが、ハンドルネーム、ID、投稿日等を省略し、小説形式として改稿したものである。
『青い女』(都市伝説、怖い話を集めようpart17より抜粋)
ちょっと前の出来事なんだが、今でも思い出すと震えが止まらないからここに書かせてくれ。
俺の近所に■■山って結構有名な心霊スポットがあるんだ。いや、有名ってのはちょっと言い過ぎだな。県外の人間は聞いたことがない場所だと思う。標高は●●●メートルで、本格的な登山ってよりはピクニック気分で子供でも登頂できる山だ。
日中はハイキング中の老人がいたり、どこかの小学校の集団がいたり……心霊スポットって言っても、そこまでみんな本気で信じてるわけじゃないと思う。俺だって、具体的に幽霊を見たとか話は聞いたことがなかったし、過去に大きな事件が起きたって話は聞いたことがなかった。
だから……あんまり俺も信じてなかったんだ。よくある話だろ。噂に尾ひれがついて、別に何もない場所が心霊スポットになってるって。■■山も……そうだと思ってたんだ
この前の盆に、地元に帰った時の話だ。そこで、高校時代の仲間と飲もうってことになって、友達の家で集まって夜通し飲み明かしてた。あんまり言っちゃダメなことなんだが、まあ賭麻雀とかポーカーをして遊んでた。
その時、誰かが言い出したんだ。「次に負けたやつは罰ゲームもしようぜ」って。誰も止めるやつはいなかった。で、もう分かってると思うが、俺が負けたわけだ。それで罰ゲームってのが……■■山に一人で行って、そこにある祠の写真を撮ってこいって。
今思えば、一人で山に登るなんてめちゃくちゃ危ないと思う。だって、幽霊とかそういうの抜きにして、普通に危険だろ。夜道の山道で足なんか滑らせたら、こっちが幽霊の仲間入りだ。でも……その時は酔ってたってこともあって、俺はその罰ゲームを受け入れた。
そいつの家から■■山の登山口までは徒歩十分程度ってこともあって、すぐに着いた。嘘をつかないように、証拠としてリアルタイムで写真を送れって言われてたから、看板の写真を撮った。
で、■■山に入った俺は目的地の祠を目指すことにした。確か、深夜の1時くらいだったと思う。この時はそこまで恐怖は感じてなかった。そもそも、幽霊なんて信じてなかったし、貰った懐中電灯がめちゃくちゃ明るかったってこともあって、余裕だと思ってた。
ちょっと変だなって思ったのは……10分くらい歩いた時だった。何か、懐中電灯の電源が急に消えたんだ。一瞬ビビったけど、すぐにまた付いたから……電池切れが近づいてるかと思って急ぎ始めた。
それからは特に何も起きずに、祠に辿り着いた。証拠として道中の写真を何回か撮りながら、大体30分くらいは山道を歩いてたと思う。その祠が何の神を祀っているのかは俺にも分からんが、最近供えられたっぽい饅頭が置いてあった。そして、証拠の写真を一枚撮って、その画像をメールであいつらに送った。それがこれだ。
※該当スレッドには投稿者が撮影した画像が添付されていたが、現在は削除済みなのか、アップローダーのリンクが切れているのか、閲覧できない。
一分ぐらい経った後、すぐに返信のメールが来た。
『おい、その写真に写ってる女誰だよ』
最初、その文面を見た時は意味が分からなかった。俺が撮った写真は祠しか写っていないはず。それなのに、女が写ってるだと? あの時に感じた背筋が冷える感触は今でも覚えてる。
でも、すぐに恐怖より先に怒りの感情が沸いた。いくら罰ゲームで負けたとはいえ、ちょっと悪ふざけとしては度を越えていると思ったんだ。俺はすぐにあいつらに電話をかけた。
『おい、どういうことだよ。女が写ってるって。そういうのやめろよ』
『は? どういうことだよ』
『だから、女なんて写ってるわけないだろうが。ここがどこだか分かってんのか』
『お前こそ、俺たちをビビらせようとしてんだろ。その祠の前に立ってる女は誰だよ。アミか?』
その瞬間、電話がプツリと切れた。アンテナを確認すると、さっきまで1本か2本立っていたのに、いつの間にか圏外になっていた。
正直、この時の俺はかなりビビっていた。祠に写っていた女、
急に圏外になった携帯。明らかに、何か異常事態が起こっていることは確かだ。軽くパニックになっていたと思う。
更に、持っていた懐中電灯の光が急に弱くなった。電池切れ? こんな時に? 兆候はあったけど、タイミングが悪すぎる。
一瞬で辺りは真っ暗になった。一応、月明かりはあったけど……それでも数メートル先も見えない。慌てて、携帯の画面の光で周囲を照らしたのをよく覚えている。
その時……10メートルくらい離れた場所に、何か立っている姿が見えた。いや、何かって表現はおかしいな。直感的に、俺はその正体に気付いた。
あれは……女だ。身長は俺と同じだから、180センチくらい。服は青の……合羽みたいなトレンチコートっぽいものを身に着けてたと思う。明らかに真夏の服装じゃなかった。
一番不気味だったのは……そいつの着ている青い服が、何か光って見えてたんだ。辺りは真っ暗なのに、その青い服の色だけは夜の闇の中でも鮮明に見えた。例えるならあれだ。暗闇の中でも光る蛍光シャツってのを子供の頃に買ってもらわなかったか? あれを着てる感じだった。
この時の俺はもう完全にビビってた。腰を抜かす一歩手前っていうか、立っているのがやっとってくらい震えてた。
そんな時に……急に、懐中電灯の光がまた付きだしたんだ。ピカッて。その光で、目の前に立ってるそいつの顔が見えた。
ずっと、こっちをニヤニヤ笑ってたんだよ。でも、顔がめちゃくちゃ歪んでて、どう見ても人間じゃなかった。しかも、顔には幼虫とか蛆みたいな……虫が集ってた。
その後のことはよく覚えてない。俺は叫びながら、多分発狂寸前になってたと思う。無我夢中でそいつから逃げるために、走った。
気付いたら、登山口に着いてた。数十分も山道を走ってたってこともあって、さすがに体力が尽きかけてた。逃げ切れたか? と思って後ろに振り向いたんだ。
数十メートルくらい離れた場所に……青い光が浮かんでた。
また叫びながら、俺は友人の家に寺に駆けこむように走って帰った。
何とか無事に家に帰った俺の様子が只事じゃないことをあいつらも察したのか、さっきまでちょっと喧嘩口調だったのが嘘みたいに心配してくれた。「何かあったのか」「おい大丈夫か」って。それから一時間ぐらい経って、ようやく俺も落ち着いてきて、■■山で遭遇した青い女の件をあいつらにも話したんだ。
全員……言葉を失ってた。俺が明らかに普通じゃないってのは分かってたし、あいつらも写真に写る青い女を見てたから、俺ほどじゃないにしても、かなりビビってたんだと思う。
で、誰かが言い出したんだ。俺から送られた写真にいた青い女が消えてるって。俺もその写真を確認したけど……青い女はどこにもいなかった。アップした画像はそれだ。
俺や友人たちが見た青い女は何だったのか、あの女の正体は何だったのか。それは今も分からない。色々と調べてみたんだけど、青い女に関する情報は何も出てこなかった。もしかして、お祓いとかにいった方がいいのかな? もし詳しい方がいたら、教えてもらいたいです。
補遺
その後、この投稿に向けられたレスポンスに対して、投稿者は何度か返事をしている。中には投稿者の身を案ずるものも見られ、結果的に彼は友人たちと共に付近の寺へとお祓いに行くことを決めたそうだ。しかし、それから数か月先のスレッドを確認したのだが「青い女」の続報に関する情報は見られなかった。一体、投稿者はどうなってしまったのか。現在では確認できる手段はない。
また、彼が添付した祠の画像に対して、興味深い反応がいくつか見られる。
『あれ? ここの端になんか青いやついない?』
『俺も見える マジで震えが止まらん』
このように、同じスレッドにいた複数の人物が青い女が写りこんでいることを示唆する書き込みを行っていたのだ。しかし、これは単なる悪ふざけの可能性もあり、実際に添付された画像自体には何も写りこんでいないというのが当時のスレッドの流れから推測できる。
*
以上が、インターネット上で伝えられている■■山の「青い女」の逸話だ。ここでいくつか、筆者が着目した点を挙げる。
・なぜ、女は青い服を着ていたのか。
タイトル通り、投稿者が■■山で遭遇した怪異は青い服を身に纏っていた。しかし、この〝青〟という色は怪談話にしては少々疑問を覚えてしまう色である。
考えてみてほしい。一般的に、この手の怪談で登場する女はどのような色の服を着ているのか……数秒で答えは出てくる。
そう、〝白〟か〝赤〟を思い浮かべた人が多いはずだ。
白に関してはやはり死装束のイメージが強いだろうか。令和になった現在でも、やはり白は死の象徴であり、幽霊のパーソナルカラーとして根強い人気を誇っている。
赤は白とは対照的な色ではあるが〝血〟を彷彿とさせられる。極限まで生物の死を目の前から遠ざけている現代人にとっては血の色自体が死を彷彿させられ、グロテスク的なイメージを抱いているのではないだろうか。
また、女性型の怪異というのはこれらの二色に当て嵌まっている可能性が非常に高い。白いワンピースや赤いコートに対して、どこか恐怖心を覚えるのは私だけではないはずだ。
では青い女はどうだろうか。江戸時代に描かれた絵巻の中には「青女房」という妖怪が描かれている。これは目を充血させたお歯黒の妖怪ではあるのだが、本来の言葉の意味としては若く、身分が低い女官のことを指している。つまり、青はパーソナルカラーではなく「青二才」や「青臭い」といった未熟の意味が込められているのだ。これらの事情を考慮すると、青女房と■■山の青い女はあまり関連があるとは言えないだろう。
・なぜ、祠の前で青い女は現れたのか。
本文では目的地である祠の前で、青い女が出現している。事前に懐中電灯の不具合があったが、このポイントが青い女にとって何か重要な要素があるという可能性は非常に高いと思われる。考えられる線としては青い女は■■山に祀られている神であり、無礼を働いた投稿者に対して怒りを露わにした……といったところだろうか。実際に、■■山の敷地内には神社が存在しており、パワースポットとしても名が知られていることから、祠と青い女の因果関係は否定できない要素である。
・青い女の顔に関する描写。
本文では青い女は顔に歪みがあり、虫が湧いていると描写されていた。顔の歪みに関しては人外の怪異ということもあり、不自然な点はない。しかし、虫については少し引っかかる。
体中に蛆が湧いている女の死者――これではまるで、日本神話に登場する「イザナミ」だ。
火の神カグツチを出産してしまったためにこの世を去り、黄泉の国の住民になってしまったイザナミ。彼女は黄泉の国では腐り果てた醜い姿になっており、夫であるイザナギはその姿を見て逃げ出してしまった。まさに、日本で最古の怪異と呼べる彼女の姿と青い女はどこか……似ているのではないだろうか。
・投稿者が撮影した写真。
結局、投稿者が撮影した写真には青い女は写っておらず、友人が見た錯覚ということになっている。しかし、彼らは直接山に行っておらず、あくまでメールのやり取りをしていただけである。つまり、青い女は遠隔でも何らかの認識障害を発生させる力を持っていると仮定していいだろう。
なぜ、霊的存在が電子機器を通して力を発揮できたのかは謎だが……この点に関しては近年の怪異にはよく見られ、標準的に備わっている能力であることから、あまり気にしない方が賢明だと言える。
さて、何となく青い女の全容が見え――るわけもなく、依然として謎は深まってしまった。一体、彼女は幽霊なのか、妖怪なのか、それとも神なのか。
次にご覧頂きたいのは再びインターネット上に立てられたスレッドの一つである。これは前述した「青い女」に関しての話題を雑談形式で当時の思い出を住人たちが語っている様子であり、最初の投稿された「青い女」の書き込みから数年が経過している。
『マジで震えるくらいビビった怪談とか事件ってある?』
※このスレッドは雑談系の板(インターネット掲示板で言うところのジャンル)で立てられたものであり、様々な話題が散乱として語られている場所である。青い女に関連する話題はスレッドの中盤で語られていた。当時の雰囲気をなるべく再現するために、ハンドルネーム、ID、投稿日は省略するが、書き込み自体はそのまま引用する。現在ではあまり見ないネットスラングも使用されているが、ご容赦頂きたい。
『青い女って知ってるやついる? 内容自体はよくある山で幽霊に会うってやつなんだけど当時のスレで一緒にうpされてた画像にその青い女が写ってるとか写ってないとかでめっちゃ怖かった思い出』
『あー見た見た あれ結局どうだったん? マジのやつ?』
『いや知らん でも見たって言ってたやつ少なかったし多分釣りじゃね?』
※ここで一度、青い女に関する話題は途切れている。しかし、スレッドが終盤に差しかかったところで再び話題に上がることになった。
『亀レスだけど上にある青い女はマジだよ 俺が見た時にはマジで祠の画像に青い女が写ってた ここから話すと長いんだけど俺はマジであの画像に呪われた』
『kwsk』
『話すと長くなるんだけど俺その画像見てマジで気分悪くなって熱も出たんだよね それから何か家でも変な霊障みたいなのが起きるようになってやべえなこれって思って近所の霊能力者に相談したんだよ そしたらその画像に写ってたのがマジでヤバいやつだったらしくて俺呪い殺される一歩手前だったって』
『すぐにお祓いしてもらって何とか俺は助かったけど当の本人とあのスレにいたやつらの何人かは死んでるって霊能力者の人は言ってた』
補遺
この書き込みの直後にスレッドが上限に達し、彼の証言はここで終わっている。証拠がなく、虚言の可能性もあるが――貴重な後日談ということもあり、掲載することにした。
雑談系の板では内容が盛り上がったスレッドは次スレ(更にその話題を続けるためのスレッド)が立てられることもあるのだが、当時この板では〝パートスレ〟が住民から蔑まれる風潮があったために、次スレが立てられることはなかった。
その後、筆者も同様の話題が上がっているスレッドがないのか調査したが、有力な情報が記載されているものはあまりなく、過去ログの量が膨大であるため、全てのスレッドに目を通すには年単位の時間を要することから、匿名掲示板関係の調査は打ち切ってしまった。
続けて、動画サイトにアーカイブとして投稿されている生配信の書き起こしを掲載する。これはとある配信者が■■山に関する怪談を語っている内容であり、「青い女」にも触れているものである。
『【怪談】■■山って知ってる?』 (怪情報チャンネルより)
『はいどうも、こんばんはー。今日も配信やっていくよー』
「まってた」
「こんばんは~」
※動画サイト上で生配信されたものであることから、時折視聴者とコミュニケーションを取る場面が見られる。よって、本人の発言だけではなく、チャット欄に寄せられたコメントも同時に掲載することにする。開始直後は人が集まるのを待っているのか、他愛のない世間話を視聴者と行っていた。■■山の件が出るのは配信時間が十分程度過ぎた辺りである。
『じゃあ、そろそろ話そうかな。タイトルにもあった通り、今日の題材はこれ、■■山。みんな、この山の名前は聞いたことある?』
「知らないです」
「どこそこ」
「聞いたことないなぁ」
『あーやっぱり知らないよね。うんうん。じゃあ簡単に概要から説明するね』
「お願いします」
「オナシャス」
『調べたら出てくると思うんだけど、■■山ってのは●●県にある山なんだよね。んで、多分何回か配信見てくれた人なら知ってると思うけど、その●●県って俺の地元のわけよ』
「ふむふむ」
「へぇ」
『それで、これもちょっとホラーに詳しい人なら知ってると思うけど……●●県って実は結構曰くつきの場所なんだよね。そもそも■■地方自体が結構その手の怪談が多い場所なんだけど、その中でも●●県は特に目立つっていうか、立地的に何かあるんじゃないかってくらい変な噂多いんだ。結構ヤバい事件も定期的に起こってるし……若い人は知らないと思うけど■■■■事件とか、最近も小さい子が殺されたってニュースでやってたでしょ?』
「本当だ」
「こわE」
『で、まあ俺の地元ってこともあって、結構怖い話を知り合いから聞いたりするんだよね。というか、フフッ、俺も●●県の怪談はシリーズ化できるくらい話してるし、この下りも何回目だよってくらいやってるけど』
「(笑)」
「草」
「よし。じゃあ恒例行事は終わりにして、本題に入ろっか。さっきも言ったけど■■山は本当に俺の地元にあった山で、実家から徒歩で一時間くらいの距離にあるんだ。標高は……そんなに高くなかったかな。●●●メートルくらい? 富士山とかと比べると、全然小さい山だよね」
「小さいね」
「自分と地元一緒です! ■■山も知ってます!」
『おっ、知ってる人いるね~! もしかしたら同級生だったかも? それで、■■山ってのは結構、地元の人にもパワースポットとか心霊スポットとして知れ渡ってる山だったんだよ。でも……多分、本気にしてる人は俺の周りではあんまりいなかったかなぁ。別に全国レベルで有名な場所ってわけでもないし、さっきも言った通り、山自体がちっちゃいから、よく年配の人とかキッズもいたし、人通りは結構あったと思う』
「あんまり心霊スポットっぽくないね」
『そうそう、噂だけが先行してるって感じかな。どんな幽霊が出るとかも聞かなかったし、歴史的に見ても過去に何か凄惨な事件が起きたってわけでもなかったから、まあ心霊スポットの中でも大したことないって感じだと思う。でも……その山でついに、不思議な体験をしたって人が知り合いに現れたんだよね』
「おぉ」
「どんな話?」
『その人の名前は……いつも通りAさんってことにしておこうかな。Aさんはそのまま地元で働いてる人で、もう結婚して、今年で四歳くらいになる子どもがいるんだよ。この子はBちゃんってことにしておこうか。で、去年の夏休みに、家族水入らずで■■山にハイキングに行ったんだよね。当然、昼間だから、そこそこ人もいたみたい』
「まだ怖くない」
「よくある話だ」
『Bちゃんは虫が好きみたいで、アミとかごを持って虫取りをしてたんだよね。でも……この年頃の子にはあるあるの話らしいんだけど、Aさん夫妻が少し目を離してる間に、お子さんがいつの間にかふっと消えたようにいなくなっちゃったらしいんだよ。ほんの十秒か二十秒くらいの間に』
「え」
「神隠しってやつ?」
『そう、まさに神隠しなんだよね。でも、神隠しってよくよく考えると、どこにでも起きる現象っぽくない? ほら、みんなも経験あるでしょ。子どもの頃に、自分でも分からないうちにいつの間にかデパートで親とはぐれて迷子になったことって。これも一種の神隠しかもしれない。まあとにかく、それだけ小さい子ってすぐどっか行っちゃうんだよね』
「あったなー」
『実は俺もとんでもないところで迷子になったことあるんだよね。昔、家族と海外旅行に行った時に……グアムかハワイのデパートで一人迷子になったんだよ!』
「やばw」
「マジか」
『いやーあの時は今考えるとマジでヤバい状況だったと思う。確か、小学校二、三年くらいだったかな。昔すぎて覚えてないけど、どうやったのか迷子センターに辿りついて、外国人の店員さんに店内放送してもらったのよ。マイクを差し出されて「これで親を呼べ」って顔されたのだけはよく覚えてるわ』
「すげえ体験だ」
「よく無事だったね」
『うんうん……って、だいぶ話逸れちゃったな。どこまで話したっけ……あぁ、Bちゃんが行方不明になったところだったっけ。それで、Aさん夫妻も必死になって探したんだよ。数時間ぐらいそこら中を歩き回って、途中ですれ違った登山客にも小さい子どもを見ませんでしたかって聞きまわって……でも、それでも一向に見つかる気配がなくて、これはいよいよ警察に行った方がいいのかもって考え始めたその時……無事に、Bちゃんが見つかったんだよね』
「よかった」
「どこにいたの?」
『それがさ。姿が消えた場所のすぐ近くの木の下にいたらしいんだよ。変な話でしょ? そこら辺も絶対探してたはずなのに、急に姿を現すなんて。でも、問題はここから。Aさん夫妻も不思議に思ったのか、Bちゃんに聞いたんだよ。今までどこ行ってたのって。そしたら……その子、ちょっと変なこと言ったんだよね』
「なになに?」
『青い服を着たお姉さんに遊んでもらってたって』
「え」
「なにそれ」
「こわ」
『Aさん夫妻も不思議に思ったのか、そのお姉さんはどこに行ったのって聞いたのよ。でも「わからない。どっかに行っちゃった」って繰り返すだけで……結局、何があったのかは分からずじまいってわけ。そんな時、AさんはBちゃんが持ってる虫かごの中身がいっぱいになっていることに気付いたんだよ。まあいなくなってから何時間も経ってたから、その間に虫取りをしてたんだと最初は思ったらしいんだけど……問題はその中にいた虫なんだよね』
「おや…?」
「何がいたの?」
『でっかい芋虫。それも、一匹や二匹じゃなくて数十匹以上。それが虫かごの中で蠢いてたらしい。Bちゃんにそのことを聞いたら、お姉さんに貰ったんだって。これで、この話はおしまい』
「うげ」
「気持ちわる」
「Bちゃんはそのあと大丈夫だったの?」
『ちょっと気味が悪い話だよねー……うん。その後は特に何もなくて、Aさん夫妻もBちゃんも無事だよ。でも、虫かごの中の芋虫はすぐに山で捨てたみたいだけど。さて、これで一応話自体は終わりなんだけど……実はこの話、前日譚があります』
「え」
「どゆこと?」
「まだあんの?」
「いや、これは俺も最近初めて知ったっていうか、Aさんからこの■■山のことを聞いて他に何か似たような話がないか調べてた時なんだけどさ……この青い服を着てた女が登場する怪談話が実は過去に存在したんだよね」
「ヒエッ」
「マジで…」
『ってなわけで、次はそのお話。これは十年近く前にオカ板にあったスレに実際に書き込まれてた投稿で――』
※その後、配信者による「青い女」の語りが始まるため、中略。
『これが、■■山に伝わるもう一つのお話。どう? Aさん家族の話と組み合わせると、ちょっとやばくない?』
「えぇ…」
「本気で怖くなってきた」
「先にその青い女の話を知っていたAさんの作り話なんじゃ?」
『いや、それはないと思う。リアルの知り合いってこと抜きにしても、この青い女の話って■■山で検索しても普通は出てこないんだよね。結構下の方までスクロールして、やっと出てくるっていうか……そいつはあんまりホラーには興味ないし、作り話ってのは考えにくいと思う』
「じゃあ青い女の正体ってなんだろ」
「なんで虫をBちゃんにあげたんだ…」
『一番気になるのはそこだよね~。もし、この青い女ってのが同一人物、いや同一怪異なら、何も危害を加えないタイプなのかも』
「ただイモムシをあげたかったウーマン」
「最初の人も逃げなければ虫貰ってた可能性ありますねw」
『フフッ。それはありえるかも。ってことで、今日の配信はそろそろ終わろうかな。みんな、怖がってもらえたかな?』
「ちょっと怖かった」
「話繋がるのはビビるわ~」
『あ、スパチャありがとー。うん、そうなんだよね。もしかしたら、まだ過去に青い女に関する報告がどっかにあるも。こっちも今、地元の知り合いに■■山について知ってる人がいるか探してる最中でさ。また何か続報あったら動画か配信で話すね』
「期待してます」
「wktk」
『ってなわけで、今日はここまで。みんなお疲れー。また明日も配信するからよろしくねー』
「おつー」
「乙」
「お疲れ様ですー」
「面白かった」
「また明日ーー」
(ここで、配信が終了する)
補遺
その後、配信者のアーカイブを辿ってみたが、■■山に関する続報は見られなかった。それどころか、この配信の半年後、彼は動画投稿、配信自体を止めており、現在、チャンネルは数年前から更新が止まっている。一応、■■山について意見を聞こうとコメントは送ってみたのが、返答が来る可能性は低いだろう。
彼の失踪に■■山が関わっているかどうかは――何とも言えない。確かに、これまで毎日何らかの活動をしており、熱心な印象は見受けられるのだが、登録者数は決して多いとは言えず、伸び悩んでいたようだ。この手の動画サイトをよく利用する人なら経験があると思うが、彼のように突如として活動を止めることは決して珍しいことではない。モチベーションの低下、私生活の変化等、様々な事情が考えられるために、安易に結び付ける方が不自然だと言えるだろう。現在も彼の投稿した動画のコメント欄にはかつての視聴者が時折訪れており、復帰を待ち望んでいる書き込みが残されている。
*
「そういえば先輩、聞きましたよ。今、面白いことしてるって」
「え?」
二〇二三年、三月中旬。
ようやくコロナ禍も収まりが見え始め、マスクの着用が個人の判断に任された頃、彼はまるで好奇心が溢れる子どものような目で私に話しかけてきた。
彼の名前はここでは佐々木としておく。年齢は二十歳であり、私の一つ下の後輩にあたる。共に同じサークルに所属する友人であり、外で食事をしている最中の出来事だった。
佐々木という人間を一言で表すなら「変人」だろうか。いや、こんなネットの怪異を追っている自分が言えた義理でもないのだが、佐々木も相当変わった人間だ。
彼は人一倍好奇心が強いらしく、わざわざ県外から●●●●大学に進学したのも、田舎っぽい場所で過ごしてみたいからという妙な動機だ。本来ならもう少しワンランク上の大学を目指せただろうに、田舎の空気を味わいたいというだけで、辺境の地にあるキャンパスの近くで一人暮らしをしている。
「ほら、今、変な山について調べてるんでしょ。隠したって無駄ですよ」
「……誰から聞いたんだよ」
私が■■山の調査を開始していることは親しい友人にしか話していない。まあ、おおよそ口が軽い者の顔は浮かぶが――問い詰めても無駄だろう。話した自分が悪いとしか言えない。
「それ、どんなやつなんですか? 見せてくださいよ」
「あぁ、もう分かったから。掴むな」
食事の最中にも関わらず、袖を引っ張る彼に対して、私は渋々調査中の資料を彼のアカウントに送る。まだ進捗があるとは言えず、あまり人には見せたくなったが……それで納得してくれるほど、佐々木が諦めのいい性格ではないということはよく知っていた。
それから数十分間、彼は目の前に運ばれた食べかけの料理を放置して、熱心に資料を読み込んでいた。やはり、物書きの端くれとしては自分が書いた文章を読む人の姿を眺めるというのは悪くない気分になってしまう。
「……マジすか。これ」
開口一番に彼はこう言い放った。
「まあ、嘘は書いてないな」
「いや……正直、ちょっと鳥肌立ちましたわ」
その言葉とは裏腹に、彼は既に冷めかけている食事に手を付け始めた。本当に恐ろしいと思うなら、食欲なんて失せる内容だと思うのだが、突っ込みを入れるべきではないだろう。
「先輩。今、これどのぐらいまで進んでるんですか」
「うーん、どうだろ。多分、量的にはまだまだかな」
■■山の調査を始めてから、既に二週間近くが経過していたが、まだまだ掘り下げるべき点はいくらでもあった。
この時にはまだ並行して匿名掲示板の過去ログを洗い流している最中だったが、さすがに数が多すぎるということで、本音を言うと辟易としていた。恐らく、電子情報だけではなく、書籍から新聞に至るまで調査したいというのが本音だったが、はっきり言っていくら春休み中の暇な大学生とはいえ時間が圧倒的に不足している。個人でやり遂げるにはかなりの労力が必要だと薄々気が付いていた。
「よかったら、俺も協力しますよ。これ」
「……え? いいのか?」
「はい。正直、この資料見てかなりワクワクしました。バイトも辞めたばっかで暇ですし、俺も一緒に調べますよ」
「それなら助かるけど……」
突然の提案だったが、断る理由も特になかった。人手が欲しかったところだし、この佐々木という男は言動が軽いが、頭がかなり切れる方だ。私が見落とした情報も、どこかで拾ってくれるかもしれない。
それに……私は一人でこの■■山を調査することに対して、少し不安を抱えていた。実際、まだ青い女の所在については半信半疑の状態だったが、それでも個人で彼女の痕跡を追うという行為は――どこか、恐怖を覚える。一体、バラバラになっているこのパズルのピースが繋がってしまったら、どのような絵が完成してしまうのか。その正体は想像もしたくない醜悪な存在かもしれない。
「じゃ、決まりですね。とりあえず、今はどんな感じで調べてるんですか?」
「今のところは関連ワードからネットで検索して、総当たりしてるところかな。『青い女』と『■■山』を中心にして、噂話がないか調べてる感じ」
「じゃ、俺は文献を調べますよ。全国の山に関する本とか読んでみます」
「それは大雑把過ぎないか? 量も量だし、●●県に絞るくらいにしてもいいと思うが」
「いや、どうせなら、規模は大きい方がいいですよ。この手の話ってどこで何が繋がってるのか分からないですし、もしかしたら別の地方にも似たような話があるかもしれないじゃないですか」
「それは……そうか」
佐々木の意見は一理ある。確かに、実は怪談というものは意外なところで共通点が出てくる。
例えば「かけてはいけない電話番号」という都市伝説をご存じだろうか。これは題名の通り、とある番号に電話をすると、よくないことが起きるという噂である。主に携帯電話が普及した九〇年代後半から女子高生を中心に若者に爆発的に広がったものであり、一度は耳にしたことがある者も多いと思われる。
この都市伝説には地方によって様々な番号のパターンがある。主流なのは「4444」といった不吉な数字を想起させるものだ。しかし、なぜか――一見すると何の変哲もない番号にも関わらず、かけてはいけないとされる数字列が存在する。
奇妙なのが、その数字は限定的な都市、地方に限ったものではなく、なぜか遠く離れた地でも似たような噂が同時に発生しているということだ。
一応、原理は説明できる。都市伝説の伝播は人々による口承によって行われるものであり、ある地方で噂を耳にした者がまた別の地方へと赴いた際に、その噂を別の者に語ることにより、流布は完了する。実際に、最も有名な都市伝説として知られる「口裂け女」は流行した年代と共に、発祥の地が岐阜県であるということが確認されており、最初は小規模だった怪談が全国規模で広がってしまった例である。SNSにより、爆発的に情報が拡散されるようになった近年においてはその速度は数十倍、数百倍にまで膨れ上がっているだろう。
更に付け加えるならば、都市伝説は大まかではあるのだが、〝元ネタ〟が存在することが多い。神話、昔放送していたテレビ番組、小説、映画、アニメ等、当事者たちが意識していたのかは不明だが、何らかの創作の影響が見られるのだ。
それらの事情を考慮すると、都市伝説に限らず、地方の伝説、怪談、噂話は何かしらの関連性が見られることがある。オカルト界隈ではこの現象のことを〝連鎖怪談〟と呼んでおり、ふとしたことで、シンクロニシティのように全く別の怪談に類似した現象が発見されることも珍しくはない。
「じゃあ、頼む。こっちもまた別の県で同じ話がないか、調べてみるわ」
「了解です。また一週間後くらいに、報告会でもしましょうか」
こうして、■■山の調査に佐々木が加わることになった。彼の加入によって、単純に人手が二倍になり、非常に効率が上がったことから、この判断は正解だった。
次にご覧頂くのは各地の山に関する数々の伝承である。「青い女」と関連しているのか、それとも無関係なのかは――皆様方の判断に委ねることにする。
『全国の山に伝わる伝説』(●●出版より)
名を付けるという行為は非常に重要な意味を持つ。
この世界に存在するものは無機物有機物問わず、必ず命名され、命を吹き込まれる。なぜ、人々はモノに名を付けるのか。それは「関心」と「共有」が主な理由として挙げられる。アレは一体なんなのか。アレについて知っている者はいないだろうか。そのような認識を仲間と共有、そして他のモノと区別するために行われる行為であり、コミュニケーションにおいても非常に重要な意味を持つ。
日本の山は「城山」「丸山」といったものが非常に多く見られる。その名の通り、地方の豪族が城を築いていたり、形状が丸いことから名付けられたりというのが定説である。また、気候、動植物の生息環境、山の色彩から名付けられるのが大まかな法則だろうか。
山では春の風物詩として「雪形」が見られることがある。これは春を迎えた雪山の雪が一部融け、露出した岩肌の部分と合わさることで、まるで芸術作品のように様々な模様を描く現象である。
この雪形が命名の元になっている山は北アルプスに多く存在し、代表的な例では五竜岳、白馬岳、蝶ヶ岳だ。
富山県にある人形山では面白い逸話が残っている。
昔、山に老婆と二人の娘が暮らしていた。ある日、老婆は女人禁制だった山に入ってしまったために、跳ねた小枝によって目を傷めてしまう。娘たちは山の神に対して祈りを捧げたところ、万病に効く湯に連れていけというお告げがあった。娘たちはそのお告げに従い、老婆を背負って湯に連れて行くと、たちまち彼女の目は治ったという。その後、二人は山頂に神様がいることに気付き、お参りに行ったのだが、下山途中に山が荒れ、老婆の元には戻らなかった。春になり、山の雪が融け始めると、その娘たちが手を繋いでいる姿が見えることから「人形山」と呼ばれるようになった。
ただ雪形から名付けられるだけではなく、このような民話が残されることこそ、名を与えることによって命が吹き込まれることの証明ではないだろうか。
(以下、中略)
●●県にある■■山にも面白い逸話が残っている。この山は古名では●●山と呼ばれており、現在の名とは異なっていた。しかし、ある日、その地区を大きな洪水が襲った。山は水没してしまったのだが、その際に松の木に大きな■が絡まっていたことから、■■■■山と呼ばれ、それが短縮されたことで、■■山と呼ばれるようになった。また、山には非常に多くの■が見られ、その■を捕獲する意味から、■■山と伝えられていた。
『山で起こった不思議な話』(■■文庫より)
今から数十年近く前の話。佐藤さんは■■山で不思議な体験をしたという。佐藤さんはきのこを採取するために、山に訪れていた。いつも通り、ある程度のきのこを取り終え、下山していたところ――奇妙なものを山道で発見した。
「ん……? なんだあれ」
数十メートル先に――何か、山では見慣れないカラフルな色彩の物体が浮かんでいたのだ。色は青。大きさはバスケットボールサイズで、最初は風船かと思ったそうだ。
しかし、よくよく観察すると、風船にしては少しおかしい。球体よりも縦長の形状であり、太陽に反射して煌めいていた。
恐る恐る、距離を縮めて、その物体を観察する。やはり、風船ではない。それは――炎だった。
「狐火」だ。佐藤さんは直感したという。話には聞いたことがあった。■■山は時折、狐火が見られると。しかし、十年以上も山に通っていて佐藤さんだったが、本物の狐火を目撃したのはこれが初めてだったという。
そこで、彼は記念として、手持ちのインスタントカメラで撮影しようとした。パシャリとシャッターを切ると――炎はその場で散ってしまったという。
「それが、この時の写真なんですよ」
今でもその時に撮った写真は残しているそうだ。今回の取材では特別に、その写真を見せてもらうことができた。
「あれ? 何も写ってないじゃないですか」
「そうなんですよ。確かに、あの時は写ってたはずなんですけど……写真には何も残ってないんです」
佐藤さんが撮影した写真には狐火はどこにもおらず、ただ森の木々だけが写し出されていた。
「今思うと、私、本当に狐火を見たんですかねぇ。あの時は日差しが強かったってこともあって、何か見間違いをしてたかもしれないです」
果たして、彼は本当に狐火を目撃したのか、それとも白昼夢でも見ていたのか。今となっては誰にも分からない。
「狐火なんてのはな。全部迷信だよ」
そう言うのはベテラン猟師である遠藤さんだ。彼は半世紀近く山で狩猟を続けており、熊も数え切れないほど仕留めてきたという。
「あれはヤマドリとか蛍だよ。それを素人が見間違えて、火の玉と勘違いしてるんだ。その証拠に、俺は一度も見たことがねぇ」
「何か他に、不思議なものとかも見たことがないんですか?」
「ねえな。大体、そういうのは見間違いで説明できるんだ。あんまり山に入り慣れてないやつが騒いでるんだよ」
狐火ヤマドリ説は全国的に有力な説の一つである。ヤマドリが羽ばたくことで体毛が静電気を発し、その光を炎と勘違いしているのではないか。また、朝日や夕焼けの太陽光が反射しているという話も聞く。
確かに、理屈は通っているのだが――私としては少し疑問が残る。
話を聞くと、狐火をヤマドリだと主張する人には何人も出会うのだが、実際にヤマドリが光っている現場を目撃した者は一人もいないのだ。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という有名な句がある。これは幽霊だと思っていたものが、ただの揺れる草木だったというものなのだが、そもそも幽霊自体を目撃することもなく、枯れ尾花として認定している者も多いのではないだろうか。
山では時折、常識を超越した現象を目にすることがある。それらの全てを怪異として認識してしまった結果が、膨大な数の幽霊、妖怪、伝説を残すことになってしまったのは否定できない事実だろう。しかし、行き過ぎた科学信仰もまた、架空の存在をでっちあげる手段として使われているのではないだろうか。結局、超常的な存在と、科学という言葉はそこまで差異はないのかもしれない。重要なのは証明可能かどうか。その中間に存在する曖昧な〝モノ〟こそが――私たちが恐れ、敬っている存在の正体なのかもしれない。
『異界』(●●出版より)
「境界線」という言葉を聞いて、皆様はどのような場所を思い浮かべるだろうか。国境、県境、市町村――いや、更に小規模に絞り込める。貴方は今、どこでこの本を読んでいるだろうか。もし、何らかの建築物内ならば、窓の外を眺めてほしい。そこには何があるだろうか。当然、何らかの風景が広がっているはずだ。そう、目の前にある窓こそが、外界との境界線になっているのだ。
古来より、境界線は異界と繋がっていると解釈されており、更に異界には異形の者が潜んでいるという。水辺に幽霊が寄ってくるという逸話を耳にしたことがないだろうか。家の中では水がある場所というものは最も身近な境界線であり、潜在的な恐怖を人々は抱いてしまう。家の浴槽や便所といった場所は共有の場ではなく、孤独な空間だ。それに、どこか薄暗く、不安を覚えてしまう。海や川はどうだろうか。水は生命に恵みを与えるが、激流は死をもたらす存在でもある。この畏怖にも近い感情によって、水辺を恐れる伝承が発生したのかもしれない。
また、日本は山に関する伝承が非常に多くみられる。古来の人々にとって、山は特に身近であり、象徴的な異界の一つだったのだ。
山は様々な動植物が住み着き、人々に恩恵を与えるが、一方では橋、坂、峠、水辺など境界線も数多く存在する。これは筆者の個人的な見解が入るが、恐らく、山に対する感情は過去現在において、そこまで差がないのではないだろうか。
どれだけ文明が発展しても、人間が用意できる程度の装備は大いなる自然の前では誤差でしかないのだ。つまり、山の前では現代人でも数百年前の時代へと還ることになる。情報化した社会において、これだけ平等な場所は中々ないだろう。現代でもその身一つで山に挑む者が絶えないのは――こうした機会を得るための貴重な場を本能的に求めているからかもしれない。
例えそれが、時に人の命を奪う異界であっても。
*
「やっぱり、一番不気味なのはこの青い女の顔ですよね」
四月初旬、報告会の最中にふと佐々木が呟いた。
「顔?」
「えぇ。だって、これってあの投稿の通りじゃないですか」
PCを広げて、再度青い女の姿を確認する。
確かに、今まで意識はしていなかったが、このAIが生成した青い女の顔は恐ろしいほどに事の発端である投稿の内容と酷似している。解像度が低いこともあるが、目視で確認できるほど顔のパーツは歪んでおり、口裂け女のように大きく口角を上げ、こちらに向けて笑みを浮かべているように見える。例えるなら、出来損ないの福笑いといったところだろうか。
「でも、AIが作る人物画って大体こんなんだぞ」
「え? そうなんですか?」
「ほら、これとか」
適当に検索した画像を佐々木に見せる。
そこにあったサイトでは青い女のように、AIが描いた不自然に歪んだ人体の写真が並んでいた。
「一応、学習をしているって言っても、あくまで機械だからな。人間じゃないんだから、こうやって胴体とか手足は完全に模倣しても、細かい部分はミスが多いらしいぞ」
まだまだ発展途上の技術ということもあり、AIアートはそこまで万能というわけではない。ある程度、絵心がある者なら共感するそうだが、中でも指という部分は非常にバランスが難しいとか。プロのアニメーターでも、たまに両右手になったり、指の数が増えたり……それらを考慮すると、難易度の高さが伺えるだろう。
要するに、青い女の顔が歪んでいるのも、AIの特性上そこまで珍しいことではないのだ。
「……でも、偶然の一致って怖いですよね」
「……まあ、そうだな」
そう――よくあること。偶然。そう言い捨てるのは簡単だが、予期せぬ一致というのは案外、いやかなり、ぞくりと肝を冷やすというのは否定できない事実だ。
「そういえば、ずっと聞きたかったんですけど、先輩ってこの後日談はどこまで信じてます?」
「……やっぱり、そこ引っかかるよな」
「まあ、この話だけ明確にソースがないですからね。いや、それ言ったら掲示板にある話なんて全部怪しいですけど」
佐々木が指摘した後日談。これは『マジで震えるくらいビビった怪談とか事件ってある?』で書かれていた当時のスレッドを閲覧していた第三者の証言だ。あの写真には本当に青い女が写っていたらしく、除霊した霊能力者が言うには既に当事者であるグループは全員亡くなっているという。
「正直……かなり怪しいだとは思ってるかな」
「あ、やっぱり?」
「根拠があるってわけでもなくて、何となくだけどな」
匿名掲示板をよく利用している人なら何となく察する部分があると思うが、基本的にあのような場所で行われる自分語りというものはあまり信用しない方がいい。
顔も見えないどころか、一日で利用IDが変更されるという性質上〝名無し〟である限りはどのようなホラを吹いたとしても、一日経てばそれ以上に追及されることはないのだ。現在のSNSでも虚言を行う行為、所謂「嘘松」が絶えない以上、それだけ承認欲求の魔力というものは恐ろしく、どの情報が正しいのかはよく精査する必要がある。その観点から言えば、全ての発端である「青い女」の投稿者自体も疑う必要があるのだが――そこまで辿ってしまうと、この調査自体の存在意義が揺らいでしまう。
「でも、確かめる方法もありますよね?」
「…………」
「ほら、直接行ってみればいいじゃないですか。■■山の近くの寺に聞き込みに」
投稿者は後日、寺にお祓いに行くと発言していた。つまり、もし本当に近隣の寺を訪れていたのならば――場所を特定するのは難しくないはず。そこで、後日談の真偽を確認できるのではないかと、佐々木は言っているのだ。
実は私も、その線に関しては気が付いていた。実際に、いくつか目星は付けてある。だが――っ。
「……それは、やめとこう」
「え? どうしてですか?」
「いや……もしそれで見つからなかったら、そこで何もかも終わりそうだろ。この調査は最初の「青い女」の投稿が事実ってことを前提にして進んでるんだ。その話自体が作り話だったかもしれないってなったら……冷めないか?」
佐々木は「それは考えていなかった」というような表情をして、無言で目を逸らす。
実際、彼らが訪れたと思われる寺は■■山の目と鼻の距離にあるはず。探そうと思えば探せる。だが――果たしてそれは触れていいものなのだろうか。
私の中では現在、青い女という存在は灰色に近い状態にある。真実のクロ、虚構のシロ。その中間の存在が〝アオ〟なのだ。この世界には――断定をすることなく、曖昧なままで放置した方がいいものもあると私は考えている。私たちの身分がジャーナリストやノンフィクション作家ならまた話は変わってくるが、実際はただの大学生だ。ならば、今はこの探求の愉悦を味わうことが最優先で、真相は二の次でいいのではないだろうか。先程の発言から、佐々木もその意図を察したのか、実際に近隣の寺を訪問するということは諦めてくれた。
――私は彼に嘘をついてしまった。
実際はそうではない。確かに、寺を訪問することで、青い女の神話が崩壊する可能性があるのは事実だ。しかし、逆に、もしも、本当に――青い女が実在しており、最初に遭遇した投稿者グループの者が命を落としているのが事実ならば――どうすればいいのだろうか。
正直なところ、現時点では私も佐々木も、青い女に対して、どこかフィクションであるということをまだ疑っている。当然だ。これまで彼女との繋がりはあくまで画面と書面越しだけのものであり、ホラー小説を読んでいる状況と何ら変わらない。だが、これで現地に赴き、実際に彼女に関する情報を集めてしまっては――関係は更に濃いものになり、取り返しがつかない事態になってしまうのではないか。そのような一抹の不安が、私の中で渦巻いていた。
『虫の知らせ』(月刊●●●●より)
身内に不幸があると、その魂が別れを告げに来たという体験談はよく本誌にも寄せられる。例えば、Aさんの父親は突然の交通事故により、亡くなってしまったのだが、ちょうどその事故が起こった時刻に、Aさんの前に蝶がひらひらと現れたという。その蝶を見て、Aさんは直感的に「この蝶は普通の蝶ではない」と察したらしい。その後、母親からの電話で、父が亡くなったことを知ったそうだ。しかし、一方でBさんはまた別の奇妙な体験をしたという。
Bさんはマンションで一人暮らしをしており、ベランダでガーデニングをするのが趣味だった。しかし、その手の植物を育てるには必ず〝虫〟もセットで付いてくる。アブラムシ、カメムシ、アオムシ……虫が苦手な人から見たら、ゾッとする名前だろう。実際にBさんも大の虫嫌いであり、最初に見た時はガーデニング自体を辞めようかと悩んだほどだ。
しかし、現代ではそのような方々のために、防虫グッズが大量に出回っている。スプレータイプの薬剤や、虫除けネットなど、万全の対策を施せばかなりの効果は見込めるという。初心者の頃は害虫に悩まされていたBさんだったが、ある程度の経験を積むと、目に見えて虫の数が減り、快適なガーデニングライフを送っていたそうだ。
しかし――そんなある日、いつものように植物に水をやっていると、妙な虫が葉に止まっているのを発見した。
「すごく大きい毛虫でした。もう見るからに毒々しくて……絶対触れたらダメって本能的に分かるぐらいに」
そこにいたのは五、六センチ近くある巨大な毛虫だった。最初は虫に対して苦手意識があったBさんだったが、もうその頃には慣れもあり、大抵の虫には対処できた。だが――さすがにその毛虫を見た時は肝を冷やしたという。
「すぐにピンセットで掴んで、外に放り投げましたよ。あ、もちろん下に誰もいないのは確認しました」
幸いなことに、毛虫はその一匹のみであった。先日までには一度も姿を現さなかったのに、突如として巨体を晒した毛虫に対して、少し疑問には思ったそうだが、見えにくい場所に隠れていたのかと納得し、すぐに忘れてしまったそうだ。
「その二、三日後くらいですかね。隣の部屋の人から教えてもらったんです。マンション内で自殺者が出たって。でも、その時はちょっと怖いなってぐらいで、気にも留めてなかったんですけど……一か月後、またあの毛虫が現れました」
一か月後、再び毛虫が姿を現した。
「うわぁ、まだいるよって思いました。昨日までは全然気配もなかったのに……」
不審に思いながら、Bさんは前回と同様に、ピンセットで毛虫を摘み、外に放り投げた。だが、その数日後――またしても、マンション住民の死の報せが舞い降りた。
「その数日後に、突然、警察の人がやってきたんです。何かあったのかなって思ったら……このマンションに住む女子高生が通り魔に殺されたって事件が起きたみたいで……その聞き込みをしてたんです」
同マンションに住む女子高生が通り魔に刺殺された。この事件は実際に去年全国ニュースで流れており、ご存じの人も多いはずだ。犯人は既に捕まっており、恋愛関係のトラブルの末に起こってしまったストーカー殺人だった。
「その事件を聞いて……思い出したんです。そういえば、前に自殺者が出た時も、毛虫がいたなって。でも、まだ偶然の一致っていうか、変なことが重なるなってくらいの認識でした。でも……」
更に一か月が経過し、通り魔殺人の事件を忘れかけていた頃にそれは起こった。
「また、毛虫が出たんです。しかも、今度は一匹じゃなくて、三匹が固まるようにいました」
交尾をするように絡み合いながら蠢く毛虫を見て、Bさんは鳥肌が立ったという。
「もう、私も怖くなっちゃって……その場にあるスコップで毛虫を掬って、遠くに投げたんです」
これ以上、何か起こるわけがない。ただの偶然。自分にそう言い聞かせていたBさんだが、その願いが届くことはなかった。
「翌日、隣の人から聞きました。上の階に住んでいる家族が全員交通事故で亡くなったって。それから、毛虫を見ることはなくなったんですけど……あれは一体、なんだったのか、今でも時々思い出します」
『全国昆虫図鑑』(●●館より)
皆さんは蝶と蛾にはどのようなイメージを持っていますか? 蝶は綺麗、蛾は汚い。または蝶は美しく、蛾は醜いといったイメージを持っている人は多いかもしれません。しかし、それは人間の思い込みであり、実際はそこまで体のつくりは変わらないのです。ドイツでは蝶は蛾の仲間として見られていますし、昔の日本もそのような扱いでした。
蝶と蛾の最大の違いは昼行性か夜行性かどうかです。しかし、これも種類によって、夜に飛ぶ蝶もいれば、昼に飛ぶ蛾もいます。蝶が色鮮やかで美しい色をしているのは保護色として花に擬態しているためです。逆に蛾がどこか地味な色をしているのは夜の闇を保護色としているからでしょう。こうしてみると、生物学上はそこまで差がないということが分かりますね。
世界的には蝶と蛾は共に生と死の象徴としてのイメージも持たれています。これは毎回、春が訪れると蝶が舞うことが由来と言われており、日本でも、不吉なことが起きる前兆として蝶や蛾の大量発生が起こったという記録が残されています。
『妖怪大図鑑』(■■館より)
【狐火】 脅威度★☆☆
狐火は山に現れるのが多いと言われています。夜道を歩いていると、ぼうっと浮かび上がっている火の玉の姿をしており、一個だけの時もあれば、集団で目撃されたという伝説もあります。特に人に危害を加えるわけではなく、その場で消えてしまう妖怪です。
狐が出した火の玉ということで、狐火という名前が付いているため、同じ火の玉の妖怪でも鬼火とはまた違った妖怪という説もあります。このように、火の玉の姿をした妖怪は数多く報告されており、他にも人魂、燐火、怪火、狸火、全国の至る所で火の玉の妖怪は目撃されています。
また、面白い説として、地方によっては炎の色で種類を分別できるという話もあります。赤色の炎は生霊であり、人間を怖がらせるために出された悪戯の炎。逆に、青色の炎は死霊であり、赤色と比べると少し危険であると言われています。
*
「……中々、■■山に直接結び付く資料がないですよねぇ」
「……そうだなぁ」
四月も中旬が過ぎ、大学の前期が始まった頃、私たちは溜息を吐きながら構内のカフェテラスで報告会を行っていた。■■山、そして青い女に関して調査を開始してから一か月半近く過ぎていたが――目に見えて、進捗は滞っていた。
原因は分かっている。そもそもの話、■■山に直接繋がる情報が少なすぎるのだ。どこにでもある平凡な山。外部から見た■■山はまさにこの通りの場所であり、取り上げている文献は非常に少ない。しかも、青い女に結び付くものともなれば――更に数は減るだろう。
「やっぱり、この手の調査ってフィールドワークが基本ですし、現地に行かないとダメなんですかねぇ」
地理学、民俗学にはフィールドワークが欠かせないということをよく思い知らされてしまった。直接出向かなければ、最新の生きた情報は得られない。最初に「青い女」が投稿されたのは今から十年以上も前だが、〇〇年代でも文献では比較的に新しい部類の情報だということを考慮すると、行き詰まるのは時間の問題だった。
「先輩。やっぱ直接行きませんか?」
「……だから、それはやめといた方がいいって言ってるだろ」
「じゃあ、現地の人に話聞くだけ。寺関係には寄らない。これならどうですか?」
「とにかく、現地に行くのは駄目だ」
「……そうなると、これで調査終了ってことになりませんか?」
「…………」
佐々木の問いに、言葉が詰まる。
これで終わり、か。それも悪くない。そもそも、最初から無茶な計画だった。発端はAIが作り出した絵に類似した怪談が存在したというだけの話。こんなものは全て偶然の一致で済まされるのだ。その後の関連した話も、こじつけと言われたらそれまで。全ては電子情報が作り出した幻、俺たちはただ、意思のない機械に翻弄されていただけかもしれない。
「……あ」
そんな考えが脳裏を過った時、佐々木がふと呟いた。
「先輩。なら……〝教授〟に聞きに行くってのはどうですか?」
「教授?」
「矢野教授って知ってます? 俺、去年その人の授業取ってたんですけど、専門が●●県の地理なんですよ。■■山について、何か知ってるかも」
――聞き覚えがある名前だった。その教授の授業なら、私も履修したことがある。確かに、彼の授業の内容は●●県に関する地理、歴史だった。アニメの聖地巡礼の話も組み込み、現代の若者にとっても非常に親しみやすい授業だったということは覚えている。
「そう……だな。それなら、いいかも」
現地には足を踏み入れず、識者から情報を得る。これならば、文献を読むのと何ら変わらない。私の考える〝条件〟からは外れているはずだ。それに、教授ともなれば、私たちのような学生とは比較にならないほどの知識量を誇っているはず。有力な情報を得られる可能性は非常に高いだろう。
「じゃ、決まりですね。開講している授業調べて、突撃しましょうか」
後日、私は矢野教授を尋ねるために、教室の前で待機していた。そこに佐々木の姿はない。どうやら、彼はこの時間帯のコマは別の授業が入っているらしく、渋々私一人で向かうことになってしまった。
授業終了時刻の五分前、本来の予定より早く終わったのか、教室から続々と移動する生徒の姿が見え始めた。その人の波に便乗して、教壇の方を確認する。矢野教授が資料を整理している姿が見える。周囲に他の生徒の姿はなく、質問をしようとしている者はいないようだ。
このタイミングならば、話しかけてもいいだろう。意を決し、私は教室内に足を踏み入れた。
「あの、すみません。少しいいですか?」
「はいはい。何か質問?」
「いえ、授業のことじゃないんですけど。実は自分――」
私は自分の名、学年、学部を明かし、なるべく失礼のないように、事情を説明する。
「それで、実は■■山について、ちょっと個人的に調べてて……この山に伝わる怪談とか、不思議な話ってご存じですか?」
「■■山? それって、●●区にある?」
「はい。それです」
さすが教授だ。全国的にはマイナーどころではない山にも関わらず、すぐに場所を特定してしまった。
「うーん。■■山かぁ。確かに、あんまりそういう話は聞かないかなぁ。一応、結構神社とか祠はあって、昔から信仰されてる山なんだけどね。知ってる? 前は名前が違って、●●山って呼ばれてたって」
「はい。それは知ってます」
「でも、そういう宗教的な話が知りたいってわけでもないんでしょ?」
「そう……ですね。はい。どっちかって言うと、宗教学よりは民俗学に近い感じです」
■■山には様々な神社や祠が祀られているという話はこちらも既に把握している。しかし、逆に数が多いからこそ、候補を絞り切れないのだ。邪神信仰でもあるなら話は別だが、そんな物騒な神は祀られていない。調べた限りではどの神も全国的に信仰されており、特に不自然な点は見られなかった。
「うーん。■■山。■■山……あぁ、あそこはよく狐火が出るって話はどう?」
「あ、それも一応調べました」
■■山は特に稲荷明神の信仰が篤いということも分かっている。過去に、あの山で狐火と遭遇したという体験談も発見した。
「そうかぁ。あとは……」
矢野教授は一分程度、記憶の断片を探すように唸っていた。やはり、彼でも手掛かりは持っていないのだろうか。諦めていたまさにその時――「あっ」と、何か閃いたような、甲高い声を矢野教授は出した。
「何だったかな……タイトルは忘れちゃったんだけど、■■山が元ネタの小説があったような……」
「小説、ですか?」
「そうそう。登山家が主人公の話なんだけど、その男の過去で■■山の話題が出てくんだよね。で、そこだけ内容がちょっとホラーチックで……作風が違うというか、急に雰囲気が変わるから印象に残ったんだよ」
小説……体験談やエッセイはこれまであったのだが、完全な小説形式の資料は手に入れたことがなかった。切り口が違うことから、これまで見たことがない情報が記載されているかもしれない。
「それ、どんなタイトルの小説ですか?」
「それがちょっと思い出せないんだよね~……そんなに有名ってわけでもないし、読んだのが二十年以上前だから……」
「そう……ですか」
「でも、書斎には絶対あるから、また後で調べてみるよ。この授業は取ってる? なら、分かり次第こっちからメール送るけど」
「あ、すみません。実は授業自体は取ってなくて……」
「じゃあ一度、こっちの学内アドレスにメール出してくれる? そっちに後で送るから」
「はい! ありがとうございます!」
後日、矢野教授から小説のタイトルが記されたメールが送られてきた。幸い、その本は図書館に寄贈されており、すぐに入手することができた。
その小説は教授の言う通り、登山家の男が主人公、日本最難関の山を登頂するという物語だった。出版されたのは九〇年代、問題の描写は中盤、主人公がなぜ山に登るようになったのかが語られる場面から始まる。プロフィールでは作者の■■■■氏の出身は私と同じ●●県。一応、小説自体は完全なフィクションではあるのだが「青い女」関連の話を念頭に置くと――何らかの実体験が含まれているとしか思えない。しかし、■■■■氏は小説家としての活動は他には行っておらず、検索をしてもブログやSNSのアカウントが見つからなかったことから、内容の真偽を確認することは現状では不可能である。また、原稿を読み進めてもらう前に、一つ留意点がある。
この物語を読むと、貴方の周囲で何らかの不可解な現象が発生する可能性がある。それを了承した方のみ、目を通してもらいたい。
『山と生き、山で死ぬ』(●●出版より)
今となっては耳障りな蝉の鳴き声だが、あの頃の私にとっては夏の訪れを伝える合図であり、心地良いとすら感じるほどの音色だった。忘れもしない。あれは今から二十年前、私が小学六年生の思い出。今でもあの夏の残暑は私の脳裏に焼き付いている。
当時の私は親が共働きということもあり、よく祖父母の家に預けられていた。両親は揃って外資系企業に勤めており、私も二人の仕事がどれだけ重要なのかは理解していた。少々、寂寞たる心情も抱えていたのは事実だが――そんな私に対しても、祖父母が愛を捧げてくれたおかげで、孤独は感じなかった。
家の周囲は公園、川、山等の自然に囲まれ、遊び場に退屈はしない環境だったと言える。だが、祖父に■■山にだけは行くなと強く言い聞かされていた。
「あの山はな。鬼が棲みついとるんや。行ったらあかん」
よく、祖父はこう言っていた。しかし、祖母は信じておらず、そこまで本気にはしていない風に見えた。実際、私も小学校の遠足で■■山に訪れたことがあり、最初は祖父の言葉を信じて萎縮していたのだが、無事に山頂に辿り着き、下山するまで何も不可解な現象が起こらないことから、すっかり迷信だと思うようになっていた。一応、建前上はその言いつけを守るようにはしていたが――そんなものは薄紙一枚で結ばれた誓いである。何かのきっかけで、すぐに破れてしまうような――私の中ではそのような認識の約束だった。そして、ついにその時は訪れる。
「なあ、よっちゃん。■■山に行かん?」
ある日、数人の友人グループから、声をかけられた。
「西田のやつが、■■山でクワガタ取ったって言ってたんや。俺らも取りに行こうぜ」
クワガタ――その単語は小学生にとってはあまりに魅力的な誘いだった。当時、私が住んでいた●●区ではカブトムシやクワガタムシといった虫はめったに遭遇できるものではなく、それらの類はデパートでしかお目にかかれないものである。地元の子どもたちにとっては未確認生物の認識に近い。そのクワガタが、■■山にいる。
祖父の言葉を一瞬思い出したが、断る動機にはならかった。私は二つ返事で快諾し、彼らと共に■■山へ行く約束をした。
事前に祖母に弁当を作ってもらったが、■■山に行くということは伏せていた。別に、何か後ろめたさがあったわけではない。祖父に直接伝えるならともかく、祖母ならば許してもらえただろう。だが――私はどこかで、背徳感のようなものを覚えていたのかもしれない。家族に秘め事をすることに対して、スリルを覚え、それを楽しんでいたというのは否定できない部分がある。
朝の九時、●●神社を集合場所にして、私たちは■■山に向かった。それから三十分ほどで麓に辿り着き、山歩きを開始した。しかし、道中にクワガタは見られず、昼頃には山頂に辿り着いてしまった。
「西田のやつ、嘘ついてたんかな」
「もうちょっと別の場所探さへん?」
山頂で弁当を頬張りながら、私たちは作戦会議をしていた。クワガタは影も形もなく、精々捕獲できたのはカナブンのみだ。せっかく遠出したにもかかわらず、このままでは川にでも行った方がまだ成果はあったというものである。そこで、話し合いの結果、別行動で探索をするという結論に至った。我ながら浅知恵もいいところだろう。西田君の発言の真偽は今となっては確認できないが、基本的にクワガタは夜行性、日中は活発的に行動しない。どこか木の陰で休息を取っており、目視で確認をするのは困難を極める。つまり、あの時に私たちは手当たり次第に木を蹴り、枝に止まっているクワガタを蹴落とすべきだったのだ。それならば、まだ発見できる可能性はあっただろうに。
「じゃあ、今から別行動な。よっちゃんはあっちで、誰が取っても、恨みっこなしやで」
それぞれ別のルートから下山し、私たちはクワガタ探しを再開した。だが、クワガタを発見することは叶わなかった。八月も中旬が過ぎ、そろそろ夏の終焉も近い時期だったが、その年は特に残暑が厳しく、煮えたぎるような暑さだったことはよく覚えている。水筒は特大の二リットルサイズの魔法瓶を持参していたのが、あっという間に大半を飲み尽くしてしまった。
いつまでも姿を現さないクワガタに苛立ちを感じていたその時、ある音がどこから聴こえてきた。その音は――ブンブンと、自動車がエンジンを吹かしているような重低音。または羽虫の飛行音に非常に近い音だった。すぐに、私はその音が何らかの虫が飛翔している音だということを察した。すぐ近くに、音の持ち主がいるはず。咄嗟に周囲を確認する。
――いた。頭上に何らかの影が飛んでいるのを発見した。日光に照らされており、クワガタかどうかは確信を持てなかったが、サイズはかなり大きい。少なくとも、カナブンではない。虫取り網を構え、頭上の影に目掛けて降り下げた。
バサッ、と網は空を切る。影は――その場から消え失せ、網の中で何かが蠢いていた。
捕獲成功だ。柄からも手ごたえを感じた。逃げられないように地面を網に擦り付け、網の口を掴み、獲物の姿を確認する。
しかし、その時――私は違和感を覚えた。クワガタの色は黒のはず。しかし、網の中で蠢いたそれは黄色だったのだ。あとコンマ数秒の猶予が残されていたなら、その正体を察することも可能だったかもしれないが、間に合わなかった。
「痛ッ⁉」
私は網を掴んでいた右手に尋常ではない痛みを感じた。擦り傷とは比較にはならない、形容できない痛みだった。瞬時に網の中にいた虫に刺されたということを察する。
鋭利な針のような器官を持ち、人を刺す虫。ここでやっと、私は捕獲したのがクワガタではないと確信する。網の中にいたのは――巨大なスズメバチだった。
猛烈な熱が手の甲に広がる。私は呻き声を上げながら、その場で十分程度動けなくなってしまった。
蜂に刺されたのはこれが初めての経験だった。噂以上の激痛に、涙が止まらず、情けない嗚咽を出し続ける。目を開き、刺された右手を確認すると――真っ赤に腫れ上がっていた。思わず、心臓の鼓動が急激に跳ね上がる。
まさか、この毒が原因で、死んでしまうのではないだろうか。
常識的に考えるならば、スズメバチの毒で人間が命を落とすということはない。万が一、可能性があるとしても、それは二度目に刺された場合に起こり得るアナフィラキシーショックによるものだ。だが、まだ幼い私は本気で死ぬのではないかという疑念に駆られていた。それだけ体験したことがない激痛であり、耐え難いものだった。
既に痛みで冷静な判断力を失っていた私は網を放置して、一目散に下山を開始した。早く病院に行かなくては死ぬ。本気でそう思っていたのだ。
蜂に刺されてから三十分程度が経過した。しかし、痛みは引く様子はなく、依然として手の甲には灼熱の業火に炙られているかと錯覚するほどの熱が宿っている。少しでも冷まそうと、残り僅かに残っていた水筒のお茶を傷口に注ぐ。その処置は正しく、多少は痛みが紛れた気がした。
それから更に三十分が経過する。おおよそ二時間程度もあれば登頂できることを考えると、そろそろ麓に辿り着いてもおかしくない距離まで来ているはず。そこで、麓の水道の水でもう一度傷口を洗い、急いで病院に連れて行ってもらおう。そう私は考えていた。しかし、それから数十分、山道を下っても――麓に到着することはなかった。
何か、おかしい。
この時にやっと、私は異変が起きていることに気付く。明らかに、下山時間の計算が嚙み合わないのだ。既に一時間半近くは山道を歩いているはず。途中、全速力で走り、更に下り道ということを考慮すると、もうとっくに辿り着いていてもおかしくない。だが、周囲はまだ森林に覆われており、山を抜ける気配はなかった。
一瞬、蜂に刺されたことを忘却するほどの悪寒が全身を駆け巡る。まさか、あり得るはずがない。必死に現在の状況を否定しながら、私は歩みを進めた。
どれだけ時間が経ったのだろうか。体感では数時間近く下山をしていたが、一向に山を抜ける気配がない。日は既に傾き始めていることから、午後五時前後ということは推測できる。つまり、四時間近く山を彷徨っていることになる。まず通常のルートでは考えられないほどの時間だ。しかも、不自然な点はまだ残っている。
蜂に刺されてから――他の登山客とすれ違った記憶がないのだ。八月下旬ということもあり、人の出入りはまだ多いはず。実際、午前中は何十人という登山客とすれ違っていたのだ。しかし、ここ数時間は人影を見た覚えがない。気温は三十度を超えているにもかかわらず、私は真冬の氷点下に放り込まれたかのような寒気を覚えた。
さすがに、ここまで状況証拠が揃ってしまえば、いくら小学生でも現実を受け入れるしかない。私は――遭難してしまったのだ。依然として手の痛みは鼓動を続けるように痛んではいたが、遭難したという事実の前では蜂に刺された程度はたいしたことがない問題なのは子供でも理解できてしまった。
体力は既に底を尽きかけていたが、歩みを止めるわけにはいかない。刺された手の甲を確認すると、素人目でも異常だと分かるほど真っ赤に腫れ上がっており、目を逸らしてしまった。家の門限は六時、恐らく、最速で山を降りても、間に合わないだろう。友人たちはもうとっくに下山しているはず。合流しない私を心配しているかもしれない。
不安、焦燥、怖気。様々な感情が私の中で入り乱れていたが、不可解な疑問が心の片隅に引っ掛かっていた。なぜ――私は遭難してしまったのだろうか。いくら熟考しても、その解答には到達できなかった。
確かに、蜂に刺されてから数十分間は冷静な思考能力を失っていた。だが、それで登山道を外れたというのは些か考えにくい。実際に、私が歩いているこの道は舗装されており、何らかのルートに該当しているはずなのだ。■■山の標高を考えると、いくら遠回りをしても、道なりに山を下れば必ず麓に辿り着く。刹那、私は――祖父の言葉が脳裏を過る。
「あの山はな。鬼が棲みついとるんや。行ったらあかん」
鬼が棲みつく。その言葉の意味を、私は理解していなかった。何も、絵本に出てくる鬼が本当にいるわけではない。祖父は――何らかの異形の存在を、鬼と表現したのではないだろうか。そして、私はその鬼の通り道に迷い込んでしまったのではないだろうか。
小さな疑念はぶくぶくと膨らみ、やがては恐怖という実になる。蜂どころか、遭難でさえ見劣りするほどの事態に陥ってしまったのかもしれない。幼い私の精神では既に耐えられないほどの負荷が掛かっていた。
だが――その時、視界の端にある物体を捉えた。山の緑に相応しくない奇妙な色彩の物体が数十メートルほど離れた距離に佇んでいたのだ。
色は青。正確な大きさは分からないが、隣接する木々から推測するに、当時の私の背丈よりも一回り以上大きい物体。最初は鳥かと思ったが、それにしては巨大。では何らかの人工物だろうか。看板、ブルーシート、工事。しかし、それにしてはどこか違和感がある。言語化するのが困難だが、どこか無機物とは思えない生々しさのようなものが感じられたのだ。質感、とでも言えばいいのだろうか。とにかく、それは何らかの生物だということを無意識のうちに察していた。
どうする。このまま歩みを進めるべきか。それとも引き返すべきだろうか。いや、一本道である以上、進む以外の選択肢は存在しない。意を決し、私は前進した。
徐々に、それとの距離は狭まる。三十メートル、二十メートル、十メートル。だが、いくら接近しても、まだ正体を掴むことができない。むしろ、輪郭が鮮明になるにつれて、謎は深まるばかり。強引に解釈するなら、青い炎、だろうか。不定形に時折揺らめいており、女性のスカートを彷彿とさせられる。
その光景を前にして、私は――先日、テレビの心霊特番に登場していた女の幽霊を思い出してしまった。
別に、特に共通点があったわけではない。しかし、そのゆらゆらと揺れる姿と幽霊が身に纏っていた着物と非常に酷似していたのだ。なぜ、こんな時に幽霊のことを思い出してしまったのか。自戒をしながら、私は目を瞑り――それの前を通り過ぎた。
十歩程度歩いた頃だっただろうか。コツンと、私は何かに足を引っ掛けてしまった。体勢を崩し、その場で転倒する。思わず目を開けて、足元を確認すると、そこには握り拳程度の石が転がっていた。
すぐにこの石を踏んでしまったことで転倒したということに気付いたのだが、その時、視界の端に妙な違和感を覚えた。
――先ほどの青い物体が、消えている。
確かに、そこに佇んでいたはず。だが、ほんの数秒の間に、雲散霧消の如く消え失せてしまった。一体、あれは何だったのかと、周囲を確認しながら振り返る。
――すると、私の視界は青に覆われた。
一瞬、何が起こったのか混乱したが、すぐに状況を理解する。私の目の前に、それは移動していたのだ。
「…………」
あの光景は今でも鮮明に焼き付いている。それは私をじっと見降ろしていた。顔と呼べる部位は存在しない。その不定形な青い物体は私を通せんぼするように、目の前に立っていた。
数十秒、いや数分かもしれない。私の思考と体は止まってしまった。凍結という単語が適切だろうか。突然の対処不可能の情報の波に思考回路が停止する。一度、止まってしまった電源は再起動するまで時間を要し、その間、私はただそれと対峙していた。
「あぁぁぁっ」
そして、ようやく平静を取り戻した私は――情けない声を振り絞りながら、それを押しのけ、走り出した。それから先の記憶はない。無我夢中で山を下ると、いつの間にかあれだけ歩いても辿り着かなかった麓に到着していた。そこには心配そうな表情を浮かべる友人たちが待機しており、彼らの姿を見て、ようやくあの長い登山道を抜けたということを理解した。そこで、彼らから手が腫れていることを指摘され、蜂に刺されていたことを思い出した。あれだけ酷い痛みだったにもかかわらず、その瞬間まで、痛覚が麻痺していたのだ。
私が■■山で見たあれは何だったのか。それは今でも分からない。あの出来事は誰にも話しておらず、友人たちには蜂に刺されたことで山を彷徨っていたと説明し、祖父母はそもそも■■山に赴いたこと自体知らない。
まさか、恐ろしい幽霊と遭遇したなんてことを口外してしまったら、友人には臆病者のレッテルを張られ、祖父には叱られるかもしれない。何のメリットもない行動だったのだ。
今でもあの記憶は心の中に根付いている。私が山に執着するようになったのも、■■山の出来事が影響しているというのは否定できない事実だ。しかし、あの日を境に、私は一度も■■山に足を踏み入れたことはない。
あの日から二十年。祖父は五年前に亡くなり、祖母も昨年にこの世を去った。■■山の逸話を知る世代は徐々に減少し、やがては伝承の命脈は途切れてしまうのだろう。だが、あの山には確かに鬼が棲んでいる。
現在も、■■山には大勢の人々が訪れているが、鬼の存在を知る者はいない。
*
時刻は深夜二時。小説を読了した私は改めて該当箇所を読み直し、一呼吸を吐く。
確かに、これは……矢野教授が覚えていたのも頷ける。内容自体は本格的な登山小説だ。しかし、この箇所だけは明らかにジャンルが違う。一体、作者は何の意図があって、主人公の過去を描写したのか。そして、どこまでが実話なのだろうか。
寝る前に、妙なものを読んでしまったことを後悔しながら、床に就く。明日、正確に言うと今日になるが、二限からゼミの発表が控えているというのに――しかし、その日は不思議と、特に寝付きが悪化するということはなく、すぐに私は夢の世界に旅立った。
その日、私は妙な夢を見た。
夢の中で私はどこかの山の中を一人、歩いていた。夢ということもあり、私はその状況に対して特に疑問を持つことはない。
そんな私の前に、ある女性が現れる。青のコートを身に纏い、不自然に顔が歪んでいる――〝青い女〟だ。
私はこの空間は夢の中だということを悟った。青い女は徐々に接近してくる。一歩、二歩、その動きが妙にスローモーションだったことをよく覚えている。
このままでは彼女に捕まる。そう判断した私は――瞼を指で限界まで広げた。これは私が幼少期から悪夢を見た際に行う防衛行動であり、不思議とこの動作を行うと、悪夢から脱出することができた。
パチッ――
目が覚める。心臓は激しく鼓動を続けており、額には嫌な汗が滲み出ている。時刻を確認すると、朝の五時。床に就いてから、まだ三時間しか経過していない。
「……なんて夢だよ」
あまりのリアリティに、飛び起きてしまった。あんな夢を見たのはこの二か月間で初めてだ。しばらくの間、私は頭を抱えていた。やはり、寝る前にあんなものを見るんじゃなかったと後悔しながら、現実への帰還に安堵する。
その時、部屋の扉の方から何か妙な音が聴こえた。
ぱんっ
文字にするなら、こんな音だ。拍手をするような、空気の破裂音が――突如、室内に鳴り響いた。当然、部屋には私一人しかおらず、音の発生源にも心当たりがない。
寝起きということもあり、聞き間違いことも充分にあり得る。しかし、確かに私は不自然としか言いようのない音を――耳にしたのだ。その後は眠気もすっかり消え失せ、睡眠不足のままゼミの発表に挑むことになってしまった。
『先輩。今、大学にいますか?』
ゼミが終わり、昼休憩に入る頃、佐々木からメッセージが届いた。
『いるけど、どうした』
『ちょっと今から会えませんか? 9号館で待ってます』
突如、佐々木からの呼び出しに、私は少々気味の悪さを覚えた。まだ次の報告会まで時間があるはず。しかも、メッセージ上のやり取りではなく、直接会いたいというのは余程の緊急案件ということだろうか。
ふと――今朝の悪夢が頭を過る。
「…………」
既にあの夢から八時間近く経過しているということもあり、既に大半の部分は忘れてしまったが、それでもまだ夢の内容を思い出すと全身に鳥肌が立つ。
一応、夢のことも、佐々木に報告しておくべきだろう。直接、青い女の件とは関係はないが、話のネタにはなると思い、私は彼の元へと向かった。
「これ、読みましたか」
開口一番に佐々木はある本を取り出す。タイトルは『山に行き、山で死ぬ』……例の本だった。
「あぁ、佐々木も読んだのか」
「えぇ。昨日、ネットで注文したのが届きました」
私は図書館で借りたのだが、彼はネットショッピングで注文したらしい。つまり、私たちは同時刻に――この本を読んだ可能性が非常に高い。
その時、私は背筋に嫌な寒気を感じた。まさか、そんな偶然、あるわけがない。決してあり得るはずのない〝偶然〟を思い描いてしまったが、すぐに脳内で否定する。しかし、直後に佐々木は――私が想像した内容と一言一句同じ台詞を放った。
「俺……昨日、変な夢を見たんですよね」
心臓の鼓動が急激に跳ね上がり、全身から血の気が引く感触を覚えた。
「……先輩?」
恐らく、私は尋常ではない表情を浮かべていたのだろう。その異変を察したのか、彼が声をかけてきた。
「……お前も、見たのか」
「え? お前もって……まさか、先輩も?」
「あぁ……青い女の、夢だろ」
「……マジ、ですか」
しばらくの間、両者の間に静寂が訪れた。お互いに、ただ虚空を眺め、脳細胞を駆使し、奇妙な一致に対して合理的な説明を考案しようとする。しかし、いくら考えても……納得できる根拠が思い浮かばない。
「偶然……ですかね」
「……どう、だろうな」
佐々木の問いに対して、私はただ無機質な返答をするだけしかできなかった。偶然、という言葉で片付けるのは簡単だ。しかし、それぞれ別の人間が同じ日に、同じ夢を見る確率というのは天文学的な数字ではないだろうか。果たして、この結果を偶然として受け入れていいのだろうか。
今まで、私たちは青い女に対して、一線を引いていたつもりだった。遠隔から情報を集めるだけ。現地に足を踏み入れなければ、何も起こることはないと。
しかし、この時――確かに、線を越えてしまった感覚があった。間違いなく、引き金はあの小説を読んでしまったことだろう。どの描写が問題だったのかは今となっては分からない。ただ、これ以上の調査を続けるのは危険を伴うと、本能的に理解してしまった。
『ある登山家のブログ』
●月●日! 今日登頂するのは●●県にある■■山です!
(■■山の看板の画像)
この山、実は県内でも結構なパワースポットって言われてるらしいです! ホームページを見ると、なんと●●●以上の神が祀られているとか⁉
これはご利益に期待できそうです! では行ってみましょう!
(鳥居の画像)
山に登って早速、鳥居を発見しました! ただ何やらだいぶ寂れているような…(汗)誰も管理してないのかな?
一応、山に入るということでお参りをして、次に行きましょう!
(鳥居の画像)
この神社は…石碑を見ると●●●●●を祀っているのかな? ただここもだいぶ整備されてませんね…ちょっと神様が可哀想です。
(祠の画像)
道中、祠を発見しました。これは…近くに何も置いていないので、何を祀っているのかも分かりませんね…
ただ、お饅頭が供えられていたので、参拝客はいるようです。
(猫の画像)
猫ちゃんがいました。可愛い。というか、ここ結構猫がいるんですよね。途中で二、三匹は見ました。でも、この子は結構人に慣れているようで、触らせてもらえました~
(大量のゴミの画像)
oh…ここは…不法投棄でもされているんでしょうか。めちゃくちゃゴミが捨てられてます。雑誌も捨てられていたので、ナンバーを確認したら…1980年⁉ 40年以上前から捨てられているのか…誰も掃除しないんですかね。
(鳥居の画像)
ここの鳥居はだいぶ風化していて、一部が壊れていました。拝殿を覗くと…掃除用具が置かれてる(汗)
(鳥居の画像)
ここは●●●●●神を祀っている神社ですかね。でも、周辺の草がボーボーに生え放題で、あんまり整備されていないような…と思って、ちょっと奥に入ったら、立ち入り禁止の看板が
(山頂の画像)
というわけで、二時間ちょっとかかって登頂しました~
うーん…正直ちょっと、あんまり期待してた山とは違いましたね。ほとんどの神社がもう何年も手入れがされていない状態に見えました。
そこで、地元の登山客の方と話す機会があったのですが…どうやら最近はこの地区では過疎化が進んでいるようで、神社の手入れをする機会も少なくなってしまったようです。今はボランティアの方々が行っているようなんですけど、その人たちもかなりご高齢で…あと10年20年もすれば、完全に無人になってしまうそうです。
何か…現代の社会の闇をちょっと見てしまった感ありますね。都会にばかり人が流れて、地方には若者が残らなくなってしまう。では、その地方に祀られている神様も、いずれは忘れられてしまうのでしょうか。
さて、ちょっと社会的なテーマを考えたところで、今日の更新は終わりです~
『■■山にUFO現る⁉』(●●新聞より)
●月●日、■■山で奇妙な発光体が目撃された。目撃者は近隣住民、登山客を合わせて数十人以上。全員が■■山周辺を飛翔する未確認飛行物体を目撃したという。
円盤型のような形をしており、色は青。まるで蝿が飛ぶような不規則な動きを繰り返しながら、急にその場から消えてしまったようだ。目撃者の一人である●●さん(48)はこう語る。
「いや、あれが絶対UFOですよ。飛行機とかじゃないです。あんな不規則な動きをするわけないですし、私を含めて何人も同じものを見てるんですよ? しかも、一つだけじゃなくて、もう何十個も浮いてたんですよ。飛行機や星がそんな密集してるわけがないですし、あれは絶対UFOです。間違いありません」
近年、全国的に目撃情報が急増している未確認飛行物体。■■山もUFOの名所のひとつとして、有名になる日が来るかもしれない。
『妖怪大図鑑』(■■館より)
【鬼】 脅威度★★★
鬼は全国各地で報告されている妖怪です。一般的には角が生えていて、非常に筋肉質な姿だと伝えられています。棍棒を持っている姿を思い浮かべる人も多いように、非常に力持ちだと言われています。性格は凶暴で、積極的に人間を襲って食べるという伝説も残されていることから、脅威度は文句なしの星3でしょう。
ですが、実は昔の日本や中国では「鬼」という言葉はただ妖怪を指すだけではなく、幽霊のような死者を表す言葉としても使用されていました。人が亡くなると、鬼籍に入るという言い回しがあるのがその名残です。また、その人間に近い姿から、正体は日本に渡来した西洋人ではないのかという説もあります。非常に有名な妖怪だけに、様々な逸話や考察が残されているのも、鬼の魅力の一つかもしれません。
『●●県 治安情報』(●●ナビより)
・声かけ事案の発生
●月●日(土)午前10時20分頃、●●市■■山の登山道にて、声かけ事案が発生しました。
徒歩で通行中の男子小学生に対して、すれ違いざまに小さな声で語りかけ、更に声をかける素振りをしたことから、怖くなった男子小学生が逃げると、いずれかに立ち去りました。声をかけたのは20代後半、180センチ位、青のトレンチコート、黒の帽子着用の女です。
・つきまとい事案の発生
●月●日(日)午後1時40分頃、●●市■■山の登山道にて、つきまとい事案が発生しました。
徒歩で通行中の男子中学生グループに対して、しばらくの間後方を女がつきまとい、男子中学生が声をかけると、いずれかに立ち去りました。つきまといをしたのは20代後半、180センチ位、青のトレンチコート、黒の帽子着用の女です。
・不審者情報
●月●日(日)午後3時頃、●●市■■山の登山道にて、不審者が目撃されました。
母親と幼児が徒歩で通行中、後方から近付いてきた女が幼児の後頭部付近に顔面を近づけてきたもので、女はいずれかに立ち去りました。女は20代後半、180センチ位、青のトレンチコート、黒の帽子を着用していました。
・つきまとい事案の発生
●月●日(日)午後5時10分頃、●●市●●区にて、つきまとい事案が発生しました。
■■山付近を通行中の女子小学生に対して、後方を女がつきまとい、そのまま女子小学生の自宅付近まで追い回したあと、いずれかに立ち去りました。女は20代後半、180センチ位、青のトレンチコート、黒の帽子を着用していました。
『行方不明者を捜索しています』(●●県警察より)
■■ ■
平成●年生まれ(当時21歳)男性
特徴 身長約180センチメートル
体格 細身
頭髪 黒髪短髪
血液型 A型
■■さんは平成●●年●月●日頃、コンビニのアルバイトを終え、●●町●丁目から自宅である●丁目に徒歩で帰宅している最中に、行方が分からなくなりました。
どんな些細な情報でも結構です。以下の連絡先にお知らせください。
連絡先 ●●警察署 ■■■―■■■―■■■■
■■ ■■
昭和●年生まれ(当時70歳)男性
特徴 身長約150センチメートル
体格 細身
頭髪 白髪短髪
血液型 O型
■■さんは平成●●年●月●日頃、日課の早朝の散歩の最中に、行方が分からなくなりました。普段の散歩のコースは●●区●丁目から●丁目の区間であり、この周辺で行方不明になった可能性が高いです。
どんな些細な情報でも結構です。以下の連絡先にお知らせください。
連絡先 ●●警察署 ■■■―■■■―■■■■
■ ■■
昭和●●年生まれ(当時8歳)女性
特徴 身長約120センチメートル
体格 細身
頭髪 黒髪長髪
血液型 A型
■■ちゃんは平成●年●月●日頃、■■山でご両親とハイキングをしている最中に、行方が分からなくなりました。当時、警察は1000人体制で捜索をしましたが、現在でも■■ちゃんは見つかっていません。
どんな些細な情報でも結構です。以下の連絡先にお知らせください。
連絡先 ●●警察署 ■■■―■■■―■■■■
■■ ■
平成●年生まれ(当時29歳)女性
特徴 身長約160センチメートル
体格 やや太め
頭髪 黒髪短髪
血液型 AB型
■さんは●●市の職場から●●市の自宅へと帰宅する際に、行方が分からなくなりました。監視カメラの映像では最寄り駅である■■駅に立ち寄っていないことから、何らかの理由で道中の駅で降りた可能性が非常に高いです。
どんな些細な情報でも結構です。以下の連絡先にお知らせください。
連絡先 ●●警察署 ■■■―■■■―■■■■
*
「もう、やめないか」
「……えっ?」
五月中旬、あの夢を見てから一週間が経過しようとしていた頃、私は佐々木に調査の中止を伝えた。
「ど、どうしてですか?」
佐々木にとっては予想外の一言のようであり、面を食らった顔でこちらを見ている。
「お前も、薄々気付いているだろ。この件は……あんまり触れない方がいいって」
「それってまさか、あの夢のことを言ってるんですか? でも、あれっきり変な夢は見てないですし、やっぱり今思うと、偶然ですよ。あんなの」
私も佐々木も、あの日以来、青い女の夢は見ていない。一度きりの悪夢。そう思うのは簡単だろう。しかし、どうしても私は――何らかのメッセージ、警告が込められているとしか思えなかった。
手を引くなら、今が最後のチャンスだ。もし、これ以上関わってしまったら――抜け出せないような気がする。青い女はフィクションの存在ではない。本当に実在する何らかの怪異だと、私は認識してしまった。
「とにかく、これで調査は終わりだ。お前も、夏から就活があるだろ。そろそろ俺も卒論に力入れないといけないし、タイミングとしては今がベストだ」
「……それ言われると、反論できないですけど」
就活の話は反則だろ、と言いたげな表情を佐々木はこちらに向けている。分かっている。このような場で、就職活動や卒業論文の話題は禁句だということは。しかし、その禁忌を侵さなければ、彼を止めるのは不可能だと私は判断した。
「……分かりました。じゃあ俺も、これで手引きますよ。確かに、ちょうどいい頃合いかもしれませんね」
佐々木も調査の中止を了承する。こうして私たちの二か月近くに及ぶ青い女の追跡劇は幕を閉じた。ここで降りたのが功を奏したのか、現在のところは私も佐々木も、特に異常はなく、平穏な日々を過ごしている。
結局、■■山に出没する青い女に関することは何一つ、分からなかった。だが――それでいいのかもしれない。
前述した通り、この世界には科学的見地で証明することなく、曖昧な存在のままで放置した方がいい者たちが確かに存在している。幽霊がよく出現する心霊スポットに科学者が押し寄せてしまったら、その行為に対してどこか無粋だと思うのは私だけではないはずだ。科学信仰が宗教信仰のそれよりも支持されるようになった現在でも、やはりどこかで目に見えない存在が実在してほしいと願っている。この世界から神秘という言葉が消えてしまったら――それはとてもつまらない世の中だろう。だからこそ、秩序を保つ意味でも、我々が介入してはならない領域があるのだ。
――佐々木に対して言い訳をするなら、こんなところか。
単に私は青い女をこれ以上探ることに対して、言いようのない恐怖を覚えただけだ。最初はAIが出力した画像から始まった調査だったが、徐々に資料を集めるにつれて――疑惑が確信へと変わった。
■■山に出没する青い女。その正体について、あくまで推測ではあるのだが、大体の考察は終えている。しかし、それをこの場で綴ることはない。ただ一つ、一つの欠片を繋ぎ合わせること自体が――過ちなのではないかという結論だけは述べておく。
以上をもって、本稿は完結とさせて頂く。ここまでの原稿を読んで、何らかの物語性がある結末を期待した人々には申し訳ない。改めて、謝罪を述べる。
*
最後に、■■山について留意点がある。
恐らく、いや間違いなく――この原稿を読んでいる者の中には察している人がいるだろう。■■山の所在について。
固有名詞を限界まで排除し、場所を特定されないようには努めたが、それでも限度がある。逆算的に証拠を照らし合わせれば、すぐに疑惑は確信へと変わるだろう。
ただ名を知るだけなら、問題はないはず。実際に、筆者や佐々木は今のところは無事だ。だが、現段階以上に■■山、そして青い女に関わってしまったら……どうなるか分からない。「好奇心は猫を殺す」ということわざがある、万が一にも、■■山を知っている者の中で、この原稿がきっかけで、興味本位で青い女の調査を続行する者が現れるかもしれない。
そこで、私は警告を残すことにした。
次のページに、無加工の青い女の画像を掲載する。これは最初に掲載したものとは違い、彼女の〝顔〟が写っているものだ。少々、気味の悪い画像のため、配慮の意味を込めて顔の部分を黒丸で加工したのだが――あの画像では青い女の本質的な部分は何も伝わらないだろう。2ページ分の枠を取るので、閲覧したくない者はそのまま読み飛ばしてもらっても構わない。
現在、青い女を直接写した媒体は我々の調査では確認できていない。AIが作り出したものではあるのだが、これが現存する唯一の資料である。個人的な考察にはなるのだが、恐らく、この画像自体には何の特別な効果がない。直接、彼女を撮影したものではなく、AIというフィルターを通しているためだ。しかし、あくまで閲覧は自己責任であり、何らかの不自然な現象が発生する可能性があるということだけは肝に銘じてほしい。
私の夢の中に現れた青い女は実際にこの画像と非常に近い造形をしていた。もしも、貴方が■■山を訪れようと考えているのなら――彼女と遭遇するかもしれない。