勿忘草

長編/翠蝶

 

どうしてこの世は、これほどまでに不公平や理不尽なことばかりで埋め尽くされているのだろうか。一体、前世でどれほどの業を積めば、こんな不幸な人生に見舞われることになるというのだろう。

 ガタンッ、という衝撃音が薄暗い廊下に虚しく響き渡る。

 

「……どうやら、完全に閉じ込められたようですね」

 

 押し殺してはいるが、苛立ちが透けて見える声だ。

 

男は、今し方体当たりした土間の扉に手を掛け、この開かずの扉をどうにかできないか思案に暮れている。その表情は真剣そのもので、先ほどまでの気味の悪い薄笑いはすっかりかき消えていた。

 

少年が呆然とその様を後方から眺めていると、今度はガサゴソと、何やらズボンのポケットや背負っていた随分と大きいリュックサックの中身を漁り始めた。取り出してきたのは、ただのシンプルなシャープペンシルだ。少年自身は持っていなかったが、大分前、中学校で隣の席だった女子生徒が、同じメーカーのものを使用しているところを見たことがある。ピンクのリボンや、筆箱につけられていた瞳の大きいアニメキャラクターのキーホルダーが動く度に音が鳴り、いちいち癇に障った記憶がある。

 

 男はペン先ではなく、蓋の部分を扉についている窓枠の格子の隙間から、差し入れた。それは、ほんの数㎝だけ力のベクトルに沿って進んだが、それ以上はうんともすんとも言わないようだ。

 

 男が舌打ちをした後、シャープペンシルを引っ込める。

 

 その時だった。

 

「お帰りなさいませ」

 

 背後から突如、少年と男の耳に、十代前半ほどの少女の丸み帯びた青々しい声が聞こえてきた。この場には二人しかいないと思い込んでいた少年は、驚きのあまり悲鳴を上げてその場で飛び上がる。想定し得なかった事態に巻き込まれ、神経を逆立てていた身としては、なんとも心臓に悪い。

 

 背後を振り返れば、小柄な真島よりもさらに小さい幼女が折り目正しく背筋を伸ばして立っていた。

 

 

 

 規則的な音を立て、定められた線路の上を走る一本の新快速電車。その車内では、暇を持て余した老人たち、高級ブランドに身を包み、厚化粧を施した顔を付き合わせてゲラゲラと笑っている主婦たち、出先の企業に出張へと赴こうとするくたびれたスーツの男性が、一つの鉄の箱の中でゆらゆらと揺らされていた。その中に一人、長期休暇にも当たらない平日の昼下がりの時間帯には珍しく、まだあどけなさの残る面立ちの少年が、次々に移ろいでいく車窓の景色を、ぼんやりと眺めていた。耳にかけられた大きなヘッドホンから、僅かばかりに音楽が漏れ出ている。ゲームのサウンドトラックのようだ。

 

 少年――真島慎一郎に、目的地などない。元々、こうして逃げ出すこと自体が目的だったのだ。ゆえに、既に彼の目的は達成されたようなもの。今はただ当て所なく彷徨うばかり。

 

学校からも家からも、少しでも遠くへ離れたい。その一心で適当に電車を乗り継ぎ、かれこれ3時間は経っている。次の県境越えまで、あと十数分もかからないだろう。

 

 次の駅で降りよう。流石にここまで来れば知っている顔に出くわすことも無いはず。そもそも、クラスの連中や近所の人間が、碌に外出しない真島の顔を覚えているかどうかも怪しいけれど。

 

 ケチな性分ゆえ、普段から倹約と貯金を心がけてはいるが、所詮は子どもの小遣い。それほど懐が温かいわけでもない。数日分の宿代のことを考えれば、あまりここで浪費するわけにも行かないだろう。それに、持参してきた文庫本も読み終えてしまい、時間を持て余してしまっている。

 

真島が先ほどまで読みふけっていた本のタイトルは、『修羅の掛け軸』。作者は(つば)(なた)()()。名前からは女性のようにも見受けられるが、構成や設定、文体などは男性のような雰囲気も感じ取れる。作者紹介や後書きには、せいぜい血液型と年齢が記載されているくらいのものだ。それもこの上なく完結に、必要最低限のみの情報に絞られているため、人物像が一切見えてこない。ファンの中には、この謎に包まれた人物の正体を少しでも暴こうと躍起になっている人間も少なくない。

 

写真で彩られた表紙には、闇の中で女の手と赤い着物の裾が、行灯の灯りに照らされているシーンが映し出されていた。タイトルは闇の中から躍り出てくるようにして、白い斜めかかった行書体で飾られている。和風のおどろおどろしい雰囲気の通り、江戸時代の日本を舞台としたホラー小説であった。

 

物語は、とある国の領主の城に仕えていた女の息子があらぬ罪で処せられた結果、殺されてしまうところから始まっている。そして自らの子どもの死を嘆いた女が次第に狂気に駆られ、次々に城の者たちを呪殺していくストーリーだ。最後には、女自身も病で死んでしまう。しかし、死んでなお女に呪い殺されることを恐れた者たちが、女の魂を鎮めるためにと、著名な絵師に女とその息子の姿を掛け軸に描かせ、それを寺に奉納することで騒動はようやく鎮火していくことになる。

 

なかなか爽快なストーリーだ。登場人物たちの心理描写も、まるでそのまま見てきたかのように生々しく、迫真に迫っている。陳腐なホラー映画にありがちな、調子に乗ったむかつく若者たちや権力を笠に着て好き放題する老害たちが次々に殺されていく様は、実に胸がすく。ポッと出のヒーローに悪が退治されるのではなく、女が病で亡くなるというエンディングも真島は気に入っている。おかげでこれを読むのは三度目だ。

 

鍔鉈理彩の作品はどれも陰鬱な世界観で、そこに生きている人間たちはどこか狂気めいている。猟奇的な描写も少なくはなく、一部では年齢制限がかけれられている著作も存在しているくらいだ。

 

「次はー、(しずか)城前―、静城前―」

 

 鬱屈とした真島の内心をからかうかのような暢気さの窺える若い車掌の声が、スピーカーを通して車内に明快に響く。

 

間延びしたアナウンスを合図に、真島の他、数名の観光客らしき老人集団と真島の斜め前に座っていた黒縁眼鏡の男が立ち上がった。バックパッカーのような出で立ちをした男だった。動きやすそうな旅装に身を包んでおり、真島の上半身ほどもある大きな頑健そうなリュックサックを背負っている。立ち上げって電車が止まるまで扉近くで待機している間、狭い通路には大きすぎるリュックサックが、男が身じろぎをする度に近くにいた真島に当たりそうになり、密かに舌打ちをする。

 

 ゆっくりと速度を落としていった電車がようやく完全に停止すると、扉が自動で開いた。同時に、我先にと数名の乗客が真島を押しのけるようにして車内から出て行き、取り残されかけた真島はも、慌ててその後を追う。

 

 降り立った駅は、新快速電車が停車するだけあって、それなりに規模があり、手入れも行き届いているようだった。だが、平日の昼ということ、近辺に大きな商業施設もないこともあり、人はまばらにしかいない。

 

 真島は改札口を抜け、これからどうしようかと頭を悩ませる。今夜の宿は、近場のネットカフェで済ませる予定だ。だが、夕暮れまでには時間があるから、どこか暇を潰せるような場所はないだろうか。洒落た喫茶店やファミレスなんてものはごめんこうむる。日陰者として長らく暗闇にその身を浸してきた真島にとって、陽のエネルギーを惜しげもなく振りまいているそれらは針の筵でしかない。家の自室からこんなに長時間外出したのも、数ヶ月ぶりなのだ。

 

 ふと、目の前にでかでかと白い壁に貼り付けられたポスターが、ここに来て初めて真島の意識を捉える。駅ホームから改札口に上がってくるまでの階段の天井や通路の壁など、そこかしこにぶら下げられていたのを何度も視界に捉えてきていたが、これまではそれに気を取られることもなかった。しかし今、真島はそのポスターに、なぜだか奇妙なまでに関心を寄せていた。

他とは少し違っているからだろうか。これまでのポスターは白い城壁と黒い瓦屋根で作られた巨大な建物が紙面の中心に居座り、その周囲を飾るようにキャッチコピーなどが彩られているばかりであった。だが、真島が目をとめた広告には、城の最上階の辺りに、赤を基調とし、大きな白い牡丹の花が艶やかに布に咲き誇った着物を纏った女性の絵が、こちらを見て笑んでいたのである。

 

 得体の知れない感覚に囚われ、じっとそのポスターに見入っていると、不意に女の空虚な瞳に光が宿り、黒い瞳がぎょろりとこちらを向いたような気がした。

 

 ドキリと、心臓が脈打つ。恐怖心はない。ただ、女の凄艶なまでの美しさに心臓を射貫かれた気分だ。特に真島の好みではない浮世絵だというのに、どうしようもなく見とれてしまった。

 

 分厚い眼鏡のレンズの汚れを服の裾で拭きとり、もう一度ポスターを確認する。しかしながら既に女は、首の角度を元に戻し、生命の存在を感じない空虚な瞳で正面を見つめていた。当然だ。絵が動くはずがないのだから。先ほどの現象はただの幻覚だろう。

 

 それでも、真島はポスターに引き寄せられるように近づいていく。小さい文字は弱視の真島にはギリギリまで近づかない限り見えないのだ。

 

どうやら、城は駅から歩いて一〇分ほどの場所にあるらしい。少し距離があるが、問題はないだろう。

 

 続いて、真島はポスターの一番下に申し訳程度に書かれた一文に目を留める。

 

 

「奇才! 鍔鉈理彩の最新作『修羅の掛け軸』の舞台!」

 

 

「…………マジ?」

 

 こんな偶然があるのだろうか。

 

 真島は思わず独りごちた。スマートフォンを開いて調べてみると、本当にそう書かれている。小説の後書きにも、ちゃんと書かれていた。鍔鉈理彩は後書きをほとんど何も書かないため、真島も積極的に読むことも少なく、見過ごしていた。気持ち悪いロマンチストのような考えで鳥肌が立つが、まさしく運命のような奇々怪々な事態である。

 

ここで時間を潰そう。

 

これまで、真島は城郭なんてものに関心を示したことなど一度もない。単なる気まぐれを起こしたに過ぎないが、意外と名案かもしれない。有名な城でもないだろうから、こんな時期に訪れる観光客も微々たるものだろう。何でもいいから、人が少ない場所で適当に時間を潰せれば、それでいい。

 

次の目的を定めた真島は、外へと繋がる通路指し示す案内板を探して、周囲を見回した。

 

 

 

静城は、真島が「日本の城」というものに対して抱いていた漠然としたイメージを、ものの見事に打ち破るものだった。

 

真島が持つ城郭へのイメージは、姫路城だとか大阪城だとか、日本の歴史を代表する、もっと立派なものだ。言うなれば、テレビで見て「かっこいい」と幼心ながらに憧れていた職業が、いざその実像を知ってみると、想像以上につまらなかっただとか、美しい装飾を施され、見た目はこの上なく食指をそそるケーキを、いざ味見してみると、ただただ口の中の水分を持っていかれるだけで、大して味がしなかっただとか、そんな小さな失望感を覚えたのだ。

 

あれほどまでに広告でドアップされたいた城は、思いのほか小さい。距離や角度によっては、今にも近くに生えている巨木に隠れてしまいそうなくらいだ。

 

受付前に無造作に置かれていた籠の中のパンフレットに目を通してみても、最上階に市町村指定等文化財に登録されている200年ほど前に描かれた掛け軸が飾られている以外には、特にこれといった名物もなさそうだった。

 

流石、寂れた町が推すだけある唯一の観光地だ。悪い意味で期待を裏切ってくることに長けている。一介の市町村が少ない税収で維持管理するには限界があるのだろう。受付職員がいるだけで、警備員や案内係がだっている様子もなく、城門をくぐった先にある小さな広場は雑草だらけ。案内板を覆っているガラスも曇っており、蜘蛛の巣が張られていたり、気持ち悪い虫の死骸がこびりついたりしている。真島にとって、唯一の美点は、入場料が取られないということと、人通りがまばらを通り越してほとんど皆無であることくらいのものだった。

 

想像していた以上に面白みに欠けた城のようだが、致し方ない。日暮れまであと一時間ほどだろう。この近くにネットカフェがあることも確認済みだし、適当に最上階まで行って帰ってくれば、いい感じに時間を潰せるはずだ。

 

真島はPCや衣類などが無造作に詰め込まれたショルダーバッグを肩にかけ直し、城の玄関口へと足を踏み入れた。

 

――あぁ、ようやっと――

 

「え……?」

 

 どこからともなく、声が聞こえた気がした。女性の声だ。

 

天井から聞こえたような気がして、スピーカーでも仕掛けられているのかと、古城に似つかわしくない現代的物質を探してそちらの方角へと首を傾ける。しかし、何もない。

 

「おっと」

 

 キョロキョロと周りを見回し、何もないことを確認していると、つい周囲への注意が薄れてしまっていたらしい。後退った拍子に、危うく真島に続いて城の玄関に入ってきた男に、ぶつかりかけてしまう。

 

「失礼」

 

 慌てて飛び退いた真島に対し、男は一言、ひどく落ち着いた低い声音で軽く頭を下げた。

 

「あ……」

 

 長期間、真面に対話をしていない弊害ゆえに、咄嗟に生態が動かない。

 

 真島が真っ白になった思考で固まっていると、男はそれ以上、真島に目をくれることもなく、さっさと建物の奥へと進んでいった。

 

 再び訪れた静けさに、真島は思い出したように詰めていた息を吐き出した。名前も知らない他人と対話の機会を得たのは、一体いつぶりだろうか。いや、真島は一言も発する余裕さえ無かったのだから、あれを対話と呼ぶべきではないと言うことは別問題として。この一年、人との関わりをほとんど  断ってきた真島にとって、先ほどの一瞬の出来事ですら、一瞬にして押し潰されてしまいそうなほどの圧迫感をもたらすものだった。今もなお、全身から冷や汗が噴き出ている。

 

 外に出るべきではなかったのだろうか。いや、家には父親がいる。少なくとも、三日は滞在するようだから、その間は帰ることができない。父親からの仕送り以外に、大した収入源を持たない真島の財布は、どれだけ節約しても5日ほどしか持たないだろう。時間毎に値段が加算されるネットカフェに滞在するのは、出来る限り短時間の方がいい。

 

 つまるところ、四方八方手詰まりというわけだ。あぁ憂鬱。

 

 真島はその場にしゃがみ込み、ため息を吐いて膝に顔を埋めた。

 

 

 

 見れば見るほど、本当に何もない城だ。最上階に辿り着くまで、ほとんどこれといった調度品もなかった。せいぜい、レプリカの武具やそこそこ裕福な一般人であれば持っていそうな陶磁器が適当な部屋に飾られていたくらいだ。この城独特の魅力なんてほとんど見当たらない。パンフレットを見ても、江戸時代の一般的な城の解説と写真やイラストばかりで少ないページを埋めていたから、なんとなくそんな気はしていたので今更驚かないが、殺風景もいいところだろうと呆れ果ててしまう。

 

 最上階にある部屋は、一つだけ。「掛け軸の間」というらしい。名前の通り、この城唯一の見所といっても差し支えのないであろう、掛け軸が飾られている部屋だ。その部屋にだけは、流石に指定文化財が展示されているあるだけあって、警備員も駐在しているらしい。

 

 ギシリ、ギシリ、と最上階に繋がる最後の階段を上がっていく。14歳にして身長一四五㎝、体重四〇㎏にも満たない小柄かつ貧弱な体格の真島にも耐えられないのか、木製の古びた階段は、嫌な軋み声を立てている。

 

 先ほどの男のものだろうか。埃が積もっているせいで、人一人分の足跡が階段に浮き上がっているのがよく分かる。

 

「掃除くらいしろよな」

 

 誰も聞いていないと分かりきっているのをいいことに、真島は服の裾で手についた汚れを拭いながら、悪態を吐いた。

 

 思ったよりも段差の大きい階段に、体力のなさ故にヒイヒイと根を上げながらようやっと昇りきる。既に足全体の筋肉が悲鳴を上げていた。

 

 パンフレットでも絵で描き示されていたが、最上階の掛け軸がある部屋と階段は直結しているようだ。確かに部屋に上がって一番始めに真島が目にしたのは、ガラスケースに守られた掛け軸だった。その前に、先ほどの男が棒立ちしている。

 

 人の出入りを監視しやすいよう、階段の近くの隅っこに置かれた椅子に座った、警備員の制服に身を包んだ老人が、チラリ、と真島を一瞥する。だが、すぐさま興味を失ったように不機嫌そうに鼻を鳴らし、居眠りを始めた。

 

 掛け軸の中心には、ポスターに載っていた女人とよく似た人物が描かれていた。女は縁側に座しており、そのすぐ近くには勿忘草が刺繍された着物を着た少女が寄り添うように座っている。少女の手には急須が、女の手には湯飲みが描かれていることから、二人が主従に近しい関係にあると言うことが察せられた。少女は真剣な顔つきで女をまっすぐに見つめているが、女は少女ではなく、庭で蹴鞠をして遊んでいる少年を見ている。口元を綻ばせ、眦を下げて少年を眺めている眼差しは慈愛に満ちており、真島は自然とこの掛け軸こそが、鍔鉈理彩の小説に出てきたものであると気がついた。ここに描かれている女は、物語の中で次々と人を呪い殺していった人物であり、この少年は女が修羅へと至る原因となった息子なのだろう。

 

 どうしよう。もう引き返そうか。目的の掛け軸は見たし、ほかにこれといってみるべきものはないように感じる。このままだらだらとここに居座り続けるのも、なんだか無駄なことをしている気分だ。

 

 引き返そう。真島がそれを選択するのに大した時間はかからなかった。

 

――どこへ行くの?――

 

「え?」

 

 また、声が聞こえてくる。玄関口で耳にしたものと、全く同じ声質だ。

 

 真島は素早く背後を振り返る。聞こえた来たのは、掛け軸の方からだった。

 

 何の冗談だと、真島は己の耳を疑った。

 

今はっきりと聞き取ったその声は、間違いなく女人ものだ。若いというより、どちらかというと、成熟した四、五〇代くらいの女の声だ。だが、この部屋には男しかいない。当の男は真島に注意を向ける様子もなく、一心に掛け軸に見入っている。警備員も絶賛爆睡中だ。

 

 まさか。いや、先ほどといい、今し方といい、きっと空耳に違いない。久しぶりにこんなに長い時間外に出ていたのだ。きっと、調子が狂っているのだろう。空も曇ってきているし、気圧で体調を崩しているせいなのかもしれない。

 

 際限なくあふれ出てくる恐怖心と耳鳴りのように脳裏で鳴り響く警戒音に必死で言い訳をしながら、血の気が引いて感覚を失っていく足を叱咤して、先ほど上がってきたばかりの階段を降りていく。

 

「あっ……」

 

 大して鍛えられていない真島の足が、もつれて階段を踏み外すのも無理はない。

 

 真島は勢いよく残りの二、三段を転げ落ち、強かに木製の床に全身を打ち据えた。。手足のあちらこちらを擦り剥いた真島は、久方ぶりに味わう激痛に、苦悶の声を上げ、悶える。

 

「大丈夫ですか?」

 

 不意に上から声を掛けられる。大きな音に、気になって誰かが様子を見に来たのだろう。真島が返事をする余力もなく呻いていると、ギシリと階段が軋む音を立てて、次第に足音が近づいてくる。

 

 頭上に影が差す。覗き込まれているのだと分かった。ようやく痛みの波が引いてゆき、周囲に意識を向けられるようになった真島は、先ほどの声の主を見上げる。掛け軸の前に立っていた男だ。朽葉色の瞳が夕日に煌めいて、不気味に煌めいている。

 

「立てますか?」

 

 床に膝をつき、男は真島に向けて手を差し伸べてくる。薄く微笑んではいるが、彼の声はひどく平坦で、何の感情も乗っていない。普段感じている、対人恐怖症からくる恐怖とはまた異なる畏怖が、真島の背筋を這っていく。

 

「っ平気、です」

 

「そうですか」

 

 真島は自分よりも一回りも二回りも大きなゴツゴツした手から目線を逸らす。無愛想に拒絶し、立ち上がった真島を男は気にした気配はない。

 

 真島に目線を合わせて体勢を低くしていた男が立ち上がると、そこでようやくこの人物が随分と高身長であることに気がついた。少なくとも、優に180㎝は超えているだろう。細身だがほどよく筋肉がついており、加えて見上げるほどの身長というのは威圧感がある。

 

 声は若く聞こえるが、顔の小皺や老成した雰囲気から、四、五〇代に見える。吸血鬼を思わせる白磁の肌、目下に色濃く存在を主張している隈が、どこか非現実的な存在感を強調していた。

 

 身体の大きい人間を前に、真島は腹の底からじわじわと吐き気を催す嫌悪感を覚える。しかし、酸味のある唾を飲み下し、どうにかしてその場はぐっと堪えた。

 

 服に付いた埃を手で叩いて落とし、ショルダーバッグの中に入れてあったPCの調子を確かめる。どこかの部品が破損してしまっている様子はないが、電源をつけてみても白と黒の砂嵐が画面に映るばかりでうまく作動しない。真島は持て余した苛立ちに、思わず悪態を吐き、片手で壁を殴りつけた。これまでPCとペンしか大して触れてこなかったか細い手は、固い壁に耐えられず、じんじんと疼くような痛みを訴える。

 

「おや、壊れてしまいましたか?」

 

 男の質問に、煮詰められた不機嫌が胸中で蠢いている真島は、返事を返す気にもならない。

 

「それと、こちらも落としていましたよ」

 

 無視を決め込んだ真島を気にする様子もなく、男は続いて足下に落ちていた本を拾った。拾った瞬間、表紙に目をとめた男は、「おや」と声を漏らす。

 

「鍔鉈理彩の作品ですね。君には、随分早いような気がしますが。面白いですか?」

 

「べ、べつに。それなりには。さ、作家が、変な奴だし」

 

「ふふ、確かに。よく言われていますね。鍔鉈理彩に興味がおありで?」

 

「まぁ、調べても全然情報出てこないし。レアキャラだから……。会ったらサインくらいはって思ってる。あんた……貴方も、読むの?」

 

「えぇ。一応、読んではいますよ。あぁ、そうだ。スマートフォンはご無事ですか? そろそろ日も暮れますし、君はご両親に連絡を入れた方がいいでしょう」

 

「…………」

 

 真島はポケットの中から、スマートフォンを取り出す。画面に僅かな亀裂が入っているが、見えないことはない。

 

本当は、父親に連絡を入れる気などサラサラないし、ましてや向こうも自分の子どもに対して興味などないだろう。それに、念のため、ありもしない架空の友人の家に泊まりに行くと告げてある。あちら側から連絡が来る可能性は極めて低いはずだ。

 

とりあえず、目の前のお節介をやり過ごすために、ボタンを押し、いつの間にか切れていた電源を起動させてみる。しかしながら、どういうわけか、こちらもPCと同じ状態だった。

 

「なんなんだよ」

 

 誰に向けて呟くでもなく、真島は弱々しく呪った。

 

「――どうやら、壊れたというよりも、何か別の原因が考えられるかもしれませんね」

 

男の台詞に、真島は弾かれたように顔を上げた。見ると、男も革手袋をした片手にスマートフォンを持っているが、そちらもまた、モノクロの荒波が画面を覆っている。

 

「一度、外に出たら元に戻るかもしれません。出てみましょう」

 

 断る理由は、見つからなかった。

 

男は真島に目もくれることなく、スタスタと下の階に向かって歩き出してしまう。こんな薄気味の悪い場所にたった一人取り残されるなんてごめんだ。真島は慌てて、小走りで男の後を追った。

 

「あの、さ」

 

「なんでしょう?」

 

「変な声、聞かなかった?」

 

「それは、一体どのようなものでしたか?」

 

「大人の、女の、声だった」

 

「女性の声、ですか。私には聞こえませんでしたね。いつどこで聞きました?」

 

「今さっき、俺が最上階の部屋を出る寸前。多分、掛け軸の方から……。自信、ないけど」

 

 というよりも、信じたくなかった。今回ばかりは、一体何の冗談だと、誰かに笑い飛ばされたかった。

 

 ――どこ、行くの?――

 

 ほら、今だって真島のすぐ耳元で囁いている。

 

「ひぃ!?」

 

 振り返ってすぐ目にした赤と白の牡丹に驚いて、真島は悲鳴を上げて飛び退る。バランスを崩して尻餅までついてしまった。

 

 ――可愛い可愛い我が童。何処へ行こうというのかえ?――

 

 床に腰を抜かして動けないでいる真島を、いつの間にか背後に立っていた女は優雅に微笑みながら見下ろしている。

 

 掛け軸の中にいた女だということは、すぐに分かった。だって、絵の中に描かれていたそのままの姿で、女はそこに立っているのだから。

 

 浮世絵の特徴的な陰影や遠近に乏しい平たい顔。鮮やかな赤い着物に派手に描かれた白い牡丹の花。艶やかな黒髪は根結いの垂髪が施されている。

 

 ――そんなに青い顔をして。腹でも痛むか? ほれ、擦ってやるからこちらへおいで――

 

 女は両腕を広げて真島を誘う。一方の真島は「ひっひ」と浅い呼吸を繰り返すばかりで、返事をする余裕もない。

 

 逃げなければ。

 

 警鐘がずっと脳内で鳴り響いているが、足に力が入らない。ずり、ずり……と、肘を使って気持ちばかり後退するのがやっとであった。それに合わせるように、じりじりと着物の裾を床に引きずりながら女が距離を詰めてくる。近くで、カチリと音がする。

 

 ――どこ行くの?――

 

 再び女の方から声が聞こえてくる。絵がどうやって話しているのか皆目見当もつかないが、間違いなく、女が自分の意志で真島に語りかけているのだと言うことだけは分かる。煙の匂いが、微かに漂ってくる。

 

 ――ん? 何じゃ、貴様? ひぃ! 何をするか! それを妾に近づけるでない!――

 

 先ほどまで真島にしか興味を示さなかった女が、ここで初めて真島の傍らで沈黙していた男に意識を向ける。その刹那、足下に飛来してきた火に炙られた紙切れを見て、即座に血相を変えた。

 

「これ以上近づけば、貴方を燃やします」

 

 ひどく落ち着いた、それでいて有無を言わせない断固とした口調で、男はライターの火を女に向ける。女は目を見開き、爛々とした異様な輝きに満たしながら、空気の動きに合わせて不安定に揺らめいている小さな灯火を見つめて息を呑む。やがて、女は恨めしそうに男を睨み付けると、大人しく後退していき、やがて霧が晴れていくように姿は霧散していった。

 

「急ぎましょう」

 

「…………」

 

「さぁ、気を確かに。怯えている場合ではありません」

 

 今し方起こった出来事に、真島の意識は雲がかかったように判然としなかった。ただただ分厚い眼鏡のレンズ越しにある細い瞳を今までにないほど大きく見開き、のし掛かる恐怖に打ちのめされていた。

 

 しかし、男はそれを許さない。無理矢理真島を立たせると、静かでいてなお力強く語りかける。肩を揺さぶられる痛みに、次第に真島は正気を取り戻していった。

 

「貴方には俄に信じがたいことかもしれませんが、あれは本物です。そして彼女の狙いは貴方自身です。早く、ここから立ち去りましょう」

 

「う、うん……」

 

 幽霊なんて、いるわけがない。ずっと、そう信じていた。今でもそうあって欲しいと思っている。

 

 本物って何だよ。偉そうに訳の分からないこと講釈垂れていないで、説明しやがれ。

 

真島は思いきり、目の前を足早に歩いている男を馬鹿にして、鼻で笑ってやりたかった。ただの悪戯なんだと、そう思いたかった。でも、その気力は既にない。男の言う、「本物」が、一体何を差しているのかも、なんとなく察しがついていた。本能に近い部分で、真島自身もあれが紛うことなき呪われた女の情念の残り香なのだと理解していた。

 

 二人は最下層まで、階段を一気に駆け下りていく。走ることに慣れていない真島は、何度も転びそうになるも、その度に男が遠慮のない力加減で起こす。

 

 城の中は、ずっと静まりかえっていた。それはまるで、嵐の前の静けさだった。執着に満ち満ちた女の言葉が脳裏に蘇る。このままそう簡単に出られるはずがない。

 

そんな確信の籠もった、けれど当たって欲しくない予感が現実となるのは、角を曲がれば、もうすぐ土間だというところまで到達したときのことだった。

 

 ――逃がさない――

 

突如、キーンという怖気の催す甲高い音が、真島の脳内を支配していく。血液が逆流していくような、気持の悪い感覚に、遂には平衡感覚を失っていく。立ってはいられなくなり、両方の耳を押さえながら真島はその場にしゃがみ込んだ。

 

「う……」

 

「堪えてください。立って。早く!」

 

 焦っている。「あぁ、結構感情豊かな人なんだな」と、真島の現実からの逃避を許さず、男は力ずくで腕ごと不健康に痩せた少年の体を引っ張り上げる。そのままずるずると引きずられるうちに、ようやく二人は土間のところにまでどうにか戻ってくることが出来た。

 

 だがしかし、開いていたはずの扉は、固く閉ざされている。

 

「え? 閉館時間はまだのはずじゃん」

 

 例の激しい立ちくらみのような感覚は、いつのまに落ち着いていた。だけど、未だに足下にふわふわとした頼りない感覚が残っている。歩く度に、布団の上を歩いてるかのような、そんな違和感。頭も、鈍痛の代わりに麻酔でも打たれたように思考がふわついていて、上手くものを考えることができない。

 

 男は掴んでいた真島の腕から手を離し、木製の扉を調べ始めた。

 

「なにしてんの?」

 

「状況を調べています」

 

「俺たち、閉じ込められちゃったの?」

 

「おそらくそうでしょうね」

 

 男は真島を振り返ることなく、淡々としている。なぜこうも冷静に事に対処できるのか、不思議で仕方がなかった。

 

しばらくそうして、どういうわけか内側にもかけられた南京錠を弄ったり、他に出口がないかパンフレットの地図を確認してみたりするも、やがて男は深く息を吐く。随分と疲れている。当然か。

 

真島は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。自分が一体何をしたというのだ。なぜこんなにも恐ろしい目に会わなければならないのだ。

 

どうしてこの世は、これほどまでに不公平や理不尽なことばかりで埋め尽くされているのだろうか。一体、前世でどれほどの業を積めば、こんな不幸な人生に見舞われることになるというのだろう。

 

「あまり手荒なことはしたくありませんでしたが……」

 

 そう言うと、男は数歩離れて助走の構えを取った。そして、一、二、三と勢いをつけて扉に体当たりをする。

 

 ガタンッ、という衝撃音が薄暗い廊下に虚しく響き渡る。

 

「……どうやら、完全に閉じ込められたようですね」

 

 押し殺してはいるが、苛立ちが透けて見える声だ。

 

男は、今し方体当たりした土間の扉に手を掛け、この開かずの扉をどうにかできないか思案に暮れている。その表情は真剣そのもので、先ほどまでの気味の悪い薄笑いはすっかりかき消えていた。

 

真島が呆然とその様を後方から眺めていると、今度はガサゴソと、何やらズボンのポケットや背負っていた随分と大きいリュックサックの中身を漁り始めた。取り出してきたのは、ただのシンプルなシャープペンシルだ。真島自身は持っていなかったが、大分前、中学校で隣の席だった女子生徒が、同じメーカーのものを使用しているところを見たことがある。ピンクのリボンや、筆箱につけられていた瞳の大きいアニメキャラクターのキーホルダーが動く度に音が鳴り、いちいち癇に障った記憶がある。

 

 男はペン先ではなく、蓋の部分を扉についている窓枠の格子の隙間から、差し入れた。それは、ほんの数㎝だけ力のベクトルに沿って進んだが、それ以上はうんともすんとも言わないようだ。

 

 男が舌打ちをした後、シャープペンシルを引っ込める。

 

 その時だった。

 

「お帰りなさいませ」

 

 背後から突如、真島と男の耳に、十代前半ほどの少女の丸み帯びた青々しい声が聞こえてきた。この場には二人しかいないと思い込んでいた真島は、驚きのあまり悲鳴を上げてその場で飛び上がる。想定し得なかった事態に巻き込まれ、神経を逆立てていた身としては、なんとも心臓に悪い。

 

 背後を振り返れば、小柄な真島よりもさらに小さい幼女が折り目正しく背筋を伸ばして立っていた。

 

「母様がお呼びです。掛け軸の間までお越しください」

 

 淡々と、まるで用意されていた脚本の台詞を諳んじるように、少女は真島を見つめて告げる。

 

 色白を通り越して蒼く染まった頬、薄汚れた紫色の勿忘草で彩られた振袖、背筋にまで到達する長さのべたついた黒髪。それを少女は後ろでまとめ上げ、細く白い布で結わえている。顔中にニキビが浮き出ており、唇もカサカサで、裾から見えている手も痛々しいヒビ割れが目立っている。一目で貧しいということが分かる出で立ちであった。

 

「貴方は?」

 

「…………」

 

 少女は男の問いかけには応えなかった。ただ、黙したまま真島をひたすら凝視している。

 

「ここから出してよ!」

 

 悲鳴のような哀願を訴えるも、真島の願い虚しく少女は瞬き一つすることもなく、彫像のごとくその場に立ち尽くすばかりだ。

 

「分かりました」

 

 不意に男が少女の前に進み出てくる。

 

「行きましょう」

 

「え……」

 

 男の思わぬ台詞に、真島は動揺を隠せなかった。

 

「さぁ、案内してください。『ゆき』さん」

 

「あ……」

 

 『ゆき』とは、この少女のことだろうか。

 

 真島の疑問を肯定するかのように、少女は口を薄く開き、男を見上げた。ようやく見せた、彼女の人間らしい感情だった。

 

「なぜ?」

 

「偶然、貴方方のことを知る機会がありましてね。他の方々よりも、ここの事情については詳しいと思いますよ」

 

 口元に微笑を浮かべ、男は鋭い琥珀色の瞳で少女を見下ろしている。

 

「なぜ? なぜ? なぜ? ――……そう」

 

 少女は一頻り疑心を吐き出した後、独りでに納得したのか、俯いて寂しげに呟く。

 

「そう……そう」

 

「えぇ。母君にここから出していただけるようにお願いしようと思うので、連れて行っていただけますか?」

 

「貴方は、母様に呼ばれていない」

 

「勝手についていきますから、無視していただいて結構ですよ」

 

「そう。でも、駄目。呼ばれてないなら、駄目。駄目なの。母様、男の人、嫌い。兄上殺した奴ら、みんな、みんな、嫌い。みんな、怖い」

 

 壊れた機械のように、少女は「駄目」という言葉を繰り返す。ひたすら繰り返す。しかし、やがてはそれまで男に向けていた視線を真島へと戻し、掛け軸の女と同じ生命の光を宿さない漆黒の瞳で見つめた。

 

「貴方しか、来れないの」

 

「う……」

 

 真島の脳裏に、先ほどの女の声が蘇る。

 

 行きたくない。行ってはならない。あの部屋に辿り着いたが最後、どうなるかは分からないが、ひどく恐ろしい目に遭うのだと言うことは安易に想像できた。蜘蛛の巣に自ら絡め取られに行くような、そんな恐怖心が沸き起こる。

 

「い、行きたくないに決まってるじゃん!」

 

「そう。でも、駄目なの。母様、貴方欲しいから。だから、駄目なの」

 

「ふ、ふざけんなよ! なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ!」

 

「駄目?」

 

「あ、当たり前だろ」

 

「そう。じゃあ、仕方ない」

 

 諦めたのだろうか。

 

 淡い期待に胸を躍らせたのも束の間、少女の冷たい両掌が真島の左手を覆った。キンキンに冷やされたガラス細工のように冷たく、そして固い手だ。ゴム人形のようだと、彼女が人ならざるものであるという事実が如実に示される感覚に、真島の全身に鳥肌が走る。

 

「仕方が、ないの」

 

 少女のその台詞と同時に、真島の視界は真っ白に覆い尽くされた。

 

 

 

 ゆらり、ゆら、ゆら。

 

 真っ暗だった。何も見えない。暗く生暖かく、そして深海のような静かなまどろみの中、真島の意識は当て所なく漂っていた。

 

 ふわり、とどこからともなく白魚のような手が現れて、真島の髪を撫でさする。どこまでも優しく、慈しみに手つきだ。

 

 ここに止まり続けると、よくないことが起こる気がする。でも、あぁ、このままここに止まり続けるのも悪くないな。

 

 この手に縋りたい、甘えたい。かつて母にしていたように、母がしてくれていたものに抱擁されたなら、どれほどこの飢えと渇きにひび割れた心が満たされ、潤うことだろう。

 

 ――可愛い可愛い我が童。はようはよう我がものに――

 

 ――もう母より先に逝ってくれるな。母を置いていくな――

 

 無理だよ。

 

 真島は首を振る。

 

俺はあんたの息子じゃない。理不尽に奪われた子供の代わりにはなれない。なりたくない。俺をあんたのものにしたいなら、俺を見てくれよ。俺自身を、愛してよ。

 

 真島の訴えは、女には届かない。女は目の前の少年など見ていない。興味もない。ただただ、年が近いというだけで、真島を通して息子の幻影を見ているのだ。

 

 怒りと嫉妬が、真島の意識を炙る。熱い。まるで火に包まれているようだ。

 

 離せ!

 

 激情に駆られ、真島は女の手を振り払う。憤怒で視界が真っ赤だ。真島の魂に呼応するかのように、周囲の闇もまた、赤と黄金に彩られた炎で覆い尽くされていく。

 

 真島を求めて蠢いていた手が、ピタリと動きを止める。

 

――あぁ、熱い。あぁ、憎い。またしても、またしても妾から子を奪おうというのか。おのれ。なぜ、なぜじゃ。あぁ、恨めしや。あぁ、口惜しや――

 

体を焼き尽くされていく激痛に女が悲鳴を上げ、この場にいない誰かへ向けた呪詛を叫ぶ。

 

次第に意識が再び雲がかっていく。真島はぼんやりとした意識の最中、ただただ女の存在が崩れていく様を感じていた。

 

 

 

外から鳥の囀りが聞こえる。目を閉じていても感じる日差しの眩しさに、真島は体にかけられていた毛布を頭の天辺にまで引きずり上げた。明るい世界は苦手だ。

 

「慎一郎……? 気がついたのか?」

 

 久しく聞いていなかった、父親の声が聞こえる。疎ましい。折角逃れたと思っていたのに、夢の中にまで現れてくるとは、まだ悪夢は続いているようだ。逃避先でも最悪な目に遭った挙げ句、夢にまで父親が出てくるとは。どうしてこんなにも自分の人生はついていないのだ。

 

「起きているなら、何でもいいから返事をしてくれ。自分の名前が分かるか?」

 

「……うるさいなぁ」

 

「お前、仮にも父親に……いや、元気そうでなによりだ。三日も目を覚まさなかったからな」

 

 そこで、父親は言葉を噤んだ。鼻を啜る音がする。泣いている? まさか。母親が浮気をして出て行った後であっても、仕事にしか見向きもしなかった男だ。仕事を言い訳に家庭を一切顧みず、家族が崩壊してもなお真島のことに関心を持たなかった男だ。そんな人間が、今更何を持ってして涙を流すというのだ。

 

「……ここ、どこ?」

 

「病院だ」

 

 目だけを毛布の上から出し、ベッドの脇に設置されたパイプ椅子に腰掛けた男を盗み見る。下を向いているため、表情は窺えない。スーツ姿しかほとんど見たことがないが、今日は薄汚れたオレンジ色のTシャツにワイドパンツという出で立ちだ。数ヶ月、いや、年単位かもしれない。長期間見ないうちに髪の毛が細くなって頭皮が目立つようになり、腹の出っ張りもさらに盛り上がりを見せている。

 

「何で?」

 

「お前が出掛け先で倒れたからだ」

 

「何で?」

 

「いや、何でって……」

 

 父親は答えに窮し、そのまま黙り込んだ。真島自身、最後の問いに答えを求めていたわけではない。あの体験をしていない父親が、真島が望む回答を持っているはずがないからだ。知っているとすれば、おそらくあの薄ら笑いが特徴的な長身の眼鏡の男くらいのものだろう。

 

 脂汗をかいているのか、父親は気まずげにハンカチで額を拭いている。どう接すればいいのか分からないのは、お互い様のようだ。

 

「俺、どこで倒れていたの?」

 

「土間だな。お前のことを病院に通報してくれた方の話によれば、城を出ようとしたときに急に倒れたらしい」

 

「誰が通報したの?」

 

「通りすがりの観光客だそうだ。直接会ったわけじゃないから、詳しいことは分からないが」

 

「ふーん」

 

 これほど人と直接会話をしたのは、いつぶりだろうか。不登校になる以前から、碌に他人と関わりあいを持たなかったためか、ついつい上手い言葉が即座に口から出てこない。あの意味不明な男と多少は会話をしたような気もするが、それ以上に静城で起こった出来事の印象の方が大きすぎて、何を話したのかよく思い出せない。

 

聞きたいことを全て聞き終えたら、重苦しい沈黙が二人の間に漂った。

 

「あぁ、そのお前を病院まで運んでくれたその人が、お前宛に渡してほしいものがあるそうだ」

 

 思い出したように、父親は黒いパソコンバックの中から文庫本を取り出した。そして、見覚えのある装丁が施されたそれを、真島に手渡してくる。

 

「お前を通報してくれた人からの預かり物だ。これを預かった看護師曰く当人は『サプライズ』と言っていたそうだ」

 

 サプライズ?

 

 意味が分からず、顰め面を作る。

 

 横になりながら受け取るのも体勢が辛いため、ようやく真島は体を起こした。

 

 受け取ったそれは、鍔鉈理彩の「掛け軸の女」だ。買ったばかりなのか、角の傷や装丁の汚れなど一切見受けられない。それ以外は、真島が持っている文庫本と全く同じであった。

 

表紙の赤い着物の女の手。それを見るだけで、全身が強張る。噴き出てきた冷や汗で掌が気持ち悪い。

 

「あれ?」

 

 中を確認しようと表紙を捲ってみたところ、遊び紙との間に一枚のメモが挟まれていたらしく、ひらりと布団の上に落ちた。『サプライズ』と書かれている。生真面目そうな堅い印象の受ける行書体だ。

 

遊び紙を捲ってみる。

 

「……マジで?」

 

「どうした?」

 

 見開き右ページに視線を固定し、そのまま硬直している息子を案じたのか、父親が問うてくる。しかし、真島には父親の声など一切届いていなかった。

 

 遊び紙の裏ページに刻まれていたのは、鍔鉈理彩直筆のサインだった。後書きやプロフィールと同じく行き過ぎているほどに簡素で装飾もない。最後の「彩」からのびた線で円を描き、その中にペンネームを草書体で書き込んでいるだけだ。紛れもなく、鍔鉈理彩本人が直接記したものだと、すぐに分かった。

 

 まさか、あのどこか浮世離れした独特の雰囲気を持つあの男が、鍔鉈理彩当人だというのだろうか。嘘だろう?

 

いや、あり得る。あの男は不自然なまでにあの状況において冷静だった。加えて、あの少女の名を知っていた。疑問を持つ余裕もなかったが、今思い起こせば奇妙極まりない。だが、彼が静城を舞台とした『掛け軸の女』を執筆した鍔鉈理彩本人だというのなら、納得もいく。というのも、ファンサイトの情報によれば、『掛け軸の女』は歴史小説にジャンル分けされてもおかしくないほどに、史実に寄せられて描かれているからだ。ゆえに執筆する上で相当の調査が為されているはずであり、相応の知識を鍔鉈理彩は持っているはずなのだ。

 

「こんなことってある?」

 

 それにしてもサプライズって……。城の中を共に駆けたあの時も、何も知らない真島を見て一人ほくそ笑んでいたのだろうか。

 

 嬉しいというか、腹立たしいというか、驚くというか。様々な感情が次から次へと湧き上がってきて、上手く気持ちを整理することが出来ない。とりあえず理解したのは、鍔鉈理彩は真島が想像していたよりも、茶目っ気と悪戯心のある人間らしいということだ。

 

 

 

「仕方ないの」

 

 ゆきのその台詞を合図に、 先ほどまですぐ近くにいたはずの少年が、一瞬にして消えた。何も出来なかった。

 

「返していただけませんか?」

 

 無駄なことだと理解しつつも、成田翼は厳しくゆきに要求する。しかし、ゆきは顔色一つ変えることなく、正体の定まらない目線を成田に寄越した。

 

「貴方は、もう帰って。ここから、出て行って」

 

 そう言って、ゆきは背後の扉を指さした。立て付けが悪いのか、軋み音を出しながら、木製の扉が独りでにゆっくり開かれていく。薄暗い建物内に、外の光が射し込んできた。長らく薄闇を見ていた目がすぐには慣れなくて、少しばかり眩しさに目を細めた。

 

「もう、止めにしませんか? 貴方もそれは望んでいないでしょう?」

 

「…………」

 

ゆきの感情を刺激しないように、できるだけ優しく言い聞かせる。憐れな少女は何も答えない。だが些か表情の影が一層深まり、どうしようもない悲痛さを窺わせたような気がした。

 

 ゆきは無言のまま、空気に解けていくように消えていった。成田もそれを止めようとはせず、黙って見送った。ゆき自身をどうこうしたところで、成田には彼女たちに何も出来ないし、問題の根本が解決することもない。出来ることはただ一つだ。

 

不意に、足下に人の気配を感じ、そちらを見下ろしてみる。先ほど消えたはずの名も知らない少年が、気を失って倒れていた。成田はすぐさま傍らに膝をつき、呼吸と脈の確認をする。どちらも弱々しいが、生きている。まだ間に合う。

 

成田は走り出した。目的地は最上階の掛け軸の間。あの掛け軸をどうにかしなければ、少年はこのまま女の呪詛によって殺されてしまうだろう。

 

 この静城に巣くう呪いは本物である。そして、成田が鍔鉈理彩のペンネームで執筆したこの静城を舞台として『掛け軸の女』に描かれた事件は、ほとんど伝承の通りに書いている。偶然知人から聞かされて興味を持ったことをきっかけに書いたものが、まさかこのような展開になるとは、つくづくついていない人間らしい。またか、と思わず溜息を吐きたくなる。

 

 本が出版された後にかかってきた一本の電話。執筆に当たり、大抵の交渉事は担当編集に一任しているため、静城を管理する市の観光課から直接自分の番号にかけられてくるとは思いもよらなかった。

 

 話を聞いてみたところ、静城の呪いをどうにかできないかという相談だった。

 

詳細を聞いてみれば、どうやら、以前は同じ市内にある寺社に保管していたところ、先の大戦時に米軍の爆撃によって建物が燃やされてしまったのだそうだ。だが、幸運なことに――いや、不運なことに掛け軸への被害は一切なかった。歴史的価値も高いと判断されたため、次の保管場所として、ゆかりのある静城と一緒に管理されることになり、現在に至るのだという。そして、掛け軸が静城に移されたと同時期に、度々この城を訪れた人間が行方不明になっている事件が相次いでいるという噂が、一部マニアの間でまことしやかに囁かれているらしい。そしてそれが、実は全て事実だという。

 

今回、成田に依頼したのは、成田がその元凶である掛け軸の女の呪いを鎮め、静城をオカルトマニアにとって定番の観光地とすることに協力して欲しい、とのことだそうだ。

 

 別に霊媒師やゴーストバスターを名乗った覚えは一切ないのだが、昔から成田はその手のものを引き寄せてしまう体質らしく、今回のような現象に見舞われることが昔から多々あった。今成田が五体満足に生きているのは、周囲の協力とただただ幸運だっただけなのだが、事情を知らない他人からは、超常現象のエキスパートか何かだと思われているらしい。甚だ、迷惑千万である。

 

 幽霊というのは、言ってみれば執着の塊だ。この世への何かしらの執着を頼りに現世にどうにか止まっているのだ。執着がなければ、さっさと此岸から彼岸へと渡っているはず。

 

 普段ならこういう話は断っている。どれだけ大枚を叩かれたとしても、命には変えられない。だがしかし、生憎今回は小説の舞台として取り扱っているだけに、断り切れなかった。受けなければ、風評被害を理由に出版社に差し止めを要求することになると、遠回しに脅されてしまったのだ。成田としては、それなりに売り上げを伸ばしている作品である『掛け軸の女』が売れなくなってしまうのは、財布的な意味で痛い話である。それに、元々あった噂であるとしても、地方の数少ない財源である観光地に風評被害を助長させてしまったことに、少なからず責任を感じていたし、ただの噂であれば、言いがかりだと一蹴するだけだが、事実であれば下手をすれば成田自身が原因でさらに死人が増える。

 

「やれやれ」

 

 いい加減、この巻き込まれ体質もどうにかならないものか。

 

 掛け軸の間へと辿り着き、切れ切れとなった呼吸を整える。部屋全体を見回すも、殺風景なところは何も変わらない。だがしかし、さっきここを訪れたときには居眠りしていた警備員が、椅子にのけぞるように体を預けたまま事切れ、そして掛け軸の絵の中に描かれていた女の息子が少年に描き換えられていた。

 

 事は一刻を争う。警備員には申し訳ないが、おそらく手遅れであろう人間の心肺蘇生を試みるよりも、間に合う確率の高い少年の命を優先すべきだ。それに、少年には悪いが、女が少年を呪い殺すことに気取られているうちが、一番邪魔をされにくく、なおかつ穏便に問題が解決できる可能性が高い。少年には囮になってもらおう。

 

 万が一に時に備えて、預かっていたガラスケースの鍵を上着のポケットから取り出し、開錠する。その途端、ケース内への侵入を拒むかのように、耳鳴りが始まり、視界が明滅し始めた。

 

「う……」

 

 一旦目を閉じ、どうにか遠のきそうになる意識を保つことに全集中する。ここで倒れてしまえば、少年を助けることは愚か、成田自身も呪い殺されてしまいかねない。

 

 大きく深呼吸をして、大股でケースの中に入る。既に手の中に握っていたライターの横車を親指で回し、着火する。

 

 着火剤がなくとも、掛け軸は簡単に燃え上がった。絵に火が回ると同時に、女性の痛苦を訴える悲鳴が脳内を劈く。

 

 流石に立っていられなくなり、額を抑えてその場に崩れ落ちる。畳の表をひたすら見つめ、激痛に耐えていると、ひんやりとした空気が隣から漂ってきた。

 

「ゆき、さん……」

 

 ゆきは相変わらずの無表情で、そこに立っていた。彼女の視線は、掛け軸に集中している。

 

「貴方はなぜ、母君の側に居続けるのですか?」

 

「母様が、一人になってしまうから」

 

「彼女は貴方に興味がないというのに?」

 

 答えることはないと想定していただけに、ゆきの返答は意外だった。しかし、その答えは想定内のものだった。

 

 遠慮を剥ぎ取った成田の問いかけに、ゆきは悔しげに唇を噛んだ。

 

残された記録によれば、ゆきの母親は生前から双子の兄にしか興味を示さない。体が弱く、子供を為すことが出来ないためにどこにも身請けされないであろうと言われていたゆきのことを、母親は生涯顧みることはなかった。

 

 それでも、この娘は死んでもなお健気にも母親に寄り添い続けているのだ。無条件に愛されているのは、子供の方ではなく親の方であるとは、よく言ったものだ。いっそ憐みすら覚える。

 

「いいの。いいの。仕方が、ないの。だから、いいの」

 

 決して、いいはずはない。ゆきの顔を見れば、容易く彼女の本心を推察できる。「仕方がない」と、そう自身に言い聞かせることでしか、彼女は己の孤独から逃れる術を知らないのだ。

 

「これで、いいの。私も母様も兄上の元へは行けないけれど、もうこれで終わるから。もう、全部、いいの」

 

 ゆきの体が、次第に薄れていく。還ろうとしているのだと、直感で分かった。今日初めて会ったばかりだが、彼女たちの哀史を知っているだけに、胸が痛んだ。何も出来ないことが歯痒かった。

 

 ゆきの目尻から、一筋の涙が流れる。成田はポケットからハンカチを取り出すと、それを拭き取ろうと試みる。だが、分かっていたことながら肉体を持たない存在に触れることは叶わなかった。

 

後ろの壁の輪郭がはっきりと見えるほどに、ゆきの体が薄れている。隣では、燃え尽きた掛け軸の灰の中で熾火がじりじりと熱を放っている。宿り木を失った女の魂の残滓も、いずれは彼岸へと向かうことだろう。

 

成田は静かに、ゆきの魂が此岸の向こうへと消えていく様を眺めていた。