逢魔が時の二人

翠蝶

 夕暮れ時。時刻は18時になる手前ほどの時間帯だ。それは仕事帰りの人々が大群を成して家路を急ぎ、ある店は戸締りを始め、またある店は賑わい始める頃合い。

 轟轟という音を立てながら目まぐるしい速さで電車が線路の上を走り、燃え立つような夕映えが雑居ビルの数々を赤く染め上げている。温暖化のせいか、それとも日本特有の湿度の高い夏のせいか、季節外れの虫たちが自動車の噴き上げるエンジン音と共に盛大な合唱を繰り広げていた。

硬い印象を受ける黒のレディーススーツに身を包んだ大窪(おおくぼ)佳織(かおり)は、無秩序のようでいて秩序ある流れが垣間見えるようにも思える雑踏の中を、器用にすり抜けていく。

社会の荒波に放り出されたばかりの新人の頃は、鬼気迫る覇気を放つ熟練のサラリーマンたちに気圧されて、ついつい道を譲ったり少しでも人の少ない道を探して遠回りをしたりと消極的だったものだ。それでも、最近では精神的にタフになってきたのか、「他人なんぞ気遣ってられるか」と一周回った思考回路に落ち着き、「遠慮」の二文字はその辺りの道端に捨ててしまっていた。

そして今現在では特に、周囲の方が勝手に避けていくほどの凄まじいオーラを放つ、般若の如く空恐ろしい顰め面をして佳織は足早に先へと急ぐ。

 カツコツと格式張ったパンプスを若干荒々しく鳴らし、やや前にのめり込むようにして先を急ぐ佳織は、時折鼻を啜っていた。

 泣くものか。泣いてたまるものか。

 

 

 

『佳織ちゃんは女の子なんだからさぁ、ここはもうちょっと男に気ぃ使ってお茶汲くらいしてよ! この前の社員旅行の時だって、この会社じゃ若い女の子は進んで自分から上司のお酌を注がなきゃいけないんだよ。社長も社長だよなぁ、もうちょっとあそこで新入社員たちに喝を入れてやらなきゃ。俺の若い頃はもっと――』

『俺はそんな話は聞いていないぞ。え? ちゃんと報告したって? 君、新人の分際で上司に盾突くわけ? 年齢も勤続年数もこっちが上なんだけど? 何様? まったく、最近の若い奴らは理屈ばっかで、全然年上を敬わないよね』

『何でこんなことも出来ないの? これくらい自分で考えなよ。女の子だからって、それだけじゃ今どきやっていけないんだよ。今は昔とは違って男女平等なんだから。受付嬢か風俗嬢の方が向いてるんじゃない? 俺の若い頃はなぁ、俺一人でバリバリ働いて、俺一人で家族を養ってやってたんだぞ!』

 

 

 

 もっと酷いものでは直接身体的なことを口に出すのも憚られるような生々しさで行われ、或いは労働基準法に確実に抵触するであろうことまで平気でなされた。

これだけ好き放題しておいて、それでもなお命令に従えだの敬意や忠誠心がどうだのと言えるものだ。

思い返すだけでも虫唾が走り、佳織は今にも吐きそうになるほどの怒りでどうにかなってしまいそうだった。

 だかしかし、ここで泣いてしまえば負けだ。と、理論そっちのけの感情的な理由から、佳織は薄く水が膜を張った瞳から、その雫を零すまいと懸命に行く先を睨み据える。

 絶対、泣いてないてなんかやるもんか。

 意固地になった佳織の決意は、頑丈な岩石の如く強固である。

 気が付けば、周囲の景色は一変していた。立ち並ぶ雑居ビルや住宅の数は一気に疎らになり、佳織の目の前には朱色が映えるそこそこ大きな鳥居が厳然とした威風で立っていた。その奥には長い石造りの階段が続いており、灯籠の明かりに照らされ、白く反射している。

 数人の観光客が談笑をしながら階段の真ん中を通って降りてくる。佳織はその光景にやや眉根を顰めつつも、彼らを避けて階段の端側を登っていった。

 

「随分と虫の居所が悪いようだな」

 

 階段を登り終えたその先にまた現れた鳥居を潜り抜けると、ようやく佳織が目当てとしていた神社の姿が見え始めた。その時、声は唐突に佳織に頭の中に入り込んできたのだった。

 佳織がよく知る若い男のぶっきらぼうな声の元へ目を向ける。

 

(はく)……」

 

 「白」と呼ばれたその男は、狐を模した古い石像に寄り掛かり、神社の敷居をまたいだばかりの佳織を切れ長の薄灰色の瞳で冷然と見つめていた。

 

「弥生ならまだ仕事だ。用があるのなら離れに…おぶっ!?」

「うえぇぇぇ――ん!?」

「ちょっ、待っ!? 鼻水付けんなっ! きったねぇ!」

 

 神聖な神社の醸し出す壮麗な雰囲気を突如として引き裂く喚声と罵声。

 白の存在を近くした佳織は、そのまま脱兎の如く白の懐目掛けて突撃を掛けたのだ。

 

「もうほんと聞いてよぉー! マジ最悪なんだけど、アイツ!」

「アイツって誰だよ!? 分かったから、とりあえず落ち着け! あー、もううるせぇ!」

 

 カラスが鳴き声を上げ自らの巣に帰っていく夕暮れ時の最中、彼らの押し問答はそれから暫く続くこととなった。

 

 

 

「なっんなの!? あんのエロ爺!? っざけんなっつーの! 何様!? たかが年が上ってだけで偉ぶりやがって、無能のくせに! いつの時代の脳みそしてんだよっ! 今は令和の時代だっつーの! クソ低能が!」

 

 十数分ほど前のあの決意は一体何だったのやら。

 

「あー、もうムカつく! マジでキモイんだよ!」

 

 感情の赴くがまま、佳織は口から唾を弾き飛ばし絶叫した。

 缶ビール片手に、気炎を吐かんばかりの勢いでまくし立てている酔った佳織の焦点の合わさらぬ目からは、止め止めなく涙が零れている。

 

「なんであんな奴が上司なのよ! なんであたしばっか八つ当たりしてくるのよ!」

「酒乱だな……」

 

ぼそりと呆れた様子で呟かれた白の言葉通り、ちゃぶ台をベシベシと激しく叩き、嗚咽交じりにその場にいない人物を罵倒し続けているその様は、まさしくその言葉の意味がそのまま当てはまる。

 

「はぁ……。でも、このご時世によくもまぁ、そんなこと言えるもんねぇ」

 

 佳織とはちゃぶ台を挟んだ向かい側に正座を軽く崩してその場を陣取っていた(とどろき)弥生(やよい)は、溜め息と共に呆れを多大に含んだセリフを吐いた。

弥生は感情を持て余した佳織が逃げ込んだ神社の離れの住人であり、佳織が気を許した友人の一人である。

佳織と同じく、仕事が終わったばかりなのだろう。神社の神主の娘という縁で巫女の仕事をやっているため、白い小袖に緋袴と言った巫女装束の格好で佳織に付き合う形で酒を嗜んでいる。その傍らに坐する白も、神職の身につけるような白衣姿で缶チューハイを傾けているものだから、少々時代感覚に困惑してしまいそうな絵図だ。

 

「弥生~、あたしなんかしたっけ? ここまで目ぇ付けられるようなことしたっけ?」

「あんたは悪くないよ。少なくとも、そこまでするのはおかしい」

「だよね? だよねぇ!?」

 

 べそをかく佳織を弥生は宥め、佳織は弥生のその好意に甘んじている。受け止めてくれると分かっているからこそ、佳織は弥生に素直に感情を吐露できた。

わがままだと、迷惑だと佳織も頭の中で分かってはいても、今だけは許して欲しかった。そうじゃないと、本当に狂ってしまいそうだった。

 

「あー、もうあのボケがっ! ばっかじゃないの!? いや、馬鹿だろ。マジで馬鹿だろ!? もう、ホント。あー、もう、ほんっとにもうっ! マジで#@$¥%~!」

「あー、はいはい」

「お、弥生、このさきイカはなかなかうまいぞ。お前の好みに合いそうだ。食ってみろ」

「あー、はいはい」

 

頭に血が上っている状態の佳織に対し、その相手をする弥生の反応は友人の悩み事を聞いているにしては、些かぞんざいなものであった。白に至ってはちゃぶ台の上に並べられたつまみや豊富な種類の酒缶を次々に開けては味見に夢中になり、聞いている素振りすら見せない。だが、当の佳織はそれを気にしている余裕すらなかった。

 

「あー、もう、クソが! クソクソクソー!」

 

 それからというものの、佳織の怒りがある程度収まるまで、罵詈雑言の怒涛の嵐は延々と続いていた。

 

 

 

「落ち着いた?」

「あー、少し?」

「パンダみたいになってるぞ」

「白、シャーラップ」

「あとで覚えときなさいよ、白。変化解けたらすぐに毛刈りしてプードルにしてやるんだから」

 

 忌々し気に白を睨み付ける佳織だったが、アイメイクが解け、目の周りがやや黒ずんでいる様は確かに滑稽であった。

チーンと音を立てて鼻を噛む佳織の顔は、酒も手伝ったためか泣き腫らした目の周りだけでなく顔全体が真っ赤になっている。

 佳織は酒精の強い溜め息を吐きながら、勢いよく机に突っ伏した。檜の香りと程よい冷たさが火照った頬には心地がよかった。

 

「虚しい……」

 

 荒ぶっていた感情の波が静かに引いていくのに合わせ、途轍もない徒労感が佳織の全身に襲い掛かってくる。

 じわじわと押し寄せてくる眠気に、佳織は束の間、目を閉じた。

 

「そこまで働いて、お前はどうしたいんだ?」

「どう、ね……。どうもしないわよ」

「ねぇ、佳織の言ってるその上司って、ブラック上司って奴なんじゃないの?」

「んー……まぁ、みんなそう言ってる。特にあたしと年の近い子はみんな」

「そういうの、問題にならないの?」

「ああいう奴に限って外面よかったりするから。あとあいつ、社長の甥っ子だし」

 先程までとは打って変わり、弱弱しく佳織は訴えている。怒る気力も失せてしまった。

「腐ってやがるわ、あの職場」

「大変ねぇ」

「昔から変わらんな、人間というものは」

 

 恨み言を言いながら他人の目も憚らず、品に欠けた所作で一気に缶ビールを煽る佳織。

佳織のように家を出て会社に勤めるという経験を持たない弥生と白は、ヤケ酒をする友人に同情と慰めの籠った言葉を投げかけるしかない。

 

「この前辞めたいって言ってたけど、そんなにヤバイ職場ならやめちゃえば? あんたがその気になれば、転職くらいすぐに出来るでしょ。最近はその辺のサポートとか増えてきてるし、なんだったらうちの親に相談してしばらく神社の手伝いしてもらうとかでもいいしさ」

「特別に俺の世話係をさせてやっても構わんぞ?」

「それは嫌」

「……お前はもう少し他人を尊重することを覚えた方がいいと思うぞ、俺は」

「善処しまーす」

「ま、その話はどうでもいいとして」

「いや、どうでもよくはないぞ、弥生」

「とにかく、うちは父さんさえ『良い』と言えばいつでも受け入れられるから、一度真剣に考えてみて?」

「あー、うん。弥生の気持ちはありがたいんだけどさ。それはいいわ。もうしばらくはあそこで頑張ってみる」

 

 弥生の気遣いに幾ばくか元気づけられたのか、やや前向きな言葉がここへきて初めて佳織の口から零れた。反対に、弥生に完全に無視を決め込まれた白は拗ねた様子だった。

 

「辞める時はスパって行かないと、いつまで経ってもだらだら続けて人生無駄にするよ? もう終身雇用だって当てにならないんだし、それなら自分のスキルアップができる仕事を探した方が絶対いいって」

 

 勢いよく喉を鳴らしながら酒を煽る、品のない佳織の所作に渋面を作りながらも、弥生は指摘した。

 

「分かってる。それはあたしだって分かってるんだけどね。でも、弥生。あたし、あのクソエロ爺の顔面に一発入れてやんなきゃ、気が済まない」

「おっ、面白そうだな。協力するぞ」

「……わー。頑張れー。応援するわー。でも本当に実行するのだけはやめてねー」

 

 棒読みの声援を他所に、佳織はダンッと飲み干して空になった缶を叩きつけるように机に置く。するとすかさず弥生から「落ち着け、おっさん」とツッコミが入った。

 

「はいはい。冗談ですよー。でも、一回マジでこの手で地獄を見せてやりたい」

 

 黒い笑みを浮かべながら後ろ暗い妄想を膨らませていると

 

「一泡吹かせたいって気持ちも分からなくもないけどさ」

 

 佳織の妄想を遮り、先回りした弥生が呆れた調子で肱を突き、顎を掌に乗せる。化粧っ気の少ないにもかかわらず、透明感のある弥生の白皙の頬は佳織よりか控えめだが、適度にアルコールが回り朱に染まりつつあった。

 

「へいへい」

 

 佳織は肩を竦め、悪戯っぽく舌を出して見せた。

 

 

 

 翌日の早朝、まだ日は登って間もない頃。

 離れの庭では朝日に照らし出された朝露が深緑の上で煌めき、澄んだ空気の中を小鳥たちが囀りながら楽し気に舞い踊っている。

 寝静まっている周囲を慮り、控えめな音で開け放たれた障子の戸から、寝起きの気だるげな様子で弥生が縁側に姿を現した。

 アルコール臭が充満した澱んだ室内の重ったるい空気から解放され、一気に汚染された肺を清涼感が染み渡っていく。弥生は深呼吸を何度も繰り返し、新鮮な空気を貪った。

 あの後、久々に佳織と飲んだということもあり、佳織の上司に対する憤りが若干鳴りを潜めたら、今度は女子会が披露され、結局のところ一晩中気が済むまで飲み明かしたのだった。

酔い潰れ、畳の上に突っ伏したまま今もなお眠りこけている佳織を他所に、弥生は脇を通り過ぎ、昨夜の酒宴の名残がそのまま残っている机の上をテキパキと手際よく片付け始める。家柄のせいか昔から作法やしきたりなど、しつけに厳しい弥生の両親がこの惨状を見れば、激怒すること間違いなしだ。

 家にあった酒をあるだけ飲み散らかしたのは主に佳織と白だとは言え、弥生自身も結構な量を飲んでいる。大して酒に強くない弥生とは違い酒豪、しかもやけを起こしている佳織に付き合うのは一苦労だ。白など最早アルコールという概念がないのか、酔ったところを見たことがない。

(あー、頭痛い……)

 鈍痛を訴えかけてくる額に手を当てる。二人のペースに呑み込まれぬよう心掛けてはいたので、軽い頭痛だけで済んでいるのは不幸中の幸いだろうか。

 

『相変わらず弱いな、お前は』

「あんたらが強いのよ。ってか、今頭痛いんだから、その姿で話しかけてくるのやめてくんない? 余計に頭がガンガンして結構辛いのよ」

『仕方がないだろう。この時間帯にこちら側で変化するのはそれこそ俺でも骨が折れるんだ』

「あー、そうだった。じゃあ話しかけてこないで」

『その言い方は流石に傷つくんだが……』

「私より十倍は年上のくせして、何言ってんのよ」

 

 畳の床に落ちていたビニール袋にゴミを選り分けながら、弥生はつっけどんに言う。弥生の足元で自慢の美しい白い毛並みを毛づくろいしていた白は、やれやれと言いたげに首を横に振った。

 白の正体は神社の神使である白狐である。

 現代ではすっかり信心深い人間は数を減らしてしまったものだが、それでもなお細々と霊獣や妖怪などといったものたちは存在し続けていた。白もその内の一匹であり、長年轟家とこの神社を拠り所とし、その盛衰を見守り続けていた。

 

「うぅん……」

 

 ふと足元から衣擦れの音と共に無防備な寝言が聞こえてくる。

 夜更けにようやっと泣き疲れるようにして眠りについた佳織をまだ起こすつもりはなかった弥生は、僅かに焦りを覚えつつ声の主を見た。

 

「毛布でも持ってきた方がいいかな?」

『今更だろう。それにしても、昨夜は随分と荒れていたな』

「そうね……」

(無理、してるんでしょうね……)

 

 弥生は複雑な心境で、頬に涙の痕が色濃く残る唯一無二の友人の寝顔を見下ろし、深く嘆息した。

 

『友人を気遣うのはいいが、あまり深入りはするな。俺たちのような輩が下手に立ち入れば余計に事がややこしくなるからな』

「分かってる」

『どうだか。まぁいい。俺は像の中に戻る』

「後片付けくらい手伝いなさいよ。大半はあんたと佳織が飲んだ分じゃない」

『狐の姿じゃ、大したことは出来んさ』

「あっ、こら。逃げんな!」

 

 すたこら逃げ去っていく白の豊かな毛を持つ尻尾を掴もうと弥生は手を伸ばすも、それは空振り、気が付いたときには既に白の姿は消え去っていた。

 佳織が起きたのは、弥生が後片付けを始めてから十数分ほど経った頃だ。

 

「今、何時……?」

「あ、起きた?」

「うん」

「まだ5時よ。別にまだ寝ててもいいけど? 今日仕事はないんでしょ?」

「いや、弥生はこれから仕事じゃん。流石に帰るわ。帰って寝直す」

 

 これ以上弥生の行為に甘えるというのは気が引けるのだろう。弥生もそれが分かっていたので、それ以上引き留めなかった。

 残りの後片付けを二人で終えると、これ以上長居する理由もなくなった佳織はスーツの皺を出来る限り丁寧に直し、そのまま玄関へと向かった。

 使い込んだために少し汚れや皺が目立つようになってきたパンプスを履くと、冷たい石の床の上でコツコツと楔を打つかのような音が鳴った。

 この音を聞くと憂鬱になるようになったのはいつからだろうか。

昔は、パンプスを始めて履いたばかりのあの頃は、こんなことになるとは考えてもみなかった。パンプスを履くことで、「お前はもう大人になったんだ」と認められた気がした。一人前にようやくなれたんだと思い込んでいた。一歩前に進む度に靴底が鳴り、その音を聞く度に気分が高揚した。けど今は、この音が酷く心に重くのしかかってくる。いっそのこと脱ぎ捨てて、裸足で自由に思う存分駆け回りたいとさえ考えてしまう。

 

「それじゃ、昨日は邪魔して悪かったわね。でもおかげでスッキリした。ありがとう、弥生。今度礼するわ。何がいいか考えといて」

「ほんと。何事かと思ったわ。別にいいけど」

 

 朝日を背景に素直に礼を述べた佳織に対し、満更でもない風に弥生は腕を組んでぶっきらぼうに答えた。

 

「……無理は、しないでよね。見ててハラハラするから」

「うん。分かってる。もう少しちゃんと考えてみるよ」

 

 弥生の忠告を受けつつも、苦笑を漏らす佳織の目元はどこか物憂げだ。弥生はどうしようもなく溜め息を禁じえなかった。

 

「来月の頭辺りで休みある?」

「うーん、取れないことも無いと思うけど、今の所その予定はないかなぁ」

「じゃあ取って。どっか近場の温泉行きましょう」

「え、いきなり!?」

「だって、前々から約束してたのに、佳織ったら仕事ばっかりじゃない。お礼ならそん時に何かおいしいもの私におごりなさい」

「うへぇ、なかなかハードのご注文をなさりやがる」

「私と仕事、どっちが大事なの?」

 

 歯切れの悪い佳織に対し、痺れを切らした弥生が詰め寄る。

 

「えー」

 

 弥生ににじり寄られ、若干後ずさる佳織だったが、少し沈黙した後、二人同時に吹き出した。

 

「あははっ、私と仕事って、一体何の痴話喧嘩⁉」

「ふっ、くく……! 自分で言ったのに恥ずかしくなってきた」

「あたしでも恥ずかしいって!」

「ガラにもないことは言わないもんねぇ」

 

 ここまで笑ったのはお互い久しぶりのことだった。二人はひとしきり笑い合い、落ち着くころには先程までには見られなかった晴れやかさが二人の間にはあった。

 

「分かったよ、弥生。何とかしてまとめて有給取るわ」

「いざとなったら訴えちゃえ。面白そうだし、手伝うけど?」

「面白そうって、たまに弥生ってSよねぇ」

「今更気づいたの?」

「いや、知ってた」

「でしょうね」

「うん。――それじゃ、もう行くわ」

「まだ酒残ってるでしょうから、気を付けなさいよ」

「はいはい」

 

 そうしたやり取りの後、弥生と別れた佳織だったが、再び神社の鳥居を潜り抜け、朝日を真正面から迎えたその顔は、随分と毒気を抜けれたかのような朗らかさに満ちていた。

 そして鳥居のその奥から弥生と狐の石像は、帰路に着く彼女のその面持ちを遠目に見守り続けていた。

 

 

 

 ――後日、弥生との約束を果たすことが出来ないかもしれないと、鬱々とした心地で出社した佳織であったが、当の上司はその日を境に姿を見せなかった。なんでも、狐の幽霊が毎晩現れては悪夢を見せていくのだという。

 それから一週間後、その上司は再び佳織の前に現れることなく辞職した。

辞職した理由は様々だったが、主な要因として労働基準を完全に逸脱した不当な労働を部下に強いていたことが内外に知れ渡ったことにある。

 普段から佳織と同様、その上司を憎々しく思っていた同僚からその話を聞かされた時には、心当たりしかなかったため、佳織は反応に些か困ってしまったものだが、取り敢えず「ざまぁ」とこっそり中指を立てておくことだけは忘れなかった。