「ったく、ふざけんなよ、あのゴミ共……!」
日もすっかり暮れた帰り道、二ヶ月前にめでたく高校生になった少年Aは、大股で歩きながらそう毒づいた。
彼の頭の中は、自分一人に文化祭の準備を押しつけてきたクラスメートのことでいっぱいだった。
今日は見たいドラマがあったというのに、奴らのせいで見逃してしまった。それに、連絡もなしに遅くなったせいで、きっと母は機嫌を損ねていることだろう。
母は人の話を一切聞かない。遅くなった理由があっても、そんなことはお構いなしに怒鳴ってくることだろう。
ああもう、本当に腹が立つ。どいつもこいつも、自分の神経を逆撫でしてくる。みんな消えてしまえばいいのに。煩わしい奴らは全員消えて、自分だけの世界になればいいのに。
そんなことを考えながら歩いていたAは、ふと足を止める。
およそ十数メートル先の電灯に、見るからに怪しい人影が腕を組んで寄りかかっていた。
年齢は二十代後半ほどか。中性的な顔つきをしていて、男か女かの判別はつかなかった。目は細く、頬にはひどい火傷の跡が見て取れた。背は低く見えるが、背中を丸めているために実際よりも低く見えているようだった。
薄汚れた白衣を纏い、その白衣の下は色あせた青いジャージと、見るからに珍妙な格好だった。
Aはそんな不審者が、こちらをじっと睨んでいることに気がついた。目の前を通って絡まれたら厄介だな、とAは思った。これ以上家に帰るのが遅くなるのだけは、なんとしても避けたかった。Aはそれとなく踵を返し、不審者から離れようとした。が、
「何やら、お悩みを抱えとるようっすなあ」
不審者は唐突に、気の抜けた声を発した。この場にいるのは、不審者本人とAのみ。つまりその声は、Aに向けられたものである。
今日はなんて日だ。
どこぞのお笑い芸人のネタのような台詞を頭に浮かべつつ、Aは不審者の方に顔を向ける。
「何ですか」
あからさまに不機嫌な声で、Aは聞いた。
「いやあ、どうもあーた、悩んでおられるよーなんで。僕ちんなら解決の手助けができるかもにゃーと思いまして、声をかけた次第でございます。あ、ちなみに僕ちん、名を音無と言います。面倒だったらオッちんとお呼びください」
よく分からないが、とりあえずそのあだ名では絶対に呼ばないとAは心に決めた。
「別にあんたには関係ないでしょう。急いでるんで、放っといてください」
そういってAは、足早に音無を名乗る不審者から離れようとした。が、
「まーまー、人の親切はありがたく受け取っとくもんだぜ、少年」
そういって音無は去ろうとするAの肩を掴んだ。
その瞬間、Aの堪忍袋の尾が切れた。
「やめろっつってんだろうが!」
乱暴に手を振り払い、そのまま走って逃げれば良いものを、Aはその場にとどまり、音無に罵詈雑言を浴びせ始めた。
「何なんだよ! 放っておけって言ってんのに、何で絡んでくるんだよ。耳がいかれてんのか! 只でさえ今日は遅くなってるのに、何でそうやって、ますます遅くなるような真似しやがるんだ。クラスメートの連中もそうだ! 僕一人に仕事全部押しつけやがって。早めに帰らないといけないって言ったのに、あの自分のことしか考えないくそったれのゴミ共が! しかもそんなことになっても先生は何も言わないときた。何の為にいるんだよ、役立たず!」
はじめは音無に対してのものだった暴言は、やがてAが煩わしく思う全ての者が対象になっていった。
「畜生! みんな、みんな僕を馬鹿にしやがって。死ね、みんな死んじまえ! 僕の気にいらない奴は、みんなまとめて死んじまえ」
口からみっともなく唾を飛ばし、聞くに耐えない言葉を吐き散らかす。その様子を音無は、無表情で見つめていた。
十分後、すっかり怒鳴り疲れたAは肩で息をしながら、音無を睨みつけていた。
しかし音無は先ほどまでの無表情から一転、嬉々とした表情になりAに話しかけた。
「なーるっほどー。やっぱりあんさん、人間関係で悩んでたんすねー。そんなあんさんにはこちらをドーゾ」
言うと音無は懐から何かを取り出し、Aに押しつけた。
「な、何ですかこれ」
「これは人間編集リモコン! これを使えば相手の性格を思うがままに変えることができるんでござんす。いやー、我ながら素晴らしいもの作っちゃったなー。さすが僕ちん、超天才!」
「……はあ?」
「使い方はとーっても簡単。ムカつく相手にリモコンを向けたら電源を入れるだけ。相手はカッチーンって感じで固まっちゃうんで、その隙に性格弄くり倒しちゃって下さいな。はっ、よくよく考えたら相手の動きを止められるってすごくね? 他のことにも使えなくね? 好きなあの娘の動きを止めて、あんなことやこんなこと……」
興奮した様子でまくし立てる音無を尻目に、Aは渡されたリモコンをまじまじと見つめた。
それは20センチ程の長さをしたテレビのリモコンのような形で、ちょうど中心あたりに指紋だらけの画面があった。リモコンの上部の右側には電源と思しき赤い大きなボタン、反対側には謎のメーターがあり、下部には2つのダイヤルがついていた。
(なんか汚ねえなあ……)
Aはリモコンを眺め回しながらそう思った。全体的に薄汚れているし、内部に収まりきらなかったのか、あちこちからコードがはみ出ている。大小さまざまな傷やひび割れがあり、それらはセロハンテープで乱雑に補修されていた。
音無の話ではこれを使うことで人の性格を変えられるとのことだが。
(……馬鹿馬鹿しい)
こんな小学生の工作のような代物で、人の性格をかえられるものか。Aはリモコンを放り捨てた。
「いやーん、何してらっしゃるのー」
素っ頓狂な声をあげた音無は、カラカラと地面を転がっていくリモコンを追いかけた。
その様子を尻目に、Aは今度こそ帰ろうと歩き出す。
「いいんですか、このままで」
しかし、後ろから聞こえた音無のそれまでとは違う、低く、ぞっと底冷えするような声に、Aは思わず足を止め、振り返った。
「いいって、何が」
絞り出すように、Aは言った。
「このまま何も変わらなくて、平気なのかって聞いてるんすよ」
言いながら音無はAに近づき、肩に腕を回した。
「3年です。あの不愉快な連中と3年間も過ごすことになる。あなたはそれに、耐えられるんですか?」
Aは、音無の別人のような様変わりっぷりに困惑した。
ついさっきまでは、話す態度も言葉の感じも、何もかもが胡散臭く、聞く価値のない物の様に感じていた音無の言葉が、急に聞き逃してはならない、大切なお言葉の様に聞こえてきた。
若干気圧されながらも、Aは何か、言い返そうとした。
「……それは」
「それに、です」
音無はAを遮った。
「高校での3年間を耐えられたとしても、その後には大学があります。大学といえばいろんな人が集まる場所です。もしかしたら、より一層不愉快な連中に会うかもしれませんよ」
より一層不愉快な連中? そんなのがいるとは想像もしていなかった。
「さらに大学が終われば社会に出て行くことになります。社会なんて理不尽でできてるようなもんですからね。しんどいなんてもんじゃないですよ」
聞いて、Aは戦慄した。そんな環境で、果たして自分は無事でいられるのだろうか。
「それを仕方ないこととあきらめるか、それとも……」
音無はリモコンを、再びAへと差し出した。
「信じられなくとも、一か八か賭けてみるのはどうですか?」
Aはしばし逡巡した後、小さく頷いた。
「グッド。では改めて、リモコンの使い方をお教え致しましょう。先ずはリモコンを編集したい人間の方へ向けます。そしてこの電源ボタンを押します。すると相手は一時的に動きを止めちゃいます。その間に相手の性格を自由に弄るわけです」
そして、音無はさらに説明を続けた。
(……何やってるんだよ、僕は)
自身の右手に収まる、歪な形のリモコンを一瞥し、Aは溜め息をついた。
結局、音無の豹変っぷりに圧倒されて、リモコンを受け取ってしまったのだった。なんて押しに弱い人間なのだろう。Aは自分を情けなく思った。
しかし、ずいぶんと遅くなった。いつもは大体17時には帰宅しているというのに、今の時刻は20時。こんなに遅くなったのだ。母から雷を落とされるのはほぼ確定だろう。そう考えた途端、Aの足取りは重くなった。
(帰りたくないなあ……)
母は一度不機嫌になると、なかなか機嫌が直らない。最低でも1週間、長いときは1ヶ月かかった事もあった。
あの時は何が原因で怒ったのだったか。確か、小学校に入学したての頃、給食当番着を忘れたとか、その程度の事だった。そんな事であんなに怒り狂うとは、当時のAは予想だにしていなかった。そしてその日から、Aは、母を怒らせないために、神経をすり減らす毎日を送る羽目になったのだ。
またあんな日々がやって来るのか。
(でも)
Aは再び、右手のリモコンを眺めた。
(……もしも、あいつの言っていた事が本当なら、母さんにも怒られずに済むんだよな)
そう思うと、ただのガラクタの塊にしか見えなかったはずのリモコンが、自分の運命を左右する、とても重要な物か何かに思えてきた。
(……やってみるか)
音無から教わったリモコンの使い方を思い出しながら、Aは歩くペースを早めた。
「この大馬鹿! 一体こんな時間まで何してたの!」
Aが玄関の扉を開け、家の中に入ると、案の定、母は激怒した様子で、リビングから姿を現した。
その剣幕にAは思わず怯み、縮み上がった。しかし何とか気を持ち直すと、母にリモコンを向け、電源を入れた。
その瞬間、Aに詰め寄ろうとしていた母の体は、まるで凍りついたかのようにその場で止まった。
Aはポカンと口を開けたまま、母と同じように動きを止めた。つまり、このリモコンが本物であることをAは理解した。そして、徐々に驚愕と歓喜が入り交じったような表情に変わっていくことを自覚し、やがてその場で、小躍りした。
「いや、待て待て。まだ肝心なことが済んでなかったな。喜ぶのはその後じゃないと」
自分に言い聞かせるように、Aはそう呟き、リモコンの画面をのぞき込んだ。
指紋まみれの画面上に、「喜びレベル」、「怒りレベル」、「哀しみレベル」、「楽しみレベル」と記された4つのメーターが表示されていた。これらのメーターの数値をいじることで、その人間の喜怒哀楽の度合いを調節し、性格を変えることが、このリモコンの主な使い方だと、音無は説明していた。
Aは早速、他と比べて異常に数値が高い怒りメーターの値を0にした。
「こうすればもう、母さんは何があったって、絶対に怒らないはず……」
Aは祈る気持ちでリモコンの電源を切り、母の反応を待った。
「あら、お帰り。ずいぶん遅かったわね」
それだけ言うと、母はリビングへと引っ込んだ。
「やった! やったぞ。このリモコンは本物だ」
Aは叫びながら、自室に駆け込み、嬉しさの余り布団に包まると部屋中をゴロゴロと転げまわった。
Aは幸福の絶頂にあった。気がつくと時間はすでに深夜の2時。未だに起きていて、しかも大騒ぎしているとあれば、かつての母なら、ドアを蹴破る勢いでAの部屋に入って来て、それから近所の人が何事かと思う程の大声で怒鳴り散らしただろう。しかしもはやそうなることはない。リモコンで怒りレベルを0にされた母は、絶対に怒ることはなくなった。 否、怒ることができなくなったのだ。例え殴られようが、目の前で大切にしていたネックレスを壊されようが。人間ならば当たり前に持ち合わせる怒りという感情を、母は失ったのだ。
「……違う。正確には、僕が奪ってやったんだ」
ざまあみろ、とAは思った。僕を苛つかせたから、こうなったんだと。
ああ、明日が楽しみで仕方がない。学校の不愉快な連中を、自分の好きなように編集してやるのだ。そして今の高校を卒業し、大学に入学したら、そこでも気に入らない人間を編集してやる。大学を卒業して、会社に入社したら、そこでもだ。出会う人間全て、自分の思い通りにしてやる。
「そうすればもう、僕をイライラさせる人間は、この世に一人もいなくなる。穏やかで、順風満帆な人生が待っているんだ」
結局その日、Aは興奮で一睡もすることができなかった。
そんなことを考えていたのが、今から大体3年前だった。当時のAはきっと、大学に入った自分は、悩み事など一切ない、最高のキャンパスライフを送っているものだと思っていただろう。
しかし、現実は違った。大学生となったAは現在、非常に面倒なことになっていた。
まず、Aが入学した大学には総勢5万人の学生がいた。いくら自分と関係のある人だけを編集しようと思っても、その数は膨大だったのだ。そしてその膨大な数の人間を編集するのに、リモコンは多くのエネルギーを必要とした。リモコンは単3電池で動くのだが、消費する電力が多く、2人ほど性格を編集すれば、10本の電池はすっからかんになった。電池を買うためにはお金が要る。そのためにAはアルバイトを始めた。するとそこでもいろいろな人と出会い、ますます編集すべき人間が増えた。その結果、より多くの電池が必要になり、バイトを増やす羽目になり、そして増やしたバイトでまた編集すべき人間と出会う。
バイトを増やしに増やしたAの毎日は多忙を極め、肉体的にも精神的にも疲労困憊のAは些細なことでもイライラするようになり、編集済みの人間の態度に苛立ち、また編集を行う。そんな負のスパイラルに、Aは囚われていた。
結局Aは、順風満帆な穏やかな人生とはほど遠い、不安定で苦しい人生を送る羽目になったのだった。
「ったく、ふざけんなよ……あのゴミ共……」
日もすっかり暮れて真っ暗になったキャンパス内のベンチに腰掛け、Aは深い溜め息を吐いた。
バイトばかりしていたせいで勉強に時間を割けず、結果こんな時間まで補習を受けることになった。
「なんでこんなことになっちゃったんだ」
リモコンを手にしたあの日の夜の自分は、未来の自分がかつてないほど辛い毎日を送っていることなど、つゆほどにも思っていなかった。だって他人を自由に変えられるのだから。それがどうして……。
もう一度溜め息を吐き出したAはベンチから立ち上がった。その時だった。
「何やら、まーたお悩みを抱えとるようっすなあ」
随分と懐かしい声が正面から聞こえた。
「……音無さん」
それは3年前、Aにリモコンを渡した音無だった。
「いんや、あーた随分雰囲気変わりましたねえ。昔はもっとエネルギッシュな感じだったのに、今は年取って大好きな散歩すら億劫になった老犬のようでござんす」
「そういうあんたは、まるで変わってないね」
Aの言うとおり、音無はまるで、3年前のあの日からタイムスリップしてきたかのように、何も変わっていなかった。
音無はニヤリと、気味の悪い笑みを浮かべ、言った。
「あら、嬉しいこと言ってくれますね。お礼にお悩み、聞いてあげますよん。ささ、お姉さんにどーんと打ち明けちゃってくだせい。どーんと」
(あんた、女だったのか)
Aはそう思ったが言葉には出さず、代わりに再びベンチに腰を下ろし、音無に最近の状況を説明し始めた。
その後、Aの話を聞き終わった音無は、急に叫んだ。
「僕ちん、思いついちゃいました!」
「……何が?」
呆気にとられたAはそれだけ返した。
「だからー、あーたのお悩みを解決する方法っすよー。いやー、こんな短時間でお悩み解決法思いついちゃうとか。さすが僕ちん。超天才!」
なんかそれ、3年前にも言ってなかったか。 Aはちらりとそんなことを考えたが、それよりも言うべきことがあった。
「ほ、本当ですか? 本当に解決策、思いついたんですかっ」
「ほんとーでごぜーますよーん! あのリモコン、今持ってます? 持ってたら貸して貸して!」
「はあ」
と、Aは若干、しどろもどろになりながら返事をした。
(それにしても)
とAはふと考えた。
3年前もそうだが、彼女は何故か、Aを助けている。何故そんなことをするのか、Aには分からなかった。もしかして彼女は、Aにとっての、救いの女神か何かなのだろうか。いや、きっとそうに違いない。今後もし、また何かトラブルが起きたとしても、きっと彼女は助けてくれるのだろう。そんなことを考えながら、Aは音無に鞄から取り出したリモコンを手渡した。
リモコンを受け取った音無は、Aにリモコンを向けて、電源を入れた。
「………………え?」
α大学に、Aという生徒がいた。気難しい性格で常にイライラし、人のために行動するのが特に嫌いで、頼み事を頼まれると、それはそれは嫌な顔をして断っていたと言う。
そんな彼はある日を境に急に、何を頼まれても断らない、何を言われても何をされても怒らない、そんな人間に変わったのだという。