トーキョーヒャッキヤコー

森野真宵

 

 

湿気たコンクリートの独特な匂いが立ち込める。交差点を行き交うおびただしい数の人間の、その一人になってふらふらと歩く。

 

上手く歩けないのはいつものことだ。病に侵されているわけでもなければ、足を怪我しているのでもない。ただ、どうにも人混みというのが得意ではなく、気分が悪くてたまらないのだ。人酔いと呼ばれる現象であり、ありふれた症状らしい。しかし私は、この自らの体の不調の原因が、単に人間に埋もれるという状況に陥ることではないと知っている。

 

歩きながらあたりに目をやる。

 

スーツに身を包むサラリーマン。制服姿の学生。流行を取り入れたファッションの若い男女。子連れの女。腰の折れた老人。

 

誰もが片手に持ったスマートフォンの画面に夢中になっている。すれ違いざまに肩がぶつかりあっても、互いに気にする様子はない。数え切れないほどの人間が、皆一様に同じものに病みつきになっている。この不気味な習性を持つ人間を目の当たりにするたび、気が滅入る。その群れに紛れて歩くなどもってのほかだ。

 

立てばスマホ、座ればスマホ、歩く姿にスマートフォン。

 

その姿が私には、人間ならざるものに見える。まるで――

 

「妖怪みたいですな」

 

待ち合わせのファミレス。合流するなり後藤はそう言った。

 

あまりに唐突に放たれたために、その言葉の意味を理解するのに少々時間がかかった。もっとも、言葉自体の意味は理解しても、発言の意図は理解に苦しむ。

 

「いやほら、君の容姿ですぞ、神戸氏」

 

「あぁ?」

 

ますます理解しがたい。だが、後藤の言動が私の理解の範疇をはるかに超えているのは滅多なことではないため、いちいちなんだと聞き返すこともしない。後藤もまたいつも通りに構わず続ける。

 

「肩まで伸びた髪にこけた頬。体は骨みたいに細っこいし、顔も青ざめているではないか。ちゃんと食べているのかね」

 

「牛みたいな図体の奴に言われたくないな。また脂身が増したんじゃあないか」

 

 ぶすぶすと鼻を鳴らしながら後藤は笑う。悪意があったわけではないが、罵倒のつもりではあった。けれども手応えが一切ない。まったく喰えない男である。これもまたいつものことなのだが。

 

 迷いのない歩みで一番奥の席を目指す。真昼とはいえピークの時間帯は過ぎたのか、客はそう多くない。ふと、一組のカップルを見た。向き合う形で、会話をしている。しているようではある。が、目を合わせない。彼らの視線は互いにスマートフォンを捉えている。倦怠期だろうか。いや、表情は喧嘩や別れ話をしているようには見えない。声色も楽しそうである。

 

 だのに、スマートフォンから目を離さない。それを見せ合う素振りもない。奇妙な逢い引きだ。

 

席に着くなり、ウェイトレスが注文をとりに来る。面倒だからとっと済ませろ。そんな面持ちだ。客の眼前でエプロンのポケットからスマートフォンを取り出す。こいつ、なめているのか。一瞬そう思ったが、ただ注文をメモするのに使うだけのようだ。

 

「〝肉汁がありあまる牛の極み手ごねハンバーグ定食〟をキングサイズで」

 

メニューを見ずに注文する。長たらしい名前を一字一句間違うことなく暗記している後藤には毎度感心である。私はアイスコーヒーしか飲まないからメニューを開く必要がない。

 

ウェイトレスが戻っていくなり、私は話を始める。後藤に会話の主導権を渡すと、興味のないアニメの話をされるのだ。

 

「まあたしかに、その辺の奴らからすれば、妖怪みたいなもんかもな。私らみたいな、物書きって身分はよ」

 

「それはまた面白い表現ですな。我々作家が妖怪とな」

 

「作家に限った話じゃあないさ。あんまり浮世離れした奴らは、一般人と比べたら妖怪同然だろうよ」

 

「浮世離れした奴がファミレスでアイスコーヒーとはなんとも奇天烈なものですな」

 

「牛が牛の死肉貪るほうが滑稽だがな」

 

「牛とは誰のことですかな」

 

 後藤は抗議するような口調になる。私は、さあ、とわざとらしくすっとぼけた顔を作った。

 

ウェイトレスが無言でアイスコーヒーを置いていく。話し中の私たちに気を使ったのか。いや、ただ面倒くさがっているだけだな。ガムシロップとコーヒーフレッシュがない。どっちも入れないから別にいいが。

 

「それに、妖怪の中には、人間由来のものもいるんじゃあないか」

 

「ほほう! と、言いますと?」

 

 後藤が興味ありげに身を乗り出す。音を立てて揺れるテーブルからアイスコーヒーを救出する。この野郎、零れたらどうしてくれる。ここのアイスコーヒーはファミレスにしてはまあまあ美味いんだぞ。

 

数人の客が何事かとこちらを一瞥するが、すぐに手元に目線を戻す。料理にではない。その隣に置いたスマートフォンにだ。

 

 かたじけなし。そう言って後藤は丁寧に座りなおす。

 

「で、妖怪が人間由来とはいかに」

 

「そうだな、人型の妖怪っているだろう。子泣き爺とか、砂かけ婆とか」

 

「ふむ、有名どころの妖怪ですな」

 

「そいつらって、本当にいたんじゃあないかって。もちろん妖怪としてじゃあなく、頭のおかしい老人として」

 

 後藤は眉をひそめ身を引きながらも、目は爛々とさせている。いつになく話に喰いついている様子だ。その証拠に、ウェイトレスが運んできた名前の長いハンバーグ定食に気づいていない。

 

「いつの時代でも、気の違ってる奴ってのはわんさかいる。病気だとかそんなんじゃあない。特に深い事情や酌量の余地もない、ただ純粋に狂ってやがるヤバい奴がな」

 

「なんとまあ、、容赦のない見解ですな。神戸氏、倫理観とかお持ちでないので?」

 

「重いしかさばるから、家に置いてきた」

 

 おどけた態度で手のひらを見せつける。同時に、財布も家に忘れてきたことを悟った。また後藤に奢らせる口実を考えなければ。財布を忘れたと言えば済むことなのだろうが、そんな詰めの甘い奴だと思われるのは腹が立つ。

 

やれやれといった顔で後藤は鼻から大きく息を吐く。ハンバーグから立ち上る熱気と匂いが、あたりに一瞬広がって消える。

 

後藤はやっとその存在に気がつき、手も合わさずにフォークを突き刺す。奥歯が見えるほどあんぐりと口を開き、入るだけのハンバーグを押し込む。そしてフォークでライスをすくい、それも同様に口内に捻じ込む。迫力のある豪快な食べっぷりはまるで暴れ牛だ。いつかそのうち、よりしっかりと味わうためだとか言って、一度飲み込んだものを戻して反芻するかもしれない。

 

ハンバーグを頬張りながらも、後藤は続きを聞きたそうにしている。私は話を続けた。

 

「他にも垢舐めとか、小豆洗いなんて奴らもその類だろうよ。まあ、妖怪というには随分しょうもないがな」

 

 うんうんと頷きながら後藤は肉と米を噛みしめる。

 

「そう考えりゃ、現代人だって負けじと妖怪してるぜ」

 

 後藤はピタリと動きを止めた。

 

「どういうことですかな」

 

 噛み潰された肉塊越しに、もごもごと声が聞こえる。

 

「例えば、後藤、あそこの女子高生見てみろ。どう思う」

 

 私は窓の外を指さした。後藤はフォークを握ったまま目をやる。上から下までじっくりと舐めまわし味わうように女子高生を見つめる。ゆっくりと幾度も往復する眼球の動きに、慣れた感じがうかがえる。自分が促した動作とはいえ、正直なところ気色が悪い。

 

「ふむ、少し痩せすぎですかな。女子高生たるもの、スカートとニーソックスの間から覗く太ももはもっとむっちりと健康的であるべきと心得ますぞ。しかし、あの瑞々しい肌の白と艶やかな髪の黒とのコントラストは特筆に値しますな」

 

「聞かなきゃよかった」

 

「だって神戸氏がどう思うと尋ねるから」

 

露骨に不満な表情をしてくるが、私は無視した。

 

「あいつら、楽しそうにおしゃべりしているみたいだが、スマホを離そうとはしない。友達と話してるんだ。スマホなんていらないだろう。それに、二人して似たような格好してるな。スマホの機種までお揃いだ。ありゃ流行りの最新型だな」

 

「たまたまでは?」

 

「あいつらだけじゃあない。どいつもこいつも同じような格好で、同じような物持って、同じような顔してやがる。しまいには、他人と同じになんてなりたくない、なんて、他人と同じことほざいてるんだろうな。いうなれば、『妖怪・猿真似生娘』ってところか」

 

「ふむ、言い得て妙というやつですな」

 

 口の中のものを頬の奥によけながら、後藤は器用に話す。

 

「さてはそれが次回作のネタですかな」

 

 鋭く目を光らせながら自信満々に口角を上げる。脂ぎった頬の肉が無理矢理押し上げられる。

 

「なんでそう思う」

 

 後藤の予想は見事に的中していたが、素直に認めてやるのも癪なので、質問を返してみる。

 

 すると、突如爆発するみたいに後藤は噴き出した。咀嚼された牛の肉片が周囲に飛散する。咄嗟に私はテーブルの下に身を屈めつつ、アイスコーヒーを死守した。後藤は興奮した獣の咆哮のような笑い声をあげる。

 

「神戸氏が楽しそうにしゃべるときは、決まっていいネタを思いついたときですからなあ。文芸部の頃からちっとも変っていませんぞ、神戸氏」

 

「お前も、口に食い物入れたまましゃべる癖、変わらないな。汚いから治せ」

 

「まあまあ、変わらぬものの一つや二つ、あったほうが素敵ではありませんか」

 

「素敵じゃないから、治せ」

 

 後藤は荒い鼻息でまた笑い、顔を赤くして咳込んだ。ウェイトレスが面倒くさそうに駆けつける。ポケットからスマートフォンがはみ出している。最初に使っていたものとは違う。完全に私物だ。ついさっきまでこっそり弄っていたのだろう。

 

大丈夫です、と後藤は言う。お前が大丈夫でもテーブルは大丈夫ではない。ウェイトレスは訝しげに後藤の顔を睨みつける。当然の反応だ。が、その目は、不快なものではなく、不可解なものを見ているようだ。私はウェイトレスにおしぼりを持ってくるよう頼み、その場から離した。

 

「おい、後藤」

 

 私は自分の額を指で示した。後藤も鏡写しのように額を触る。両目からまっすぐ上がったところに、左右一つずつ、小さな腫れ物ができている。店に来た時にはなかったものだ。

 

「ふむ、もうそんな時間ですかな」

 

 私は氷の溶けて薄くなったアイスコーヒーを飲み干し、席を立った。せっかく守り抜いたのだから、ちゃんと味わいたかった。後藤もいつの間にか食べ終えていたらしく、さっさとレジへ向かう。

 

「お前、さっきの汚かったから奢りな」

 

「神戸氏、いつもそうやって難癖つけては奢らせてはおらんか」

 

「今回のは真っ当な理由だろ」

 

 後藤は不承不承、会計を済ませ店を出た。

 

 空はどす黒い雲に覆われ、なにか不気味なものでも這い出てきそうな光景だった。しかし往来する人間は、誰一人そんなことを気にかけてはいないようだ。

 

「バレるなよ、それ」

 

 額の腫れ物はさらに膨れ、固まり、小さな牛の角のようだった。後藤はリュックサックから取り出したバンダナを巻き、前髪を整えた。

 

「神戸氏も、ですぞ」

 

 私は自分の口元をそっと撫でた。唇は薄くなり、ひび割れ裂けるようにして崩れている。剥き出しになった歯の硬い感触が指先に伝う。私は使い捨てのマスクをつけ、フードを深く被った。耳はじきに消失するから、紐を伸ばして後頭部のところで結ぶ。

 

「いつ見てもダサいな、そのバンダナ」

 

「神戸氏こそ、不審極まりないですぞ」

 

 では、と敬礼のポーズをとり、後藤は去っていった。私はポケットに手を突っ込んだまま、ああ、と返しその姿を見送る。いつも通りの挨拶だ。

 

 私も急いで帰らねば。四時四十四分を境に、私たちの体は妖怪と人間の姿を行ったり来たりする。中には自在に姿を変えられる奴もいるみたいだが、私程度には無理だ。人酔いなんて症状を抱えているのも、この難儀な体質のせいだろう。

 

 信号が変わり、静止していた群衆が一気に動き出す。流れに身を任せるように、私も歩き出した。一歩踏み出す度に、気分が悪くなる。いつもの人酔いもあるが、本来の姿に戻るときはいつも頭痛や眩暈がする。

 

 不意に、左半身に衝撃を受けた。通行人とぶつかったらしい。お辞儀だけしておこうと振り返ると、若い男と目が合った。

 

まずい。見られた。マスクをしていても、目だけは隠せない。頭蓋骨に眼球が嵌め込まれている。どう見ても人間じゃない。こんなことならサングラスでもしてくればよかった。いや、それはそれで怪しいか。とにかく騒ぎになる前に逃げなければ。

 

しかし、男はまったく無反応だった。虚ろな目を逸らすと、ポカンと開けた口元で何やらぶつぶつと呟きながら、立ち去って行った。やはりその手にはスマートフォンが握りしめられていた。

 

 渋谷駅前スクランブル交差点。一回当たりの青信号時通過人数は多い時で約三千人にのぼるという。そのほとんどが、スマートフォンを凝視しながら歩いている。その様子を誰もが当たり前だと信じ込み、異様だと思う人間はいない。

 

「まったく、どっちが妖怪か、わかったもんじゃあないな」

 

鼻孔から、ふう、と溜め息が漏れた。そしてまた、ふらふらと覚束ない足取りで、人間の百鬼夜行へと紛れこんだ。