あたりを見渡すと、ただひたすらに真っ白な景色がひろがっていた。ちいさいときにみた映画に出てきた世界が、頭をよぎる。そこは魔法の国で、星のようにきらめく雪が一年中降り続けるのだ。僕の住んでいる街は雪がほとんど降らない。ごくまれに降ったとしても、アスファルトに触れればたちまち消え去ってしまう。もし、あの世界がほんとうに存在したなら、そこへ行けるとしたら、どれだけ素晴らしいことだろう。もうそのまま死んでしまってもいい。それほどまでに、雪というものに憧れを抱いていた。いまから一時間ほど前、自分は遭難しているのだということを自覚するまでは。
何度も助けを呼ぼうとしたが、電話はつながらない。電波が届いていないようだ。当然、雪山で遭難したときの対処法を調べることもできない。自慢のスマートフォンも、大自然のまえでは無力なのだ。僕も自分の脳で検索してみたが、検索結果は、寝たら死ぬ、のひとことだった。眠気を紛らわそうと、スマートフォンのスマートな部分について考えることにした。しかしそれも束の間、スマートフォンの電池残量がなくなり、ただの冷たい塊になった。次は僕の番だ。もうどうすることもできない。寒さにやられて体は動かない。助けを求める手段もない。唯一僕にできることは、走馬灯を見るくらいだ。
父さん、元気にしてるかな。もう何年も会ってないな。正月くらい帰ればよかった。もしかしたら、息子と二人で酒でも呑みたいとか思ってくれていたかもしれない。たぶん、思ってないだろうけど。母さんは、驚くだろうな。会えなくなって、もう長いもんな。きっと、怒るよな。どの面下げて会いに行こうかな。友達は、笑ってくれるといいな。誕生日に雪山に登る、って言ったときくらい、おなか抱えて笑ってほしいな。せっかく面白い死に方するんだからな。泣かれても恥ずかしいし、笑われたほうが気が楽だ。昔観たあの映画、どんな物語だっけ。妖精が出てくるのは覚えてる。さいごはどうなるんだっけ。フクロウとか出てきた気がする。やっぱりだいぶ忘れちゃってるな。もう一回観ておきたかったなあ。
ひとしきり走馬灯に目を通すと、今度は遠くから足音が聞こえてきた。お迎えが来た。僕はそう悟った。寒いのにわざわざご苦労様。だけど、もう少し待ってほしい。時計の針が二つ重なれば、僕は二十歳になる。それまで少しだけ、待ってほしい。思いもむなしく、僕は抱えあげられた。目を閉じる寸前に、顔を見た。女の子だ。まるで雪でできているみたいな、真っ白な女の子だ。
目が覚めた僕は、部屋の中にいた。
見慣れたアパートの一室ではない。小学校の合宿で泊まった、ログハウスのような木造の部屋だ。家具は僕が寝ていたベッドだけ。それでも自分にはもったいないほどおしゃれだ。きっとあの世ではこういうのが流行っているのだろう。どうりでだれも帰ってはこないわけだ。僕もそのうちのひとりになるのだろうか。ふかふかのベッドに少し居心地の悪さを感じつつ、立ちあがった。
ドアを開くと、香ばしい匂いが漂ってくる。匂いのする方へ行くと、見覚えのある女の子がコーヒーをいれていた。死にゆく僕を迎えにきた子だ。彼女もこちらに気づいたらしく、手をとめて話しかけてきた。
「あら、起きたのね。身体はもう大丈夫?」
僕は両手を胸のあたりにもってきて、指を閉じたり開いたりしてみせた。
「おかげさまでね」
彼女は安心したように、ふっと目を細めた。
「ところで、ここはあの世とかいうところかな? そとは地獄みたいだけど」
窓の外では、遭難したときより吹雪が強まっている。
「あの世だなんて、縁起でもないこと言わないでよ。ここは私の家。ちゃんとこの世にあるわよ」
「君の家? じゃあ、僕は生きてるのか?」
「ええ、生きてるわ」
驚いた。僕はてっきり凍死しているのだと思っていた。
彼女は、どうぞ、とテーブルにカップを置いた。コーヒーの表面が微かに波を立てる。
「それにしても、あんなところでなにをしてたの?」
二十歳の誕生日を雪山の山頂で迎えてみたいと思った。友達には断られた。雪山をなめていたせいで遭難した。ざっとあらすじを組み立ててみたが、改めてひどい話だ。とても他人に話せる内容じゃない。僕はできるだけ恥ずかしくないように、かいつまんで説明することにした。しかし、どう話を作っても、遭難して死にかけていた事実だけは変えることができない。結局、諦めてありのままを話すことにした。
彼女は何も言わず、ただ黙って申し訳なさそうに頷いていた。聞いてはいけないことを聞いてしまったという顔だ。あまりの羞恥に堪えきれなくなって僕は話題を変えた。
「君こそ、どうしてこんなところに? 人間が住めるような環境じゃないだろう」
「平気よ。私、人間じゃないもの」
当たり前のように彼女はそう言い放った。そして調子を変えずに続ける。
「私は、雪の妖精よ」
彼女の目にはひどく間抜けな顔をした男が映っていることだろう。手からするりと落ちていこうとするカップを慌てて握りしめ、僕は彼女の顔を見た。頭の悪そうな声が僕の口から漏れた。
「あの、まってくれ。なにを言ってるんだ。そうだ、一旦落ち着こう」
「落ち着くのはあなたの方だと思うのだけれど」
「だってほら、妖精なんてこの世に実在しない、いわゆる、オカルトの類だとおもうんだ」
「本当よ。だってこんなところ、人間が住めるような環境じゃないでしょう」
今しがた自分の言ったセリフを返され、妙に納得してしまった。納得するしかなかった。
「この山はね、一年中雪が降るの。私が生まれたときから、ずっと降り続けてる」
だから、夏を見たことがない。伏し目がちの表情で、ぽつりとつぶやいた。きっと、見たことがないのではなく、見ることができないのだろう。彼女はただの妖精ではなく、雪の妖精だ。彼女がいるところにはいつも絶えず雪が降り続けるのだろう。あるいは、雪が降っているということが、彼女の存在条件なのかもしれない。だとしたら、雪が止んでしまえば、彼女はどうなるのだろうか。
「でも、いいの。きっと、知らないままでいるほうが、ロマンチックなんでしょう」
目を伏せたまま微笑み、彼女はコーヒーを口にした。
「そうかもしれないね」
ぼくもつられて口元を緩めた。たしかに、彼女の言うとおりだ。雪の妖精がブラックコーヒーを飲むなんて、知らないほうがロマンチックだった。
雪山での生活は想像よりずっと楽だった。
どういうわけか空腹感はなく、口にするものといえば彼女のいれるコーヒーだけだった。おまけに、寒さも感じない。室内だからだろうか。一歩外に出れば極寒の吹雪のなかなのだが、家にいれば一切寒くない。考えてみれば不思議な現象ばかりではあるのだが、雪の妖精を前にすると、なぜだかそんな疑問は消えてなくなった。そして彼女といることも、いつの間にか当たり前になっているのだ。
ふと、以前の生活を思い出した。いつも飽き飽きしていた日々がどこか懐かしい。だけど、戻りたいとは思わない。いくら記憶をたどってみても、明るいものは湧いてこない。胸にぽっかりと穴が開いたような痛みが、僕を襲う。なにかが足りない。いままでの僕の心はなにかが欠けていて、それを埋めるものがいまの僕にある。だけどそれがなんなのか、わからない。考えるほどに、痛みは増していく。この気持ちは、なんていうんだろう。僕になかったものは、欲しくてたまらなかったものは、なんていうんだろう。
「どうしたの、うかない顔して」
聞きなれてしまった彼女の声がした。痛みがすこし和らぐ。僕は、彼女に自分の話をした。どうして話そうと思ったのだろう。ほかの誰にも話したことはないのに。だけど、話さずにはいられなかった。
幼いころに母が死んだこと。父は仕事ばかりで、僕を見てくれなかったこと。自分はひとりだ。そう思って生きてきたこと。そして、ひとりでいることが、心地よく感じてしまっていたこと。ひとつひとつ吐き出すように、ゆっくりと、慎重に言葉を選んだ。気を抜くと、涙が溢れそうでしかたがなかった。でも、彼女がそばにいることで、心が安らいだ。僕がうつむいたまま言葉をなくしてしまうと、彼女はそっと僕の頭をなでた。
「つらかったね。わかるよ。私もひとりだったもの」
この世に生まれたときから、ずっとひとりだった。そう彼女は話してくれた。
「何百年もひとりきり。でもずっと、平気だった。あなたと出逢うまでは」
短い沈黙の後、彼女はおもむろに立ちあがり、コーヒーをいれた。僕もこれ以上はなにも言わずにいた。わかるよ。その一言で、救われたのだ。僕も、きっと、彼女も。だけど、一つだけどうしても気になって、口を開いた。
「何百年もって言ってたけど、君、いったい何歳なんだ?」
「……コーヒー、おいしいね」
無視された。女性に年齢をきいてはいけないのは、妖精でも同じらしい。
「そろそろ寝るよ。今夜は冷えるし」
カップを片付けて部屋に戻ろうとすると、彼女に引きとめられた。
「寒いの?」
「うん、すこしね」
「そう」
彼女は、伏し目がちの表情になった。悪い予感がした。いつか同じ表情をみた。夏を見たことがないと告げられたときだ。あのとき、彼女の声には悲しみが満ちていた。こちらを見ないまま、彼女はつづけた。
「私たち、どうして出逢ってしまったのかしら」
うつむいたままの彼女に、僕はなんて言葉を返せばいいのかわからなかった。
「ごめんなさい。忘れて。おやすみなさい」
彼女は逃げるように部屋へ戻っていった。
夜が明けても僕の身体は起き上がることができなかった。感覚がない。身体が凍ったように動かない。いや、実際に凍ってしまっているのだろう。とうとうこの日がきた。いつか悲しい日々が終わったように、いまの安らかな日々も終わってしまう。わかっていた。いつかはこんな日が来て、我に返るように僕は凍え死んでしまうことを。
ベッドに横たわる僕の隣で、彼女は膝をつき手を握っている。しかしそれももう僕の手には感じない。何度も、何度も、彼女はごめんなさいと繰り返した。
「いいよ。こうなることは、なんとなくわかっていたんだ」
謎が解けた。ずっと、僕に足りなかったもの。僕が求めていたもの。いま、僕を満たしているもの。いまさら気づくだなんて。
幸せだった。はじめて誰かを愛せた。はじめて誰かに愛された。僕の気のせいかもしれないが、それでもいい。思い残すことはなにもない。
「だから、泣かないで」
彼女にその言葉が届いたか、知るすべはない。僕は目を閉じた。ゆっくりと雪が降り積もり、埋もれていくような気分だ。
最期に、唇に何かが触れた気がした。
いままで触れたどんなものよりも、やさしく、温かかった。それがなんだったのか、わからないまま僕は眠りについた。
目が覚めた僕は、部屋の中にいた。
見慣れたアパートの一室ではない。小学校の合宿で泊まった、ログハウスのような木造の部屋だ。あの世では、ない。
窓の外からは光が差し込んでいて、青々とした草木が生い茂っている。雪など、最初から降っていなかったみたいだ。ふかふかのベッドに名残惜しさを感じつつ、立ちあがった。
ドアを開け、隣の部屋をのぞいても、誰もいない。僕以外の誰かがいた形跡すらない。
夢でもみていたのだろうか。
ともかく、雪が止んだのなら山を降りよう。荷物を持って外へ出た。木漏れ日の中を歩いていると、遠くから鳴き声が聞こえてきた。声のする方へむかうと、一羽の鳥が木にとまっていた。
フクロウだ。まるで雪でできているみたいな、真っ白なフクロウだ。
僕が立ち止まり、そっと手を伸ばすと、躊躇うことなく飛び乗った。突然の重みに耐えきれず、僕は小さくうめき声をあげた。いったい何キロあるのかときくと、フクロウは黙って僕の頬をつついた。女性に体重を聞いてはいけないのは、鳥類でも同じらしい。
夢じゃない。きっと、魔法にでもかけられていたのだろう。なにせ、僕が出逢ったのは、雪の妖精なのだから。
僕はフクロウと一緒に、また、歩き始めた。