帝国の北、名前もない辺境の森に、一人の男が足を踏み入れた。
男の名はシレン、教会に属する騎士である彼が受けた任務は、この森に潜む『魔女』の討伐であった。
幾度もの雨で滲んだ数ヶ月前の足跡、払われた藪から新たな枝が伸びることで出来る人為的な葉の曲がり、不自然に踵を返した節のある鹿の蹄のあと。かすかな痕跡を辿るように半日ほど森を進んだシレンは、ついにそれを見つけた。
並び立って生える二本の木の間に、渡すように吊された蔓草。自然に伸びたと考えるには少し不可解なその蔓は、よく調べれば様々な糸を編み合わせて作られた偽物であるという事が分かるだろう。
それは森に隠れ潜む魔女が作る、常人には見えざる領域――結界への入り口として典型的なものであった。
周囲を入念に調べ、その結界が紛れもない本物である事を確認した後、シレンは懐から琥珀色に透き通る小さな小瓶を取り出すと深く息を吸った。
『カシミアの霊薬』。この薬の効果は心を霧散させること、魂のその輪郭をあやふやにぼやかすこと。常人では耐えられないという魔女の結界に飛び込んだ際の意識混濁を緩和し、魂を捉えるといわれている魔女の目から自らの存在を隠すため、魔女狩りの騎士達はこの劇薬を懐に隠し持つ。
シレンは瓶の封を開けると、中身を一息に飲み干した。途端に襲い来る頭痛と目眩をいなすように、ゆっくりと息を吐く。
幾度となく経験した薬の作用に今更動じることもなく、シレンは身体の震えが来る前に結界へと足を踏み入れた。瞬間、身体を包み込む強烈な重圧に、シレンは顔をしかめ、そして眉をひそめた。
結界へと踏み込む際、空間を満たす魔力の質の違いから、わずかに抵抗を感じるのは珍しい事ではない。
しかし、今シレンが感じている、例えるなら蜂蜜で満たされた湖に飛び込んだような感覚は、これまで経験したことがないものだった。
なおも増す重圧に、シレンの足が止まりかけた刹那、不意に彼の視界をまばゆい光が包みこむ。とっさに顔を手で覆ったシレンは、満足に動く自分の手に、今の今までその身を縛り付けている重圧が消え失せている事に気付いた。
光が切っ掛けになったのか、あるいは別の要因か、想定外の事態の連続に動揺を隠せぬまま、シレンは自らの手をまじまじと見下ろした、そして顔を上げたとき――
目の前に現れた小屋の扉が開いた。
「おや? 異端審問官がこんな所までお出ましになるとは珍しい」
黒い髪、黒い瞳、白い顔。
現れた男の容貌を確認する間も無く、シレンは大きく跳び退き、左腰に下げた剣の柄に手を置く。しかし、シレンが剣を鞘走らせるより早く、滑るように詰め寄った男の手がシレンの剣の柄を抑えた。
「待ちたまえよ、私はあくまで中立だ」
絶体絶命の危機にもかかわらず、シレンは鼻先が触れるほどに迫った男の顔から目を離せずにいた。シミ1つなく蒼白で、しわひとつなく端正な、しかしまるで生気の感じられない相貌。男の顔は、例えるならこの世で最も美しい男の顔をかたどった仮面のようだった。
時を忘れるような静寂の中、男の口がゆっくりと開いた。
「見当を付けてきたのだろうが、ここに魔女がいるのは確かだ、そして君がほんの少し時間をくれるならば――私の目的を果たさせてくれるのならば、喜んで彼女を引き渡そう」
淀んだ瞳に見据えられたシレンの背を、冷たい汗が伝う。勝ち目がないと、直感的にそう思わされる威圧感が目の前の男にはあったのだ。
逡巡の後、シレンは答えた。
「分かった」
男の瞳に、かすかな感情の光が宿った。
「ふぅ、話が分かるようで助かるよ、異端審問官というものはもっと聞き分けのない連中だと思っていたのだがね」
言うやいなや、男は押さえ込んでいた剣帯から手を放すと、ためらいなくシレンに背を向ける。鮮やかな刺繍を施されたコートの裾がふわりと弧を描き、そこで初めてシレンは男が剣帯を付けていない――武器を持っていないことに気付いた。隙だらけなはずのその背中に、しかしシレンは斬りかかることもなく、男が扉の奥へ消えるのを見届けて息をついていた。
そしてようやくシレンの意識は、周囲の光景へと向けられる。
眼前に建つ、先ほどまでなかったはずの小屋。物置にしても小さく見える簡素なその小屋は、しかし紛れもなく魔女の領域。
本来、警戒するべきこの状況で、しかし、危機を乗り切った安心感と、薬の作用で朦朧とする意識の中、シレンはふらふらと不用心に小屋の中へと踏み込んだ。
小屋は、入るなり数段を下る半地下と言っていい構造で、外観ほど狭くはないが天井は低い。窓と呼べるものはなく、木張りの天井を抜けるかすかな光と、部屋の中ほどに置かれたランタンの火が部屋全体をぼうっと照らしている。部屋の中央で屈む男の傍らにはなめし革の大きな鞄、その隣にはいくつかのナイフと鋏が真っ白いハンカチーフの上に並べられている。そしてその横に大きく腹を膨らませた女が横たわっていた。
赤い長髪と整った顔立ち、そして何より削がれた右耳から、シレンはその女が目的の魔女であると気付いた。そこから数歩近づいたとき、シレンは魔女の身体に目を向け、足を止めた。
魔女は一糸まとわぬ姿で寝かされていた、そしてその肌のほとんどを異質な何かが覆っていたのだ。深い青、もしくは翡翠。そのどちらともつかない色相を明滅する結晶が、魔女の腹からふくらはぎまでを包んでいた。
「まったく、君の相手をしているうちに、ずいぶんと病状が進んでしまった……まぁどの道、君がここに現れた以上は助ける意味もないのだが――」
男がナイフの切っ先で女の腹を叩くと、鉄を打つような甲高い音が響いた。
「これでは開腹もままならんな」
考え込む男に対し、シレンは痛む頭を抑えて問うた。
「なんなんだ、これは」
一拍を置いて、男は答えた。
「『星の子病』だよ、子を孕んだ魔女が罹る病気でね、魔力の循環に淀みが出来るんだ」
男は切っ先で示すようにナイフを滑らせる。
「最初は軽い違和感から始まり、次第に痣が浮かんでそこに結晶が出来上がる。子の成長と共に範囲は広がり、十ヶ月を境に命にも支障を来し始める、出産直前ともなればこのさまさ」
「……そんな病は聞いたことがない」
シレンの言葉を、男は鼻で笑った。
「魔女が男を作ること自体希なんだ、その中で子を成そうという者は一割にも満たない。君みたいなのに追われる身じゃあ、命ふたつを抱えるのは無謀だからね」
男の説明を聞きつつも、シレンはふつふつと湧き上がる疑問を抑えきれずに問いかけた。
「お前は、何者だ」
男はかすかに肩をすくめると、口元に含みのある笑みを浮かべて答えた。
「魔女専門の医者だよ、おそらくは世界でただ一人のね」
口ぶりからしても男に何かしらの秘密があることは明らかであった。しかし、シレンがそれを追及するより先に、男は口を開いた。
「よし、君、彼女の首を刎ねてくれ」
余りにも突拍子のない提案に、シレンは男の言葉を理解することが出来なかった。
「……なんだと」
「結晶化はすでに内臓にまで広がっている、このまま放置すれば日が落ちる前に母子共に結晶に飲まれて死に至るだろう、しかし子を取り出そうにも腹の結晶が固すぎる、このまま力任せに砕けば、まず間違いなく中の子を潰すことになるだろう」
「母体が死ねば魔力の供給が途切れ、この結晶は格段ともろくなる。どの道、彼女を殺すつもりで来たのなら、構わないだろう?」
シレンは言葉に詰まった。ひどく冷徹に聞こえる男の言い分は、しかし確かにこの状況を的確に示していた。
シレンの目的は魔女の討伐で、男の目的は魔女の出産を成功させることであるはずだ。仮に無事出産が終わったとしても、シレンが彼女を殺す事に変わりは無く、ならば男もわざわざ腹の中の子を危険にさらしてまで魔女を生かす必要はない。
シレンは剣の柄に手を置いた。そして、迷いを払うように一気に抜き放つと、そのまま剣を回すように大上段へと構える。
剣を振り下ろそうとした刹那、シレンは魔女の視線に気付いた。焦点の定まらない瞳は、しかしその時、たしかにシレンを見据えていた。
魔女の唇が微かに震える。
――お願い、この子を、助けて――
振り下ろそうとした剣の切っ先が、低い天井を叩く。
頸椎を絶つつもりで振り下ろした刃はわずかに軌道を外れ、シレンの手に緩い手応えを残した後、鈍い音を立てて床板へ食い込む。
苦痛に歪む表情と、鼓動に合わせて高く吹き上がる鮮血。
喉を切り裂くにとどまった斬撃が魔女に与える、本来必要無いはずの苦痛を、顔にかかった血しぶきを介して感じながらも、シレンは振り下ろした剣を持ち上げられずにいた。
シレンがこれまでに討った魔女は七人、その全てを、今、目の前で苦しむ魔女より遙かに残酷に殺してきたはずだ。にもかかわらず、シレンは今、彼女の首を切った事にひどく動揺していた。
身動きできずにいるシレンの隣で、返り血に顔を真っ赤に染めた男は、同じく血みどろの袖口で無意味に顔を拭いながら不満げに口を開いた。
「なんだ君、悪趣味にも程が――いやまて」
男の声の直後に響いたガラスが割れるような音に、シレンは弾かれるように顔を向ける。
それは魔女の腹を覆っていた結晶に亀裂が入った音だった。
「大量出血が急激な魔力低下を引き起こしたか、あるいは母体の危機に胎児が呼応したか、どちらにせよ、これは好機というものだな・・・・・・」
早口でつぶやくようにそう言った後、男はシレンに視線を向けた。
「君。出来れば耳を塞ぎ、後ろを向いておいて欲しいのだが、難しいだろうな」
かすかに笑みを浮かべた後、男は魔女に向き直ると、亀裂の走った腹の上に右手をかざす。瞬く間にその手が薄青い光を帯びた。
それは紛れもない魔法の光。
「砕けよ」
言葉と共に、男の手から放たれた細い幾本もの光が、亀裂を正確になぞる。直後、魔女の腹を固く覆っていた結晶は、内側に崩れ落ちるように砕けた。
翡翠で満たされた宝石箱のような魔女のはらわたの中に、埋もれるようにその子はいた。
赤い髪、瑠璃色の瞳、そして母親と同じく腹から股ぐらまでを覆う、鮮やかに瞬く結晶。産声の一つもあげず、泣きわめく様子もなく、ただじっと男を見つめる赤ん坊の視線が奇妙で、シレンは磔にされたように動けなかった。
男は赤ん坊を抱き上げた。母親の身体を蝕んでいた結晶と違い、赤ん坊の身を包む結晶は蛇の鱗のようにしなやかに曲がった。
「ふふふ――正しく星の子供だな」
しばらく赤子の状態を確認していた男は母親の、魔女の眼前に突き出し、肩を揺すって語りかけた。
「ほら、見たまえ、娘は無事だよ」
噴き出す血はとうにその勢いを失い、蒼白の顔にすでに生気はない。
虚ろに天井を見上げるだけの瞳は、しかし男の声にかすかに揺れる。
魔女の目から一筋の雫がこぼれた。
しばしの静寂の後、立ち上がる男の気配にシレンは目を向けた。
「君の機転のおかげで死に際に一目、娘の顔を見せてやる事が出来た。感謝するよ」
皮肉をたっぷりと含んだその口ぶりは、医者がシレンの葛藤を見透かしている事を示していた。
「ところで、君の任務に魔法使いを殺す事は含まれているかな?」
男の言葉に、シレンは乾ききった声で答える。
「教義には邪悪な魔女を殺せとあるだけだ……男の魔女などいるはずがない」
「ふむ、それは良かった」
男はシレンの答えにかすかに笑うと、返り血に染まったコートを脱いだ。血塗れの袖を内側に折り込み、裏返して比較的清潔な面を表にすると、男はそこに赤ん坊を乗せる。
手際よく赤ん坊をくるんだ男は、片腕で赤ん坊を抱き上げると、使われることもなく転がっていたナイフと鋏を、敷かれていたハンカチーフごと雑に取り上げ、鞄に詰め込んで再びシレンに向き直る。
「さて、私は医者ではあるが葬儀屋ではない、屍に執着するつもりも毛頭ない。首でも耳でも、好きなところを持って帰るといい」
そのまま小屋を出ようとする男の背中に、シレンは震える声で呼びかけた。
「待て」
急激に冷静さを取り戻しつつあるシレンは、じくじくと頭を満たす予感に蓋をして男を見据える。
「お前はなぜ、生まれてくるその子が娘だと知っていた?」
男は魔女に娘は無事だと伝えた。しかし、赤ん坊は腹から股ぐらまでを鱗状の結晶に覆われていたのだ、性別など分かるはずがない。
「知りたいかね、本当に」
しかし、男が浮かべた冷徹な笑みに、シレンは悪い予感が当たっていることを知った。
「星の子病はね、魔女が魔女を孕んだ時、例外なく発症する病なのさ」
次の瞬間、男は赤ん坊を投げ捨てた。
シレンがそれを受け止めることが出来たのは、わずかにでもそうなることを予想していたからに他ならない。
「いっただろう、私は中立だ。魔女を匿うつもりはない」
シレンが顔を上げると、男はすでに扉の前に立っていた。
「このような子供でも、魔女は魔女だ、教会の教義に照らし合わせれば……そう……言うまでもなく一様にね」
男の視線がシレンの腰に下げた剣へと向けられる。
「ここから先は君の問題だ、煮るなり焼くなり好きにするがいい」
シレンも男の後を追って小屋を飛び出した。しかし辺りを見回せども男の姿は影も形も無く、代わりに全方位に共鳴するような声だけが響いた。
「しかし、もし仮に君が煮るでも焼くでもない、別の選択肢をとるというのなら……この私――ペリドットともう一度まみえる事もあるだろうね」
結界が解け、吹き抜ける風と木々のざわめきが戻ってくる。
シレンの腕の中には月明かりを受けてキラキラと輝く結晶を身にまとった赤ん坊だけが残された。その手を掴み、頬に触れる。シレンの右手に伝わる熱は、どうしようもなく熱かった。
日のくれ落ちた闇夜の森を、なめし革の鞄を片手に歩く男がいた。
吹き抜ける冷たい風に、コートを置いてきた事は失敗だったかも知れないと思いつつ、男――ペリドットは懐から茶色の小瓶を取り出した。
それは先ほど、騎士と組み合った際に懐からくすねておいたもの。
「教会もなかなかだとは思っていたが、まさかこんな物を使っているとはね」
カシミ剤――カシミという花の蜜を煮詰めて作るこの薬品は、強い幻覚作用をもたらす麻薬として帝国全土で使用を禁じられている。ただひとつ『魔女狩りの騎士団』を除いて。