Liberation

長編/兎鮫

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 夕焼けに照らされ、燃えるような色に染まる世界。間もなく闇に包まれる刻の中で、一人の少女が捨てられた地を走っていた。彼女の名は朝霧瑠奈花(あさぎりルナカ)。年頃の人形めいた小造りな顔には焦燥と困惑、そして恐怖の面が浮かんでいる。

 少女は逃げていた。天敵を見つけたときの脱兎のごとく、ただひたすら足を動かすことに全神経を注ぎ、終わりの見えないおいかけっこに涙を浮かべていた。

 ルナカは見間違いだと願いながら何度も後ろを振り向く。しかし迫ってくる「それ」が現実を突きつけ、早鐘のように鼓動する心臓をさらに刺激してくる。

 数メートル後ろに、ほぼ同じ速度で追いかけてくる異形の怪物。立体物が幼児の積んだ積み木の作品(オブジェ)のようにテキトーに構築されたその形状は、お世辞にもあまり危険意識を掻き立てるものでは無い。趣味の悪いアートのような類いだ。

 だが、地球上の全生物から類似点を探し出しても絶対合致しないであろう不気味なマーブル模様の体表と、顔の部位に当たる球の中心に位置する巨大な隻眼が、幼児の作品を立派なモンスターへと変貌させていた。生理的嫌悪を憶えるほど活発に隻眼を脈動させ、硝子を傷つけるような不快な声を上げながら追ってくる様は、まさに「恐怖」の象徴として人間の逃走本能を盛大に刺激する。

(なんでこんな時間に、『カオス』が出るの……⁈)

 怪物はこの世界で世間一般的に認知されている存在であり、「混沌(カオス)」の名を冠して人々に恐れられている。

 百年ほど前に突如としてこの地球上に現れた天敵は、人類に解明の余地を与えず、圧倒的数と力で人間社会を半壊させた。比較的安定期に入った現在でも研究は滞っており、辛うじて解明できたことは、魔法を用いてくること、人を喰らうこと、『比較的』夜行性であること、そして『常人』ではまず勝てないということだけだった。体の構造、呼吸の有無、生殖方法、遺伝子の配列……といった諸々の基礎情報は不明。無論、行動の目的や発生源の詳細なんてものも分かっていない。

 ただ一つ明白なことはあった。その言葉をルナカは心の中で復唱する。

 

 ――出会ってしまったら「魔法」で迎撃をするか、死ぬ気で逃げろ。

 

 現代の義務教育で刷り込まれた護身の心得だが、しかしいざカオスに直面してしまうと正気を保てる方が少ない。人によっては自分より小さな動物昆虫に恐怖するのだ。平均して人間の倍もある巨躯に、それも非生物的なグロテスクな目玉に睨まれれば、誰だって立ち向かうことよりも逃げることを選ぶ。むしろ立ちすくんでそのまま喰われる、という最悪の事態を回避し、逃走の選択肢を取れただけ褒められるに値するだろう。ルナカも例に漏れず戦う意志を早々に粉砕し、こうして涙と汗にまみれ、血の気を失い、息を絶え絶えにして逃げているのだ。

 

 ……死ぬかもしれない

 

 その極限下に置かれているという実感はあれど、理性が現実を受け入れるのを拒む。陰鬱と重く麻痺したかのようにぶつ切りとなる思考は、まるで自分のものではなくなったようだ。ルナカは止まりそうになる足を必死に動かしながら、この日何度目とも知れぬ過去のフラッシュバックを開始した。

 

 それはほんの十数分前だった。

 特に変わったことも起きず、眠気と外の景色への誘惑と闘いながら授業を受け、いつものように下校時刻を告げるチャイムを学び舎で聞いた。やたら彩色豊かな教材と小さい頃親に買ってもらったお気に入りの筆箱を学校指定の鞄に詰め、友人と校門で別れてから帰路に入る。特に帰ってもすることは無いし、課題も急いで取り組まないといけないほどのものでもない。そんな訳で、ルナカは帰宅途中にある今どき珍しい町の商店街へ立ち寄り、道草を食っていた。週に何度か訪れる恒例行事だ。今日もぶらぶらと商店街を歩き、行き交う人の服の色は何色が一番多いとか、店頭で販売されている焼き菓子を遠目で見つめながら財布と相談会を開いたりして、なんてことない時間を過ごしていた。

 

 しかし、見慣れたストリートは一瞬にして地獄と化した。蜃気楼のように空間が揺らぎ、形と色彩と影を帯び、生き物としての姿を形成する。カオスだった。天敵を目撃してしまったルナカ含む商店街の人間は血の気を失った。

 まず数が多い。カオスの出没が日常と捉えられるまで麻痺してしまった世の中では遭遇しても大体一体であることがほとんどで、多くても三体を超えることは無かったのだが、この日はその常識の倍は裕に超える十体だった。

 そしてもう一つの理由は、活動時間外だったこと。「比較的」という枕詞をすっかり意識外に追いやっていた人類は、夜にしかカオスと出逢わないと信じていた。いや、信じていたかったというべきか。現に常識に裏切られたのだから。

 あまりにも非現実が重なって動けない人間を、カオスは無数の紅を散らしながら喰らっていった。まるで人間が元から食材だったと言われても信じてしまいそうな一方的な捕食だった。

 これは悪夢なのだろうか。

 ルナカは動揺のあまり、足の裏が縫い付けられたかのように動けずいた。しかし、逃げる選択を強いられる決定的瞬間がすぐに訪れた。数いる内の一体が、ルナカと目が合う。生き血を啜って紅く汚れたこの世のものとは思えないような隻眼に全身の鳥肌が一斉に逆立ち、直前まで激しい運動でもしていたのかと思うほどの汗が噴き出す。うとうとしていたときに怖い教師と目が合ってしまったあの衝撃を百倍にしたような戦慄。見間違え、気にし過ぎ、大丈夫。何度も自分に言い聞かせたが、カオスが咆哮し、ルナカ目掛けて突進を開始し始めたのを最後に、考える理性を失った。

 何で。どうして。私が何をしたって言うの。

 ルナカは問い続けたが、誰も答えない。いつしか少女は商店街を抜け、混乱のあまり慣れ親しんだ道を外れ、普段は来ないような人から忘れられた区域に足を踏み入れてしまい…………

 そして現在に至るのだった。

 

 すぐにルナカは見当違いの方へ走っているのに気づいた。家に帰れば臨戦対応できる者がいるので、この状況から脱するのに最善の手は帰宅することなのは明白だ。だが、退路にカオスがいるので引き返すことは不可能。その上、今走っている廃墟の狭い道には砂が薄く積もっているせいで、下手なことをすればルナカと同じぐらいの速さで追ってくる怪物の更なる接近を許してしまう。連絡を取ろうにもこんな切羽詰まっている中でそのような精密な動きはできるはずもなく、そもそもとして通信機器は鞄の中だ。手汗で滑る、震える指で押しミスが発生するリスクを考えても現実的では無い。となると、残された生還ルートは、うまくカオスの索敵範囲から逃げ切り、再び見つからないように帰宅すること。気が付けばそれが唯一穏便に解決できる方法となってしまったようだった。

 限りなく細い希望と認識した途端、死の恐怖がだんだんと現実味を帯びてルナカの身体と心を蝕む。栓の壊れた水道のように溢れてくる涙が視界を歪め、何も見えない。足も悲鳴を上げている。カオスの唸り声がさっきよりも近くに聞こえた気がして、ルナカは心の中で絶叫した。

(もっと、もっと速く……追いつかれる……‼)

 

 しかし、そんな願いをあざ笑うかのように悲劇は訪れた。泣きっ面に蜂とはまさにこのことだった。

 足が砂に遊ばれ、極めて軽快な音と共に滑らせる。あっ、と声を上げたときには既に視界の半分を地面が占領しており、まともな受け身すら準備できずにルナカはコンクリートの地面に激しく身を打ち付けた。

「ぐぅっ……‼‼」

 まず全身に激痛が走り、次に肺の空気が全て出されたことで過呼吸に陥った。長時間心臓を酷使したせいで胸が張り裂けそうになり、嘔吐感が底なしに押し寄せ、ごうごうと耳鳴りが響き、全身の力という力が全て抜けて動けなくなる。読んで字のごとく満身創痍。かき集めたなけなしの理性が「早く逃げろ」と必死に叫ぶが、パニックと痛みの処理に頭が追い付かない。不意に周囲の明度が幾分下がった。

「ひっ……‼」

 倒れて絶え絶えに息をしているルナカをカオスの影が覆っていたのだ。

 全てを貫くような視線を放つ隻眼に見下ろされ、喉から絞り出されたかのような声が漏れる。華奢な体は激しく震え、歯がカチカチと不規則な音を立てる。

 

 ついに、追い付かれた。

 

 カオスは見せつけるようにゆっくりと左腕を掲げた。槍かと見紛うようなそれは、夕陽を反射し、真っ赤に燃える。あれで身を貫かれ、心臓を穿たれ、血肉を散らされ、最早人の形すら保たれていない死人と成り果ててしまう。絶望と恐怖に染まった少女には、見下ろす巨大な瞳がニタリと笑ったように見えた。

(もう、だめだ)

 死を悟ったルナカは最期に瞬いた思考回路で両親に謝罪し、仲の良い人たちに聞こえることない別れを告げると、目を瞑って自分の体が槍に砕かれるのを待った。

 生涯で一番うるさい心臓の拍動の中に風の切る音が混じり、空気が張り詰める。

 

 ピシッ……!

 

 儚くも力強い音が、乾いた夕刻の空気に反響した。

 その音を聞いたルナカは、まだ自分の意識があること、なにも異常を察知できないことに驚き、ゆっくりと目を開けた。

「‼‼」

 カオスは槍を振り下ろす直前で静止していた。『いや、させられてた』という方が正しいのかも知れない。ルナカの倍以上ある巨躯を氷が包みこんでおり、動きが止まっていたからだ。

 そしてその氷塊と少女の間に立つ人物。煌めくような長い銀髪に目元(アイ)を覆い隠す布(バンド)。ルナカはほぼ反射的にその人物の名を呼んだ。

「ソルジャット……!」

 呼ばれた青年は肩越しに振り向くと、至極穏やかな声で言った。

「無事、だよな……よかった……」

 彼の名は夜霞 染瑠次(やがすみソルジ)。親の関係で親しい間柄を築いている三歳上の幼馴染だ。

 訳あってカオスと同じ土俵で戦える極めて珍しい力を持っており、庇うように立っている後ろ姿だけで安堵の気持ちが込み上げきて胸が詰まる。

 

 ピシッ……ピシピシッ…………

 

 奇跡の再会も束の間、カオスを拘束する氷が内部からの圧力に耐えかねて悲鳴を上げる。どうやら凍死するまでには至らなかったらしく、ソルジは臨戦態勢を取りつつ周囲を見渡す。

「下手に逃げねェ方がいいかもな……」

 二人と一体が居るのは人の手つかずとなった廃工場。工場として機能しなくなったのは、かなり昔であるらしく、地元民のルナカとソルジも足を踏み入れたことが無い。下手に奥へと逃げれば反って危険を増幅させるだけだろう。加えて、このような無人の地には夜行性のカオスが身を潜めていることが多い。逃げ回って夜になってしまうと、いくら戦えるソルジが居たとしても、カオスの群れから生き延びることはかなり難しくなってしまう。以上のことを瞬時に察したソルジは、唯一の退路を塞いでいるカオスに向き直る。道幅はほぼカオスの横幅と同じ。つまり、高いフェンスと塀に囲まれたこの細い一本道では怪物の懐をすり抜けて逃げるということも不可能。

 殺(や)るしかなかった。

 

「離れてろ」

 氷が破裂する寸前、命令されたルナカは、普段は聞かないような声色に突き動かされるようにして彼から距離を取る。大きな音を立て壊れた氷塊の中から、空気の塊を貫く槍状の腕が突き出される。自由になるや否や攻撃を仕掛けるとは凄まじいまでの執念だ。

 ソルジは刀を抜きつつ迫り来るカオスの腕を避けると、血にまみれた金色の隻眼に斬りかかる。

「ギョアッ!」

 しかし、そうはさせまいとカオスはもう片方の腕で、ちょうど後隙を補う形で別の攻撃を仕掛けてくる。槍のような腕とは対照的に、先端が巨大な球の形をとった殴打に特化した形状をしており、殴りつけるように攻撃してくる。ソルジは攻撃着弾寸前で刀による防御を成功させると、勢いを利用しつつ距離を取って着地。

「やれやれ……賢い(クレバー)タイプか……手早く済ませたかったんだがな……」

 恐らく中心体(コア)である隻眼を狙ったのだろうが、思った以上に頭の回る奴だったらしい。攻撃が躱されたことに対応してくる辺り相応に優秀な思考回路を備えているのだろう。ルナカ自身もここまで冷静なカオスは初めてだった。一般的に「獣程度の賢さ」とされるらしいが、当然、例外は無数に存在する。

 ソルジは一撃で決めることを諦め、誘導作戦に変更。胴体に攻撃を当て続け、コアに対しての攻撃への警戒心を削がせようとした。最低限の動きで、しかし俊敏に腕を避けて刀を閃かせる。

 一見すると青年が優勢にも感じられたが、完全に一方的な応酬では無かった。動き回るソルジに対し、どっしり構えるカオス。足場は薄く砂が積もっており、どちらがバランスを崩しやすいかは一目瞭然だった。

「……!」

 砂に足を取られて滑りかけるソルジ。飽くまで冷静を保ってカオスから距離を取って回避をしているが、ずさあっというスリップ音にルナカの心臓が跳ねる。カオスの手は止まらない。

 加えて、ルナカは一つの異変に気が付いた。

 青年の肩を僅かに上下させるような浅く速い呼吸。表情はいたって平穏――アイバンドのせいで顔色を伺いにくいが――汗もかいてないが、息遣いは不規則で荒い。原因は分からないが、確実に『疲労』していることは確かだった。心なしか勢いも次第に弱まっている気がする。そう実感した途端、抑えていたはずの恐怖が再び湧き出て全身を悪寒で満たす。

 大丈夫。ソルジャットなら大丈夫。

 何度も言い聞かせるが、彼も人間であり、完璧では無い。素人のルナカから見ても洗練された無駄の無い攻防が、戦い始めて一番大きなスリップによって崩され、痩躯がぐらりと傾く。カオスが隙を狩るために左腕を最大限引き絞る。絶体絶命だ。

「ふっ……!」

 ソルジが食いしばった歯の間から鋭い息を漏らし、刀を大きく振るう。攻撃のために振るったのでは無い。得物を振り抜いた影響でルナカの所まで届くような強い風が起き、青年の体が逆再生のように傾いた姿勢から矯正される。瞬間的に起こした太刀風が、軽量のソルジを煽り、半身を無理矢理に動かしたのだ。しかし、これ以上は動けない。ルナカは目を背けることもできず、ただただ傍観することしかできなかった。

 

 ぐさっ‼‼

 

 生理的嫌悪を催す湿った音が鳴り、飛び散った紅が夕日を受けて不気味に輝く。

 不安定な姿勢の中、何とか回避に転じることができたおかげで致命傷は免れたが、カオスの左腕はソルジの左肩を抉り、血を滲ませていた。十分な一手を下したのにも関わらず、獲物を完全に仕留めるまで止まる気が無いのであろうカオスは、再び強烈な殴打を放つ。ソルジは避けることができない。刀に手を添えて構えると刀身で衝撃を受け、大きく後方へと滑走。ルナカのすぐ横まで達する。

「ソルジャット……!」

 反射的に傷ついた幼馴染の名を発する。青年はそれに応え、僅かに視線を向けると、小さく「大丈夫」と言う。

「ルナカ、今から俺が隙を作る。その間に何とか逃げろ」

「な、何を言って……」

 厳かに続けられた言葉の真意を汲み取れず、少女は困惑する。迫り来る攻撃。ソルジは片手で刀を閃かせ、甲高い音と共にその腕を弾く。顔が痛みに歪み、滴る血が数滴ほど指先から落ちる。

「魔力の底が見えてきた。俺に余裕が無くなるとまたお前を危険に晒してしまう。これ以上戦況が悪化する前に逃げて欲しいんだ」

「ソ、ソルジャットは……⁈」

「俺のことは心配すんな。今は自分が生きることだけを考えろ」

 そう答えると、青年は言葉を切り、集中力を高める。あと十数秒もすれば宣言通りカオスの体勢を崩すような攻撃を放つだろう。そうすれば、自分はこの場から逃げ、悪夢から醒めることができるのだ。

 だが、ソルジは、魔力切れを予感している彼はこのまま戦闘を続行できるのか。無論、彼が強いのは目の前の光景を見れば理解せざるを得ないのだが、もし『自分だけが助かってしまう』現実が訪れたら。そのときはもう正気でいられる自信がルナカには無い。

 

(嫌だ……死にたく、ないよ……)

 

 自分のせいで彼を犠牲にしたくない。奴の標的は自分なのだから、せめて死ぬなら自分だけがいい。しかし、そうすれば今度はソルジの心に深い傷を負わせることになってしまう。手の打ちようのない、八方塞がりの状態で激しい自責の念に駆られたときだった。

 ルナカの中で新たな感情が芽生えた。責任転嫁にも近いそれは、どんどん膨れ上がるようにして心の中を占領し、頭がすっと冷える。

(今のこの状況は私のせいでも、ソルジャットのせいでもない。全部どう考えてもあいつ(カオス)のせいだよ……)

 「怒り」だった。なぜ自分たちがこんなやつに殺されなきゃいけないのか、どうしてこんなやつに虐げられなくてはいけないのか。普段は考えることのない疑問がソルジの負傷をトリガーに沸々と湧き、ひどく冷えた頭とは対照的に体はカッと熱くなる。極限状態が続いたせいでおかしくなったのか、自分でも理解できないほどの強い衝動が死への恐怖を吹き飛ばす。ルナカは覚悟を決めた。何もできないに等しいが、それでも起こりうる現実に歯向かうべく、掩体から這い出る。カオスのおぞましい隻眼に負けず睨み返し、心の中で絶叫した。

(ソルジャットを置いて逃げたくない。二人生きて帰る……!)

 

 私はソルジャットを助けたい……!

 

 絶叫が意識の深層にまで轟く。その瞬間、今まで経験したことのない出来事が立て続けに起こった。

 胸の奥で「何か」が儚い音と共に壊れ、秘められていた温かな奔流が体中を巡る。急速に視界が淡い光に包まれ、自由落下にも垂直上昇にも感じられる奇妙な空間にルナカは放り出された。だが、不思議と怖さと不安は感じない。まるで新たな自分の誕生にも思えて、あるがまま力の奔走に身を任せる。みなぎるような高揚感が迸り、体に羽根が生えたかのように軽くなるに対して、右手には頼もしい重みが加わる。今なら何でもできそうだ。

 

 ――削られたばかりの金剛石(ダイヤモンド)から放たれるような光に祝福されながら、ルナカの魔源は「解放(リベレイト)」された。

 

 視界がゆっくりと色彩を帯び、体の感覚が戻ってくる。目の前にはルナカの変化に気づいてこちらを向いていたソルジが驚愕の表情で硬直し、カオスも突然の現象に動きを止めている。

「ルナカ……お前……」

 戦闘中だということも忘れているかのように青年が動揺の声を漏らすが、カオスが咆哮を上げたことで我に返り、向き直る。しかし、受けた傷による痛みが集中を阻害し、防御体勢の完成を妨げた。

 ソルジの危険を敏感に感じ取ったルナカは無我夢中で駆け出し、右手に顕現した何かを両手で持つと、攻撃の軌道を予測して全力で振りかざす。少女の美しい得物(ランス)は、カオスの槍と楽器のような甲高い音を立てて衝突し、衝撃がルナカの体までやってきた。

「ぐぬぬ……!」

 筋力に自信は無いが、懸命に両腕と両足に力を込めて踏ん張る。コンマ数秒鎬を削ると、互いの力が爆散し、両者共に体勢(バランス)を崩した。図体のデカイ怪物はよろめくだけだったが、小柄なルナカは反動で宙に浮かび、盛大に尻餅をつく。ルナカには何もできない。だが、それでも問題は無かった。なぜならこっちは『二人』なのだから。

 

「せあっ!」

 十分に戦闘体勢に復帰したソルジは、初めての明確な隙を逃すことなく刀を閃かせる。怒涛の連撃が気色の悪い表面の体に叩き込まれ、締めに放たれた一閃が今まで恐怖を憶え続けた左腕を断つ。付け根から斬られたそれは、大きく吹っ飛んで硬質な音を立てて地に落ち、不気味な色の炎を上げて消滅した。カオス特有の現象、「死滅炎上」だ。

「ギョァァァァ!」

 痛みによるものなのか、それとも攻撃部位を欠損させられたことによる怒りなのか。カオスは耳をつんざくような声を上げて反応を示す。一層の怨嗟を込められた瞳で二人を見下ろし、右手を引き絞る。ソルジは回避に出ようと体を低くし、足を引く。しかし、じゃりっと響く音と崩れた姿勢がその行動に遅延を加える。

「だめ……!」

 尻餅の体勢からルナカは必死に手を伸ばす。それに呼応するかのように、後方から夕焼けを受けてきらきらと光る多角面の宝石が宙を滑り出てきた。無論、これが何かルナカ自身も分からない。だが、まるで昔から使い慣れていたかのように自然と攻撃ができた。視線を向けた先――まさにソルジを狩ろうとしている怪物の右手に、真っ白な光の尾を引く光線が放たれた。

「ギギッ⁈」

 球状となった腕の先端を中心から牽制され、大きく右腕だけが弾かれる。ダメージはさほど無かったようで、再び苛立ちにも似た金切り声を上げるが、左腕を失くしたカオスに今、攻撃手段は無い。不格好に刻まれたお陰で、右腕に引っ張られる形で体勢も整わない。

 

 ――チェックメイト

 

 コアがある高さまで跳躍するソルジ。もうカオスは反撃も防御もできない。ギョロギョロと最大限まで開かれた怨嗟の隻眼が青年を映す。

 辺り一帯に響くような気合いの一声と共に、冷気を纏ったソルジの刀が放たれた矢のごとく打ち出された。必殺の刺突がカオスの弱点(コア)を貫き、季節外れの冷気が夕日を受けて煌めく。

「ギョァァァァァァァァッ‼‼‼‼」

 天を仰ぎ、錆びついた歯車を無理矢理回したような耳障りな絶叫。溢れる冷気が巨軀を包み、薄く氷の膜を貼る。カオスは徐々に小さくなりつつある断末魔を上げながら動きを止め、切り捨てられた腕と同じように徐々に燃え消えゆく。カオスの死滅炎上は、遺体を残さない。死ねばあまりにも都合よく消える。生物としての根本から分からなくなる瞬間だった。全て消滅するのにさほど時間は要さず、カオスの燃えカスが空気中を未練がましく彷徨い、やがて霧散。カオスの巨躯を包んでいた氷も地に落ちて溶け消え、すぐに何もなかったかのような静けさが訪れた。

 

(終わった……?)

 依然として突き飛ばされたままの状態であったルナカは周囲に意識を集中させるが、感じられるのは先刻の惨事が嘘のような静寂のみ。危険は…………もう無い。

 そう判断した途端、緊張の糸が解れて溜め込んでいた長いため息が吐き出される。これが生の実感か。これほどまでに生きている喜びを感じたことは無い。色んな感情が渦巻いて胸が詰まり、目尻がきゅっと緩むが、まだ気を抜くべきでは無いと言い聞かせ、何とか情緒の崩壊を踏み止まる。

 ルナカは手をついて立ち上がり、カオスが居たであろう陥没した地面を見つめるソルジに近寄った。青年はルナカの存在を認めると、いつもの静かな声色で問いてくる。

「怪我は無いか?」

「わ、私は大丈夫。だけど……」

 カオスによって抉られた左肩は血が流れ出ており、辛うじて致命傷は避けられているものの損傷は小さくない。垂れた鮮血が伝い、指先からぽたぽたと滴り落ちる。ソルジ自身も痛みを感じているらしく、左腕はもはや肩からぶら下がっているだけで、ほとんど力が入っていなかった。

「早く手当てしないと……!」

「大丈夫だ、このくらい」

 慌てるルナカを宥め、ソルジャットは周りに二十枚ほどの光の札を出現させた。見たことが無い高度な魔法に目を白黒させる少女の前で、ソルジは一枚の札を手に取る。傷口にあてがうと、より一層発光し、瞬く間に損傷が修復されていく。応急手当の一環で初級の回復魔法を学校で学ぶが、それとは比較にならないほどの修復力だ。やはり魔法って凄いなあ。いやいや、感心している場合では無い。回復魔法による応急処置の終了を見届けると、ルナカは真っ直ぐ青年を見据えて言う。

「ソルジャット、助けてくれて本当にありがとう……死んじゃうかと思ってすごく怖かった……」

「ああ、無事で良かった。よく頑張って逃げたな」

 追われていた恐怖とそれから解放された安堵に、涙がルナカの白い頬を伝う。緊迫が続いたせいでちゃんと感知していなかったが、思った以上の精神的な負担があったようで、すすり泣くルナカをソルジが宥める。

 

 しばらく白髪を梳いてやると段々と落ち着いたらしく、「もう大丈夫」と言いながらごしごしと目元を拭ってソルジを見上げて笑う。青年はルナカの「変化」した姿を見つめ、再び口を開いた。

「それと、こっちもありがとな。助けてくれて」

「え?」

「実を言うと、結構危なかったんだ。もうあと一発いけるかどうかだったからさ。ありがとう」

「ううん。私もソルジャットには絶対死んで欲しく無かったから……」

 自分より少し高い位置にある顔を見上げ、そしてすぐに目線を逸らす。場違いな「羞恥」という感情が込み上げて来て彼の顔を直視できない。熱くなる顔を隠すように伏せると、自分の体が目に映り、そこでようやくルナカは自分の恰好が激変しているのに気づいた。

「わっ……何この服装……」

 学校指定の制服はいずこに、身に纏っているのは袖の無い紅の隊服のようなものだった。胸元にはさっき光線を放った宝石と同じような光を帯びたチェストアーマーが装着され、膝上のスカートに白のニーハイ。そして羽衣を連想させるような滑らかで薄い生地の長いリボンが首に巻かれて後ろに流れ、口の広い振袖のようなものが肘から手元までを覆うように通されていた。

 そして右手には美術品かと見紛う煌びやかで趣向の凝らされている得物が握られている。重くはないが、ずっと持ってると疲れそうだ。

「……もしかして気づいていなかったのか?」

「うん。まったく」

 変な所で天然なのがルナカという人間だ。長年彼女の姿を見てきているソルジは、相変わらずの仕草に一抹の安心感を憶え軽く苦笑する。ルナカは初めて服を着せられた子供のように自分の体に目を向け、パタパタと腕を振ったりしながら少し顔をしかめる。

「なんだか一貫性の無い服。これって一体――」

 

 問いかけようとしたその時、ふっと全身から力が抜けた。頭が真っ白になる。再び意識が戻ったときには既に体は膝から崩れて地面にへたり込んでおり、尻餅をついた感覚が遅れてやって来た。心配したソルジの顔が至近距離に見えて不意にドキリとするが、すぐに疲労で上書きされる。

「おい、大丈夫か……?」

「だいじょうぶ、だけど……すごく眠、い……」

 さっきまで羽根が生えたように軽かったのに、今は重力が倍に感じるほど体が重い。全身のあちこちが倦怠感と鈍痛を訴え、強烈な眠気が視界をぐわんぐわんと歪めて揺らす。全神経を集中させていないと、今すぐにでも寝てしまいそうだ。

「ルナカ、とりあえず深呼吸だ。今日あったことを忘れる勢いで心を落ち着かせろ」

「……? わ、わかった……」

 音もちゃんと聞こえないぐらい意識が睡眠モードに移行しつつあったが、ハリのある低音はちゃんと脳に認識されたらしく、ルナカは言われた通り落ち着くことに集中する。トクトクと鼓動する心臓を宥めるように深呼吸を繰り返すと、徐々に熱が冷めていき、燃えていた戦う意志を鎮火していく。完全に平常運転に戻ると、突然ルナカの華奢な体全体が控えめに発光し、数秒ほどで見慣れた学校の制服姿に戻ってくる。宝石から切り出したようなあのランスも消えている。どういう原理なのかという目線でソルジに問いかけるが、それには答えずに青年は細く、やや強めに深呼吸する。たったそれだけで淡い光が身を包み、侍のような服装と黒いマントが消えていく。普段着であろう丈の長い薄手の上着を羽織った出立ちに戻ると、ソルジはルナカの頭を撫でながら言った。

「詳しいこととかはまた今度な。今日は早く帰ろう」

「……ごめん……ある、けない」

 再び苦笑の声。

 歩く体力すら残されていないルナカはソルジに背負われ、帰路を辿る。揺れと彼のサラサラとした銀色の髪が鼻腔と頬を撫でるのが気持ちよく、それに比例して眠気がどんどん押し寄せてくる。彼の背では寝まいと今日の課題について考えたり、好きな歌の歌詞を頑張って心の中で暗唱したりして眠気に抗ったが、抵抗虚しくルナカの意識は眠りに包まれ、夢の世界へと誘われる。家まではあと少し。もう心配は無かった。

 

 * * * * *

 

(……どうやって言い訳するかな)

 

 平然を保ちつつも、ソルジは近年稀に見る苦悩を顔に張り付かせていた。

 ルナカが覚醒してしまった。大半の人間からすれば「カオスに抵抗できる力に目覚めた喜ばしいこと」なのだが、ソルジが抱いた感想はその真逆のものだった。

 

 彼女を血まみれた戦場に巻き込みたくない。口を閉ざして解決するのならここまで悩むことはないのだが。ちらりと後方に視線を向ければ、周囲の闇に溶け込むようにして黒い球体が音も立てず浮いているのが見える。黒球は一定のペースで、一定の距離を保ちながらこちらを追随している。

「だからあれ嫌いなんだよな……」

 ソルジは球体に対して文句を言う。安全上のためとか、精密な情報伝達のためとか言う理由で活動している間は常にあれに映像が記録されている。そう、言い訳をしようにも、決定的な証拠が残ってしまっている。ルナカが『リベレイター』になってしまったことが伝わったら、間違いなく貴重な戦力として彼女を勧誘するだろう。組織の意向を察するのであれば、市民の安全やソルジ含む前線で戦う者の負担軽減をといったこと考えてくれているのだろうが、ソルジにとってはありがた迷惑だった。彼女には彼女の人生があるってのに。

 

「…………はあ」

 こうなってしまったのも自分が原因だろう。忙しいから。人手が足りていないから。さまざまな理由をつけてカオス狩りに邁進し続けた結果、疲労が溜まっていたようだった。そして、冷静さが足りておらず、足を滑らせるという初歩的なミスにより、負傷。その結果、彼女の戦う意志を着火させてしまった。全てにおいて普段ならまずしない失敗ばかりだ。いつも同期に「無茶するな」と言われて反論していたが、ようやくその意図が汲み取れた気がしてソルジは細い溜め息を夜風に乗せる。

 

(これもまた乗り越えるべき壁、か)

 自分が原因ならば、相応の責任は背負うべきだろう。これから起こる事柄には真摯に向き合わなくては。

 決断を済ませたソルジは、寝てしまった彼女の代わりに帰路を辿った。

 

 * * *