花嫁代行

阿久津庵

 あり合わせで作った野菜炒めである。
 もやしとニンジン、そして申し訳程度の豚こま切れ肉。キャベツすら入っていないただの野菜炒めだ。もとい、もやし炒め。作った私が言うのもなんだが、一人暮らしの大学生でももう少しマシな夕食をこしらえるだろう。
 そんな貧相極まりない手抜き料理を、目の前の老人はグルメリポーターのような表情でじっくりと噛みしめていた。
「んん、さすがマキさんの手料理じゃあ。うちの冷蔵庫の中身だけでこんなにうまい野菜炒めを……」
「喜んでいただけたなら光栄です」
 私は老人に向けて頭を下げる。それはきっと調味料の味だ。
 満足してもらえたことを確認し、床の荷物を持ちあげる。会社に戻ろう。今回の仕事に食器洗いまでは含まれていなかったはずだ。
 その時、老人は箸をテーブルに置いて、不器用な表情で微笑んでみせた。
 嫌な予感がする。
「んん、マキさんもよかったら一緒に食べていきませんか」
 ほら来た。
「大変申し訳ございません。これ以上は夕食代行のサービス外となっておりますので」
 これまで何百回と吐いてきた常套句を念仏のように繰り返す。
「本日は当サービスをご利用いただきありがとうございました。今後とも、代行総合サービス《MIGAWARI》をよろしくお願い致します」
 速やかに腰を四十五度に折り曲げ、私は老人宅を後にする。
 まったく、みんな自分勝手だ。世の中はそんなにうまくできていないのに。
 夕暮れの風は肌寒かった。十二月も終盤である。

 代行総合サービス《MIGAWARI》。家事や車の運転はもちろん、夏休みの宿題から論文発表まで。職員が当人に代わって実行するというヘンテコな会社だ。
 私は社内の喫煙室で一人、誰にも聞こえないようにため息をついた。しばらくすると、小綺麗な格好をした女が現れる。私が呼びつけたその後輩は訝しげな顔でこちらを見た。
「お疲れ様です、マキ先輩。あの。私に用事って何ですか?」
 ポケットからタバコを一本取り出すと、女は慣れた手つきでその先端に火を点けた。
 ふうっ、と白い煙を吐く茶髪の女。御内裏(おだいり)ヒナタだ。昨年入社したばかりの新人だが、その愛嬌のよさが買われて上司からも親しまれている。
「ずいぶん浮かない顔ですけど、お説教じゃないですよね? あ、一本どうぞ」
「ありがとう。でも、私、禁煙中だから気持ちだけもらっておくよ」
 相談ではなく、用事。吸えないではなく、吸わない。
 ダメだな。どうにも素直になれない。頭を掻きむしりたい気持ちをぐっと堪え、場を取り繕うための嘘を吐く。
「用事っていうのはあれよ。この前、お内裏さんが担当した案件のことなんだけどね」
「ああ、宴会代行のことなら橙さんからうかがいましたよ。新年会の時もよろしく、って言われちゃいました。……マキさん、やっぱり元気ないですよね?」
「心配しないで、私はいつもこんな感じだから」
「そうですか? ならいいんですけど。ほら、もうインフルエンザの時期じゃないですか。うちの旦那が勤めている職場でも、この前、感染者第一号が出たって大騒ぎになったらしくて」
 御内裏ヒナタ。私より四つ下の二十二歳。
 既婚である。

 

 大した一服もできないまま、私は喫煙室から這うように逃げだした。あれ以上あの空間にいたら副流煙とかそういうアレで心身ともにやられていただろう。
 しっかりしろ、加枝(かえだ)マキ。お前はこれでも入社六年目。新人の子たちの前では頑なに「デキる女」を演じているんだ。へこむな。へこむのは男に逃げられた時だけと決めているだろう。
「なんだ、加枝ちゃん。こんな廊下の真ん中で。お化け屋敷代行の稽古でもやってたのか?」
「訴えますよ」
 私が視線を向けるのは、オランウータンみたいな顔をした男。上司の橙(だいだい)テツジ。手には加糖の缶コーヒーが二本握られている。むさ苦しい顔をして極度の甘党なのだ。
 そして、彼の隣にいる人畜無害そうな若い男。成川(なりかわ)リョウは自分の不祥事のように額を拭った。
「やめてくださいよ、橙先輩。出会い頭に妙なこと言うの。僕まで変な汗かいちゃいましたよ」
「いやあ、すまん。俺は全然かいてない」
 橙は一人で腹をよじる。なにがそんなに面白いのだろう。ひとしきり笑い終えると、オランウータンは眉をクイクイさせて私の方を見た。
「それより、加枝ちゃん。キミにしかできないとっておきの仕事があるんだけどさ」
「オンリーフォーユーはまず怪しめと、父から教えられました」
「いいお父さんだ。まあ、話だけでも聞いてくれよ。コーヒーあげるからさ」
 あまり乗り気はしなかった。しかし、上司部下という関係上ある程度の妥協はやむを得ない。生温かい缶コーヒーは丁重にお断りし、わかりましたと頷いた。
「それで、なんですか。私にしかできない仕事というのは」
「花嫁代行だ」
 言葉を失った。もちろん思うところは色々ある。だが、とりあえずこれだけは訊いておきたかった。
「なぜ、私にしかできない仕事なのですか。お言葉ですが、代行というなら花嫁経験のある子……御内裏さんなどの方が適切かと思うのですが」
「そういうわけにもいかなくてね。向こうの花嫁さん、お人形みたいに物静からしくてさ。二十三ってまだ若いのに年齢以上の――いい意味でな――余裕を感じるんだとさ。こいつは先天的なもんだ、後づけでどうにかなるもんじゃない」
 年齢を聞いていっそう気分が落ちる。
 二十三歳。やはり御内裏ヒナタの方が適任ではないか。
「御内裏ちゃんは年齢こそ近いが、まあ、年相応の雰囲気だ。そこで色々と折り合いをつけた結果、加枝ちゃんに手番が回ってきたわけだよ」
 よく言う。回ってきたのはタライだろうに。
「そもそも、花嫁代行ってどういうことです。偽造結婚かなにかですか。来賓の方は存じているのですか」
「橙先輩、やっぱりこういうのはよくないですよ。全部話した方がいいですって」
 成川は顔色をうかがいながら、年齢も体格も一回り上の上司を相手取っている。お気楽な御内裏の同期だというのに、彼はずいぶんと苦労人だ。
 橙は納得したように二本目の缶コーヒーを開封する。
「そうだねえ。たしかに今のままではとてもフェアとは呼べないかな。俺が悪かったよ。腹を割って話そうじゃないか」
 橙は含みのある顔で、仕事の概要を話し始めた。
 依頼人は日本でも指折りの名家とされる善(ぜん)財(ざい)の一族。そこの長男坊が近々結婚するのだが、なにやら面倒な知らせが届いたという。
「花嫁泥棒、ですか?」
「そうだ。善財家の長男宛てに予告状が届いたらしい。結婚式当日、花嫁をお前の元から取り戻す、ってな」
 どうにも信じがたい話だ。今どきそんな恋愛小説みたいな真似を働こうとするやからがいることにまず驚きだが、それ以上に不可解なのが善財家とやらの対応である。
「要は、人さらいを宣言されたわけですよね。犯行予告じゃないですか。それは警察の管轄でしょう」
「俺もそう思う。だが、花婿さんがそれに断固反対してるんだとさ。事を荒立てたくないのか、はたまた後ろめたい理由でもあるのか。真実を問いただすことなんざ、それこそ俺たちの管轄じゃあない」
 橙は真面目な顔で腕を組む。ラガーマンみたいな体型しかり、帽子を被せたら哀愁漂う警部に見えなくもない。
「事情はわかりました。要は、花嫁泥棒に狙われた女の代わりを務めればいいわけですね」
「理解が早くて助かる。頼まれてくれるか」
 橙は祈るように腰を折る。この調子だと、私以外にも何人か声をかけた後だな。それで、ことごとく断られてきたと。
 無理もない。相手はご丁寧に犯行声明を出すようなやつだ。身を投じるにはあまりにもリスクが大きすぎる。それこそ、見え透いた罠に飛び込むようなものだ。
 けれど。
「やります」
 オランウータンの眉がピクリと動いた。
「私がやります。想定外の危険がつきまとっている以上、他の女の子に任せるわけにはいきませんから」
「加枝先輩っ。ちょっと本気ですか」
「おお、そうか! ありがとう加枝ちゃん。この任務が無事に終わったら色をつけて上に報告してやるからな。さらにさらに、今なら象牙堂のシュークリームも」
「シュークリームは結構ですので花嫁代行に関する書類を私のデスクまで送ってください。ひとつ残らず、今すぐに」
 ああ。また見栄を張ってしまった。後輩に任せられないというのは事実だが、かといって私の身がどうなってもいいというわけではない。好き勝手振る舞うオランウータンに一矢報いたかったのだ。
 とはいえ、後悔してももう遅い。こうなったからには徹底的にやってやる。おろおろする成川に軽く手を振り、私は自分のデスクへ急いだ。

 

 結婚式当日。
 私が招かれた都内の式場は、新築と見間違うほど真新しい建造物だった。お金持ちの結婚式というと海を跨ぐイメージだったが、そこはなにやら大人の事情が関係しているらしい。スポンサーだの世間体だのお金持ちも大変である。
 結婚式場を訪れるのは、これで人生四度目だった。といってもうち二回は友人にお呼ばれしただけで、もう二回は披露宴のゲスト代行として。
 しかし、今日は違う。
 曲がりなりにも、今日は私が主役なのだ。善財家に嫁ぐ若い新婦、善財紫(し)雨子(うこ)を全うする。それが私に課せられた使命。身に纏ったウェディングドレスの重みだ。
 控え室で出番を待っていると、ノックののちに扉が開かれる。
「おや。お似合いですよ、加枝さん」
 純白のタキシードに包まれた新郎、善財保(たもつ)はアイドルのような表情ではにかんだ。とてつもない美形である。
 善財は部屋に入ってくると、手の動きだけで着付け師や世話役を一人残らず退出させた。やましい話などないだろうに、なぜか二人きりの状態になる。
 彼は、鏡台に座る私の隣まで簡易椅子を引いてきた。
「しかし、噂に聞いた以上ですね。その何事にも動じない横顔。玉のように白い肌。どこを取っても紫雨子そっくりです」
「恐縮です。今どきのメイクはよくできているんですよ」
 いやいや、と善財は顔の前で手を振った。
「めかし込まずとも加枝さんはお綺麗ですよ。それに、私としては感謝してもしきれません。今日、来賓として集まっているのは立場上とても忙しい方ばかりでしてね。花嫁泥棒が圧力をかけてくるから、なんて理由で延期することはできなかったのです」
 それは素直に頷ける。名家の息子の結婚式だ。当然、参列者も相応のお偉方ばかりなのだろう。
 しかし、どうしてもわからないことがある。
「花嫁泥棒とは、いったい何者なのですか。私が受け取った資料には記載されていなかったのですが、なにか心当たりは」
「ありますとも。ただし、貴女が思い描くような王子様やタキシードの仮面紳士とは程遠い人物ですがね」
「訊かせていただいても?」
 いいでしょう、と善財は手を宙に投げ出す。
「細(ほそ)雲丹(うに)トウジ。半年ほど前まで私のもとで働いていた男です。よくできた男でしたが、彼は私の目を盗み、たびたび紫雨子との接触を試みていました。許しがたい蛮行です」
 声を震わせ、善財は拳を万力のように握りしめた。
 権威の怒りを買った者の末路など容易に想像できる。
「それで、あなたは細雲丹さんに暇(いとま)を出したと」
「まあそういうことになりますね。花嫁泥棒なんてシャレたことを考えたのは、細雲丹なりの復讐なのかもしれません」
 個人的な復讐のために人さらいを決行する。ううむ、あまり穏やかな話ではない。空気も張り詰めてしまったし、ここは一旦話題を変えよう。
「そういえば、今回の花嫁代行と花嫁泥棒の犯行声明。誰が、どこまでご存じなのですか」
「いやはや。仕事熱心なお方ですね。いえ、そういう女性は私、嫌いじゃないですよ」
 善財は上品な笑みをこぼし、椅子をさらに近づける。内緒話でもするかのような、どこか楽しげな口ぶりだった。
「両方の事実を知っているのは善財家のごく一部の者だけです。来賓は、貴女が替え玉であることなど知る由もないのです」
「そうでしたか。少し安心しました」
「ええ、ええ。貴女はなにも心配する必要はありませんよ。善財家の名にかけて犯人は捕まえてやりますよ。貴女に危険な目は遭わせませんから」
 いよいよ王子様の吐く言葉だ。ありがとうございます、といつもの営業スマイルを返す。
 それにしても……。
「驚きましたよ。加枝さんは本当にお綺麗ですね。どこまでも実直に自分を貫く、とてもいい目をしています」
 明らかに顔が近い。
「失礼ですが、これ以上は紫雨子さんに怒られますよ」
「紫雨子? ああ、いいんですよ。あの女は私に従順ですから。貴女が気に病むことはないのです」
 今まで嗅いだことがないような、甘い香りが鼻腔をくすぐる。違う。私は加枝マキであって善財紫雨子じゃない。ロマンスなんて幻想だ。
「やめてください」
「スキンシップですよ。今の私と貴女の距離感では、前に出てもすぐに工作と勘づかれてしまう。仲良くしましょうよ。どの道、もうすぐ大衆の前で誓いを立てなきゃならないんですから」
 甘ったるい表情。
 それっぽい謳い文句。
 善財の言葉に心が揺れる。
 ほんの一瞬。揺らいだ自分の弱さを恨んだ。
「さあ、マキさん」
「冗談じゃないっ」
 自分でも驚くほど低い声が、喉の奥から飛び出した。面食らっている善財の間抜け面に私は思いの丈を捲し立てる。
「いい加減にしてください。私はプロです。余計なアプローチなど介さなくても確実に任務を遂行できます」
 ウェディングドレスの端を持ちあげ、私は控え室の扉を目指す。
「……最高の結婚式にしましょう、必要最低限の浪費で」
 ダメだ、イライラする。なにが花嫁代行だ、馬鹿馬鹿しい。いったい私はどんな都合のいい展開を期待していたんだ。お前、来年でいくつだよ。いつまで経っても夢見がちな自分自身に、いい加減嫌気がさしてくる。
 知ったことか。
 花嫁泥棒だかなんだか知らないが、盗りたけりゃ勝手に来ればいい。盗って、偽者を掴まされたことに憤慨しやがれ。
 どいつもこいつも自分勝手だ。
 さっさと終わらせよう。

 

 案内されたチャペルは、まるで舞踏会でも開くのかと言わんばかりの広さだった。壁紙の柄から来賓席まできっちり純白で統一されている。
 そのぶんひと際目立つのが、祭壇に続く真っ赤なバージンロードだ。上品なワインレッドの上を、私は慎ましい笑顔を貼りつけ、一歩ずつ前に進んでいく。時折、新郎と視線を交わすことも忘れない。演出通りだ。善財紫雨子という人間を、本人以上に「らしく」演じるのだ。
 こちらに拍手を送る参列者からは漏れなく荘厳なオーラが感じられる。だが、妙だ。感じ取れるのはそれだけではない。もしかして、彼らの真意は別にあるのではないか。違和感の正体はすぐにわかった。顔だ。そこに映る表情からは、祝福以上の含みを感じさせ……。
 ふと思った。
 善財紫雨子は、心の底からあの男のことを愛していたのか?
 その時だった。
 バン、と入り口の扉が開け放たれる。私を含め、チャペルにいた全員の視線がそちらに集中した。小太りの体型にぴっちりと決めたタキシード。招かれざる客人であることは火を見るよりも明らかだった。
 彼と善財が動いたのは同時だった。
「細雲丹トウジだ、今すぐあの男を捕らえろ!」
 善財が猛る。やはり、あの男がそうだったか。
 細雲丹トウジ。予告状の通り、本当に花嫁泥棒として式場に現れたのだ。赤い布の上を疾走する彼と、それを捕まえんとする屈強な男たち。盛大な追いかけっこの幕開けである。
「くそっ、すばしっこい男め」
 その体型に見合わず、細雲丹の動きはやけに軽やかだった。善財のもとで働いていたというのは本当であったらしい。
 なにが起こったのかわからず茫然とする参列者たち。その隙間を縫うようなステップで、細雲丹はあっという間に私たちとの距離を詰める。善財は私の腕を強引に取って自身の背中に引き寄せた。
「誇りに思え、細雲丹。お前は最高のエンターテイナーだ。私の晴れ舞台をここまで盛りあげてくれたのだからな。百点満点のサプライズゲストだ」
 善財は腰をゆっくり落とし、臨戦態勢に入る。バージンロードで対峙する男が二人。真っ向からの肉弾戦だ。
 しかし、細雲丹が次に取った行動にはその場にいた誰もが目を剥くこととなる。跳んだのだ。腹部に溜まった脂肪など感じさせない跳躍力で、善財の、私の上を飛び越える。
 スローになった世界の中で、着地した彼は私を見た。
 さあ、どうする?
 タキシードの男がそう尋ねているように思えた。
 私は。
「マキさ……紫雨子っ!」
 善財の静止を振り切って、花嫁泥棒に手を伸ばす。これが私の意思なのか、シミュレーションの結果なのか。実際のところはわからない。だけど、きっと、善財紫雨子なら。彼女なら私と同じことをしたのではないだろうか。
 伸ばした手は細雲丹のそれに引き寄せられ、私はあっという間に持ちあげられる。生まれて初めてのお姫様抱っこだった。
 しっかり掴まってろ、と言いたげに視線を落とす細雲丹の瞳からはどこか迷いの色が見えた。
 なり替わりがバレた? ……いや、そんなはずはない。偽者だと気づいたのなら即座に私を放って逃げ出すだろう。
 細雲丹は追手の男たちなど見向きもせずに回れ右。参列席の背もたれを踏み台にバージンロードを逆走し始めた。
「ま、待て。待つんだ細雲丹。私の紫雨子を今すぐ離せ」
 善財がお手本のように勇ましい言葉を吐く。しかし、発せられたその声からはすっかり熱が冷めていた。ハズレの棒アイスを引いた時のような、とても冷たい目をしていた。

 騒然とするチャペルを脱するとそこから先は早かった。目を丸くする人たちをかき分けて、細雲丹は結婚式場を飛び出す。それは安全バーなしで臨むアトラクションのようで少し刺激的だった。
 端から本気で追うつもりもなかったのだろう。屈強な男たちの姿は、三分も経たないうちに見えなくなった。
 今日の私はやっぱり変だ。
 自分をさらおうとする男に対し、抵抗一つせず大人しく連れ去られているなんて。それどころか、奇妙な心地よさを感じているなんて。絶対におかしい。機を見て脱出しなければ。
 追手を撒いた細雲丹は、薄暗い路地裏に滑り込んで軽く息を整える。私が善財紫雨子でないことをどのタイミングで切り出そうかと悩んでいると、細雲丹は自身の皮膚をペリペリと剥がし始めた。
「あの、えっと。お疲れ様です、加枝先輩」
 分厚い皮膚の下から現れたのは、苦労人気質な私の後輩。
「……成川君。一から説明してもらえるかしら?」
「はい。できれば、怒るのは最後にしていただけると幸いです」

 

 綿入りタキシード姿の成川いわく。
 細雲丹トウジは《MIGAWARI》に対し、花嫁泥棒代行なる仕事を依頼していた。インフルエンザ併発で神経が衰弱。動けない自分の代わりに、結婚式場から善財紫雨子を連れ出してほしいという限りなく黒に近いグレーな依頼である。
 それを一任されたのが、成川リョウという男だった。
「……で、その依頼を受けたのはいつ?」
「よ、四日前です」
「私が花嫁代行の依頼を受けたのが三日前。廊下ですれ違ったあの時、成川君もいたよね」
「だ、橙先輩から言われたんです。お前に有益な仕事をやるから加枝先輩には内緒にしておけ、って。……あっ、えっと。元々は橙先輩に任せられた仕事だったんですよ、花嫁泥棒代行」
「……やりやがったな、あのオランウータン!」
 誰もいない路地裏で私は上司の名を叫んだ。
 つまり、なんだ。私に仕事を寄越したあの時点で橙はこうなることを……「花嫁泥棒代行が花嫁代行をさらう」という間抜け極まりない絵面になることを知っていたのか。
「とんだ茶番だったわね。馬鹿馬鹿しい。それで? 私の方は別にいいけど、細雲丹トウジにはどう言い訳するの。ターゲットを連れ出したまではいいけど、その花嫁が別人でしたなんて言い訳通じないでしょ」
 清算するとこうだ。替え玉とはいえ、善財は結婚式をめちゃくちゃにされ、細雲丹は愛しい女性を手にできず仕舞い。
 結局、この一連の流れには誰一人として勝者がいないのだ。オランウータンは今頃大笑いだろうけど。
 成川はタキシードの襟を弄って首を傾げる。
「そ、それがですね。どういうわけか細雲丹さんからは『花嫁を式場から連れ出したら適当な場所で解放してやってほしい』との伝言があったそうで……」
 前言撤回。
 依頼人の心配なんて、まるっきり杞憂だったのだ。
「理にはかなっているけれど、やっぱり腑には落ちないわね。どいつもこいつも、人を好き勝手利用しやがって」
「なにかわかったんですか」
 眉をひそめる成川に私は話す。秘密裏に仕組まれていた、事の真相というやつを。
「細雲丹トウジと善財紫雨子。二人はきっとグルだったのよ」
「グル……つまり、お互いが替え玉であることを知っていたと? でも、そんなことになんの意味が」
「お坊ちゃんへの報復よ。細雲丹は元雇い主である彼に恥をかかせられるし、妻はあのクソ男とすっぱりと縁を切れる。……なにより。二人の偽者をかち合わせる裏で、本人たちはしばし監視の目から逃れられる。あの二人、最初から駆け落ちするつもりだったのよ」
「や、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。報復だの駆け落ちだの……善財夫妻は円満なご関係なんじゃ……」
「本音と建前。その擦れを限りなくゼロにするのが私たちの仕事よ」
 そうして招く結果がいいことなのか悪いことなのか。それを、私たちに確かめるすべはない。
 今回の一件だってそうである。
 善財紫雨子らにとって、《MIGAWARI》は絶好の舞台装置だったのだ。花嫁泥棒といえば聞こえはいいが、人さらいは立派な犯罪である。それを承知で実行したのであれば、二人の覚悟は本気のものだ。もしかしたら、今頃誰の目にも届かないところへ高飛びしているのかもしれない。くどいほどに甘ったるく、ロマンティックな駆け落ちである。
「……羨ましい」
「先輩?」
 みんな自分勝手だ。
「成川君、今日は飲むわよ」
「ええっ! どうしたんですか、急に」
 そして、それは私とて例外ではない。叶わないとわかっていても心のどこかでくすぶっていたのだ。あの頃読んだ恋愛小説のような、背徳的でロマンティックで、やっぱり甘い展開を。
「オランウータンにいいように使われて、あなただって悔しいでしょ? 今日は私の奢り。いい場所知ってるからさ、つき合ってくれるわよね」
 成川リョウ。
 私より四つ下の二十二歳。
「す、すみません。今晩は焼肉だから早く帰ってこいと、その、嫁からキツく言われておりまして……」
 既婚である。