畳のにおい。
疑問に思って目を覚ました。うちに畳の部屋はないのに、どうしてだろう。
そのことすらもう忘れてしまおうとする頭は飲み水を欲していて、身体を起こしたわたしは寝室を後にした。
リビングを見ると彼はもう出かけたようで、昼前の陽光が差したり差さなかったりと不安定なリビングテーブルに、置き手紙があった。きっと読まなくてもわかるような、いつもと同じ文。昼食は冷蔵庫の中にあって、十九時には帰宅する、という内容のはずだ。
わたしはその紙にさらりと目を通して、内容がいつもと同じなのを確認し、馴染んだ体の動きに流されて捨てた。それなのに、彼は毎日紙に記す。私はその理由を知っている。
キッチンからプラスチック製のコップを拾ってきて、ウォーターサーバーからコップに水を注ぎ、それを唇にあてる。ゆっくり喉に流し込みながら、またリビングを眺める。
彼が居てもだだっ広いリビングは、わたしのためにこだわったのだと彼が云っていた。リビングだけでなく、この家の全てが計画されたことだと知ってから何回寝たか数えられる。
テーブルの陽光を辿ると大きな窓に行き着いた。窓の向こうにはカサブランカが南風を受け揺れている。彼は窓から花が咲く庭が見えるのもお気に入りだ、と云っていた。十月にはカサブランカを植えよう、と約束させられ、冬を越したそれは今美しく背筋を伸ばしている。わたしはカサブランカが何かわからなかったのに彼に訊ねることもなかったが、それは自らが咲くことでわたしにカサブランカを教えてくれた。
コップをシンクに置き、窓枠を飛び越えて、庭に咲くカサブランカに水をやる。その後急いでリビングに戻って、先刻と同じになるように窓の鍵を閉める。
急ぐことに理由はない。理由はない。理由はない。
理由はないはずだ。わたしは自由を手に入れて、想定外ではあったけれど大事にしてくれる人と出会って、幸せ。そうだ、逃げてなどいない。
時計を見て昼時を確認する。正直空腹かどうかは微妙だったけれど、なんとなく冷蔵庫を覗いて今日の昼食を手に取る。豚肉とキャベツの炒め物だった。ラップのかけられたそれを電子レンジに入れて一分二十秒を設定し、味噌汁の入った鍋に火をかけ、テレビを点けにリビングに戻った。
テレビはサブスクリプションのみ流すことを許され、民間放送は流してはいけない。どうしてもというときは彼に録画を頼むが滅多にない。そして、絶対に見てはいけないのがニュース番組。一度押すボタンを間違えてニュースを点けてしまったときに、わたしの母とわたしが映ったことがあった。母は各地に身体がバラバラの状態で見つかり、わたしはまだ行方不明。これを知ってしまったので彼に伝えると、彼は怒るでも理解するでもなく、二度と見てはダメだと私に微笑んだ。しかしいつもの滲み出ているような優しい笑みではなかった。
見る番組を選択し、料理を電子レンジに取りに行く。白米を茶碗に盛り、味噌汁を汁椀に注いで、それらを味わって食べた。
朝に顔を洗っていなかったことを食後に思い出して、洗面化粧台の鏡と向き合う。鏡の中の自分をまじまじと見つめれば、艶のある髪や肌、あざはなく健康的に紅潮した頬や唇に驚いた。この状態が初めてというわけではない。ただ、突発的に生を実感するだけだった。
あの日彼がわたしに手を差し伸べてくれたから、わたしは人間を取り戻すことができた。お礼に母を解体した。彼のためならなんでもできた。だから彼の言う通り玄関から外へは出ないし、ニュース番組も見ない。
毎日同じように彼の帰りを待つ。ただそれだけ。
それが、わたしの幸せ。
顔を洗えば眠気が覚めるというけれど、そんなことはないと思う。少なくともわたしはそうではない。
現に今こうしてソファでうつらうつらしているわけで。夏の南風が心地よくて、今日も彼の夢をみることを望みながら目を閉じる。そして祈る。
次目覚めるとき、全て虚構でありませんように。
──「毎日書いておけば、十九時に帰ってこないときに気にしてくれるでしょう? 何かあったってわかるかなって」
もしものときはさ、逃げてよ。
私は逃げない。否、逃げられない。ここが牢屋だとしても、今日もあなたの帰りを待っています。