【プロローグ】
二〇一九年十一月九日、大学三年生の浅田妃依里が交通事故でこの世を去った。あまりに突然の出来事で、彼女の周囲にいた人達は多大なショックを受け、悲しみに暮れていた。この事故は不慮の事故か、それとも自殺行為か、多くの関係者で審議されたが、結論を出すことはできなかった。彼女の死は、我々に謎を残したまま四十九日を迎えようとしていた。
【メインタイトル】
二〇一九年十一月十二日、講義の単位を数多く落としながらも、辛うじて進級できたことに安心し、今期も上手くサボりながら単位を取って進級してやろうと考えているのは、俺、北川琉世だ。講義に遅刻するのは当たり前、欠席も単位認定対象のギリギリまでして、課題もサボる。テストは当日の朝に範囲を確認し、軽くおさらいするだけで、勉強なんて生まれてこの方真面目にやったことがない。大学に入学できたのは、俺がこの大学の附属高校出身で易々と内部進学できたからだ。社会学部に進学してから、もう三年生にもなるのに、将来の夢はまだ決まっていない。周りの人たちは髪の毛を黒染めし、リクルートスーツに履歴書を片手に持ち、面接練習に励んでいるのに、俺は未だに髪の毛を金髪に染めたまま将来のことを何も考えずにただ茫然としていた。このままじゃいけないのはわかっているが、行動を起こす気はない。目標が無いから何をして良いのか分からないのだ。いっそのこと大学院に進学して、学生でいられる時間を延長してやろうと思ったが、そんな学力はない。俺はこの先どうなっていくのか、全く想像できなかった。
講義室の後ろの方の席に座り、退屈な講義に耳を傾け、ぼうっとスクリーンに映し出されているスライドを眺めていると、前の席に座っている二人の女子たちが雑談しているのが聞こえた。
「ねぇ、ひーちゃんの事故って自殺だったんかな」
「いや、そんなことないと思う。あの子は、真面目で明るくて、皆から好かれていて、内定も貰っていて、絶対そんなことないと思う」
「私のせいかなって。あの時、私がひーちゃんに酷いことしたから、きついことを言ってしまったから、トラックの方へ飛びこんだのかなって」
「でも、皆が不慮の事故って言ってたじゃん。だから、メグが落ち込むことないと思う」
「ありがとう、そう思うしかないよね。そう信じるしかないよね」
二人は亡くなった浅田の友達で、牧野恵美と、長岡時歩だ。ひーちゃんとは浅田の愛称で、三人がいつも一緒に行動しているのを何度も見たことがあり、とても仲の良いグループなのは、第三者の俺から見ても分かった。友達を失った二人のことを思うと、気の毒でならない。俺も生前は浅田と仲良くしていたが、あの事故は途轍もないショックを与えた。報道によると、放課後、浅田は大学を出て、駅に向かう途中にある交差点で、トラックに撥ねられ命を落とした。目撃者が言うには、浅田は赤信号の交差点を走り抜けようとしたらしい。夕暮れ時で周囲が明るいはずなのに、晴れていて見通しも良かったはずなのに、浅田は赤信号の交差点を突っ走り、トラックに撥ねられ、即死した。今、交差点には大量の花束が供えられている。きっと、前にいる二人も花束を供えたのだろう。二人の会話に気を取られていると、うっかり床にペンを落としてしまった。ペンを拾って顔を上げると、最前列の席に栗色の髪に水色のセーターを着ている女性が座っているのが見えた。さっきまでそこにいた覚えがないが、見覚えはあった。それは他でもない、浅田だ。いや人違いだ。だって浅田はもうこの世にはいない。でも、あの栗色の髪とあのセーターは浅田しかいない。俺はきっと講義中に居眠りをしてしまったのだろう。きっと俺は、浅田の死にショックを受け、心身ともに疲れ果てているのだ。そうに違いないと思い、手の甲を抓ってみると、手が赤く腫れて痛かった。これは夢だと信じたくて、前に座っている牧野と長岡にも浅田がいないことを確認することにした。
「なぁ、あの席に、浅田なんかいないよな」
もちろん二人は呆気にとられていた。そりゃそうだ、死んだ人間が講義室にいるわけがないのだから。
「北川君、何言ってるの……。ひーちゃんは死んだんだよ」
「いるわけないでしょ、何馬鹿なこと言ってるの。北川も、ひーちゃんが死んだことにショックを受けて元気を出そうとするのは分かるけど、そんなの冗談でも言わないで」
当然の反応だった。やはり浅田がここにいるはずがない。二人には謝ったが、心の傷を抉るようなことをしてしまった。でも、浅田はここにいるんだ、最前列の席に。姿が透けているわけでもなく、悪魔のしっぽが生えているわけでもなく、生前と変わらぬ姿の浅田が。講義が終わると、浅田は荷物をまとめて、講義室を出て行った。俺は彼女の後を追ったが、生憎女子専用のパウダールームに行ってしまい、追うのを断念せざるを得なかった。諦めて次の講義の部屋に向かうことにした。
放課後、校庭を歩いているとまた浅田を見かけた。今度こそ彼女に話しかけるべく、俺は彼女の後を追い、彼女の目の前に立った。その瞬間、少し冷気のようなものを感じた。彼女が俺をすり抜けたのだ。この時、初めて彼女が幽霊であることを確信した。もう一度後を追い、彼女に話しかけようと、彼女の肩を叩こうとするとまたもやすり抜けていった。
「浅田」
そう話しかけてみると、彼女は振り向きもせず、校門の方へ去ってしまった。ハッと周りを見ると、いきなり浅田と大声を出した変人のように見られていることに気付き、慌てて校門まで走った。俺は彼女の姿を見ることができるが、彼女は俺のことが見えなければ声も聞こえないのか。幽霊と知りながらも何だかもどかしい気持ちになった。校門前には彼女の死についてマスコミ関係者が張り込んでいた。事故の当の本人である浅田が目の前にいるのに、マスコミ関係者はそれに気付くよしもなく、通りすがる大学生たちに聞き込み調査を行っている。浅田はマスコミ関係者をするりとすり抜けて大学を後にしていた。
十一月十五日、今日も浅田が現れたが、相変わらず俺だけにしか見えなかった。いつも絡んでいる男友達に浅田のことを話してみても、鼻で笑われて誰も相手にしてくれない。確かに浅田はここに存在しているのに。俺は昼休みの間、男友達のグループを離れ、彼女のことを追跡することにした。今日の彼女は食堂でアイスを食べていて、味はストロベリーだった。このアイスは彼女が自ら買ったのかと思ったが、アイスは夏限定で、今の季節は販売していない。これはテレビや映画で見る幽霊は何でもアリというやつなのか。そういえば今年の夏に講義室で浅田とこんな会話をしたのを思い出した。
「ねぇ、北川君は明日提出の社会学史のレポート終わった?」
「まだ手すら付けてない。別に社会学史は単位落としても良いかなって」
「じゃあ、北川君がレポート書いたら後でアイス奢っちゃおうかな」
「いらない。浅田が自分で買って食べれば良いじゃん」
「一人で食べても美味しくないでしょ?」
「それなら、長岡と牧野と行けば?」
「はい、自習室行くよ」
そう言って浅田は俺を自習室へ連れ出し、教科書と資料を広げ、社会学史のレポートを書かせた。彼女はとっくに提出していて、今頃は友達とカフェやらショッピングやらに行っているはずなのに。世話好きな彼女は俺を監視すると思いきや、自分のレポート用紙を出した。
「韓ドラの続きを見た後に書こうとしたらそのまま寝ちゃって……。実は私も終わってないんだよね」
真面目な彼女にしては意外だったが、レポート用紙を見ると半分以上終わらせていて、後少しというところまで書き上げていた。彼女は残りの部分を資料を見ながら一生懸命書いていた。そんな彼女を見て、俺もレポートを書こうとはしてみるものの、全く授業を聞いていなかったため何も書けなかった。
「よしっ、終わった。そっちはどうなの、進んでる?」
隣の彼女は嬉しそうな顔をしているが、俺は手が止まったままだ。
「白紙」
そう言うと、彼女は教科書と資料を見せてくれて、百年前の社会が書きやすいとアドバイスしてきた。
「百年前って江戸時代だっけ、農民一揆とか書けばいいの? 本当に書きやすいんだろうな?」
俺がそう言うと彼女は爆笑した。
「百年前は大正時代だよ、車も走ってるし。それよりよく農民一揆なんて知ってたね。もしかして北川君って天才なの?」
俺が今の今までまともに勉強してこなかったのが一番の問題だが、どうも褒められた気がしなかった。俺は農民一揆の内容は知らないが、俺でも聞いたことあるのだから誰でも知っているのだろう。
「はい、じゃあ、三九ページのこれ見て。百年前は第一次世界大戦が終わって、アメリカが黄金期を迎えたの」
約二時間、彼女は俺でもわかるように社会学史を教えてくれて、何とかレポートを仕上げることができた。
「浅田、ありがとう。おかげで単位取れるかもしれない。アイスは俺が奢ります。浅田は何が好き?」
俺がそう言うと、浅田はにっこり笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな。私、ストロベリーが好き。北川君は何が好きなの?」
「俺はポッピングシャワーかな。でも、さすがに食堂には売ってないか。今日は俺も苺にしようかな」
食堂に着くと、営業時間終了の一〇分前で、急いでストロベリーのアイスを買い、俺たちは慌てて食べた。
「やっぱりストロベリーは美味しいけど、これじゃアイスが台無しだね。でも、北川君が奢ってくれたから、いつもよりすごく美味しかった。ご馳走様、また来ようね。今度は私がご馳走するから」
彼女の口元にはアイスがついていて、まるで子供のようだった。俺が思わず爆笑すると、彼女は恥ずかしそうに口元をティッシュで拭いていた。今思えば、彼女のおかげで何とか単位を取ることができて、楽しくて、無垢で、本当に良い思い出だった。もう彼女とはあんなに笑い合うことができないと思うと、悔やまずにはいられない。
「そのアイス、懐かしいな。俺も一口貰って良い?」
幽霊になった浅田に話しかけても、彼女からの返答は無く、彼女は黙々とアイスを食べていた。俺はただ、アイスを食べる幽霊になった彼女の姿を見て立ち尽くすことしかできなかった。
十一月二〇日、三限目のゼミの授業の前に、また浅田が現れた。今日の彼女は少し変で、教室の隣にある給湯室の前で、授業が始まるまでの間、手鏡を見ながら前髪をいじったり、メイクを直したりしていた。当然、この姿は俺にしか見えなくて、俺は給湯室の前で突っ立っていることになる。
「北川君、ここで何してるの?」
後ろから同じゼミの長岡が話しかけてきた。
「いや別に」
「また、浅田がいるとか言うんじゃないよね?」
「いるって言ったところで、どうせ信じないだろ」
「待って、でもひーちゃんはここでいつも髪型とかメイクとか直してた。“今日は琉ちゃんと話せるチャンス”だからって。今だから言うけど、ひーちゃんは陰では北川君のことを琉ちゃんって呼んでたの。本当は北川君の前でもそう呼びたかったんじゃないかな。あの子、シャイなところあるから最後まで北川君って呼んでたね」
浅田が俺に会う前に身だしなみに気を遣っていたことも、内緒であだ名を付けていたことも、全く気付かなかった。今思うと浅田はゼミの授業の時だけ妙に化粧が濃かったような気がしたが、俺と会うからだったとは。これが乙女心というものなのか。
「私は授業始まるから早く教室に入りなよって言ったんだけど、ひーちゃんは“前髪が決まらない”ってギリギリまで拒んでた。それだけに、北川君が休んだ日は落ち込んでたなぁ。遅刻してきた日は私にわかるようにガッツポーズしてた。あの子はきっと、北川君のためにゼミに来てたんだと思う」
長岡はそう言って少し涙ぐんでいた。今日、俺は初めて学校をサボったことを後悔した。こんなにいい加減な俺のために、ここまでしてくれる女の子はこの先いないだろう。寝坊して遅刻してでも学校に行っておけばよかった。実は浅田と俺が出会ったのもゼミの授業だった。一年生の後期が始まってばかりの頃、浅田が電車の遅延に巻き込まれ、ゼミに遅刻し、一番後ろの席である俺の隣の席に座った。授業は開始二〇分ほどで、アイスブレイクのための資料が配られていた。
「ごめんなさい、その資料はどこにありますか」
「教卓の隣の机に置いていますよ」
「ほんとだ、ありがとうございます」
これが俺たちの最初の会話だった。その後、アイスブレイクで浅田と俺がペアになり、簡単なペアワークをした。ここでは、お互いの好きなものや苦手なものをヒントを出しながら当てていくということをした。
「あの、浅田妃依里って言います。えっと、私の好きなものはよく動き回ります」
彼女は恥ずかしがるようにそう言っていて、厳つい見た目の俺にビビっているようだった。
「俺は北川琉世です。よろしくな。なるほど、大きさはどんな感じ?」
「よろしくお願いします。うーん、どちらかというと小型かなぁ」
「小型ってことは動物?ペットとか飼ってる?」
彼女は“あっ、しまった”とでも言うように口を押えて、少し照れているようだった。
「実は、最近犬を飼い始めたの。親戚の伯母さんが飼っている犬が沢山子供を産んだから一匹だけ分けてもらった。すっごく可愛くて、テテっていう名前なんだ」
彼女は嬉しそうに話してくれて、動物好きの優しい子という印象を持った。そして、今度は俺の番になった。
「俺の苦手なものも小さくて、よく動き回る。あと、どこにでもいる」
俺がそう言うと、彼女は真剣に考え出した。
「もしかして、大学にもいたりする?」
「いるかもな、浅田さんの後ろに」
「いやっ」
彼女は真に受けて本当に怖がっていて、純粋さが滲み出ていた。
「もしかして、虫かな?小さいし、動き回るし、どこにでもいるし」
「はい、正解」
そうだ、俺は虫が大の苦手だ。蚊に噛まれると痒いし、蜂に刺されると痛いし、カメムシは臭い。見た目も気持ち悪いし、すばしっこいから駆除するのが大変だ。できることなら、虫と接触しない人生を送りたいぐらいだ。
「ペアワーク、終わっちゃったね」
「そうだな、ね、浅田さんは虫いける人?」
なんとなくこんな質問をしてみると、浅田は即座に首を横に振った。
「私、次の授業の課題やっても良いかな?」
彼女にも意外にドライな一面があった。でも、理由はないが、直感的にこの人と親しくなってみたいと思い、話を続けた。
「こんな時間にも勉強するの真面目? 俺は課題とか一回もやったことないよ」
彼女は床の方を見ながら目を丸くした。
「虫、コオロギがそこに!!」
彼女は大声で叫び、教授も他の学生も一斉に彼女の方に注目した。床を見るとコオロギが俺の足元で動いていた。俺がコオロギを踏みそうになると、コオロギは急に俺の顔の方へ飛んできた。
「ひょえーーーーーー!!」
虫が苦手な俺は立ち上がり、手でコオロギを振り払いながら思わずそう叫んでしまった。普段はクールに振舞っている俺でも、この時ばかりはそうはいかなかった。すると、教室中から笑い声が聞こえ、新たな黒歴史を作ってしまったことに気付き、俺は恥ずかしくなって、静かに席についた。結局コオロギは、教授が窓を開けて逃がした。
「北川君って面白いんだね」
そう言って浅田は笑っていて、今思うと、これこそが俺たちが仲良くなったきっかけだった。あの時のコオロギには恥ずかしい思いをさせられたが、あのタイミングで出てきてくれて良かったと思う。それ以降のゼミでは、お互い出会う度に挨拶を交わしたり、他愛もない話をしたりすることができて、気付けば他の授業でも見かける度に手を振ったり、アイコンタクトをしたりしていた。チャイムが鳴り、俺は浅田のいないゼミの教室に入った。俺の隣の席は空席で、やりきれない虚しさに捉えられた。
十一月二八日、放課後にアルバイト先の珈琲チェーン店へ向かうと、意外なことが起きた。ラストオーダーの時間の直前に浅田が来店し、窓際にある二人掛けのテーブル席に座っていた。彼女は店内をキョロキョロ見渡しながら、手鏡を出して前髪をいじっていた。きっと俺のことを意識しているのだろう。そしてどこから運ばれてきたのか、彼女は珈琲を手にしていた。それもカフェで定番になっているぐらい苦いとされるブラックコーヒーを。珈琲を一口飲んだ彼女は、“きゃっ、苦い”とでも言うように、冴えない表情をした。俺は、周りに誰もいないのを確認して、彼女に苺のショートケーキを出した。苦い珈琲に合うのは甘いスイーツだろう。しかし、彼女がケーキを口にすることはなかった。珈琲を飲み終えた彼女は、席を立った後、静かに店を出て行った。正しくはドアをすり抜けて行った。俺は、テーブルに残されたケーキを一人で食べ、レジにお金を払い、閉店の後片付けをした。
次の日、大学に着くと、生前の浅田が俺のアルバイト先に来ていたことを確認するべく、牧野を尋ねた。実は牧野と俺は中学校からの同級生で、大学の女友達の中でも親しい間柄ではあった。
「ひーちゃんが北川のバイト先に来たこと? あぁ、あったよ。去年の秋ぐらいだったかな、丁度テストが近くて、時歩とひーちゃんと私の三人で夜まで大学に残って勉強してたの。それで、帰り道に頑張ったご褒美に何か美味しいもの食べたいねって。それで、ひーちゃんが北川のバイト先のカフェに行きたいって言い出したの。本当は時歩も誘いたかったんだけど、親の門限が厳しいからって先に帰って、私と二人で北川のカフェに行った」
今日まで二人がカフェに来ていたことなんて全く知らなかった。しかし、来たのなら、そう言ってくれれば良かったのに。
「それ、なんで黙ってたの? 別に隠すことでもないだろ」
「だって、ひーちゃんにどうしても北川には黙っていて欲しいって口止めされていたの。もし、北川にストーカーって思われて勘違いされたくないってね。だけど、もしカフェに北川がいたらどうするのか聞いてみたら、“その時は私を盾に上手く誤魔化すつもり”だったらしい。本当にあの子は可愛い子だよ」
上手く誤魔化すって……。別に浅田が来ても、俺はストーカーって思わないのに。しかし、不謹慎かもしれないが俺に嫌われるのを恐れている彼女は愛おしく思える。
「その時、浅田は何を飲んでた?」
「何を? あぁ、ブラックコーヒーを飲んでたね。店で一番苦い珈琲みたいなやつだっけ。あの子は本当に苦そうに飲んでいて、私が何か甘いもの頼んだら良いのにって言ったら、“夜だし今はダイエット中だ”ってひたすらにブラックコーヒーを飲んでた。砂糖もミルクも入れずに、そのまま飲むのがかっこいいんだって意地張って。ねぇ、なんで急にこんなこと聞いてきたわけ?」
『昨日、浅田がバイト先のカフェにやって来て、ブラックコーヒーを飲んでた。』なんて言ったところで、どうせ信じてはくれないのを俺は分かっている。牧野は自分の目で見たもの以外は信じないタイプだ。
「もしかして、またひーちゃんが見えたの?」
牧野は半信半疑でそう訊ねてきた。もうここまで来たら本当のことを言うしかないと思い、昨日の出来事を全て話した。珍しくも、牧野は俺の話を信じてくれた。
「もしも、私にもひーちゃんが見えたら、今すぐにでも謝りたい。あの時はごめんなさいって謝りたい。私のせいでひーちゃんがこんなに早く逝っちゃうなんて思ってもみなかった……」
牧野は涙目になりながら弱々しく話していた。こんな牧野は出会って以来初めて見た。本当は何があったのか聞きたかったが、それは俺が触れてはいけないと思い、聞かないことにした。そして、牧野と俺はそれぞれの授業へと向かった。
十二月五日、中庭のベンチで浅田が何かを見つめながら座っていた。後ろからそっと覗き込むと、彼女が見ていたものは、彼女と俺がツーショットで映っているチェキだった。海をバックに撮ったチェキは今では貴重な一枚で、俺も自分の部屋にある机の引き出しにしまっている。実は、去年の夏に浅田と俺はデートのようなものをしたことがあった。きっかけは、授業終わりに俺がため息をついたことから始まった何気ない会話だった。
「北川君、どうしたの、ため息なんかついちゃって。何かあったの?」
「いや、一八時からバイトなんだよ。眠いってのに」
「へぇ、バイトしてるんだ、どこでバイトしてるの?」
「駅前の珈琲カフェ。あの新しくできて、ブラックコーヒーが有名なところ」
「もしかして、あのお洒落なガラス張りのお店? 凄く綺麗なカフェだよね」
それから、浅田は俺のアルバイト先のカフェに興味を持ち、オーナーのことや珈琲豆の挽き方、時給のこと等を色々聞いてきた。意外とブラックな一面があることを話すと、“今度また珈琲飲みに行くね。”と話題を終わらせていた。
「ところで、北川君はプライベートではカフェに行くの?」
「カフェは割と好きだけど、行くことがない。なんか、一人では入り難くて。俺の友達はカフェよりカラオケやボーリングに行きたいって感じだし。ぶっちゃけ、バイト先のカフェ以外はあんまり知らないし」
俺がそう言うと、彼女は何か閃いたのか、目を大きく開いた。
「私でよければ、一緒にカフェ行ってあげても良いよ」
「じゃあ、行く?」
俺の軽率な一言から俺たちはカフェに行く運びとなった。浅田は海の見えるカフェを提案してきて、日程を合わせた。本当は休日に行きたかったが、俺のアルバイトがあったせいで金曜日の放課後に行くことになった。金曜日は午前中で授業が終わるので、放課後の時間が長い。俺たちは校門前で待ち合わせをし、バスに乗ってカフェまで向かった。この日はよく晴れていて、日差しが眩しくて、申し分のないくらいいい天気だった。バスに乗っていた時の浅田は緊張していたのか、太陽の日差しが俺の方に向いていたからか、あまり目を合わせてくれなかった。カフェに着くと、窓の外は一面の海で、しきりに感心したのを覚えている。浅田は窓側の席を希望したそうにしていたが、生憎満席で壁側の席に座ることになった。不服そうな彼女を他所に、俺はメニュー表を見て、パンケーキとアイスコーヒーを注文することに決めた。彼女はじっくりと考えてからシフォンケーキとオレンジジュースを注文していた。料理が運ばれてくると、彼女は見たことないぐらい嬉しそうにしていた。あの顔は今でも忘れられない。彼女はシフォンケーキを食べながら、真剣な眼差しで突拍子もないことを聞いてきた。
「ねぇ、北川君は可愛くない女の子と一緒に出掛けられる?」
俺は思わず飲んでいたアイスコーヒーを吹き出しそうになった。正直、どう答えれば良いのか分からなかった。イエスと答えると、浅田のことを不細工だと言っているようにも聞こえてしまうし、ノーと答えると、俺はただの女好きのように見えてしまう。男というのは女の子からよく思われたい生き物で、女の子の前ではつい見栄を張ってしまう。結局、俺は、曖昧に微笑むことしかできなかった。すると、納得がいかなかったのか、もっと攻めたことを聞いてきた。
「私って、平均的な女子と比べて上かな? それとも下かな?」
もう、必死さがこっちにも伝わってきて、俺は思わず笑ってしまった。しかし、俺は女子の容姿に口を出すのはデリカシーに欠けると思うし、何より直接聞かれると照れくさくて中性的な意見で返した。
「それは言えないんじゃない? 良くても、悪くても」
これが俺に言える精一杯の言葉だった。案の定、彼女は不服そうな顔をしていた。でも、浅田は平均的な女性より可愛い方だと思う。決してスタイルは良くないが太っているわけじゃないし、色白で、目もぱっちりしていて、鼻筋も通っている。
「北川君は彼女とか作らないの?」
彼女はまた攻めたことを聞いてきて、よっぽど俺の気持ちを知りたかったのだろう。
「そういうの面倒だからいい」
この時は誰かに恋愛感情を持てなかった。というのも、俺は恋愛とか誰かと付き合うことに興味が湧かなかった。恋愛は、お金がかかるし、自分の時間は割かれるし、いずれ別れがやってくる。どうしても恋愛をすることのメリットを見出すことができなかった。独り身でいる方が自由で、誰とでも気ままに遊べて、別れを恐れる必要もない。友達という関係は俺にとってはベストな関係だ。たしかに、浅田は明るいし、優しいし、愛嬌があって俺と気が合う。だが、恋愛関係に発展させようとは思わなかった。しかし、今、目の前でチェキを眺めている浅田を見ていると、“可愛いよ”の一言ぐらい言っておけばよかったと無念でたまらない。もし、俺がそう言っていたら彼女はこの上なく喜んでいただろう。
お互いスイーツを食べ終わり、会計をするためにレジに向かった。俺は彼女の分の食事代も払った。やはり、彼女を傷つけてしまったかもしれないという罪悪感があった。彼女は自分の分は自分で払うと言い張ったが、言い合いの末、俺が払った。カフェを後にすると、彼女がショッピングに行きたいと言い出したので、俺たちは近くにある大型ショッピングセンターに向かった。
「ねぇ、このワンピース買おうかな。どうしよう、似合ってる?」
彼女は次々にワンピースを手に取り、鏡を見て合わせたり、試着をしたりしていた。
「迷うぐらいならわざわざ買わなくていいと思うけどな」
これは本当にそうだ。気に入った服なら迷わず購入するものだ。迷うということは、その服は完全には気に入っていない。気に入ったわけじゃないのに何となく買った服は後になってもあまり着なくなる。それだったら最初から買わない方がいい。
「じゃあ、北川君が良いと思う服を教えて欲しいな」
俺は、一緒に店内を歩いていて、最も目に留まったブラウスを指した。白の生地に、黒のラインが入っていて、襟元にはリボンが付いている。俺のセンスの中ではこれが一番可愛いと思ったのと、きっと浅田に似合うと確信した。俺がブラウスを勧めると、彼女は即座にブラウスを購入した。今までワンピースを選ぶのに迷っていたのが噓みたいだった。ブラウスを買った後、今度は彼女が俺の服を選びたいと言い出してきた。丁度夏服が足りていないところだったので、メンズの店を回ることにしたが、正直お洒落にはそこまで興味がなく、シンプルで安くて気に入った服を買えたら良いなと思う程度だった。しかし、ここのショッピングセンターにはそんな服はなく、どの服を見ても高くて買う気にはなれなかった。それに、今あるジャージとクロックスさえあれば大学に行くことはできるし、別に今日買わなくても良いと思っていた。
「ね、こういうの似合うんじゃない?」
浅田はそう言ってゼブラ柄の半袖シャツを渡してきた。いかにもヤンキーが着ていそうな派手なデザインで、物凄く目立ちそうだ。
「いやいや、流石にこれは着れないって。こんなの俺が着たらお笑い芸人だから」
すると、彼女は“今更何言ってんだ”とでも言うように笑い出した。
「北川君は真面目キャラじゃないし似合うと思うよ」
そんなにはっきりと言われると、何とも言えない気持ちになった。今でこそ俺はヤンキーに見えるかもしれないが、一応これでも中学受験には受かった。その後は部活で忙しくなり、勉強をサボりがちになって、気付けば落ちこぼれの一途をたどっていた。
「俺は真面目だから」
何の見栄を張っているのか、俺はそう浅田に言い張った。
「でもどんな北川君でも、この服、本当に似合うと思うよ。それに、お笑い芸人なら何か面白いことすればいいじゃん」
「しないって」
彼女はゼブラ柄の半袖シャツを強く推してきたが、俺はどうしてもその服が好みでないので買わないことにした。今思うと、あの半袖シャツを買って、彼女の前で着て、何か面白いことの一つでもしてあげれば良かった。もう一度、彼女の笑った顔が見たいと悔やんでも悔やみきれない。
買い物が一段落すると、建物の屋上にある展望デッキに行った。そこは広々としていて、一面に広がる海やヤシの木を見渡すことができた。彼女は俺とツーショットの写真を撮りたいと言い出してきて、俺は照れくさくて断ったが、彼女の圧に負けて撮ることにした。すると彼女は、鞄からインスタントカメラを取り出した。そして、偶々通りがかった男性にシャッターを切ってもらうように頼み、俺たちは仲良くツーショットのチェキを撮った。カメラから出てきたチェキに彼女はにっこり可愛らしく映っていたが、俺はうっかり瞬きをしたせいで少し半目になっていて、彼女は俺を見るなり大笑いしていた。これが、最初で最後の浅田との写真になるとは思いもしなかった。今日、家に帰った後、あの夏に撮ったチェキを何度も見返したのは言うまでもない。
一緒に出掛けてから数日が経ったある日、浅田は買ったブラウスを着て大学へ登校した。
「どう? 似合ってるでしょ」
浅田はそう言って嬉しそうにしていたが、俺はブラウスのことを忘れてしまっていて、とぼけた態度を取った。浅田は少しがっかりしていたが、似合っていることを伝えると飛び切りの笑顔を見せた。
十二月十四日、俺は放課後に売店で菓子パンと抹茶ラテを買い、談話スペースでうたた寝していたところを牧野に起こされた。
「ね、北川。あんた、本当にひーちゃんが見えるんだよね?」
牧野は見たこともないぐらいの真剣な表情でこちらを見ていた。
「そうだけど。何?」
「ひーちゃんは今、どこにいるの? 北川はひーちゃんとどんな話をしているの? この前のあの日から私もひーちゃんと話がしたくて。どうしてもひーちゃんと会って、謝りたい」
ここまで言われると、牧野と浅田の間に何があったのか聞き出すにはいられない。
「今、浅田はここにはいない。あの子は急に現れては姿を眩ますんだ。それに、浅田は話すことや、俺たちの声を聞くことができない。だから謝るなんてのは無理だと思う。一体、浅田に何を謝りたいわけ?」
すると、牧野はゆっくりと口を開いてこれまでの事情を話し出した。
「ひーちゃんが亡くなる二週間前、時歩とひーちゃんと私で飲みに行ってたの。それで、その時に恋バナが始まって……。時歩は他大学の彼氏との惚気話をしていて、その後にひーちゃんが北川のことを語り出した。最初は私も楽しく聞いていたんだけど、お酒が進むに連れて、“琉ちゃん、琉ちゃん”って幸せそうなひーちゃんが羨ましくて、つい酷いことを言ってしまった」
気の強い牧野は、酒が入るとさらに語気を荒らげることは知っていたが、まさか親友的存在の浅田にもその態度を出していたのは意外だった。
「実は、私も中学の頃から北川のことが好きだった。でも、私がどれだけアプローチしても、私のことなんか見てくれなかった。だけど、いつか振り向いてくれると信じて、北川と同じ大学を希望した。それでも、北川は恋愛に無関心で、どれだけ話しかけても目もくれなかった」
牧野が俺に好意を寄せていたことは勘付いていたが、彼女の言うように、俺は牧野に恋愛的な好意を持つことができなかった。あの頃の俺は部活に夢中で、そんなことにかまけている余裕がなかった。それに、高校で特進コースに進み、成績優秀だった牧野がわざわざこんな三流大学に進学するなんておかしいと思った。彼女なら難関国公立も夢じゃないと誰もが口にしていたのは、普通コースの俺でも知っていた。一時期はドイツに留学すると噂が立っていたこともあり、それぐらい牧野は真面目で、頭が良かった。
「なのに、どうして? どうしてひーちゃんとはあんなに親しくできるの? 私の時は二人では出掛けられないって言いながら、ひーちゃんとはデートに行ってるの? 彼女でも何でもないのに、立場は私と変わらないはずなのに。北川に選んでもらったブラウスを着ていたから、そのブラウスを赤ワインで汚したの。今思うと、お酒に酔っていたとはいえ、あれはやりすぎだった。最低なことをしてしまった。いくら北川のことを諦めたとはいえ、他の女の子と親しくなるのはどうしても許せなくて、羨望の気持ちを抑えきれなかった」
この話を聞いた俺はショックのあまり言葉を失った。俺をめぐってこんなことが起きていたなんて、浅田の死に俺が関わっていた可能性があるなんて思いもしなかった。俺が浅田の立場なら、きっと俺も同じことをしているだろう。
「飲み会の後も私は意地を張ってひーちゃんとは口を利かなかった。時歩は無論ひーちゃんの味方をしていたけど、私に仲直りをするように説得してくれた。私が北川に想いを寄せていたことは、誰にも言ってないのに、あの子は何も悪くないのに、ずっと私に謝り続けてた。でも、私は臆病で、メディアにこの話を打ち明ける勇気はないし、ご両親にも言えなかった。本当に最低な人間だと思う。今すぐにでも、何をしてでも、私の命と引き換えでも、ひーちゃんに謝りたい」
生前の浅田が暗い雰囲気だったのは、俺にも記憶がある。俺の方から挨拶をしても素っ気ないし、俺の前で笑顔を見せなくなった。俺に“一生の宝物だ”と話していたブラウスを汚された時はどれだけ苦しかっただろう。もう少し、あの子の気持ちに寄り添うことができたら良かったと今更ながら思う。牧野のやったことは決して許されることではないが、牧野を責める気にはなれなかった。
「今度、浅田が現れたら、その時は牧野も呼んでやるから。誠心誠意込めて謝れば、きっと許してくれる。もう終わったことでくよくよするな」
もう俺にはこう言うことしかできなかった。もし、自分のせいで誰かが死んだらと思うと、肌が粟立つ。
十二月十六日、浅田は図書館で社会心理学の勉強をしていた。俺はすぐさま牧野を図書館に呼び出した。
「ひーちゃんがここにいるんだよね……?」
「そうだ。浅田はこの席に座ってる。会話はできないけどな」
「それでもいい。今ここで、今すぐに、気持ちを伝える」
そう言って、牧野は浅田の隣に立ち、深呼吸して語りかけた。
「ひーちゃん。恵美です。ひーちゃんのことは見えないけど、生前の姿を思い出しながら話します。言いたいことがごちゃ混ぜになって、上手く話せるかわからないけど、許してね。実は私も琉ちゃんのことが好きだったの。ひーちゃんよりずっと前からね。でも、振られちゃった。だから諦めたし、ひーちゃんのことも応援しているつもりだったけど、琉ちゃんと仲良くしているひーちゃんが羨ましくて、つい嫉妬しちゃった。今思えば、正々堂々と琉ちゃんを取り合えば良かったのかも知れないけど、私より美人で、人懐っこい性格で、愛想よくて、努力家で、夢中になると周りが見えなくて、でもたまにドジで可愛くて、そんなひーちゃんに勝てる自信がなかった。あの日、勢い余って“琉ちゃんはひーちゃんみたいな人、タイプじゃないし、この前ウザそうにしていたよ。正直ブラウスも似合ってないって。これ以上嫌われないうちにさっさと身を引いた方が良いんじゃない?”なんて言ってごめんなさい。折角のブラウスも台無しにしてしまって、取り返しのつかないことをしてしまって、詫びても詫びきれない。北川がひーちゃんに言っていたことは全くのウソだから。きっと琉ちゃんもひーちゃんのことが好きだと思う。私も北川とデートしてみたかった。おまけに、ひーちゃんは私より良い企業に内定をもらっていて、今まで成績で誰にも負けたことがない私は悔しかった。ひーちゃんが努力家なのは分かっていたはずなのに。信じてくれないと思うけど、私はひーちゃんと友達でいて良かった。入学式の日、偶々席が近くて、友達のいない私に話しかけてくれて、本当に感謝してる。今までずっと一人ぼっちだった私を救ってくれたのに、私はそんなひーちゃんに辛い思いをさせてしまったこと、今はすごく反省しています。本当にごめんなさい……」
語り終えた牧野は今にも泣き崩れそうで、目が赤く腫れていた。隣にいた俺も思わずもらい泣きしてしまった。そんなことにも構わず浅田は黙々と勉強を続けていた。もし、浅田が今も生きていたら、この二人は仲直りできていただろう。その場にしゃがみこんだ牧野は、コートのポケットからハンカチを取り出して、目を覆い隠すかのように涙を拭いていた。その瞬間、浅田が牧野の方を向き、手を差し出した。有り得ない状況に有り得ない光景が重なった。浅田は、優しく微笑んでいた。もちろん牧野は浅田のことは見えないので、今もハンカチで涙を拭いている。この浅田の姿が牧野にも見えたら良いのに。この上なくもどかしい気持ちをどう表現すればいいだろうか。牧野は泣き止んだ後、俺に礼を言って静かにその場を去った。
十二月二〇日、浅田は大学のエントランスホールに飾られたクリスマスツリーを眺めていた。浅田はクリスマスが近づいてくると、俺に何度も予定を確認してきたのを覚えている。しかし、一年生の時は既に地元の友達と旅行の約束をしていて、二年生の時はアルバイトが入っていて、浅田とクリスマスを過ごしたことはない。それに、男女がクリスマスを共に過ごすというのは、そういう関係にあるということだから、浅田を勘違いさせないためにもクリスマスを共にすることはしなかった。去年のクリスマスは、まさか浅田がいなくなるなんて想像もしていなかった。もし、こうなると知っていたらアルバイトを休んででも浅田と共に過ごしていたのに。きっと、寂しいクリスマスを過ごしていただろう。それが、最後のクリスマスになるとは知らずに。
十二月二五日、昨日から大学は冬期休暇を迎えた。しかし、俺は授業をサボりすぎて進級が危ういため、補習を受けていた。その後は、就活のセミナーがあって、とてもクリスマスどころではなかった。しかし、今日は、今日だけは、話はできなくても声が届かなくても、浅田に会いたくてたまらなかった。もし、神様が本当に存在するのなら、この前の牧野のように俺にも浅田と心を通わすチャンスを与えて欲しい。しかし、そんな願いも虚しく、浅田が俺の前に現れることはなかった。もしかすると、浅田はもう成仏して本当にこの世からいなくなったのかもしれない。もう何もかもが手遅れだったかもしれない。今の俺にできること、それは浅田の墓参りに行くことだ。三日ほど前、ゼミの前に長岡から聞いた浅田の墓の話を思い出し、セミナーが終わると、俺は花屋に寄ってから大学から八〇㎞離れた浅田の墓へ向かった。
浅田が眠る墓。それは、行ったことがない土地で、田んぼや畑、山に囲まれた小さな町の中にあった。辺りは既に暗くなっていて、ぽつぽつと光っている街灯を宛に、誰もいない墓地の中を彷徨っていると、急な坂道に出くわした。しかしながら、どれだけ坂を上っても浅田の墓は見つからなかった。けれども、墓地の名前はここで合っているはずだし、全ての墓を確認したわけじゃない。まだ見つかっていないだけと信じ、ひたすら坂を駆け上がった。途中で足を滑らせて転倒し、ズボンが破れて膝に擦傷ができた。もちろん出血したが、いつもの癖でハンカチもティッシュも持っていないので、セミナーで貰ったどうでもいいようなプリントで傷口を抑えながら歩き続けた。幸い、さっき買った花束は無事で、気が付くと坂の頂上に辿り着いた。そこには、“浅田家之墓”と刻まれた墓石があった。念のため墓誌を確認すると“浅田 妃依里”とあって、俺はやっと浅田の墓に辿り着いた。
「ごめんな、遅くなって。今になって自分の気持ちに気付いたんだ。なぁ、また俺のところに現れてくれないか。また、カフェに行ったり、ショッピングしたりして、もっと一緒にいられる時間をくれないか。こんなに俺を愛してくれたのに、いつもクリスマス一人ぼっちにしてごめんな……」
そう墓石に語り掛けると、ダイアモンドリリーの花束を墓石に添えた。この花には“また会う日を楽しみに”という花言葉があると店員に教えてもらった。花束を供えると、背筋に冷たいものが走ったような気がした。先月、浅田が俺をすり抜けて行ったのと同じ感覚だった。きっと浅田もここにいて、優しく微笑んでくれている、そう信じることにした。
「メリークリスマス」
そう言って、坂道を降りようとすると、今年初めての雪が降りだした。
十二月二七日、今日は補習の最終日だ。今日を乗り切ると年末年始が待っている。今日の補習科目は社会統計学で、文系の俺からすると大の苦手科目だが、年末の楽しみを思うと何とか頑張ることができた。補習が終わると、教授が今までの補習を頑張ったご褒美にと学生たちにガトーショコラをくれた。成績が悪くても得をすることがあると美味しい思いをする反面、この先無事に卒業まで辿り着けるか不安な気持ちがあり、苦くて甘いガトーショコラはそんな俺の心境を映し出しているようだった。
大学を出ると夕方になっていて、夕陽が眩しかった。きっと天国で俺たちを見守っているであろう浅田も、この夕陽を見ているだろうか。ふとそんなことを思っていると、茶色のチェック柄のワンピース姿の浅田が俺の数メートル先を歩いていた。あのワンピースには見覚えがあった。そう、あのワンピースは浅田が亡くなる当日に着ていたものだった。つまり、浅田は今日、この世からいなくなる。俺は直観的にそう確信し、彼女の後を追いかけた。そして、浅田は例の事故が起きた交差点の前まで行き、横断歩道の前で止まった。様子を窺っていると、片手に何か持っていた。それは、俺とツーショットで撮ったチェキだった。彼女の後ろ姿は元気がなく、俯いていた。きっと、生前に牧野から言われたことを気にしている時の姿だろう。浅田はひたすらチェキを見つめながら、悲しい顔をしていた。そんな時、強い北風が吹き荒れ、浅田の持っていたチェキが風に飛ばされてしまった。浅田は両手で口を押え、パニックに陥っているようだった。そしてすぐに、赤信号の交差点の中を走り、必死になってチェキを拾おうとしていた。俺は『行くな』と彼女の手を掴もうとしたが、すり抜けてしまった。きっとこれこそが彼女が命を落とした原因だ。彼女の死は、自殺なんかじゃない。俺をただ愛してくれていたという彼女の一途な気持ちだった。チェキを拾った浅田は、俺の方へ駆けてきた。そして、俺の目を見た。
「ありがとう、琉ちゃん」
そう言って俺を抱きしめ、俺も同じように浅田を抱きしめた。不思議なことに、この瞬間だけ彼女は俺をすり抜けなかった。それから、彼女は夕陽の光とともに姿を消した。
それ以来、浅田が俺の前に現れることはなく、あの日が浅田の四十九日だということに気付いた。
【エピローグ】
私は浅田妃依里。信号待ちの中、琉ちゃんと撮ったチェキが風に飛ばされたのを拾おうとして、トラックに撥ねられて命を落としてしまった。まさかこの若さで死ぬことになるなんて思いもしなかったけど、死んで分かったこともたくさんあった。それに、世界中を旅することもできた。幽霊は自由で何でもできるから、生前にできなかったことを思い切り楽しんだ。まず、大好きな韓国のアイドルの楽屋に忍び込んだ。その後、イギリスのバッキンガム宮殿やフランスのベルサイユ宮殿を巡った。その次は、スイスのアルプス山脈でパラグライダーに乗った。それが終わると、今度はアメリカのテーマパークで遊んだ。それから、オーストラリアの大自然で野生動物たちと戯れた。
だけど、どうしても許されないことがあった。それは、生きている人間たちと触れ合うことだ。これは死んだ人間が決して侵してはならないものとされていたが、どれだけ楽しんでいても、琉ちゃんやメグ、時歩のことが気になって頭から離れなかった。だから、せめて最後のお別れに顔だけでも見たいと思い、時々大学にも行ってみた。意外だったのは、メグも琉ちゃんのことが好きだったこと。私は夢中になると周りが見えなくなるから、メグの気持ちに気付けなかった。ブラウスを滅茶苦茶にされたのは許せないけど、メグも辛い思いをしていたと分かった。何より意外だったのが、琉ちゃんにだけ私の姿が見えるということ。これは本当に驚いて、最初の頃はパウダールームに逃げてしまった。だけど、私なりのやり方で琉ちゃんに気持ちを伝えた。それにしても、過去の行動を繰り返してみるのは案外楽しいものだった。そして、時が経つに連れて琉ちゃんが私に振り向いてくれたのが嬉しくてたまらなかった。私の密かな努力が実ったのか、クリスマスにはお墓参りに来てくれた。でも、お墓に私が出たら流石にホラー映画みたいになってしまう気がして、姿を潜めてしまった。だけど、四十九日には不思議なことに声が届いてハグができた。これで私が生きていたらどんなに良かっただろう。だけど、私は本当に幸せ者だ。
今、琉ちゃんは金色だった髪を黒に染め、リクルートスーツを着こなして就活であちこちの企業を飛び回っている。
これから出逢う琉ちゃんの運命の相手はどんな人だろう。きっと、メグのような芯の強いしっかりした人かな。それとも、時歩のような優しくておっとりした人かな。ちゃんと幸せにしてあげられるかな。
琉ちゃんの見た目は少し厳ついけれど、優しい心を持っている。
だからきっと大丈夫だ。
冬の夕焼け空の上で、私は琉ちゃんとのチェキを眺めていた。