恋愛ごっこ

長編/恋愛/月夜見

 高校一年生の田辺(たなべ)円(まど)華(か)にはあるコンプレックスがあった。それは、“これまでの人生において一度も彼氏ができたことない”というものだった。周りの友達は次々に恋人ができて自分だけ恋人ができないことに焦りを感じていた。容姿は少しぽっちゃりしていて、真面目で引っ込み思案で大人しい性格ということもあって中々異性と関わる機会を持たなかった。しかし、そんな円華にも中学時代から想いを寄せている男性がいた。

 同級生の望月翔平(もちづきしょうへい)に二年半片想いをしていて、卒業して別々の学校に通うことになっても他の男性に目移りすることなく翔平を想い続けていた。だが、翔平はそんな円華など眼中になく趣味のサッカーに熱中していた。ここまで見れば翔平はどこにでもいる普通のサッカー少年だと思われるが、翔平は家が教会のいわゆるボンボン息子で甘やかされて育っており学校をサボったり授業を真面目に受けなかったりするやや不良少年である一面を持っていた。実家が教会だと厳しく育てられていそうだが翔平の家庭では学校教育には無頓着な家風だった。翔平は自由奔放な性格で成績はいつも最下位と等しいがサッカーの腕前は確かだった。円華は自分と正反対の翔平に惚れこんでいた。

 

 中学を卒業後、別々の学校に通うことになったが偶然にも利用している電車が同じでたまに帰りの電車で会うことがあり、円華は電車に乗る度に今日は翔平がいないかなと目をキョロキョロさせながら辺りを見渡していた。しかし、一緒の電車に乗ったところで円華が翔平に声を掛ける勇気はなく、遠くから見つめるぐらいしかできなかった。いい加減この恋は諦めようと思った円華だが電車で翔平に会うたびに封じ込んだ想いが溢れかえってしまい、引くに引けない状況が続いた。

 

 そんな中、冬から春へと季節が移り替わった。円華は二年生となり新しいクラスでの生活を迎えた。円華の高校のクラス発表は本人にだけクラスと出席番号が発表されて、他の生徒のクラスはわからないようになっていて、円華は少し緊張した気持ちと楽しみな気持ちが入り混じった中、二年三組の教室に入った。席に着くと前の席に見覚えのある男子生徒が座っていたが、人間違いかもしれないとあまり気に留めてなかった。出席番号順に整列して体育館に向かい、始業式が始まろうとしていた。体育館のパイプ椅子に座ると隣の男子生徒から声を掛けられた。

「もしかして、去年図書委員会だった田辺さん?」

 そう声を掛けたのは去年隣のクラスで同じ委員会に所属していた武本大樹(たけもとだいき)だった。

「武本君じゃん、久しぶり。さっき整列した時に後ろ姿で武本君かなって思ったけどそうだったんだ。話しかけようと思ったんだけど人間違いだといけないから遠慮しちゃった。去年より日焼けしているし随分痩せてない?」

 大樹は嬉しそうにニヤニヤしながらこう答えた。

「俺、実はこの春休みで十キロ瘦せたんだよね。テニスの合宿中に顧問が砂浜を走るメニュー組んでそれをこなしていくうちにね。あと、筋トレもしたかも。気付いたら身長も三センチ伸びてた。」

 たった数週間の春休みで大樹は髪型と優しそうな雰囲気以外のほぼ全ての外見が変わっていて、人はこんなにも変わるのかと円華は感銘を受けた。そうこうしているうちに始業式が始まり、校長が式辞を述べた。

「桜が咲き誇る美しい季節になりましたね。皆さん、ご進級おめでとうございます。新しいクラスはどうでしょうか。皆さんが新しいクラスに馴染む第一歩と、それぞれの新しい目標を立てるために少し時間を取りますので、隣の席の人と自分の自己紹介と今年度の目標について話し合ってください。」

 校長はそう言ってストップウォッチのタイマーを押して、円華と大樹はまた向かい合って話すこととなった。

「目標だって。武本君は何か考えてるの?」

「いやぁ、何も決めてない。でも、テニスで良い成績残せたら良いかなって。そっちは?」

 大樹は照れくさそうにしながら目標を語った。

「今年から茶道部の部長になったから部活を精一杯頑張るとかかな?あんまり良いの思いつかないかも。」

 円華は自信なさげな様子で目線が下に向いていた。

「確かに、急に振られても困るよな。それより、茶道部なんだ。じゃあ、前川愛実(まえかわあいみ)とか知っているんじゃない?」

「知ってる。あの子は副部長で、私よりお点前が上手なの。私はいつも叱られてばっかりで、本当にあの子みたいになりたくて。どうして愛実のことを?」

「愛実とは実家が近所なんだ。なるほど、茶道部も大変だな。」

 円華と大樹は校長の式辞のおかげで少しぎこちない様子ではあるが仲を深めていた。時間は過ぎて校長のタイマーが少々小さい音だが体育館に鳴り響いた。校長は生徒へ激励の言葉を残して式辞を締めくくり、校歌斉唱をした後、始業式は終了した。

 

 教室に戻ると新しい担任が笑顔で生徒たちを出迎えた。二年三組の担任は定年間際でベテランの女の先生だった。去年、円華にとって現代文の先生であり部活の顧問で、大樹にとって担任だった。小柄な体型におっとりした瞳をしていて、“お母さん”と呼びたくなるような優しい雰囲気をしていた。

「はい、皆さん、今日から担任になります藤原(ふじわら)桂子(けいこ)です。よろしく。もう皆さんは私のことご存じですよね。知っての通り今年の春、今から二週間後は校外学習で京都に行きます。私は京都出身なので何でも聞いて下さいね。」

 円華たちの高校は二年生の春に校外学習で京都へ行くことになっているのだ。高校から電車で一時間半のところに京都があり、メインは京都の大学を見物することにあった。担任の藤原は京都への情熱から初日から一時間ほど神社や観光地について持ち前のゆっくりとした口調で語り、終礼時刻は十五時を過ぎていた。

 

 一週間が経ち、校外学習のグループ分けが始まった。二年三組は文系のクラスで女子が多く、メンバーを決めるのに時間がかかった。自由に友達と組んでいいことになっているが、これがまた女子特有のこだわりやら人間関係やらがあって実に厄介なのである。円華たちは五人グループに分けられたが、運の悪いことに円華と気が合う人は皆別々のグループになってしまい、不服を感じるグループ分けとなってしまった。その日の部活で円華はグループ分けの愚痴を愛実にこぼしていた。

「それはドンマイだわ。まぁ、京都で美味しいもの食べて、いっぱい買い物できたらそれで良いじゃない?」

 姉後肌の愛実は不満をぶつけてくる円華を優しく包み込み、励ました。

「そういえば、四組のグループ分けはどうだったの?」

「私のとこ?そうね、こっちは理系で女子が十人しかいないから五対五ですぐに決まったけど。まぁ、陽キャと陰キャで別れたってところかな。私は陰の方だけどその方がアニメの店とか行きやすいからラッキーって感じ。あ、聞きたかったんだけど武本と友達なの?」

 武本と言う瞬間、愛実は表情を曇らせたが言い終える頃には普段の表情に戻っていた。

「武本くんは去年図書委員会で同じで、その時に少し仲良くしてたぐらい。今年は同じクラスになって、出席番号が隣だから始業式の時にちょっとだけ話したよ。あの子、すごく身長が伸びたし痩せたよね。」

 愛実は少し間をおいて急に笑顔になった。

「そっか。武本と私は小学校からの仲で、あいつとは何でも話し合うんだけど、春休みにダイエット始めたんだって。合宿で顧問に体型をいじられて後輩が入ってくる前にどうしても痩せたかったらしい。どんだけかっこつけたいんだか。それと、この前円華の子と褒めてたよ。話しやすくて一緒にいて楽しいって。これからもあいつと仲良くしてやってね。」

 愛実は円華の肩をポンと叩いた。そうは言っても、大樹とは数えるほどしか話したことがないのに自分のことを褒めてくれていたことに円華は照れくさそうにしていた。

 

「はい、次のお点前始めますよ。次の番は誰ですか、田辺さんですね。早く準備に取り掛かりなさい。あなただけ毎回いつも遅いですよ。」

 微笑ましい時間は呆気なく終わり、作法室の奥の部屋から外部顧問の鬼山が厳しい口調で円華を呼び出した。

「すみません。失礼致しました、先生。では今から始めさせて頂きます。」

 円華は慌てながら鬼山の前でお点前の稽古を始めた。毎回のごとく、鬼山の前になると円華は緊張のあまり思うように手を動かせなくなってしまう。そして、失敗してまた叱られて落ち込んで腕がどんどん落ちていった。

「違う、何度言ったら分かるの。袱紗捌きはこの向きから始めるの、いい加減に学習しなさい。ほら、もう一回。四百年続いた裏千家の伝統を守りなさい。」

 円華はもう一回やり直すもまた失敗してしまい、また鬼山に睨まれた。

「ほら、ここは二回も畳まないの。こんな焦った手つきじゃ駄目。これはあなたの特徴ね。今日はあなたで時間を取りそうだからもう順番を変わってもらいましょう。前川さん、準備してください。田辺さん、前川さんのお点前をよく見ていなさい。」

 鬼山は未だに円華のことを褒めたことがなく、厳しい言葉をかけられるばかりで、いつも褒められるのは愛実だった。

「また一緒に練習しよう。」

 愛実は円華を励ますつもりでこの言葉をかけたが、今の円華にとっては鬼山の言葉に加え、さらに重くのしかかった。愛実は準備を終え、お点前に取り掛かった。

「はい、これで合っていますね。では、片付けに入りましょう。」

 鬼山はさっきとは別人のような笑みを愛実に向けていた。これが円華にとってどれほどの重圧になっていたかは計り知れない。日は暮れて、その日の部活は終了した。

 

 翌日、天気は大荒れでグラウンドでの体育の授業は体育館に変更され、パドルテニスをすることになった。ネットを張り一人一つラケットを渡されて、背の順に並んで隣になった人とペアを組み、ラリーを開始した。しかし、円華は昨日の部活の鬼山のことが頭に浮かび、気持ちが沈んでラリーに集中できるような余裕がなかった。

「田辺さん、そっち。」

 ペアの女子生徒は自分が飛ばしたボールの方を指さした。ボールは遠くへと転がり、円華はごめんと謝り走ってボールを取りに行った。そして、円華はサーブを打ったが、つい力が入ってしまい、ボールがネットを通り越してブラインドに引っ掛かってしまった。ペアの女子生徒は呆れたかのようにため息をつき、円華は何とかしてボールを取ろうとしたが体育館の窓の位置は高く、とても女子の身長で届くような位置ではなかった。そんな時、一人の生徒が勢い良くジャンプし、ラケットを使って引っ掛かったボールを取って円華の方に投げた。円華はボールをキャッチし、自分の胸がバクバクしているのを確認した。円華は大樹のボールを取る行動に圧倒されたのだ。ありがとうと礼を言おうとするが大樹は自分の練習に戻ってしまった。

 

 体育の授業は終わり昼休みが始まったので円華は着替えを済まして弁当を食べた後、手鏡を見ながら前髪を整え、唇に保湿リップを塗ってから大樹のところへさっきの礼を言いに行った。大樹は既に弁当を食べ終えている様子で、一人で貧乏揺すりをしながらスマホをいじっていた。

「武本くん、さっきはボール取ってくれてありがとう。」

 大樹は貧乏揺すりを止めて、スマホを手に持ったまま顔を上げて円華の方を見た。

「いや、いいよあんなの、よくあることだし。俺の身長が役に立って良かった。」

 大樹は照れくさそうに笑っていて、円華は興味本位から思い切ってあることを訊ねた。

「大樹くんは身長何センチあるの?」

「俺の身長?百八十センチだけど。それより、その武本くんっていう呼び方はやめにして、大樹って呼んでほしい。」

 円華は頷いて、少し息を吸って小さくため息をした。

「大樹くん、か。分かった。大樹くんの身長って百八十センチもあるんだ。テニスでも大活躍してそう」

 大樹は首を横に振り、少し暗そうな表情を見せた。

「それがそんなことなくて。一昨日も顧問にレシーブのフォームのことでめちゃめちゃ怒られた。そんなこと言われても俺中学までバスケしてたから中々身体が慣れない」

 円華は大樹が高身長である理由を察したのと部活が上手くいっていない大樹に親近感を覚えた。

「大樹くんも部活でそんなことがあったんだね。実は私も昨日茶道で先生にこっぴどく叱らて、それはもう辛かった。だけど、愛実は私と同じ年に茶道を始めたのに上達が早くて今だと月とスッポンだよ」

「顧問の先生に叱られたって、そっちの顧問は桂子ちゃんだよね?そんなに怒るキャラでもなくない?」

「桂子ちゃんは職員会議があってなかなか部活に顔を出さないの。代わりに外部顧問が来るんだけど、毎回和服を着ていて目は釣り目で、意地悪そうな感じの人。いつも愛実ばっかり褒めて私のことは何も褒めてくれない。こっちだって苦手なりに一生懸命にやってるのに。活動が週に一回だけだからまだ良いけど、毎日なら詰んでた」

 円華は今にも泣きそうな眼差しをしていて、大樹は円華がどれほど部活に苦しんでいるのかを察した。

「そうか、円華ちゃんだって頑張っているのにな。そう言えば、円華ちゃんって部長じゃなかった?すごく大変そうだけど……」

 円華は黙って頷き、下を向いて話した。

「愛実は空手部と兼部しているし、他の子は何かにつけて部活をサボることが多くて、ほぼ強制的に私に決まった」

 円華は明らかに泣くのを堪えている様子で、鼻が真っ赤になっていた。

「俺にできることがあったら何でも言って。相談でも何でも乗るから」

 円華はこの言葉にどれほど救われただろうか。大樹の貧乏揺すりといきなりのちゃん付け呼びに少々気になるところだがそれ以上に大樹の心の温かさが円華の心に染みた。

「ありがとう」

 円華がそう言うと同時に午後の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。午後からは総合の授業で一週間後の校外学習に向けてグループ活動を行うことになっていて、円華はあまり気乗りしないまま話し合いに参加した。

 

「大学見学だけど、どこの大学に行きたいとかある?」

 誰一人口を開かないグループで先陣を切ったのは意外にも円華だった。

「私はどこでも良いけど」

「私も」

「田辺さんが行きたいところで良いよ」

「私もそう思う」

 円華はこのままでは沈黙のまま時間が終わってしまうと思い勇気を振り絞って発言したものの、予想通りの冷たい反応をどう返そうかと悩んだ。クラスの余り者が集まったグループは寂しく、虚しく、味気ないものである。円華は京都にあった大学を思い返しながらある大学を思いついた。

「同志社大学なんてどう?」

 円華は進路ガイダンスのチラシで見た大学を思い出してそう言うと、メンバーは首を縦に振り、同志社大学を見学することがあっさりと決まった。大してろくに話したことのない五人が校外学習で行動を共にするなんて本当に楽しいのだろうかと不安を募らせる円華だった。改めてメンバーたちを見ているとさっきの授業でペアを組んでいた女子生徒がいることに気付いた。そういえば、円華はメンバーの名前をちゃんと知らなかった。

「ごめんなさい、今更なんだけど名前教えてくれる?本当は最初に確認するべきだったんだけど」

 円華は必死に笑顔を作った。

「谷川彩矢(たにがわあや)です」

「牧田葵生(まきたあおい)です」

「神崎麗衣(かんざきれい)」

「宮川野乃花(みやかわののか)です」

 全員不愛想であるが、名を名乗った。円華は挫けそうな心を我慢して必死に笑い、なんとかっ折角の校外学習を楽しいものにしたいと場を明るくしようと張り切った。本当は今すぐにでもメンバーチェンジをしたいのである。

「おっけーー。彩矢ちゃん、葵生ちゃん、麗衣ちゃん、野乃花ちゃんね。当日はよろしく」

 円華は辛うじてその場を乗り切った。体育でペアだったのは麗衣だった。グループの中で際立って愛想が悪く、ドライな雰囲気を漂わせていた。周りのグループを見ると楽しそうに京都巡りのプランを立てていて、自分が今置かれている状況がどれほど惨めであるかを改めて突き付けられた。

「皆さん、京都のプランは立ちましたか?来週は楽しんでくださいね。ちなみに 私のおすすめは清水寺と平安神宮と大覚寺です。ぜひ行ってみてくださいね。えっとそれから……」

 担任は始業式と変わらぬ勢いで京都について熱弁した。ついにそれぞれの建物の歴史について語りだし、話し終える頃には下校時刻を十に過ぎていた。

 

 放課後、校門を出たところで円華は大樹と会った。会う約束をしているわけではないのにと円華は胸を躍らせた。

「大樹くん、こんなところで何してるの?」

大樹は円華の方を振り返り、ニコッと笑った。

「今日は顧問が出張になって部活オフになったから母さんが迎えに来るの待ってる」

 円華は高校生にもなって母親に送迎してもらうことに一瞬だが直感的に大樹がマザコンであることを疑ったが、流石に失礼だと思い何も思っていないことにした。

「そっか。部活なくなって良かったね。校外学習のグループの方はどう?」

 円華は自分だけが惨めなのを認めたくなくて必死に自分と同じ境遇の人を捜し求めた。

「俺らのところは男子が極端に少ないからメンバーはすぐに決まったんだけど、皆ゲームが好きで話が合いそうな感じ。一応、グループ全員去年から同じクラスだし。そっちは?大学見学とかどこ行く予定?」

 大樹は校外学習を楽しみにしている様子で、円華には大樹の笑顔が眩しかった。

「同志社の予定かな」

 すると大樹は少しがっかりした表情をした。

「同志社か。俺たちは京大に行くから会えないね。本当は五等分の花嫁の聖地の神戸学院に行きたかったんだけど神戸だし、じゃあ京大で良いやって決まった。多分この機会しか行けなさそうだし」

 円華は大樹のアニメオタクぶりに少々驚いたが、大樹の新しい一面を知れたことに喜びを感じた。

「あっ、マ、お母さんが来たからこの辺で。また明日」

 大樹は手を振って母親の待つ車の方へ向かった。円華も駅の方へ歩き出した。

 

 電車に乗ると見覚えのある男性と迎え合わせに座った。相手は同い年ぐらいの女性と手を繋いでいた。よく見るとその男性は翔平だった。髪を赤茶色に染めてパーマをかけていて、灰色のジャージを着て、おまけに少し太っていて最後に見たときよりもがらりと雰囲気が変わっていた。翔平と手を繋いでいる女性は翔平の元カノだった。

 中学一年生の時に翔平と付き合っていた女性は派手で人当たりが強くて円華が苦手とするタイプだった。円華は中二の時にその元カノと同じクラスになったがこんな女がどうして翔平と付き合えたのかが疑問だった。そして、そのカップルは三年の月日を経てよりを戻していた。こんなに残酷な状況が他にあるだろうか。しかし、最近の円華は大樹が現れたことで翔平への気持ちが逸れていたので、ある意味これで良かったのかもしれない。

 円華は二人に気づかれないようにそっと席を立ち、隣の車両へ移動した。これ以来、円華が電車で翔平を捜すことはなくなった。

 

 一週間が経ち、校外学習の日になった。円華は京都へ行くことを楽しみにしていたが、グループのことを思うと憂鬱な気分だった。

 京都に着くと、地元では見られないような歴史的建造物が並んでいて円華は一つ一つの建物を見入っていた。京都出身の担任が京都についてあれほど語る理由をようやく理解したのである。市内バスを使って同志社大学に着いた円華たちはキャンパス内を一周した後、校内の食堂へと向かい、そこで昼食を取った。校外学習当日もグループ内は円華以外ほとんど口を開かず、ほとんど沈黙した状況のままだった。円華は解散時刻の一五時がどれほど待ち遠しかっただろうか。

 

 昼食後、円華の提案で清水寺に向かった。グループの中ではいかにも京都らしいから行ってみたいと言いつつ、円華の本心は地主神社にあった。ネット検索をして縁結びで有名であることを知り、大樹と結ばれて自分も誰かとカップルになる夢を叶えたいのである。清水寺の奥にある地主神社は、こぢんまりとしていて若い女性の観光客で賑わっていた。円華はお賽銭を入れて大樹と幸せになれますようにと心を込めてお参りした。そして、縁結びのお守りを購入した。ついでに恋みくじを引いた。大吉と書いてあり“運命の人はすぐそこに”とあって、円華は大樹のことだと思い、舞い上がった。この時円華は初めて心の底から京都に行って良かったと思えた。

 再びグループに合流すると円華以外の四人が今まで見たこともないような笑顔で楽しそうに会話していた。円華も話の輪に入ろうとしたが、円華が近付くと四人は会話を止めいつもの不愛想な表情に戻った。この瞬間、円華はグループ内で嫌われていることを察した。

 

 解散時刻の一五時が迫っていたので円華たちは指定の駅へと向かった。ここで先生がチェックを受けると現地解散ということで家に帰ることができる。円華たちは先生のチェックを受けた後、四人のことを少し観察していた。なんと、四人は帰り道とは逆の方向の電車に乗って別の観光地へと向かっていたのだ。その光景は円華にとってあまりにショックだった。早く家に帰ろうとした瞬間、大樹の声が聞こえた。どうやら大樹のグループが先生のチェックをうけているようだった。チェックを受けた後、大樹は円華の方へ歩いてきた。

「円華ちゃん、もう帰るの?」

「そのつもりだけど。」

 円華は視線を斜め下に向けて大樹に素っ気ない態度を取った。

「もしかして、あんまり楽しくなかったの?」

 円華は黙って頷いた。

「そうか。もし良かったら今から神戸学院行かない?俺やっぱり聖地を巡礼したいんだよね。」

 円華は地主神社のご利益だと思い、アニメに微塵も興味ないが即答で行くと頷き、円華と大樹は一時間少しかけて神戸学院大学まで向かった。

 

 神戸学院大学に着くと大樹は走って食堂へ向かった。夕方なので食堂は既に閉まっていたが、ここは聖地であると大樹は食堂の方を拝んでいた。円華はそんな大樹を他所に食堂の内装よりも食堂の窓から見える海と夕陽に感動していた。そして密かに大樹と同じ大学に進学したいと願った。そんなこととは知らず大樹は円華の方を振り向いた。

「そういえば、円華ちゃんは彼氏とか好きな人とかいるの?」

 円華はあまりに唐突な質問に困惑し、同時に胸が高鳴った。

「い、いないけど……。大樹くんは?」

 大樹は照れくさそうにしながら目線を斜め下に向けていた。

「俺もいないけど。円華ちゃんはどんな人がタイプなの?」

 円華は大樹に恋人がいないことに安堵した。好きな人のタイプと聞かれると真っ先に翔平のことを思い出した。しかし、翔平は男前で色白で細身でやんちゃで、平均顔で色黒で標準体型で大人しい大樹とは正反対だった。翔平にはない穏やかで話しやすい雰囲気が大樹の魅力そのものだった。

「好きになった人がタイプだけど、優しい人が良いかな。」

 大樹は何度も頷いて、円華に共感していた。

「俺も優しい人がタイプ。」

 大樹は嬉しそうにニヤニヤしていた。

「円華ちゃんさえ良ければLINE交換しない?」

 円華はもちろんと快諾し、二人は連絡先を交換した。気が付くと辺りは暗くなっていて二人は今度こそ帰路についた。円華は校外学習の解散後の大樹との時間に今日一番の幸せを感じた。

「今日はついてきてくれてありがとう。気をつけて帰ってね。」

「ありがとう。大樹くんもね。」

 

 同じ電車に乗り、大樹は先に最寄り駅に着いて電車を降りた。電車では校外学習での円華のことについて一切話題に触れず、アニメの聖地巡礼の話しか持ち出さなかった。円華は大樹なりの気遣いだと思い、また大樹の温かさに触れたことに喜びを感じた。

 翌日、普段と同じように授業があったが、昨日の疲れからクラス中が疲れている様子だった。円華も例外ではなく、数学の授業で居眠りをしてしまい、ただでさえ数学が苦手なのに余計についていけなくなってしまったのだ。しかし、円華はあることを思いついたのだ。休み時間に大樹のところへ行き、数学を教えて欲しいと頼んだ。

「三角関数は俺も苦手だからちゃんと復習してから教えたいかも。今日の夜に電話できる?」

 円華は笑顔で何度も頷き、夜が来るのが待ち遠しかった。

 

 夜になり、大樹から今から電話できるかとメッセージが届き、円華は数学の準備をしてからすぐに大丈夫だと返信した。時計の針は午後八時を指していて、円華が返信するとすぐに大樹から電話がかかってきた。

「もしもし。」

 大樹の声に円華は少し緊張した。これが男子との初めての電話なのだ。

「も、もしもし。大樹くん……?」

「数学の準備はできてる?」

「できてます。」

 大樹は分かりやすいように図を使って丁寧に数学を教えた。円華は昼間の授業で理解できなかったところが嘘のように分かるようになり、先生より分かりやすいと大樹の頭のよさに感心した。勉強を終えると時計の針は午後九時を指そうとしていた。

「本当に分かりやすくて助かった。ありがとう。おやすみ、また明日。」

「いやいや、お役に立てて良かった。」

 円華は初めて数学を好きになれた。電話を切ろうとすると大樹が“待って”と呼び止めた。

「あのさ、円華ちゃんは今彼氏いないんだよね?」

 唐突な大樹からの質問に円華は自分の耳を疑った。

「い、いないけど……。」

 円華は想いを隠すために必死になって平然を装った。

「優しい人がタイプって言ってたよね。昔は彼氏とかいたの……?」

 大樹の声は少し強張っていて緊張している様子だった。

「いたことないんだよね。」

 その瞬間、電話越しからガシャガシャと物音がして、ポットの湯が沸いた音がした。円華は大樹が台所にいることを察した。

「えっ、彼氏いたことないの、俺も今まで彼女いたことないんだけど。ってか優しい人って結構いると思うんだけど。」

 大樹はさっきまでの強張った声が嘘かのように嬉しそうな声色になった。

「大樹くんとか……?」

 円華は愛実から聞いたこととや校外学習でのことを思い返しながらこれは脈アリと確信して嬉しさのあまりつい本音を漏らした。

「えっ……。」

 大樹は突然の円華の言葉に驚きを隠しきれずただただ呆然としていた。大樹の態度に円華は自分が何を言ったのかと我に返り、恥ずかしくなった。

「いや、今のは……。その……。」

 沈黙が続く中、円華は必死になってさっきの言葉を取り消そうとしたが手遅れだった。

「私と付き合ってほしいというか……。」

 円華はもうどうにでもなれと吹っ切り、思い切って大樹に想いを伝えた。

「おっ、俺で良いの。」

 大樹の声はこれまでの電話で一番大きく、驚きと喜びが伝わった。

「俺が良いんです。」

 円華はどこかの恋愛漫画に出てきそうなくさいセリフで返した。

「あ、ありがとう。よろしくお願いします。」

 大樹はとても照れくさそうにしていた。こうして、二人は付き合うことになった。円華は人生初の恋人ができたことで今までのコンプレックスが解消されて、少し大人になった自分に照れくささを覚えた。すると、電話越しから麺をすする音が聞こえた。

「大樹くん……?」

「あ、付き合うんだから大樹で良いよ。俺も円華って呼びたい。」

 咀嚼音があまりに大きすぎて、円華は会話が入ってこなかった。

「今、何か食べてるの?」

「うん、カップ麺食べてる。今日の夜食。」

 そう言って、大樹は大きな音を立ててまた麺をすすった。

「あとで食べ終わってからもう一回かけ直してもいいよ。」

「いや、大丈夫だから。このまま話す。」

 自分の咀嚼音が円華を不快にさせているとはつゆ知らず、大樹はカップ麺を食べながら喋り続けた。

「今度のゴールデンウィークって何か予定あるの?」

「ないけど。」

「そっか、俺は五月五日が部活オフなんだけど円華はその日空いてる?」

「空いてるけど。」

「じゃあ、その日良かったらどこか行かない?」

「どこかってどこに?」

「ちょっと遠いけど神戸とか行かない?一応日帰りで行ける距離だし。今度は大学じゃなくて別のところとか。」

「良いけど。」

「それじゃ五日の十時に神戸集合で。」

「分かった。」

 円華は折角念願の彼氏ができたというのに気持ちが乗らなかった。気持ちを伝えるまではあんなに好意があったのに想いが通じ合った瞬間に気分が一気に逆転したのだ。電話を切った後も円華は無表情で数学の用意を片付けてさっさと寝床に着いた。しかし、あの咀嚼音が頭をよぎって一睡もできないまま朝を迎えた。

 

 学校に着いて教室に入ると大樹はスマホをいじっていた手と貧乏ゆすりしていた足を止めておはようと元気よく円華に手を振った。円華は慌てて大樹を空き教室へ連れて行き、大樹にあることを忠告した。

「お願いだから学校でカップルってことは知られたくなくて、何もしないでほしい。」

 大樹は不思議そうな顔をした。

「どうして?」

 円華は深いため息をしてから話し始めた。

「あんまり噂になって欲しくないっていうか。もし噂が広まったとして、私たちが別れたら気まずくなるでしょう?私が行ってた中学でも付き合ってる噂が広まって別れた後も周りから色々言われたカップルがいて、その時に私が誰かと付き合うときはなるべく周りに広まらないようにしたいって思ったの。」

 大樹は不服そうな様子だが、円華のためならば仕方ないと少々強引ではあるが納得した。こうして、二人は付き合っていながらも学校で話すことは以前より少なくなった。

 

 月が代わり、ゴールデンウィークは終盤にかかった。デートの前日になり、大樹は部活の昼休憩に円華と電話をしたいと頼んだ。円華は咀嚼音のことを根に持っていて断ろうと思ったが折角できた彼氏を逃さないために電話に応答した。

「もしもし、円華。明日神戸のどこに行きたい?」

「大樹はどこに行きたいの?」

円華は神戸に行こうと誘っておいて自分は神戸について何も知らない大樹に呆れた。さらに、今度は弁当をむしゃむしゃと食べながら喋っていた。やめてほしいと言おうと思ったが大樹の機嫌を損ねてしまうのではないかと口を慎んだ。

俺、神戸のことあんまり知らなくて、円華はどこか良いところ知ってる?」

「異人館とか良いんじゃないの?」

 実は円華は昔から彼氏ができたらデートで神戸の街を散策することに憧れていた。つまり、円華の密かに抱いていた夢が叶おうとしているのだ。

「異人館?よく知らないけど良さそう。」

 円華は長年の夢が叶うことの嬉しさと大樹と出掛けるのが億劫になってきた気持ちが入り混じって複雑で何とも言えない気持ちになった。

「明日はお洒落してきてね。」

「分かった。」

 大樹は電話を切った後、部活帰りに近所の理容院で散髪してもらった。それから、クローゼットの片隅に置いていたお気に入りのTシャツを引っ張り出した。そして、靴棚にしまっておいた有名ブランドのスニーカーを出した。一方、円華は大樹とデートと言うよりも洒落た神戸の街に相応しい服を着て行こうと白いワンピースを用意した。

 

 翌朝、円華は朝食の白米が胃に重くのしかかった。一瞬だけドタキャンをしてやろうと思ったが、それは道徳的にあまり良くないと思い、昨日用意したワンピースを着て軽く化粧をしてから家を出た。一方大樹は朝食のパンをペロッと平らげて予定より一本早いバスに乗った。

 円華が神戸に着くと大樹は既にベンチに座って円華を待っていた。円華は大樹に声を掛けようとしたが、大樹はまたもやスマホを見ながら貧乏ゆすりをしていてその気を剥いだ。しかも、大樹の髪は丸刈りに近いぐらいバッサリと切られていて、服装はアニメキャラクターがプリントされた白Tシャツにカーキー色のハーフパンツで虫取りに行く小学生のようだった。率直に言えば非常にダサい恰好をしていた。

「あっ、円華、こっちこっち。」

 円華が到着したことに気付いた大樹は手招きをした。

「じゃあ、行こうか。」

 こうして二人は異人館へと向かった。異性と二人で歩いたことのない円華は照れくささもあって大樹から横に一メートル程距離を取って歩いた。大樹は円華に近付こうとするが円華は恥ずかしいと言ってそれを拒んだ。

 異人館に着くとゴールデンウィーク中でたくさんの人で混みあっていた。二人は行列に並んで三つの館を巡るチケットを購入して約九十分かけてそれぞれの館を巡った。館内にいる間、二人は特に会話をしなかった。大樹も次第に何を話せばいいのか分からなくなり、沈黙の時間はさらに続いた。三つの館を巡った後、円華はやっと口を開いた。

「お腹空いたね。」

 朝から胃の調子が優れない円華であったが異人館に展示されていた美しい食器や絵画、人形を見ているうちに気が和んで食欲を取り戻した。

「たしかに。この辺で昼ご飯食べる?」

 円華は昔テレビで見た元町の中華街のことを思い出して、スマホを取り出して中華街について調べ始めた。

「よし、ここに行こう。」

 円華はそう言ってスマホを見せて大樹はそこに映っていた中華そばを見てゴクリと唾をのんだ。そして二人はバスに乗って元町へ向かうことにした。

 探していた店を見つけて入るとすぐに席まで案内された。メニュー表を見ると中華そばセットが時間限定で割引になっていることに円華は運の良さを感じて真っ先にそのメニューを注文した。大樹も円華に続けて同じメニューを注文した。料理が入ってくると想像以上にボリューミーな中華そばと炒飯と杏仁豆腐が出てきて、円華の食欲は失せた。普段ならよく食べる方だがこの時ばかりはなぜか気が滅入ってしまったのだ。大樹は案の定、大きな音を立てて麺をすすり、クチャクチャと咀嚼音を立てながら食べた。よく見ると少し体が微動していたので足元を見ると貧乏揺すりをしていた。円華はよりによって中華そばの店を選んだことを少し後悔した。

「ねぇ、その音どうにかならないの?その貧乏揺すりも。」

 円華はついに堪忍袋の緒が切れて強く当たった。

「あ、ご、ごめん、悪かった。貧乏揺すりはいつも家で注意されているんだけど……。」

 大樹はドラムを叩くかのように動いていた足を止めてピタッと足をそろえて、静かに食事した。

「こっちこそごめんね。」

 一応、円華の方も謝罪した。そして気を取り直して食後の計画を練った。

「ねぇ、次はここに行きたい。」

 円華はスマホを出してポートタワーの写真を出した。

「良いけど、まだ全然食べてなくない?」

 大樹は完食していたが、円華は半分以上残していた。

「もうお腹いっぱいかも。大樹いる?」

「こっちも腹一杯だし要らない。そんなに残すならなんでここに行きたいって言ったんだよ。」

 大樹は呆れていた。

「ごめん。」

 結局、円華はご飯を残したまま会計を済ませて店を後にした。二人は歩いてポートタワーへ向かった。展望台まで上るとこの前の校外で見た神戸学院のキャンパスが見えた。

「あれ、この前の神戸学院じゃない?」

 大樹はキャンパスの方を指さしたが、円華はキャンパスがどこにあるか分からなかった。

「どこ?」

 すると大樹は腕を伸ばして円華の肩を自分の方へ寄せた。

「ほら、あっち。」

 この瞬間、付き合って初めて大樹が男前に見えた。大樹の男らしい一面に心がグッと来たのだ。

「ほんとだ……。」

 円華もやっと神戸学院大学のキャンパスを見つけた。その後二人はお互いの友人やたわいもない話をしながら展望台から神戸の山、海、夕焼け、ビルを眺めた。デートが始まって初めてのカップルらしい瞬間だった。しかし、タワーを降りると急な夕立に見舞われた。

「今日はもう十分観光できたし、この辺で帰る?」

 円華は非常用に持ってきておいた折りたたみ傘を差しながらそう言った。

「俺、傘持ってきてないんだけど。」

 ずぶ濡れになる大樹を見て、円華はまた一気に気持ちが冷めた。このまま別れたいとも思ったが、これからまた好きになるかもしれないとその思いをかき消した。円華は傘を差しだして、相合傘をして駅まで向かった。電車に乗ると大樹は居眠りをして、大樹の最寄り駅に近付くと円華は大樹を起こした。

「今日はありがとう。」

 大樹は眠そうな声でそう言って、円華はこちらこそと手を振って解散した。手を繋いだりハグやキスをしたりすることはなかったが付き合って初めてのデートは終了した。円華は家に帰った後、ポートタワーでの出来事を思い出していた。やっぱり自分は大樹のことが好きだと思い込み、大樹に“ありがとう”とLINEでメッセージを送った。数秒後、大樹はお辞儀したスタンプで返信した。

 

 ゴールデンウィークが明けて、普段の生活が再開した。ただでさえ連休明けはしんどいのに、連休明け早々に部活があった。

「円華はゴールデンウィークどうだったの?」

 何も知らない愛実はふとそんなことを聞いてきた。

「特に何もしてないかな。強いて言えば家でテレビ観てた。愛実は?」

 愛実とは基本何でも話せる仲だが、大樹と付き合っていることだけは言えなかった。

「私は空手の地区大会に出たんだけど、地区ベスト八に入ったから今度は県大会に出場することになった。」

「そうなんだ、すごい、おめでとう。」

 愛実は運動もできてお茶も手際よくこなしていて輝いて見えた。円華は今日も鬼山に柄杓の使い方が違うと叱られ、気分はどん底に堕ちていった。

 

 その夜、気分を晴らすために大樹に電話したいとLINEした。しかし、大樹は“ごめん、今日はゲームのイベントがあって無理。”と誘いを断った。その次の日も円華は電話がしたいと言ったが大樹は“別の友達と電話の約束がある”とまた誘いを断った。こうして、円華は自分に構ってくれない大樹に苛立ちを覚えた。

『ねぇ、私とゲームどっちが大事なの?』

 怒りを募らせた円華はLINEで大樹にそう訊ねた。

『どっちも。』

 数秒後、大樹はそう返信したが円華の怒りは収まらなかった。

『じゃあ、今度いつデートしてくれるの?』

 そう聞くと大樹は一時間後に返信した。

『来週の日曜日なら部活オフだから行けるかも。俺の家に来ない?』

 大樹からの返信に円華は困惑した。これはもしかしてと大人の恋愛漫画で見るような光景を想像した。

『違うところにしない?今度は和歌山とか行こうよ。流石に大樹の家は親御さんにも悪いし……。』

 円華はそう返すと大樹はすぐに返信した。

『俺の家なら大丈夫だ。』

『家ってあの帰りに大樹が降りた駅で降りたら良いんだよね?やっぱり他のところにしない?』

『うん、その駅。降りたら真ん前のコンビニから一本道だからすぐに分かると思う。木造建ての家で、バスケットゴールが目印。他の場所なら会うのやめる。』

 大樹は自宅でデートをしたいの一点張りで他の選択肢を許さなかった。円華は嫌な予感がしつつも渋々大樹の家に行くことになった。

 

 約束の日曜まで円華は毎日大樹と通話したいと言ったが、大樹は何かと理由を付けてその誘いを断った。学校でもアイコンタクトや目配せをしても大樹は目も合わせなくて冷たい態度を取ることが増えた。円華は折角できた彼氏を繋ぎとめたくてあの手この手でコミュニケーションを取ろうとしたが大樹がそれに応じることはなかった。

 

 時がダラダラと流れて日曜日になった。円華はお気に入りのブラウスとスカートに着替えて家を出て、大樹に言われた通りの駅を降りて例の一本道を見つけた。円華が住んでいる街に比べてずっと田舎の町で辺りは田んぼや畑に囲まれていて、駅の真ん前にコンビニがポツンと建っていた。その隣に広い道路があり、円華は大樹の家に向かってひたすら歩いた。ところがいくら歩いても大樹の家らしき家は見当たらなかった。

『駅についたから歩いているんだけど家ってどこ?』

 円華はそうメッセージを送ると大樹は数分後に返信をした。

『宮坂神社の近く。』

 しかし、宮坂神社らしい建物はどこにもなく、スマホで地図を見ると宮坂神社はさらに八百メートル先であまりの遠さに言葉を失った。円華が宮坂神社に着いたのは駅に着いてから四十分後のことだった。そろそろ大樹の家に着くだろうと思ったが、一本道であるのにも関わらず大樹の家は見つけられなかった。

『宮坂神社に着いたんだけど家はどこ?』

『今そっち行く。』

 大樹はようやく円華の方へ出向き、それなら駅から迎えに来てほしかったと苛立った。もっと言えば、円華に自宅へ来てほしいと言った時に住所の一つぐらい教えて欲しかったと思ったが、住所を聞かず大樹の家と駅の距離のことに頭が回らなかった自分が腹立たしかった。

 大樹は三分後に円華の待つ宮坂神社に着いた。この日の大樹は無地の黒Tシャツにジーンズとクロックスを履いていて、円華としてはこっちの服装の方が好みだった。

 

 大樹は円華を案内し、神社のすぐ隣にある信号を右に曲がり小さな橋を渡ると木造二階建ての大きな日本家屋があった。庭にはバスケットゴールがあり、確かに大樹が言っていたような家だった。

「ここが俺の家。入口はこっち。」

 大樹は引き戸をガラガラと開けて円華を自宅に入れた。円華は“お邪魔します”と入るが、中に人がいる気配はなかった。

「今、親は出掛けてるから。」

 そう言って大樹は一階の自室へ円華を案内した。部屋はグレーのカーペットが敷いてあり六畳ほどの広さでテレビ、クローゼット、ゲーム機、本棚、勉強机、シングルベッドがあった。円華はちょこんと床に正座した。大樹はそんな円華などお構いなしにベッドに座ってスマホをいじりだした。

「ちょっとそれはないんじゃない?」

 彼女をこんな遠い家に呼び出しておいて何も言ってこない彼氏に円華は苛立った。

「じゃあ、カラダ触って良いの?」

 想像していたシチュエーション通りのセリフが返ってきて、円華は言葉を詰まらせた。

「何するつもり……?」

「そんなの決まってるだろ。」

 そう言って大樹は円華の手を強く引っ張ってベッドに座らせた。

「え、まさか……。本気……?」

 怪しく頷く大樹に円華は恐怖心を覚えた。そして、僅かなスキをついてベッドから降りた。

「なんで逃げるんだよ。」

 円華は恐怖心のあまり声が出なかった。すると大樹はまた円華の手を引っ張ってベッドに座らせた。そして今度は寝ころばせた。

「キスぐらい良くない?」

 大樹は円華の耳元でそう囁いた。円華は気持ち悪さのあまり大樹の顔を見れなかった。円華は本能的にファーストキスの相手に大樹を選びたくないと思い、必死に抵抗した。

「そういうところだよ。」

 大樹は襲おうとしていた手を止めてベッドから起き上がった。

「普通家に誘った時点でこうなることは想像できなかったわけ?エロ漫画とか読んだことないの?」

 円華は鋭い目つきをする大樹に何も言い返せなかった。

「もう俺たち友達に戻らない?」

 大樹の声は冷めきっていた。円華はこんな状況になってもやっと手にした彼氏持ちと言うステータスを何が何でも捨てたくなくて首を横に振った。

「もう俺たちは終わり。そっちはアニメもゲームも興味ないだろ?だから話してても詰らないんだよ。カラダの関係も無理っぽいし。初めて彼女だから色々期待したけど。」

 大樹はまたスマホをいじり始めた。

「じゃあなんで私と付き合おうと思ったの?」

「可愛くて良いカラダしてるから。」

 円華は床に置いてあったテニスの雑誌を拾って丸めて筒状にして大樹の頭を思いっきり叩いた。

「痛いな、何すんだよ。」

 円華は涙を流しながらこう答えた。

「こんなの恋愛じゃない。」

 円華はそう言い残して大樹の家を飛び出した。宮坂神社の近くにバス停があることに気付き、二十分後にバスが来ることを確認すると泣くのを堪えてバスを待った。すると、大樹が追いかけてきた。

「ごめん、俺が悪かった。友達に戻るけど仲良くしてほしい。」

 円華は自分がカラダ目当てでキープされていることに勘付き、黙って首を横に振った。

「もう何もしないから。」

 大樹は必死になって言うが円華にとってこの言葉ほど信用できないものはなかった。

「もう別れるけど今日のことはなかったことにしてほしい。いっそのことゲームと付き合えば?」

「俺はゲームに課金してて、今はもう六十万ほど課金してる。それでも女は別なんだよ。」

 円華は大樹が言っていることに訳が分からなくなって混乱した。大樹の言動を思うともう彼氏とかステータスとかどうでもよくなってきたのだ。それより、巨額の課金へのショックがあまりに大きかった。自分は今までこんな人と付き合っていたと思うと血の気が引いた。

 バスが予定より少し早い時間に到着して、円華はさっさとバスに乗った。大樹はあれ以上何も言わないまま黙って自宅へ帰っていった。こうして、円華の初恋愛は僅か二十日あまりで幕を閉じた。しかし、円華にとっての地獄はこれからだった。

 

 翌日、やっとの思いで学校に着くとクラス中の視線が円華に集中した。そして、クスクスと笑う声が聞こえた。既に登校していた牧田がスマホからTwitterの画面を見せてきて、そこには大樹らしき人が円華の悪口を書き込んでいた。“田辺が急にいきなり俺の家に押し掛けてきた”、“田辺が急に服を脱ぎだした”、“俺は田辺にバス賃を渡して追い払った”と事実を捻じ曲げたことが書かれてあった。円華は“違う”と必死に否定したが牧田はそれを信じようとしなかった。牧田は神崎たちと一緒になってコソコソと笑った。クラスの誰もが円華のことを信じようとしなかった。大樹が登校すると大樹は知らん顔をして、肘をついてスマホをいじり始めた。なぜあんな書き込みをしたか聞きたいところだが大樹は一言も言葉を発さなかった。クラスには円華の味方は誰もいなかった。

 

 放課後、円華は部室で愛実に大樹との一連の出来事を話した。すると、さらに残酷な言葉が返ってきた。

「ねぇ、本当はあんなやましいことしてたから今まであいつと付き合ってたの黙ってたんでしょ?今朝大樹から聞いたんだけど私のことブスのくせに茶道が上手くて生意気って言ってたの?そんな風に私のこと見てたんだ。」

 大樹は愛実にまでありもしないことを吹き込んでいたのだ。円華は否定したが、どういうわけか愛実も円華のことを信じてくれなかった。稽古が始まっても愛実の態度は冷酷なままだった。そして、円華の稽古の番になったが心ここにあらずと言わんばかりに稽古に身が入らなかった。するとうっかりお点前の畳を歩く歩数を間違えてしまった。

「田辺さん、あなたはいつになったらお点前ができるようになるの。これじゃいつまで経ってもできるようにならないわよ。」

 鬼山はまた円華を叱り、愛実は陰でひっそりと笑っていた。鬼山の厳しい説教よりも愛実の笑っている顔の方が心に堪えた。円華の頭はパニックに陥った。

 もう一度最初からお点前をすると、円華は釜の湯を炊き忘れていることに気付いた。慌ててお湯を沸かすとうっかり手を滑らして釜の湯を作法室中にまき散らしてしまった。

「いやーーーーーーっ」

 円華が顔を上げると鬼山の顔は熱湯にかかって酷く濡れていて大火傷を負っていた。愛実も頬や手に熱湯がかかっていてこちらも火傷を負っていた。幸い円華の方へは湯がかかっておらず無傷だった。

「えっ、どうしたの?」

 その日に限って早く職員会議が終わった藤原はずぶ濡れの作法室を見て啞然とした。そして火傷を負った鬼山と愛実を保健室へ連れ出した。その後、藤原は円華を責めることなく“あなたは無事でよかった”とサラっと受け流していた。愛実は火傷で手を痛め、県大会出場を棄権することになった。これを知った円華は心のどこかで気分がスカッとした。

 

 数日後、大樹はゲームの課金制度を利用して中国の犯罪組織と違法取引をしていたことが発覚して高校を強制退学させられた。円華は狂ったように笑った。

 

 一年後、円華は茶道部を引退し、高校を卒業して数年たった今も高校二年の春を“狂気の春”と呼んでいる。