好きでもない人

短編/伊藤紫恋

 

「じゃあ行ってくる」

 

「香織またあいつの家に行くの?やめときなよ」

 

 ルームメイトの清美からの忠告。親の声より聞いた台詞。

 

「大丈夫だって、私と幸助はそういう関係じゃないから」

 

 清美の反論を聞き終わる前に、シェアハウスの扉を閉める。今から向かう家の住人、川口幸助は付き合いが十年以上の幼馴染。兄弟のように育ち、お互い実家から離れた後も、こうやって家を訪ねては遊んでいる。遊んでいると言っても、スマブラで戦ったり、映画を見たり、漫画を読んだり、受験後暇を持て余した高校生のようなことをしている。終電を逃してしまった日は仕方なく泊まることもある。ルームメイトの清美は、それがどうも気に食わないらしい。男女二人きりの空間は、過ちが起こると。そんな訳ないと何度も説得してきた。だって、十年以上付き合いのある相手だよ。家族同然に育ってきた相手を、恋愛的な目で見ることもないし、お互いそういう気持ちを持ったことがない。その証拠に、何度も泊まっている私が、幸助に襲われたことは一回も、一度たりともない。だから清美に言い聞かせたい、男女の友情も成立するんだよと。

 

「お邪魔しまーす」

 

 合鍵を使って部屋に入る。右にキッチン、左にバスルーム、廊下の奥まで歩けばベッドが見えてくる。一人暮らしには十分広い1K。青いカバーに身を包んだベッドに、ゲームソフトが積まれたコーヒーテーブル。その先には勇者と配管工の激しい争いを映すテレビ。幸助がヘッドホンをしているからか、部屋はカチャカチャとコントローラーを動かす音だけが響いた。ヘッドホンを思い切りはずし、幸助の耳に近づいた。

 

「お邪魔しまーす!」

 

「うるさっ」

 

 勇者が無防備な姿で崖から落ちる。やっと私に気づいた。

 

「今日は洗濯物散らかってないね」

 

「香織がちゃんとしろってうるさいからな」

 

 文句を言いながらも、キッチンに消えていく幸助。いつものように私の大好きなココアを淹れてくれているのだろう。その間にコントローラーを手に取り、勇者からピンクの丸い生き物に変身してゲームを始めた。

 

「はい、お嬢ちゃんココアでちゅよー」

 

「そこ置いといて」

 

 しばらくして、氷たっぷりのココアとブラックコーヒーを持った幸助が隣に座ってきた。幸助のふざけた口調に突っ込む暇もなくゲームに集中する。

 

「香織、いくら何でもそのスカート短すぎないか?」

 

 ひらひらとスカートを触られる。そのせいで気が散ってしまい、ピンクの丸い生き物は崖を掴むことなく落ちていった。

 

「いいじゃん暑いんだもん。てかあんたのせいで負けちゃった」

 

 コントローラーを床に置くと、ピンクの丸い生き物のように、目の前の物を吸い込みそうな勢いであくびが出た。

 

「どうした寝不足か?」

 

「徹夜してレポート仕上げたからね」

 

 しばらく寝よう。いつも幸助が譲ってくれるベッドに潜り込む。ココアの入ったガラスの水滴が流れるのを横目に、眠りについた。

 

 

 あれから何時間経ったのだろう。足元の違和感に気づき目を覚ました。生暖かい空気となでるような感触、部屋の明かりはついているのに、なぜか影が覆いかぶさったように暗い。おぼろげな視界が、はっきりしていく。

 

「こう……すけ?」

 

 鼻がぶつかるほど近い距離に、荒い息を吐く幸助。その右手は、私の左の太もも、内側を体温の上がった手でいやらしくなでていた。

 

「香織、お願い」

 

 鼻が当たる。しかし離れることはなく、むしろ唇が近づいてくる。嫌だ、嫌だ!

 

「やめて!」

 

 右ひざを思い切り幸助の腹にぶつけた。ゲーム内の配管工のように倒れる。そのすきに鞄をとり急いで部屋を出る。氷の溶け切ったココアが倒れたけど、どうだっていい。今すぐこの吐き気を催す気持ち悪い空間から逃げたかった。

 

『私と幸助はそういう関係じゃないから』

 

 スポットライトのように光る街頭をくぐる帰り道、清美に放った言葉が何度も頭をよぎる。私はフラグを立ててしまったのだろうか。最悪だ。幸助も私と同じ気持ちだと思っていたのに。恋愛感情のない、ただの幼馴染だと思っていたのに。あの時、ゲーム好きでずぼらで冴えない幸助が、獲物を狙う、空腹の肉食動物に見えた。暖かいベッドの上にいたのに、全身に冷水をかけられたように鳥肌が立った。なんて少し落ち着きを戻した今なら言える。だけど、その瞬間は一気に語彙力が落ちるほどただ気持ち悪い、気持ち悪いという言葉しか頭に思い浮かばなかった。もうあいつとは、いつもように接することができない。気持ち悪さと同様に、今までの関係が崩壊したことに悲しむ自分もいた。

 

「ただいま」

 

「おかえり。今日は泊まらなかったんだね、よかった」

 

 珍しく清美が出迎えてくれた。水の入ったガラスのコップ片手に。

 

「清美こそ、もう寝てるのかと」

 

「ちょっと眠れなくてさ」

 

これ以上は追及してはいけない雰囲気を変えたのは清美自身だった。

 

「その顔、告られた?」

 

「告られたっていうか、襲われたっていうか」

 

 あの時の感覚がよみがえり、また背筋が凍る。清美の表情といえば、これだから男はとでも言いたそうだった。

 

「香織はどうしたいの」

 

「もちろん幸助の気持ちには答えられない。でも、できるなら友達でいたい」

 

清美の深いため息が耳につく。

 

「無理だね」

 

「は?なんで」

 

「昔の関係を続けたとしても、あっちは一度気持ちを伝えたのよ。友達を装って口説きに来るに違いない」

 

 そんなことない、男女の友情は成立するんだよと反論したかった。でもこの言葉に根拠は一切ない。

 

「いい香織、好きって気持ちは、振られても簡単に消えないの。何回振られても、相手ができたとしても」

 

「なにそれ、そんな気持ち微塵もない私からしたら、迷惑でしかない」

 

「かーおーりー」

 

 ほっぺがちぎれそうないくらいにつねられる。痛い。

 

「男の部屋にミニスカで訪ねるあんたにも非があるんだから」

 

「でもそれは」

 

「うるさい。少しは自分の行動に反省しなさい」

 

 飲み干されたコップをテーブルに置いたまま、部屋へと戻る清美。つねられたほっぺがまだ痛む。赤いチークを塗りすぎた女が完成しちゃったよ。

 

 私の非。男の部屋に上がり込んだこと、ミニスカートを着ていったこと、何度も泊まったこと。この行動が、あたかも私が幸助に気があるように見えたってこと?確かに、ミニスカートはまずかった。育ち盛りの男子学生の家に終電逃して泊まるのは気があるようにしか見えないというツイートを見かけたことがある。反省しよう。自分の思わせぶりな行動について謝って、鍵を返して、しばらく関わるのをやめよう。

 

 スマホの通知音が鳴る。幸助からだ。

 

『謝りたい。明日の昼休み、大学の中庭まで来てほしい』

 

 返事を送ることも、スタンプを押す気にもならない。既読無視の状態のまま、次の朝を迎えることにした。

 

 

 

 半袖の上に七分袖のカーディガン、下は紺のスキニージーンズと、なるべく露出度の低い服装で中庭にある立派な木の前で待つ。昼食は唐突に吐き気と気持ち悪さに襲われ、カロリーメイト一本の半分しか喉を通らなかった。どうしよう。この調子じゃあ幸助の顔を見た瞬間、胃の中にあるものすべてリバースしてしまいそうだ。

 

「吐き出したらごめんね」と意味もなく立派な木に話しかける。そういえば、この木の前で告白すると、必ず成功するという、最近できた謎のジンクスがある。そのジンクスが流行ってからどれだけの学生が告白して、成功したかはわからないが、千年以上生きているであろう立派な木の前でこっ酷く振るシーンを見せるのは少し申し訳ない。

 

「香織!」

 

 やばい、来た。口を両手でおさえ、ぎゅっと強く瞼を閉じる。ああ振り返りたくない。嫌でもわかる、背後に幸助がいる。ゆっくりと右に回れば、大きな木が視界から消え、この世で一番見たくない顔が視界に入る。飼い主に怒られたワンコのようだった。可愛くしたって許さんがな。

 

「ごめん、気持ちが抑えられなかった」

 

 また影が覆いかぶさる。身動きが取れない。もしかして、背中に手を回されてる? ああどうしよう、吐きそう。他人の体温が直接当たることで、いやでもあの光景がよみがえる。口に抑えていた手を放し、息を止めて幸助の腕を振りほどく。一層広がったパーソナルスペース分離れ、罵倒を脳内で並べた。

 

「私は一切幸助にそんな感情持ったことないし、これからも持つことはない。その気があるように振る舞ったことは謝る。でもあんな事されて軽くトラウマになったし、あんたの顔見ただけで吐きそうなの。本当は友達でいたいけど、その恋心引き続けるなら、もう会いたくない」

 

 言ってやった。これでも優しく振ったつもりだ。幸助は黙ったまま。と思いきや、盛大なため息をついた。

 

「ありがとう、ようやく諦めがついた」

 

「……は?」

 

幸助は続ける。

 

「正直香織から諦めのつく言葉を言ってくれるの待ってたんだ」

 

 待て待て待て意味が分からん。

 

「おかげですっきりしたし、振られて悲しいと思ってない」

 

 ちょっと待て。振られたことで幸助は諦めがついた。一番に望んでいた展開だ。でもなぜだろう、無性に腹立たしい。

 

「これで俺たちは “友達”ってことでいいよな」

 

「あ、うん。でもしばらく会いたくないな」

 

 この男、人にトラウマ植え付けておいてなんて自分勝手なんだ。本当に私のこと好きだったかすら疑わしくなる。

 

「そうだ、今度動物園行かね?」

 

「私の話聞いてた⁉」

 

いや、そもそも私は人間と会話していたかも疑わしい。もう手に負えないよ。

 

「もういい、ラインもブロックしたから。これから連絡も、愛に来るのも一切やめて。家族がらみで会うことがあっても絶対話しかけてこないで。あとミンティア食っとけ口臭いのよ」

 

 そう言い残し、中庭から離れる。こんなこと言ったとしても、どうせ明日には忘れて、また会いに来るだろう。あいつから逃れる解決策はまだ見つからない。とりあえず今は、どの服を着て実家に帰ろうかだけを考えることにした。