令和のシンデレラ

長編/月夜見

 

 ここは一七世紀のフランスではなく、令和の日本。有瀬という街に新出(しんで)レイラという二〇歳の娘がいた。レイラは一人っ子で両親からたくさんの愛情を受けて大切に育てられてきた。

新出家では母の明子が、神戸牛を焼いたステーキに手作りのデミグラスソースで味付けをしていた。そして、皿の端に野菜を盛り付けてテーブルに並べた。明子は娘のレイラと夫の健一郎に、ご飯ができたことを知らせるベルを鳴らした。ベルの音を聞いた二人はすぐに食卓へ向かった。

 

 料理を目にすると、レイラはポケットからスマホを取り出し、ステーキの写真を撮り始めた。

「わぁ、今日はステーキかぁ。美味しそうだね、パパ。」

 撮影がひと段落したレイラが健一郎にそう言うと、健一郎は呆れたような顔をした。

「こらこら、ステーキが冷めるぞ。全く、最近の子はSNSに夢中になって、食への感謝が薄れてきているな」

 折角のステーキの席を父の怒りで台無しにしまいと、レイラはスマホを慌てて片付けて席に着いた。家族全員で手を合わせ頂きますと挨拶をし、三人はそれぞれナイフでステーキを切った。肉汁が溢れ出し、ステーキの香ばしい匂いが部屋を包みこむ。レイラたち一家は幸せな気持ちでいっぱいだった。だが、ステーキを食べ終えると明子は少し悲しそうな顔をした。

「レイラちゃんのお誕生日はまだ半年先なんだね」

 レイラはなぜ母親がそんなことを言い出すのか、全く見当がつかなかった。

「ママ、もしかしてそれでこんなステーキを用意したの? 気が早すぎるよ」

 明子はそうだねと虚しそうな笑顔を見せた。

「レイラ、今度のチェロのコンサートの練習は進んでいるか?」

 健一郎は今度は優しい口調でそう聞いた。

「もちろん。今日もレッスンで先生に褒められてきたよ」

「レイラちゃんの発表、ママも楽しみだわ。うっ、ゴホッゴホッ」

 明子はいきなり胸を押さえて咳き込み出して意識を失った。

「おい、明子、大丈夫か。」

 健一郎は必死になって明子の肩を叩くが明子は目を覚まさなかった。レイラはポケットからスマホを取り出し、救急車を呼んだ。救急車が着くと、明子は街で一番大きな病院へと運び込まれた。ICUでの治療を経たのち、彼女は酸素マスクを着けられ、病室の白いベッドに横たえられた。

 

 一方、母を欠いた核家族──新出家の面々は、暗い診察室で、医師の診断を聞いた。医師は暗い表情のままそれを告げる。

「残念ですが、奥様はかなり前から肺に腫瘍があり、お体を悪くしています。あと数時間しか持たないでしょう。どうか、最後のお別れをしてください」

 医師からのあまりに衝撃的な宣告にレイラと健一郎は顔が青ざめた。

 看護師に案内され、複雑なつくりになっている病院の廊下を歩いている時にも、その衝撃は拭うことができなかった。

「ママ、噓でしょう? ねぇ、噓でしょう……?」

 レイラの声は震えている。

「今まで俺たちに何を隠していたんだ。こんなことになるくらいなら……。くそう」

 歩きながらも、健一郎は夫として妻の異変に気付けなかった自分を責めていた。

 

 突き当りにある病室にたどり着くと、二人は明子に駆け寄った。

 二人の前で、明子は目をゆっくりと開いていった。瞬間、健一郎は明子の左手を握る。

 ふと、レイラは明子の目線が、自分の方に向いていることに気づいた。

「レイラちゃん、あなた、隠していてごめんなさいね。結局最後まで打ち明けられなかった。レイラちゃん、ママと、一つだけ約束してほしいの」

 明子は弱り切った身体から懸命に言葉を発した。

「約束……?」

 レイラは嗚咽が込み上げるのを必死にこらえた。

「出会い系サイトで変な男に掴まらないこと。良いわね」

 レイラはキョトンとした。まさか母親の最期に出会い系サイトという言葉を聞くとは夢にも思わなかった。

「えっ、そんなことか。他にもっとなかったのか」

 健一郎も同じように思ったのか、少し呆れた様子だった。

「そんなことって。私たちだって出会い系サイトで出会ったじゃない。でも、私はあなたのお嫁さんになれて良かった」

「そうだけど……。俺も明子の夫で良かったよ。」

「えっ、パパとママは出会い系サイトで……」

 レイラは両親の出逢ったきっかけが出会い系サイトだったことを知り、さっきとはまた違う意味でショックを受けた。

「わかった、どんなにイケメンでも軽々とついていかないようにするね」

 レイラは小指を母親の右手の小指に絡めて指切りをした。

「良い子ね、レイラちゃん、パパを頼んだわよ」

 明子は優しく微笑んで、息を引き取った。

 

 レイラと健一郎は悲しみに明け暮れ、一家は暗い空気のままだった。

 しかし、健一郎は会社の経営者で、いつまでも家で塞ぎ込んでいるわけにはいかなかった。家族や社員に悲しみや夫としての無念さをぶつけるわけにはいかないと思った健一郎は毎晩バーに通っては飲んだくれていた。そんな中、ある女と再会した。

「あら、もしかして健一郎くん?」

 カウンターの隣の席から健一郎に声を掛けたのは初老の女だった。

「ん……?ひ、寛子(ひろこ)さん……?何年ぶりだ……。相変わらず綺麗だ。ついに僕はここまで酔ってしまったのか」

 健一郎の前に現れたのは高校時代に通っていた塾の講師だった寛子だった。当時は若くて美人でスタイル抜群で明るい性格で教え方が上手で生徒から人気の講師で、男子なら誰もが彼女に憧れていた。少し老けたものの、当時とほぼ変わらない美しさを保ったままの寛子は呆れたようにため息をついた。

「大丈夫。あなたはまだシラフよ。まぁ、顔は真っ赤だけど。いつもここで飲んでるの?」

 二人は数十年ぶりの再会というのに寛子は冷静で、まるで昨日も会っていたかのように話していた。

「最近は、まぁ……」

 寛子はまた呆れたようにため息をついた。

「奥さんは? お子さんだっているでしょう? 帰らないといけないんじゃないの? それにあなたは大手の社長って聞いたわ。いつまでもこんなところにいて良いわけ?」

 寛子がそう言うと健一郎は涙をこぼしながら今まで起きたことを話した。

「なるほどね。それはさぞお気の毒に……」

 健一郎の話に動揺を隠しきれなかった寛子は片手に持っていたワインを一口飲んだ。

 

 それからというもの、健一郎と寛子は毎晩バーで会うようになり、時には夜明け前まで語り続けることもあった。そんなある夜のことだった。

「ねぇ、私たち一緒にならない?もう奥さんが亡くなって二か月でしょう?四十九日も済んだことだし、そろそろ次に進んでも良い頃だと思うわよ。お子さんのためにもね。」

 寛子は健一郎の手に自分の手を重ねながらそう切り出した。

「け、結婚ということですか? だって寛子さんには旦那さんと娘さんがいるじゃないですか。それに僕たちの歳の差だって……。今日は一段と酔っていますね。僕がご自宅までお送り致しますよ」

 しかし、寛子は首を横に振った。

「私は平気よ。夫とはもう何年も前から上手くいっていないの。前から別居しているし、あの人には他の女だっている。きっと私たちが一緒になるようにできているのよ。二人の娘たちはもう大きいし、あなたのお子さんの良いお姉さんになるはずよ。お子さんって言ってもあなたの娘さんはもう二〇歳よね。あなたでさえ私から見ると子供に見えてしまうの」

 そう話すと寛子の方から婚約指輪を渡した。

「普通、婚約指輪って男性から女性に渡すのが筋じゃないですか。いくら寛子さんからでも困りますよ。まだレイラの気持ちも聞いていないし。これはお返しします」

 すると寛子は手のひらを返したかのように態度が急変した。

「そうですか、そうですか。じゃあ、私この後海に飛び込むわ。夫からも誰からも愛されないなんて。そうよ、皆若い子が好きなのよ。こんなおばさんなんて誰も相手にしてくれない」

 寛子はハイヒールを脱いでバッグからロープを取り出した。

「まさか、本気じゃないだろうな……?」

 健一郎が恐る恐るそう聞くと寛子は何も言わず店を飛び出した。

「わかった、わかりましたよ。寛子さんと結婚しますよ。だから、海になんて飛び込まないで下さい」

 本当に自殺する勢いで飛び出した寛子を目の前に健一郎はプロポーズを受けるほかなかった。少々強引で幼稚な態度にも思えたが、寛子の荒れた言動を始めて見た健一郎は動揺のあまりまともな判断ができなくなっていた。

 

 寛子の離婚が成立してまもなく、二人は入籍し、寛子は二人の娘を連れてレイラたちの住む家へ引っ越した。

「レイラ、この人がお前の新しいお母さんの寛子さんだ。昔パパが通っていた塾の先生でな。この前数十年ぶりに伊川谷のバーで再開したんだ」

 レイラに新しい母親を紹介すると、寛子はニッと笑った。

「この子がレイラちゃんね。品があって可愛い子。お父さんに似て頭も良さそう。こんなオバサンだけどお母さんと呼びなさいね。エリカ、ヒメカ、こっちへいらっしゃい」

 寛子は二人の娘を自分に似た自慢の娘だと紹介した。しかし、レイラと健一郎はいかにも意地悪そうな雰囲気が漂う娘たちを歓迎する気になれなかった。

「初めまして、レイラです。これからよろしくお願いします」

 レイラがそう挨拶しても二人は不愛想で軽く会釈しただけだった。

「いつもはもっと元気で素直なんですよ。今日は初対面だからその……。もう二十七歳と三一歳になるのにおかしいわね。まぁ、その内元に戻りますわ」

 寛子は苦笑いしながら二人の娘を必死にフォローした。

「お二人ともレイラより随分お姉さんですね」

 健一郎も気まずい雰囲気にならないように当たり障りのない言葉でその場を繋いだ。

「まぁ、十歳以上離れていますから。レイラちゃんの目、パッチリ二重で羨ましいわ。きっと前の奥さんに似ているのね。そうでしょう?」

 寛子がそう言うと健一郎は悲しそうな顔をした。

「ああ、そっくりなんだよ、明子に」

 寛子は優しい表情をして健一郎の頬を撫でた。

「まだ奥さんの死から立ち直れていないようね」

 寛子のその行動にレイラはどこかショックを受けた。

 

 それから数か月間、レイラは趣味のチェロに打ち込みながら日々の生活を送っていた。チェロのコンクールが近づき、父に練習の成果を見せようと努力していた。

「パパ、今度の休みはまた出張?」

「そうだよ、今度はドイツに行かないといけなくて。コンクールには間に合うように帰るようにするよ。お土産は何が良い?もうすぐ誕生日だろう」

「誕生日なんか気にしないでよ、パパ。お土産は、パパが無事に帰ってきたらそれで良い。でもコンクールには必ずきて」

 レイラは大きくて濡れたように黒い瞳で父親にせがんだ。

 健一郎はレイラをそっと抱きしめた。

「ドイツでしょ?バーデンの赤ワインが欲しいわ」

「私はエスカーダのワンピースが良いわね」

 ヒメカとエリカはそれぞれの欲しいものをお土産にねだった。

「わかった、ワインとワンピースな。寛子は何が良い?」

「そうね、フェイラーのハンカチが良いかしら」

 寛子は即答だった。

「分かった、ハンカチだな。皆、元気でな」

 健一郎は寂しげな表情で手を振った。

「いってらっしゃい。早く帰ってきてね」

 レイラも寂しそうに手を振ったが後の三人はお土産のことしか考えておらず元気に手を振った。これが父親との最後の別れになるとは知らずに。

 

 数日後、健一郎が帰国するのでレイラたちは晩御飯の準備に取り掛かっていた。

「パパ、ウナギが大好きだからきっと喜ぶだろうな。明後日はチェロの発表会だし、その時にご馳走食べるのもありかなぁ。本当に間に合って良かった」

 レイラはウナギを焼きながら楽しそうに呟いた。

「ねぇ、このミュンヘン発の成田行きの飛行機って、お父さんが乗っているわけじゃないでしょうね……?」

 ヒメカはスマホに速報が通知されたのを確認し、冷や汗をかいていた。レイラは頭が混乱し手が震え、持っていた菜箸を床に落としてしまった。

「飛行機……? 何かあったの?」

 自分の聞き間違いであってほしいと願ったレイラはヒメカに聞き返した。

「ポーランドの山奥で墜落したって」

 聞き間違いではないことを知らされたレイラの顔は青ざめた。

「別の便かもしれないし、お父さんに電話してみたら?」

 エリカの提案でレイラは父親に電話をかけた。もしかしたら父親は別の便に乗っていることを信じたが、何度かけても連絡がつくことはなかった。レイラもスマホで墜落事故について調べると日本人の死亡者リストが発表された。そこには“新出健一郎”の名前が記されていた。寛子は慌ててテレビをつけた。そこにも墜落事故が速報で流れていて、日本人の死者について報道されていた。四人は唖然とし、言葉を失った。

「私たちこれからどうなるの……?」

 エリカがポツリと呟いた。

「とりあえず、私が会社と財産の大半を引き継ぐことになりそうね。引継ぎの手続きはどうしたら……。健一郎さんと結婚してまだ少ししか経っていないのにこれじゃあんまりよ」

 寛子は悲しそうにそう言っていたが内心は自分のことしか頭になかった。

「これじゃお土産も燃えたよね。残念」

 ヒメカの冷酷な態度にレイラは失望した。

 

 数日後、健一郎の部下の飯塚がレイラたち一家を訪ねてきた。

「この度は突然のことで、新出社長になんとお悔やみ申し上げたら良いことか……。本当に残念でなりません」

 飯塚は健一郎を心から慕っていて、涙を堪えている様子だった。

「あのそれで、夫の会社の方はどうなるのです?」

 寛子は真剣な目つきでそう聞いた。

「役員で話し合ったのですが、今後は副社長に引き継がれます」

 寛子は健一郎の訃報を知った時よりも真っ青になっていた。

「ということは、夫の会社はもう私たちの物じゃなくなるのですね。では財産はどうなるです?」

「ええ、そういうことになります。健一郎さんの財産は前々からのご本人のご意向で全て途上国の慈善団体に寄付されます」

 寛子の心は怒りと悲しみが入り混じり、絶望感で溢れていた。

「じゃあ、何のためにあんな手を使ってこんな結婚したのよ」

 寛子は誰にも聞こえないような声でそう呟いた。

 

 その日から寛子はレイラに冷たく当たった。

「レイラ、朝ご飯まだできていないの?」

「はい、ただいま。今日はお母さんの好きなポトフにするね」

 レイラは寛子の機嫌が少しでも良くなるように必死に振舞っていた。

「レイラ、昨日の洗濯物どこにやったの?」

「そこのタンスの二番目の所に片付た」

「レイラ、また庭の草が生えているわよ」

「草を刈った後、除草剤撒いておくね」

 寛子に乗っかってヒメカとエリカもレイラを家政婦のように扱った。

「あと、そのお母さんっていう呼び方やめてくれない?今度からは寛子さんと呼ぶこと。良いわね?」

「これはお母さんがそう呼んでって言ったじゃない」

 寛子のあまりの理不尽さにレイラは段々と苛立ちを覚え始めた。

「その時と今じゃ状況がまるで違うの。もうあなたのお父さんはここにいない。あなたには何の価値もないの。そんなことも分からないわけ?」

 あまりに冷酷な返事にレイラは返す言葉がなかった。唯一チェロだけがレイラの味方となった。

「さぁ、今日はこの曲を弾こうかな。そうだ、久しぶりにインスタに載せてみよう」

 レイラはスマホのカメラに向かってチェロでクラッシックを演奏し、インスタに投稿した。

 

 そんな中、姉のヒメカとエリカはあることにハマっていた。

「ねぇ、この男かっこよくない?」

 ヒメカはニヤニヤしながらスマホの画面をエリカに見せた。

「キムタクに似てるのね、いいんじゃないの? しかも年収千五百万でしょう? 会うだけあってみたら? 私はこの男と良い感じなの」

 エリカもニヤニヤしながらスマホの画面を眺めていた。

「どれどれ? 税理士なのね、ふ~ん、悪くないんじゃない?」

 二人の姉は結婚を意識しだして、マッチングアプリを始めたのだ。二人の会話が聞こえたレイラは母と交わした約束をふと思い出した。

「これだけ可愛い娘たちだから、男たちも勝ち取るのに必死でしょうね」

 寛子は二人のアプリで婚活するのを後押ししていた。

「今度早速デートなんだけど、どの服が良いかしら」

 ヒメカはクローゼットの服を見ながらどの服を着るか迷っていた。

「そうね、相手はどんな人がタイプって言っていたの?」

「清楚系女子だって」

「なら、バーバリーのワンピースとか良さそうかも」

「それにする。ちょうどメルカリで安売りしていたし」

「今度私も会うんだけど、服を買うお金とかないわ」

 エリカがそんなことを言っているとヒメカはとんでもないことを思いついた。

「レイラのチェロ売ればいいんじゃない?」

 二人の会話を聞いたレイラは慌てて二人の元へ駆けつけた。

「これだけは譲れないです。唯一の両親の形見なので」

 レイラは頭を下げてそうせがんだ。

「あんたの服はとっくに売りさばいたけど、それはだめなのね。分かった。なら場所も取るし、壊せばいいのよ。どうせ、あなたは一文無しの小娘に過ぎないんだから」

 ヒメカはそう言ってケラケラと笑った。

「そんな……それだけはやめて。あなたも血の通った人間でしょう? どうしてそんなことができるの?」

「親ガチャ成功者でのほほんと生きてきて何の苦労も味わったことのないようなあんたのことが嫌いだからよ」

 ヒメカは大きな声でそう言った後、チェロを持ち上げて床に叩き落とし、大きな音を立てて壊した。

「そんな……どうして……? どうしてそんなことができるの……」

 壊れたチェロを目の前にレイラは泣き崩れた。

「あんたがチェロなんて生意気なのよ。」

 

 居ても立っても居られなくなったレイラは家を飛び出した。

「パパ、ママ、ごめんなさい……。この音色だけがパパとママと繋がっていたのに……。これだけは何が何でも守るって決めていたのに……。もうどうしていいのか分からない」

 レイラは空を見上げて両親に謝っていると、後ろから二〇代前半ぐらいの男に声を掛けられた。

「お姉さん、なんでこんなところで泣いているの?」

 レイラが振り返るとそこには金髪で紫色の派手なジャージを着た青年がいた。

「泣いてなんかいないです、何でもないです」

 この人は危険だと察知したレイラはその場から去ろうとした。

「ちょっと待ってよ、お姉さん。その顔は何かあるだろ。俺、何もしないから話聞くよ?」

 しかし、青年はレイラを呼び止めた。

「いいえ、結構です。お構いなく」

 レイラが冷たくあしらっても男は去ろうとはしなかった。

「そんなことだけ言わずにさ、インスタだけでも交換しようよ」

「だから、結構です。失礼します」

 これ以上ここにいては何されるか分からないと思ったレイラは走って逃げた。

「ふ~ん、可愛いなぁ」

 男はボソッと呟いた。

 

「レイラ、どこに行ってたの?勝手に外出するなんて。今夜は夕飯抜きね」

 家に帰ると寛子がカンカンに怒っていた。

「寛子さん、ごめんなさい。でも、お姉さんにチェロを壊されたんです。あんまりじゃないですか」

 レイラは必死に訴えても寛子は呆れたようにため息をついただけだった。

「それがどうかしたの?前々からあのチェロは場所を取るし邪魔だったのよ。確かにあなたのお父さんは音楽を愛していた。でもそれはもう過去の話よ。さぁ、レイラはご飯のしたくもしていないし今夜は三人で大丸百貨店までご飯行くわよ」

 こうして、寛子たち三人はレイラをおいて夕食へ出掛けた。

 

 時は流れ、ヒメカとエリカがそれぞれ出会い系アプリで知り合った男性と会う日がやって来た。

「ねぇ、ママ、この服とこの服アマゾンで買ったんだけどどっちが清楚に見える?」

 ヒメカは赤色のワンピースか白色のブラウスで行くか迷っていた。

「そうね、左の服の方がエレガントだわ」

「ねぇ、ママ、このバッグとこのバッグどっちがいい?」

「そうね、こっちのバッグの方が可愛いと思うわ。二人とも、しっかりハートをキャッチしてくるのよ、良いわね?」

 寛子は二人の娘が早く良い結婚ができることを期待していた。

「じゃあ、私は昔の友人に会ってこようかしら。レイラ、風呂掃除と洗い物と洗濯物の片付け頼んだわよ、良いわね?どうせあなたみたいな貧祖な女を好む男なんていないんだから」

「はい、寛子さん、気を付けていってらっしゃい」

 こうして、レイラは一人で留守番をすることになった。留守番をしている間、レイラはチェロを失った寂しさと悔しさを家事にぶつけるように懸命にこなした。すると、エリカの部屋からあるものを見つけた。

「ナイトクラブ……? エリカ姉さんこんなところに行っていたの。通りで朝帰りが多かったんだわ。それにしても、こんなに踊ってお酒飲んでチャラついて何が楽しいんだろう。でも、きっと踊れば嫌なこととか辛い過去とか忘れられるんだろうな。それで、もしここに運命の人がいて、一緒になったら私は幸せになれるかな」

 レイラがエリカの部屋で見つけたのは深夜クラブのチラシだった。最初はクラブに抵抗があったが、どんどん興味が湧いてきた。

「十九時から朝の四時までやっているのね、今日は誰もいないし、内緒で行ってみようかしら。でも、何を着て行けばいいの?大体の服は売ったか、姉に取られてしまったし。やっぱり、真面目に留守番するしかないな。そうだ、私も出会い系アプリを始めようかな。いや、でもママと交わした約束が……」

 いろんな思いがレイラの脳裏によぎる中、外から声が聞こえてきた。

「今なら二時間一五〇〇円、四時間二五〇〇円、さぁ安いよ安いよ、衣装レンタルがお安いですよ~」

「衣装レンタル?東京や京都とかの観光地で流行ってるやつだよね……? なんでこんなところで?これってもしかしたらクラブに着て行ける服もあるのかな?」

 窓を開けて声がする方向を見ているとアフロヘアで緑色のパーカーに真っ赤なオーバーオールを着ていてサングラスをかけたいかにも怪しそうな中年くらいの男と目が合った。

「よっ、お姉さん、貸衣装とか興味ない?」

 男は嬉しそうにニヤニヤしながらレイラに話しかけた。

「ちょうど着るものに困っていて、クラブに着て行けそうな服とかありますか?」

 レイラは藁にも縋る気持ちで男に訊ねた。

「クラブってあのナイトクラブかい? お姉さん、見かけによらずそんなところに行くんだね。クラブなら、この服とかどうだい?」

 男はスパンコール刺繡の青色のレオタードを出してきた。こんな男に訊ねた自分が馬鹿げていると我に返ったレイラは窓を閉めようとした。

「なら、この服はどうだい?」

「なにこれ、すごく可愛い。この服で行きたいです」

 今度は黒のタイト型のワンピースを出してきた。丈が膝上で胸元が開いていて少々躊躇ったが今の気分を変えたくて思い切ってこのワンピースをレンタルすることに決め、玄関を出て男の元へ向かった。

「分かった。じゃあ、何時間借りたいの?」

「クラブに行くのは初めてで、ちょっと分からないので、明日には返します」

「明日じゃ遅いね。一応、今日中に返してもらうのがうちのルールなんだよ。そうだね、二四時までには返してもらおうかな」

 二四時と聞いた瞬間、某グリム童話の物語を思い出して胸がわくわくした。

「二四時ですね、分かりました。必ず間に合うようにお返しします」

「わかった、じゃあ二四時まであと六時間あるから四五〇〇円ね。靴はどうする?プラス五〇〇円で貸してあげるけど」

 財布の中を見るとほんのわずかなお小遣いしか入っていなかった。この時、レイラは自分がいかに惨めであるかを思い知らされた。

「四五〇〇円……今お金がなくて払えないです」

 レイラが申し訳なさそうにしていると男はポンと手をついた。

「そうか、そういえばお姉さん、さっきこのお金を落としてなかったかい?」

 男は五千円札を片手でひらひらさせながら持っていた。

「いいえ、そんな大金は持っていません」

「そうかい。じゃあ、私が預かっておこうとしよう。おや、丁度このお金は君のレンタル料と一緒じゃないか」

 男はサングラスを外した。いかついと思われた顔はビリケンさんのような優しい顔をしていた。

「そんな他人のお金なんて使えません。今すぐ交番に届けなくては」

「そんなこと言わずにさ。ほら、さっさとしないとクラブが終わっちゃうぞ。わかった、お姉さんの正義感に銘じてお代はいらないよ。そうだ、お姉さんの髪型もアレンジしてあげる。こう見えて私は美容師の資格を持っているんだ。ほら、この椅子に座って。靴は丁度ハイヒールが新しいのが入ったからお姉さんにプレゼントするよ」

「えっ、えっ……」

 男に無理やり椅子に座らされたレイラはメイクアップされ、ワンピースに合わせてクールビューティ風にアレンジされた。 こうしてレイラは貸衣装とヘアアレンジによってまるで別人のような見た目になった。

「よしこれで間違いない。楽しんでくるんだよ。」

「こんなに綺麗にして頂いて、ありがとうございました。」

 レイラはその日一番の笑顔を男に向けた。

「じゃあ、二四時にね。」

 レイラは頷き、バス停の方へ駆けて行くと、車掌のアナウンスが聞こえた。

「神姫バス、三ノ宮行き、間もなく発車します。閉まる扉にご注意ください」

 こうして、レイラは人生初の深夜クラブへと出掛けた。

「へぇー、ここがクラブなんだ。やっぱり、怖い人がいるのかな……。よし、取りあえず入ってみよう」

 レイラがクラブに入るとEDMが大音量で流れていた。周りを見渡すとなんとそこには姉のヒメカとエリカも来ていた。

「うわ……。一番会いたくない人もいるじゃん。何のために来たのか分からなくなってきた。げ、こっちに来るじゃん」

 ヒメカとエリカは酒に酔い、頬に赤みを帯びていて、ひょろひょろと歩き、ヒメカの腕がレイラの肩にぶつかった。

「あら、ごめんなさい、お姉さん。ちょっとエリカ、そのお酒少し私にちょうだい」

 どうやら2人は酔っているのか、レイラがこんなところにいるはずがないと思い込んでいるのか、ぶつかった相手がレイラということに気が付いていなかった。

「さっき、彼が飲んじゃってもうないって」

「あっそ、そういえば結局振られたんだって?」

「あいつ、私が知らないところで三人も女作ってた。しかも、税理士は嘘で、本当はフリーターだって。何が彼女いたことないよ。私のこと騙しやがって……くそう。この日のためにいくら使ったと思ってんのよ」

「まぁ、そんなこともあるって。次よ、次。このカクテル、美味しいわよ」

 エリカはヒメカから貰ったカクテルを一気飲みしながら悔しそうに泣いていて、どうやら、恋は破談になったようだ。一方、ヒメカの隣には男がいて、こちらはうまくいっているようだ。

「ねぇ、ダーリン、このシャンパン開けちゃう?」

「いいんじゃない?」

「じゃあ、開けちゃおうかな」

 ヒメカはシャンパンを栓が硬いと嘘をつき、男にシャンパンの瓶を開けてもらっていた。

「今気付いたけど、そのアイライン可愛いね」

「えぇ、アイライン?そんなところに気付いてくれるなんて、見る目あるわね」

 ヒメカは嬉しそうにグラスにシャンパンを注いでいた。

「可愛いからすぐに分かったよ。君の瞳に乾杯」

「かんぱい」

 その頃、レイラは思わぬ人と再会していた。

「あっ、もしかしてあの時のお姉さんだよね?」

 どこかで見覚えのある男から声をかけられたのだ。

「どこかでお会いしたことありましたっけ?」

「ほら、あの広場で会った。覚えてない?」

 レイラは広場での出来事を思い出し、すぐにその場から去ろうとした。

「ちょっと待ってよお姉さん。あの時はいきなり話しかけて悪かった。それより、今日は泣いてなくて良かった。俺は、ミナト。せめてお名前だけでも教えてくれないかな」

 ミナトは小動物を見るような優しい目で話していて、レイラは直感的にこの人は悪い人ではないと思った。

「レイラって言います。」

「レイラちゃん、よろしくね。あと、敬語じゃなくても良いから。ってかその靴可愛いね。そのヒール何センチあるの?」

 よく見るとミナトは結構男前でレイラの好みの顔立ちだった。

「あ、ありがとう。えっとこれは……」

 レイラの顔は真っ赤になって、下を向いていた。

「あっ、もしかして、緊張してる?良かったら踊ろうよ。ね?」

 ミナトはレイラの手を取り、ミラーボールの側へ連れ出した。

「あの、えっ、え……」

 ミナトはノリノリでダンスを踊り、レイラもそれに釣られて見様見真似で踊っていると、うっかり靴が脱げてしまった。

「そこのお兄さん、踊らない?私と明日を迎えましょう」

 靴を拾ってまた履こうとしている間にミナトは別の女に話し掛けられ、強引に連れ出されてしまった。

「レイラちゃん、またあとでね」

 ミナトは手を振って向こうの方に行ってしまった。振り返るとさっきよりもかなり酔った様子のエリカがいて、メイクもぐちゃぐちゃになっていてかなり悲惨な様子だった。

「レイラ?なんであんたがここにいるのよ」

 ふと時計を見ると時計の針は午後11時半を指していた。

「あっ、もう一一時半だ……。やばい、服を返さなきゃ……。」

「ちょっと、待ちなさいよ」

 レイラはエリカの手を振り払って走ってその場を去った。

「神姫バス、急行有瀬行き、間もなく発車します。閉まる扉にご注意ください」

 こうして、レイラはバスに乗って急いで貸衣装屋まで向かった。貸衣装屋に戻ると、さっきの店主が待っていた。

「おかえり。早かったね。楽しめたかい?」「はい。それは楽しかったです」

「そっか、それは良かった。今日はゆっくり休むんだよ。はい、これ」

 店主は靴を袋に包み、レイラに渡した。

「ありがとうございます。」

 

 無事に衣装を返却し、レイラは帰宅した。その翌朝、継母と姉たちも家へ帰ってきた。

「ママ、聞いてよ。昨日会った男だけど、もう嘘だらけで滅茶苦茶だった」

 今度はヒメカが昨日の愚痴をこぼしていた。

「どういうこと?」

 寛子が怪訝な表情をしながら耳を傾けた。

「独身とか言って、本当は奥さんと子供がいたの。おまけに年齢は三〇歳って聞いていたけど、本当の年齢は四三歳。しかも酒癖が悪くて。イケメンで、キムタクに似ていたけど中身は最悪だった。ほんとマッチングアプリなんて信用できない」

「それは災難だったわね」

 エリカは鼻で笑っていた。

「なるほど。それで、二人とも幸せは掴めなかったのね」

「それより、あんた昨日クラブにいた?めちゃくちゃ似た人がいたんだけど」

 エリカは鬼のような形相でレイラに問いただした。レイラは下を向いたまま沈黙していると、飯塚が新出家を訪ねてきた。

「こんにちは、奥さん。今日は会社にあった旦那さんの荷物をまとめて持ってきました。ほら、こっちだ」

 飯塚はトートバッグと段ボールを3つ持ちながら器用に後ろにいた連れを手招きした。

「どうも。こんにちは」

 どういうわけか飯塚はミナトを連れてきたのだ。

「昨日見かけた男だ」

 エリカはミナトの方を指差した。

「まぁ、それはどうもありがとうございました。レイラ、この荷物を奥に運んでちょうだい」

 寛子は顎を使ってレイラに命令した。

「レイラ……?」

 ミナトは段ボールを下ろして玄関の奥にレイラがいるのを見つけた。

「はい、寛子さん」

 みずぼらしい格好をしたレイラは飯塚から荷物を受け取ろうとしていた。

「レイラお嬢さん、お元気でしたか。どうされたのですかその格好は……。前よりも顔色が悪いようにも見えますが……」

 飯塚はこの前会った時より随分変わったレイラの姿を見てショックを受け、心配していた。レイラはそんな飯塚を察して、平気なように振る舞った。

「そうだ、レイラお嬢さん、こいつを覚えていますか。せがれのミナトです。昔、よく遊んでいましたよね」

 飯塚はミナトの肩をポンと叩いて、レイラは幼い頃の記憶を呼び起こした。すると、ある少年のことが頭をよぎった。昔よく遊んでいた……。仲の良い男の子がいたが、引っ越して連絡も途絶えてしまったのだ。レイラは薄らと頷いた。

「その男の子がミナトです。もう何年ぶりの再会になりましょうか」

 

 ミナトはハッと昔のことを思い出していた。

「やっぱり、なんか見覚えがあったと思っていたんだ。レイラちゃん、久しぶり。名前を聞いたとき、まさかと思っていたんだけど、こんなことってあるんだね。そこに置いてあるチェロって…。何で壊れているんだ。もしかしてこの動画はレイラちゃんが出していたやつか。通りで最近更新されていないと思ったわけだ」

 ミナトは壊れたまま放置されていたチェロの方を指差し、インスタを開いてレイラの動画を流した。

「これは私がその前あげたやつ。ミナトくん……。今まで気が付かなくてごめんなさい。本当にお久しぶり」

 ミナトのスマホから流れるレイラが演奏した“Lavender´s blue”は二人を穏やかな気持ちにさせてくれた。

「もしかして、最近二人は前にどこかで会ったのかな?」

 飯塚はきょとんとして不思議そうな顔をしていた。

「ちょっとね。父さん、俺は新出レイラさんとお付き合いしたいです」

 息子がこんな真剣な目つきをするのを久しぶりにした飯塚は目をまんまるにした。

「つ、つ、付き合う。恋愛というのはある程度釣り合いが取れていないと成立しないのだよ」

 寛子も同じように目をまんまるにしてカンカンに怒っていた。

「それは許しません」

 寛子は今までに見たことないぐらいの怒った顔をしていた。

「どうしてですか」

 ミナトは少し怯えたような表情をしていた。

「この子にはこの家の家事や姉たちの世話をする義務があります」

「もうやめて。寛子さん、私もミナトさんとお付き合いしたいです」

 レイラはこの上なく大きな声をあげて、その場にいた全員が驚いた。

「レイラ……」

「そんな……行かせてあげなよ」

 この時、初めてヒメカとエリカがレイラを憐れんだ。

「いいえ、認めません」

 しかし寛子は頑なに二人の交際を反対した。

「どうして?どうしてそんなに私にこんなに酷いことができるの?私はあなた方に尽くしたのに。なぜなの?」

 レイラは初めて寛子に強い口調で話した。

「なぜ?良いこと教えてあげるわ。私があなたのお父さんの先生をしていた時、私は既婚者でありながら、あなたのお父さんが好きだった。あなたのお父さんは勉強熱心で、何にも一生懸命で、男前で、二二歳の年の差を感じさせないくらい大人びていたわ。会社設立の夢も叶って将来は大手の社長になって莫大な財産まで手に入れた。だけど、彼には他に好きな人がいて、彼はその女性と結婚して、一人の娘を授かった。私の恋心はひっそりと火を消した。でも、縁あってその男性と再婚できた。母親そっくりの娘も連れて。だけど、間もなく他界した。これが真実よ。それに、あなたが若くて、純粋で、可愛くて、私が失ったものを全て持っているからよ」

 寛子はレイラの胸ぐらを掴んだ。

「そんな……」

 レイラは寛子の話にショックを受け、言い返せずにいた。

「そんなの全部あんたの勝手な都合じゃないか。そんなことレイラに押し付けるなよ。このチェロだってあんたがあんな風にしたんだろ」

 ミナトは寛子を突き飛ばし、レイラは寛子の手から解放された。

「こら、ミナト、奥様に何しているんだ、このバカ息子。奥様、先程は愚息が大変申し訳ないことを致しましたことをお詫びします。奥様のお気持ちはよく分かりました。その上で、どうかミナトをレイラお嬢さんとお付き合いさせてやってくれませんか。身分は違いますが、ミナトの心は本物のようです。私の方からもどうか、どうかお願い申し上げます」

 飯塚は深々と頭を下げた。

「父さん……」

「ちょっと、やめてくれませんか……。頭を上げてください。分かりました、分かりましたから。どうかレイラをよろしくお願いいたします」

 ミナトに突き飛ばされたことがショックだったのか、飯塚の言葉が心に突き刺さったのか寛子は二人の交際を認めた。

「寛子さん、ありがとうございます。私は今まであなたを憎んでいましたけど、もうあなたを許します」

 レイラは冷静な対応をし、寛子は泣き崩れた。

「この前動画すごくバズってたの知ってるのか」

 ミナトは再びレイラが演奏している動画を流した。

「えっ、これが……。うそ。」

 レイラは久々にインスタを立ち上げると、動画の再生回数が1万回を超えていて、いいねが三千件きていて、世界中のプロたちから賞賛のコメントが届いていた。中には、入院中の子どもがレイラのチェロに励まされたというコメントもあった。この時、レイラは誰かのためにまたチェロを始めようと思った。

 

 時は流れ、レイラは有名なチェリストになった。そして、レイラとミナトの交際は順調に進み、結婚式の日がやってきた。

「レイラさん、ミナト。本日は誠におめでとう。こちら、健一郎様から預かっていたものです。明子さんが今日のためにご準備なさっていたそうです」

 飯塚はレイラにピンクのリボンでラッピングされた白い円形の箱を渡した。

「え、ママから……。何だろう。わぁ、ベールだ。綺麗。あっ、手紙が入ってる」

 封筒には明子の字で“レイラへ”と書かれていた。

『レイラ、結婚おめでとう。レイラが選んだ人だから、きっと素敵な男性なのでしょう。ママも会ってみたかった。レイラがこの手紙を読むということは、もうママは天国にいることでしょう。ママはもう身体が弱ってきて、もう長くないそうです。ずっと秘密にしてごめんなさい。そのお詫びとお祝いにあなたにベールを編みました。気に入ってくれると嬉しいです。レイラが幸せになるように天国から見守っています。これからも元気でね。ママより』

 封筒を開けると明子の字で一枚の便箋にびっしりとメッセージが書かれていた。レイラは母からの最後の愛情を受け、涙を流した。

「ママ、いつの間に……。ありがとう」

 レイラは母が編んだベールを被った。

「レイラ、もう準備はできたかい?」

 ミナトは優しく声を掛けた。

「はい」

 レイラは笑顔で返事をし、腕を組んだ。

「よし、じゃあ、行こう。」

 レイラとミナトはたくさんの人から祝福され、いつまでも幸せに暮らした。