キャンパスライフと聞けば、大抵の人は自由という言葉が思い浮かぶと思う。私にもそう思った時期があった。『良い意味』の自由から、『悪い意味』の自由と捉えるようになったのは大学に進学してから半年を少し過ぎた頃。まるで洗脳が解けたような、夢から覚めたような感覚だった。彼を失ったのではなく、自分自身を失いかけたことに気づかされた。
彼、先輩と出会ったのは新入生歓迎パーティーの会場。ロビーには星のように輝くシャンデリア。地下にあるカジノへと足を運ぶ上品な大人達。豪華なホテルに相応しくないカジュアルな服装の学生が集まる。その中で一際目立つラッパー、メメネムの姿がプリントされた白いパーカーを着た学生。先輩だった。
「君、そのパーカー俺と色ちじゃね」
コートから覗くように顔を出したメメネムを先輩が指さす。
「そ、そうですね」
二倍ほど背が高く、染めたばかりであろう眩しい金髪男の威圧感は足がすくむほど強かった。
「もしかして、メメネム好き?」
「はい……」
「マジ!? 俺も!」
うれしく思ったのか、地球が太陽の周りを公転するように回りだす。最後には私の両手を掴み、
「マジで嬉しいんだけど。え、ライム交換しない?」
彼の勢いに恐怖すら覚えた。掴まれた手の体温が徐々に冷たくなっていくのがわかった。
「あ、ごめん」
それに気づいたのか先輩は手を放し、一歩下がる。
「メメネム好きがいることがわかってつい嬉しくなってな。俺の周り、JPOP好きしかいねえからさ」
「私もです!」
彼も同じ趣味なのだと知り、スマホを出す手がより軽くなる。
ライムを交換し、会場へと向かった。画面には最近追加された友達として先輩のアイコンが映されていた。黒い背景にネオンの光を浴びるDJのアイコンだった。
新入生歓迎パーティー以降、先輩とのライムは欠かさず送り、昼休みや授業のないコマで会うような関係になった。お互い学年が違い、サークルも別であったため、唯一会えるのは休み時間しかなかった。話題はいつも洋楽、特にメメネムのことばかり。こんなにも話が弾む相手は初めてだった。授業中にライムがきていないか毎回確かめるくらい、会って話すのが楽しみで仕方なかった。
『今日いつ空いてる?』
この文の通知が来れば、携帯使用禁止の授業でさえ返信する時間を作る。
『今日は昼しか空いてないです』
先生に見られないよう机の下で素早く打つ。
『わりぃ、俺四限しか空いてねえわ』
そんな、それじゃあ今日は会えないってこと?
『じゃあ四限会いましょう』
耐えられない、彼と会えない日ができるなんて耐えられない。
『でも授業あるんだろ』
そんなのどうだっていい。先輩に会えないよりはマシ。どうせ一回休むだけだし。
『サボります』
入学以来、一度も欠席しなかった私が、皆勤賞を潰した瞬間だった。
三限終わり、リュックを閉じる暇も与えず休憩スペースへと向かった。壁に寄りかかりスマホをいじる先輩の前で腰を下ろした。
「先輩、先日のアカデミー賞見ました?」
「ああ、ちょうどスマホで見てた。メメネムのパフォーマンスすげえよかった」
「ですよね! 十八年も前の曲とは思えなかったです」
「つか、リリーカイリッシュの反応見た? あの顔面白すぎるだろ」
笑いながらスマホの画面を見せる先輩。リリーカイリッシュの画像を見せるのかと思いきや、まったく別のポスターが画面に映っていた。
「クラブ……?」
「そう、ここのDJが、メメネムのダチなんだ」
先輩はこのクラブの常連らしいが、メメネムの友人であるDJが来たのは最近だという。
「一緒に来るか?」
「行きます!」
真面目な人生を送ってきた私にとってクラブなんて未知の世界も同然。未成年である自分が行くことに不安と罪悪感はあったが、先輩となら安心だと感じてしまった。
コンサート会場のゲートのような重い扉。その先には鼓膜が破れるほどの爆音と暴れまわるネオンの光。露出度の高い服装を着た女性たち。片手にガラスを持ち、ダンスステージで踊り狂っている。はぐれないように先輩と手を繋ぎ、奥のバーまですり抜ける。腰よりも高い椅子に手をかけた。
「お、兄ちゃん今日は女連れか」
バーテンダーが私たちの前にグラスを置く。先輩がいつも頼んでいるお酒だ。バーテンダーさんのサービスなのか、私のグラスにだけレモンが刺さっていた。
「先輩、私未成年です」
「んなこと気にしてんのかよ。大学に入ったら普通すぐに酒飲むだろ」
そういうものなのか。オリエンテーションで何度も飲酒について大学が注意しているのに。
「いいから飲んでみろ」
言われるがままにグラスを口に運ぶ。液体が唇にたどり着く前に、アルコールの臭いが襲う。臭っただけでもう酔いそうだ。口の中に流れ込む液体。だめだ、まずい、飲み込んだらそのまま吐き出してしまいそう。口の中が熱くなっていくのを感じる。
「おい、大丈夫かよ」
突然先輩の手が伸び、肩を触られるのかと思いきや、顎をくいっと掴まれた。その衝撃で飲み込むことが出来た。
「ありがとうございます」
ああ、やっぱりまずい。耐えられず目を閉じると、自然と涙が出てきた。
「んっ!?」
唇に何かが触れたと同時に、アルコールの臭いがさらに強くなった。目を開けば先輩のニヤけた顔があった。
「いやぁ、可愛かったからつい」
口の次に、顔全体が熱くなるのがわかる。
「やめてください……」
バーテンダーの視線を感じ体中が熱くなってしまった。ただでさえ人が密集して会場は十分暑いのに。熱中症になりそうだ。それでも先輩の暖かい体温で抱きしめてほしいと思っている自分が恥ずかしい。
「おーい」
ダンスステージから複数の男性が先輩を呼ぶ。私から目をそらし、迷わず男性たちの方へ向かった先輩。どうすればいいのか見当もつかない私は、ただ椅子からダンスステージではしゃぐ人々を眺めることしかできなかった。
「おいねえちゃん、アイスいるか」
片手の小指が少し短い、ガタイの良いお兄さんに話しかけられた。アイス、氷のことかな。ちょうど暑かったし、もらっておこう。バーテンダーに氷をもらおうと声をかけようとした。
「こっちだ」
声を発する前に、ガタイの良いお兄さんに手招きされる。おとなしくついていくと、バーの反対側、奥の部屋で立ち止まった。ステージのスモークとは違う。霧のように煙が充満していた。部屋にいた人は全員口に何かを咥えていた。タバコ? でもタバコの臭いはしない。楽観的になれるような、快感が得られるような不思議なにおい。
「まさか、アイスって……」
違う、氷じゃない。逃げなきゃ、ここは危ない。逃げなきゃ!
先輩を捜しに勢いよく部屋を脱出し、ダンスステージに戻る。早く先輩と一緒にこの場から離れよう。それしか頭になかった。
人ごみをかき分けるがなかなか見つからない。名前を呼んでも爆音のせいで綺麗にかき消される。不意に気分が軽くなる感覚が襲ってきた。アイスの臭いだ。臭いの先をたどってみる。
「せん……ぱい……?」
片手には奥の部屋で見た煙の出る白い物体。もう片手には見知らぬ女。甘いにおいの中、霧がかった空間の中、それは唾の味を確かめ合っていた。
本当にどうかしていた。先輩に依存しかけていた。大学に進学した意味を見失うところだった。法律を破ってしまった。薬物に、呑み込まれるところだった。自分自身を見失うところだった。先輩と出会わなければこんな悪夢を見ることはなかった。全部先輩が悪いんだ。
「違う……」
先輩と接点を持ちたいと思ったのは私。決意したのは、選択したのは私。
スマホのプレイリストにメメネムの曲は一つも残っていない。残っているのは、ヘイリースイフトの曲。あの日から、繰り返し、繰り返し聴いている。
『自分を見失って初めて、自分自身が誰かわかるのかもしれない』
五回目のリピートをしたところで、授業開始まで三十分を切った。今日も大学へ向かうため、重い足を引きずる。
了