イヴ

和泉 春彦

 

 彼女と出会ったとき、あの頃の私は夜が好きだった。中学生の身分にとって、夜は特別な世界だ。普段の街並みもしんと静まり返り、時が止まっているように感じる。駅前の繁華街では人々の喧騒や、まぶしいネオンの灯りがむしろその奥にある闇を引き立てていて心が躍った。夜の町は深海に近い。足のつかない、音のない世界でありながら、その暗闇の中は不思議と居心地がよかった。

 けれど、今では夜になるといつも息苦しさを感じる。それは自分自身が、深海の中では呼吸さえできないのだと気づいてからだった。

 あの夜も、深い海の底のような静寂があった。

 

 私は薬指に指輪がはまっていることを確認した。店に入ってから、もう何度も繰り返している作業なので、意味のないことはわかっていたが、緊張を紛らわせるために大事なことだった。先日、学生時代から交際していた男性に結婚を申し込まれ、それを承諾したときに受け取ったものだ。

 

 店の扉に取りつけられている鈴が、穏やかな音を立てて鳴る。目を移すと、彼女の姿があった。奥のカウンター席に座っている私を見つけると、手を振りながら近寄ってきた。

 私も彼女ももうすぐ三十歳になる。だが彼女は学生時代のころから変わらずずっと美しいままだ。艶やかな肌、ふわりと揺れる黒髪。服装もメイクも派手なものではないのに、女の私から見ても、惚れぼれする自然な華やかさがあった。

 

 駅から少し離れた場所にある、暖色の照明が窓から漏れる、静かな雰囲気の喫茶店。私たちは二人とも実家での生活が長く、就職後も地元に住み続けていたので、学生時代からこの店を行きつけとしていた。

 

「久しぶり。もう三ヶ月ぶりくらいかな」

 

 彼女との会話はいつもこのように始まる。自然ととなり合う席に座り、会わなかった時間を確認しあう。このやりとりも、もう何度も繰り返した。

 けれど、私は今日、学生のころから続く十五年間の付き合いを断ち切ろうとしている。言葉にも行動にもできなかった感情を、はっきりと突きつけなければならない。それこそが、私が彼女にごまかし続けた責任なのだ。

 

 

 

 中学時代の私は、独りぼっちになることを恐れていた。明るい教室の中で孤立していることが何より苦しかった。だからこそ、夜の街を好んでいたのかもしれない。夜闇はいつも、私の孤独を隠してくれるからだ。

 私は社交的な性格ではなかったので、友人を作るのも苦手だった。そのため、中学校という新しい環境の中、クラスメイトとも馴染めずにいた。だからこそ、私と同じくクラスで孤立していた彼女にだけは、話しかけることができたのかもしれない。偶然にも、三年間同じクラスだったということもあり、当時私が一番仲良くしていた生徒であった。

 

 彼女はまわりから、冷たい人、無感動な人と評価されることが多々ある。実際、彼女は私以外の人と話す時は別の人格が出たのかと思うほど大人しい。口調も突き放すようなものばかりだし、表情が変わることはほとんどない。

 でも彼女の本当の姿を、私は知っている。そう思っていた。その笑顔はとても素敵なこと、実は歌が上手なこと、将来は教師になりたいと考えていること、映画が好きなこと、お笑いも好きなこと。そして、彼女はただの人見知りで、他人ともっと話したいと思っていること。

 

 当時の私は彼女以外の友人はいらないとさえ考えていた。彼女のそばにいる時だけは、心が落ち着き、その笑顔を見るたびに自分はここにいていいのだと感じることができた。

 それなのに、私は彼女が本当に大切にしていたものにだけは気づけなかったのだ。

 

 

 

 中学三年の年の明けたころ、行事ごとも終わり、受験と卒業を控えるだけになり、教室の中の空気も緊張感に包まれるようになった時期だった。その日も朝からひどい寒さで、明らかに芽吹きは遠く、全身に冬の風が押し寄せていた。

 

 学校からの帰り道。三つの角を曲がって、線路沿いの幅の広い大きな坂を下る。駅前に出るまでは閑静な住宅街で、等間隔に電灯が並んでいるだけの道だった。電車が風を巻き込み、足元を揺らして通り抜けて、私はいつも髪を抑えて体を震えさせていた。街並みの奥に鉛色の厚い雲が見え、その隙間からぼんやりと夕暮れがのぞいている。朝の天気予報では、曇りにはなるが雨までは降らないといっていたはずだ。傘も持ってきていない。

 

 私たちはいつも一緒に下校しており、帰りの電車も同じで彼女は私よりも二駅先に降りていた。

 事の始まりは本当に偶然からだった。いつもどおり会話をしながら駅構内に入り、改札を抜けようとする手前で、私は自分に起こった異変に気付いて足を止めた。全身に冷や汗がでて、風も吹いていないのに寒気を感じた。

 

「どうしよう、財布がない。定期券も入っているのに」

「嘘。帰り道で落としたわけじゃないよね」

「多分。カバンの中に入れていたはずだし」

「学校に忘れてきたとか。帰る時に急いで荷物まとめていたでしょ。あの時において来ちゃったんじゃ」

「どうしよう。探しに戻らなきゃ」

「やめなよ。今戻ったら帰り暗くなっちゃうよ。電車賃ぐらい貸すよ」

「そんな、悪いよ」

 

 言い合いをしているうちに、通り過ぎる人が足早になるのが見えた。もうすぐ電車が発車してしまうようだ。私は逡巡して、踵を返した。

 

「ごめん。やっぱり戻るよ。先に帰っていて」

 

 自分で取りに戻ることに決めて、私はその場を走り去った。

 

「ちょっと」

 

 彼女の呼び声が背中に響いたが、振り返るつもりはなかった。彼女はこの頃、塾に通うためにいつもまっすぐ帰宅していた。私なんかのために時間を使わせるわけにはいかなかったのだ。

 その帰路はさっきよりもまた一回り暗くなっており、ちらほらと電灯が点き始めている。坂をかけ上る間、隣を電車が走り去っていった。日ごろの運動不足がたたり、学校に着くころには肩で息をして、何度もせき込んだ。遅くなれば暗くなってしまうとはいえ、どうせ他にも生徒はいるのだから歩いてでもよかったと後悔した。

 

 学校にはまだ多くの生徒が部活などを理由に残っていた。運動部の掛け声が校舎前まで響いている。靴を履き替え、まず職員室に向かった。事情を話すとすぐに教室の鍵を渡してくれたので、そのまま教室へ行った。教室に着くまで誰ともすれ違うことはなく、遠くからうっすらと吹奏楽部の練習の音が聞こえていたが、それがかえってこの廊下の静けさを際立たせていた。

 もちろん教室にも人影はなく、灰色の日が差すだけの薄暗い教室はまるで異世界のようで、いつも過ごしている場所とは思えなかった。

 

 灯りは点けずに入った。黒板側の机の一つひとつを指でなぞり、おもむろに自分の席へ行く。冷たくなった窓に、手袋を外して触れると、結露が指先を湿らせた。椅子に座ると、その閉鎖感に胸を高鳴らせている自分がいて、不意に窓を開けたが寒さは感じず、暗がりにただ一人なのが不思議と心地よかった。

 しばらく時間が経って、呼吸も落ち着いてきたころ、チャイムが鳴った。五時半、生徒は下校しなければならない時間だ。いつの間にか外は完全に夜と化していて、窓から差し込むのは月明かりに変わっていた。

 

 グラウンドを見ても、もう生徒は一人もいなかった。だが、生徒は帰宅しても教師はまだ学校に残っている。巡回だとかはあるのだろうか。鍵を貸したまま返さないのは不審に思うはずだ。

思った通り、廊下の向こうから足音が聞こえる。コツコツと規則正しい音を伴ってこの教室に近づいてきた。私は隠れるか、出ていくべきか悩んで、結局そのどちらでもない、動かないという選択肢を選んだ。見つかって怒られても、それならそれでもいいやと、どこか投げやりな気持ちになっていたのだ。

 開かれた扉の向こうには、彼女が立っていた。

 

「やっぱり、まだいたんだ。財布、職員室に届けられていたよ」

 

 私は驚き立ち上がった。彼女が私の財布を差し出してきたので、ありがとうと言ってそれを受取った。

 時計の針がうっすらとしか見えなくなっている。しかし、私の体はいまだにじっとしていることを望んでいたようで、ぼんやりと窓の外の景色を眺め続けていた。

 彼女も近くの席に腰を下ろして、私と同じように夜の街に目を移した。

 しばらく沈黙が続いてから、彼女はつぶやくように口を開いた。

 

「もうすぐ卒業だね」

 

 私は普段みたいに、そんなしんみりした顔はあなたらしくない、なんて口を挟むこともなく、ただ、そうだねと返した。

 いつもだったらはずかしくて言えないことも、暗闇に紛れるように口をついて出た。今しか伝えられない言葉を、二人で紡ぎ、ゆっくりと胸の内に編み込んでいった。

 だから、私はその言葉を一人の友人として言ったものだと思っていた。ごく自然で、当然のように思っていたけれど、何よりも大切な一言。

 

「好きだよ」

 

 彼女は、静かにつぶやいた。

 雲の切れ間からのぞいた月光が私たちを照らす。彼女は黙り込んだまま私を見つめていた。そして、私が視線を向けた瞬間、彼女は目をそらした。そのしぐさに、私はふと彼女の心に本物が潜んでいることに気づいてしまった。うるんだ瞳は、月明かりをゆらゆらと反射させていて、心からきれいと感じていた。

 

「そろそろ時間だね。帰ろうか」

 

 彼女の声が震えていることはすぐにわかった。なぜなら、今まで一度も聞いたことのない声だったから。

 

 

 

 

 私たちは別々の高校に進学した。それから、私は高校、大学ともに友人に恵まれ、一人きりで過ごす時間も少なくなった。私にとっての彼女はだんだんと唯一ではなくなっていった。男性との交際もした。当時は本気で彼に好意を持っていたし、一年半で別れるとは想像もしなかった。

 彼女の前で高校生活の話はしなかった。友人関係のことも、もちろん異性関係の話題はそもそもでないように細心の注意を払い、私はもっぱら家族のことやアルバイトのこと、中学時代の思い出ばかりを話した。それは彼女も同じことで、私たちは互いに、語り尽くした記憶を何度もなんども反芻していた。

 

 私は彼女に学校での生活を聞くことができなかった。いや、聞く勇気がなかったのだ。友人はいるのか、好きな人は、信頼できる相手はいるの。彼女は、今でも私を無二の親友として信じているのではないか。私はやはり彼女のことを何も知らないままだった。

 大学生になると、アルバイトに追われ、余った時間は資格取得の勉強時間にあてられた。自然と自由な時間は減り、友人と遊ぶことも少なくなった。だが、その最中でも、彼女との約束だけは、何よりも優先していた。

 

 彼女と会いたかったわけではない。ただ、あの日、彼女の気持ちに応えられなかったことに負い目を感じているのだ。

 彼女のことは決して嫌いなどではない。でも、その想いを異常ではないものととらえるには、私はあまりに幼かった。心の底から受け入れるなど、到底できるはずがない。

 

 会うたびに後悔しているのに、離れた時間が重なれば、それだけ胸が苦しくなった。ずっと、ずっと、夜になるたびに、あの未熟な少女の顔がはっきりと思い浮かぶ。そして、私をいつまでも、その夜の中から抜け出せないようにした。

 

 縁を切ろうと思えばいつでもできた。言葉を交わさずとも、電話番号でもSNSでも、ブロックと設定してしまえば、それだけで相手との繋がりを拒否できる世の中だ。

 それでも私は、いまだに彼女と会う。私には、彼女をあの夜においていくことはできなかった。

 私は、わざと指輪が彼女に見えるようにグラスを持ち、口をつけた。そして一言、『私、結婚することになったの』そう告げれば、すべてが終わる。

 

 ふと、彼女を一瞥した。その時、彼女と一瞬目があったが、すぐにそらされた。不審に思ったが、私はすぐにその理由に気づいた。指輪を見て、それを見なかったことにしたのだ。

 私は言葉を詰まらせた。それはあの夜の記憶がフラッシュバックしたからだ。彼女の瞳にはあの頃の幼さはなく、むしろ大人びた視線が、私から憐れむように外されていた。

 

 また息苦しくなり、動悸が激しさを増した。そこからの会話は、ほとんど覚えていない。

気がついた時には、食事も終えて店を出てしまっていた。

 

 「さよなら」

 

 彼女が小声ながらも、はっきりと言った。今までは、ずっと、別れの挨拶は「またね」だった。

結局、結婚のことも伝えられないまま、彼女は駅の人ごみの中へ消えていった。

 

 

 

 

 私たちは平行線だ。隣同士に足跡を描いておきながら、その二つの直線が交わることは永遠にない。

 あの夜の帰り道、何度もなにか言葉を口にしようとして、失敗してを繰りかえした。彼女は何も言わず私の隣を歩いていた。彼女との帰り道で、これほどの息苦しさを感じたのは初めてだった。

 もしかしたら、私が受け取り方を間違えているだけで、大した意味はないのかもしれない。そんなはずがないことは、私が一番わかっていたけれど。

 

 私はこれから先、何事もなかったかのように、何度でも、いつものように「おはよう」と挨拶する。それは彼女の望んでいることに違いないのだ。これからも何度も連絡を取って、時間が合えば会いに行く。傷を忘れたふりをして、痛みに気づかぬようにふるまって。

 

 そうして、私たちはこの夜の存在を否定し続けるのだろう。

 私は、自分を呪った。今、世界が終わればいいのにと、そう願っていることが、なにより情けなかった。

 彼女は、一息吐き出して、私に告げた。

 

「好きなの」

 

 厚い雲が月を覆い、私たちを照らしていたのは、街灯の小さな光だけだった。その瞬間、すべての音が失われ、指先の感覚さえなくなり、呼吸を忘れるほどだった。私は本当に深海の中にいるような気がした。息継ぎすらできず、言葉を発せられなかった。

 私の中で生まれた返事は、すべてその場限りの、価値のないものばかりに思えた。

 

 私にとっての彼女と、彼女にとっての私では、相手に想う感情の比重がまるで違ったらしい。私の想像を遙かに超えた思いを抱え、引きずって、必死で私の隣を歩いていたのだ。

 彼女は続けて、

 

「ねえ、手をつないでもいい」

 

 と言った。これが最後だから、と言葉にならない声が聞こえた。

 私は返事ができなかった。拒否する理由はない。だが、この時の私は、ここが瀬戸際であることを予感していた。もう引き返せない限界まで来ているのではないか。激しく警鐘が鳴っていた。

 

 その手をはねつけることが正解なのか、それともその気持ちを肯定してあげることが正解なのか、私にはとても判断できないことだ。私は恋をしたことなんてなかった。彼女は、どんな思いでその言葉を口にしたのだろうか。

 

「いいよ」

 

 私はそう言った。

 その一言で、彼女は遠慮がちに私の手にふれた。手をつなぐとは名ばかりの、指の先と先をふれあわせる程度の接触だった。それだけなのに、私は裸体で抱きしめあっているかのような緊張と発熱を感じていた。それだけのことが、私たちをあまりに複雑に絡んだ糸で結びつけてしまった。

 

 それから私たちは暗闇の中、ぽつぽつと言葉をつなげた。

 その時抱いた感情は、恋といえるのかもしれない。わずかにふれた指先の感触は、今でもはっきりと思い出せる。肩がぶつかるたびに心臓が鼓動を強め、言葉の一つひとつが胸に杭を打ち込まれるようだった。

 

 ただ、私にはその感情を正当に醸成する器官が備わっていなかった。生み出された淡い想いは、恋情として熟成することなく、単なる夜の思い出として処理され、冬の吐息のように、いつの間にか散りぢりになって消えたのだ。

 そして、私に残ったものは、彼女の声と微熱の記憶だけだった。

 

 

 

 

 私は、ただ思考を停止して生返事をした。彼女の勇気と、正面から向き合うことが怖くて、嫌われないように、『空気を読んで』という言い訳をして、その場限りで彼女を受け入れた。体は置いて、心だけは夜の街へ逃げ出していた。

 

 そうだ、私はいつだって嫌われたくない、見捨てられたくない、独りぼっちになりたくない、その感情にだけとらわれて、身勝手な束縛ばかりを彼女に与えていた。

 彼女の言った、『好きなの』というただ一言をなかったことにさせないように、彼女を私に縛りつけていた。私にいつまでも依存させるように、私以外のすべてを信頼させないように、私を絶対に裏切らないように。もし失敗したとしても、どこかで私の存在を認めてもらうために、彼女と会い続けていたのだ。

 

 いつまでも少女のままで、大人になれずにいたのは私のほうだった。過去にすがっていたのは私だけだということも、すべて見透かされていただろう。そのうえで、私を一人にしないために、孤独を演じていたのだ。ちょうど、母親が子供のごっこ遊びに、悪者として登場してあげるかのように。

 私はまた、彼女をおいて逃げ出したのだ。薬指にはめた指輪を見せておきながら、何も言わずにその関係を保留にした。

 

 私には、もう味方はいない。学生時代の友人はみんな離ればなれになり、卒業以来一度も顔を合わせていない。彼との結婚も妥協といえた。互いに三十路が近づき、新たな恋を始める気力もなく、単に身を落ち着けたいという願いからだった。職場での付き合いなど、喜んで寿退社しようと思える上辺だけのものだ。すべて、自分が一人で生きていけると思い込みたいがための見栄でしかない。私には、かけがえのないものなど一つも残ってはいなかった。

 

 なくしたくなかったものは、彼女の存在しかなかった。

 彼女に会いたい。

 

 私は携帯に彼女の電話番号を打ち込んだ。

 ただ、あなたのことが好きだった。それだけが伝われば十分だ。たとえ拒絶されようと関係ない。これは友情も愛情も、恋慕すら超えた衝動なのだ。

 

 なかったことにした記憶を全部伝えよう。楽しかったことも悲しかったことも、私たちの間で失われてしまった思い出をすべて語りつくそう。

 時間は十分すぎるはずだ。夜は果てしなく長いのだから。

 ずっと続いていたコール音が聞こえなくなり、同時に電車が発車する音が聞こえた。

 私は、大きく息を吸い込んで、彼女の名前を呼んだ。