森のくまと夢見る作家

育途月

 一、ある森に、熊の一家が住んでいた。五人家族で、三人の子供たちは全員男。下の二人は森の中の高校へ、長男の熊は山の上の大学に通っている。弟くま達は、どっしりとした体格で、巨大な岩のように背が高く、迫力があり、自信満々に見える。しかし、長男くまは、彼らと違い背が低く、体格もひょろひょろと細く、猫背で、どこか自信なさげに見える。
 長男くまは、昔、受験に失敗し、引きこもり、荒れた時期があった。今は学校に行き、ある程度は元気で平凡な生活を送っているはずだが、もし長男くまがどこか自信なさげに見えたのだとしたら、きっとその過去のせいだろう。
 長男くまは今、小説を書くサークルに入っている。どこまで本気かは分からないが、小説家になりたいらしい。それに、森のギター部という名前の軽音楽部にも入っている。長男くまは、どうやら作曲家にもなりたいようだ。そういえば、少し前、森のホールで彼が部のバンドでライブに出たことがあった。しっかり、ビデオで録画をしていた。だけれど、彼の家族は誰もその映像を見てないし、ライブのことも話していないらしい。そもそも彼はあまり家族と話していないのだ。特に弟くま達とは、長い間ほとんど口もきいていないらしい。あの、引きこもり、荒れていたときの名残で、まだ、彼の家族とうまくいっていないのかもしれない。これは、仕方がないこと、どうしようも無いことなのかもしれないし、自業自得なことなのかもしれない。それに、まだ彼が、完全に、後ろではなく前を向けるようになっていない、変われていないからなのかもしれない。きっとそういう風に、長男くま自身も思っているんじゃないかなー。
 話が少しそれてしまったね。話を戻すと、そんな状況だから、サークルで書いた小説も、家族はほとんど誰も読んでいないらしい。口をきいていない二人の弟くま同士は仲が良く、お父さんくまや、お母さんくまともうまくやっているらしい。お母さんくまと弟くまが話していて、お母さんくまがケラケラと笑っているのをよく見る。それに、弟くま達は二人とも優秀で、よく遊び、よく勉強している。彼が失敗した、受験に向けてね。弟くま達は二人とも、彼が通っていた優秀な学校と同じようなレベルの学校に通っているから、彼が使ったものと全く同じ、あのタヌキ先生の問題集を使って頑張って勉強している。それに、弟くまは、彼が挫折した理系なんだって。そんな、頑張っている弟くま達や、弟くまと話して。楽しそうに笑うお母さんくまを見るのが、少ししんどい時もあるんじゃないかな。それに、彼の友達は、ちょうど就職するそうだ。受験に失敗して引きこもっていた時間の差があるからね。しかも、友達のみんなはとても優秀だ。それが、しんどいときも、きっとあるんじゃないかな。
 そんなとき、彼はおじいちゃんくまの家に行くと、おじいちゃんくまとおばあちゃんくまは優しく接してくれる。おじいちゃんくまは、旅する人を手伝う会社を作った人なんだけど、その話をしてくれる。彼はその話を本当に面白く聞いていたみたいだね。
 それに、別に面白くもないし、彼の性格上、愚痴や、不安、後ろ向きでダラダラと長い話も多いから、聞いていてあまり楽しい話ではないと思うのだけれど、彼の、バイトや学校の話を楽しく、とても楽しそうに聞いてくれる。彼の話に付き合ってくれるのだ。本当に楽しそうに、興味深そうに、笑ってね。あまり、家族とうまく話せていない彼にとって、それはとても嬉しかっただろうな。ときには、彼が元気に学校に行っていることに、過去の彼のことを思い出し、良かったね、あのときは心配していたんだからと、泣いてくれたり、それに、彼が書いた小説も、二人とも、もう目が悪いからとても疲れるはずなのに、読んでくれたりする。案外、上手に書けていてびっくりしたって感想をくれる。ライブの映像も見てくれて、褒めてくれる。ご飯を作ってもらったこともあったなー。彼はとても喜んだはずだ。何より、いつ行っても笑顔で、来たのかーって笑って、満面の笑みで出迎えてくれて、今まで話してきたことすべてのとき、二人とも笑ってくれていた。そして、話の途中に何度も、おじいちゃんくまは彼にこう言ってくれる。
「お前はかしこいんやから」笑いながら、「長男くま。凄いなー」彼が体調が悪いという話を少しでもすると「大丈夫か〜、大変やな〜、しんどいな〜。ほんまに大丈夫か〜?」と本当ににとても心配げな、彼の思いに共感してくれる、彼の気持ちを理解し慮ってくれるような顔で心配してくれる。ときには真面目で優しい顔で、「長男くま。後ろ向いとってもあかん。前向かなあかんで。がんばれよ」って言ってくれる。そして、帰り際には必ず「長男くま! がんばれよ!!! ……また来いよ!!」と言ってくれるのだ。彼にとって、それは、どれ程の力になっていただろう。きっと彼自身が思っているよりもずっと大きな、彼を支える力になっていただろう。

 

 二、長男くまは、家族で住んでいる森の家の中で、先程まで机に向き合っていた。机には何やら本とノートが置かれている。彼はそこから、しばらく顔をあげ何か物思いにふけているようにみえた。何かとても考え込んでいるように。しかし、何かを思い出したかのように、ほんの少しだけ笑うと、再びペンを持ち、机に顔を戻し、ノートに何かを書き込み始めた。もしかしたら、「がんばれよ」の言葉を、優しさを、与えてもらった自信を、勇気を思い出していたのかもしれない。

 

 三、これは、あれからずいぶん後、数年後のお話。彼は……

 

 四、ピ、ピ、ビピ、ピピ、ピピ、ピピピピピー。僕はまず、まるで、忠告を無視して全く言うことを聞かない主に、悲しそうに怒っているように鳴り響いているタイマーを、左手で気だるげそうに止めた。そして右手で、上書き保存のボタンをクリックすると、このお気に入りのクヌギの木でできた椅子から、そっと立ち上がった。長時間のタイピングで、強ばった体を、肩や腰を回してほぐし、手首もしっかり回す。執筆用に借りたこの部屋には机とパソコンに本棚と小さな冷蔵庫しかない。
 僕は冷蔵庫から、ペットボトルのお茶を取り出し、一口飲む。肩や腰だけでなく、どうやら、かなり目も疲れているらしい。僕は何度か意識的に瞬きをした。長時間、休憩無しのタイピングは体に良くないから、タイマーをセットするようにした(正確には、させられたが正しい)のだが、一旦集中して、筆が進むようになると、それが途中で切れるのが嫌で、今日もついつい、一度なったタイマーを止めて、休憩を挟まず執筆を続けてしまった。今日、タイマーを止めるのはこれで二度目なのだ。
 僕はパソコンにあるデータを印刷し、残すところあと一章だけまで書き終えた原稿を見て感慨深い思いに浸った。そのとき、机の端に無造作に置いてあった携帯が光っていることに気づいた。開いてみると、妻からLINEが来ていた。
「あなた。こっちは楽しくやってるわ。子供たちも皆元気よ。ちょっと元気すぎるくらいで困るけれど笑」
「あなたは、どうせ、私の言うことなんか聞かないで、休憩せずに書いてるんでしょ。なら、ラストスパート頑張って早く終わらせてよね。でも、ほんとに体には気をつけてね」
 どうやら、妻にはお見通しだったようだ。メッセージと一緒に、三人の子供たちと妻、僕の両親が雪山でスキーをしている写真が送られていた。僕は小さな声で「まさか、俺の子も男三兄弟になるとは……」と呟き小さく笑った。そして、でも、頑張んなきゃな、応援してくれる妻や、子供たちのためにも。夢を叶えたい自分のためにも。そして……。僕は、机の隣にある棚の上に飾られている、デフォルメされた可愛いくまのモチーフが入った額縁に入れられた写真に目をやった。そして、一瞬目を閉じ、開くとなぜだか、やる気が力が湧いてきたような感じがした。がんばれよと背中を優しく押されたような気がしたのだ。僕はもう一度椅子に座り、パソコンと向き合った。今僕が書いている、残すところ最終章だけとなったこの物語のように、僕も夢が叶うまでもう少し、描いた明るい未来までもう少しなのだ。そして、その未来は、夢は誰にも分からない。否定できないのだ。僕は、そんなことを思いながら、再びタイピングを始める。タイピングを始めてすぐに、そういえばさっき、妻と子供を預けてお世話になっているはずの自分の両親への感謝を忘れていたことに気がついた。彼は苦笑いしながら、まあ、それだけ気を使わなくても、余計なことを考えず頼れる関係になれたってことだなと、自分のいいように解釈し、もう一度気合いを入れ直す。窓を見ると、暖かそうな光が入ってきている。きっと、春がやってくるのも近いだろう。それまでに、書き終えなきゃな。そう誓い、僕はまた原稿に向かい合い、物語を書き進め始めた。