淡々と階段を踏む脚に私自身の意思は介在することはなく、ただ無機質なまでに筋肉の運動が一定に繰り返されている。靄がかかったようにはっきりとしない私の思考は自分という存在さえも見失いそうで、あたりのぼやけた光に沈んでしまいそうになる。そんな中ぼんやりと、いま上り続けている階段は何処へつながっているのかと考えている。
一瞬のことだ。光が急激に強さを帯び、私は目を開けていることすらできなくなった。
自分がいま自宅のリビングの椅子に座っていることに気がつく。木製の大きな食卓には、それぞれ対面に椅子が二つずつ置かれている。私が今座っているのはそのうちのリビングに一番近い位置にある椅子だ。そういえばこの食卓は妻のお気に入りで、この家を建てた時に一緒に原木から見に行った。懐かしい思い出だ。ふと背後から聞こえる子どもたちの元気な声に意識を引き戻される。振り返ってリビングを見れば今年で7歳になる健太と5歳の優夏がはしゃいでいる。健太がしているゲームに興味津々な優夏が健太に絡んでいるところだ。このまま放っておくとまた喧嘩が始まりそうだ。妻はキッチンで晩御飯の準備をしている。妻も子どもたちが喧嘩を始めないか少し意識を向けながらも、元気そうな子どもたちをどこか嬉しそうに見守っている。私もそんな妻を幸せな気持ちで見ている。当たり前の休日、日常だ。しかし、さっきから私は何かを忘れているのではないのかという不安が何故だか振り切れない。そんな不安に駆られながらもこの光景、そしてこの瞬間が愛らしくてそんなことなど忘れてしまえという自分がいる。そんなことを考えながら、私は妻から視線を正面に戻した。
ああ、懐かしい。ここは私の実家だ。いや、懐かしくなんてない。今日もいつも通り小学校から帰ってきたところだ。そうだった、いまから隆ちゃんと遊ぶのだった。俺は玄関の戸を勢いよくあけて、下駄箱の上に置かれている水槽の金魚に餌をあげた後、そのままランドセルをほっぽり、待ち合わせの緑丘公園まで走った。道中の景色はいつも見ているはずなのに、無性に懐かしく感じてしまう。そんな感覚にとらわれていると、もうすぐ公園につきそうなことに気づく。すでにブランコには隆ちゃんがいる。おや、隆ちゃんの隣に誰かいる。隆ちゃんに手を振りながら駆け寄っていくと、隆ちゃんも俺に気づいて嬉しそうに手を振り返してくれる。隆ちゃんの隣にいる少女は手をもじもじさせながら少しうつむきがちに、しかし気にしている様子で何度か視線をチラチラとこちらへ向けてくる。確かこいつは優とか言う名前の転校生だったはずだ。そういえば優は、俺が6年生の時に親の都合でまた転校してしまうのだった。あの時は悲しかったな。隆ちゃんと俺は泣きながら優を見送ったのだ。そのことは鮮明に覚えている。あんなに仲が良かったのに優とはあれっきりで、今はどうしているのだろうか。あれ、なんでそんなことを知っているのだろうか。まあどうでもいいか。隆ちゃんが呼んでいる。行かないと。そう思って足を踏み出し、私は宏哉が空けておいてくれた席に座った。一杯目は私も宏哉もいつもビールである。今日は宏哉の他に会社の同僚が二人いる。彼らにも何を飲むのか聞いてみたところ片方はビール、もう片方がウーロンハイだというのでそのまま店員を呼び注文した。運ばれてきたお通しのキャベツとポテトサラダを食べながら上司の愚痴や会社でかわいい子の話をしていると、酒が運ばれてきたので、宏哉が代表して乾杯の音頭をとり飲み始めた。三杯目に入ったところで、宏哉が最近嫁とはどうなのだと聞いてきた。
「嫁って何のことだよ、俺はまだ結婚なんてしてないだろうが」
「お前酔いすぎじゃないか、夏菜だよ夏菜、結婚した事すら忘れてるなんて嫁さん泣くぞお前」
そう言われればそうであった。夏菜は私の妻だ。結婚して二年もたっておらず、まだまだアツアツなはずである。妻と私と宏哉は同じ大学で、そのまま三人とも同じ会社に入社した仲である。妻と初めて出会ったのは大学二年の秋であり、そこから宏哉の手伝いもあり、三年の秋には付き合い始めた。そして会社に入って三年目に夏菜と結婚したのだ。
どうして忘れていたのだろうか。妻が心配するといけない。もう遅いから帰ると宏哉たちに告げ、いくらかお金を机において席を立ち居酒屋の出口へ向かう。酒のせいだろうか、足元がおぼつかないが、重い扉を開いた。
「あなた見て、私たちの子どもよ」
そういって出産直後の我が子を抱える夏菜が愛おしくて、そして私たちの子も、もっと愛おしくて。私は自然と涙を流していることに気がつく。そうして私は涙を流しながらも、産まれたてでしわくちゃなその顔を見ながら、開かれている手の指先を恐る恐る触れた。
命だ、これほどまでに命というものを感じたのはこの時だけだろう。
健太はとても元気な子だった。この日の事、そして健太に触れた瞬間のことは忘れることはないだろう。
健太が生まれてからは大変だった。初めての子どもということもあり何をするにも私は焦って、動揺してしまい夏菜に迷惑ばかりかけてしまった。仕事が立て込んで夜中に帰って来た時には、扉の音で眠ったばかりの健太を起こしてしまい、夏菜に散々怒られてしまった。他にも子育てのストレスから大喧嘩してしまったこともあった。でも健太が成長する姿を見ていると幸せな気持ちになれた。その二年後には優夏も生まれた。優夏の時は私もそれなりに手伝いができた。
本当に色々なことがあった。あったのだ。しかしもう全て終わってしまったことだ。あの輝かしくも愛おしかった日々、生きているということだけで情熱を持つのだということを、私はいま知ってしまった。そしてその情熱はもう私には存在しないことも。
私が上っているこの階段。それが何処へ繋がっているのかを、本当は私が一番よく分かっている。幸せな時間に逃げ込んだとしても、この脚は決して止まらない。
いくら目をそらしたところでもう帰ることなどできはしない。でも、考えてしまう。
妻は、夏菜は大丈夫だろうか。こんな私を恨んではいないだろうか。健太は元気でやっているだろうか。優夏は幸せだろうか。私は家族にできることを全てできただろうか。
色々とおいてきてしまった。私はまだ生きたかった。まだまだ家族と一緒に居たかった。子どもたちの行く末を見守りたかった。生きていたいのだ。私は生きていたいのだ。おもむろに流れ出した涙からは、しかし記憶までも流れだしていく。私の頭にかかった霧は濃さを増し、ゆっくりと感情を殺していく。叫びが、悲しみが、苦しみが、涙が、静寂とともに消え失せる。
ああ、天国への階段はもう終ろうとしている。