鈍行

短編/中津修治

 

一両目

 

 一定のリズムで揺れる車内に、生暖かい暖房の風。流れゆく外の景色は茜色に染められている。まだこの時間、帰宅するサラリーマンは少ないが学校終わりの学生は多い。しかし学生たちはどうやら先頭車両がお嫌いなようで、この車両にはあまり人がいない。

 こんなにも早く帰りの電車に乗れたのはいつ以来だろうか。あの会社に勤めてからは初めてだ。よれよれのスーツに、ぼさぼさの髪の毛、髭は少し伸びてきている。こんな社会人いてたまるかと叫びだしたい。そうできればどれほど楽であろうか。目の前の席には子どもとその母親が座っている。子どもは夕焼けに染まる窓の外を、体の向きを外に向け、椅子の上に膝を乗せながら眺めている。

 どうだ、お前が描いた将来の姿はこんなにもみすぼらしいものだったか。空を眺めて底知れぬ世界の美しさに心躍らされていたあの少年は、お前を見ていったい何を思うだろうな。でも、今日私は新たな一歩を踏み出したのだ。その先が成長か堕落かはさておき、確かに変化はあった。

 会社を辞めてきたのだ。退職願をだしてから二カ月はかかったが、それでも十分であった。電車に乗る前に河川敷で川に向かって思いっきり鞄を放り投げてきた。私はいま、何者からも縛られてはいないのである。

 心の中では解放されて愉快で阿呆な自分と、今後の生活をどうしていくか悩む馬鹿な自分がいる。先のことを考えてあれやこれやと悩んでいる人間の方が賢くて、明日のことも考えず能天気な人間は愚かだと諸君は考えるだろうか。どちらにせよ、阿呆に違いないのだ。

 世の中、自分が一番賢いのだと考えている人間は、常に周りの奴を馬鹿だと思っている。それこそ一番の間抜けだということに、死ぬまで気づかんだろう。

 そういえば同僚に、いや、元同僚に痴れ者が一人。そいつは私のデスクの反対側のデスク、つまるところ私の後ろに座っていたやつなのだが、いつも愚痴ばかり言っていた。会社に対すること、上司に対すること、同僚に対すること、友人に対することとどんなことでもペラペラと、軽い口から薄い言葉が止まらない奴だった。

 ある時、その男がこんなことを隣の席の奴に話していた。「お前の友達ほんとつまらない奴らばかりだな。俺はしょうもない奴と話ができないんだよ」どういった経緯でそういった言葉が出てきたかは知らないが、私はそのセリフを聞いた時、あまりにもおかしくって大笑いしてしまった。もちろん私が急に笑い出したから社員は皆私を見たが、そんなことを気にする余裕もないほどに私はあの男の言葉がおかしくてたまらなかったのである。チラッと男を見れば、笑う私をみて、間抜けな顔をしている。それがまたいっそうたまらなかった。正直なところ、あまり好きではない人種の奴だったが、あれほどの痴人であればもはやそういった次元の話ではないのだ。

 私はあれ以来、会社を辞めるまでの間、煩わしかったあの男の話声を、面白く楽しむようになれたのだ。

 

 まだ降りる駅まで時間がある。ちらほらとサラリーマンの姿も見え始めてきたところである。彼らの姿を見ていると、誰一人として楽しそうには見えない。彼らは皆、なりたくて今の姿になったのだろうか。いま私はスーツを着ており、彼らと同じような格好をしている。しかし、私が私服であれば、彼らは私をみて休日をうらやむのか、無職を馬鹿にするのか、いったいどう感じるのだろうか。

 いや、彼らが人に関心を向けることがないのを私が一番よく知っているではないか。でも、諸君が私に興味をしめさなくとも一つ無理にでも聞いてやりたい。諸君らは、本当に望んで今の姿になったのかと。

 高校では、いい大学に行くように親と教師に言われ、大学ではいい会社に就職するようにと世間の流れに押し流され、入社後には出世をしなければとありもしない焦燥感に駆られ、自分の意思を捨て、やがて疲れ切って考えることをやめてしまっているのではなかろうか。

 本当に悪いのは自分か、はたまた社会なのか。わかっていても、社会が悪いのだと思いたくはないのだろう。自分が悪いと思った方がいくらか楽になれるからだ。もう少し諸君は自分を信じても良いのだ。

 

 ふと前を見ればいつの間にかさっきの親子はいなくなっていた。暗闇が空を覆い、その中で月の明かりが異彩を放っている。

私は月になろう。この世の中で少しでも前を向いて歩ける人がいれるように。

 

二両目

 

 私が通学の電車で今日もここに座るのは、反対側の席にいつも彼女がいるからだ。私が乗る次の駅で彼女はこの車両に乗り込み、いつも私の対面に座る。この事に気づいたのはつい先週のことで、意識し始めるとどうも可笑しな縁をかんじてしまう。

 おそらく彼女は、毎朝自分の目の前に同じ男が座っているということに気がついていないだろう。私もスマートフォンの充電を忘れ、車内で暇になることがなければ気付かなかった。

 彼女の見た目は、これと言って秀でているわけではない。盗み見しておいて何をぬけぬけと、と思われるかもしれないが事実だから仕方がない。

 でも、何故だか彼女にひかれている自分がいるのは、私がロマンチストだからだろうか。いまからでも席を立ち、陽気な挨拶をかわし、数年来の友人のように彼女と語り合ってみたくて仕方がない。そうなればどれほど仕合せなことか。

 だが、どうしても私は彼女に話しかけることができない。これは、なんというか直感のようなものなのだが、彼女に話しかけられたとたんにきっと私は絶望し、その果てに電車を飛び出し、そのままホームへ飛びおりて自殺してしまうだろう。

 実におかしな話だが、この気持ちは形容しがたい不思議なものである。何故こう感じるのか探っているうちに、思考は感情の海を漂い、そうして深い霧の内に入り今自分が何処なのかもわからなくなってしまうのだ。

 ああ、諸君らの心の内に女神はいるだろうか。

 諸君らが理想とする女性像だ。決して他者から汚されることなく、己がうちにのみ存在するあの美しいものだ。同時にあれほど醜悪なものもないのかもしれないが。

 きっと私は、目の前に座る彼女を見ているのではなく、そこから感じた運命を通して、己の中の女神に魅入られているのだ。

いつの間にか私の降りる駅である。すでに扉が開いており降りなければならない。私はすぐに立ち上がり、電車を出た。

「すみません、これ落としましたよ」

 女性の声に振り返ってみれば、そこには私が落とした定期券を例の彼女が持っていた。目を見開き、固まってしまったせいか、彼女が少し不安そうな顔をしている。私はゆっくりと息を吸い込んだ。そうして笑顔を作り落ち着いた口調で話した。

「ありがとうございます。いや、これがないと危ないところでした。あ、電車行ってしまわれましたが、大丈夫でしたか」

「いえ、私もこの駅なんです」

 ああ、卑しいね。それ見たことか。やっぱり私は女神を見ていたんだ。

 

三両目

 

 ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。

 電車の音が、私は嫌いだ。私がまだ幼いころ父と母は共働きで、小学校から帰ってきた私は一人台所の端でよくうずくまっていた。窓から差し込む赤が、リビングを血で染め上げたようにしている。遠くからは、電車の音が聞こえてくる。その音の後に決まって家のチャイムが鳴った。古い家のため、チャイムの音はとぎれとぎれであり、不協和音をかなでている。恐る恐る玄関を除けば、すりガラスに大きな人の影が映っている。それが低い声でいつも言うのだ。いないか、いないか。ゆっくりと低い声で、いないか、いないかと。私はただ怖くて、台所に駆け込み端に座り込むことしかできなかった。ただ両親が家に帰ってくるまで、震えていることしかできなかった。

 両親の夫婦仲は良い方ではなかった。口喧嘩が多く、夜中にも関わらず怒鳴り声をあげていた彼らの姿は私の記憶に深く刻みついている。あまりにも酷い時は、近所に住む母方の祖母の家に私は泣きながら逃げ込んでいた。泣きじゃくる私を祖母はいつも温かく受け入れてくれた。

 ある夜、とうとう父は母に手を上げた。いつものように些細な言い合いから始まった喧嘩であったが、父は普段以上にいら立っており、晩御飯がのる机をひっくり返して母の髪を引っ張り上げ左頬を幾度か殴りつけた。そのあと母は奇声をあげ、落ちた食器を父に投げつけていた。私はただ怖くて、息を殺すことしかできなかった。

 そんな家庭環境が続き、私はひどく内気な子どもになった。

 その日も私は小学校から帰って来て、リビングが赤く染められるまで算数の宿題をしていた。外を見れば蜘蛛の巣にかかった蝶が今にも蜘蛛に食べられそうになっていた。私はなんだか可哀想だったから、窓を開けて手を伸ばし、蜘蛛の巣から蝶を離してやった。そうしてぐちゃぐちゃになった蜘蛛の巣を見て、どうしようもなく悲しい気持ちになった。

 もう元には戻してあげられないんだね。

ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。ガタン。

 遠くの方から聞こえる電車の音。私は窓を勢いよく閉め、台所に駆け込んだ。あの時間だ。

ピーンポーン

 かすれがすれで不気味なチャイムの音が部屋に鳴り響いた。私はいつものように台所の端にうずくまって震えている。ただ目をつぶってじっと。こうしていればいつの間にかあれはいなくなる。いないか、いないかと聞こえてくる。大丈夫、大丈夫。ガタガタガタガタと玄関を叩く音が聞こえてきた。いつもはこんなことないのにどうして。

 恐怖で声が漏れてしまった。私は慌て自分の手で口をふさいだが、あれには聞こえていないだろうか。

 耳を澄ました。

 庭の砂利を踏む足音が聞こえる。そんな、いつもはこんなことないのにどうして。でも、家にいれば大丈夫なはず。きっとあれは入ってこれない。キュウーという音がリビングの方から聞こえてきた。窓を開けた時の音だ。さっき鍵を閉め忘れたのだ。ぎぃ、ぎぃ、という足音で、あれが部屋に入ってきたのがわかってしまった。ゆっくと足音が台所の方に近づいてくる。私は恐怖でその場から立ち上がることすらできず、ただ震えることしかできなかった。そうして台所からリビングに繋がる扉がゆっくりと開かれた。

 私があの家にいたのはあれが最後だ。両親は離婚し、私は母についていくことになった。近所だった祖母の家で、祖母と母と私の三人で暮らすようになった。

 

私は電車の音が嫌いだ。あの夕焼けを思い出すから。

私は電車の音が嫌いだ。あの蜘蛛の巣を思い出すから。

私は電車の音が嫌いだ。あの日の記憶がよみがえるから。

ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。

 

鈍行に揺られながら、私はただ夕焼けを眺め続けた。