死ねばいい。そう思った。
いつも死にたいと思っていた。だけど邪魔者が付きまとっていた。
だが今なら邪魔する者はいない。今のうちに。死にたいと思っても、ずっとずっと、出来ずにいたのだから。
だから、今のうちに、死んでしまえ。
胸のあたりにたまったモヤモヤしたものを振り払おうとして、地を蹴る足に力を込める。あれからずっと走り続けているのに、不思議と疲れを感じない。
とにかく遠くへ。慣れ親しんだ世界から離れる。私はその一心で足を動かし続けた。そうすれば、この胸の内でもつれ合う何かから逃れられる。
ただそう信じて、ただただ知らない道へと突き進んだ。
交差点や角を曲がる度に、見える景色は、次々に入れ替わっていく。それがどこの道路なのか、誰の家なのか。もはや分からなくなっていた。まるで違う景色の写真を次々に見せられているかのような感覚にとらわれていた。
と、その時、そのスライドショーの中に、突如光が差し込んだ。
光のまぶしさに思わず目を閉じた。しかし瞼越しに光は視界を明るく照らし、休まず動き続けていた足も止まった。
しばらくして、ゆっくりと閉ざしていた目を開いたとき、映っていたのは公園の景色だった。
一見すると、ただの大きな公園だった。周りを住宅街に囲まれたその公園は、子供が何人乗っても大丈夫そうな、大きな遊具が並んでいる。空高くに昇った太陽が、公園全体を明るく照らしている。公園の遊具たちは日の光を反射して輝いていた。
だが、こんなにいい天気なのに遊びまわる子供や親もいなければ、ゲートボールを楽しむ老人たちもいなかった。公園も、更にはその周りの住宅街も、不気味な静けさに包まれていた。
夏の暑さのせいで、外に出歩くこともできないのだろうか。そう解釈すると、身体が走り続けた疲労と地獄のような暑さを思い出し、汗が一気に噴き出てきた。
冷たいものが飲みたい。そんな欲求に駆られ、吸い寄せられるように入り口付近に置かれていた真赤な自動販売機へと向かっていた。
財布からいくらかの小銭を取り出し、投入口に突っ込む。そして炭酸飲料のボタンを人差し指でカチカチカチカチと連打した。こんなことをしても炭酸飲料が早く出てくることはないとは分かっているのだが。
プシュッと音を立てて缶のふたを開け、炭酸飲料を流し込みながら、照りつける日光から逃れて木陰のベンチへと歩いた。喉の奥ではじける炭酸と、突き抜ける爽快感が心地よかった。
ベンチにどっかりと腰掛けて疲れ切った足を休めながら、静かな公園を眺める。人のくる気配が全く感じられない。まるで自分以外の人間が全員消えてしまったかのようだ。
本当に、遠くへ来てしまった。
慣れ親しんだあの家から。あの世界、から。
……あの、地獄から……。
「こんにちは」
聞きなれない声に、引き戻されかけていた心が、再び一時的に解放された。
顔を上げるとそこには、柔らかな表情を浮かべた、一人の老婆がいた。少し腰の曲がったその老婆は、古びた麦藁帽を被り、黒いレースの日傘をさしている。
「隣、いいかしら」
突然現れた見知らぬ老人に戸惑いを隠せず、ただ頷くだけしか出来なかった。だがそれを許可と受け取ったらしく、老婆は「ありがとう」と礼を言って、私の隣に座った。
沈黙が続いた。気まずい雰囲気に息苦しくなるが、何を話せばいいのか分からない。老婆の方はどこか遠くを見つめているばかりで、こちらと話をする気が無いように見える。私は何をはなすべきかと考えたくもなかった。何か考えようとすればあの地獄のことが真っ先に頭に浮かんでくることは分かっている。
とにかく今は頭を働かせたくないので、私は周囲の目についた物に意識を向け続けた。傾斜の急すぎる滑り台や、私の身長の三倍以上ありそうな高いはん登棒を見上げて、あれは流石に危険じゃないか、とか思考を巡らせた。ふと、公園端のアスファルトの道からコンクリートの壁へ、色とりどりのチョークで描かれた円が目に留まる。最近の子供達はけんけんぱで壁を歩くことができるのか。
……いや、何を考えているんだ、私は。
「あなた、弟か妹がいるの?」
「え」
いつの間にか、老婆の顔はこちらへ向けられていた。彼女の口から突然飛び出た質問に、私は戸惑った。それ以前に話しかけられたのがまた急すぎたので、私は頭が真っ白になってしまった。
「……えっと……いますけど……弟が……」
「あら、そうなの。立派なお姉さんなのね」
「はあ」
話が嚙み合っていないように思える。どういう流れでそういう話になったのだろうか。
「よくここに遊びに来るの?」
「いえ……」
「あらあら。だから物珍しそうに色々見てたのね」
老婆はそう言ってまた顔に笑みを浮かべる。そんなつもりは無かったが、彼女の目にはそう映ったようだ。
突然隣に座られたり、何も話さないと思えば観察されていたり、この人はよく分からないし、謎めいていて少し恐ろしくもある。しかし、彼女の持つ穏やかな雰囲気は、不思議と心が落ち着く安心感があった。
「あなたはこの辺りに住んでいるの?」
「いえ、もっと遠くの……えーっと……」
そうだ。ここはどこなんだろうか。
自分の足でここまで来たから、家からそこまで遠くはないはず。でも走るのに必死だったから道は詳しく覚えていない。
とりあえず出来る限り思い出せる道を思い出しながら方角を指しておいて、問いかけられた聞きなれない地名にも適当に答えた。
「へえ、そうなの」
老婆は興味深そうに頷く。この調子だとここまで来た経緯まで聞き出されそうだ。
……また、思い出してしまう。
「……ん? どうしたの」
「あ、いや……」
なぜだろうか。なぜか恐怖を覚えてしまう。
あの地獄から抜け出せることを喜んでいた自分が、もうどこかへ消えてしまった。今私の中にあるのは、死にたいくせに死ぬのを怖がる、臆病者の自分だ。他者の意思に囚われて自分の意思を貫けずに苦しむ自分だ。
どうやら、私はまた、逃げることが出来なかったようだ。
この先はまた、死にたいけど死にきれない、その葛藤に苦しみ続ける日々が待つばかりなのだろう。
そして……
「大丈夫?」
右肩に、微かにぬくもりが感じられた。
気が付くと、老婆が私の顔を覗き込み、左手を私の右肩にそっと乗せている。
彼女の一言で、私の心の中にはある感情が不意に芽生えた。
その感情とともに、苦しい日々の記憶も同時に流れてくる。
でも、もう私には、それを堪えることが出来なかった。張りつめていた糸が、ぷつん、と音を立て、その直後には既に、胸の内にあった何もかも全てが、口を伝って解き放たれていた。
「逃げ出してきたんです。あの地獄から」
我を忘れるほどに泣いた。
どこまでの内容を話したのか覚えていない。
ただひたすらに心の奥底に溜まった苦しみを「掃き出した」。
そうすることで、少しずつ、少しずつ、身も心も軽くなっていくような気分だった。
「話してくれてありがとう」
私がひとしきり話し終えたのを見て、目の前のおばあさんはまた笑顔を見せて、落ち着いた声で言った。
「いえ……こちらこそ、ありがとうございます」
まだ涙声のまま、私も礼を述べる。おばあさんはゆっくりと頷いて、
「耐えきれない苦しみを誰かに話すことは、とても大切なこと。そしてそれを受け止めてあげることもね」
鞄から何かを取り出しながら言った。それから、鞄から取り出したものをそのまま、私の手にそっと握らせる。
「私には受け止めることしか出来ないけれど。せめてこれだけでも持っていて」
そっと、握った手を開くと、こけしのような形をした、小さな小さなキーホルダーが乗っていた。顔を少し赤らめたこけしの小さい穏やかな両目が、こちらを真っすぐに見つめていた。
「あ、あの、ありがとうございま」
「ばあ~!」
いきなり小さな男の子が私の両膝に飛びつき、私の言葉は遮られた。
「こら、駄目でしょ! ごめんなさいねぇ」
すぐさま母親らしき人物が、男の子を私の膝から引きはがす。私は突然のことにただただ唖然としていた。
「え、あ、いいえ……」
言葉につまりながらもそう返しながら、私はおばあさんの方に向き直った。
「あれ」
しかし、そこには彼女の姿は無かった。先程まで置かれていたおばあさんの手の熱が、ほんの少し右肩に残っていた。
彼女は一体、何者だったのだろうか。考えながらこけしに目を落とすと、彼女の笑顔がこけしの顔に重なったように思えた。
「……ありがとうございます、おばあさん」
言いそびれてしまった礼の言葉を、こけしに向かって投げかける。そしてこけしをズボンのポケットへ、大切にしまった。
公園は気が付けば、たくさんの子供の声で溢れかえっていた。皆それぞれ好きな遊具に集まって、好きなように遊んでいる。
その楽しそうな声を聞きながら、私はゆっくりとベンチから立ち上がった。すっかり炭酸の抜けたジュースを飲み干して、スマートフォンでマップのアプリを開く。
大丈夫。私の心の中には、その一言が何度も何度もこだましていた。保証は無いし、この先はまたきっと苦しい日々に心が折れそうになるかもしれない。それでも、その未来の中に、微かな光が差し込んだように思えるのだった。
左手のスマートフォンの画面をにらみ、私は自宅までのナビを起動する。もう片方の手をポケットの中で握りしめながら、私はナビに沿って歩き始めた。
了