赤い花が伝えてくれる想い

 

 ピィーと無機質な電子音が鳴り響き医者や看護師たちが騒がしく動き回る中、私は最期の時を迎えていた。

 

 元々未熟児として生まれ、病弱にも色々な病気を併発して生きてきた私にとっては、長く生きられた方だと思う。今まで、周りの人たちには沢山の迷惑をかけてきた。何も返せないで逝くことは心残りではあるけれど、同時に安堵している自分がいる。もうこれで、誰にも迷惑をかけないで済む。もう、苦しまなくてもいい。そう思ってしまうことが、支えてくれた両親にも、唯一の姉妹であった姉にも申し訳なくて、罪悪感が私の胸に溢れる。

 

 十六年の短い人生だったけれど、思い残すことは沢山あった。その中で、どうしてもやりたかったことが一つ。「せめて最期に、お姉ちゃんに謝りたかったな」そう思って虚空に手を伸ばしたのを最後に、私の意識は遠ざかって行った。

 

 次に目覚めた時、私はまだ生きていた。なんだか、ずっと眠っていたかのような不思議な感覚と、今まで以上に体が衰えているようで、少し動くのも億劫になる感覚はあるけれど、私は確かに生きていた。

 

「ど……う、して」

 

 私の発した音は、ピッピッと脈拍を表す一定の機械音しかしない静かな病室に響いた。それにすぐに気が付いたのは、私の手を握ったままベッドへ頭から突っ伏すように眠っていたお母さんだった。

 

「う、ん? ……あ、ああ」

 

 お母さんは、疲れているのか気だるい様子で顔を上げると、まるで信じられないものを見るように驚いてから、急に涙を流しだした。

 

「あなたは、生きていてくれるのね。千鶴」

 

 なんで泣いているのか、私には分からなかった。でも、覆いかぶさるように、動けない私を抱きしめてくるお母さんはなんだか懐かしい匂いがして、伝わってくる心音と温もりに靄がかかったような、まだはっきりしていない私の意識は簡単に眠りへと落ちて行った。

 

 それからしばらく経って、自分が生きていることに疑問を持ちながらも、私は最低限動けるようになっていた。そして、手に入れたものと、失ったものを知ることになる。

 

 私に告げられたのは、二つ。一つは、姉が事故に遭い死んでしまったということ。もう一つは、運よく見つかったドナーによって、私は移植による延命ができたことだった。

 

 私はその話を聞いても、不思議と涙は流れなかった。

 姉が死んだことに対する悲しみも、私がいまだに生きていることへの喜びも、なぜか湧いてはこなかった。

 

 姉が死んだ。私は生き残った。姉はもういない。私はもう姉には会えない。どうして。その言葉が頭の中で繰り返される。死というものは、自分がするもので誰かが、姉が死ぬなんて考えてもみなかった。だからすぐには理解できなかった。

 

 姉は、私と違って健康で、優しくて、勉強ができて、人々に必要とされていた。なにより、私にとって大切な存在だった。なのに、どうして。疑問が止まらず、あふれてくる。
 姉はよく私の面倒を見てくれていた。仕事が忙しくて時々しか会えなかった両親に代わって、私をいつも見守っていてくれた。それは、私が入院してからも変わらない。次第に、学業が大変になったらしく休日の短い時間しか会えなくはなったけれど、それでも不定期な両親と違って必ず週末には会いに来てくれていた。そんな姉は、私が生きていくうえで重要な支えだったんだと思う。失ったと知った、今だからこそ素直にそう思えた。

 

 だから、余計に心が痛い。どうして、もっと早く素直になれなかったのか、後悔の想いが募る。そうしていれば、こんな気持ちを味わわないで済んだのかもしれないのに……。
 後悔に揺れる私は、自然と姉との最後の会話を思い出していた。あれはもう半年以上も前の、私の誕生日。

 

「誕生日おめでとう」

「今日は私の誕生日じゃないけどね」

 

 忙しい中、せっかく来てくれた姉のお祝いの言葉に、私は冷たく返していた。私の誕生日は、二月の二十九日、四年に一度しか訪れないうるう年の日だった。その日は二十八日で、無理なことは分かっていても、せめて次の日にもその言葉を言ってほしい。でも、その想いを口にするのが恥ずかしくて、結局言葉にすることができなかった。その考えがあくまで口実で、本当は姉に少しでも長く傍にいてほしいと、そう思っていることが自分でも分かってしまっていたから。

 

「忙しいんでしょ。用がすんだのなら、さっさと帰れば」

 

 私にできたのは、心の中で心配することだけだった。姉は、そんな私の言葉を聞くと苦笑いを浮かべて何も言わず立ち去って行った。ただ、閉じられた扉の向こうから呼吸が乱れ、辛そうで悲痛な姉の声と、答える看護師の声が聞こえていた。

 

「あの子のこと……よろしく、お願いします」

 

 それが、どんな気持ちから紡がれた言葉なのか、私には解らない。でも一つだけ、私にはもうあの人を姉と呼ぶ資格すらないことだけは理解できた。
 
  気が付くと世界は赤く染まっていた。
  ゆらゆらと動く赤が、私の周りで踊っている。
  たらたらと流れる赤が、私を染めていく。
  意識するとそれはすぐに意味を持った。
  痛くて、暑くて、重くて、体が動かなかった。
  苦しくて、辛くて、嫌なのに、声が出なかった。
  何が何だか分からなくて、涙が零れる。
  誰もいない、何も聞こえない。
  そこは、終点だった。
  消えていく痛みと感覚。
  体からは熱が失われていく。
  私はそこで悟った。
  私という存在の終わりを。
  だからこそ願う。
  この命が、あの子の糧になることを。
  それしかもう、私にはできないから。
  だからせめて、今だけは願わせて。
  信じることのできなかった神様にも。
  この祈りだけは届きますように、って。
 
「っはぁ、はぁ……夢?」

 

 私は勢いよく起き上がると、荒い呼吸の中、自分の体を確かめるように腕で肩を掻き抱いた。

 

「なんともないよね?」

 

 さっきまで感じていた痛みも苦しみも今は感じない。周りを見れば、薄暗い中に私の心拍数を映したモニターだけが光っていた。ベッドの周りの空間は不自然に空いていて、余計な家具のない整然とした部屋。見慣れた私には、ここが病室だとすぐに分かった。
 部屋の中は燃えていないし、熱くもない。薬品の匂いはするけれど、焦げ臭かったり苦しくなったりはしなかった。

 

「はあー」

 

 周りが安全だとわかると、力が抜けたように体はベッドへと倒れた。まだ、動悸は治まらない。モニターにもそれがはっきりと示されていて、少しずつ治まってきてはいる。

 

「なんだったのかなぁ、あの夢」

 

 何の変哲もない天井を見ていると、自然とさっきまで見ていた夢が浮かんできた。まるで自分が体験したかのようなリアリティーを持つ夢。感情だってそう。誰かは分からなかったけど、あの人になりきっているような、私があの人であるような、そんな不思議な感覚。

 

「もしかして、私の前世の記憶だったりして……ふふっ流石にそれはないか」


 私は夢で感じたことを塗りつぶすように、わざとありえないことを口走って笑った。その笑いは空虚に響くだけで、意味を持つことはなかった。

 

 

 

 あれから、一週間の時が過ぎた。私の中にある想いは大きくなるばかりで、消えてくれない。
 あの人のように優れていなくてもいい。
 あの人のように幸せが溢れていなくてもいい。
 ただ、私は普通の平均的な人生を送れれば満足なのに。

 

「どうして、邪魔をするの?」

 

 いつも浮かべている作り笑いを止めて、虚空に向けて問いかける。当然答えは返ってこない。だけど私には、それが答えであるように感じられた。

 

「そんなに私が幸せを手にするのが嫌なの? でも残念、あなたにできるのはせいぜい悪夢を見せることぐらいでしょ」

 

 私は負けない、あなたには絶対、ね。挑発するようにそう口にして私はふたたび眠りにつく。繰り返される夢の中で、私はただ笑っていた。

 

 

 

「退院おめでとうございます」

 

 看護師はにこやかにそう言った。

 

「退院おめでとう」

 

 主治医だった中年の先生には、少し高圧的でぶっきらぼうにそう言われた。

 

「……元気になってよかったわ」

 

 お母さんはそう言って泣きながら抱きしめてきて、お父さんは始終無言だったけど、よく後ろを向いて目を擦っていたのを見逃さなかったし、目が赤くなっていたから泣いていたのだろう。それが私に向けられた想いでないのだとしても、私は嬉しいと思えた。これからは、私が夢見ていた家族での生活が待っている。だから、あの人がいなくても私は……。

 

「お世話になりました」

 

 私は見送りに来てくれた人達に頭を下げてお礼を言うと、嬉しそうに手を振ってくれる看護師に手を振り返して、お父さんの運転する白い軽自動車へと乗り込んだ。

 

「お世話になりました。本当にありがとうございました」

 

 お母さんも病院の人たちに頭を下げてから車に乗ってくる。お父さんはそれを確認してから、一礼してゆっくりと車を発進させた。徐々に遠くなっていく病院を見ながら、私は振り続けていた手を下して笑った。

 

 今日は私の退院の日、長い時間を病院で過ごしてきた私にとっての記念すべき日になる。もう私は病弱で何もできなかった過去の私じゃない。もう存在しないあの人にも負けない自信がある。なにより、私はあの人の残していった呪いに打ち勝ってここにいるんだから。

 

「私の勝ちだよね」

 

 なら、もういいでしょ? あなたが持っていたもの全部、私がもらってあげる。私はあの人に向けて、心の中で語りかけた。返事もなければ反応もない。だけど、私にはあの人の存在が身近に感じられていた。まるで、私の中にあの人が存在しているかのように。

 

 あの日から始まった夢はまだ続いている。相変わらず誰とも分からない人の記憶。進む時間の中で、止まったままの時間。やっと掴んだ希望を覆い尽くすような絶望。

 

 おかげで、一時期は回復に向かっていた体が危篤寸前まで悪化した。プライドなんかよりも生きる

ことを優先して、なりふり構わなかったのがよかったと思っている。そうでなければ、今頃死んでいても可笑しくないと思う。

 

 悪夢による直接的な影響、睡眠不足や疲労の蓄積、幻痛や幻覚は投薬によって、間接的な食欲不振、拒食による栄養失調には点滴で対応したのだ。薬に関しては寝る時に今でも睡眠薬を使っている。これは、私が思う完璧な勝ち方ではないけれど、そもそも凡人にも劣っていた私が、死んだとはいえ恵まれていたあの人に差しで抗えるわけがない。それ以前に、死んだ人間が未練たらしく現世に関わってきているのだから、こっちも医学に頼るくらいはいいはずだ。

 少なくても私は、そう思い込んで今を生きている。

 

「だから、やっぱり私の勝ちだよ……」

 

 前に座る両親には聞こえないように、小声で呟いて私は嗤う。それが、強がりなことは分かっていた。それでも、私は嗤わないといけないと思う。私が抱いているあの人に対する想いを完全に消すためにも、なによりあの人を超えたのだと自分の中で想えるようにしたい。そうすればきっと、私の中にいるあの人は消えてくれるはずだから。

 

「だから、お願い……もう私を解放して」

 

 

 

 それは、無意識に漏れた想いの欠片だった。

 

「ほら、そんな顔しないの。私たちがいるから大丈夫よ。さあ、外の景色でも見てみなさい。あなたが知っている街並みとはずいぶん違っていると思うわよ」

 

 私が一人物思いにふけていると、お母さんが心配して話しかけてきてくれた。どんな顔をしていたのかは、自分ではよく分からなかったけど、取り敢えず心配されるような顔をしていたらしい。そのことに申し訳なく思いながら、私は笑顔を返して言われたとおりに窓の外を見ることにした。

 

「へぇー」

 

 そこに広がっていたのは、都市化の進んだ街並みで、長い間病院で過ごしてきた私にとって、この場所は未知の世界だった。

 

 私が入院する前、五つを超えない頃の曖昧な記憶にはなく、窓から見ていた小さな風景でもない、私の周り三百六十度を囲う様々な建築物、道を行き交う沢山の人々。記憶にある知識や、入院してから教えてもらったことを照らし合わせると、それがなんなのかはわかる。道の左右に立っている大きいものは、仕事をする場所として使うビル。多くの人が住んでいるマンション。小さいのは、居酒屋っていうお酒を飲むお店、カフェっていうコーヒーやお茶を飲むお店、食べ物を売っている飲食店、あとは小物や洋服を売っているお店に個人の家もある。

 

 どれもこれも、私にとっては見慣れないものだった。テレビや情報誌、養護学校の教科書でその姿は見たことはあっても、こうして直に見るのは記憶にある限り、初めてのことになる。道を行きかう多くの人々を見るのもそう、私の感性では多いと感じるけれど、普通に見れば少し栄えている街、良くても準都市といえるぐらいなのだと思う。ニュースで見たことのある東京の交差点と比べれば、少ないともいえる人数に過ぎない。でも、それをどこか遠い所のことのように思っていた私には、それだけで充分だった。車が側を通り過ぎる少しの間だったけれど、私はビルやマンションの予想以上の雄大さに感動を覚える。そしてこれから先、沢山の初めてを経験していくのだと密かに期待を抱いてしまった。

 

「……ごめんなさいね。本当なら、少しは外に出られたはずなのに、ずっと病院で過ごさせてしまって」

 

 そんな時、私がとても嬉しそうに窓の外を見ているのを見たお母さんが申し訳なさそうに謝ってきた。すぐに言っている意味の分かった私は、気にしないでと笑って返した。うまく笑えていたかは自信がないから、すぐに視線を窓の外に流れる光景に移して、そのまま言葉を続ける。

 

「お父さんもお母さんも仕事が忙しいのは、分かってるから」

 

 私は当り障りのない言葉を口にしていた。頭で分かっていることと、感情は別にある。私はもう、感情のままに行動する子供じゃない。だからこそ、ここで私の想いを口にすることはできなかった。

 

「そう……でもね、これからは大丈夫よ。私もお父さんも、受け持つ仕事の量を減らすことにしたの。これで、少しは」

「えっ、どうして、まさか私の」

 

 私はお母さんの思ってもない言葉に慌てて振り向き、続いていた言葉を打ち消す様な勢いで口を開いた。でも今度は逆に、私が言い終わる前にお母さんの言葉が発せられた。

 

「違うわよ。私は今までの仕事が評価されて、昇進が決まったの。そうなると、管理職だから今まで見たいに現場に行くことも少なくなるだろうし、前みたいに全国各地を飛び回る必要もなくなるわ」

 

 お母さんは、私とは違って落ち着いた声で私の言葉を遮り説明してくれる。話してくれている顔は、嘘をついているようには全然見えなくて、私は安堵のため息をついた。

 

「そうなんだ、おめでとうお母さん」

「あら、ありがとう」

 

 私がまた迷惑を掛けたんじゃないかと思って心苦しく感じてしまったけど、どうやら杞憂だったらしい。

 

「あれっ? じゃあ、お父さんは」

 

 お父さんもっと言っていたのを思い出して聞いてみれば、返ってきたのは沈黙だった。

 

「さあ、着いたわ。ここがあなたの家よ。覚えているかしら」

 

 私が疑わしい目でお父さんを見ていると、それを見てクスクスと笑っていたお母さんが到着を知らせてきた。言われて気づくと、見覚えのある青い屋根の家を前に車が止まる。お父さんはその瞬間、逃げるように家を目指して動き出した。ただ、男性として、父親として荷物を降ろすぐらいはしてくれるらしい。お母さんは、そんなお父さんを一瞥し苦笑いしてから、少し不安そうに私を見てくる。だから、安心してもらえるように私も苦笑い気味に微笑んで応えた。

 

「うん。なんとなく、だけどね」

 

 私は、大きくはないけれど小さくもない町外れの一軒家で、洋風の造りに青い屋根と、犬好きのお母さんが大型犬も飼えるようにって希望したらしい無駄に広く、何もないまっさらな庭があることだけはよく覚えている。

 

「そう……なら、改めてここがあなたのお家よ」

 

 余り覚えていないことに残念そうにしながらも、お母さんは目の前にある家を差して私に微笑みかけてきた。

 

「また、あなたと暮らせるなんて……先に、行ってるわね」

 

 言葉に詰まったお母さんは、何故か慌てて家へと入っていった。私は涙声だったことから、その理由が何となく分かったので、家の姿を外からゆっくりと見ていくことにした。

 小さい頃に見たきりでもう何年も帰っていなかった私たちの家。過ごした時間はとっても短いはずなのに、不思議と懐かしく感じて、私はただじっとその姿を眺めていた。

 

「うっ……ん?」

 

 胸が急に痛んだのはそんな時だった。すぐに痛みは引いたけど、私の胸はこの家を嫌がるように大きく脈を打っている。でも、反応はそれだけであとは何事もなかったかのように変化はない。だから、私も深く気にも留めず、ただ寒くなり始めた体を温めるために、家へと歩みを進めた。そして、横開きの扉を潜って玄関へと入っていく。

 

 パンッ。途端に鳴り響く破裂音。私はとっさに目を閉じて両手で顔をかばった。だけど、次に聞こえてきた声に唖然としてしまう。

 

「おかえりなさい」
「おかえり」

 

 そこにはクラッカーを持った両親が待ち受けていた。顔には年甲斐もなく、いたずらに成功した子供のような笑みが浮かんでいる。

 

「お母さん、お父さんも、やめてよぉ。心臓が止まるかと思ったじゃない」

 

 私は、今まで見ることのできなかった明るい両親の姿を嬉しく思いながらも頬を膨らませて、まるで幼い子供のように怒って見せた。

 

「そうね、今度から気をつけるわ」

 

 お母さんは気にもしていない態度で、楽しそうに笑いながら言った。

 

「全然反省してないんだから」
「まあ、いいじゃないかたまにはこういうのも」
「お父さんもだからねっ」

 

 自分は関係ないという口調でお母さんを庇ったお父さんに私が注意すると、それが面白かったのか両親は心底楽しそうに声をあげて笑った。
 そうすると、普段は目立たない皺が顔に深く刻まれているのがよく分かる。両親はまだ、四十代前半だった。そこに私の掛けた苦労が、どれほどのものなのかが表れている。それを見て、暗くなりかける私に気づいたお父さんは、私の頭に手を置き穏やかに笑いかけてきた。今この瞬間がその苦労が報われた時なんだと暗に告げているように。お母さんも、それに続くように私の手を取って笑いかけてきてくれる。

 

 私の夢見た笑顔の溢れる家族がそこにはあった。私がずっと求めてきたものが……でも何故か満たされない。それどころか、足りないものが強調されているみたいで心が痛い。
 私はそれを誤魔化すように両親と同じように笑った。

 

  そこは、見覚えのある場所だった。
  帰ってくる場所・暮らす場所・冷たくて寂しい場所。
  私はそこでただ一人過ごしている。
  誰もいない、誰も帰ってこない。
  凍えるように寒いその場所は、私に孤独しかくれない。

  どれだけ頑張ろうと、誰も私を見てくれない。
  私は一人、ここにいるしかないのに……。
  寂しさが、悲しみが、私を黒く染める。
  憎い、私からすべてを奪ったあの子が。
  憎い、私を見てくれないあの人たちが。
  憎い、憎い、憎い、憎い、―― でも。
  輝きは、完全には消えてくれない。
  寂しいよ。どうして私を見てくれないの。
  悲しいよ。どうして私はいつも一人なの。
  悔しいよ。どうして私は……。
  想いは、願いへと変わっていく。
  叶うことのない願い。
  それでも私は、願った。
  私は、いい子にするよ。これからも。
  だから、お願い。私を見て。私はここにいるよ?

 

 帰ってきた家で眠っていた私は、今までと違う夢を見た。業火で焼かれることもなければ、痛みもない。消えていく命の灯火を感じることもなければ、怖くもない。

 ただただ、悲しくて苦しいだけの夢。

 

「うぅ……」

 

 感情を共有した私は、そこに込められた想いのせいで涙を流していた。次から次へと零れ落ちる涙は止まることを知らないかのように流れ続ける。私の想いなど知らないと言わんばかりのそれは、まるで誰かの心を代弁するかのようだった。

 

 しばらくすると、涙は自然と枯れていた。残ったのは涙で濡れた枕と、ぐちゃぐちゃの顔、腫れて赤くなった目だけだった。流石に帰ってきてすぐ両親を心配させたくなくて、私はその日早々に寝坊して昼過ぎに起きようと決めた。朝日がのぞく空を見ながら、目の腫れぐらいは治っていますようにと祈ってから毛布を頭に被り二度寝を敢行する。今度の夢はいつもと同じだった。でも、泣いたことで精神的に不安定になっていた私は、そのいつもと同じ燃える炎の中で、久々に感じる薬に頼らない自然な睡眠は、なんだか新鮮な感じとも合わさり、つい手を伸ばしてしまった。いつもなら動かそうとも思わないその手を、触れてはいけない真実への扉に……。

 

「お墓参り?」

 

 あれから一カ月経ったある日、お母さんの口から出た言葉を聞き返した私は、もうそんな時期かと時間の過ぎる早さに驚いていた。

 この一年、ほとんどを病院のベッドで過ごし、この一月は日常生活に必要なことを学んだり実践してみたり、来年からいけることになっている高校の勉強をしていたら、あっという間に時間が過ぎていた。

 

「そっか、もう一年経つんだね……」

 

 私としてはあの人の、私を残して死んでしまった人のことなんてどうでもいいと思っているけど、両親は違う。本当にあの人を大切にしていた。だから、私は両親の前でだけはあの人を良く思っている風に装う。死んで悲しいと涙を流し、冥福を祈る。あくまで形だけとはいえ、その行為は私にとって、両親に対するいい印象稼ぎになった。だからか、私は素直にあの人のお墓の前で、死んだ今となって初めて言える感謝を口にしていた。

 

「ありがとう」

 

 でもっ、と心の中で付け加えて。

 

「もう、私は大丈夫だから……」

 

 早く消えて、これは紛れもない本心からの言葉だった。残念ながら、死者を想っての言葉ではなく、憎悪すら感じるほど暗い声音だったけど、両親は気にする素振りもなかった。

 

「はあ」

 

 私は、たとえお墓に向かってでも心に積もる想いが少しは発散出来て、無意識に吐息を漏らしていた。もし、ここに両親がいなければもっと想いのたけをぶつけられるのに、とも思わないではないが、自分の中でそれが無意味であることは分かっている。
 あの夢は今も続いている。薬なしでは満足に睡眠もとれない現状に私の心は疲弊しきっていた。特に最近、というよりもこの家に来てからは、何故だか時々見るようになった泣きたくなるくらい暗い想いのこもったあの夢のせいで余計に。だから、その元であるあの人に対する想いは留まるところをしらない。幸い、あの人のお墓は家から近く徒歩で行ける場所にあって、その日からお墓参りは私の

 

 日課になった。

 

「ありがとう、お陰で私はまだ生きてるよ」

 

 挑発するように、憎しみをぶつけるようにそう言い、私は嘲笑う。毎回ここに来ると、本当に嬉しくて自然と笑顔になっていた。でも、手を合わせたり、冥福を祈るなんてことはしない。ただ、死んだあの人に向かって笑いかけるだけ。本当はただ嘲笑ってるだけなのに、両親にはあの人に元気な姿を見せに行ってるって言えるからそうしている。

 

 でも、どうやら私はやり過ぎてしまったらしい。お墓に通い始めてから二カ月経とうとしている今日、もう今年も終わりという時間にお母さんから大事な話があるとダイニングに呼ばれた。行ってみれば真剣な顔をしたお母さんとお父さんが黙して椅子に座っている。

 

「どうしたの、お母さんもお父さんも、そんな怖い顔して」
「千鶴……」
「…………」

 

 私を見たお母さんは、病気が治ること、長生きできることを願ってつけてくれた私の名前を呟いて目を閉じた。お父さんは黙したままこちらを一瞥することもなく下を見つめ続けている。私は言い難そうにしているその態度から、大体の話の内容は分かってしまった。だから、どうか違っていますようにと祈ってから向かいの席に着く。でも、やっぱり、私の予想は当たってしまっていた。

 

「本当はあなたが成人してから話そうと思っていたのよ」

 

 なら、そうして。とは言えずに、私が知りたくなかった真実をお母さんは語ろうとし始めた。お母さん曰く、毎日欠かさずお姉ちゃんのお墓参りに行く姿が痛々しくて見ていられなかったらしい。そんなにあの子のことを思っているのなら本当のことを話しても大丈夫だろうと、そんな親心からの行動だった。

 

「あの子、あなたのお姉ちゃんはね……私たちが呼んでこっちに来る途中で事故にあって、病院に運ばれて来た頃には何とか生きているような、そんな状態だったの」

 

 語り始めたお母さんは気づかなかったけど、私は下を向き裁きの時が来るのを待つことしかできなかった。
 逃げるわけにはいかない。さまざまな感情に押しつぶされそうになりながらもその一念でなんとか耐えていた。
 私だって馬鹿じゃない。あの時、死を覚悟して意識を手放したのに無事で目覚めた時、あの人が、お姉ちゃんが死んだと聞かされた時、あの夢を、自分が死ぬことで妹の命を助けてほしいと神様に祈っている女性の心を感じた時、私は気づいてしまった。周りの人の優しさに、お姉ちゃんの献身的な犠牲に……。

 

 それでも、認めたくなかったからこそ、こうしてずっと自分に嘘をつき続けてきたのに……どうして真実なんてくだらない現実を私に突きつけるの?
 私は恩人であり大切な家族を苦しめて死へと追いやった最低な人間。そんなこと言われなくてもわかっていたのに。それでも、少しだけ、本当に少しだけでも普通の人として生きてみたかった。普通の幸せを感じてみたかった。ただ、それだけなのに……やっぱり、私にはそんな細やかな幸せでも手に入れる資格なんてなかったんだね。

 

「お姉ちゃん……ごめんなさい」

 

 私はお母さんに気づかれないよう、静かに涙を流した。それが、何に対しての涙なのかは自分にも分らないまま、私はお母さんの話を聞いていた。

 

「でもね、あの子は私たちが殺したようなものなの。もっとあの子を見てあげていれば、遠くに行くこともなかっただろうし、呼ばなければ事故にあうこともなかった」

 

 虚空を見つめたお母さんは懐かしむような、苦しむような声音で言葉を紡いでいく。

 

「あの子は昔から良くできたいい子だったわ。手はかからないし何でも自分でできて、私たちはそれに甘えてしまったの。仕事が忙しい、千鶴が心配だから病院に行く。そう言ってあの子に寂しい思いばかりさせてきたわ」
「それは私が」
「それは違うっ!」

 

 病弱だったせい。そう言おうとした言葉は、お父さんの強い口調によって遮られた。

 

「悪いのは俺たちなんだ。お前は気にするな」
「そうよ、あなたをそういう風に産んでしまったのは私たちの責任だわ。それにあの子をないがしろにしていたのは私たちよ。あなたが責任を感じることは何もないのよ」
「……それこそ違うよ」

 

 私の声は小さく弱弱しかった。

 断罪を待っていたのに、届いた言葉は全然違っていて、両親は自分たちが悪いという。そんなわけないのに。悪いのは私、全部私が悪いんだから。それをしっかり言葉にできない自分が嫌になる。心のどこかでまだ逃げたいと思ってしまっている自分を私は感じていた。

 

「私たちはね、あの子のことを何も知ろうとしてこなかった。そのことを、葬式の日にあの子と付き合っていたっていう男の子に教えられたわ。『お前たちに彼女の何がわかる。彼女をちゃんと見たことがあるのか、お前たちに親を名乗る資格なんてない』そう言われたの」

「……俺たちは、言われて初めて気づいた。同じ我が子であるはずなのに、同じように見てやれなかった」

 

 悔いるように、両親は下を向く。その姿は私と同じ、裁きを待つ罪人のようだった。だから、私も正直に自分の罪を告白できたのかもしれない。

 

「なら、やっぱりそれは私のせいだよ。私はずっと、お姉ちゃんからお父さんとお母さんを奪ってたんだから」
「だからそれは」
「違うよ、私が我儘だったから、だからお姉ちゃんも私から距離を置いて遠くに行っちゃった。元凶も原因も全部私なんだよ。それなのに私はその事実から目を背けて……私を残して死んじゃったお姉ちゃんを恨んでいたんだよ」

 

 始まりはただ、お姉ちゃんに私のこと見てほしかっただけだった。わざと冷たく当たったり八つ当たりしたり、お姉ちゃんと呼ばなくなったのは、小さな子供と同じ癇癪のつもりだった。でも、お姉ちゃんはそんな私から距離を置くようになって、段々と私たちの関係は希薄になっていった。
 あの時私が素直に謝っていればよかったのかな。そう思い返したことは数えるのも億劫になるくらい繰り返した。最期だと自分で思っていた時も、後悔だけが溢れていた。

 

「おね……え、ちゃん」

 

 最期の言葉と共に伸ばした右手が空を切り落ちていくのを見たあの瞬間、私の、私だけの人生は終わっていたんだって今ならはっきりと言える。
 でも、私は最も望んでいない形で助かってしまった。私が最期の瞬間まで会いたいと想っていたお姉ちゃんは、まるで私の身代わりになるように死んで、そのお陰で私は今を生きることができている。

 

 謝りたくても、もう会えない。助けてもらったお礼を言いたくても言えない。
 できることなら今すぐにでも死んで、代わりにお姉ちゃんを助けてほしかった。お姉ちゃんにはそれだけの価値があって、こんな病弱で何もできない私と比べられないくらい大きな価値が、あったのに……。そう思うと胸が苦しくて、無価値な自分が許せなくて、私が自分で自分の命を絶ってしまいそうだった。

 

 だから、私は気づいていながらも真実に蓋をして、自分を嘘で塗り固めてなんとか持ちこたえていた。
 私が衰弱して死にかけたのは、私の心が弱かったせい。あの夢は痛みや苦しみを感じたけれど、同時にお姉ちゃんを身近に感じられてその心を知れて、私にとっては何よりも大切な繋がりだった。お姉ちゃんと全く同じ苦しみを味わうことも、生き残ってしまった私への罰なんだと思い甘んじて受け入れられた。その苦しみは私にとっての免罪符であり、感じていた罪悪感を軽くしてくれてもいた。だから、その罪から少しでも逃げられないように薬まで使って夢が中断されないようにした。

 

 それでも逃げ出したくなって、お姉ちゃんの命を奪ったことを忘れないように、それを全て背負えるように、お姉ちゃんのものだったものは全て私が貰った。いや、奪ったんだ。私がお姉ちゃんのすべてを。
 私はもう、私であって私じゃない。そう必死に思い込んで、勝手にいなくなってしまったお姉ちゃんを恨んで、憎んで、それでこの心にあった悲しみを隠してた。でも、この家に来てお姉ちゃんの想いを知って、それ以上私はもう自分を偽ることができなかった。お姉ちゃんがこの家を嫌っているのは分かったし、両親を奪った私を憎んでいることも分かってる。

 

 それでも、私に対する想いがそれだけじゃないことも分かってしまった。あの時、夢の中で動いた手は車のミラーに当たり自分を映した。そこには頭から血を流しながらも、慈愛を込めて微笑みかけてくるお姉ちゃんがいた。最初は信じられなかった。自分が夢を捏造したんじゃないかとも思った。でも、どんなに悩んでも答えは出なくて、だからお姉ちゃんから貰った心に従って生きていこうと思った。この命は、お姉ちゃんの命なんだから、そうすればこんな私でも、生きていてもいいと思えて。

 

 目指したのは、お姉ちゃんが望んでいた家族と家で仲良く暮らして、学校に行って友達をいっぱい作ること。お墓の場所を知ってからは、徒歩で一時間掛かるその場所に毎日通ってお姉ちゃんが寂しくないように頑張った。被った嘘のせいで素直になれなかったけれど、精一杯務めた。でも、常にそれでいいのかって不安が心を蝕んでいくのを感じていた。

 

「それが、嘘なことぐらいは私にも分かるわ。それにね、事故にあって重傷で運び込まれたあの子は最期にこう言ったの『私はもう助からないから、千鶴に使って』って。いつ死んでもおかしくない状態で、あの子はあなたに託したのよ」
「そんなこといわれても、私は……」
「なにも、難しく考えなくていいの。ただ、生きてくれていればいいのよ」

 

 お母さんは、席を立って私を優しく抱きしめてくれた。暖かい、そう思っていると涙が無意識に零れ出した。

 

「あ、あれ……私」
「いいの、今は泣いていいのよ。好きなだけ泣きなさい」

 

 お母さんは私の頭を撫でながら、小さな子に言い聞かせるように優しく語りかけてきた。私は止まらない涙を流しながら声を出して泣くことしかできなかった。

 

「今まで気づいてあげられなくてごめんなさい。もう溜め込まなくていいからね」

 

 その言葉と暖かな体温は、私を眠りへと誘っていった。

 

  あの子が遠ざかっていく。
  私を苦しめたあの子。
  私を頼って、姉と呼んでくれたあの子。
  憎いのに恨めなくて。
  弱弱しいから守りたくなる。
  私はあの子が、大嫌いで大好き。
  矛盾した気持ちが、私の心に広がる。
  私の欲しいものを全て持っているあの子が憎い。
  私のことを見てくれるあの子を守りたい。
  私の中で相反する気持ちが揺れる。
  私は、どうすればいいのだろう。
  悩んだ私は、道を彷徨っていた。

  答えなんてない、光もない。

  そんな迷路で私は彼を見つけた。
  彼は私にとっての光だった。
  一人で歩むことしか知らなかった私は、
  彼と共に歩むことを知った。
  彼の温もりを知って、幸せを知った私は、
  初めて私という存在を知った。

 

 また新しい夢を見た。私を憎みながらも大切に想ってくれていたお姉ちゃんの気持ちがよく伝わってくる夢だった。
 私はただ、お姉ちゃんが私を嫌って私から離れて行ったんだと思っていた。でも、お姉ちゃんはずっと私のことを想ってくれていた、それこそ私のために大学で医学部に入るくらいに。毎日毎日働いてお金を貯めて、難しい勉強もして、友達なんか作る時間なんかなくていつも一人で過ごして……。

 

 私はそこまで考えて限界だった。重く伸し掛かる罪悪感に家を飛び出してお姉ちゃんのお墓へと走った。
 走っている間も夢の記憶は私を責める。

 

「やっと、お姉ちゃんを見てくれる人に出会えたのに、私のせいで死んじゃって、お姉ちゃんだって生きたかったよね」

 

 なのに私は、弱くて、私を助けてくれたお姉ちゃんに八つ当たりするだけじゃなくて、死のうとまでしちゃった。お姉ちゃんの気持ちも考えずに。でも、私は何もできない。だからせめて、謝らせて……そして誓わせて。
 お墓にたどりついた私は、服が汚れるのも気にせずお姉ちゃんが眠る場所へと抱き着いた。

 

「ごめんなさい、お姉ちゃん。そしてありがとう」

 

 この命は、お姉ちゃんに託された命だから、繋がった道だから私は何があっても精一杯生きていきます。
 しばらくの間、私はその場を動くことができなかった。止めどなく涙は流れていたけれど、気にせず私はただお姉ちゃんにこの想いが伝わってくれることだけを願った。どれぐらいの時間が流れただろう、そう思うほどに日は沈み始めた頃、私はやっとその重い腰をあげる。

 

「じゃあ、お姉ちゃんまた明日も来」
「君、もしかして妹さん? ええっと、千鶴ちゃん?」

 

 私が帰ろうと立ち上がると、いきなり後ろから声をかけられた。若い声で、妹さんと訊いて私の名前も知ってるだから、おそらくお姉ちゃんの知り合いかなっと思って振り返ると、夕日を背にして輝く一人の若い男の人が立っていた。その顔は、目立った所のない平凡の顔立ちの中に、優しさと悲しみを詰め込んだような慈愛に満ちた表情をしている。差す夕日が後光のように映えて、救いを与えに来た仏様にも見えた。

 

「えっ……」

 

 でも、それ以上に私が驚いたのは、その顔を見た瞬間、私の胸が一気に高鳴り鼓動を響かせていることだ。心拍数が一気に上がり、顔に熱が集まるのを私はただ動けずに感じていた。こんな経験はしたことはないけれど、私だって女としてその辺の話には興味を持っている。だから、熱くなる体に反して、冷たくなっていく頭ですぐにこれが一目ぼれだということは分かった。
 でも、だからこそ理解してしまう。これは、この湧き起こるような気持ちは、私の気持ちじゃないってことに。

 

 

 そして、姉の想いを知ってその日の内に出会う。もし、運命って言葉が本当にあるのなら、たぶんこういうことを言うのだと、私は思った。だからもし、私がそれを願うのなら手を伸ばせばいいのかな?

 

「あなたは……」

 

 私は答えを分かっていて聞いた。私の体に残っているお姉ちゃんの残滓。それが最も顕著な心臓がこんなに反応するなんて一人ぐらいしかいないから。だから、話でしか聞いたことはなかったけれど、きっとこの人が……。

 

「初めまして、でいいのかな? 君のお姉さんとは同じ医学部で、よく君の病気について話し合っていたから初めてって気があまりしないんだけど。改めて、僕は和田心一っていいます。君のお姉さんとお付き合いさせてもらっていました」

 

 

 


 あの出会いから五年。私はもう、お姉ちゃんと同い年になっていた。昔、病室が世界の全てだった頃には感じることのなかった時の過ぎ去る速さを今は感じる。

 

「久しぶりだね、お姉ちゃん」

 

 私は大きくなり始めたお腹を優しくさすりながら、お姉ちゃんのお墓の前に立った。昔は毎日通っていたここも、社会に出て独り立ちして、結婚して、暮らす場所は遠く離れて、徐々に通う日が減って、今では一年に数回来れる程度になっていた。そして今日、安定期に入ったことで来ることを許してもらい、ずっと言いたかったことがやっと言える。
 私はお姉ちゃんに届くことを信じて、あの時は言えなかったけれど、ずっと想ってきたことを言葉にした。

 

「お姉ちゃんが歩んできた道はまだ終わってない。お姉ちゃんの命は私の命を繋いで、私の命は新しい命を育んでいく。だから、お姉ちゃんの道はこれからも脈々と繋がっていくんだよ。私が、絶対に終わらせたりしない……必ず繋いでいくから、そこから見守っていて。道が終わるその時まで」

 

 その時、私の言葉に応えるように風が吹き、毎年そこに咲いている一輪の赤い花が揺れる。それがなんだか、お姉ちゃんが応えてくれたように感じて、私は嬉しくなった。

 

「曼珠沙華。悪業を払う天の花で、花言葉は再会『また会う日を楽しみに』だよね。私も同じ気持ちだよ、お姉ちゃん」