桜の木の下には

翠蝶

 △△中学新聞

 

 □□市××町△△中学の裏山のどこかに、年中満開に咲き誇る桜があるという。
 その桜を見たことがあると話す○○君(12)は、「真冬にあれほど綺麗に咲いていたので、発見当時は夢でも見ているのかと信じられない思いだった」と、やや興奮気味に話しており――

 びょうと、一陣の風が吹く。その瞬間、大量の桜の花弁が宙を舞った。
 まるでパズルのピースを違えてしまったかのように、ひしめき群がる樹木ばかり続く緑の風景が広がっている中で、そこだけは、一本の桜の木を中心とした一部の空間だけは、淡い薄桃に染まっている。
 豪華絢爛といっても過言ではないほど華々しく咲いている桜の木の枝が、他の木々の枝葉に混じってさわさわと音を立てている。
 それはまさしく、息を呑むほどに美しい光景であった。
 世良(せら)叶太(かなた)は身を斬るような寒さに、スマートフォンを両手に持ったまま大きく身震いをする。
 家を出た直後の空は、からっとした快晴だったことに加え、天気予報でも今日一日春のような温かさだと宣言していたことを理由に、コートを着てこなかった一時間前の自分が恨めしい。
 体を動かしているうちは平気だったが、こうしてベンチに座ってじっとしていると、制服にマフラーだけといったこの格好では、まだまだ冬の残り香を漂わせるこの季節の寒さを凌ぐには心許ないことを、今身をもって実感する。
 手袋を嵌めたい気持ちは山々だ。しかし、そうすることでスマートフォンの操作が困難になってしまうことは避けたかった。
 致し方なく、世良ははぁと、生暖かい吐息を手に吐きかけた。


「寒いのかい?」
「うん。ちょっとだけ。そういうお兄さんは俺よりずっと薄着ですけど、寒くないんですか」


 世良の質問に、男は柔和な顔つきのまま小首を傾げた。
 そこに言葉こそは存在しないものの、十二分に世良への解答を物語るその仕草を見て、世良は呆れて乾いた笑声を漏らす。
 茶か華か、それとも日本舞踊か。
 その道の求道者を思わせる和装姿の男は、端から見るととても寒々しい。しかも素足に下駄という恰好なのだから、なんだか見ている側の方が薄ら寒くなる錯覚を覚える。


「僕は、あまり寒さを感じないからね」
「ようは寒さに強い、と」
「そんなところだね」


 ふふ、と男は紅を刷いたような形の整った薄い唇に、柔らかい笑みを浮かべて緩やかに頷いた。

 

「あ、オオイヌフグリ」

 

 世良は突として叫ぶと、スマートフォンのカメラアプリを起動させ、すかさずシャッターを切る。
そんな無邪気な姿を晒す世良に応えようとしているかのように、小さな可愛らしい青い花弁の群生は、気弱ながらも懸命にカメラに向けて己が姿を主張していた。
 使用者が動いた反動のため、いつからそこに置かれていたのかも分からない、今にも壊れてしまいそうなぼろぼろのベンチは、ぎしぎしと危うげな音を立てている。
 もともとは柔らかい青緑色のペンキが塗りたくられていたのであろうが、長年の風雨に曝されたために塗装が剝がれ落ち、カビや苔の浸食が進んで色褪せた草色に変色してしまっている。

 

「あぁ、本当だ。もう、そんな季節だったか」
「これを見つけると、春が来たんだなぁって気持ちになるんですよね。まだちょっと寒いけど」
「オオイヌフグリの花の見頃は三月の初旬から下旬と言われているから、その判断は妥当だろうね。でも、今はまだ二月だから、そこのオオイヌフグリは少しせっかちのようだ。最近は温かい日が多いせいかもしれないね」
「そうなんだ。あ、そうだ。メモしとこ」
「それを、記事とやらにするのかい?」
「いや、もちろん本命は違いますよ」

 

 言葉の通り、確かに本命ではないが、花に関する記事を書くのだから、出だしに持ってくるにはちょうどいい。それに、自分が好ましいと思っている花のことなら筆も進みやすいだろう。もし今回の取材が空ぶったとしても、字数稼ぎには役立つはずだ。
 空を切り取ったような淡い青。触れてしまえばすぐにでも散ってしまいそうな儚さ。気がつくといなくなっているというのに、時期がくれば必ず、いつのまにやらそこらじゅうの道端に自生している生命力。
 世良はそんなオオイヌフグリが好きだった。
 実際に手に取ればいとも簡単に花弁は散ってしまうけれど、時期が来ると再び自らの力で花開き、世良に春の訪れを知らせてくる。
 人の目線の上に立てば、オオイヌフグリなどか弱い存在にすぎない。しかしながら、その弱さの奥深くに確実に存在していると想われる計り知れない力強さに、純情な少年の心は惹かれずにはいられない。
 世良にとって、オオイヌフグリとはそういう花だ。

 

「オオイヌフグリが咲いたってことは、ツクシもそろそろ生えてきますかね」
「そうだろうね。最近は暖かい日が多いようだから。――もう、そんな季節だったか」
「さっきも同じこと、言ってましたよ」
「あぁ、そうだったかな」
「ちょっとー、ぼうっとしてないで、ちゃんと取材させてくださいよ。お兄さんが唯一、この桜のこと知ってるって言ってくれたんですから」
「それは、すまないな。この桜の前にくると、どうにも感傷に浸ってしまいがちになってしまってね。どうか、許してほしい」
「ふうん」

 

 不思議な人だ。
 それが世良の抱いた男の第一印象だ。
 氏名、年齢はともに不詳。名前を聞いても「君の好きに呼ぶといい」と、あからさまにはぐらかされるばかりだった。
 だが、世良が男に向ける感情に恐怖や不信は存在していない。怪しいというよりも、妖しいもしくは奇(あや)しいと感じる。
 終始、男が穏やかな話しぶりであることや、心ここにあらずといった、むしろどこか抜けたような態度が、世良からそれらの感情を削ぎ落としていっているのかもしれない。

 

「そう言えば、君はどうしてここに来たんだい?」
「えー、それはさっきも言ったじゃないですか。桜の取材に来たって」
「ああ、分かり辛い質問だったね。言い方を変えようか。君はどうやってここに来たんだい?」
「そりゃ、まぁ、普通に徒歩で」
「そうかい。なら、どうやら君は迷い子のようだね」
「迷い子?」
「ふふ、こちらの話だ。気にしないでおくれ」
「えー、そう言われるとなおさら気になるんですけど」
「ふふふ。こちら側の事情、と言うことにしておいておくれ」

 

 男は優雅な仕草で脣に人差し指を立て、世良は不満を隠すことなく頬を膨らませた。どこかぼうっとしていて、御しやすい男かと思ったが、思いのほかガードが固いところはちゃんと固くしてある。

 

「△△中学の裏山のどこかに、年中満開に咲き誇るという桜があるという」

 

 事の始まりは、世良がそんな奇怪な噂を小耳に挟んだことから始まる。
 新聞部の情報網を通して手に入れた曖昧な情報だけを頼りに、世良が裏山を彷徨い歩いていると、ある瞬間、微かに「ぱきんっ」というガラスが割れたような音が耳元を掠めた。その刹那、突風が顔面を吹き付け、本能的に閉じていた瞼を開けば、その時には既にこの空間が目前に広がっていたのであった。
 ほんの数秒程の間に、一体何が起こったというのか。
 ただの森林の中にあるギャップにぽつんと古いベンチがあるだけの寂れた場所だったはずが、気が付けば桜吹雪が舞う桃源郷のような場所に来てしまっている。
 どうしてこんなことが起こっているのか、世良には全く見当もつかなかったが、すぐにそこにある木こそが自分の探していたものであるということだけは、言葉での説明がつかない、本能に近い部分で確信した。
 それは現実と呼ぶにはあまりにも美しすぎる光景であった。
 普段、スマートフォン漬けの日々を過ごし、目に映るものは全てただの風景としてしか認識せず、感慨や情動などとはほとんど無関係に生きてきた世良にとっても、あまりの感動のために、魂を抜き取られたかの如く呆然とせざる負えない代物であった。
 染井吉野、枝垂桜、八重桜、寒桜といった有名どころについて軽く触れる程度にしか下調べを行っていなかった世良には、何百と存在する桜の品種の中からたった一つの種類を特定するなどという高度な真似は出来ないが、どちらかと言うと、この不思議な桜は染井吉野に近い出で立ちをしている。少なくとも、ちょうど咲き頃の寒桜とは花の形が異なっている。だが、染井吉野よりもずっと花弁の色が濃い。
 そして、その満開に狂い咲く桜の木に寄り添うように、まるで桜の木と対であるかのように、この神秘的な男はその場に一人佇んでいたのであった。
 目当てのものを見つけた期待と喜びにより、気が大きくなっていた世良は、おそらくは成人しているであろうこの見知らぬ男に、躊躇することなく声を掛けた。直前まで、獰猛な野生動物や怪異に怯え、半泣きになりながら裏山の中を迷っていたことなど、とうに忘れていた。
 世良の呼びかけに応じ、緩慢な仕草で背後を振り返った男の瞳を遠目に見た当初、世良にはそれは黒かと思われたが、今近くでもう一度よく見てみると、藍色を帯びた変わった紫の色合いをしているのだと分かる。
 瞳だけではない。紫帯びた髪、瞳、着物。全身を紫紺で包まれたような幻想的な人だった。
 その一風変わった風体から、初めこそはコスプレイヤーかと考えていた世良だったが、どうもカラーコンタクトやかつらのような偽物を身につけているようには見えない。場所や状況から考えても、その線は薄いように思えた。
 試しに、一体なんのキャラクターのコスプレをしているのかと問えば、「キャラ?」と、純粋無垢な幼子のような瞳で、あどけなく首を傾げながら聞き返されてしまった。
 世良はこの男に、現在の科学では解明されていない超常的なものを感じ取ると同時に、一方では会話のやりとりを続けるほどに陳腐なものも確かに見て取り、そのちぐはぐな矛盾のために混乱させられた。
 世良自身は、この事態にはじめは恐れこそしたものの、それを求めてここにたどり着いた経緯を思い出したことや、危険を感じさせない安穏としたその場の雰囲気にあてられ、今では落ち着いた心持ちだ。
 ただ、あまりに男とごく普通に会話が成立してしまっていること、それ以外に男がなんの行動も起こす気配がないこと、至ってごく普通の人間とそう変わらない男の様子が、世良の胸の内に別の種の戸惑いと物足りなさを生じさせた。これでは近所の若者文化についていけない老人と話しているのと大して変わらない。
 しかしながら、男の存在が世良の期待していたものとは相反するものではあれど、元来好奇心旺盛でかつ人見知りしない性格の世良と、穏やかで愛想のいい男の相性は思いのほかいいらしく、二人が打ち解けるのに五分もかからなかった。
 所属している学内の新聞部の記事のネタの情報収集の一環として協力して欲しいと男に頼み込んでみれば、男は快くそれを引き受け、また世良の質問に対して、男は個人的なことを除けばすべて打てば響くような潔い回答をした。
「この桜はいつ頃からここで咲いていますか」と聞けば、「五年ほど前から」と明瞭に答え、「本当に年中この状態で咲き続けているのでしょうか」と聞けば「うん」と、断言してみせたという風に。
 取材が淡々と進んでいくことにほっとするものの、他方ではあまりに簡単に情報が得られていることに、世良は些か不満を覚える。探偵漫画に出て来る悪の手先のように、もう少し手ごわさがあって欲しいと考えてしまう。
 世良いつも人に取材をするとき、ベタな探偵小説に出てくる勘の鋭い記者になったような意気込みで事に当たっていた。
 そもそも、世良はお気に入りの推理漫画に登場する主人公である記者に憧れ、自分も同じようなヒーローになりたいという理由から新聞部に入ったのだ。
 だが、現実というものはそうそううまくいくわけもなく、ただの一般市民である世良の身辺において、彼が求めているような大事件ともいえる事件など起こりうるはずもない。難解なトリックを用いた強盗殺人に関わることも、親しくなった美女が実は権力者の娘で、彼女の親に恨みを持つ悪党に誘拐され、命と引き換えに身代金を要求される、なんてことも平凡すぎる世良にとっては空想の世界でしか起こりえないのである。
 だからこそ、早々にごく平凡すぎる現実に打ちのめされていたところを降って沸いたように、突如として舞い込んできたそれらしいネタに、飢えていた世良が食いつかないはずがない。
 男の正体に関する情報は諦める方向性で決まったが、元の狙いは桜だ。それに関しては、男も協力的な姿勢を見せていたため、世良は遠慮なく矢継ぎ早に質問を投げかけた。

 

「どうしてこんなに街から近いのに、見た人がほとんどいないんですか? 確かに、俺はあんまり裏山に来ることなんてないから迷いましたけど、うちの学校の登山部とかこの近辺のおじいちゃんおばあちゃんたちがキノコ狩りとかハイキングコースによく利用しているから、そういった人たちがもっと桜のこと知っていてもいいはずだと思うんですよね。俺の親とか近所のおばちゃんたちとか、学校のみんなにもいろいろ聞いて回ったけど、誰も知らなくって。それってちょっとおかしいって思いません? まぁ、こんな怪奇現象じみた木の存在を信じる人なんていないでしょうから、そのせいだと言われてしまえば納得しないこともないですけど。そこのところ、お兄さんはどう思いますか?」
「おかしい、か。うん。君からすれば、そうかもしれないね」
「なーんか意味ありげな言い方ですね。その辺詳しく説明お願いします」
「僕からすれば、君の方こそ変わっているということだよ」
「うわー、余計に意味わかんないし、お兄さんにだけは言われたくねー」
「そうかな?」
「そうですよ。で、どうなんですか、本当のところ?」
「そうだねぇ……」

 

 納得する回答を得られるまで引き下がる気配を見せない世良に、男は口元に変わらぬ微笑を貼り付けながら、そこで初めて言葉に迷う仕草を見せた。

 

「少しばかり、考えさせてはもらえないだろうか? あまり他のものに話したことのない話だから」

 

 少しの逡巡の後、男はそう告げた。世良は男の解答に素直に頷き、それ以上急かすような真似はしなかった。力づくで情報を引き出そうとすれば、かえって相手の態度を硬化させてしまう可能性があると、部活の先輩から教わっていたからだ。要は押して駄目なら引いてみよ、と言うことだ。

 

「了解です。あ、プライバシーなことまでは無理に話さなくても大丈夫ですよ。俺が記事に書きたい

のは『年中咲いてる桜』についてなんで」
「ぷらいばしー、とは?」
「あー、なんていうかこう、お兄さん個人の情報とかは記事に書いたりしないから、安心してくださいってことですよ」
「なら、なおさら話しにくそうだね。この桜と僕は、切っても切れない縁に結ばれているから」
「もしかして、お兄さんがこの桜を育てたとかですか?」
「いや、僕はこの桜を守りはするが、守っているだけで育てているわけではないよ」
「よく分かんないけど、複雑そうですね」
「そう。すごく、複雑なんだよ。だから少し、考える時間を僕におくれ。大丈夫。君が帰る頃までにはきちんと返事はするから」
「分かりました。じゃあ待ちます」

 

 世良の素直な受け答えに、男はやや安堵したようだった。
 男は再び桜を見上げると、物憂げに目を細める。
 再び吹いた風が、二人の髪を乱した。柔かそうな紫光(むらさきびかり)する黒髪の合間から見え隠れする男の瞳に宿る光からは、なにやら意味深なものを世良は感じ取るが、それが一体どのような感情であるのかまでは分からない。

 

「綺麗な桜ですね」
「うん」

 

 しばらくは我慢していたが、沈黙に耐えきれず、世良は思わず口火を切った。対する男は、思案の海に沈んでいる最中のためか、上の空だった。
 話好きな世良は沈黙が苦手だった。いや、沈黙を厭うからこそ、よく話すと言った方が正しいだろう。
 特に何もすることがないときに静かだと、普段は考えないようなことを考え始めたり、昔のことを思い出したりすることが世良にはよくあった。そうなってしまったとき、世良の頭を占めるのは楽しいものより、どちらかと言うとあまり考えたくない、思い出したくないと言った後ろ向きなものの方が多かった。だから、無理矢理にでも話すしかないのだ。
 似たような会話を数度繰り返すが、そのうち世良自身も話のネタが付き、思考に暮れる男から話が降られる様子もなく、世良はどうしようもなく憂鬱な気分を少しでも和らげるようにこっそりと溜め息を吐いた。
 俯いて、スマートフォンの画面を確認する。圏外だった。
 なんとなくそんな気がしていたので、今更特に驚くこともなく、かと言ってスマートフォンが使えないとなると、何もすることがないので、仕方なく、世良は男と同じように桜の木を見上げる。
 ひとひら、ふたひら、またひとひら。
 ひらり、ひらりと桜の花弁が優雅に宙を舞う。
 世良がこの場を立ち去る頃になると、辺り一帯を花弁の絨毯で覆いつくされているのではなかろうかと、そんな美しい光景を想像する。それでも、どれだけ花弁が散ろうが、この桜の木から花が消えてしまうその瞬間だけは、世良には上手く思い描けなかった。
 言葉の通り、綺麗だと思う。けれど、それだけではなにか足りないような気がして、それでいてそれ以上なにを言ったらいいのか分からなかった。この光景の美しさを解する言葉を、世良は知らなかった。
 緩やかな静謐の中、二人とも、桜が生み出すその美しい薄桃の色彩に魅入られていた。
 そのためだろうか。いつも静かな場所や一人でいる時に感じていた行き場のない、原因も分からない閉塞感に世良は発狂しそうになるが、今はひたすらに心は薙いでいる。桜を見ていると、自然と心中穏やかになっていく。
 薄ら寒いが、爽やかな風が青々とした草葉を揺らし、真っ青な空のキャンバスを背景に、数羽の小鳥たちが楽しげに飛び交っている。雲に遮られることのない陽光は、これでもかとばかりに自らの本分に従って意気揚々と地上を照らし出している。その光の粒子が肌に触れる感触は、まるで上質な絹糸で織られた布に近く、冷たい風がさらっていった体温を補填するかのように心地の良い温もりを内包していた。

 

「平和だなぁ」
「平和?」
「だって、久しぶりなんですもん。こんなにのんびりしたのって。それに、なんかここ落ち着く」
「それはそれは」

 

 世良の言葉に、男はやや嬉しそうな感情の色を見せた。

 

「君のいる場所は、そんなに忙しないところなのかい?」
「そりゃまぁ、人並みには。今度成績落としたら小遣い減らすって親に脅されてるんで、次の期末テストは赤点取らないようにちゃんと勉強しないといけないし、部活のネタも探さないといけないし、新作のゲームのレベル上げもしたいし、それに――」

 

 突然、もの言わぬ石像のように、冷たく固くなってしまったあの手触りがフラッシュバックし、世良は思わず言い澱む。
 おお、危ない危ないと、自身の口の軽さに失笑する。初対面の相手に話すべきではないことまで、うっかり口をついて出そうになってしまった。

 

「なにか、悲しい事でもあったのかい?」
「え?」
「泣いているから、そうなのだろうかと思ってね」

 

 男の指摘に、世良は慌てて目尻に手をやる。だが、触れた指先が濡れた感触は一向に訪れない。

 

「泣いてませんけど?」
「涙は流さずとも、泣いているものは現世(うつしよ)にも大勢いる。君もその一人のようだったからね」
「ちょっとなに言ってるのか、訳分かんないんですけど」
「そうかい」

 

 男は世良に理解を求めていなかったのか、嫌味を感じさせない口調であった。

 

「辛いときに泣くと、心が楽になるって本当かい?」
「へ?」
「君も、そう思うかい?」

 

 やや間をおいてから男の口から放たれた問いに、思いもかけなかった世良は素っ頓狂な声を上げる。

 

「さあ。よくそういう話は聞きますけど、俺からはなんとも」

 

 なんとかそう返すも、世良の言葉には先程までのような威勢のよさはない。
 主旨のつかめない質問にたじろいだことも大きいが、それだけの理由であれば、以前の世良ならなにも考えず、適当な憶測だけで即答で肯定していたかもしれない。だが、今となってはなにが正しいのか分からない。どちらかというと、むしろ懐疑的だった。

 

「僕はそう聞いていた。でも、君と同じように僕もそう思うよ」
「なにか――」
「なにか悲しい事でもあったんですか?」と、聞こうかと思ったが、詮索しているようで、友人という間柄でもない初対面の相手に聞いてもいいものなのかと、つい言葉尻を濁してしまう。

 

 だが、男にも先ほど同じようなことを聞かれたことを思い出し、そこで世良はここで初めて男と自分に共通するものを見出した。この謎の存在について、わずかながらに理解できた気がした。

 

「……先日、飼っていた犬が死んだんです」

 

 もしかすれば、この人と自分は同じものを抱えているのかもしれない。その考えが、世良の口を滑らせた。

 

「物心つくころから一緒にいて、弟のように思ってました。年は犬の方が上だったんですけどね」
「そう」
「年のせいで、だんだん体が弱ってきていて、認知症にもなっちゃったし、もう長くないことは分かってたんです。けど、いざそれが現実になると、どうしても……」
「覚悟は、していたつもりでした」と、世良は消え入りそうな声で白状する。自然と、声が震えているのが分かった。
「辛いね」
「分かっちゃいたんです。分かってわ」
「うん」
「なんか、悲しいとか泣きたいとか、自分ではよく分からないんです。けど、最近、学校でよく、『なんかあったのか』とか聞かれるし、勉強とか全然集中できないし、やらなきゃいけないって分かってはいても、やる気が起きなくて色んなことに手がつかなくなって、もうなにがなんだか分かんなくなってきて」
「うん」
「周りの反応を見ていると、多分俺、すっげー悲しんでるんだろうなってのは分かるんですけど、でも実感がどうしても湧かなくって。ただ、いなくなっちゃったんだっていうことしか分からないんです」
「うん」

 

 ここまで話すと、もう止まらない。長い間無意識のうちにせき止められていたなにかが、一気に溢れ出す。それがなにかは分からない。それを理解しようにも心が麻痺していて、世良の望むように動こうとはしなかった。
 一方、そのなにかを受けてめている受け皿もまた、静かに世良の独白に耳を傾けていた。ひたすら男は話に相槌を打ち、世良の話を遮ることがなかった。そのため、誰にも打ち明けるつもりはなかった本心が、するすると世良の口から零れ落ちていく。

 

「それで、最近になって新しい犬を迎えようって、両親がいきなり言い出したんです」
「へえ、それはよかったじゃないか」
「うん。犬は好きだし、俺も賛成はしたんです。でも、母さん、母が前の犬と同じ名前を付けようとしたがっていて、俺は反対しているんですけど、俺以外はみんな賛成なんです」
「君は嫌なのかい? どうして?」
「だって、身代わりみたいじゃないですか。ハチは死んだんです。もういない。新しく来る子は、ハチじゃない。同じ名前を付けたとしても、ハチになるわけじゃないんです。けど、母は、俺以外の家族は新しく家に来る子にそれだけを求めているような気がして。気持ちは分かるけど、代替品じゃないんです。ハチはハチ。その子はその子。同じじゃない」
「……そっか。君は、そう思っているんだね」
「確かに、世の中では襲名とかあるけど、それは例えば社長とか部長とかいう肩書を持つのと似ていて、その名前そのものに意味とか役割があるのであって、母がやろうとしていることとは全く違うものなんだと思うんです」

 

 世良は俯いて、じっとスマートフォンの角を弄る指先を見つめながら、苛立ちを吐き捨てた。
男は「ふうん」と、そんな世良の話を、遠い目をしながら聞いていた。気のない返事というよりかは、なにかを考えこんでいるといった素振りであった。
 幾枚もの桜の花弁が世良の太腿に舞い落ちる。ずっと押し殺していた感情を吐露してしまったせいか、思春期と反抗期真っ只中の複雑な少年の心は乱れている。
 やたらむしゃくしゃして片手で髪を搔き乱すと、数枚の花弁がはらはらと顔の横を落ちて来た。世良は自身の頭の上にも、桜の花弁が散っているのだとようやく気が付いた。くるくると頭から滑り落ちてきた花弁が宙を舞うその光景を見て、ふと誰かに髪を撫でられているような心地がした。
 まるで桜に慰められているようだと、世良は思った。途端に、世良の錯綜した感情は逆撫でられ、堪えきれなくなった正体不明の感情が溢れ、目頭が一気に熱くなった。

 

「そっか。そうか。うん、そうなのかもしれないね」

 

 なにかに得心したような口ぶりだったが、不意に男が呟いた。それから、ずっと縋るように桜に送り続けていた目線を地面に落として項垂れ、しばらくの間沈黙した。

 世良も黙った。そうするのが正しいような気がしたから。それに、そうしていないと声を上げて泣き出してしまいそうな気がしたから。

 

「僕もね、君と同じように大事なものを失くしてしまったんだ。いつかそうなるだろうということは

分かってはいたけど、失くしてしまって初めて、それが自分にとってどういう意味を表すのか気づいた。気づいたときには、もう僕に出来ることなんて限られてしまっていて。あの時ああしておけばとか、あんなことするべきじゃなかったとか、ずっと後悔ばかりしているんだ」
「俺も、最近そんなことばっか考えてます。散歩を母さんに押し付けたりなんかしないで、ちゃんとするんだったとか、認知症になってから夜中に吠えたり、ちゃんと用を足すことが出来なくなったりしたからって、勉強とか部活とか言い訳にして避けたりするんじゃなかったとか。そんなこと言っても、もう遅いのに。いっそ過去に戻りたいくらいです。そしたら次は後悔しないようにもっとたくさん一緒に遊んで、たくさんお世話して、それから……」

 

 つと、目尻に溜まっていた涙が零れる。しかし、これがどういう意味を表すのかやっぱり分からなかった。
 きっと悲しんでいるんだと思う。自分を客観的に分析している自分ではないようなもう一人の自分が、そう告げている。それは、おそらく半分正しい。けれど、もう半分はそれだけじゃない。
 自分の感情を把握しきれないことが、酷くもどかしかった。
 最近、なにをしても満たされない。気が付けばもうどこを探しても見つかるはずのない存在を追い求め、目を凝らしている。そして、正気に戻った時、その形容しがたい喪失感に呆然とする。

 

「君は、どうするべきなんだろうね」
「分かんないです。受け入れるしか、ないんだと思います。現実を受け入れて、飲み込んで、それからちゃんと生きていかなきゃいけないんだと思います。ハチが俺に教えてくれたこと、残してくれたものを無駄にしないようにするためにも、そうするべきなんだと思います」
「できそうかい?」
「できるかどうかは分かりませんけど、乗り越えるしかないんです。じゃないと、逃げたところでどこにも逃げ場所なんて見つからないだろうし、逃げても楽になるのは一瞬だろうし、逃げた先にも、たぶん、その苦しさは一生ついて来るんですよ。俺は、ハチとの思い出を呪いにしたくない」
「呪い、か」
「ハチと一緒に暮らせてよかった。ハチに出会えてよかったって思いたいから、だから、俺は逃げちゃダメなんです」
「……そっか」

 

 世良は大きく息を吐く。必死で胸の奥からせり上がってくるなにかを抑え込む。
 今この瞬間が最も苦しいのだと思った。でも、世良には自分がどうしたらいいのか、どうしたいのかが分からなかった。

 

「そういうことだったのだね」

 

 男が得心したとばかりに呟いた。今まであれほど落ち着きを払っていた声が若干震えていたことに、世良は敏感に反応して男を見上げると、愕然として目を見張った。
 男は泣いていた。
 しとしとと、声も上げず、桜を愛おしげに見つめたまま、涙を流していた。

 

「涙とは、こういう時に流すものなのだね」

 

 まるで生まれて初めて産声を上げたかのようだった。
 声も上げず、涙を流すその姿に、世良の中で張りつめていたなにかが、ふつりと切れた。

 

「あー、やっぱあれですね。分かっちゃいるけどきついもんはきつい」

 

 世良は無理やり声を張りあげて言った。それはまるで悲痛な慟哭のようだ。
 見上げた空は涙で滲み、雲はぼやけている。
 世良は涙声になっているのも構わず、体の奥底に溜まっていた澱みをすべて解き放たんばかりに吐き出す。先程までは寒さに震えていたはずなのに、今では熱にあてられたように全身が火照っている。

 

「うん。まぁ、そう簡単に立ち直れるものじゃないですしね。むしろ簡単に立ち直れるってのも、ハチのことそんな大事じゃなかったみたいで変ですしね」
「うん。すごく、大事だったんだ」
「失くしてからそれがどれだけ大事だったか初めて気づくとか、よくお話のテンプレでありますけど、本当にその通りですよね。馬鹿だよなー、俺も」
「そうだね。その通りだ。いつも今更になって気づくものなんだよ」

 

 二人はそれぞれの言葉に頷き合いながら、泣きに泣いた。早く癒えよと互いの傷を舐め合う獣のように、涙を供物に祈るかのように。

 ツクシは下処理が面倒ではあるが、てんぷらやあえ物にすると意外においしいことを世良は知っている。地味な味であまり美味しくないというものもいるが、その簡素な風味が世良には好ましかった。世良は年齢に見合った旺盛な食欲を豊かな想像力と共に膨らませていく。散々泣いて、体力を消耗したこともあり、腹の虫が情けなく食べ物を要求し始めていた。

 

 

 

「ここは、墓場なんだ」

「え?」

 

 男が言った。世良にとっては、想像もしていなかった解答ではあったが、まるで教会の神父に懺悔する信徒のように語り始めた男の弱弱しい様子から、先程自分が男にしてもらったことと同じように、なにも言わず、ただ聞き手に徹することに決めた。

 

「この桜は、僕とあの子との誓いの象徴なんだ。だから、その誓いが果たされるその日まで、この桜が散ることはない。散らせちゃならないんだ」
「……その誓い、果たせるといいですね」
「いつ果たされるかも分からない、果たせるかどうかも分からない。その場限りの願いで生まれた誓いだからね。君のように、待つ必要がない方が、いっそ楽だったのかもしれない」

 

 男はとても疲労しているようだった。ずっと控えめな微笑を口元に、変わらぬ穏やかさを目尻に湛えてはいたが、今この時この瞬間だけは、それは仮面のように見えた。

 

「だから、今日君に会えてよかった」
「え?」
「君のおかげで、少しだけ楽になった。君と話をしていなければ、きっと僕は駄目になっていただろうね。だから、本当にありがとう」
「お、俺の方こそ、お兄さんに聞いてもらってばっかりで。っていうか、むしろ無神経なこと聞いているし、初対面なのにいきなり泣き言言っちゃって、迷惑かけてしまったし、俺は別になにもしてませんよ」

 

 世良は慌てて両手を振る。素直な感情を向けられて、酷く照れ臭かった。

 

「僕は自分の気が長いことをすっかり忘れていた。いけないね。切羽詰まってしまうと、自分の得意とすることさえ見失ってしまう」
「そう、ですね……」

 

「墓場」「誓い」「待つ」
 男の言葉の端々から、察せられるように、この人はきっと自分と同じように大切な存在においていかれたのだろう。世良はそう確信するが、口にはしなかった。
 また泣き出してしまうのではないだろうかと思えるほど、 その寂しそうな横顔を目にしてしまっては、言えるわけがなかった。
 口元では笑っているのに、突けば脆く壊れてしまいそうで、世良より断然年を取っているはずだというのに、未熟な幼子を見ているような気分に駆られる。

 

「いい記事は書けそうかい?」
「うーん、そうですね。あー……、うん。やっぱり、桜はやめてオオイヌフグリが咲いたことを記事にしようかな」
 しんみりとしきった空気を払拭するかのように、無理矢理あっけらかんと言いのけて見せた世良に、男はやや意外そうな反応を見せた。
「桜は、いいのかい?」
「はい。なんか、こっちの方がいい記事書ける気がしてきたんで」
「そうかい。それは、気を使わせてしまったようだね。すまない」
「いえ、俺がそうしたいと思っただけなんで。んじゃ、早速帰って書き上げるんで、楽しみにしといてくださいねー」

 

 世良はにっと、快活な笑顔を男に向けた。泣き腫らした目が若干赤くなっているが、それでも、それまで陰鬱だった胸の内に光や風が差し込んだように、晴れ晴れとした表情を浮かべている。

 実はというと、既に記事は書いていた。所詮は噂。しかも情報源は同校の生徒の一人の口から聞いたもののみという信憑性の欠片もないものだ。
 同い年である世良が人のことを言えた口ではないが、子供というものはとにかく思い込みが強く、自身の主観に捕らわれがちだ。
 年中咲き誇る桜など存在するものかと高を括っていた当初の世良にとっては、真実などどうでもよかった。ただ、それなりのものが書ければそれでよかったのだ。後は適当に証言をもとに取り敢えず現地に行って、そこでそれらしい写真でも撮って記事に載せればそれでいい。
 たかが部活の記事だ。たかが中学生が書いた誰の目にも止まらぬただの文章だ。それなりに形になっていれば万々歳だろう。と適当なことを考えていた。
 あの時は、想像の世界に憧れていたといえども、実際に自分がこんな幻想的な体験をするなんて、考えてもみなかった。
 だが、全てではないとは言えど、知ってしまった今では適当なでっち上げを書いていいはずがない。この男のことも、この男が待ち続けているというその相手のことさえも冒涜することになってしまう。世良が憧れる物語の主人公の記者ならそんなことは決してしない。
 先輩にせっつかれるがまま一応書き上げたあの記事に割いた労力がもったいない気もするし、締め切りも近い。しかしながら、それでも世良はこの体験のことは、この場所のことは内密にしておこうと、心に固く誓った。
 ここは、生半可な好奇心が踏み躙っていい場所じゃない。

 

「俺、そろそろ帰りますね」

 

 そう言って世良は地面を蹴り、勢いよく立ち上った。

 

「本当によかったのかい?」
「うん」

 

 念を押す男に対し、世良は晴れやかな笑顔を満面に浮かべて頷いた。

 

「俺、ここ気に入っちゃったんですよ。俺にとっての癒しスポット! 飼い犬が死んで、ずっと苦しかったのに、今はすごく楽になった。もう苦しくないっていったらそうでもないけど、ずっと苦しいしか分からなかったのが、それがなんで苦しいのかっていうのが分かって、楽になった。ようやく、ハチが死んで、悲しいっていう自覚が持てて、それから俺と同じ気持ち持ってるお兄さんと一緒に泣いて、気持ちに整理が付けられた。それにここ、すごく静かでしょう? けど、静かなのに桜が話を聞いてくれている感じがして、なんか、誰かが寄り添ってくれてるような気がして、クサいこと言うと、桜に慰められているような気分になるんです。だから、ここは俺とお兄さんの秘密の場所にしときたいなって。あんまり人に知られたくないって思っちゃったんですよね」
「ふふ。そう。どうやら君と僕は随分と似たところがあるらしいね。概ね僕もこの場所に同じことを感じていてね。君がその結末を選んでくれて、嬉しいよ」
「俺も。お兄さんとはなんか似てるなって思ってました」

 

 肩を竦め、おどけてみせながら世良はくすくすと笑った。

 

「それじゃ、失礼しますね。再来週の月曜日には△△中学の校門前の掲示板に貼り出されてるはずなんて、気が向いたら見に来てください!」
「うん。とても、楽しみにしているとすると」

 

 サクサクと草葉を踏みしめ、その感触を楽しみつつ、世良は駆け足でその場を立ち去る。ひどく気分が高揚していた。

 

「……さようなら。少年」

 

 刹那、ごうっと、それまでそよ風程度にしか吹いていなかった風が唸り声を上げた。
 世良は立ち止まり、背後を振り返る。それから、「ああ、やっぱり」と、分かりきっていたことのように目に映る光景を受け止めた。
 その空間には、彼らが並んで座っていたベンチはまだ存在していたが、桜の木もその周囲を彩るようにして一面に広がっていた薄桃色の風景も、見る影もなく消え去っており、そして、当然のようにその風景に寄り添っていた男の姿もなかった。
 遠くでカラスが鳴いている。
 つられて空を見上げると、日が傾き始めていた。後は帰るだけのため、また道に迷うことがなければ日が暮れる前までには山を下りられるはずだと算段をつけ、世良は帰路に着いた。

 

 

 

「叶太ー! いい加減起きなさーい!」

 

 聞き慣れた怒声に、世良は飛び起きる。
 肩で上下させ、荒い息を吐く。まるで水中から水揚げされたばかりの魚のようだった。
 夢を見ていた。すごくつらくて悲しい、それでいてとても優しくて温かい夢を見ていた。だが、どんな夢だったか詳細は忘れてしまった。けれど、目が覚めるその直前、世良に対し、誰からか「ありがとう」と耳元で囁かれたことだけは、はっきりと覚えている。
 一体どのような行いに対してかけられた言葉なのか、世良には皆目見当もつかなかったが、心からの感謝であることだけは伝わった。

 

「あ……」

 

 思わずといった調子で、世良は呆然と濡れた頬に触れた指先を眺めた。

 

「え? あ、あれ? なんで、泣いて……?」

 

 世良は混乱し、訳が分からないまま無造作にパジャマの裾で次から次に溢れ出てくる涙を拭い続けた。
 ハチが死んで悲しいという自分の気持ちに整理をつけてからというものの、時折こうして涙を流してはいたが、これはハチのために流した涙ではない。ハチではない誰かのために流した涙だ。
 では、その誰かとは一体誰だろうか。と、思案して思い付くのはただ一人。
 紫紺の着物の裾と桜の花弁が頭にちらついた。

 

「ちょっと、いい加減に起きな……って、え? ど、どうしたの?」

 

 いつまでたっても部屋から出てこない世良に焦れたのであろう、世良の母親が世良の部屋の扉を無遠慮に開け、中に不機嫌な顔を覗かせたが、ベッドの上でぽろぽろと泣いている息子の異様な姿に、表情を一変させ、動揺を露わにして枕元まで駆け寄った。

 

「ちょっと、何? どうしったってのよ」
「母さん、俺……やっぱ嫌だ。あの名前」
「は?」
「ハチは、やっぱヤダ」
「え、理由それ?」

 

「まじで?」と言わんばかりの口調で、世良の母親は訝し気に顔を顰めた。
 確かに、本当にそれだけで号泣しているというのなら、世良でも呆れていたことだろう。平時であれば、世良でもこんな理由で泣いたりしない。かと言って本当の理由を告げるわけにもいかず、言ったところで理解されるとも思えず、世良はそれ以上なにも白状しなかった。

 

「ちょっ、あー、もう! とりあえず用事だけ済ませて来るから、落ち着いたら早く下りてきなさい!」

 

 よく分からない理由で本気で泣いている息子にどうしたらいいのか分からず、困惑した世良の母親は、泣き止まない息子にそれだけを言い残して、逃げるように部屋を出て行こうと、世良に背を向けた。

 

「二号……」
「は?」
「ハチ二号がいい」
「なにそれ。……勝手にしなさい」

 

 唸り声のような感情を押し殺した声音で、吐き捨てるようにして世良の母親はその場を立ち去って行った。
 残された世良は、もう一度涙を拭う。鼻を噛み、一度大きく息を吸って吐いた。
 それからベッドに仰向けになって転がった。泣いたせいか、ひどく体が怠かった。
 おそらく、世良の母親は明日には迎え入れるはずの新しい家族のことを「ハチ」と呼び続けるだろう。弱い人だ。他のみんなも、そうだ。世良がどれだけ反対しても、意見を変えないのは、きっと、まだハチの死を受け入れられていないのだ。
 だからこその折衷案だ。どうせなら○号機みたいにロマンのある感じにしてハチの名前につけ足せばいいのだ。そうすれば、少なくとも世良の中ではちゃんと区別が付けられるし、そのうち家族もハチの死を受け入れられれば、世良に追随するかもしれない。そんな期待を込めた上での命名だ。
 だが、世良も人のことはとやかく言えない。
 世良もまた、愛してやまない家族の死を完全に受け入れられたわけでも、悲しみを克服したわけでもない。悲しいものは悲しいし、辛いものは辛い。
 あの不可思議な空間での、これまた妖しい男との邂逅から時が経った今でもそれは変わらなかった。ただ、少しずつ少しずつ自分の感情に名を与え、整理をできるようになったのは前進と呼べるだろう。
 愛したものを失えば、その思いが強いだけ残された悲哀は深い。この感情はきっと永遠に消え去ることはない。だが、それはまた世良がハチのことを想うことの証明でもあり、捨てられないというのなら、無理に捨てる必要もないのだと世良は考えるようになった。それが出来るようになった。
 寝ころんだままの格好でヘッドボードからスマートフォンを手に取り、世良は時刻を確認する。デジタル時計の針が七時三十分をちょうど過ぎたあたりを指していた。そろそろ着替えを始めなければ、遅刻は確実だろう。
 カツリと、床から音が鳴った。
 何事かとベッドから身を起こし、床を覗き込んでみれば、身に覚えのないビー玉ほどの大きさの玉が転がっていた。
 手に取ってよくよく見てみれば、玉の中に薄桃色と淡い青の花弁が宙を舞うようにして浮いている。桜とオオイヌフグリのようだ。数日前に見たあの美しい桜吹雪の光景が、世良の目に浮かんだ。
「ああ……」と、世良は吐息と共に感慨とも憂いともつかぬ情を吐いた。
 あの男は、彼は一体どのような答えを出したのだろうか。
 世良は試練を乗り越えたわけではないけれど、それでも答えに続く道を見つけた。彼は果たしてどうしているだろうか。見つけられたのだろうか。
 世良は一度会っただけの男のことを心から憂慮するが、目覚める直前に耳元を掠めた一言の感謝の言葉を思い出し、その慈愛に溢れた響きに、その必要はないのではないかと思い直す。
 あの男ならきっと大丈夫だろう。確実なことは言えないが、彼には寄り添ってくれる存在がいる。自分と同じように温かい思い出も大切に持っている。
 大丈夫。今すぐには無理でも、いつか、きっと。
 世良はベッドから立ち上がると、急いで着替えと洗顔を済ませた。それが終わると、床に放置されたままの制定鞄を引っ掴み、急ぎ足で自室のドアに手をかける。

 

「あ、やべ」

 

 昨晩、日付が変わる頃にようやく書き上げた記事の提出日が今日であることを思い出し、世良は慌てて机の上に放置されたままの原稿を手に取った。
 一から書き直したために随分と遅い仕上がりになってしまったが、世良としてはそれなりに満足できる出来合いだった。
 書き出しから最後まで、全てオオイヌフグリに関する文で埋め尽くされているせいで、記事と言うよりかは好きな花に関することをただ書き連ねただけのエッセイと呼んだ方がいい気もするが、その辺りに関しては、新聞部は提出期限までにそれなりのものを出せればそれでOKというルーズさであるから、先輩や顧問方による審査は通る見込みだ。
 書き上がった記事を見て、世良は微かに口角を上げる。新聞記事としての出来はまだまだだと自分でも思うが、それでも、生まれて初めて自分だけのためではなく、誰かのために書いた記事だ。世良自身の、誰かに褒めて欲しいとか、認められたいとか、そういった承認欲求から生まれたものではなく、誰かに捧げたいと願いながら書いた記事だった。
 世良は原稿に皺が寄らないよう丁寧にファイルに挟み込み、それから制定鞄に詰め込む。
 もう一度スマートフォンの画面を確認して見れば、時刻は七時五十分手前を指している。八時までには家を出なくてはならない為、この後朝食を取るなら急がなければならない。
 再び自室の扉に手をかけた時、世良は一度だけ背後を振り返り、窓際に置いてある犬の写真が飾られた写真立てのすぐ隣に飾った小さな玉に目をやった。
 カーテン越しに差し込む朝日に煌めき、まるで透明の涙のような美麗な輝きを放っている。晴れやかな色味を持つそれは、世良の心により朗らかな風を吹き込み、鬱屈な残り香を拭き散らしていった。
 世良は一度写真立てと玉に向けて微笑みかけ、心の中で「行ってきます」と挨拶を送った。

 

「いってらっしゃい」

 

 くすくすと、無邪気な少女の笑い声と懐かしい甘えた犬の鳴き声と共に返ってきたその挨拶は、扉を閉めるその刹那、世良の耳に僅かに聞こえた気がした。