「先輩、これ見てくださいよ!」
部室に響いた明るい声は後輩のもの。嬉々とした表情の彼がこちらに向けるのは、大きく『議長賞入選』と書かれた通知だ。その下には講評会への出欠確認文があり、俺は驚きのあまり言葉を失った。
そのすぐ後に感じたのは胸を刺すような痛み。小さな針で心臓の張っている部分に穴を開けられ、吹き出す血の温度を想像できるほどの衝撃があった。
「前に応募した市の小説祭、先輩が何度も添削してくれたおかげで入選できたんです。顧問に連絡したら、学長から個人成績の表彰があるかもしれないって言われました!」
満面の笑みで入選報告をしてくる後輩の手前、感じたことをそのまま思いにするなんてことはできなかった。なるべくにこやかな表情をして、噛み締めるように、
「おめでとう」
と言葉を送った。
他にも、多くの言葉をかけたと思う。
最初の作品に比べてかなりレベルアップしていたから今回の入選は努力の成果だ、文芸部の中で今までに議長賞を取った人を知らない、何度も添削を手伝った甲斐があった――それは実際のことだし、賛辞の言葉として間違っていない。
だが、それに心が伴っているかと言われれば何も言えない。俺の口から出る言葉は枯れた葉のように薄っぺらい。
「ところで、先輩の結果を教えてくださいよ。僕が取った議長賞は上から二番目の賞なんで、もしかしたら一番上の市長賞をもらってるとか」
無邪気な言葉に対し、俺は視線を斜め上に向けて答える。
「通知はもうそろそろって聞いてたんだけど、今朝は郵便受けを確認し忘れてな……。帰ったらすぐに確認する」
そんな風に言葉を交わしているうちに、後輩は大学事務室に用があると言って部室を出て行った。部活に関することで功績があがった場合、それを報告するための書類があるらしい。俺はもう三年生なのに、それを知るのは初めてだった。
一人きりになってしまった狭い部室で、俺はただぼんやりと宙を見つめていた。ほかに人がいれば話をするんだろうけれど、人数の少ない文芸部で毎日来るのは俺とさっき出て行った後輩くらい。所属部員はある程度いるし小説祭に出した部員はもう一人いるが、どうやら今日は休みを取っているらしい。
気分転換にと携帯電話に手を伸ばすが、すぐにそのことを後悔した。電源ボタンを押すと、まず飛び込んできたのは休みを取っている後輩からの新着メッセージ。
『家に帰ったら市から佳作入選の手紙きてたんで、一応報告しときます。添削とか、色々ありがとうございました』
その言葉がどれだけ厳しいものだったかは言うまでもない。気分を変えるつもりが、余計に落胆の気持ちが強くなってしまった。
心から思うのは、『どうして俺だけが落選しているんだ』ということ。俺は四年生で、部長で、部員の添削を担当するくらい技術を重ねてきたというのに、今朝確認した家の郵便受けに入っていたのは落選通知だけだった。薄い紙が一枚だけ。後輩が手にしていたような、講評会への出欠確認なんてものはなかった。
俺が添削した後輩の作品が受かるんなら、俺自身が書いた作品が受かっていてもいいじゃないか。自慢じゃないが、部内で誰よりも多く慣用句を知っている自信があるし、他のやつらと違って入部する前から小説の書き方について深く調べていた。プロットを詰めて、構成を工夫して、講義の中で耳にした知識を目ざとくメモしながら作品作りを続けてきたというのに。
血のように噴き出す感情は留まることを知らず、黒い感情に支配されそうになる。目をつむれば頭痛がし、目を開けていれば茶封筒から取り出した落選通知を思い出す。ずっと頑張ってきたのに、それが報われてくれたっていいはずなのに、入選通知を手にしているのは俺が作品添削をしてやった後輩たち。
「……いったん落ち着こう」
わざわざ言葉を口に出したのは冷静さを取り戻すためだった。人の言葉には言霊と呼ばれる力がある。言葉を音声として耳で聞くことで脳内の神経に訴えが届き、気分を元に戻すのにはそれが一番適している。
小説に使うための知識としてメモしておいた事柄の一つだが、それらを詰め込んだ作品に張り付けられたのは『落選』の二文字。
あぁ、ダメだ。また思考が悪い方へと向かっている。
「とりあえず、今できることをしないと」
自分に命令するように呟いて、書類棚の中から書き込み済みの原稿用紙を取り出した。小説祭とはまた別の、学校の文化祭で配布する冊子に載せるための作品。後輩から添削を頼まれたものをそのままにしてしまっていたのだ。
使い慣れた赤ボールペンを右手に持ち、作品の修正点を洗い出すために左手の人差し指を一行目に合わせる。わきには電子辞書を置いており、使い方の怪しい熟語や慣用句があればすぐに調べることができる。
……だが、作品に向けた赤ボールペンは動かなかった。千言万語を尽くしても言い表すことのできないこの感情は、哲学者のキルケゴールが提唱したやがて『死に至る病』――絶望だ。
羨ましくて妬ましい。自尊心は汚され、プライドもズタズタに引き裂かれた。入選作品を生み出すことのできる後輩に、何一つ功績を持たない俺が添削指導をするなんてあまりにも滑稽。馬鹿話にもならない惨めな事実だ。
そして、何より失うことが怖かった。俺のこの部における立場が滅茶苦茶になるのが怖い。今まで築き上げてきたものが無駄だったと思い知らされるのが怖い。自分よりもまだまだ拙いと感じていた後輩に追い抜かされたことが怖くて、自分に才能がないと認めることが怖かった。
自分のことなのに、自分がどこを見ているのかもわからなくなってしまったその瞬間、頭の中で何かが切れる音がした。
そして、次の瞬間。
俺が手にしている右手の赤ボールペンが動き、後輩の作品が書かれた原稿用紙を塗りつぶすように文字を連ねた。どうしようもなく押し寄せるこの恐怖を、薄々と感じつつあった不安を、慕ってくれる後輩へ持つべきではない黒い炎のような感情を――すべて、血のごとく赤い色で吐き出していった。
やがて出来上がったのは、血を注いだように真っ赤な十二枚の原稿用紙。他人の作品が書かれた原稿用紙を塗りつぶして書き上げた究極の作品。
小説祭は終わったが、卒業するまでにあと一つ、部として毎年参加している賞がある。そこに一縷の望みをかけて、俺にも正当な結果が与えられればこの気持ちを払拭できる。
――そんな風に希望を描く裏で、心は仄暗い不安を映し出していた。俺の頭で思いつく限りの手法を詰め込み、セオリーをなぞりつつメッセージ性を強めたこの作品。心血を注いで書き上げたこれが否定されたとき、俺は、どうなってしまうのだろう。